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現代のアフリカの国々の多くは、かつてヨーロッパの強国の植民地だったことは、特に歴史に詳しくない方でもご存じであろう。
15世紀半ばに大航海時代が始まってから第一次世界大戦開戦の直前までに、エチオピア、エジプト、リベリアを除いてそれぞれ西欧列強の支配下となっていた。
これらの地域は第二次世界大戦後に次々独立を果たしていくことになるが、多くの国はその後に内戦や飢餓などで苦しみ、「白人に支配されてめちゃくちゃにされたからこうなってしまった」とか、はたまた「白人たちがいた頃の方がマシだった」とかの怨嗟の声が上がることもある。
では、ヨーロッパ人に支配されていた時代の様子は、どのようなものであったのだろう?
本当にめちゃくちゃにされていたのか?
それとも、本当に今よりましだったのか?
17か国もの国が独立したアフリカの年と呼ばれる1960年の前年、多くの国がまだ植民地の状態だった1959年(昭和34年)の毎日新聞夕刊に掲載されたポルトガル領アンゴラの様子を伝える記事をもとにご紹介しよう。
アンゴラがポルトガル領になるまで
ポルトガル領アンゴラとは、アフリカ南西部に位置する現・アンゴラ共和国の領域であり、1959年当時はポルトガル領西アフリカと呼ばれていた。
そのポルトガルによるアンゴラ支配の歴史は、1484年に探検家ディオゴ・カンがこの地にやってきてから始まる。
同地域には1世紀ごろからバントゥー系のアフリカ人が居住していたとされ、現在のアンゴラ北部にあたる地域にはコンゴ人によるコンゴ王国があったが、アンゴラという国自体は存在しなかった。
また、ポルトガル人は当初からアンゴラ全土を征服して領有していたわけでもなく、奴隷貿易に目をつけて交易所を設け、コンゴ王国の支配者や貴族とお互いに利益のある関係を維持して彼らにも利益を分配していた。
初期のポルトガルの勢力圏は沿岸部に限られていたが、宣教師を内陸に派遣して布教したりするなどの植民地でのお約束の行為は行っており、活動の幅も徐々に拡大。
そのせいもあってか、17世紀になると経済的な問題をきっかけとしてそれまで仲良くやってきたコンゴ王国と衝突するようになった。
ポルトガルは戦闘で敗退することもあったが、腐っても欧州列強のはしくれ。
それから200年の間に徐々に内陸部を植民地化し、20世紀に入ってから、現在のアンゴラの領域にあたる地域をポルトガルの植民地として確定させた。
1920年代になると本格的にアンゴラの経済や社会基盤の整備に乗り出し、1951年6月11日、ポルトガル領西アフリカと呼ばれ続けてはいたものの、行政的にはアンゴラ海外州に昇格。
ポルトガル支配に反発する黒人による独立派勢力は、域内ですでに結成されていたが目立った組織的反抗もなく、1959年の時点ではこのままポルトガルの支配が続くと思われていた。
一見黒人差別のない植民地
ヨーロッパの植民地となった国では通常、本国からやってきた白人が「未開な民を文明化してやっているんだ」などと称して支配者ヅラし、原住民との間に明確な境界線を引いて人種差別的政策を行うものである。
しかし、ポルトガル領西アフリカだった当時のアンゴラは、それとはずいぶん異なっていたようだ。
毎日新聞の記者がアンゴラ入りする前、まだベルギー領だったコンゴ(現コンゴ共和国)のレオポルドヴィルで現地のベルギー人から、こんなことを言われたという。
「我々ベルギー人は、黒人を我々のレベルに上げようとしているのに、アンゴラのポルトガル人は自分たちが黒人のレベルまで下がっている」と。
黒人もポルトガル人も明らかに見下した上から目線の言い草だが、記者がアンゴラに入って街を歩くとそれを裏付ける光景がそこにあった。
なぜならタクシーやバスの運転手、ホテルのウェイターのような仕事をしているのはほとんどがポルトガル人であり、これらの仕事は他のアフリカの植民地では黒人がやっていることだったからだ。
つまり、底辺労働を担う貧しい白人が多かったということである。
この当時、ポルトガルで独裁政治を行っていたアントニオ・サラザールの政権は植民地帝国としての地位を堅持する政策を取っており、植民地へのポルトガル人の移民を積極的に推進していた。
アンゴラにも年間1万2千人のポルトガル人が移り住んでいたが、その多くは本国で食い詰めたダメ人間の男が多く、少なからぬ者たちは黒人たちに近づいて黒人女性と結婚。
そのせいか白人と黒人の混血「ムラート」が至る所で目についた。
他国の植民地にも、こうしたムラートは存在していたが、少しでも黒人の血が混じった者は何世代白人と交わろうと黒人として扱われるのに対し、ここアンゴラでは白人の仲間として扱われた。
また、白人の血が混じっていない純血の黒人でも教育を受けて、定められた額の税金を納められる者は白人と同等の権利を有しており、政府系の庁舎でも白人やムラートに交じって黒人も机を並べて仕事しており、白人の上司になっている黒人もいたようである。
週末ともなれば、白人もムラートも黒人も集ってパーティーが開かれ、そこには皮膚の色の違いによる差別はないように見えた。
だが、それは表向きであったようだ。
最下層にあえぐ黒人と民族主義を抑える独裁政権
アンゴラでは、例えば隣国のベルギー領コンゴのように黒人の夜間外出や飲酒の制限といったあからさまな差別はなく、高い教育を受けて一定の税金を納めることができれば、身分証明書をもらって白人と同等の権利を有することができる制度があったようだ。
だが、これは教育を受けられたらの話である。
この当時のアンゴラの人口は430万人で、うち白人11万人とムラート3万人以外の大多数が黒人であったが、その黒人の文盲率は90%。
彼らは当然貧しく、そのおかげで子供を学校に行かせる金がない。
その子供も学校に行けないから、まともな仕事にありつくことができず、親同様貧しいままという悪循環が繰り返されてきた。
植民地政府は、その状態を改善しようとせずに放置していたのだ。
またポルトガル本国自体にもまともな労働法もなく、スト権もない。
ましてや植民地の白人の事業主に雇用される黒人は当然のごとく安い賃金で劣悪な労働環境のもとで働かされた。
さらに現地の黒人にも納税の義務はあって、それが払えない者には、その税金分強制的に労働させるという制度もあった。
つまり、ほとんどの黒人にとってポルトガル領アンゴラは決して住み心地のいい場所ではなかったのだ。
そうは言ってもアンゴラは隣のベルギー領コンゴなどと比べると植民地政策に反発する黒人の大規模な暴動などは起きておらず、これは独裁政権であった本国政府の方針で情報統制を行ったり、植民地軍によって半植民地の動きを抑え込んできた成果でもあった。
本ブログが参考にしたこの1959年の毎日新聞の記事によれば、この時点ではアンゴラは安定しており、独立に向けた動きは伝えられていない。
他に、現地のポルトガル人たちは当時技術立国として日の出の勢いだった日本に早くも関心を寄せており、日本製の電化製品や車の輸入を望んでいることを伝えて記事は締めくくられていた。
その後のアンゴラ
1950年代までは落ち着いていたアンゴラも、1960年代になると一挙に情勢が暗転する。
アフリカ諸国が次々独立していた中で、その機運がアンゴラにも波及したのだ。
上記毎日新聞の記事の翌々年で、「アフリカの年」の翌年の1961年、アンゴラ解放人民運動(MPLA)が蜂起してアンゴラ独立戦争が勃発。
植民地の維持に固執するポルトガル政府は断固鎮圧に乗り出し、この戦争は1974年にポルトガル本国でカーネーション革命が起こって独裁政権が倒れるまで続き、国土を荒廃させた。
独立戦争が終わって、1975年にアンゴラ人民共和国の独立が正式に宣言されてからも地獄が待っていた。
それも本当の地獄だ。
独立派の中で主流を占めていたMPLAの支配を嫌って、他の二派アンゴラ国民解放戦線(FNLA)とアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)がアンゴラ人民民主共和国の独立を宣言。
これを阻もうとするMPLAとの間で、今度はアンゴラ内戦が発生する。
このアンゴラ内戦は米ソの代理戦争の様相をも呈し、キューバ軍や南アフリカ軍まで介入して複雑かつ泥沼化。
独立戦争より長い27年続いて国内の産業は崩壊、360万人の死者を出して全土に地雷がばらまかれ、2002年にMPLAの勝利でようやく終結した。
内戦後も、全土に敷設された地雷によって死傷者が絶えず、政権の腐敗など問題が山積しているが、アンゴラはもともとダイヤモンドや原油資源が豊富で、その輸出によって経済は大幅に回復。
現在株式市場も開設されるなどサハラ以南ではナイジェリア、南アフリカに次ぐ第三位の金融市場になるまでに飛躍している。
出典元―毎日新聞
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