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列島を凍り付かせた未成年たちの凶行~ 1988年・名古屋アベック殺人事件~ 第一話

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第一話 事件の始まり

1988年(昭和63年)2月に発生した名古屋アベック殺人事件は、同年11月から翌1月にかけて起きた女子高生コンクリ詰め殺人と双璧をなす悪名の高さで、令和の現代にいたっても語り継がれる少年犯罪である。

当時の日本では、未成年者らによる犯罪が激増して社会問題になってはいたが、この事件の凶悪さと犯行理由の理不尽さはそれまでに起きた少年犯罪を大きく凌駕して全国にショックを与えた。

その当時、中学生だった筆者はその衝撃を体感しており、犯人たちの鬼畜ぶりに怒りを爆発させたものだ。

本稿では、犯行を行った6人の人でなしたちを絶対超えてはならない一線を大きく踏み越えた悪魔たちとみなし、そのような所業を犯すにいたるまでの生育環境や境遇の劣悪さに関しては一切考慮しない。

そんなものが理由になったならば、誰だって殺人を犯してもいいはずだからだ。

たとえ若さゆえの過ちであったとしても、犯していい過ちでは決してなく、昔のことだからと忘れていいものでもない。

凶悪なカップル狩り

1980年代後半の日本では未成年による犯罪が激増、かつ凶悪化していた。

どんな時代でも一定数の若者がグレて悪さをするものだが、母数となる若者の絶対数が多くて少子高齢化が遠い未来の話だった時代なので、その数は令和の現代よりもはるかに多く、その悪質さにおいても令和に勝るとも劣らなかったのだ。

1988年2月23日の東海地方の地方紙『中日新聞』夕刊にも、そんな悪質極まりない未成年者によると思われる犯罪の発生が報道されていた。

同日深夜の名古屋市港区の金城ふ頭、車に乗ってデートに来ていたカップルが複数の不良少年少女に襲われて暴行され、金品を奪われたのだ。

金城ふ頭は、当時から夜景を楽しむデートスポットとして名古屋では有名であり、多くのカップルが車に乗ってデートしに来ていたのだが、彼らを狙った犯罪者もたびたび出現しており、この前年の9月には、こうしたカップル狩りを繰り返していた不良少年グループが検挙されていたが、捕食者がいなくなったわけではなかったのである。

報道によると同日2時30分ごろ、まず名古屋港82番岸壁上に車を停めてデートしていた専門学校生カップルが襲撃された。

カップルの乗る車をいきなり二台の車が挟み込むようにして停車、暴走族風の6人の少年少女たちが木刀片手に降りてきて「コラ!降りて来いて!」と車体を叩いたのだ。

身の危険を感じた専門学校生は車を発進させ、襲撃者たちの投げた木刀で、後部窓ガラスを割られながらも逃走。

不良たちの乗る二台の車も追いかけてきたが、このカップルは幸運にも、約5キロ先の港警察署小碓派出所に逃げ込んだために襲撃者たちの車は姿を消したが、彼らが感じた恐怖はかなりのものであったはずだ。

だが、次に襲われたカップルは不運だった。

逃げられなかったのだ。

最初の襲撃から一時間後の3時30分ごろ、最初の襲撃が行われた岸壁から約250 m離れた81番岸壁上に停車していたトヨタ車のカップルは、退路を絶たれて捕まってしまった。

犯人たちは、前回の失敗を繰り返さなかったのである。

フロントガラスを割られて乗っていた会社員の男性(25歳)は車外に引きずり出され、4人の不良に木刀や警棒で嫌というほど殴られたが、犯人たちは当時の不良が吸引していたシンナーの臭いをぷんぷんさせ、ラリっていたから余計歯止めが効かない。

男性は「死を覚悟した」と後に証言したほどの暴行を加えられて現金86000円を奪われた。

道路, 屋外, 車, 交通 が含まれている画像

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金城ふ頭で襲われたカップルの車

男性の彼女(19歳)も無事ではない。

一味の中の2名の不良少女に「てめえも降りろて!」と髪をつかまれて引きずり降ろされて「汚ったねえツラして泣くなて!よけいムカつくがや!!」「ブスのくせにええ服着とるな。似合わんだでウチらによこせや!!」と罵倒されながら、木刀で殴られ、足で蹴られ踏みつけられたのだ。

「やめてくださ…げぼっ!ごめんなさい!ごめんな…ぐえぇぇぇ!ううぅぅう~痛い痛い痛いよぉお…がっ!!いったあああああい!!!」

泣いても哀願しても、容赦ない暴行は止まらない。

自身も執拗な暴行を受けていた男性だったが、乱暴されて苦しむ彼女が目に入ったんだろう。

自分を囲む不良の輪から抜け出し、「もうやめろて!」と不良少女を突き飛ばして女性の体に覆いかぶさった。

身を挺して彼女を守るためだ。

「てめえ、オレの女にナニ手エ出しとるんだて!!」

「かっこつけると死ぬぞ!コラア!!」

彼女に手を出されて我慢ができないのは少年たちも同じで、自分たちが悪いにもかかわらず、男性への暴行はより激しくなる。

女性も腕時計とデートのために着てきた高価なトレーナーを奪われたうえに殴られ蹴られ続け、暴行は他の車のヘッドライトがこちらに近づいてくるのが見えるまで続き、車もめちゃくちゃに破壊された。

被害に遭った二人は報道では全治一週間の軽傷とされているが、それは実際に目の当たりにすれば、しばらく表を歩けないくらいひどい有様であり、文字通りボコボコにされていて、しばらく家から出てこなかったという。

何より心に大きな傷を負ったのは間違いなく、この二人は今でもその時の恐怖と苦痛を忘れてはいないはずだ。

2月23日時点での夕刊の報道では、この二件の卑劣なカップル狩りだけが報道されていたが、実は二件目の犯行の直後により重大な事件が起こされていたことは報じられていない。

その事件こそ、日本社会を震撼させることになる名古屋アベック殺人であるが、発覚するのはその二日後である。

そして、事件はこの日に進行中だった。

拉致された理容師カップル

金城ふ頭でのカップル狩り(当時はアベックという言い方がまだ一般的だったが)の事件のようにカップルを襲う事件は過去にも起こっていたが、今回の事件は木刀で車や乗っていたカップルを滅多打ちにするなど、以前のものと比べてその凶悪さが注目を浴びた。

しかし、世間に与えた衝撃は当初それほどでもなかった。

第一、それまでの事件でも今回の事件でも被害者たちは手ひどく暴行されて金品を奪われていても、命までは奪われていないからだ。

だが、二日後の2月25日の報道で、この事件の犯人が想像以上に悪質である可能性が浮上する。

金城ふ頭から少し離れた場所で、同じ犯人と思われる者たちによってより凶悪な第三のカップル襲撃事件が起こされ、被害者が拉致されたと思われることが報じられたのだ。

ダイアグラム

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23日の夕刊にはまだ掲載されていなかったことだが、金城ふ頭のカップルたちが襲われた23日の午前8時半頃、10キロ離れた名古屋市緑区の県営大高緑地公園第一駐車場にフロントガラスやヘッドライトが割られ、車体がボコボコにへこんだトヨタのチェイサーが放置されているのを通行人が発見して緑署に通報。

同署の捜査で車内からは血痕が残っていることが分かり、車の外には血の付いたブラジャーや空になった財布、ハンドバックが散乱していた。

また、近所の住民から朝6時ごろ、何かを叩くような音と男女の怒鳴り声が聞こえたという証言もあり、何らかの犯罪が行われたのは明白である。

しかし、肝心の被害者については行方が分からず、拉致された可能性が早くも出ていた。

犯人が金城ふ頭でカップルを狩った者たちと同一犯と考えられたのは、車の窓ガラスを割るなど手口が似ていたことと、大高緑地公園までは車で20分もかからない距離であったこと。

そして、金城ふ頭で襲われた被害者の目撃証言で犯人グループは、白いクラウンと茶色のセドリック、もしくはグロリアに乗っており、放置されていたチェイサーのバンパーに別の車がぶつかった痕があって、そこに残った塗膜片を鑑識で調べたところ別の車のものであり、車は茶色のグロリアかセドリックと考えられるという結果が出ていたからだ。

被害者の身元判明

大高緑地公園で見つかった車

やがて、拉致されたと思われる男女は理容師の野村昭善(19歳)と同じ店で理容師見習いとして働く末松須弥代(20歳)と判明。

放置されていたチェイサーは須弥代の父親所有のものであり、22日の夜に仕事から帰ると「友達のところへ行く」と言ってからチェイサーに乗って出かけて行ったきり帰らず、翌24日に家族から捜索願が出されており、須弥代の彼氏である昭善も22日の夜以降行方が分からなくなって、同じく捜索願が出されていた。

襲われたのは、この二人である可能性しか考えられない。

2月25日、この大高緑地公園での事件を捜査する緑署は、金城ふ頭事件の犯人と同一犯と断定し、金城ふ頭事件を捜査する名古屋水上署と合同捜査本部を設置した。

カップルを襲撃してカツアゲすること自体が悪質極まりないが、なおかつ被害者を拉致して、その行方が分からないことから報道関係者も注目し、翌日以降も犯人の目撃情報やその正体を推定する記事などが中日新聞に掲載される。

そして、事件発生から二日も経っていたんだから、被害者の身内や関係者は居ても立っても居られなかっただろう。

だが、まさか生きていないことはないだろうと思われていた。

犯人は極めて悪辣な不良少年たちのようだが、いくら何でも何の落ち度もないカップルをさらって殺すなんてありえない。

昭善と須弥代が務めていた理容店は二人が生存していると信じ、身代金目的で誘拐されている可能性まで考えて現金まで用意していたくらいだ。

しかし、その「まさか」が起きていた。

二日後に一連の強盗事件の容疑で逮捕されることになる少年少女たちは、すでに両人を殺して埋めていたのだ。

続く

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1990年・ドラクエ Ⅳ 放火事件 ~ドラクエ熱で焼けた家~

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1986年(昭和61年)5月27日に第一作が発売されて以来、30年以上にわたり根強い人気のドラゴンクエストシリーズ。

発売されたばかりの数年、すなわち、ドラゴンクエストⅣまでのファミコン用ゲームソフトだった頃の人気ぶりはすさまじく、社会現象ですらあった。

そして、その人気の過熱ぶりから、さまざまな騒動も起こっていたという。

発売当日は販売店に長蛇の行列ができて、その日のうちに完売するだけならまだしも、平日で学校があるにもかかわらず、その行列に並ぶ小中学生が少なからず現れた。

さらには、ドラクエを買い求めた彼らを、その帰り道に襲って奪い取る不良少年まで現れるなど、ちょっとした社会問題になってもいたのである。

シリーズ四作目である『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』が発売された1990年(平成2年)2月11日、前回のような問題や混乱を避けるために発売日を日曜日とし、初日に130万本を用意したが、初日に長蛇の列ができて瞬く間に完売。

やっとの思いで買ったドラクエをカツアゲされる小中学生も案の定続出し、発売日には全国で60件近い被害が報告されている。

製作したメーカーのエニックス(現スクウェア・エニックス)にとってはドラクエ様様

で笑いが止まらなかったであろうが、カツアゲされた少年たちにとっては、ドラクエⅣのおかげでとんだ災難に遭ってしまったことであろう。

だが、このドラクエⅣのせいでカツアゲをはるかに超える犯罪に巻き込まれてしまった人もいた。

その人々は、ドラクエにはまったバカ息子によって自宅が燃えてしまったのだ。

バカ兄弟

ドラクエⅣがリリースされて間もない1990年2月14日午前11時ごろ、愛知県大府市森岡町の武田和之(仮名・51歳)宅の二階で、留守番をしていた武田家のバカ息子二人がケンカを始めた。

ケンカの原因は、ドラゴンクエストⅣ。

長男が買ってきたドラクエを次男が借りようとしたのだが、自身の部屋でドラクエをプレイ中であった長男が、断固拒否したからだ。

「何でやらしてくれんのだて!」

「俺がやっとるが!」

「ちょっとだけだて!ちょっとくらい、やらせてくれてもええがや!」

「おめえ、いっつもなかなか返さんがや!昨日かて、夜遅うまでやりよってよ!」

「すぐ返すて!おめえばっかやってセコイぞ!」

「俺が買ったんやぞ!俺のモンだに!!」

断っておくがこの二人、子供ではない。

ドラクエを貸そうとしない長男の武田亘(仮名)は20歳、借りようとしている次男の満(仮名)は19歳。

年甲斐もなくドラクエにハマるばかりか、それをめぐって兄弟げんかになるくらいなんだから、あまりデキのいい兄弟でないのは間違いない。

それが証拠に、20歳の満は無職のためにいつも家でブラブラし、次男の満は働いていたがこの日は仕事をさぼって家にいた。

ヒマ人は、ろくなことを考えない。

何が何でもドラクエをやりたい弟と、断固貸す気のない兄のレベルの低い口論は延々続いたが、やがて頭に血が上った弟の満は階下に降りて行った。

あきらめたのではない、わからずやの兄貴に思い知らせてやろうとしたのだ。

満が向かったのは台所。

普通のバカなら包丁を手にして兄貴を刺しただろうが、こいつは普通のバカではない。

二階に上がって来た満の手には、油をしみこませたティッシュを巻き付けたフォークが握られており、亘の部屋に入ってそのフォークに火を点けて、部屋にあった布団に放り投げた。

腹いせに兄貴の部屋を燃やしてやろうというのだ。

だが、そんなことをしたら、一つ屋根の下の部屋に火をつけたら自分の部屋も含めて家が全焼する可能性があるのが分からないのだろうか?

こいつは、バカというレベルではない。

そして亘の方も、相当なものであった。

自分の部屋の布団に火がつけられ、煙を上げているというのに再び食ってかかってきた弟と、「貸せ」「貸さない」の不毛な押し問答を再開したのだ。

その間にも布団の火は燃えあがっていたのだが、機能が劣悪な頭に血をのぼらせて同じく熱くなっている二人はおかまいなし。

バカ二人がようやく兄弟げんかしている場合じゃないと悟った時には、火が手の施しようがないほど広がって周りは煙だらけ。

この時になって、ようやく身の危険を感じた二人は階下に逃げて無事だったが、結局、火は亘の部屋どころか満の部屋にも燃え広がり、二階部分を全焼させるほどの火事になってしまった。

ドラクエ無罪

信じられないことだが、満も本当は兄貴の亘にだけ仕返しするつもりで火を点け、ここまでの火事になるとは思っていなかったようである。

その日のうちに、放火の現行犯で愛知県東海署に逮捕された満は「ついカッとなって」と供述していたが、ついカッとなっても、ここまでのレベルのことをするバカはそうそういない。

そんな稀代のバカの満の人となりについて、近所の住民によると、「短気なところはあったがおとなしい人」と、要するに普段はおとなしいが、キレたら何をするか分からない男という印象ではあったようだ。

また、育ての親である武田夫妻も自分の子供の出来の悪さが分からなかったようで、車もバイクも自分の給料で買っていることを理由に「いい息子だ」と自慢していたらしい。

どうりで、こんな息子たちが育つわけである。

カレンダー が含まれている画像

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ドラクエ発売日の騒動が問題視されていた当時の新聞報道では「ドラクエ騒動ついに放火」とされ、一部の識者は紙上で「人間関係より孤独な世界を求める若者が増え…現実的努力を避ける傾向にあるのでは」として、この事件を加熱しているブームを反省する機会とすべしとの意見を述べている。

だが、ドラクエに罪はないであろう。

いつの時代にも、救いようのないバカというものはいるものであり、間違いなく、この事件はそれに該当する者によって引き起こされたに過ぎないわけで、ドラクエの問題でも社会の問題でもなかったはずだ。

ダイアグラム, 概略図

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出典元―毎日新聞、中日新聞

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目指せ!暴力団構成員 ~1973年・現役ヤクザが熱血指導!~ “暴力団組員養成塾” 

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まだ元号が昭和だった1973年(昭和48年)4月18日、神奈川県横浜市緑区十日市場町にある横浜市立十日市場中学校の体育館ステージにあった垂れ幕が、ズタズタにされる事件が発生した。

被害総額は、50万円と当時としてはかなりのものであったために警察が捜査したところ、区内のアパート三保荘に住む無職・田邊亨(仮名・16歳)ら不良少年グループの存在が浮かび上がる。

そこで、警察は田邊が暮らす三保荘を調べたところ、同アパートの三部屋を田邊以外に同じく不良少年である中富裕易(仮名・17歳)と稲川会の三次団体高橋組の組員である玉利和信(本名・22歳)が借りていることが分かった。

しかも周辺住民からの聞き込みによると、そこには、常に大勢の不良少年たちが入れ代わり立ち代わり出入りしているというではないか。

犯罪の臭いをいやがうえにも感じ取った警察が捜索に入ったところ、案の定とんでもないことが行われていたことが判明したのだが、それは捜査関係者の予想の斜め上を行っていた。

何と現役バリバリのヤクザである玉利は、暴力団員養成のための「私塾」を開き、多くの少年たちに悪さのテクニックを伝授していたのだ。

“暴力団組員養成塾”の講義内容

新聞の一部の白黒写真

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“講師”の玉利和信

玉利の暴力団組員養成塾の「塾生」は、中学生7人と高校生19人(女子も4人交じっていた)、その他有職・無職の少年たちを含む計43人。

塾は同年2月に「開校」しており、玉利の「一人前のヤクザになるための講座」は三保荘八号室で毎晩行われ、必ず5、6人は参加していたのだが、その講義内容はヤクザの作法だの仁義だのの面倒くさいものはそっちのけだった。

玉利が主に教えていたのは、窃盗や恐喝のテク、効果的な脅し方であって、いっぱしの現役暴力団組員である自身の豊富な犯罪経験から、過去に遭遇した事例や想定されるさまざまなパターンを網羅した実践的なものである。

もちろん、座学だけではなく「実技」もあった。

正規の暴力団組員である玉利は、自身のシノギとして恐喝もやっており、塾生たちを伴って恐喝する相手のところに押しかけて脅したり、さらったり、監禁して暴行したりの実際の現場も体験させたりしていたのである。

世の中のために全くならない者を育成しているのだが、何らかの技術を習得させる講座としては、かなり充実かつ理想的だったと言わざるを得ない。

また、22歳の玉利は少年たちにとって怖いけど、何でも知ってて頼りになる兄貴であり、先生としても優秀だった。

犯罪のコツを指導しつつ「ヤクザになれば、女にも金にも不自由しないし誰からもナメられることはない」とそのうま味を語り、「気合い入れて、テメーらも一人前の男(ヤクザ)になれ!」と激励。

見込みがあると認められた「優等生」は、玉利の所属する組織の事務所での電話番や使い走りなどをさせてもらえる「インターン」制度まで設けていた。

それに触発されたガキどもは、覚えたての悪事のテクを実践。

この塾が神奈川県警緑署に摘発されるまで、塾生たちは悪事にいそしみ、犯した犯罪は判明しているだけで、窃盗33件にして被害金額は50万円以上、不法監禁2件、暴行や恐喝は数知れずだったという。

新聞の一部の白黒写真

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“塾”のあった三保荘(現在もあるのだろうか?)

受講生たちの階層と時代背景

結局同年6月、捜査にやって来た警察によって塾は閉校となり、塾長の玉利はもちろん逮捕された。

43人の塾生たち全員も補導され、うち田邊や中富はじめ悪質だった19人が書類送検となる。

だが、なぜたかだか四か月かそこらで、暴力団員を育成する塾などにこんなに多くの塾生が集まったのだろうか?と思うのは現代の感覚だ。

脱退者が相次いで弱体化著しい現代の暴力団組織とは違って、この時代のヤクザは組員数も多くて勢いがあった。

暴力団対策法(暴対法)が施行されるはるか以前だったし、取り締まる側の警察ともある程度癒着していたから、今に比べればやりたい放題。

闇社会の頂点に君臨し、近年ハバを利かせ始めている半グレなど彼らの縄張り内で、ちょっとでものさばったら瞬殺されたであろうおっかない存在だったのだ。

そして「おっかないこと」は往々にして「かっこいいこと」と同義語であり、あこがれて組に入ろうとする青少年も、数多く存在したのである。

だったとしても、そのような塾で熱心に学んで組員になろうとするような塾生たちは、筋金入りの不良少年ばかりだろうと思われたが、補導された中高生たちの多くは意外にも、それぞれの学校で問題行動を起こしたことのない、どちらかと言えば一般の少年たちだった。

彼らは、不良、それもそのワンランク上のヤクザにあこがれて入塾した中二病たちだったのだ。

この事件の発覚した1973年当時は、東映の『仁義なき戦い』が放映されて大ヒット。

映画を観た大人の観客は、劇場を出たとたん肩で風を切ってのし歩くようになるほどで、より影響されやすい年代のガキどもにとっては、なおさらだった。

そんなところへ、手軽にかっこいい暴力団組員の世界を体験できる場所があるとわかるや、友達が友達を呼んで増えていったらしい。

また、玉利ら暴力団の側にも事情があったようで、現代よりぬるかったとはいえ、当時の神奈川県警の取り締まりの強化で勢力が弱まりつつあった組織を立て直そうと、とにかく組員を増やす狙いがあったと見られている

そんな暴力団の思惑とヤクザがかっこよかった時代背景のおかげもあって起きた珍事件であったが、この塾が一期生を指導しているうちにつぶされ、そこで十分学んで闇の世界へ羽ばたく卒業生が出なかったことだけは幸いであった。

出典元―毎日新聞

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1954年・日光参道で修学旅行生同士が乱闘 ~広島県立山陽高校vs.青森市立第一高校~

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戦前か戦後すぐ後くらいに生まれた人々は、今や後期高齢者の爺さん婆さんたちである。

令和の現在ではすっかり好々爺となっているが、彼らにも10代20代だった頃はあった。

まだ日本は貧しかったし、昔ながらの厳しいしつけを受けて育っている人々だから、甘やかされて育って堕落した現代の若者よりも総じてまともだったような気がしないだろうか。

とんでもない。

明らかに血の気が多く、無法を働く輩の比率が今より高かったのだ。

それは当時の新聞の事件欄を見れば明らかで、乱闘や暴行、ついカッとなっての殺人の報道が目白押しなのである。

現代の半グレなど比べものにならないくらいの数のヤカラが街にのさばっており、全国の津々浦々で毎日のようにケンカ沙汰や暴力沙汰が発生していたのだ。

その一端を示すエキサイティングな事件が、今から70年前の栃木市日光市で起きた。

列車内でエキサイトする二高校の修学旅行生たち

1890年(明治23年)に開業して以来、古くより名勝地として知られる日光へ多くの観光客を宇都宮から運んできた日光線。

いつもは、賑やかで観光客たちの笑顔であふれているこの日光線の列車内であったが、1954年(昭和29年)の4月2日の同列車内は、これから観光地へ向かうとは思えないほど険悪な空気が充満していた。

その空気の発生源は、この列車に乗り合わせた二つの高校の修学旅行生たち。

片方は遠く中国地方からやって来た広島県立山陽高校と、もう片方は同じく遠方の青森県から来た青森市立第一高校の生徒たちであり、ガンを飛ばし合って相手をしきりに威嚇している。

実は、この二校の敵対的なファーストコンタクトは、この日光線が初めてではない。

東京から宇都宮までも同じ列車に乗り合わせており、どちらが始めたかは分からないが、東京にいた時点から互いににらみ合っていたのだ。

二校の修学旅行生の内訳は、山陽高校側が約100名、第一高校側が約180名。

ケンカ腰だったのは、当初ほんの一部の威勢のいい生徒だけだったが、このころになると元気のいい生徒たちに触発されたのか、双方の普段はまじめな一般生徒たちも加わって、すでに学校対学校の全面抗争勃発の兆しすら呈し始めている。

「何なら!われらナニガン飛ばしよんじゃ!」

「おめ?やるのが?殺すてけるべが!」

「上等じゃけえ!相手しちゃるぞ!!コラ!」

「なんだばや!かがってごい!弱虫が!」

互いの方言でののしり合い、こうした事態を想定して持ってきていたのか山陽高校側は木刀を出し、第一高校側は登山ナイフをちらつかせるなど、一瞬即発の事態に発展しつつあった。

さすがに、ここまで危険な局面になると双方の引率の教師たちも黙っておらず、生徒たちを制止にかかる。

高校生たちも、このまま列車内で殺し合いになるのは望んでいなかったと見え、教師たちが止めに入ったのを幸いに、お互い矛を収めた形となったようだ。

だが、それは一時休戦に過ぎなかった。

列車が日光駅に到着してからも、双方の生徒たちのアドレナリンは沸騰して高温のままであり、日光市内でほんの些細な原因によりそれが発火、爆発することになる。

日光参道での全面衝突

道路と道路標識

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修学旅行や遠足で遠方に行った威勢のいい中高生が、その先で出くわした他の学校のそれなりの生徒とにらみ合う、というのは珍しくはない。

本ブログの筆者の世代もやっていたし、その前後の世代の者たちも含めて、令和の中高生もやっているだろう。

もっとも、ヤンキー漫画ではないのだから、本当にケンカになることはまれなはずだ。

だが、この時そのまれなことが発生することになる。

それも、漫画以上に。

日光に下車した両校の修学旅行生たちは、互いにメンチを切り合いながらも、それぞれ日光東照宮を見学。

それから、生徒たちは自由行動となって日光参道の散策に入ったのだが、両校の引率の教師たちは、どちらも監督者として致命的な職務怠慢を犯す。

さっきまで刃物や木刀などの凶器まで取り出して相手を威嚇していた元気者たちを、凶器持参のまま野放しにしてしまったのだ。

彼らが日光参道で出くわせばケンカになるのがわかりそうなものだから、現代の教師だったら、凶器を取り上げるか彼らに付き添って見張るなどの措置をとっていただろう。

昭和20年代の教師はのんびりしてた、というか無神経だった者が多かったようだ。

そして、案の定の事態が起こる。

山陽高校の泊智樹(仮名)と一色和明(仮名)ら威勢のいい生徒たちが日光の西参道をぶらついていた時、さっき電車内で揉めた相手の高校の生徒たちと出くわしたのだ。

「田舎もんが!」

こっちがガンを飛ばすと向こうもガンをつけてきたので、またしても街中でにらみ合いになったのだが、今度はにらみ合いだけではすまなかった。

山陽高校側の一人が木刀で第一高校の一人を小突いたとたん、第一高校側のスイッチが入って殴りかかって来たのだ。

「おめ!おだづな!!」

「やっちゃるぞ!田舎もんが!」

完全に頭に血が上った双方は、他の観光客もいる面前で殴り合いを始めた。

彼らは、それぞれ応援を呼んだために乱闘の参加者は増加し、ばかりか、それを見ていた他の生徒たちも呼ばれてもいないのに相手の学校の生徒を見かけると自主的に殴りかかるなど、本物の学校間全面抗争に発展。

乱闘は、通報により飛んできた地元日光署の警官隊によって鎮圧されたが、第一高校側は持参してきた刃物を躊躇なく使っており、山陽高校の泊が下腹部を、一色が肩を刺されて地元の病院に運ばれるという重傷を負ってしまった。

命に別状はなかったとはいえ、彼ら二人の修学旅行は強制終了となったのだ。

刃物を使った生徒は拘束され、双方の引率の教師は日光署で事情徴収を受けたり、ケガをした生徒の看護に病院に詰めたりしたのだが、双方の高校とも他の生徒は修学旅行を続行した。

それにしても、なんて戦闘的なんだ。

令和の現在、いや平成のどんな底辺高校であっても集団でここまで元気を暴発させることはないのではないか。

この当時の日本は、つい九年前まで戦争していたんだから、暴力をふるうことに対する免疫が現在よりぐっと低かったのもあるだろう。

殴られたら殴り返すのが当たり前だった時代だったのだ。

だが、暴力沙汰と言えば無抵抗の相手を一方的に暴行したり、大勢で一人をフクロにするのが主流になってしまった気がする現代より、清々しいように思えるのは筆者だけだろうか?

殴られたら殴り返すケンカには、エネルギーが必要だ。

この時代の若者は礼儀や常識はともかく、エネルギーが総じて現代の若者を凌駕していたのは間違いないだろう。

だからこそ、彼らの力はその後の日本を先進国に発展させる源となり、後期高齢者になった今でもかくしゃくとしていられるのかもしれない。

群衆の前に立っている男性の白黒写真

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出典元―栃木新聞

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1962年・岐阜抗争

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日本の暴力団が主要団体である山口組や住吉会、稲川会などに寡占化されるはるか以前の1960年代はまだ各地に地元の独立系暴力団組織が健在であったが、主要団体の進出は着実に進んでいた。

中部地方の岐阜県岐阜市も同様であり、1961年(昭和36年)市内の博徒系暴力団池田一家の大幹部・坂東光弘が組を離れて稲川組系林一家・林喜一郎総長の傘下となり、稲川組岐阜支部長に就任する。

稲川組とは、後の広域指定暴力団・稲川会の当時の名称であり、静岡県熱海市を本拠にして神奈川県や東京都など各地に進出して大組織に成長しつつあった。

だが、これによりかねてよりパチンコ利権をめぐって池田一家といがみ合っていた地元組織の的屋系暴力団の芳浜会や瀬古安会との対立が激化。

1962年9月16日午後9時、タクシーに乗って移動中だった坂東光弘を芳浜会杉本組の組員が射殺するという事件が起こる。

傘下組織のトップを殺された稲川組は、報復を決定して林喜一郎はじめ200人の組員を岐阜に向かわせ、一方の芳浜会も迎え撃つために300人を集めて対峙する事態となった。

対規模抗争勃発の予感を感じた岐阜県警も警官300人以上を配備、両組織の衝突阻止に動く。

この抗争は、芳浜会が岐阜中警察署に騒動を起こさないよう警告されたこともあり、芳浜会会長の西松政一が稲川組のかねてからの要求どおり坂東光弘射殺に対する詫びを入れたことでいったんは和解した。

しかし、その遺恨は解消されることはなく、この年のうちに再燃する。

1962年10月、芳浜会系菊田一家の菊田吉彦と瀬古安会の鈴木康雄(安璋煥)が稲川組改め鶴政会林一家の林喜一郎の舎弟になりたいと申し入れてきた。

やはり寄らば大樹の陰であり、大組織の傘下に入ることを選んだようだ。

林はこれを受け入れたが、鶴政会側としては身内である坂東光弘を殺されたわだかまりがまだあったようだ。

鶴政会岐阜支部長・清家国光などは「若衆(子分)になるならいいが、舎弟(弟分)になるのは反対だ」と言っていた。

そんな事情もあったからなのか、11月に菊田と鈴木は鶴政会と同じく岐阜に進出してきていた関西の雄である山口組若頭の地道行雄の舎弟になってしまう。

寄るならばより大きな大樹の下の方がいい。

だが、鷹揚に受け入れた林にしてみれば、これは裏切り行為以外の何者でもない。

怒った林は、菊田と鈴木の殺害を命じた。

命を狙われることになった両人はそれを察したのか、行方知れずとなって所在がつかめなくなる。

その代わりに鶴政会はターゲットを菊田一家の他の人間に変え、その標的となったのは同一家の幹部である足立哲雄。

足立は芳浜会系菊田一家から融和をはかるために池田一家に派遣されて池田一家に席を置いて地元の有力勢力間の橋渡しの役割を担っており、池田一家を完全に傘下に置きたい鶴政会にとっても邪魔な人物であったようだ。

足立哲雄

12月14日正午、足立が襲撃される。

岐阜県大垣市にある大垣競輪へ行こうと国道21号を車で飛ばしていたところ、後ろから来た車が追い抜きざまに足立の車の前に停車。

降りてきた二人の男のうち一人が車に一発拳銃を発射した。

足立は車を降りてたまらず逃げ出したが、ヒットマンたちは発砲しながら追いかけてくる。

一発が右腕、もう一発が右肩に命中した足立は、この騒動で停車した車のうちの一台の下に転がり込んだ。

ヒットマンは運転手も含めて三名で、もう十分だと思ったのか袋のネズミの足立にとどめを刺そうとせずに撤収していった。

命だけは助かった足立は目撃者によって病院に担ぎ込まれ、一時意識不明の重体になりながらも一命を取り留める。

足立には誰の手の者にやられたか、なぜ自分が狙われたのか十分理解していたようだが、どっぷりやくざ者の足立は、その後の警察の事情徴収に何も答えることはなかった。

菊田一家も黙っていない。

二時間後の同日午後二時、岐阜市内にある鶴政会の拠点の一つである倉知興行社に組員六名が押しかけ、拳銃十数発を撃ち込むカチコミを行った。

足立がやられたことへの仕返しであることは言うまでもない。

年内に二回も立て続けに抗争を起こされた岐阜県警は岐阜市内に非常線を張って、徹底的な犯人捜索と抗争の当事者である鶴政会と菊田一家の組事務所への家宅捜索を始めた。

抗争の拡大防止どころか、組織の壊滅を狙い始めたのだ。

これは、鶴政会にとっても芳浜会系菊田一家にとっても望ましいことではない。

鶴政会のドンである稲川聖城は林を熱海市の自邸に呼び出し、足立襲撃の実行犯三人を使用した拳銃持参で捜査本部の置かれた大垣警察署に出頭させるよう指示した。

稲川は抗争を拡大させてもいいことがないことが分かっていたから、林に「軽々しく行動するな」と指示していたし、ナアナアの関係だった神奈川県警にも「応援を出すな」と要請されてもいたのだ。

稲川の意向もあって両組織は早い段階で手打ちを決定し、年末には菊田吉彦・鈴木康雄と林喜一郎の間で手打ちが行われた。

手打ちの条件は岐阜県に林一家を置くことを承認することで、鶴政会、後の稲川会は現在に至るまで岐阜市内に勢力を持ち続けることになる。

一方で菊田と鈴木は山口組の地道の舎弟を経て山口組の直参になったため、山口組も稲川会と同じく岐阜県下に組織を拡大させた。

また、岐阜抗争で襲われた足立ものちに山口組に加入してその二次団体である足立会を率い、山口組若中にまで昇格した。

出典元―岐阜日日新聞、ウィキペディア

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2024年 事件 平成 悲劇 本当のこと 杉並区

サンバのリズムにキレた男 2016年・杉並サンバ祭り会場火炎瓶事件

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2016年(平成28年)8月7日、東京都杉並区久我山の富士見ヶ丘商店街では、毎年恒例の『富士見ヶ丘七夕踊り流し』の第二日目を迎えていた。

この祭りは、毎年8月のこの時期に二日間にわたって行われ、富士見ヶ丘商店街の通りを南から北へ、北から南へと阿波踊りやソーラン節などの踊り子たちが踊り流すものである。

そこへ数年以上前からサンバが加わり、いつしかそれが目玉となった『富士見ヶ丘七夕踊り流し』は「サンバ祭り」の通称で呼ばれるようになっていた。

そしてこの日の夕方からは、その目玉であるサンバのパレードが行われる。

通りには数多くの家族連れなどの見物人が集まり、お目当ての太鼓や笛の音を響かせて練り歩くサンバ隊を見物していた。

夜7時半ころには祭りは最高潮を迎え、真夏の夜の開放的な空気も手伝ってか見物人たちの中にも行列の後ろをつけたり、陽気なリズムに合わせて手拍子したり踊り出したりするお調子者も出現するほど盛り上がる。

このように、富士見ヶ丘商店街を楽しい雰囲気に包んだサンバ隊と見物人の列がある三階建ての建物の近くに来た直後、その場を凍り付かせる事態が発生した。

頭上から火炎瓶

ガン!!

何かがビルから落ちてきたような音が響いたが、サンバの騒々しさもあって、気づいた人は最初あまりいなかった。

物体が落ちてきた近くにいた見物人のみが気づいており、その人物によると、それはビンとスプレー缶をくっつけたような代物だったという。

二発目の物体が落ちてきた時には、さすがに多くの人が気づいて「何だ何だ」と騒ぎが起こり始めたとたん、三発目が降って来た。

そして、今度は誰しもが気づくことになる。

その物体は地面に落ちて割れるや、高さ2メートルほどの大きな火炎を上げたのだ。

火炎瓶だ!

一部の人の足や髪の毛に火が付いて転げまわり、その場は一気に騒然となる。

もうサンバどころじゃない。

落ちてきた方向を見上げると、三階建ての建物の三階のベランダに上半身裸の初老の男。

手に瓶のようなものを持ち、遠目からもわかるような敵意に満ちた目つきで仁王立ちしている。

男はさらに四発目、五発目を見物人たちが逃げ散った道路へ向けて投げたために火炎が立て続けに上がった。

男はいつの間にか部屋の中に引っ込んだが、今度はそこからも火災が発生。

楽しいサンバ祭りは、悲鳴と怒号がこだまする修羅場と化した。

やがて、消防や警察が駆け付けて路上の炎や建物三階の火災は消し止められたが、火傷や瓶の破片の切り傷などで子供を含む15人もの男女が負傷。

とはいえ、誰も命に別状はない軽傷だったのは不幸中の幸いであったと言えよう。

一方、この騒動を起こした張本人の男は、火炎瓶を投げた建物の内部で首を吊った姿で発見され、病院に運ばれたが翌日死亡した。

サンバ嫌いの主張

その後の警察の捜査で死亡した犯人は、橋川秀雄(仮名)という68歳の男であることが判明。

さらに。橋川の住んでいた部屋からは、今回の事件で使われたガスボンベと瓶が合体した手作りの火炎瓶が複数個発見される。

どうやら、液体の炎でボンベまで破裂させて威力を倍増させることを狙っていたようだ。

また、火炎瓶の他にボウガンまで発見されている。

犯人の橋川は、かつて富士見ヶ丘商店街で酒屋を経営していたが店をたたんで久しく、前年には妻を亡くした独り身。

近所づきあいもあまりなく、孤独な生活を送っていた。

生きる目的を失った結果、心身のバランスを崩して犯罪を犯す高齢者にありがちなパターンである。

橋川がサンバ隊を攻撃した本当の動機は、本人が地獄に行ってしまったので分からないが、相当サンバが嫌いだったことは確かなようだ。

ごく限られた彼の知人によると「祭りがやかましい」と何年も前からこぼしており、それは特にサンバ指していたのは間違いないだろう。

生きる意味を失って孤独をこじらせるあまり、大嫌いな音楽を演奏したり踊ったりしている者だけじゃなく、楽しそうにしている者にも虫唾が走るようになっていたのも一因かもしれない。

全人類皆サンバが好きなわけではない。

耳障りな騒音としか感じない人もいるはずではないだろうか。

本ブログの筆者もそう思っている。

徳島県の阿波踊り歌の出だしには「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」なる言葉があるが、サンバに関してはどちらも救いようのない阿呆であるが、間違っても「踊る阿呆」の方になることはないという認識である。

近所で毎年サンバ祭りが開かれるようになったら引っ越しを検討するか、その日は外出して祭りが終わるまで帰宅しないだろう。

だからと言って、火炎瓶まで投げたのはやりすぎだ。

橋川の心情は理解できても、行動は支持できない。

子供まで怪我させたのだから、橋川は晩節を凶悪犯罪で大いに汚してしまったことになる。

橋川も三階からサンバ隊に向けて火炎瓶ではなく放尿くらいだったら、全国のサンバ嫌いの同情と喝采を浴びたであろう。

出典元―女子SPA!、ハフポスト、Yahoo!ニュース、

産経ニュース

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愚か者たちが夢の跡「福ちゃん荘」~1969年・大菩薩峠事件~

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1969年(昭和44年)11月3日、山梨県甲州市の大菩薩峠の山荘「福ちゃん荘」に、53名の大学生風の若者たちが投宿した。

「福ちゃん荘」は登山者向けの宿泊施設兼食堂であり、6日までの三泊四日で予約していた彼らも登山が目的らしく、「ワンゲル共闘会議連合」という団体名を名乗っている。

どこかと戦いそうな勢いの物騒な名前の集団だったが、若者たちは全員分の三食付き宿泊代金もきっちり前払い。

翌朝朝食を済ますと、「福ちゃん荘」で作ってもらった弁当を持って、全員で大菩薩嶺方向へ行って夕方までには戻り、他の行儀の悪い宿泊客のように夜中に酒を飲んで騒いだりすることなく、消灯時間の午後10時までにはきっちり就寝する。

礼儀正しく、食事の後片付けも率先して行う模範的な宿泊客だと山荘の関係者の目には映っていた。

しかし、山荘の関係者も他の宿泊客も知らなかった。

彼らの本当の目的は登山ではない。

そして、団体名よりはるかに危険な集団であり、トチ狂った計画を実行するために来ていたのだ。

「ワンゲル共闘会議連合」の正体

1960年代後半は、激しい学生運動が行われていた時代であったことはよく知られている。

ベトナム反戦運動や1970年に改訂される日米安保条約に反対する運動などが激化し、学生たちは機動隊と街頭でしょっちゅう衝突していた。

だが、この学生運動は1969年1月19日、東大安田講堂に立てこもった全共闘と新左翼の学生たちが排除された事件を機に下火になり、学生運動に参加する学生も少なくなり始める。

その一方で、往生際悪く活動を続ける新左翼団体の過激派学生の行動は先鋭化し始めていた。

1969年に結成された共産同系の共産主義者同盟赤軍派(以下赤軍派)もその一つで、武装蜂起を主張して火炎瓶を使った危険な闘争を開始。

結成早々の同年9月に大阪と東京でそれぞれ大阪戦争、東京戦争と称する暴動を起こした。

だが、この暴動は失敗して多くのメンバーが検挙される結果に終わる。

追い詰められた赤軍派は新たに「11月闘争」という活動を計画、その実行を公言すらしていた。

これは、当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の訪米を阻止する目的のものだったのだが、その作戦は首相官邸を襲撃して人質をとり、逮捕された同志を奪還しようというバカげたものである。

はたから見て、どう考えても失敗に終わる光景しか頭に浮かばない計画であったが、頭の中が真っ赤なあまり正常な判断力を有さない彼らは本気であり、そのための「戦闘訓練」が必要であると考えていた。

だが、すでに公安にマークされていた赤軍派が、都内で訓練を行うわけにはいかない。

そこで、誰かの目に留まりにくい山中で行おうと目をつけたのが大菩薩峠で、迷惑にもその宿泊先として選ばれてしまったのが山荘「福ちゃん荘」だった。

「戦闘訓練」とか言いながら、晩秋の寒さが本格化し始めた山梨県の山中で野宿する気合はなかったらしい。

11月3日、「ワンゲル共闘会議連合」という学生の登山グループを装って事前に予約していた「福ちゃん荘」にやって来た赤軍派の学生たちは、九部屋に分かれて宿泊。

翌朝に山荘を出発して「赤軍第三中隊」という旗を立てて大菩薩嶺へ向けて「行軍」、訓練地とした山中で爆弾を投擲したり突貫攻撃の訓練をしていた。

一応、彼らはこれらを秘密訓練とみなし、他の登山客に見られないように要所要所に見張りを立てていたが、マヌケにも少なからぬ登山客に目撃されていたようだ。

さらに、よりマヌケだったことは、彼らの行動はすでに警察に知られており、3日の時点で「福ちゃん荘」近くの別の山荘に警官が泊まり込んで見張られていたことである。

一網打尽にしようと、多数の警官が動員されていたのは言うまでもない。

また、大手新聞社である読売新聞の記者も赤軍派の動きをつかんでおり、4日には記者が一斉検挙の特ダネをつかもうと、一般登山客を装って「福ちゃん荘」に投宿していた。

そうとは知らない反政府武装集団を気取る革命オタクの素人たちは大まじめに第二日目の訓練を終えると夕方までに山荘に戻り、消灯前に就寝。

戦闘訓練で疲れたし、第三日目である明日の訓練に備えようとしたのだろう。

だが、彼らに第三日目が来ることはなかった。

動員を終えた警官隊約250名が、すでに山荘を完全に包囲していたのだ。

一網打尽にされる革命オタクたち

11月5日午前6時ごろ、山荘を包囲して配置に着いていた警官隊が行動を起こす。

まず、玄関の戸を叩いて山荘の関係者に開けさせると、次々と内部に踏み込んだ。

激しい抵抗に備えて防弾チョッキなどを装備してきた警官隊だったが、学生たちの多くは布団に入って夢の中。

「動くな!手を挙げろ!」と怒鳴られてようやく目覚め、ハッとなる始末だった。

新聞の一部の白黒写真

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読売新聞の特ダネ

二階の部屋で寝ていた学生のうち、屋根伝いに逃げようとした者が三名ほどいたものの、下は警官でびっしりだったために逃走を断念。

学生たちはほぼ無抵抗であり、次々と外へ引っ張り出される。

「武装蜂起」とか勇ましくぶち上げて戦闘訓練をやっていた割には口ほどのものでもなく、あっけなく一網打尽にされてしまった。

外に引き出された学生たち

赤軍派は、危険な過激派集団だと見なされていたが、外に集められたのは、どいつもこいつも闘争どころかケンカも弱そうな大学生たち。

中には女子学生も二人いたのだが、筋金入りの女闘士とは程遠い普通の女の子で、警官の剣幕に怯えて泣きべそをかいている。

また、少なからぬ高校生も混じっていたのだが、何も知らされず数合わせのために参加させられた者が多かったようだ。

「ハイキングに行こう」などと言われて参加してみたら、寝ている所を警官に乱入されて唖然としている様子だった。

新聞の一部の白黒写真

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上野勝輝

とはいえ、逮捕された学生の中には今回の訓練の責任者である上野勝輝(京大生・24歳)はじめ、内ゲバ事件や派出所襲撃などの容疑ですでに逮捕状の出ている本物の過激派も五人混じっていたし、寝ていた部屋の押し入れからは、彼らの持ってきたパイプ爆弾や硫酸の入った試験管、大量のナイフなども出てきていたからお騒がせの連中で済ますわけにいかない。

凶器準備集合罪で全員逮捕され、逮捕状の出ていた五人はそれぞれ警視庁や大阪府警に連行され、残りは山梨県内の警察署へ分散して留置された。

赤軍派は、7日に「東京戦争」と称する騒動を計画していたとされ、彼らはこの大菩薩峠での訓練を終えた翌日には、行動するつもりだったようだ。

だが、「福ちゃん荘」で少なからぬメンバーが逮捕されて計画していた騒動を未然に阻止されてしまい、赤軍派は大きなダメージを受ける。

ちなみに、治安を守る意味では大成功だったこの逮捕劇だったが、「福ちゃん荘」に泊まっていた赤軍派とは無関係の宿泊者が、少なからずとばっちりを受けていた。

警官たちの中には、安田講堂のように火炎瓶や手製爆弾が飛んでくるものと想像して勇み足を踏んだ者もいて、一味の者と誤認されて、寝ていたところを引きずり出されたり警棒で殴られた宿泊者もいたし、これより前の時間に起床して外で山歩きの準備をしていた登山部の学生たちも、赤軍派の一部と勘違いした警官隊に襲撃され、あわや警棒や盾でボコられるところだったという。

その後の赤軍派と現在の「福ちゃん荘

カレンダー

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この大菩薩峠事件と呼ばれるようになった事件で逮捕された者たちは1974年(昭和49年)6月10日の裁判で裁かれ、リーダーの上野勝輝に懲役6年が言い渡されたのを筆頭に、16人のメンバーに3~6年の懲役刑が科された。

大菩薩峠で、とどめを刺されたと思われた赤軍派だったが、その後に残党たちが行動をよりエスカレートさせて正真正銘のテロ犯罪を起こすことになる。

赤軍派の軍事委員会議長だった田宮高麿は、1970年3月31日に同志8人と、よど号ハイジャック事件を起こした。

中央委員の重信房子は、後に国際的なテロ組織となる日本赤軍の最高幹部として数々のテロ事件にかかわる。

大菩薩峠事件以後に復帰した森恒夫らは、他の新左翼過激派組織の京浜安保共闘と共に連合赤軍を形成、山岳ベース事件、あさま山荘事件などを起こした。

大菩薩峠での赤軍派大量検挙は日本の左翼活動史の一つの転換点になってしまった面もあるようだ。

この事件で赤軍派に宿泊された「福ちゃん荘」だが、もちろん左翼とは何の関係もない。50年以上昔の大騒動がまるでなかったかのように、現在も登山客の宿泊施設兼食堂として営業している。

建物, 屋外, ポーチ, 家 が含まれている画像

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出典―読売新聞、毎日新聞、朝日新聞

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ドブネズミカップルに絶たれた青年の夢 ~1994年・青山学院大生殺人事件~

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東京都世田谷区野毛の閑静な住宅地の中に、あるワンルームマンションが存在する。

1990年代初頭に建てられた二階建てのこじんまりとしたそのマンションは、最寄りの駅から徒歩9分、コンビニや郵便局にも近くて家賃も5万円台とリーズナブル。

都内でありながら落ち着いた生活ができ、大学生が住むにはうってつけの環境だ。

だが、このマンションが建ってほどない頃の今からちょうど30年前、二階の203号室で凄惨な殺人事件が起きていた。

殺されたのは、卒業を目前に控えた大学生。

夢をかなえるために羽ばたこうとしていた矢先の無念の死であった。

非の打ちどころのない好青年

1994年(平成6年)2月15日の夜まで、このマンションの203号室は、まだ瑕疵物件になっていなかった。

この日まで同203号室に住んでいたのは、青山学院大学4年生の学生、和歌山県出身の松本浩二(23歳)。

松本は、このこじゃれたワンルームマンションの住民にふさわしい好青年だった。

高校時代は、短距離の選手で近畿大会に出たほどの実力の持ち主で、青山学院大学入学後は一転してヨット部に入ったが、運動神経抜群の彼はそこでも実力を発揮。

3年生の時には、全国で3位に入ったほどのスポーツマンだ。

だからと言って松本は体育バカではなく、学業もおろそかにしていなかったし、性格もさわやかなナイスガイだった。

進路を決める4年生になると、エアライン・パイロット養成のための公的機関である航空大学校を受験し、競争率7~10倍の壁を突破して見事合格。

4月からは、同大学校で国際線パイロットになるための訓練が始まる。

それは、彼の長年の夢だったのだ。

来月に大学の卒業式を終えた後、その夢の実現に向けた第一歩を踏み出すことになる彼は、幸福の絶頂だったことだろう。

航空大学校は遠く宮崎県にあり、4月までには引っ越さなければならないが、非常に実り多き四年間の大学生活を送った東京を離れるのは名残惜しいものだ。

実家の母親からは、帰ってきたらどうかと電話で言われていたが、松本は残り少ない東京での暮らしをかみしめながら過ごすつもりだった。

だが、後に母親はなぜもっと強い調子で「帰って来い」と言わなかったのかと悔やみ続けることになる。

なぜなら、この日は息子の夢ばかりか、命までもが永遠に絶たれる日となるからだ。

ちょうどこの時、松本の住む部屋の隣室に、その災いをもたらすことになる悪魔たちが、邪悪な企みを実行に移そうとしていたことを、彼はまだ知る由もなかった。

ドブネズミカップル

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出水智秀

松本が自宅の203号室でくつろいでいた頃、隣の205号室には、出水智秀(20歳)と飯田正美(20歳)という男女がいた。

二人とも、20歳だが学生ではない。

荒廃した家庭で育った出水は、少年期に当然の権利のごとくグレて窃盗や傷害で少年院に入ったこともあるケチな悪党。

飯田は昨年二月に少年院を出たばかりの出水に、名古屋の繁華街でナンパされて以来付き合うようになったのだが、手っ取り早く金を得ようと日本各地を転々としながら、車上荒らしや盗みなどを40件も繰り返してきたクズカップルだ。

松本と違って、両人ともこのこぎれいなマンションに住まうにふさわしい品性が全くない風貌であり、その前に、この205号室の住民ですらない。

この205号室の本来の住人は、宮崎県出身の大学生、名尾満男(仮名・20歳)であったが、2月6日に帰省して不在であった。

いや、逃げ帰ったと言った方が正解だ。

彼は中学時代に飯田と付き合っていた時期があり、その縁で前年の1993年(平成5年)7月に飯田が出水と一緒に自分の住む205号室を訪ねてきたことがあった。

思春期の淡い思い出がよみがえって飯田との会話が弾んだところ、一緒に来て背後に控えていた出水に「オレの女にナニ慣れ慣れしゅうしとんのや」と因縁をつけられ、それから二度にわたって金を脅し取られていたのだ。

要するに、美人局をかまされていた。

出水たちは、窃盗よりそちらの方が金になると考えたらしい。

今回、実家に逃げ帰ったのは春休みということもあるが、先々週に出水から電話がかかってきて「また近いうち行くから金用意して待っとれや!」と、脅迫されて怖くなったからである。

やがて、出水と飯田は名尾から三度目の恐喝をしようと2月11日に205号室へやって来たが、留守で鍵がかかっていたため、ベランダ伝いに侵入して勝手に生活し始めた。

名尾が帰ってくるのを待つためだ。

その間、無一文のまま来ていた二人は部屋内を物色して見つけた現金を使って生活費としていたのだが、コンビニで買った弁当の空き箱やゴミは散らかしっぱなし、セックスをしては床や布団を汚染するなど、数日間他人の部屋でやりたい放題してきた。

ドブネズミかゴキブリのような奴らである。

見つけた現金を使い果たすと、今度は部屋にあったテレビを質に入れようと質屋に電話したが、学生証と印鑑が必要だと言われて断念していた。

この2月15日夜には、彼らの所持金は数百円を下回るほどになっており、かなり追い詰められた状態に陥る。

衝動的で短絡的な出水は「ここにいても金にならないし、死ぬしかない」などと悲観して、前々日と前日には、この部屋で飯田と心中しようとすらしていたが、その覚悟が足りず死にきれなかった。

部屋の主の名尾や大家には悪いが、こいつらが、この時にめでたく死んでくれていれば事件は起きなかったのだ。

死ぬこともできず八方ふさがりとなった出水だったが、生きるための行動を思いつく。

生まれつき頭が悪くて、困ったら平気で盗みをする男の考えることだから、もちろん犯罪である。

それは、このこぎれいなマンションの住民を襲って金を奪う強盗である。

標的は、隣室203号室の住民、松本浩二だ。

出水は昨年、名尾を恐喝しにここを訪れた際に松本を見ており、顔を覚えていた。

何となく、自分とは違って育ちのいい感じの奴だと記憶しており、金を持っているに違いないと考えたらしい。

肝心の実行計画だったが、彼氏同様お世辞にも利口とは言えない飯田と即興で考えたものらしく、ずさんそのもの。

事件後の捜査で、この部屋から「犯行計画」が書かれたルーズリーフが見つかっており、そこには「計画、隣に侵入する、人がいた場合」とだけ記され、その後は白紙だった。

つまり、思い付きの域を出ず、その後のことや他のこまごまとしたことは「やってしまってから」と考えていた可能性が高い。

こうして、行き当たりばったりで、おぞましい惨劇の幕が切って降ろされることになったのだ。

異常な凶行

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飯田正美

今まさに強盗の片棒を担ごうとしている飯田正美は、出水同様に問題のある家庭環境で育ったとはいえ、前年の1993年まで昼は紡績工場で働きながら、保育士を目指して夜間の短大に通うなどまっとうな生き方をしていた。

だが、出水と出会ってから人生が変わってしまったようだ。

流されるままに窃盗を繰り返しながら、一緒に各地を転々とする生活を送るようになったのである。

出水が真面目に働かずに、悪さばかりすることに嫌気がさして別れようとしたこともあったが、結局よりを戻した。

互いに魅かれ合うものがあったので、このクズ男と一緒に行動し続けたのである。

優柔不断で自己主張ができない弱い性格だったとも考えられるが、ここまで出水に付き従って協力している以上、共犯者というそしりは免れ得ないであろう。

犯行は、飯田が203号室のチャイムを鳴らして、中の松本を呼び出すことから始まった。

「隣の部屋の者ですが、ちょっと換気扇の調子がおかしいんですけど、見ていただけませんか?」

夜中にもかかわらず対応した松本は、困った顔した飯田にそう言われて、何の疑いもなく205号室に向かってしまった。

隣に住んでいるのは、名尾という男子大学生であることは松本にも分かっていたはずだが、前述のとおり昨年7月に出水と飯田が名尾宅を訪れた際に顔を合わせており、特に話をした仲ではなくてもお互いに顔を知っていたのだ。

だから名尾の部屋に飯田がいても、以前に見た顔だから知り合いが来ているのだと判断したようである。

だが、もし松本が名尾とよく口をきく仲だったら、彼が出水から脅されていたことや、隣の部屋で起きている異常事態に気づいて警戒したかもしれない。

隣の部屋の中では出水が台所にあった果物ナイフを持って控え、そうとは知らずに入ってくるターゲットを待ち構える。

出水は威勢がいい男ではあったが、暴力を専門とする武闘派の悪党ではなかったからかなり緊張していたらしい。

やがて、松本が部屋に入って来るや、じっとりと汗ばんだ手で握るナイフを突きつけて上ずった声と引きつった顔で、松本を脅した。

「オラ!大人なしゅうせいや!殺てもうたろか!おおん!?」

一方の松本もスポーツマンとはいえ荒事には慣れておらず、元々品のない顔を余計ひきつらせて、刃物片手にわめく出水を前にして声を失う。

その間に、飯田は松本の後ろに回り込み、部屋にあったビニールひもで後ろ手に縛りあげた。

完全にターゲットの制圧に成功した出水と飯田は、縛られた松本を彼の部屋である203号室に引っ立て、そこで足も縛った。

完全に身動きできず恐怖に震える松本は、飯田にナイフを突きつけられ、出水は部屋内を物色して金品を探る。

その一方で、出水は部屋内でタバコを吸ったりテレビゲームをしたりもしていたので、松本にとって生きた心地がしない時間はかなり長かったようだ。

やがて、航空大学校合格を祝って東京在住の母方の伯母がくれたお祝い金5万円の他に、現金3000円とキャッシュカードが見つかって出水に奪われ、暗証番号も吐かされた。

それでも満足できない出水は「もうないんか?殺てまうぞ!」と、さらに金品を要求。

また、「殺す」というチンピラらしい脅し文句も何度か使っているうちに、本当にやる気になってきたとみられる。

これまでの行動から考えて、こいつは行き当たりばったりな性格であったはずだから、感情のおもむくままに犯罪行為をエスカレートさせる傾向があったとみて間違いないだろう。

「金ないんやったらもう用なしや。どっちみち殺るつもりやったけどな」

「ツレに貸した金と、あとあと、サラ金からも借りてくるから!」

「たった5万円で殺さないでくれよ!」

「黙ってるから!警察には絶対言わないからさ!」

死の恐怖を存分に感じ続けていた松本は、出水の雰囲気から自分を今にも殺そうとしていることに気づき、泣いて命乞いをした。

難関の航空大学校に受かって、これからパイロットへの道が開けようとしているのに、死ぬなんて絶対にごめんだ。

だが、この必死の懇願は出水のような社会のゴミには逆効果であったようで、加虐の炎を余計にたぎらせる結果となる。

「死ぬ前に気持ちええことさせたるわ。冥途の土産にせい」

いたぶるようにそう言い放つや「正美、コイツにまたがってイカしたれや」と、飯田に松本と性交するように命じたのだ。

「いや!絶対にいや!!」

飯田は当然拒んだが、結局いつもどおり強引な出水の言いなりになる。

服を脱いで縛られたままの松本の下半身からズボンとパンツをおろしてまたがり、性交を始めたのだ。

飯田は20歳とはいえ性的魅力に乏しい小汚い女だったが、23歳の男の体は正直であった。

松本は気持ちよさそうな顔をするようになり、飯田も反応して体をのけぞらせる。

これを見ていた出水は、だんだん腹が立ってきた。

命じたこととはいえ、自分の女が他の男とヤッて感じているのを実際見ていると面白くないのだ。

「もうええわ!やめいや!!」

飯田を松本から引き離すと代わりに自分が飯田の中に入って絶頂に達し、行為を強制終了させた。

「さて、もうそろそろ死ねや!」

自分がさせたとはいえ、自分の女とヤッた奴なら、何のためらいもなく殺せる。

この異常な3Pの狙いは、そこだったのではないだろうか?

しかし、いざ殺そうとした時に手足を縛っていたビニールひもが緩んで手足が若干動くようになっていた松本が、窓側に転がって立ち上がり、外に向かって大声で叫んだ。

「あああああ!!殺されるうううう!!」

この大声は近所の住民にも聞こえていたことが、後に分かっているが、間に合わなかった。

直後に出水に羽交い絞めにされて、刃物で背中を刺されたからだ。

飯田は前から腹を刺し、二人は胸、頭、首を刺し、切る。

血だらけになって崩れ落ちた松本は、さらに首に電気コードを巻き付けられ、とどめとばかりにしめ続けられて絶命した。

夢の実現に手が届くところで、しかも23年という短い生涯を絶たれる無念はいかほどのものであろうか。

松本が出水と飯田に向けた最後の言葉は「恨んでやる…」だったという。

何の落ち度もない有為な青年を殺した出水と飯田は205号室に戻って、返り血を浴びた衣類や血を拭いたタオルなどを放置し、無神経にも16日の早朝まで寝た後マンションから姿を消した。

底なしの厚かましさと愚かさ

松本の断末魔の悲鳴が近所中に響き渡ったにもかかわらず、住民たちは、誰も通報しなかったらしい。

犯行が発覚したのは、何と二日も後の2月18日午前10時半ごろだった。

それは、和歌山県の松本浩二の母が「16日から浩二が電話に出ない」と心配して東京在住の姉、すなわち松本の伯母に様子を見に行ってくれるように依頼したことによる。

この伯母とは、出水に奪われた航空大学校への入学祝い金5万円を送った人物だ。

203号室を訪れた伯母は、部屋に鍵がかかって応答がないことから不動産会社から合鍵を借りて入り、そこで変わり果てた姿となった甥を発見したのだった。

新聞の記事

自動的に生成された説明

半狂乱になった伯母の通報で駆け付けた警察による捜査が始まったが、すぐに出水智秀と飯田正美が捜査線上に浮かぶ。

勝手に生活していた205号室まで血の足跡が残り、その室内からは、血の付いたタオルなどの物証が出てきたし、同じマンションに住む学生が不審な男女を見たという証言もあった。

何より、宮崎に逃げていた本来の205号室住民である名尾の口から出水と飯田のことが語られたからである。

新聞の一部の白黒写真

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捜査本部が置かれた警視庁玉川署は、さっそく二人を重要参考人として手配した。

一方の出水と飯田は、犯行現場を離れた後、静岡県熱海市へ逃亡。

同市内の銀行で松本から奪ったキャッシュカードで現金1万円を引き出したりして当初はホテルにも宿泊したが、パチンコで使い果たすなどして、瞬く間に懐が寂しくなっていた。

すると、雨露をしのぐために、熱海市伊豆山にある企業の別荘に入り込んで潜伏する。

またも無断での侵入であることは言うまでもない。

その逃亡中に自分たちに捜査の手が及んでいることを、テレビで知った。

すでに、青山学院大生が自宅マンションで殺されたことが報じられており、容疑者と疑われている男女が自分たちとしか思えないことが彼らにも分かったのだ。

22日午後四時、所持金も数十円しかなく、もう逃げきれないと観念した出水が決意したのは、またしても勝手に入り込んだ場所で心中することだった。

ここまで他人に平気で迷惑をかけることができる奴らも珍しい。

二人は、別荘内の押し入れに入ってガスコンロを持ち込み、今度こそ覚悟を決めてガス心中を図った。

そして、今度もやっぱり死ねなかった。

ここで出水が信じられないくらいマヌケなことをやらかしたからである。

最後の一服を吸おうと、ガスが充満する中でタバコに火をつけたのだ。

当然爆発が起こり、火元だった出水は大やけどを負ってのたうち回った。

一方の飯田は軽傷であり、苦しむ彼氏を見かねた彼女は、夜になって119番通報。

やって来た救急車で病院へ運ばれたが、二人ともこの別荘の所有者ではないことは誰の目にも見え見えだったために、熱海署に住居侵入の容疑で逮捕されてしまった。

警察にいったん捕まった以上、今度こそ年貢の納め時である。

その日のうちに、青山学院大生殺人の重要参考人であることが判明し、翌23日には捜査本部のある玉川署に移送された結果、両人ともあっさり容疑を認めて強盗殺人容疑で逮捕された。

とことんまでクズな犯人たち

前途有望な青年の命を理不尽に奪った出水は、とことんまでゴミだった。

大やけどを負った出水は、包帯を巻かれ車いすに乗せられて玉川署に移送される際、集まって来たテレビ局などの報道陣を睨みつけて「勝手に撮んなや!ボケェ!!」などと威嚇。

取り調べにおいて容疑をあっさり認めつつも、態度は投げやりであり、被害者についてどう思っているかを聞かれると「知らんわ!」と吐き捨てた。

接見した弁護士が「謝罪する態度がないと罪が重くなる」と言っても、何ら反省の弁を述べなかったという。

新聞の一部の白黒写真

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移送される出水

3月5日に出水と飯田は住居侵入、窃盗、強盗殺人で起訴され、5月9日から第一回目の公判が始まったが、ここでも出水は、反省の態度を一切見せていない。

「松本さんの件については、何とも思ってません。全然関係のない人ですから、かわいそうだとは思わないです。そんなこと思うなら、殺したりしません」と平然と言い放ったと公判記録にはある。

また、貧乏ゆすりをしたりため息をついたり、早く終わらないかという態度が見え見えだった。

「もう、どうなっても知るもんか」と自暴自棄だったのかもしれない。

9月5日、東京地検での判決公判で「冷酷、反省ない」として、出水には無期懲役の刑が言い渡されたが、ここでも態度は変わらなかった。

退廷する際、腹いせに壁を蹴って出て行ったのだ。

出水は、犯した犯行も残酷で反省の態度も最後まで見せていないし、獄中でも問題行動を起こすなどしていたため、おそらく一生出てくることはないであろう。

一方の飯田は、真摯な悔恨の情を示しており、公判中に出水の子供を妊娠していることが判明する。

それについて「中絶すれば、おなかの子供を殺すことになります。私は二度も殺人を犯したくない」と言って生むことを表明し、出水との婚姻届けまで出すと発言。

「遺族の方には申し訳ありませんが」と断ってはいたが、出水の判決が出た後にワイドショーに出演した松本の父親は、この飯田の発言について「感情を大いに逆なでされた」と怒り心頭で述べている。

こんな胸糞悪い純愛も、なかなかないであろう。

飯田は、従犯的な立場だったことや遺族に謝罪していること、生育歴が不遇だったことが考慮されて、言い渡された判決は懲役15年であり、遺族にとって納得のいく判決とは言い難かった。

その年10月に飯田は女児を獄中出産しているが、育ての親である祖父母は引き取りを拒否したために、女児は乳児院に送られることに決定。

「生まれた子供に罪はない」とよく言われるが、生むべきではなかったと思う。

ただでさえろくでなしの両親も塀の中で不在であるから、まともに育つ環境には思えない。

彼らのような不幸な環境に育つがゆえに、ひねくれるであろう人間を新たに生み出しただけなのではないかと思うのは、本ブログの筆者の偏見だろうか。

こんな奴らに、夢がかなう直前で命を絶たれた松本浩二は、さぞかし無念であったことだろう。

「恨んでやる…」と言って死んだ彼の怨念が残っていたのだろうか。

怨霊となって出水と飯田を祟ることはできなかったようだが、彼が命を奪われた世田谷区のマンションの203号室の壁に残った血痕は、内装業者が何度張り替えても浮き出てきたという。

2024年現在も事件現場となったマンションは存在し、当時の惨状を知らない地方からやって来た学生らが入居し続けている。

出典元―毎日新聞、朝日新聞、読売新聞、週刊朝日

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震災後は余震と津波、そして犯罪者に備えよ ~能登半島地震後に起きていること~

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2024年1月1日午後4時過ぎ、能登半島を震源とする震度7の地震が発生。

石川県の能登半島を中心として、北陸地方に大きな被害をもたらした。

本稿執筆中の1月7日現在において、救助活動や復旧活動が急ピッチで進められており、地震による家屋の倒壊やその後の津波襲来などで多くの住民が家を失い被災民となっている。

そんな最中、地震で大きな被害を出した輪島市で、災害に付け込んだ悪事を働く輩が現れた。

5日午前8時40分頃、壊れた民家から一つ500円の高級ミカンを六つも盗んだ男が逮捕されたのだ。

その民家は住民が不在で、出てきた見知らぬ男を不審に思った住民らが取り押さえて警察に突き出したという。

男は21歳の自称大学生で、「愛知県からボランティアで来た」などと語っているらしいがとんでもない野郎である。

被災地を助けに来たのではなく迷惑をかけに来ているのだから「逆ボランティア」と言ってもよいだろう。

それだけではない。

4日には富山県高岡市で「国から依頼されて来た」と騙って住宅で復旧作業をしていた人に10メートル一万円という法外な値でブルーシートを売りつけようとした者もいて、そいつは富山県外のナンバーの車に乗っていたという。

その他、厚労省の臨時支援金受付などと言って「電子マネーで手数料を支払えば支援金を受け取れる」などといった内容のメールが届いたとの相談も受理されており、震災に便乗した詐欺も出現し始めている。

空き巣や盗難などの被害も相次いでおり、震災のどさくさで悪事を働くとは実に許しがたい行為であるが、こういった火事場泥棒的な犯罪は今回の能登半島地震特有のものでは決してない。

被災地での犯罪は1995年の阪神淡路大震災の時から問題になっており、東日本大震災や熊本地震の時にも空き家からの貴重品の窃盗や詐欺が頻発していたのだ。

また女性、特に若い女性にはもう一つの危険が付きまとう。

それは言うまでもなく性犯罪だ。

これまで発生した大規模地震後、被災した人のための避難所において性被害を受けたと告白する女性が、少なからずいたことが報告されている。

性被害では、プライバシーが十分保たれているとは言えない避難所で被害に遭うケースが多く、今後どころか、今回から何らかの対策を大至急打つべきであろう。

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地震の後に余震や津波、火事、今後の生活の心配に加えて犯罪者にまで備えなければならないのは御免こうむりたいものだ。

こういった震災に乗じた犯罪は、平時においてのものよりも許しがたく、厳しく取り締まられるべきである。

犯人は射殺か地元民による私刑が望ましいが、それは残念ながら論外だ。

ならば、震災後の避難時期か復興時期の期間に限定して、被災地域での犯罪には何割増しかの重い量刑を課すことができるよう法律を改正できぬものだろうか。

ある程度の抑止力として働くであろうことは、間違いないと思うのだが。

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参考文献―Yahoo!Japanニュース、

ライブドアニュース、日テレニュース

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人命第一の裏で見捨てられた命 ~2024年羽田空港航空機事故~

航空業界の非情な現実

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2024年は新年早々災いで始まった。

1月1日午後4時過ぎ、能登半島を震源とする震度7の地震が発生。

石川県の能登半島を中心として、北陸地方に大きな被害をもたらした。

そして翌2日夕方には、全国のお茶の間に、東京羽田空港の滑走路で火災が発生している衝撃的な映像が流される。

当初、二か所で火炎が上がっていることだけが報道されて、なぜその火災が起こったかは分からなかったが、ほどなくして新千歳空港発の日本航空(以下JAL)516便のA350-900と海上保安庁羽田航空基地所属の航空機(MA722)が、羽田空港のC滑走路で衝突したことが報じられ、その後、事故の瞬間の映像も公開された。

原因は、本ブログ執筆中の1月6日時点で調査中であるが、この事故で海上保安庁のMA722は大破・炎上して乗員5名が死亡、1名が重傷を負う大惨事となったことが、その日のうちに発表される。

ちなみに同機は、前日に発生した能登半島地震の被災地に救援物資を運ぼうとしていた。

一方のJAL516便は、炎にからみつかれながら滑走路からずれて停止し、駆け付けた消防隊の決死の消火活動むなしく機体がみるみる炎に包まれる模様がテレビ画面に映され、さらに犠牲者が出ているのではと危惧されたが、516便のクルーの適切な処置で、乗員乗客は全員無事脱出に成功。

旅客機の側に死者が出なかったのは、不幸中の幸いであったと全国の視聴者が安堵した。

だが、この516便では人命こそ失われなかったものの、それ以外で失われた命があったことが後に判明する。

貨物室に預けられていた乗客のペットの命だ。

なぜ助けられなかったのか?

516便に徐々に火が回り、全焼していくさまを観ていた視聴者の中には「貨物室に預けられていたペットはいなかったのだろうか?」と懸念した人も少なからずいたようだが、その懸念は翌日的中する。

事故の翌3日にJALが乗客から、預かっていた犬一匹と猫一匹が、そのまま焼け死んだことが発表されたのだ。

彼らは、火が回る機内に取り残されて見捨てられたのである。

この悲劇を受けて、SNS上でタレントなどの著名人を中心に「ペットも客室に入れてあげるべきだ」「生きている命をモノとして扱うことが解せない」という意見が上がった。

例えば、フリーアナウンサーの笠井信輔氏は自身のインスタグラムを更新して、この事故で愛猫を失った乗客の慟哭のコメントを紹介。

自らも猫を飼っている笠井氏は、他人事と思えず落涙したと述べ、ペットを客室に同乗させることができる海外の航空会社を例に出して、限定的な条件を定めた上で日本でも検討できないかと訴え、犬や猫を飼う人々から大いなる賛同を得た。

また、3日以降二日間で“貨物扱い”禁止を求める署名も1.6万人を超えたことから、この問題への関心は高まっているようだ。

だが、もちろん反論もある。

「犬や猫が苦手どころか、アレルギーの人もいる」

「緊急事態になったら、人命第一なのは仕方がない」

「そもそも、飛行機に乗せることは犬や猫にとって大きなストレスになるはずだから、ペットホテルに預けるべき」

上記のような、もっともな意見もあって論争が巻き起こった。

そうは言っても、犬や猫も人間と同じ命。

暗い貨物室に押し込めて、緊急事態となったら見捨てざるを得ないのは、忍びないというのも事実だ。

笠井氏が言うように、客室へペットを持ち込める海外の航空会社も現実に存在し、日本国内でも「スターフライヤー」という中堅航空会社が、今年1月15日から小型の犬や猫を客室内に持ち込めるサービスを国内の全便において開始する予定である。

だが、いざ事故が起きても、一緒に避難できるわけではないようだ。

非情な現状

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そもそも、今回の事故のように乗客が緊急脱出する際、手近にあるからといって手荷物を持って脱出することはできない。

それには理由がある。

手荷物は、通路をふさいだりして他の客の脱出の妨げになる可能性があり、脱出用のスライドを傷つけて空気が抜けた場合に、後から来る客が脱出できなくなりかねないからだ。

これはJALに限ったことではなく、どの航空会社でも規則でそう定めている。

そして、ペットを客室内に持ち込める海外の航空会社も、ペットを「手荷物」に分類している。

つまり、盲導犬などの特例は除くものの、緊急事態においては機内に置き去りにせざるを得ないのが、航空業界の世界的な常識なのだ。

ペットを客室内に持ち込めるサービスを開始する「スターフライヤー」も同様で、「緊急脱出が必要になった場合は、ペットを機内に残して脱出してください」と公式ホームページ内で明記し、サービス利用の際には、ペットの死傷に関して責任を問わない同意書に署名する必要があるという。

たしかに、家族同様のペットを置き去りにして逃げなければならない悲しみは動物を飼っていない人間にも理解できる。

恐怖や苦痛を感じるのはペットも人間と同じだから、「何とかならなかったのか」とも思いたくなるだろう。

しかし、他の大勢の乗客の脱出の支障になりかねないのは事実であって、これを変えることは難しいのが現状となっている。

JALの行ったペットを見捨てさせる緊急避難は、間違ってはいなかったと見るのが正しいのだ。

とは言え、さまざまな意見が交差しているが、前述の笠井氏も述べているとおり、変える努力をしてもいいのではないかと本ブログの著者は思う。

何事も「現状では仕方ないからあきらめる」では、この先の進歩や改善を放棄することになるのでないだろうか。

一寸の虫にも五分の魂。

長いこと連れ添ったペットならなおさらだ。

この悲劇が、航空会社が緊急時のペットの避難について検討をする契機となることを願いたい。

参考文献―Yahoo!Japanニュース、ライブドアニュース

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