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善良すぎて殺された青年 ~1999年・栃木リンチ殺人事件~ 最終話


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第六話 全てが遅すぎた

殺害現場

遅すぎた勇気

萩原、梅沢、村上は、自分がやられたら嫌なことを平気、かつ楽しんで人にやるクズだったが、人殺しは別だった。

動かなくなった正和の生死をおっかなびっくり確かめ、死んだことを確信してから、あらかじめ掘っておいた穴に投棄。

セメントを流し込んで土をかぶせて、黒く塗ったべニアまで敷き、土、落ち葉をかぶせて偽装した。

その後、殺害には関与させなかった西山にも手伝わせて、沼に殺害と死体遺棄に使った物品を投棄してから赤川ダムに向かい、すでに手配されているであろう村上の車を沈めようとしたのだが、前輪が泥にはまって断念。

ナンバープレート、車検証を持ち出して、その場に遺棄した。

赤川ダム

午後6時から深夜0時にかけて、正和を欠いた一行はホテルに相次いで到着、「15年逃げ切れば時効だ」などと、呑気に今後の逃走について話し合った。

それから、村上はいざ殺害となったら怖気づいたくせに、正和が死ぬ場面の物まねをはじめ、梅沢は思い出して興奮したらしく、その場でセンズリをこき、発射した。

極悪なばかりか、心底気持ち悪い奴らである。

翌12月3日、正和の遺品となった携帯が鳴った。

相手は、正和の実家からである。

これには、梅沢が正和の声マネをして対応、「今眠いから、またかけなおす」などと言ってすぐに切り、まだ生存していることを装った。

この電話をかけたのは父親の光男であり、梅沢の下手な芝居に騙されて、息子はまだ生きているとこの時は思ったようだったが、母親の洋子は母となった女だけが持つ第六感で、何か最悪の異変を感じ取っていたようだ。

「まあくん(正和のこと)がおかしい!まあくんがおかしい!」と、うろたえていたという。

一方、須藤夫妻から最愛の子を奪った萩原たちは、どこまでもお気楽でふざけていた。

居酒屋で飲んだ後、コンビニで買った花火で、『正和の追悼花火大会』に興じたのだ。

翌日からは、すでに予約した東京都新宿区のウイークリーマンションに向かい、15年逃げ切るための生活が始まる。

また正和みたいな金づる兼おもちゃを新しく探さなけりゃならないから、これからたいへんだ程度の感覚だったのであろう。

だが、西山だけは違ったようだ。

4日午後1時、萩原を除く三人は東京に到着し、西山のみが港区の自宅に帰った。

しかし、ホッとするはずの我が家でも、ずっと一昨日の栃木の山林で起きたことまでのことが頭から離れない。

あの須藤って人は話したことあるけど、そんなに悪い人じゃない、むしろいい人だったんじゃないか?

それを、あんなひどいことして殺しちまいやがって…、萩原さん…、いや、萩原のヤローも、あとの二人も、とんでもねえクソだ!

オレは、あのクソどもに手ぇ貸しちまったし、とんでもねえことしちまった!

罪悪感とともに、「次は、ひょっとしたら俺かもしんねえぞ」という懸念もあったことだろう。

あんなことする奴らだから、警察にチクりそうだと思ったら、知り合って日が浅い自分を、何のためらいもなく消しにかかるかもしれない。

その後、母と祖母が帰って来た時には決心していた。

西山は全てを打ち明けて、警察に自首すると伝えたのだ。

「黙ってりゃいいじゃないの!アンタは巻き込まれただけでしょ?警察に話しちゃダメ!!」

西山の母は、「自分の息子さえよければそれでいい」という狂った母性愛にむしばまれた頭の持ち主だったが、息子の方はまともに育っていたようだ。

母の違法な反対を押し切り、午後9時ごろ、港区の警視庁三田署に出頭した。

西山の自首を受けてからの三田署の動きは、栃木県警のどこかの二つの警察署のものとは全く違っていた。

翌5日午前3時には西山を同行させてハイエースで栃木県に向かい、死体遺棄現場などを捜索。

午前11時半過ぎには、市貝町の山林の土中から埋められていた正和の正視に堪えない遺体を発見する。

証拠隠滅のために遺棄した村上の車や他の証拠物品も西山の供述どおりに見つかり、萩原らの非道は完全に裏付けられた。

12月5日午後4時、新宿区のウイークリーマンションで後から合流した萩原と梅沢、村上は、揃って逮捕された。

逮捕時、三人は人相を変えるために髪をカットして派手に染めたりの小細工を働いていたが、あまりにもあからさまな犯行な上に証拠を残し過ぎていたから、逮捕は時間の問題だったように思える。

しかし、すぐに解決できそうなこの事件に関して、栃木県警はいっさい捜査に動こうとはしなかった。

もし、西山がこの時に三田署に自首しなかったら、何も動かないまま、正和の行方は闇に葬られていたかもしれない。

しかし、遅すぎた。

西山の勇気がふるわれたのは、須藤夫妻が愛息を永遠に失ってしまった後だったのだから。

正義が機能不全だった栃木県

12月5日、警視庁三田署の地下で須藤光男・洋子夫妻は、変わり果てた我が子正和の遺体と対面した。

遺体は全体的に黒ずんで正視に耐えるものではなく、親戚の目に曝すわけにいかないために、東京で火葬されることになる。

石橋署がきちんと動いてくれていれば、こんな悲しみの対面はしなくてもよかったはずだ。

そして、悲しみの夫妻に、さらなる追い打ちが待っていた。

マスコミが早速この事件を取り上げたのだが、それは暴走族内部のトラブルによるリンチ殺人事件として報道したのだ。

これでは、自業自得のような印象を世間に与えてしまうではないか!

「ウチの正和が暴走族なわけはない!」と三田署に詰め寄ったが、どうやら三田署の仕業ではないらしい。

両親は、後にマスコミ各社に抗議して訂正を求めたが、マスコミはいっさい取り上げてくれなかったという。

石橋署の次に責任がある日産も日産だった。

9日に正和の告別式が地元黒羽町の斎場で行われ、日産の関係者として同僚や上司十数名が参列したが、会社として花輪を出すことはなかったのだ。

須藤夫妻はこの時、日本で一番理不尽な目に遭わされていたと言っても過言ではないだろう。

このまま一気に忘却の彼方に沈むと思われたこの事件が世に知られるようになったのは、翌年になってからだった。

事件の公判が3月14日から宇都宮地方裁判所で始まったのだが、その犯行の異常性が、まずマスコミ各社の目に留まったのだ。

宇都宮地方裁判所

最初に産経新聞が栃木県版で、4月から事件の残虐性と合わせて栃木県警の不適切な対応を報じ、他の週刊誌やワイドショーも取り上げるようになって、全国的な関心を集めるようになった。

そして、事件の残忍さもさることながら、世間の怒りを買ったのは、被告である萩原、梅沢、村上の公判での態度である。

三人とも入廷して来る際はガニ股で肩を怒らせており、着席するやふんぞり返って、全く反省している様子はなかったのだ。

梅沢は法廷で「火傷している被害者に熱湯をかけていた時どう思ったか」と聞かれるや、あっけらかんと「面白かった」と答える無神経ぶり。

「須藤のせいで、会社に戻れなかった」とまで言ってもいた。

萩原にいたっては「もし殺害を実行しなかったとしたら、被害者をどうしていたか」の質問に、「そのままリンチでもしながら同じことをしていたでしょう」と、こともなげに言い放ったという。

また、「罪を償って出所したら彼女とやり直し、須藤君の分まで長生きしたい」と語って、法廷内を唖然とさせた。

極めつけは、正和の父・満男による息子の思い出や行方不明中の苦しみなど悲しみの意見陳述の際、萩原は小首をかしげてふんぞり返り、あくびをしたり、早く終わらないかという態度だったことだ。

遺族を挑発しているとしか思えない発言といい、この態度といい罪を重くしたいとしか思えない。

判決は6月1日に出て、萩原と梅沢は無期懲役、村上は殺害時に手を放したという理由で、5-10年の不定期刑であった。

梅沢と村上は一審で刑に服することになったが、萩原はなんと控訴する。

あきれたことに、「自分は主犯ではない」と言うのだ。

だが、そこでも「死刑を覚悟している」と発言しておきながら、その後、「須藤君の分まで長生きしたいというのが正直な気持ち」と相変わらずふざけていた。

当然裁判官の心証は悪く、2001年1月29日、東京高等裁判所は控訴を棄却、上告も棄却され、萩原の無期懲役が確定する。

刑務所に入った萩原は、所内でホラを吹いたりで他の受刑者からの評判が悪く、身体に障碍を持つ受刑者をいじめるなど服役態度が劣悪らしく、シャバにいた頃とあまり変わっていないようだ。

当然、まだ出てきていないし、今後も出られないだろう。

出てこなくてもよいが。

梅沢は、後に刑務所内でキリスト教に改宗し、服役態度は良好だが未だ服役している。

服役中の梅沢

ただ、無期懲役囚を特集したドキュメンタリーにもモザイク付きでインタビューに答えていたが、無期懲役囚としての心境は語っても、被害者に対する思いは一切語っていない。

そして、彼らの親も「この親にしてこの子あり」ぶりがハンパではなかった。

萩原の父親は、なんと栃木県警に勤める警察官だったが、息子が捕まってからもしばらく県警に勤め続けていたし、記者の取材に対して「肖像権の侵害だ」だの「こっちも犠牲者なんだ。静かにしてほしい」だのほざいている。

村上の父親は「須藤さん、うちの息子は短ければ5年で出られますから、その時はあいさつに伺います」と光男を挑発、母親にいたっては「ウチも被害者なんです。下の子はまだ小さいから、あんまり騒ぎにしたくありません」と吐き、賠償金に関しては「息子に請求してほしい」という無責任ぶり。

母子家庭である梅沢の母親は「責任は親にあります」としながらも、「ウチの子は巻き込まれた」というスタンスは同じで、賠償金も「たくわえがないので、できそうもありません」と言っていた。

クズの親は、やっぱりクズだったのだ。

当然、両親の訴えを無視したことが発覚した栃木県警もメディア世論の批判を浴びたため、ようやく関係した警察官らを懲戒処分にしたが、最も罰が重い者で「停職14日間」と非常に軽いものであった。

しかも、それまでの態度は非常に不誠実で、後に提出した事件についての回答書も、自分たちに都合よくウソでまみれていた。

両親である光男と洋子はその後、栃木県と加害者、その両親に損害賠償・1億5000万円を求める民事裁判を起こしたが、母親の洋子は心労がたたって50歳の若さでこの世を去る。

事件が起きなければ、彼女は死ななかっただろうと思うと、不条理この上ない。

そして、その後の裁判も同じだった。

2006年4月12日、宇都宮地方裁判所は「栃木県警の捜査怠慢と殺害の因果関係」を明確に認め、遺族である光男の主張を全面的に認める判決を下したが、判決が被告保護者の監督責任を認めなかったことから、遺族は控訴、敗訴した栃木県も判決を不服として控訴する。

2007年3月29日、東京高等裁判所は、「栃木県警の怠慢がなくても、被害者を救出出来た可能性は3割程度」と判断し、栃木県の賠償額を約1100万円に大幅減額する判決を下す。

遺族は判決を不服として上告したが、2009年3月13日、最高裁判所は被害者遺族の上告を棄却し、東京高裁判決が確定した。

そして、被害者である正和を見捨て、事件の戦犯の一角である日産については、何のお咎めもなかったし遺族への謝罪もない。

この事件のルポを書いたルポライターの故・黒木昭雄氏はクリーンな企業イメージを守るために、日産社員同士のこの事件が進行中にある程度の情報をつかみつつ、それを須藤夫妻に伝えることなく総務課内でもみ消そうとした動きがみられ、それを栃木県警にも依頼した可能性を指摘している。

大企業の日産の栃木県内での影響力は大きく、県警の有力な天下り先でもあったから、ありえそうな話だ。

また主犯の萩原の父親は栃木県警の警官であったから、県警の側も身内の罪を暴きたがらなかったのかもしれない。

善良で働き者だった青年は悪魔の化身のようなチンピラたちと、保身を第一に考える日産、そして同社と癒着した事なかれ主義の栃木県警の合作で殺されと言っても過言ではない。

この一連の時期、栃木県に正義は不在だったのだ。

終わり

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