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海外で生活に困窮している日本人のことを「困窮邦人」というらしい。
これら困窮邦人が最も多いのはフィリピンであり、日本国内のフィリピンパブなどの女性に入れあげた挙句、一緒に暮らそうと後を追いかけたはいいが、金が尽きたとたん、相手の女性やその家族に放り出されてホームレスになってしまうなどの例が、跡を絶たないという。
またタイなどの国々でも、退職金や年金を生活資金として移住した結果、現地の物価が上昇してしまい、手持ちの金では生活が立ち行かなくなった者もいるし、同じく資金が尽きたバックパッカーが、ホームレスに転落することもある。
私の身近にもそんな手合いがいた。
だが、その男は困窮しているどころではなかった。
もっと困ったことになってしまったようなのだ。
二足歩行するキリギリス
私が昔働いていた運送会社のアルバイトの中に、東野という50代後半のおっさんがいた。
その運送会社のアルバイトの雇用条件は日雇いの形式で、二か月継続して働いたら、次の一か月は勤務できないというものだったが、東野氏はその一か月の間は別の仕事をすることなく、次の二か月間のアルバイトの雇用契約をすると、東南アジアの某国に行って過ごしていた。
昔からその国に何度も行っていた彼には現地にひと回り以上年下の妻がおり、その妻の家でやっかいになっていたらしい。
運送会社の給料は雀の涙であったが、発展途上国である某国の物価は日本と比べて段違いに安かったために、現地妻の生活費を援助することもできたし、ホテル代がかからないぶん、滞在費に困ることもなかった。
そんな彼は日本では、家賃4万円そこそこの風呂なしアパートに住み、国民年金も払ったことはなかったし、資産と呼べるものもなかったようだ。
キリギリスな彼は、そんな金があったらパチンコや競馬に行くか、東南アジアに行ってしまっていたからである。
東野氏は、仕事もお気楽で自分勝手。
文句は多いし、いつも率先して肉体的負担の少ない部署ばかりやっていた。
そして、他の人間がその部署につこうものなら「交代だ!」と言って譲らせる始末である。
体力の衰えた50代後半ではあるが、他のアルバイトは、同じ給料できついところをやっている。
反発は当然あったが、彼は腰が痛いと班長に訴えて、その楽な部署に居座り続けた。
また、腰が悪い証拠として、いつも通院している病院の診断書を持参して来ており、いざとなったら、それを水戸黄門の印籠がごとく提示してたんだからずるい男である。
だからあまりよく思っていない人間は少なくなかった。
やがて年月は過ぎ、東野氏が運送会社を去ならければなくなる日が近づいてきた。
彼は御年64歳となっており、会社では、アルバイトは65歳以上になると再契約の対象外となって、働くことができない決まりになっていたのだ。
もっとも、アルバイト以外に労働者を派遣してきていた人材派遣の会社に登録すれば、アルバイトとしてではなく派遣労働者としてなら働くことができるが、東野氏はもう辞めるという。
では他の仕事を探すのかと思いきや、そうでもないらしい。
無年金の彼は本来働き続けなければならないはずなのだが。
驚くべきことに、
「俺はもう歳だから、後はもう働かずにのんびり暮らすよ」
などと、余裕をぶっこいていた。
無年金だろ?
生活保護をもらう気なんだろうか。
だが、彼の老後の設計はそれと同じくらい世の中をナメていた。
「女房の実家のやっかいになる」
東野氏の海外移住とほどなくしてその後
誰が無収入の居候を快く受け入れてくれるものか。
親切なのは、金を運んできてくれたうちだけだろう?
職場の誰もがそう言っていた。
東野氏と親しい須藤という人がいて、その須藤さんは彼より少し年下くらいだから、「そんなに甘くないんじゃないの?」と面と向かって忠告してたらしいが、東野氏は某国の妻の家に転がり込む気満々だったという。
そして最後の勤務が終わった帰り際、「いつでも遊びに来てくれよ」なんて周りに言ったりして、全く悲観している感じはなかった。
須藤さんによると退職してから数日後、彼は意気揚々と某国に旅立っていったようだ。
部屋を解約するなどかなり前から準備をしていたらしい。
それから、半月も経っていない頃だった。
須藤さんの携帯に、早速東野から国際電話があった。
要件は「金を貸してくれ」である。
案の定だ。そして早や!
だから言わんこっちゃない。
東野は、金が必要な理由を濁していたらしいが、言われなくても容易に察しは付く。
文無しを理由に女房の実家から追い出されたか、シメられているに決まっている。
第一、貸してくれと言っているが、
東野は日本にいたころから金を借りたら借りっぱなし、おごってもらったらおごってもらいっぱなしだったから、返すアテと返す気のどちらもないであろう。
それも10万円という、彼が返済できるはずのない金額を指定してきたらしいから、あきれたもんだ。
須藤さんだって金がないから、値切りに値切って1万円を送ってやることにしたという。
送ってやったこと自体驚きだが。
しかし着金後ほどなくして、須藤さんのところに電話がかかってきて、
「この前10万と言ったのに、1万円しか送られていない!あと9万大至急送ってくれ!」
とほざかれたに至って、さすがの温厚というかお人よしの須藤さんも、ブチ切れて連絡を絶ってしまったらしい。
自分の都合よく記憶を作り換えようとするんだから完全に末期症状である。
だが、その末期症状はさらに深刻化していったらしく、須藤さん以外の職場でよく話していた人間ばかりか電話番号を知っている人間にまで、片っ端から金の無心電話をし始めた。
あんまりよく思われていなかった彼のことだから、いったいどのくらいの人間が救いの手を差し伸べたか、推して知るべしの感があったが。
東野とあまり深く付き合わなくて本当に良かった。電話番号を知られていたら、援助をねだられていたことだろう。
などと安心していたのもつかの間だった。
なぜかほとんど面識がなく、電話番号を知らないはずの私のところにも東野から連絡がきたのだ。
キリギリスの断末魔
登録のない番号だったし、携帯でも日本の固定電話でもなさそうな配列の番号だったが、どこからだろうと思って出たら東野だった。
もちろん要件は、金の無心である。
「あの、どうして僕の番号知ってるんですか?」
金の話をする前に、どうしても確かめておきたいことだったのでそれを尋ねたら、
「お前なら貸してくれるからって、電話番号教えてくれた奴がいた」
誰だか知らないが、ふざけたことしやがって!
そんなに私はいい人、いや、バカそうに見えるのか?
「なんでそんなに金が要るんです?」
分かり切ってはいたが、一応聞いてみた。もちろん貸す気はないが。
「暴風雨で家の屋根が壊れちまってさ、早く修理したいんだよ」
嘘に決まっているが、そこは敢えてスルーすることにした。
「いくらくらい必要ですか?」
「気持ちだけでいいよ。たくさんなら助かるが」
「じゃあ1000円くらいで」
「バカにしてんのか!?足りるわけねえだろ!」
そっちこそバカにしているのか?
「気持ちだけでいい」って言ったじゃないか。それになんだ、その言い方。
付き合いはあまりなくても、前から大人気ないおっさんだと知っていたが、相当テンパっているらしく、余計タチが悪くなっていた。
「せめて5万くらい貸してくれよ!知らない仲じゃないだろ?」
このおっさんは、完全に頭がおかしい。元々、ほぼ知らない仲じゃないか。
さらによりおかしいことに、その後、東野は一方的に送金先である某国の銀行名と口座番号などを告げ、
「詳しいことは須藤に聞けば分かるから、大至急頼むぞ!」
と、これまた一方的に吠えて電話が切られた。
誰が貸してなどやるものか。
ほとんど話したこともない人間相手に、あんな口調で図々しい要求ができるとは、人間技ではない。
言うまでもなく、もう連絡がこないように、この番号を着信拒否にした。
その後、私と同じく電話番号を登録していなかった職場の班長である新井のところにも電話が来たことを、新井本人から聞いた。
新井相手にいたっては、「元部下が困っているのに見て見ぬふりするのか?」とか「キャバクラや競馬行く金あるんだから、貸してくれたっていいじゃねえか」とまでほざき、さらに、私をはじめ自分に救いの手を差し伸べなかった者たちの悪口を連ねた後、「助けてくれなかったら必ず化けて出てやる」と実効性のない脅しまでしてきたという。
「終わってるな、あの人。もうかかわりたくねえよ」と、新井はうんざりしていた。
そんな職場を騒がせた東野からの金の無心電話もしばらくしてからピタリと止んだ。
誰も助けてくれなかっただろうし、さすがにあきらめたんだろう。
国際電話だから、電話代もバカにならないはずだし。
連絡がなくなったことについて、
「埋められたからじゃねえの?」と、冗談めかして言う者もいたが。
しかし、その時は誰も思わなかった。
冗談ではなく、本当にそうなっている可能性が高いことを。
つづく
日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」 (集英社文庫) 脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち (小学館文庫) 新版「生きづらい日本人」を捨てる (知恵の森文庫)関連する記事:
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