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2023年 心霊現象 怪奇現象 本当のこと 英国

世界最恐幽霊屋敷?捏造?ボーリー牧師館伝説

ボーリー牧師館。またの名をボイリ―牧師館ともいう館をご存じか?それは知る人ぞ知る世界最恐幽霊屋敷だ。

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英国エセックス州のボーリー村に、かつてボーリー牧師館(英語:Borley Rectory)という建物があった。

同牧師館は1862年に建造され、1939年に火災で焼けた後の1944年に取り壊されて今は存在しないが、その名は今なお世界的に有名である

それは、怪奇現象が立て続けに起きる恐怖の幽霊屋敷であったからだ。

建造

ボーリー牧師館が建造される前にも、このボーリー村には牧師館はあった。

だが、こちらの牧師館は1841年に火災で焼失しているため、この教区の教会の司祭を務める牧師のための住居は、長らく整備されていなかったようだ。

そこで1862年、この地方の地主であり、新たに教会の牧師となったヘンリー・D・E・ブル(Henry Dawson Ellis Bull)が、自らのために新たな牧師館を建造した。

ヘンリー・D・E・ブル

ヘンリー・D・E・ブルは、子供が14人もいる大家族。

そんな子だくさんのヘンリー一家が住めるようにと、新しい牧師館は23部屋もあって、以前のものより大きくなった。

広々とした館に転居することができて、順調に新生活をスタートさせたヘンリー一家であったが、その生活は、引っ越したその年早々から暗雲が立ち込め始める。

何やらおかしな出来事が、この広い家の中で起こり始めたからだ。

怪奇現象

在りし日のボーリー牧師館の外観

実は、ボーリー牧師館が建てられる前から、この地方には不気味な言い伝えがあった。

それは、建造の500年前、1362年に僧侶と修道女が駆け落ちしたが失敗し、僧侶は処刑され、修道女の方は、この地にあった僧院の壁に生き埋めにされたというものだ。

そんな呪われた伝説のある場所の真っただ中に建てられたからだろうか。

ボーリー牧師館での最初の怪奇現象は、建造早々の1863年に起こった。

それは誰もいないはずの牧師館の中から、奇妙な足音や物音が聞こえたり、家族の者以外の人の気配を感じたりという程度のものだったが、ここには得体の知れない何かがいるのではと思わせるのに十分なくらいであったという。

牧師館が建てられてからちょうど30年後の1892年、ヘンリー牧師が死去。

彼の息子であるヘンリー・フォスター・ブル(Henry Foyster Bull)が父の跡を継いで、この牧師館を相続する。

本格的に恐ろしい心霊現象が起こるようになるのは、この子ヘンリーの代になってしばらくしてからである。

1900年7月28日の夕方、牧師の四人の娘が、家の外で空中に修道女のような恰好をした幽霊を目撃したと主張したのだ。

娘たちによると、その幽霊はもっとはっきり見ようと近寄ったところ消えたらしい。

さらに、地元の住民にいたっては、首のない人間が乗った馬車を目撃した。

在りし日のボーリー牧師館の内部

1928年6月9日、ヘンリー・フォスター・ブルが死去。

牧師館は一時期空き家になるが、10月2日新しい牧師となったガイ・エリック・スミス(Guy Eric Smith)の一家が引っ越してきた。

ガイ・エリック・スミス

しかし引っ越して間もなく、スミス牧師夫人がタンスを掃除している際に、何と紙に包まれた女性の頭蓋骨が見つかるなど不吉な出来事があり、その後ほどなくして、ガイ家の人々はスイッチを切ったはずの呼び鈴が鳴ったり、窓に時折光が差し込んだり、どこから響いてくるかわからない足音が聞こえたりの怪奇現象に見舞われることになる。

スミス牧師夫人も例の首無し御者の乗った馬車を目撃するなど、先代の住民の時より心霊現象の不気味さはグレードアップするようになっていた。

不気味に思ったスミス牧師は、これらの現象を英国の日刊タブロイド紙『デイリーミラー』に報告して、超常現象を研究する人物の調査を依頼。

これを受けた『デイリーミラー』は、1929年6月10日に記者を派遣してボーリー牧師館での出来事を報道、さらに当時著名な心霊現象研究家であったハリー・プライスが、6月12日に同牧師館を調査に訪れた。

ハリー・プライス

だが、プライスが牧師館に入ったとたんに、新たな異常現象が起こる。

石や花瓶がひとりでに浮遊し始め、家じゅうの鏡から何かがこちらを見ているような感じがしてきたのだ。そしてプライスが去ると、これらの怪異な現象はぴたりとやんだ。

1929年7月14日、先代よりはるかに我慢が苦手だったスミス牧師一家が牧師館を去り、それからしばらく地域の教会に赴任する新しい牧師が見つからなかったこともあって、牧師館は再び空き家となる。

一年後の1930年10月16日、ヘンリー牧師の親戚でもあるライオネル・A・ホイスター(Lionel Algernon Foyster、1878年ー1945年)が、この教区の牧師に任命されて彼の妻のマリアンヌ・ホイスター(Marianne Emily Rebecca Shaw、1899年ー1992年)、養女のアデレード( Adelaide)らがボーリー牧師館に引っ越してきた。

だが、お約束どおり彼らも心霊現象に悩まされることになる。

ホイスター牧師 ― 女の子の頭がなくなる心霊写真が残っている

それも先代のヘンリー牧師やスミス牧師などより深刻で、呼び鈴が勝手に鳴ったり石や花瓶が浮遊するだけではなく、壁に意味不明の血のように赤い文字が現れたり、自分の部屋にいる時にカギがかかって出られなくなったりとかなり激しいものだった。

牧師のホイスターは、自身で二回ほど悪魔払いの儀式を行ってこれらの悪霊を退散させようとしたが、エクソシストとしての彼は三流だったか、よほど強力な霊魂だったらしく、効果はなかったようだ。

また、その儀式の最中養女のアデレードの肩に祟りとばかりに、こぶし大の石が飛んできて当たったこともあった。

結局、1935年10月に、ホイスター牧師は健康上の問題を理由にこの教区の牧師を辞めて、一家はボーリー牧師館を出て行くことになるが、それまでに2000回近い怪奇現象が起きたという。

一方において『デイリーミラー』で、以前にボーリー牧師館についての報道がなされた後、興味を持って牧師館を調査した研究者の中には、怪奇現象がホイスター夫妻の捏造ではないかという疑いを抱いた者もいた。

そして、疑われた妻のマリアンヌ・ホイスターの方は、異常な現象のうちのいくつかは夫のホイスター牧師や一部の怪奇現象研究者の仕業ではないかと考えてもいたようだが、ほとんどは確かに不可思議で説明のつかないものだという認識であったという。

マリアンヌ・ホイスター

ちなみに、マリアンヌは牧師館に部屋を間借りしていたフランク・ピアレス(Frank Pearless)と浮気をしていたようだ。

ハリー・プライスの調査

ハリー・プライスとホイスター家の人々

ホイスター牧師が去ってから、ボーリー牧師館はまたも空き家になる。

それから1937年5月、ハリー・プライスはアン女王基金会からの金で、一年間この牧師館を借りて調査に乗り出す。

プライスは、さらに5月25日、タイムズ紙で広告を出して週末にボーリー牧師館調査の協力者を募集した結果、48人もの志願者が集まった。

その大多数は怖いもの見たさの学生であったようだ。

1938年3月、プライスの助手S・ J・グランビル(S. J. Glanville)の娘ヘレン・グランビル(Helen Glanville)がロンドン南部のストリーサムで、ボーリー牧師館に出る幽霊を呼び出す交霊会を行い、プライスは、この交霊会で二つの幽霊を呼び出したと報告した。

ヘレンが、その幽霊たちから聞き出したところ、そのうちの一つはマリー・レール(Marie Lairre)という名の修道女の幽霊で、フランス出身だが、後に17世紀にイギリスに来て、この地の名門ウォルデグレーヴ家(Waldegrave Family)出身の領主に嫁いだが謀殺され、遺体は地下室か井戸に捨てられたという。

そして彼女は、時々牧師館の壁に「助けて」という文字を書いており、それは、それまでの目撃証言で語られていることだった。

二つ目は、サネックス・アミュレス(Sunex Amures)という男の幽霊で、火災を起こしてボーリー牧師館を焼き尽くし、牧師館の下に隠されている骸骨を、白日の下にさらすと語った。

その後、ハリー・プライスは、自身の調査結果をまとめて複数の本を出版。

後に、ボーリー牧師館が「最恐幽霊屋敷」として、世界にその名をとどろかせるきっかけを作った。

火災

1939年2月27日、W・H・グレグソン(W. H. Gregso)が新しい主となったボーリー牧師館で火災が発生、牧師館は焼失してしまった。

グレグソンは、このころすっかり幽霊屋敷として有名になったこの館に見物人を招いて一儲けしようとしていたらしいが、その目論見はご破算になる。

燃えてしまったボーリー牧師館

火災の原因はグレグソンの過失ともされるが、保険会社の調査によると、放火の可能性が高いというものだった。

また、ハリー・プライスは火災後に現地の人に取材したところ、火事の時にボーリー牧師館の二階の窓のところに、修道女が立っているのを見たと証言した者がいたという。

1943年8月、プライスは、ボーリー牧師館跡地の地下から二体の人骨を発見、そのうちの一つは、若い女のものと推定された。

それらの骨は当初人骨とはみなされなかったが、後にエセックス州の教区に埋葬された。

火災が起きた後も調査が行われてきたが、その調査中に照明装置が原因不明の故障を起こすなどの不可解な現象が発生したこともあったと伝えられる。

心霊現象研究協会の評価

幽霊屋敷ボーリー牧師館

ハリー・プライスが1948年に死去した後、エリック・ディングウォール(Eric Dingwall)、K・M・ゴールドニー(Kathleen M. Goldney)とトレヴァー・H・ホール(Trevor H. Hall)の三名の心霊現象研究協会メンバーが、生前のプライスによるボーリー牧師館に関する調査をまとめて、1956年に『幽霊屋敷ボーリー牧師館(The Haunting of Borley Rectory)』という著作を発表。

同時に、プライスの報告したボーリー牧師館の怪奇現象に関して、でっちあげがあったことを公表した。

この中では、少なからぬ怪奇現象が人為的であったか思い込みであったことが述べられており、例えば、不審な物音もネズミによるものだったり、建物がきしんだだけであったとされ、ディングウォールらは、調査すればするほど本物の怪奇現象であったかどうかは疑わしくなったとした。

また、神経内科の専門家であるテレンス・ハインズ(Terence Hines)は、ホイスター牧師夫妻が住んでいた1930年から1935年の期間に、夫妻は幽霊話のでっち上げに熱心で、プライス自身も同じようなものだったと主張した。

ホイスターの妻であったマリアンヌも、実際は幽霊を見たことがなく、以前に幽霊の声を聞いたというのもウソであり、夫と共謀して家にやって来た友人に幽霊がいるなどと言って、それらしい仕掛けを使って怖がらせては面白がっていたと告白。

他にも、ホイスターが引っ越してくる前の住人であるブル牧師の子供たちも、怪奇現象に出くわしたことはないと言っていたようだ。

ちなみに、これより前の1938年には、ボーリー牧師館のある地方に伝わる駆け落ちして殺された僧と修道女の言い伝えも、そのころには全く根拠のないでたらめだったと立証されていた。

一方で、プライスのホラを信じている心霊現象研究協会のメンバーもいる。

ロバート・ヘイスティングス(Robert Hastings)やプライスの遺言執行者のポール・タボリ(Paul Tabori)、ピーター・アンピーター・アンダーウッド(Peter Underwood)などであり、彼らは、プライスの報告が正しいとかたくなに信じていたのだ。

もっとも、現代では数々の有力な証拠から、ボーリー牧師館の話はプライスらのでっち上げであったというのが定説で、プライスの属していた心霊現象研究協会自体、プライス支持者の主張は、でっち上げであったことを覆すには足らないと結論付けている。

だが、ボーリー牧師館は、世界でもっとも有名な幽霊屋敷であることは現代でも変わらず、今でも跡地には、観光客がひっきりなしにやってきているようだ。

出典元―百度百科

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