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2022年 ならず者 昭和 歴史 海賊

戦後の瀬戸内海賊(パイレーツ・オブ・セトウチアン)

1986年に放映された真田広之や佐藤浩市主演の日本映画『犬死にせしもの』。これは戦後の瀬戸内海を荒らす海賊たちの話だが、これは全くのフィクションではない。瀬戸内海賊は戦後に実在したのである。

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瀬戸内海には、かつて海賊が出没していた。

といっても、歴史に詳しい人ならばご存じであろう平安時代に反乱を起こした藤原純友の一党や安土桃山時代まで活躍していた村上水軍のことではない。

現代にほど近い、戦後間もない1940年代後半の話である。

それは、『海賊と呼ばれた男』みたいな大げさな比喩とか形容ではない。

航行する船舶や陸上の倉庫などを武装して襲い略奪するという、海賊行為以外の何者でもない犯行を行う、ガチなホンモノたちのことだ。

無法状態だった戦後の瀬戸内海

終戦から三年余り、昭和23年ごろの日本はまだ食糧難にあえいでおり、日用品などの生活物資の欠乏も深刻だった。

当然治安は乱れ、日本各地では武装して公然と公権力に立ち向かい、違法行為を繰り返す第三国人の集団や愚連隊の類が跳梁跋扈している有様であったことはよく知られている。

戦前より国立公園に指定され、風光明媚なことで知られる瀬戸内海一帯でも例外ではなく、陸の上に勝るとも劣らぬ無警察地帯と化していた。

この年、警察制度の改革により海の安全を守るべく海上保安庁が発足していたが、その整備が整っていなかったのも大きい。

広い瀬戸内海全体の保安を担当する職員も監視船も絶望的に足りず、なけなしの船を使った海上巡視も形ばかりという有様では取り締まれ、と言う方が無理だったのだ。

おかげで、瀬戸内海では朝鮮半島との密輸やダイナマイトを使った密漁などの違法行為が横行、法秩序が崩壊していた。

だが、その程度の連中は、まだ安全な部類であったといえよう。

戦後の瀬戸内海で形成された悪の生態系の中では末端か、それより少し上の方に過ぎなかったからである。

その生態系の頂上には、彼ら密輸業者や密漁者すら捕食する本当に危険な存在がいた。

それは海賊だ。

海賊の被害

当時の新聞報道によると、海賊による被害は昭和23年(1948年)の12月ごろから目立ち始めた。

同年12月19日に香川県仲多度郡の高見島、岡山県児島市味野町の専売局出張所が襲撃を受けて大量のタバコが強奪され、翌昭和24年(1949年)1月20日には香川県香川郡の喜兵衛島、1月29日に香川県三豊郡粟島、2月1日には岡山県児島郡の石島と、矢継ぎ早に海賊団による強盗被害が報告された。

陸上の倉庫などの施設が狙われ、深夜に発動機付き漁船で乗り付けてきた賊は4、5人ほどで日本刀やピストル、ダイナマイトで武装しており、金品の他にも衣類や食料品、日用品一切合切を奪い去っていくという。

もちろん洋上を航行する船も主なターゲットである。

2月4日、岡山県邑久群牛窓町沖で石炭輸送船の第十和喜丸(300トン)が海賊船に襲われ、積み荷をはじめ船内の物品が強奪された。

船長以下乗組員7人を縛り上げると引き上げる際に船の機関を破壊、おかげで同船は三日間も洋上を漂う羽目になる。

被害にあった船員たちの証言によると、賊は総勢8人で全員30歳前後、ボスと思しき者だけが上等な洋服に身を包んでいたが、残りは漁師風の風体であり、引き揚げる前に人員の点呼を行って残留者がいないことを確かめた後に

「わしらは国際海賊団じゃ。30人くらい若いモンがおるけえのう」

などと自慢げに捨て台詞を吐いていた。

その言葉どおり、2人ほど朝鮮人と思しき賊も交じっていたようだ。

ちなみにこの第十和喜丸は三日後、今度は淡路島近辺で別の海賊に再度襲撃されている。

この際は白塗りの怪漁船に横付けされて3人の海賊が乗り込んできたが、積み荷の石炭に石灰をふりかけていたために、賊は商品価値の低い石灰と誤認。

何も奪うことなく逃走した。

海賊の正体

まだ陣容の整わなかった海上保安庁はこれらの事件の犯人をすぐに検挙することはできなかったが、これらの襲撃地点から考えて、海賊が塩飽諸島を中心とした海上東西約60キロ、南北約10キロを行動圏とし、その圏内に根拠地があると推測。

塩飽諸島

事実、推測された圏内にある香川県の綾歌郡や塩飽諸島の村々では、海賊行為が頻発した時期に見かけない顔の荒くれ者たちが現れたという情報が寄せられていた。

彼らはガラが悪く、なおかつピストルや短刀をこれ見よがしに持っていたり、船に乗って出かけて帰ってきた際には多くの物品を積み荷にしていたという。

また、塩飽諸島ではそれらの者たちが島内の青年に「一仕事で4万か5万は儲かるけえ」などとなんらかの勧誘をしていたのが目撃されていた。

これらの情報をもとにして、陸上での捜査を開始した警察は3月3日、一味の幹部クラスらしき男らを逮捕。

逮捕されたのは丸山某をはじめ9人で、丸山は表向き青果物の商売をしていたが、海賊十人ほどを率いる小ボスであり暴力団関係者。

そして彼らの供述から、海賊団の組織力と恐るべき実態が明らかになった。

丸山の属する海賊の本拠地は大阪にあったが、総元締めの1人は香川県仏生町に住み、高松・丸亀・観音寺に支部を置いて5人の貸元と呼ばれる頭目が指揮を執っている。

そしてその子分たるや総勢2000人余りもいたのだ。

構成員は、ばくち打ちなどの遊び人やならず者の他に、副業感覚で参加する会社員・百姓・大工・漁師など正業に就いている者も大勢いた。

つい数年前までは戦争中で、兵隊にとられて各地で戦場を経験した男たちもこの当時は、まだ二十代か三十代で血気盛ん。

人を殺したことがある者も多かったはずだ。

そんな度胸も据わった若き猛者が掃いて捨てるほどいて、なおかつ多くが生活に困っていたんだから人材にはこと欠かない。

彼らは命令があると出動する態勢をとっており、仕事のたびにお互い顔も名前も知らない者と組まされることが多かったらしい。

ターゲットとなる標的を探知する情報網は強大で、いつどの船が何を積んでどこへ行くか、どこのどの倉庫に何がどれだけあるか、また荷主がどのような人間かも総元締めや貸元に逐一情報が入っていた。

それまでの被害総額は当時の金額で3000万円以上だったらしいが、やましい方法や目的で入手した物品を奪われた荷主も多かったはずなので、これをはるかに上回っていたことは間違いない。

また、奪った物品をさばくルートも確立しており、運送会社の社員まで抱き込んで盗品を輸送していたようだ。

一方、岡山県側にも総元締めとされる者がおり、これも別件で逮捕されていた。

逮捕されたのはミシン加工業を営む山本某で、それまで違法な方法で財をなしてきた男である。

山本は盗品の中に衣類があると、自身の工場で加工して売りさばいてもいた。

どうやら海賊団は、このような財力を持った「ヤミ成金」が資金力にモノを言わせて組織したらしいことが判明する。

彼らはそれぞれ小規模な実行部隊に分かれて海賊行為を行い、それらの部隊は戦果の一割を上部に上納して残りを山分けするシステムだったのだ。

そしてこの海賊団は事実上の暴力団であり、しかも武闘派。

一度逮捕された仲間を警察から力ずくで奪回したこともあった。

規律も厳格で、密告しようものなら海に放り込まれて魚の餌だったし、ヘマをすれば指詰めを強いられいたために指のない者が多かったという。

よって、当時の報道によると逮捕されて洗いざらいしゃべってしまった丸山は「シャバに出たら腕の一本は落とされるだろう」と警察でおびえていたことも報道されている。

瀬戸内の海賊はその後、海上保安庁の整備が進んで取り締まりが強化されると同時に巷で物資が出回るようになってから消えていった。

戦後の数年間は、生きるのに精いっぱいなあまりサバイバル力を暴走させて一線を大きく超える者がハバを利かせた時代だったのだ。

出典元―中国新聞、毎日新聞

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