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皆さんはこの表紙の写真の人物を見て、どのような印象を持たれるだろうか。
優しそうな人?ご冗談を。
どう見ても、酷薄そうな凄みのある面構えの悪人相であろう。
そう、悪人だ。それも見かけ以上に。
この男の名は劉漢、中華人民共和国四川省出身。
400億元(6800億円相当)以上の資産を有し、30社を超える企業を束ねる四川漢龍(集団)有限公司の実質的な会長にして、その実の顔は、己の利益のために殺人すら辞さず、人口約8千万人の地元四川省の表裏両面に睨みを効かせた黒社会の老大(ボス)である。
四川省のトップとも結託し、一時期は黒社会の人間ながら、省内の治安をつかさどる公安の人事にまで、口を出すほどの力を持っていた。
若年期の劉漢
劉漢は1965年10月25日、四川省広漢市で五人兄弟の三男に生まれた。
子供の頃の彼は、学校での成績が抜群であったとも平凡であったとも諸説あるが、次第に勉学にそっぽを向いて商売に傾倒していくようになる。
早くからビジネスのセンスを有していたのは確からしく、1980年代中期の20歳になるかならないかの若さで、木材や建材などの転売を開始して、そこそこの小金を貯めるようになった。
そして、長けていたのはビジネスだけではなかった。
改革開放が板について経済成長が始まった80年代後半から90年代にかけての中国社会は、「儲けた者勝ち」とばかりに、成功するためには手段を選ばない無法者が各地で跋扈し始めていた時期でもある。
よって、ビジネスで成功を収めるには、商才以外の能力も発揮しなければならない場合もあったのだが、劉漢は、その能力の使い手でもあった。
それはすなわち暴力だ。
1990年代初頭、彼は実弟の劉維と共に地元の広漢市で賭博性の高いゲームセンターを開いたが、そのような違法な商売ならばなおさら必要である。
劉兄弟もご多分に漏れずそれを完備、いやむしろ充実させていた。
地元のゴロツキを手下にして店内で暴れる客を叩きのめし、負けが込んだ客からは借金を取り立てるなど、店の「正常な」運営を維持。
のみならず、商売敵が現れると手下にこん棒やナイフ持参で向かわせて問題を実力で解決して事業を拡大していったため、劉兄弟の経営するゲームセンターは、日本で言うところの博徒系暴力団そのものだった。
さらに、彼らは公権力に対してもひるまなかった。
1993年には、押収された物品を裁判所に押しかけて奪還、銃を振りかざして公安にも敢然と立ち向かったことから、裏社会の間でも勇名をとどろかせる。
怖いものなしとなった劉漢は、ゲームセンター経営を成功させてまとまった額の利益を得るようになると、今度は、ゲームセンター事業を弟の劉維に任せて、自分は本来の事業である建材のビジネスで勝負をかける。
より大きく稼ぐには、ゲームセンターだけでは足りないと考えたからだ。
劉漢が目を付けたのは、鋼材の先物取引である。
90年代当時中国は建設ラッシュ真っ只中で、鋼材の需要は高まっていたが、先物市場では価格が低迷しており、それに目を付けていた人間は、意外にも少なかった。
彼は、それまで違法行為で蓄えた資金と借り入れた金(これも所得や担保を水増ししてローンを組んだと言われる)で、四川省の鋼材を買いあさり、省内の大手鋼材メーカーの在庫を空にすることによって、市場での鋼材の価格を暴騰させることに成功。
手持ちの鋼材を売って、莫大な利益を得た。
そして1997年3月、先物取引で稼いだ金を元手として、後に巨大企業となる四川漢龍(集団)有限公司を設立した。
闇の力により事業を拡大
劉漢は正式な会社を設立したからといって、完全なカタギに転向したわけではなかった。
代表取締役として別の人物を置いて自らは黒幕に徹すると、弟の劉維に命じて、保安部要員募集の面目で荒事に慣れたヤクザ者はもちろん、元軍人、武術学校出身者を集め、障害を排除するための暴力装置を、さらに充実させたのだ。
それは刃物ばかりか、56式突撃銃やブローニング拳銃まで保有した本格的な武装集団だった。
そして劉維率いる保安部は、その暴力を会社設立翌年から最大限行使する。
1998年、四川省錦陽市遊仙区小島村の開発プロジェクトに食い込んだ漢龍有限公司は、立ち退きに抗議する地元住民と衝突していたが、後日、相手側住民の一人である熊偉を街中で闇討ちして、殺害したのだ。
誰がやったか限りなく分かりやすい殺人にもかかわらず、証拠が乏しくて立件されることもなかったため、これにより、住民側は沈黙。
プロジェクトを順調に進めた漢龍有限公司は以降、より大規模な公共プロジェクトを受注するようになった。
熊偉殺害のわずか五日後、今度は、劉維が保安部の手下を使って、広漢市のゲームセンター事業で商売敵となっていた周政を射殺した。
周政の一派は、劉兄弟と同じく黒社会の組織であり最強の対抗勢力であったため、これ以降、広漢市のゲームセンター及び闇金事業は劉一派が壟断。
のみならず、周辺地域の建築、建材市場にも進出して勢力を拡大していった。
1999年2月には、錦陽市のヤクザである王永成をバーの入り口で射殺。
王が「漢龍有限公司をつぶす」と大言壮語していたのが、原因らしい。
2000年に漢龍有限公司は成都に本社を移すが、早くもこの頃には、四川省の業界において向かうところ敵なしの状態であり、同業者はプロジェクトの入札では、漢龍有限公司との競合を避けて譲るほどであった。
同社の正体が何であるか公然の秘密だったし、敢えて競合しようものなら、すかさず手を引くよう脅迫されたからだ。
そして、劉漢一派が手にかけるのは、自分たちの事業をジャマする人間だけではなかった。
2000年9月、ブリーダーの梁世斉が、劉維の手下に刺殺される。
犬を飼う趣味があった劉漢は、知り合いでもあり著名なブリーダーでもある梁に犬の飼育をさせていたのだが、飼育のために渡していた3万元を着服していたのではないかと劉維が疑ったためだ。
この当時、誰がやったか遺族や周辺の人間は薄々感づいてはいたが、すでに地元の黒社会の顔役であり、公安関係者の中にも賄賂でシンパを作っていた劉兄弟を訴えることはできず、泣き寝入りを余儀なくされたという。
手下たちも、やりたい放題だった。
2002年5月、劉漢の用心棒であり保安部所属の仇徳峰らが、成都のクラブで、些細なことからケンカになった相手を刃物で殺傷。
逮捕された仇だったが、劉漢が手を回したこともあって、たった四年の懲役であった。
これらすべてを含めて、劉一派は分かっているだけで九件の殺人を犯しており、他に傷害、逮捕監禁、収賄、不正蓄財、銃刀法違反など、様々な違法行為に関わっていることが後に判明しているが、これほどの悪事を働きながら、長らく訴追されることはなかった。
どころか、漢龍有限公司はヤクザならではの手法で競合相手を黙らせて水力発電所、観光地の整備、高速道路の建設など大規模でうまみのあるプロジェクトを次々請け負い、ゲームセンターや建設業以外にも金融、不動産、電力事業、化学工業など様々な分野に手を広げる大躍進。
2009年からは、鉱山開発の分野で海外に進出し、傘下の企業をアメリカやオーストラリアにも上場させた。
劉漢自身の資産も莫大なものとなり、中国の長者番付に2003年の時点で早くもランクイン。
そして、劉漢はあくどく稼ぐ一方で慈善家としての顔も持っていた。
2008年に発生した四川大地震の復興に5000万元を寄付するなど、中国の寄付額番付にもランクインしているほど慈善事業に積極的だったのだ。
どうも悪党というのは大物になると、本業の悪いことだけでなく良いこともしたくなるものらしい。
それも悪事同様豪快に行う傾向がある。
ちなみに、この地震で四川省内の多くの小学校が欠陥工事により全壊して多数の児童が犠牲になっていたが、劉漢が寄贈した小学校はびくともせず教師も児童も無事だったことから首善(筆頭慈善家)と中国国内で脚光を浴びた。
しかし、彼自身はあまり表舞台に立つことはせず、漢龍有限公司内部でも限られた人間としか接触しようとしないなど、ベールに包まれた存在を保っていたという。
劉漢の後ろ盾
劉漢が違法行為を重ねながら訴追されなかったのは、省政府関係者や公安関係者に賄賂をばらまいていただけではなく、それ以上に強力な後ろ盾がいたことが大きい。
それは後に、中央政治局常務委員と中央政法委員会書記の職につき、中国共産党の党内序列第九位にまでなった周永康だ。
劉漢との関係は、周永康が四川省のトップである中国共産党四川省委員会書記として、同省に赴任して一年目の2001年から深まったとみられる。
その関係は、周永康の息子である周濱と電力や観光などのビジネスで協力し合うほど親密であった。
共産党委員会書記の神通力は、霊験あらたかだ。
省内の公安も司法も黙らせる権力を有するからである。
劉漢も司法に全く目を付けられていなかったわけではなく、2001年に不正行為で拘束されそうになったことがあるが、周永康の一声で沙汰止となったことすらあったから、省内はもうほぼ劉一派の治外法権となったといっても、過言ではなかった。
そして、周が2002年に党中央政治局委員に選出されて四川省を離れてた後も、その関係は続いた。
劉漢は周の権力を維持する利権集団の一つ「四川閥」において欠かすべからざる存在であり、使える男だったからだ。
後に周は2002年に公安部長兼党委員会書記に就任し、続いて、総警監、武装警察部隊第一政治委員、国務委員(副首相級。政法担当)など要職を兼任。
公安・司法部門でのトップになって、党内での地位も上がり後ろ盾としても、ますます強大になっていった。
劉漢も、いつまでも実業家だけに甘んじてはいない。
三期連続で四川省政治協商会議委員と常務委員にも選出されて、企業経営以外にも、省政府の政治に関わるようになる。
しかも、自分の事業に便宜を図ってくれるような政府の役人をより高い位に推薦したり、逆に邪魔をするような役人を更迭に追い込んだりするほど、影響力を増していた。
黒社会の大親分でありながら、中央に強力なパトロンを有して、省の政治にまで口を出すようにまでなったのだ。
もはや、地元四川省で彼を止めることのできる者は、いなくなりかけていた。
しかし、そんなこの世の春はいつまでも続かない。
夏と秋をショートカットして厳冬になり、そのまま一気に破滅へと向かう日が来ることになる。
それは、2012年11月15日、中国共産党の新たな総書記にある人物が就任したことから始まった。
そう、皆さんご存じ習近平だ。
逮捕、そして死刑
習近平は、総書記就任早々「反腐敗キャンペーン」を打ち出し、すぐさま、四川省の汚職撲滅に着手した。
真っ先にやり玉に挙がったのは、劉一派であることは言うまでもない。
これには、さしもの劉漢もひとたまりもなかった。
四川省内では無双でも、中国は広い。上には上がいる。
今回は、はるか頂上の存在である総書記直々のお達しによる、中国共産党中央の直接指揮下での捜査なのだ。
頼みの綱の周永康は、もうすでに中央政治局常務委員と中央政法委員会書記の職を解かれて力を失っており、アテにはできなかった。
それに、この汚職撲滅の行動は、習近平による政敵つぶしも兼ねていたはずだから、一切の手抜きもない。
ちなみに周はその後、「重大な規律違反」で立件された上に党籍をはく奪されて逮捕、無期懲役となる。
2013年3月13日、叩けば埃だらけの劉漢は、自身の片腕として数々の荒事をこなしてきた弟の劉維と相前後して拘束されてしまった。
捜査は徹底しており、兄弟だけではなく、部下はもちろんのこと現在の妻や前妻、家政婦までもが事情聴取される。
また、四川省だけでなく、北京市や広東省など10の市と省に存在する漢龍有限公司の関連施設へも捜査の手が及び、その結果、20丁の自動小銃や拳銃、3個の手りゅう弾、677発の銃弾が押収された。
むろん、合法的所持であるはずがない。
2014年2月14日、動かぬ証拠を基に、故意殺人、犯人隠避、汚職などの罪で、劉漢ら36人が提訴される。
ここまで来たら、もはや言い逃れも、後ろ盾や省内に賄賂で囲っていた役人の助けも期待できない。
同年5月23日、一審で劉漢と劉維兄弟を含む5人に言い渡された判決は死刑。
劉漢は、この判決を受けた時、見苦しくも大泣きしてこう叫んだ。
「私は省の貴人に奉仕しただけだ!はめられた!私は無罪だ!」
劉漢は上告したが、8月7日の二審でも一審の判決は覆らず、死刑が確定。
そして、2015年2月9日、死刑執行。
享年49歳、何もかも思い通りにしてきたがばかりに、運が尽きて迎えた早めの死であった。
出典元―百度百科、ウィキペディア中国語版
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