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2022年 Azure Microsoft MS Azure Administrator MS Azure Fundamentals クラウド コンピューター 技術一般 管理 認定資格

MS Azure を学ぶ (1) リソースグループの作成と管理

Azure Administrator (AZ-104)に合格しましたので、覚えた内容を忘れないように、これから少しずつアウトプットしていきたいと思います。

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リソースグループとは

リソースグループとは、Azure上のストレージや仮想マシンなどといったリソースを入れる箱のようなものです。各リソースをまとめて管理できます。

Learn Microsoft の画面

AWSなどでも同じような機能はありますが、必須になってはいませんが、Azureでは、各リソースは必ずどれかのリソースグループに所属する必要があり、必須となっています。

このリソースグループは便利な機能で、例えば各リソースにタグを付けたい場合、リソースグループにタグをつければ、そのリソースグループ内のリソースにも同じタグを付けられますし、リソースグループを削除すれば、そ子に所属している全てのリソースも一斉に削除することもできます。

リソースグループの作成

まず、リソースグループを作成してみましょう。

管理画面トップのテキストボックスに「リソースグループ」と入力して検索します。

メニューに「リソースグループ」が見えました。これをクリックします。

リソースグループの管理画面が開きます。

「作成」をクリックして、リソースグループを新規作成します。

リソースグループの作成画面が開きます。

設定する項目は、以下の3つがあります。

  • サブスクリプション:自分のサブスクリプションを選択
  • リソースグループ:今回作成するリソースグループの名前を入力
  • リージョン:リソースグループを配置するリージョンを選択

サブスクリプションは、課金が発生した際に支払いを行うサブスクリプションを選択します。

リソースグループの名前の注意点ですが、同じ名前のリソースグループは作成できません。以下のようにエラーになります。

リージョンですが、リソースグループに関しては意味はないです。実際にリソースグループの中に入れる各リソースの方は、必ずしもリソースグループと同じリージョンである必要はありません。このリージョンの項目は、単に管理目的となります。

各項目の選択と入力が完了したら、「作成」をクリックします。

リソースグループの一覧に、先ほど作成したリソースグループの名前が表示されましたね。これでリソースグループの作成は完了です。

リソースグループの削除

不要になったリソースグループは削除ができます。

削除したいリソースグループ名をクリックします。

対象リソースグループの管理画面が開きます。

「リソースグループの削除」をクリックします。

削除対象のリソースグループ名を、ここで再度入力します。

削除しようとしているリソースグループが本当に正しいのかを確認するためです。

正しければ、「削除」をクリックします。

リソースグループの一覧から、削除したリソースグループ名が見なくなりました。削除完了です。

このリソースグループの削除で非常に重要なのは、リソースグループを削除すると、そのリソースグループに属している各リソース全てが削除されるという点です。これは非常に便利である反面、非常に危険でもあります。運用稼働中のリソースであっても簡単に削除できてしまうのです。それを回避する機能がロックです。

リソースグループのロック

繰り返しになりますが、リソースグループは、使用する各リソースが入る箱のようなものというお話をしました。リソースグループに所属している各リソースですが、リソースグループを削除すると、その中の全ても削除されてしまいます。

せっかく苦労して作成したシステムも、簡単に削除されてしまいます。

これを避けるために、ロック機能が用意されています。

使用できるロックは2種類となります。

  • 読み取り専用ロック:削除も変更もできなくなります。
  • 削除ロック:削除のみをできなくし、変更は許可します。

まとめると、以下のようになります。

ロックの種類変更削除
読み取り専用ロック  X    X  
削除ロック  ○   X  

では実際に、ロック機能を適用してみましょう。

先ほど作成したリソースグループ名をクリックします。

対象リソースグループの管理画面が開きます。

メニューの中から「ロック」をクリックします。

ロックの管理画面が開きます。

「追加」をクリックします。

ロックの種類のプルダウンメニューを開くと、「読み取り専用」と「削除」の2つがあるのが見えますね。

今回は、「削除」ロックを設定してみます。

ロック名は必須です。今回は「delet-lock」とします。

メモはオプションですが、このロックの内容ですとか目的などを入れておくと、後からの管理で便利になります。

「OK」をクリックして、削除ロックを適用します。

作成した削除ロックが適用されたのが分かりますね。

今回適用したのは削除ロックです。リソースグループの削除ができなくなります。それでは試してみましょう。

対象となるリソースグループの名前をクリックし、「リソースグループの削除」をクリックしてみます。

削除対象となるリソースグループの名前を入力し、「削除」をクリックしてみます。

「削除に失敗しました」のメッセージが表示されましたね。削除できなくなっています。

では今度は、削除ロックを解除してみましょう。

対象となるロック名の「削除」をクリックします。

削除が完了し、ロック名が消えました。

それでは、再度、リソースグループを削除してみましょう。

対象となるリソースグループ名をクリックし、「リソースグループの削除」をクリックします。

削除対象となるリソースグループ名を入力し、「削除」をクリックします。

リソースグループの削除が始まりました。

「削除しました」のメッセージが表示されました。

リソースグループの一覧を表示してみましょう。先ほど削除処理したリソースグループ名は見えなくなりました。削除されていますね。

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本格的不良俳優のさらなる転落 ~2003年・京都市下京区放火殺人事件~

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大地義行という俳優を、ご存じの方はどれだけいらっしゃることだろうか?

もしご存じならば、その方はヤクザものの映画やVシネマが好きで、それもかなり昔からのコアなファンだと言えるだろう。

大地義行、本名平野善幸は、1964年大阪府生まれ。

さまざまな経歴を経た後、1992年より俳優活動を開始。

Vシネマを中心に出演していたようだが、1998年の『JUNK FOOD』の出演を皮切りに、2000年から2002年にかけて『新・仁義なき戦い』、『荒ぶる魂たち』、『新・仁義の墓場』に出演。

コンピューターのスクリーンショット

自動的に生成された説明

 

『新・仁義なき戦い』などのこれら三作の映画の出演者はベテラン俳優が目白押しであり、大地はほんのチョイ役の暴力団組員を演じていたにすぎなかった。

しかし、その毒々しい存在感と迫力は本職級であり、並み居る有名な役者たちに埋もれることが全くないほどのインパクトを残して「本格的不良俳優(ヤクザ俳優)」と注目を浴び、以後の活躍が大いに期待されるようになった。

だが、2002年の『新・仁義の墓場』以降に、彼の姿をスクリーンの中で見ることは不可能になってしまっている。

なぜなら殺人で逮捕され、無期懲役で服役しているからだ。

2003年1月16日の事件

グラフィカル ユーザー インターフェイス

自動的に生成された説明

2003年1月16日午後2時。京都市下京区の木造二階建ての大地の自宅から出火して、二階の一室24平方メートルが焼ける火事が発生。

そして鎮火した後の焼け跡から、女性の焼死体が発見された。

死体は、仲居手伝いの丸山珠子さん(仮名・47歳)で、大地とは内縁関係にあった女性であったが、手足を電線コードやテープのようなもので縛られた状態で焼死していたことから、京都府警は放火殺人と見て捜査を開始する。

一方の大地は、火災時に現場にいたのだが、言動がおかしかったために、駆け付けた京都府警によって取り調べを受けた結果、覚せい剤反応が出たために逮捕されてしまっていた。

彼は覚せい剤の常用者だったのだ。

新聞記事の一部

自動的に生成された説明

その後、大地は傷害事件で執行猶予中の身でもあったことから、覚せい剤の件で1年2か月の実刑判決を受けて服役することになったのだが、捜査の方は、状況証拠から明らかに怪しい大地を有力な容疑者として進められ、同年7月30日に、殺人・現住建造物放火の疑いで再逮捕となる。

大地は、女性を縛ったのは同じく覚せい剤の常用者だった彼女が暴れたからであるとし、火事はその時、部屋で点けていたストーブから出火したもので、自身が火をつけたわけではないと主張。

しかし、火事の時に、大地は救出しようともせずに、ぼんやりとしていたという住民の証言が決定打となって、大地は犯人と断定されてしまう。

グラフィカル ユーザー インターフェイス

自動的に生成された説明

2005年3月の京都地方裁判所の判決では懲役15年(求刑無期懲役)が言い渡されたが、ここでも大地は無罪を主張したため、大阪高等裁判所の二審では「反省の態度が見られない」と一審判決を破棄され、求刑通りの無期懲役が言い渡された。

2006年の最高裁でも、上告が棄却されて無期懲役の判決が確定。

もともと転落していた彼は、さらに落ちることができる最底辺まで落ち込んでしまった。

大地義行は、2022年の現在も徳島刑務所で服役している。

近所での評判

大地義行はヤクザ俳優として評価されたが、それはどうやら演技ではなかったらしい。

普段の大地は、商品にケチをつけては金を払わなかったり、近所での工事がうるさいと怒鳴り込んだりと、居住する地域では悪名高き迷惑住民。

火災で死亡した女性以外にも関係を持っている女性がおり、痴話げんかが高じて、時々自宅前の路上で暴力をふるったりもしていた。

また、映画の撮影においても現場に遅刻することがよくあり、怒られると逆ギレするなどなかなかのトラブルメーカーだったから、高く評価された演技は素だったのだろう。

「本格的不良俳優」ならぬ、単なる「本格的不良」だったと報道するマスコミもあった。

そんな彼だから近所の住民もよく思っておらず、「女性を助けようともせず、ぼんやりと座っていただけだった」という証言までされた。

当時の大地の人となりを知るそれらの人々には、「やっていないとは思えない」と言われている始末である。

そんな彼は今でも獄中で無罪を叫び続けており、支援する弁護士も現れて再審請求の活動がなされている。

確かに支援者らの主張によると、検察の提示した証拠には矛盾が多く、女性を助けようとしなかったどころか、燃え盛る家の中に入って救出に向かおうとしていたと、当時から証言していた人間も存在しており、今後の展開によっては、無実を勝ち取って出てくることがあるかもしれない。

しかし、彼は現在57歳。

獄中で、あまりにも多くの時間を失ってしまった。

自由の身になったとしても、もう彼の姿をスクリーンで見ることはできないだろう。

たとえ、この事件はやっていなかったとしても、今までさんざん周囲に迷惑をかけてきたのだから、人を殺したと疑われても仕方なく、自業自得だという人もいるかもしれない。

しかし同時に、彼の登場シーンを改めて見てみると思うのだ。

画面の中でヤクザを演じる大地は、本物の悪党そのものの脂ぎった嫌らしさを見事に醸し出し、ベテランのコワモテ俳優相手でも、全く迫力負けをしていない。

こんな毒気は、演技や稽古で作り上げられた悪役では、絶対に出せないだろう。

やっぱり、大地義行の姿をもっと映画で見たかった。

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ヤクザが最も凶悪だった時代 ~1998年・那須町調理師兄弟生き埋め事件~

本記事に登場する氏名は、一部仮名です。

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1998年11月27日、栃木県那須町のホテルに勤務する調理師の兄弟・丸田紘一さん(仮名・49歳)と丸田昭二さん(仮名・48歳)が、夜中に出かけたまま失踪した。

翌28日、弟の昭二さんの家族から捜索願が出されたが、兄弟に家出や自殺の動機が一切なかったことから、警察も事件に巻き込まれた可能性の高い特異家出人として受理して捜査に乗り出す。

栃木県警捜査一課及び二課、黒磯署は、兄弟の周囲でトラブルがなかったかの聞き込みを行ったところ、明らかに不審な点が見つかった。

兄弟は、暴力団関係者とトラブルを抱えていたのだ。

そして、27日の晩に飲みに行ったと思われるスナックで、暴力団員風の男らから、暴行を受けて連れ去られたことが判明する。

やがて、その相手であった暴力団員である岩瀬裕(本名・51歳)ら、三人を暴力行為違反法で逮捕して丸田兄弟の行方について聞いたところ、二人ともすでに殺されて栃木県那須町の山林に埋められていたことが分かった。

供述により、翌1999年1月8日に発掘したところ、地中から1.5メートルの深さの地点から二人の死体を発見。

身元はやはり、紘一さんと昭二さんであったが、司法解剖の結果、恐ろしい事実が判明する。

二人とも刺し傷などの外傷はなく、暴行を受けたことによる肋骨などの骨折があり、気管に土砂が詰まっていた。

つまり、生き埋めにされていたのだ。

「逆らう奴は許さん」

新聞記事の一部

自動的に生成された説明
岩瀬裕。絶対に近づきたくない人相だ。

丸田兄弟を埋めたのは、山口組系の二次団体の組員の岩瀬裕(本名・51歳)、菅原康正(本名・31歳)、坂本薫(本名・40歳)である。

兄弟は、この岩瀬とトラブルになっていたのだが、そのきっかけは無茶苦茶なものだった。

それは、失踪する二か月前の9月下旬に、ある男性が岩瀬らに些細なことから因縁をつけられたことから始まる。

その男性は、丸田さんらの飲み仲間だったのだが、岩瀬は何と飲み仲間であるという理由で、丸田さんにまで慰謝料を要求してきたのだ。

とんでもない外道である。

こんな理不尽な要求でも、ヤクザが相手だと払ってしまう一般人もいるが、兄弟は断固拒否、再三にわたる恫喝も無視し続けた。

こんな奴らに払う義理はないし、払ったら払ったでまた何かとたかってくるに決まっているからだ。

こうして、約二か月が経過した11月27日。

その日、二人は弟の昭二さん宅で酒を飲んでいたが、午後11時半ごろ「ちょっと出かけてくる」と家族に言って出かけた。

行先は、黒磯市内のスナックである。

だが、このまま家で飲んでいるか、もう遅いから寝るべきであった。

なぜならば、そのスナックで彼らを脅し続けている岩瀬たちと鉢合わせしてしまったからだ。

岩瀬は、自分の要求を拒み続けていたカタギの相手が、自分たちの息のかかったスナックで平然と飲んでいるのに激怒。

自分たちを見てもビビらない態度も火に油を注いだ。

「テメーら!ナニ偉そうに飲んでやがんだコラ!!」

一緒にいた菅原と坂本、滝本郁夫(本名・43歳)も加わって、丸田兄弟に殴りかかって暴行を始めた。

岩瀬は51歳だったが幹部ではないペーペーの組員、つまり出世できずに、歳だけくった三流ヤクザだ。

そのくせ、世間から恐れられるヤクザの端くれであることに妙な誇りを持っており、堅気ならば自分の言うことにビビッて従うべきだと考えていた馬鹿野郎でもある。

そんな岩瀬は、畏怖されて然るべきヤクザである自分に逆らう丸田兄弟にはかなり腹を立てており、今日という今日はけじめをつけてやるとばかりに暴行を加えたが、これだけやられても泣きを入れてこない兄弟にますます逆上した。

「オイ、場所替えるぞ!」

二人をスナックの階段から蹴り落とし、自分たちの車に押し込んで、岩瀬と菅原、坂本が向かった先は那須町寺子丙の山林。

底辺ヤクザの岩瀬は、後先を冷静に考える頭を持っていない。

自分たちをナメた相手を生かしておくつもりはなく、埋めることにしたのだ。

この時、岩瀬は自分たちに協力させようと、もう一人の男を真夜中に電話で呼び出していた。

中林邦夫(仮名・49歳)という造園業に従事する男であり、ヤクザではない。

だが、岩瀬の組から金を借りたことがあり、金はすでに返済していたが、そのまま関係を断ち切れないでいた。

ヤクザは一度関係を持った相手を離さず、延々と自分たちに都合よく利用しようとするものなのだ。

中林が命じられたのは、人気のない場所に自分たちを案内することと、そこにショベルカーで穴を掘ること。

後に、殺人ほう助の罪で逮捕されることになる中林は「穴は掘ったが人を埋めるとは思わなかった」と供述しているが、自分がこの時こんな山奥で何のために穴を掘らされていたかは、十分に推察できていたのは間違いない。

かと言って拒否すれば「さんざん世話になったオレの言うことが聞けねえのか」などと言われて、どんな報復をされるかわからないし、下手をすれば、その穴に自分が入れられかねない。

警察が動くのは、やられてしまってからの方が多いのだ。

そんなことは百も承知の中林は「チャッチャとやれよ!」とか、岩瀬らにどやされながら嫌々ショベルカーを操作した。

「テメーらが埋まる穴だぜ」

丸田さんたちは、自分たちを埋める穴を掘るところを見せられて、恐怖のあまり絶句していたという。

穴を二メートル程度まで掘り終わると、車から引きずり出して穴に蹴り落とす。

二人とも穴から出ようとしたが、上から踏みつけられて、再び落とされた。

そして、犯人三人のうち一人がショベルカーを運転して穴に土砂をぶっかけ、兄弟を生き埋めにした。

ナメられたと思ったら、なりふり構わないから職業犯罪者であるヤクザは恐ろしい。

だが、しょせんはヤクザの中でも低級な部類に属する岩瀬の犯罪。

それまで被害者を脅していたり、スナックで暴行を働いたりと目立ちすぎ、捜査線上にすぐに浮かんで逮捕となった。

いくら犯罪者に甘い日本でも、こんなことをしでかしてただで済むわけがない。

岩瀬は、翌1999年11月18日に求刑どおり無期懲役の判決を下された。

本来なら死刑が妥当な気もするが、犯罪の冷酷さから、現在まだ生きていたとしても塀の中のはずだ。

また、出てくることもないだろう。

ヤクザが最も恐ろしかった時代、そして今後

この1990年代後半から2010年代にかけて、ヤクザが最も凶悪化した時代ではないかと本ブログの筆者は個人的に思う。

一般人を相手にした殺人事件が、やたら目立ったのだ。

ちなみに栃木県では、この那須での生き埋め事件からさかのぼること一年前の1997年11月30日にも、凶悪な事件が発生している。

同じ栃木県内の真岡市のスナックで、松葉会系暴力団の組員二人が口論になったとび職の男性を、さんざん暴行した上に店外まで連れ出し、とどめとばかりに車でひき殺したのだ。

新聞の記事

自動的に生成された説明

2001年7月には、出会い系サイトで知り合った女性のとの間で金銭トラブルを起こした埼玉県越谷市の高校教師が、女性の背後にいた暴力団組員に監禁されて金を脅し取られた上に殺されて、静岡県内の山林に遺棄された。

2002年3月4日には、兵庫県神戸市で神戸商船大学の大院生が暴力団員に言いがかりをつけられて暴行後、拉致されて殺される事件が起きている。

暴力団が背後に立って違法な金利で取り立てをする闇金が生まれ、振り込め詐欺が横行しはじめたのもこの頃だ。

それ以外にも、中国人窃盗団の手引きをしたり、中には自ら一般人の家庭に押し込み強盗を働いて、家人を殺傷する組員すら出現していた。

思うに、90年代後半は暴力団対策法が施行された上に、不況で資金獲得が難しくなってきた時期でもあったから、シノギのためには、なりふり構っていられなかった組員が多かったはずである。

だから余裕がないあまり、テンパって暴走する者が少なからず出たようだ。

何よりこの頃は、血気盛んな若年の組員の総数も多かったからなおさらである。

今から考えれば、恐ろしい時代だ。

だが2004年以降、さらに暴力団を締め付ける暴力団排除条例が各地の自治体で施行され始めて、暴力団は徐々に弱体化してゆく。

暴力団員が犯罪を起こせば、より重い刑罰も課されるようになり、抗争はもちろん、シノギもますます難しくなる。

脱退者は増え続けるのに加入者は少なく、2022年の現在は、残った組員たちも高齢化して行動力も低下し、もはや、かつてのように我が物顔でのさばることはできなくなった。

強力な悪を追い詰めた結果、その悪がより凶悪になった1990年代後半から2010年代を経た後、その勢力は力を失いつつあるのだ。

これは、表面上とても良いことに思える。

だが、本当にそうか?

一つの勢力の力がなくなれば、その空白を別の勢力が埋めるのが世の常だ

現実に暴力団の弱体化とともに、半グレと呼ばれる勢力が力を伸ばしてきたのは周知のとおりである。

どの時代でも、道を踏み外す者は出てくるが、その受け皿が暴力団という勢力から、半グレという新しい勢力に移りつつあるのだ。

外国人の犯罪組織も、今後ますます力を持つようになるだろうし、もうすでに地盤を固めている可能性もある。

そして、こういった新たな勢力というのは往々にして旧勢力よりやっかいで、扱いにくいものであることが多い。

事実、彼らは従来のヤクザ組織と違って実態がつかみにくく、その全容を把握するのは困難であるという。

よって、暴力団の完全消滅は、より安全な社会の到来であると筆者は無条件に信じることができない。

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悪質クレーマーに天誅 ~2004年・東京都足立区牛丼店クレーマー殺人~

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。

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殺人事件の中には、被害者に一切同情できないものがごくまれにある。

被害者と加害者は「元加害者」と「元被害者」の関係、すなわち被害者が生前に殺されても仕方がないほどのことを加害者に行った結果、反撃もしくは報復されて死に至ったケースのことだ。

本ブログで取り上げる牛丼店の店長が執拗にクレームをつけてきた男を殺した事件、俗にいう『足立区牛丼店クレーマー殺人』は、まさにその典型たる事件とされ、現在に至るまで致し方なく凶行を行ってしまった加害者への同情と自業自得で、地獄に送られた被害者への侮蔑を以って語られる事件である。

真面目な青年

この事件の犯人となる市田武司(仮名・26歳)は、不動産事業や飲食店事業などを手掛ける企業の社員であり、2004年の事件当時、その傘下の大手牛丼チェーンのフランチャイズ店の店長だった。

市田は、同企業の系列の喫茶店で四年ほどアルバイトとして勤務。

その真面目な勤務態度から2004年6月に正社員に抜擢され、足立区の北千住にある牛丼店に配属された。

そこでも持ち前の責任感や接客態度の良さが評価されたらしく、わずか二か月後の8月に店長に昇進する。

牛丼店での勤務経験の短さもさることながら、26歳という若さでの店長就任は異例のことだったという。

市田が店長をやっていた牛丼店

こうして大抜擢された市田だったが、店長になって早々試練に見舞われる。

それは、店長就任後一か月も経たない8月下旬、市田の店に弁当を買ったという男から、一本の苦情の電話が入ったことから始まった。

その男によると、弁当を買って持ち帰ったら、それが横になっていたというのだ。

そして、その言い分と口調は、苦情というより言いがかり、クレームというより恫喝に近いものだったらしい。

あまりの剣幕に、店長である市田は謝罪したが、男の怒りは収まらない。

なんとその後、7-8回もクレームの電話をかけてきたのだ。

これは営業妨害以外の何者でもない。

いくら接客業であっても、本来ならこういった輩には強硬にして断固たる処置をとるべきであった。

だが、経験が浅い市田はやってはいけない行動に出てしまう。

何と、そのクレーマーの男の自宅に出向いてお詫びした挙句、弁当代として現金千円を渡してしまったのだ。

その現金千円は市田の自腹であったろうし、この件は自分の失態であるから当然であると、責任感の強い彼のことだから思ったことだろう。

そしてこれで解決したとばかりに、この件を本社に報告することはなかったらしい。

だが、それは大きな間違いであった。

そのクレーマー、墨田区東向島在住の保川英夫(仮名・36歳)は介護の仕事をしていたが、本性はとんでもないクズ野郎だったからだ。

保川は、その後も市田を何度か呼び出すなどして断続的にクレームをつけ続け、市田を追い込むことになる。

クレーマーに怒りの猛撃

9月11日、クレーマー保川は、何ら悪びれることなく堂々と店を訪れて弁当を注文。

この時に市田は店にいなかったが、今度も店員に対して文句をつけてきた。

「オイ!何で客に水出さねえんだよ!!」

待っている間に水を出さないことに腹を立てたようだが、そこまで怒るほどのことでもないはずだ。

しかしクレームを趣味にしているとしか思えない保川は、それでだけでは済ませなかった。

店を出た後に、またしてもクレームの電話をかけてきたのだ。

「店長出せ、店長!」

「どうなってんだよ、オメエの店はよ!」

「誠意ってもんあんのか?コラ!!」

しかも、今回は前回を上回る回数であり、それは翌日の12日まで続く。

常軌を逸した執拗さに、市田は「店の正常な運営ができない」と追い詰められたが、この期に及んでも、本社に相談をしようとしなかった。

どころか、再び自分一人で解決しようと行動に出る。

しかし、今回はまた元の木阿弥になるであろう謝罪ではなく、この問題の不可逆的且つ永久的解決を決意していた。

それは保川の殺害だ。

市田は、真面目な勤務態度と責任感の持ち主だったが、明晰な頭脳は持ち合わせていなかったと言わざるを得ない。

おまけに、パニックになりやすくて自制心も利かない男だったのは間違いないだろう。

9月12日午前11時ごろ、前も訪れて勝手知ったる墨田区東向島の保川のマンションを訪問した市田は、持参してきた刃物で横柄な態度で対応した保川の胸を一突き。

驚いて逃げようとする保川の背中にも刃物を突き立て、声をあげさせないように口も塞ぎつつ刺し続け、殺した。

クレーマー野郎が死んだことを確認すると、市田はそのままそそくさと立ち去った。

まさに天誅である。

保川の死体はその後、自宅に集金に来た宅配弁当店の店長に発見された。

この年、職を転々として介護職に就いたばかりだった保川は、懐具合が思わしくなかったらしい。

事件の二か月前の7月、ずうずうしくもその場で払うべき宅配の弁当代を「給料が出てから払うからツケにしてくれ」と頼んでいたが、そのまま8月を過ぎても払わずに連絡すらしていなかったのだ。

ゴキブリのような奴である。

保川は市田の店以外にも、ピザ店にクレームをつけていたことが後の調べで分かっているから、営業妨害を専門とする犯罪者と言ってもよい。それもチンケな。

だが、そんな二足歩行のゴキブリでも殺したのはまずかった。

宅配弁当店の店長からの通報を受けて事件の捜査を行っていた警察は、保川の電話の通話記録から、市田の存在を割り出す。

あの怒涛のクレーム電話のことである。

そして、事件から三か月後の12月11日、市田を殺人容疑で逮捕。

彼は保川を殺した後も逮捕されるまで、牛丼店の店長を続けていた。

道路, トラック, 屋外, 建物 が含まれている画像

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事件現場の近く

その後

2005年6月23日、東京地裁は市田武司に懲役10年(求刑懲役14年)を言い渡した。

判決は、保川がしょっちゅう苦情を言ってきたことが殺害の動機につながったと指摘しながらも、「被害者に殺害されなければならないほどの落ち度はない。きわめて短絡的との非難を免れない」としたのだ。

新聞の記事

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やはりどんな事情があれ、殺人にはそれなりの判決が出る。

だが保川という男は「殺すことはなかった」かもしれないが、「殺しても構わなかった」奴ではあると個人的には思う。

日本の消費者は世界一極悪であり、接客する側が甘やかすからつけあがる輩が後を絶たないが、保川はその中でも、タチが悪い部類に入る。

そんな奴に哀悼の意を表する気はない。

どんな人間でも、死ねば仏なんて思わない。

保川のような男が殺されることもなく、その後も元気よくさまざまな店にクレームをつけ続けることがなくなったことは良いことだ。

そんな社会貢献をした市田だが、10年という時間を塀の中で失い、出所後も殺人という前科を背負って生き続けることになってしまった。

しかし、彼はまだ若い。

少々頭が悪くテンパりやすい欠点はあるが、天性の真面目さと責任感を持っているはずだから、やり直しは十分に利くだろう。

これくらいの過ちで人生を捨てることなく、立派に更生できると信ずる。

あと、この牛丼店を運営する会社だが、彼をもう一度雇ってあげてはいかがだろうか?

それも店長より上のポストで。

反社会勢力の暴力団ですら、抗争で相手を殺した組員は長い懲役を経た後に、「組のために体を張った功労者」として幹部のポストが約束されていた時代があった。

彼はまさしく店のために体を張ったではないか。

事実、この事件からしばらく、この牛丼店のその他の店舗へのクレームがなくなったというから、功労者だと断言できる。

彼を雇うことでイメージは悪くなるが、前科のある人間を雇うのは違法ではない。

全国津々浦々に展開して久しいほどの大手なんだから、それが原因で倒産するということもないではないか。

まっとうな会社だというなら、反社会勢力でもやっていること以上のことがやれるはずだ。

取り返しがつかないことをやった者でも、立ち直るチャンスを与えるという太っ腹なところを見せるべきであろう。

極論だが、真摯にそう思っている。

出典元―夕刊フジ・朝日新聞・毎日新聞

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「お母さん!何とかして!」~1992年・奈良県天理市女子短大生誘拐事件~

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。

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1992年11月30日、天理市内のとある寿司店。

金融業を営む森本正成さん(仮名・48歳)と妻の照子さん(仮名・46歳)、小学校五年生の長男の一家三人はすでに店内に入って席についていたが、一向に寿司を注文しようとせずにやきもきしていた。

注文するわけにはいかない。

この店に来るはずの森本家の長女、私立短大一年生の森本知世さん(仮名・19歳)がまだ来ないのだ。

森本家の人々は、この日は家族で食事をしようと決めており、大阪市内の短大に通う知世さんも家族とは別に、学校の帰りに店に来ることになっていた。

だが、その約束した時刻である午後7時は、もうとっくに過ぎている。

この時代に携帯電話はない。

待ち合わせに相手が現れないからといって、今どこにいるか又はいつ来るのか、相手に連絡をとることはできないのだ。

遅れるなら遅れるで、この店にいることは分かっているはずだから、店に電話があってもいいのだがそれも全くない。

「ナンで来(け)えへんのやろ?」

「なんかあったんやろか?」

来るはずの娘が姿を現さないのでは、心配でゆったりと寿司を食べていられるわけがない。

両親は悪い予感がして仕方がなかった。

そして、その予感は的中する。

脅迫電話

森本知世さん(仮名・19歳)

結局知世さんは、寿司屋に現れなかった。

森本家の人々は、仕方なく三人で砂をかむような思いで寿司を食べた後、午後9時には自宅に帰っていた。

そして、9時10分ごろ自宅の電話が鳴る。

娘からのものでは?と直感した母親が急いで電話に出ると、はたして娘の知世さんからだった。

ホッとしたのもつかの間、様子がおかしい。

「お母さん」と一言発してから、泣き声しか聞こえてこないのだ。

「どうしたん?」

呼びかけても泣き続けるばかりである。

「はっきりしいや。何があったん?」

ただ事でないのは明らかだ。

まさか…。

「誘拐された」

母親の照子さんは言葉を失った。

「どこや?どこににおるんや?!」

隣でやり取りを聞いていた父親の正成さんが電話に代わった。

「どこかわからへん~」

電話の向こうで知世さんは激しく泣き始め、もう言葉にならない。

「聞こえたやろ、誘拐したったんや。」

突然男の声に変った。こいつが犯人のようだ。

犯人は立て続けに要件に入った。

「明日までに二億まわし(用意)せい!」

とんでもない野郎である。

森本さんは金融業を営んでおり、そこそこ裕福だったようだが、二億をポンと出せるほどの大金持ちではない。

「二億て…!そなあほな…。よう集められへんわ、そんな金…」

そんな事情など犯人は、お構いなしだった。

犯人「でけへんのやったら、娘死ぬだけやで!」

父親「ちょっと待ってえな、頼むわ!とりあえず500万やったらええけど」

犯人「そないなはした金いらんわ」

父親「あんた鬼か?こっちかて、すぐには無理なんや。とにかく待ってくれって」

犯人「ほうや、わしゃ鬼や。ええから明日までに、二億耳揃えてつくらんかい!」

ここで母親が受話器を取って「お金は用意しますから、何もせんといて!」と絶叫。

だが冷酷な犯人は、次は下の息子もさらうなどと脅し続ける。

言葉からして、犯人は自分たちと同じ奈良の人間、少なくとも関西の人間のようだ。

「お母さん何とかして!!」と、知世さんが電話の向こうで泣き叫ぶのを母親に聞かせた後、警察に言ったら必ず娘を殺すと言って電話が切られた。

「警察に言うな」と言わない誘拐犯はいない。

だからと言って、言われたとおりにするわけにはいかない森本夫妻は、知人の警察官を通じて奈良県警天理署に通報した。

二日目

天理署

通報により森本家に駆け付けた警察は、次の電話に備えて逆探知の準備を開始。

翌12月1日、奈良県警は天理署に「身代金目的誘拐事件捜査本部」を設置し、報道各社は人質の安全を考えて、事件解決まで報道を控える報道協定を結んだ。

そして森本夫妻は、犯人からの電話を待つ一方で、預金を解約するなどして、約2000万円の資金を集めていた。

この日の日中は犯人からの連絡は全くなく、ただ時間だけが過ぎるのを見守る状態が続く。

やがて日が沈んだ夕方6時、唐突に黒いレクサスに乗った男が、森本家を訪ねてきた。

それは、正成さんの顔見知りの石川卓己(仮名・27歳)という男である。

石川は不動産仲介業の会社を経営しており、仕事を通じてつい最近知り合ったばかりだ。

そして森本家を訪ねた要件は、ゴルフ場予約の代行の依頼だった。

のんきな男である。

こっちは愛娘をさらわれて、ゴルフどころではないのだ。

「森本はん、顔色悪いんとちゃいますか?」

などと言ってきたりして、そんなに長い付き合いでもないのになれなれしい。

かと言って娘が誘拐されているとも言えない正成さんは「今ちょっと立て込んでいるから」などとごまかして断ると、「そら、えろうすんませんでした」と、あっさりと引き下がって車に乗り込んで立ち去った。

その車には、もう一人見知らぬ若い男が乗っていた。

石川が去ってからほどない午後6時48分、犯人からの二回目の連絡が入る。

これには、母親の照子さんが対応した。

犯人「金どうなっとる?」

母親「今うちの人が集めてます」

犯人「それと、さっきの黒い車はなんや?警察やろ!?」

先ほど訪ねてきた石川を、警察官と思ったらしい。

そして、こちらを見張っていたようだ。

母親「ちゃいますよ!あれは主人の友達なんです」

犯人「約束破ったんと違うんか?コラ!」

母親「ホンマに違うんです!信じてください!」

最悪だ。

空気の読めない訪問者のおかげで、犯人は態度を硬化させてしまった。

次いで母親は「娘の声聞かせてください!」と懇願したが、電話は無情にも切られた。

通話時間は二分間で、逆探知には足りない。

しかし7時15分、犯人から再び連絡が来る。

犯人も金を手に入れたいのだ。

「お金ですけど、今、二千万あります」

今度も母親が出たが、要求金額の十分の一しかないことで犯人は「二億言うたやろ、そないなはした金いらん!」「家も車も売らんかい!」などとオラついた。

そして「さっき友達や言うとった黒い車の奴呼べや。警察とちゃうこと証明せい!」と要求。

また、二億円には遠く及ばないが二千万で妥協したらしく、「その友達に金を持たせてやな、お前んとこの親父の車に乗せい。三十分以内や」と一方的に迫って電話が切れた。

第三者を、現金の受け渡しに使おうという腹のようだ。

受け渡し場所などは、まずそれからということだろう。

だが正成さんは、犯人の言うところの友達である石川に連絡を取らなかった。

そして、三十分たった7時48分に、三度目の電話か来る。

犯人「約束守らんかい!さっきの奴早う呼べや!」

母親「ウチも行ったらあきまへんか?」

犯人「あかん!その友達たらいう奴だけや!」

犯人はやたらと石川にこだわり、一緒に行くと言い張る母親の頼みを拒絶して電話を切った。

午後10時24分、今度は知世さんの声で電話が入った。

知世「お母さん…早うして…」

母親「大丈夫。何とかしたるから、気強く持ちや」

知世「ウチもうダメ…殺される…」

母親「そないなこと言うたらあかん!なあ…もしもし?もしもし?」

今度も涙声で、かなり参っている様子である。

この日の電話はこれで最後であったが、警察は逆探知する以外にも捜査を進めており、その手は犯人に迫りつつあった。

決死の電話

12月2日になって、事件は三日目となる。

警察は、昨日夕方に森本家を訪問したレクサスの男、石川卓己の身元を洗い始めていた。

捜査関係者は唐突の訪問から、何やら怪しいにおいをかぎ取っていたし、犯人がその石川にこだわって金を運ばせようとしていることから、事件に関係している可能性が高いと見始めていたのだ。

そして、これまで泣いてばかりだった知世嬢も、この日の午後2時、思い切った行動に出る。

犯人が寝入ったスキをついて、内緒で森本家に電話してきたのだ。

知世「もしもし、お母さん?ウチ、今、内緒で電話しとんねん」

母親「ホンマに?犯人はその辺におらへん?」

知世「昼寝してはる」

母親「ほんなら、起こさんよう小声で話しいや。犯人は何人おるの?」

知世「わからへん。目隠しされとる。ずっと縛られとった」

母親「ひどいことされとらん?抵抗したらあかんよ」

知世「うん、それと、警察に言うてない?お金取れへなんだら、殺す言われとるの」

母親「大丈夫。何とかしたるから。もうちょっとの辛抱や」

知世「あ、起きたかもしれへん。切る」

こうして電話が切られたが、時間にして13分間。

知世嬢の決死の電話で森本家に張り込んでいた警察は、ついに逆探知に成功、発信源は奈良県磯城郡田原本町内であることを突き止める。

そしてその田原本町内には、石川卓己の経営する不動産会社『D開発』があった。

石川を最有力の容疑者と断定した奈良県警は、『D開発』を張り込み始める。

捜査は、大詰めを迎えようとしていた。

午後10時42分、現金の受け渡し場所を伝える犯人からの電話が入る。

今度は知世さんに電話をかけさせ、その後に犯人に替わった。

「とりあえずやな、11時15分に家を出え。親父の車でやぞ。そんで、郡山インターから…」

「もっとゆっくり言うてください。メモしとりますんで」

今度の逆探知は地点を絞り込んでいたので、どこからかけられているか完全に判明した。

場所は、まごうことなき『D開発』である。

張り込んでいた捜査員に犯人確保と人質救出の指令が下り、『D開発』に警官が突入、案の定犯人であった石川卓己を『D開発』の事務所内で逮捕した。

D開発

突入時、石川は森本家への電話をかけている最中であり、知世さんはその向かいのソファで、目隠しをされたままぐったりしていたから言い逃れはできない。

奈良県警は突入の前に、『D開発』から出てきた男を参考人として確保していたが、その男は大谷靖(仮名・20歳)という石川の会社の従業員で、共犯者でもあったことがほどなくしてわかる。

それは石川が森本家を車で訪問した際に、同乗していた男であった。

53時間ぶりに解放された知世さんは、突入した警官隊の中にいた女性警官に抱きかかえられて外に出てきたが、相当怖かったのだろう。

それまで溜めていたものを吐き出すかのように、頼もしい同性の胸で泣き続けた。

解放直後の知世さん

一方、犯人の石川は被害者宅に第三者を装って身代金を奪うという奇策を弄したが、それがかえってあだとなる形となったのだ。

犯行の手口と知世さんのその後

犯人の石川卓己と大谷靖
犯人の石川卓己と大谷靖

 

主犯である石川卓己は、もともと不動産のトップセールスマンで、会社を辞めてから『D開発』を創業。

しかし、事件の前年のバブル崩壊のあおりを受けて業績が傾き、二千万の負債を抱えて資金繰りが悪化していた。

そこで、金融業を営んで金を持っていそうな森本さんの娘を誘拐するという犯罪に手を染めてしまったのだが、森本さんに何度か借金を申し込んで断られたこともあり、その個人的な恨みも犯行の動機になった可能性が高い。

石川は従業員である大谷を引き込んで、誘拐を決行する三日前から知世さんを尾行していた。

知世さん本人によると、事件前に何度か後をつけられたり、見られたりしている気がしていたらしい。

近鉄二階堂駅

そして、事件当日の11月30日、最寄り駅の近鉄二階堂駅で、石川は白いレンタカーに乗って待ち伏せ、学校から帰ってきた知世さんを発見。

「ちょっと、お父さんのことで話がありまして、この書類をちょっと見ていただきたいんですよ」

などと声を掛けたところ、彼女は不注意にも車に乗り込んでしまった。

どう考えても、おかしいと思わなかったのだろうか?

車内に乗せてしまえば、こっちのものだ。

石川はナイフで知世さんを脅して粘着テープで後ろ手に縛りあげると、あちこち連れまわした後『D開発』に連れ込んで監禁。

脅迫電話は石川がかけ、大谷は監視役だった。

2日に、スキをついて電話をかけてきた際以降は目隠しだけだったが、それまで長時間縛られっぱなしだったため、彼女の手にはアザができていた。

知世さんは、手にアザができた以外にケガもなく無事生還したが、拉致されて縛られたうえに、命の危険にさらされて、あっけらかんとしていられるわけがない。

無神経にも、両親とともに記者会見に引っ張り出された知世さんは、終始顔を引きつらせっぱなしであったし、その後しばらくPTSDに苦しんだという。

記者会見

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冒険小僧たちを待っていたパキスタン犯罪組織の熱烈歓迎 ~91年・パキスタン早大生誘拐事件~

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。

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1991年3月、パキスタンを流れるインダス川をカヌーで下る旅行をしていた早稲田大学の「フロンティアボートクラブ」に所属する三人の早稲田大学の学生と現地ガイド一名が姿を消した。

早大生たちは春休みを利用して、インダス川とカブール川の合流地点であるアトックからアラビア海に面した同川河口のカラチまで、約1500㎞を三週間ほどかけてカヌーで漕ぎぬくという大冒険を計画。

2月中旬にパキスタンの首都イスラマバードに到着後、物資調達や訓練を経て3月4日にアトックを出発したのだが、カラチに到着予定の同月28日になっても姿を現さず、安否が心配されていた。

やがて4月になり、春休みが終わろうとしていた同月4日に、現地の日本大使館を経由して、外務省から最悪の事態の発生が公表される。

彼らは現地の犯罪組織に誘拐され、組織から多額の身代金と獄中の幹部の釈放を要求されていたのだ。

だが、これは必然的な結末でもあった。

早大生たちが通過する予定だった場所は、誘拐事件が年間千数百件発生する危険地帯であり、彼らが出発前の情報収集のために通っていた現地の大使館の職員からは、中止するように説得されてもいたからだ。

彼らは、幸運にも生還することになるのだが、その平和ボケの極みともいうべき愚行は、その後大いに非難を浴びることとなった。

ヌケまくった冒険計画

当初のメンバー

誘拐された早稲田大学の学生は、同大学教育学部の大浜修一(仮名・当時20歳)、教育学部の斎藤実(仮名・当時19歳)、政経学部の高原大志(仮名・当時20歳)の三人である。

彼らが所属する早稲田大学の「フロンティアボートクラブ」は、ラフティングというゴムボートでの激流下りを中心に活動しており、1967年の設立以降インドのガンジス川やタイのメナム川を下ったり、ゴムボートの大会では四回優勝するなど伝統も実績も有したサークルだ。

インダス川

そんな気合いの入ったサークルに所属していた大浜たちだったからこそ、インダス川の川下りという大それた冒険を実行に移したのだが、その準備と見通しはあまりにずさんだった。

それは、川下りに出発する前の早大生たちに現地で出会った日本人女性ジャーナリストの証言によって明らかになる。

1991年の2月中旬、取材のためにパキスタンの首都イスラマバードを訪れた同ジャーナリストは、パキスタン人の夫を持つ日本人女性が経営する宿にチェックイン。

その宿に、たまたま誘拐されることになる早大生たちが宿泊しており、他の宿泊者らも交えて彼らと話をするようになった。

一見して頼りなさそうな青年たちだという印象を持った彼女だったが、話していて仰天したのが彼らのやろうとしていたインダス川の川下りの計画だった。

それは冒険というより、自殺行為に近い暴挙だと思ったからだ。

彼らが行こうとしているインダス川のうち、下流のシンド州流域は、日本より総じて治安の悪いパキスタンの中でも指折りの危険地帯であり、自動小銃などで重武装した「ダコイト」と呼ばれる犯罪集団が60団体以上跋扈し、誘拐や強盗事件が横行する現地の人間ですら恐れる場所なのである。

彼らはそのことを全く知らず、どんなレベルの危険か、全く想像がつかない様子だったという。

おまけに服装も襲ってくださいとばかりに派手な新品であり、インダス川の航行には、パキスタン観光省の許可証が必要であることも知らなかった。

外見を大きく上回る大甘ぶりである。

この時点で、後に誘拐されることになる三人以外にも一緒に川下りをするはずだった教育学部の臼井誠二(仮名・当時20歳)がいたが、臼井は、この話を聞いて賢明にも計画の中止を主張。

だが「逃げんのか?」「ここまで来たら行くしかねえだろ」「危険な方がスリリングじゃねえか」と、他のバカ三人が耳を貸さず、結局臼井だけが断念して日本に帰国することになった。

そして彼らは、現地の治安について無知だっただけではない。

物資の補給についての見通しも甘く、辺鄙で商店など一軒もない流域が多いにもかかわらず、十分な食料を調達していなかった。

また彼らが、これから始まる冒険に備えてトレーニングをしているところも女性ジャーナリストは見ていたが、普段から鍛えていないのが見え見えだったし、ゴムボートを専門としている彼らは、カヌーの漕ぎ方があまりにもぎこちなかったらしい。

かように大浜たちは準備も計画もあまりに痛々しかったが、腐っても天下の早稲田大学の名門サークル「フロンティアボートクラブ」所属の学生である。

今回の川下りに際して、そのブランド力を利用して光学機器メーカーのニコンや出版社である集英社を抜け目なくスポンサーにつけ、機材などを援助してもらっていた。

そのためにも、後には引けないという思いがあったのかもしれない。

だとしても、絶対するべきではなかった。

イスラマバードでの滞在中、自殺行為だと確信していた宿の女主人とジャーナリストは、あの手この手で出発を断念させようとしたし、情報収集のために再三訪れた日本大使館の職員にも、中止するように説得されていた。

だがこの愚行は、パキスタン観光省が渋々ながらも許可証を出してしまったこともあって強行される。

そして、この「冒険ごっこ」はスポンサーになってくれた二社に対するものより、はるかに大きな迷惑を日本・パキスタン両国政府にかけることになったのだ。

シンド州で待っていた案の定の展開

マップ

自動的に生成された説明
アトックの場所

臼井が帰国してしまい三人となったが、早大生たちは現地ガイド一名も加えた四人で、予定通りイスラマバードから近いパンジャーブ州アトックを3月4日に出発した。

一行は当初順調に川を下って南北に長いパンジャーブ州を南下。

途中、パキスタン警察の検問を何度か受けるが、観光省の許可証があるので、それも難なく通過した。

夜になると、岸辺にカヌーをつけてテントを張って宿営地としながらシンド州に入ったのは3月16日。

コンピューターの画面のスクリーンショット

自動的に生成された説明
グッドゥ

このシンド州に入ってすぐにグッドゥ(Guddu)という街があり、彼らはそこを停泊地としてレストハウスに宿泊した。

地図上で見たら目的地のカラチまではあとわずかだが、ここからが厄介である。

なぜなら、このシンド州のインダス川流域こそ、犯罪組織ダコイトが出没する危険地帯だからだ。

とはいえ、彼らが泊ったレストハウスの主人は非常にフレンドリーで、はるか遠方の日本からやってきた若者たちを大歓迎。

しかも彼らがこれから向かう先を知るや、心配してダコイトが出没しない安全なルートをこと細かく教えてくれた。

親切な人だ!そして、さすが地元の人間!

よそ者の大浜たちはそのルートを取ることを即決し、明日からの冒険に備えて久々のベッドに入った。

しかし、彼らはすでにこの時点で、ダコイトに捕捉されていた。

どの国でもそうだが、裏社会の組織というものは、強大な情報網を有している。

パキスタンのダコイトも、ご多分に漏れずそれを完備していた。

誘拐や強盗のターゲットを探知するために、そこら中にシンパがおり、彼らのもたらす情報は、逐一構成員の元に届けられていたのだ。

そして、その情報網の一角を、このレストハウスの主人は担っていた。

主人は、金持ち国日本からの最上級のカモの出現と、その行先を迷わず自身の所属する組織に報告。

しかも、安全だと称して早大生たちに教えたルートは、ダコイトが待ち受けるのに都合のよい場所であり、それも併せて伝えたことは言うまでもない。

翌日、グッドゥを出発して、馬鹿正直にもダコイトのシンパの提示した水路を進んだ一行は、まんまと網にかかり、準備万端待ち構えていたダコイトの大歓迎を受ける。

それは、グッドゥを離れて一時間ほどのことだった。

左岸から自動火器の連射音が聞こえたかと思ったら、うち何発かが至近をかすめたのだ。

「ヤバい!!」

早大生らは、たまらず右岸へカヌーを漕いで逃げたが、そこにもダコイトの一員と思われる者たちが、ショットガンを構えて待ち構えていた。

手慣れた連係プレーである。

すっかり腰を抜かした一行は、抵抗どころか逃走も断念してホールドアップ。

ダコイトに捕獲されてしまう。

ちなみに、彼らが捕まった地点は観光省に許可されたルートから大幅に外れていた。

こうして、インダス川の川下りより、はるかにスリリングで生きた心地すらしない日々が始まった。

最上級人質

ダコイトに捕まった早大生たちは、インダス川のほとりの森の中にある掘っ立て小屋に連行された。

アジトのひとつで、さらった人間を監禁するための施設である。

このような拠点は他にもあり、その後監禁場所が数回変わったという。

とはいえ、さらった人間の身体の一部を切り取ったり、殺すことも平気だと恐れられるダコイトだが、大浜たちに対する待遇は、そんなに悪くなかった。

朝昼晩ちゃんと食事を出してくれたし(むろんカレー)、歯ブラシやトイレットペーパーなどの生活必需品も支給され、暴行を受けることもなかったらしい。

また、鎖でつながれたり閉じ込められたりも一切なく、監視付きだが近所を散歩することもできた。

彼らは「松竹梅」のうち、間違いなく最上級の「松」の部類に入る人質だったからだ。

まだ金持ち国だったころの日本から来た日本人だから、たんまり身代金が見込める。

交渉がまとまるまで、死なせてはならない。

ゲストに近い人質であり、体調を崩して体重が落ちることもなかった。

一方で「松竹梅」のうち、「梅」にも入らないとみなされると、こうはいかなかったようだ。

ここには早大生以外にも、他の場所でダコイトに捕まった一般のパキスタン人たちが何人かいたが、人質のランクとしては序の口とみなされたらしく、足かせをはめられてムチやこん棒などで、さんざん暴行を加えられていた。

これが、ダコイトたちによる本来の人質の扱い方であったのであろう。

また、それを大浜たちに見せつけることで、恐怖心を植え付ける効果もあったようだ。

そして、ゲストのように扱いながらも、絶妙のタイミングで早大生たちを「身代金の支払いが遅れたら殺すからな」と脅したりして、巧みに心を折って自分たちのコントロールに置く。

本当かどうかは分からないが、冒険家を自称する彼らは、このダコイトのアジトから脱出する計画を練っていたらしいが、常に銃を持った手下たちが抜け目なく見張っていたために、断念したという。

計画性を著しく欠いていた彼らだったが、自分たちがインディージョーンズではないことくらいは分かっていたのだ。

こんな生きた心地のしない生活がいつまで続くのか?と思った早大生たちだったが、捕まってから六日後の3月22日、三人のうち、高原大志だけが解放される。

ダコイトの要求を、日本大使館に伝えさせるためだ。

後に判明したことだが、日本大使館に早大生を誘拐したことを手紙で知らせたのに何のアクションもなく(郵便事情が悪くて届いていなかった)、そのために、致し方なくメッセンジャーとして選んだらしい。

高原は、その足でパンジャーブ州へ向かって、翌23日に同州内の地方都市から日本大使館に電話し、迎えに来た大使館員に保護された。

イスラマバードの日本大使館は、翌月の4月4日に、誘拐事件発生を公表した。

人質解放交渉

外務省は4月4日に、早稲田大学の学生三人が誘拐されたと発表したが、ほどなくして、高原大志が解放されたことを補足。

高原は、残る二人の解放交渉のために必要とみなされたために現地に残る。

この頃には、パキスタンのシンド州政府を中心に、人質解放のための行動は起こされていた。

州政府は対策本部を州内の都市サッカルに設け、地元の有力者を仲介者に立てて早大生をさらったダコイトの組織と交渉を始めた一方で、5日には特殊部隊を投入して、強行救出作戦を行ってダコイトのアジトを強襲するなど、硬軟織り交ぜた対策で臨む。

文字の書かれた紙

自動的に生成された説明

犯人側の要求は身代金1000万ルピー(当時のレートで6千万)と投獄されている仲間の釈放という法外なものであったため、交渉は紛糾。

早大生たちがいる場所は、シンド州と隣のバルーチスターン州の州境あたりにいるのではと思われたが、強行作戦を続行し続ければ人質に危害が及びかねない。

そのために交渉による解決が図られ、仲介者を介しての人質の解放条件などの交渉は続いた。

4月12日には、犯人側との合意に達したと地元警察が発表し、人質の解放も近いと思われたが、その二日後に解放されたのはパキスタン人のガイドのみ。

ガイドは「警察が動いたら人質を殺す」というメッセージを持たされていた。

その後、犯人側が態度を硬化させて、交渉が中断するなど暗雲が立ち込めた時期もあったものの、粘り強い交渉を続けた結果、残る早大生二人の解放への道筋は整ってきてはいた。

このころまでに多くのパキスタン軍・警察関係者が動員され、日本人が誘拐されたことも地元で大きく報じられるようになっており、20日には、当時のパキスタン首相ナワーズ・シャリーフが「パキスタンに汚名をもたらした事件の解決に全力を挙げる」と記者会見で異例の声明を発表。

パキスタン政府としては、不手際を犯して最大のODA供与国・日本との関係を悪化させるわけにはいかなかったのだ。

そして誘拐されてから44日目の4月30日、最終的な合意をしたダコイトは二人を解放した。

解放された二人

交渉は主にパキスタン側が引き受けていたために、その合意に至った条件の詳細な内容は公表されていない。

だが、パキスタン側は否定しているとはいえ、100万ルピー(600万円)ほどの現金が支払われたとの見方がされている。

イタい冒険者たちの帰国

解放された早大生二人は、解放現場のシンド州インダス川流域から車で、川下りの目的地だったカラチに到着。

在カラチ総領事館に入ってから、シンド州警察の事情聴取や健康チェックなどを受けた後、先に解放されていた高原とともに、5月4日に日本に帰国する。

身内や大学のサークル仲間及び関係者らはもちろん安心したが、世間は彼らを無謀で軽率な行動をして、日本・パキスタン両国政府に迷惑をかけたと批判的な見方が一般的だった。

記者会見では、ねぎらいの言葉よりも厳しい質問が多く、三人は『関係者に大変な迷惑をかけ、反省している』『身代金は払われていないと聞いているが、もし払われていたら働いて返す』と、神妙な面持ちで答えて頭を下げた。

記者会見する三人

だが、本当に心の底から反省していたかは疑わしいと世論は見ていた。

「悪気があってやったわけじゃないのに何で?」という怒られた時の子供のような顔をしているように世の人々の目には映っていたのだ。

早大生の行動に批判的な報道が多かったし、帰国前、彼らはカラチの総領事館でマスコミに『我々がやろうとしたことを理解してほしい』など書いたメモを渡したことも新聞で報道されたりと、その無責任さを糾弾する空気も作り出されていたのが大きい。

彼ら早大生が乗っていた飛行機には偶然、後にアフガニスタンで医療活動や用水路建設で活躍することになる医師・中村哲氏が乗っており、彼らの態度を見続けていた中村氏は、後に新聞記事で『空港での賑々しい記者会見で英雄気取りの態度に、軽蔑の思いで唾の一つでもかけたくなったものである』と憤激。

『パキスタン政府の面目を実質上潰し、日本の恥をふりまいて、意気揚々と帰国した』とまで罵倒している。

中村哲氏

さらに、記者会見での『これからも川下りを続けるか?』という質問に対して、天然ボケと受け取られるような言葉を吐いて世間を完全に敵に回す。

『どこが悪かったかを、しばらく考えて決断したい』などと、人によっては「これにめげずに冒険を続ける」とも解釈できる発言をしてしまったのだ。

それによって、彼らはさまざまなバッシングを受けることになってしまった。

悪気があってやったわけではないのは事実だろうが、計画性のなさと、見通しが甘すぎたのも事実である。

20歳くらいの年代ならば、このような経験と思慮のなさゆえに失敗することは十分ありうるが、彼らはそれを海外でやってしまい、結果的に国際的な大騒動に発展してしまったのだ。

誰にでもある若さゆえの過ちの代償は、人によって、或いは場合や状況によっては、とてつもなく大きなものとなりうる。

バッシングを受けた日々は、ダコイトに監禁されることには及ばないだろうが、耐え難い苦痛だったことだろう。

やがて月日は流れて、世間の早大生たちへの怒りも冷めてゆき、彼らも誰にも知られることなく卒業して社会に出た。

事件が全く語られなくなった現在、誘拐された早大生の一人だった大浜修一は、フリーランスのカメラマンとなって活躍している。

卒業後は某出版社に就職し、専属のカメラマンを経てから独立したらしい。

自分たちを叩いたマスコミの世界に、果敢に入っていったのである。

若き頃にパキスタンでは大失敗したが、少なくとも彼は、日本国内において冒険を続けていたといえるのではなかろうか。

出典元―読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、週刊文春

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軟弱日本人大学生に白人至上主義者の洗礼 ~90年・デンバー日本人大学生襲撃事件~

本記事に登場する氏名は、一部を除き、全て仮名です。

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1990年10月7日深夜、アメリカ合衆国コロラド州デンバー市のダートマス公園。

六人の日本人大学生が現地の若者四人に襲撃され、暴行を加えられた上に金品を奪われる事件が起きた。

当時の日本はバブル期真っただ中。

日本経済は最盛期であり、有り余る金と強い円を背景に、人も企業も海外に進出していた時代である。

同時に、安全な日本と同じ感覚でふるまって犯罪者の恰好の餌食になる邦人が後を絶たず、危機管理の意識の低さが指摘されてもいた。

この災難に遭った六人の若者も、その無自覚な日本人の典型例であることは間違いがなく、彼らのケースは「こうなってはならない」という悪い見本として、その後しばらく語られることになってしまった。

日本人ばかりのアメリカの大学

帝京ロレットハイツ大学(現コロラドハイツ大学)

襲われた日本人大学生たちは、同デンバー市のサウス・フェデラル・ブルーバードにある帝京ロレットハイツ大学の学生たちである。

帝京ロレットハイツ大学とは、その名のとおり日本の私立大学である帝京大学の系列であり、もともと経営難で破産したカソリック系の学校を受け継いだリージス大学から、前年の1989年に買収したものであった。

「国際化」が叫ばれ始めた80年代後半から日本の私立大学の米国進出が相次いでおり、帝京大学もその波に乗ったのだ。

同大学はこれ以後、デンバーの同校と合わせてアメリカに系列の大学を五校も開校させることになるのだが、この帝京ロレットハイツ大学は、他の四校とはやや違った点があった。

それは、建物と土地は揃っていたが、肝心の教授や教員、清掃や事務担当の職員などもおらず、何より、元からそこに通っている在学生がいなかったことだ。

そこで、買収の翌1990年に開校して、新入生の受け入れを始めたのだが、何と帝京大学はその新入生を全て日本国内から募集し、その数は374名にものぼった。

そして、この学生たちの多くは、アメリカの大学に来たからと言って、英語力も目的意識も高い者たちではなかった。

帝京大学を受験した受験生の中で、第二志望として、同じ帝京大学系列の同ロレットハイツ大学を希望するかという試験中に回ってきた書類に〇をつけた結果、ここへ入学することになった者がかなりいたのだ。

つまり、そういった新入生は、第一志望がこのロレットハイツ大学というわけではなく、日本国内の帝京大学に落ちた結果、アメリカまで来ることになったということである。

中には、そこしか合格できなかった者もいたようだ。

しかも、同校の教授陣やスタッフはアメリカ人とはいえ学生は日本人ばかりと、まるで日本国内の大学であるかのようであり、彼らも、日本にいるかのようにふるまうようになった。

もちろん、友達はみな日本人で、いつも話しているのは日本語である。

彼らが現地入りしたのは4月で、9月の本入学まで時間があり、それまで他の州へ研修に出かけたりと、みっちり英語のトレーニングを受けさせられていた。

しかし、元々のレベルがたいしたことなく、周りが日本人ばかりの環境では、どの程度向上したか推して知るべしであろう。

事実、本入学から学校での授業は全て英語だったが、学生たちのほとんどは、その内容を理解できなかったという。

どう考えても、アメリカの大学に来た意味がほとんどない。

もっとも、学校の外は完全にアメリカの街であり、ずっと学内や寮に閉じこもっているわけにもいかない学生たちは、最低限街に出る必要はあった。

だがこのデンバー市は、アメリカの中でも治安がかなり良い街であり、開校前にも地元住民たちによる露骨な反対運動なども起きておらず、街に金を落としてくれると、同市は帝京大学の進出を表向きは歓迎していた。

おかげで、彼ら日本人学生も街中で、受験から解き放たれた解放感をたいして危険な思いをすることなく、味わうことはできたようである。

しかし、この1990年は、国内経済が低調だったアメリカの不動産や企業などを日本企業が買いあさっていたこともあって、アメリカ人の間でやっかみ半分の「ジャパンバッシング」が起こっていた時代だった。

グラフィカル ユーザー インターフェイス, テキスト

自動的に生成された説明
ジャパンバッシング

この一見友好的で平穏そうなアメリカ中西部の街にも、金にモノを言わせて大挙してやって来た日本人たちに反感を募らせ、それを行動に移す者たちはいたのだ。

帝京ロレットハイツ大学は、その年の開校早々、学校の敷地内に「ジャップス・ゴーホーム」と書かれたダイナマイトに似せた発煙筒が投げ込まれたり、学生の中には、白人の若者に怒鳴られたり、モノを投げつけられたりの嫌がらせを受ける者も出はじめた。

正式な授業が始まって間もない9月30日には、不用意にも深夜に外出した日本人学生二人が殴られて所持品を奪われる事件が起きているが、これは表沙汰にならなかったこともあって、他の日本人学生たちの危機意識を高めることにはならなかった。

そして翌月の10月7日深夜、これらノー天気な日本人学生たちばかりか、日本本土の日本人まで凍り付かせる事件が起こる。

1990年10月7日、事件発生

その前の日の10月6日は日本人学生の一人、小松善幸の20歳の誕生日。

それを祝って小松の友達の高石健、永田真也らが学校の寮の一室で飲み会を開いていた。

若者たちの飲み会なので、日が変わった夜12時になっても、宴たけなわでお開きになる気配がなかったが、ここは大学の寮である。

寮には「クワイエットタイム」という、騒いではいけない時間帯が規則として設定されており、いつまでもはしゃぎ続けるわけにはいかないのだ。

そこで、まだまだ飲み足りない彼らは、大学のすぐ近くのダートマス公園で飲もうということになり、寮を次々に抜け出した。

もちろん、この行為も寮の規則に違反している。

ダートマス公園(現ロレット・ハイツ・パーク)

彼ら日本人学生たちにとって、誰かの誕生日などは適当な居酒屋もカラオケボックスもないデンバー市では、恰好の憂さ晴らしだったのだろう。

規則を破って公園に集まったのは、30人近くにも上った。

学生たちは、園内の街灯の下に集まって「二次会」を始めた。

バンドをやっている高石の仲間の永田が、持参してきたギターで演奏を始め、酔いが回っていた学生たちも、カラオケ替わりに歌い出す。

デンバー市が、いくらアメリカでも治安の良い街とはいえ、真夜中の公園で飲み会とは無警戒極まりない。

しかし、学生たちは以前にも、他の学生の誕生日を祝って深夜のダートマス公園でこのように騒いだことがあり、今回が初めてではなかった。

しばらく飲んだり歌ったりのどんちゃん騒ぎをしていたが、高原都市デンバーの夜は10月初旬でも冷える。

やがて、大勢いた学生たちも一人二人と寮に引き上げ、残ったのは、今回の飲み会の主役である小松善幸、その友人の高石健、永田真也、矢萩芳樹、前原健吾、久木田恵一の六人のみとなった。

彼らは朝まで騒ぐつもりだったようだが、六人になってほどなくして、自分たちのすぐ近くに人が来ていることに気づく。

寮からの新たな参加者ではない。

現地の白人の若者たちで、全部で四人いる。

そのうち一人の長髪で2m近くの長身の男が口笛を吹くと、彼らは、小松たちを囲むような配置を取った。

その様子から、お友達になりに来たのとは逆であることが明らかであり、おまけに手にバットを持っている。

そのバットの用途は、状況から考えて容易に察しがつく。

相手は自分たちより少人数だったが、どいつもこいつも自分たちより強そうな白人の男たちを前に、肝っ玉の小さい日本人学生たちは震えあがった。

日本の街中で、ヤンキーに絡まれるよりずっと怖い。

「Show me your fukking ID!!」

やがて、そのうち一人の口ひげを生やした男が、IDを見せるように高飛車に命令してきた。

「アイドントハーブアイディー、ビコウズ…えと、えと…」

寮からそのまま出てきたので、IDなど持っているわけがない。

最初、その招かれざる客が公園の警備の人間か何かだと思った学生もいたようだが、続けて白人の一人が金を要求するようなことを言ってきたのを聞くや、誰もがこれはおかしいことに気づく。

彼らの貧弱な英語力でも、これがカツアゲそのものの脅しであることはわかったのだ。

「なあ、これやばいんちゃう?もうずらかろうや…」

六人のうち、矢萩が高石にボソボソとささやいたが、すでに遅い。

もう完全に囲まれてしまっていたのだ。

「Lay down!!」

次に、男たちは腹ばいになれと命令し、永田の持っていたギターを取り上げて破壊した。

呆然と突っ立っていた日本人のうち、前原が長髪の男につかまれて、もう一人の白人に、バットで太ももをはたかれて倒れ込む。

本格的な暴力に震えあがった根性なし六人は、一斉に言いなりになった。

腹ばいになった直後、まず最初に思わず顔をあげた永田がバットで頭を殴られ、それを合図に、他の者たちに対しても仕置きが始まった。

頭を殴り、思わず手で頭を覆うと、すかさずガラ空きの脇腹にバットがジャストミート。

起き上がろうとしようものなら背中に渾身の打撃を加えられ、かと言っておとなしく腹ばいになっていても、連続的にバットの一撃が降ってくるなど、小癪で無慈悲な攻撃が加えられた。

白人の襲撃者たちは、暴行しながら学生たちのポケットを探ったりして、財布やら金目の物を盗ってゆく。

小松は、指にはめていた指輪を先ほど口笛を吹いた長髪の大男に要求されたために、あわてて抜こうとしていたが、まごつき、イラついた長髪野郎に顔を蹴り上げられた。

しかしこの時、四人で六人の相手をしていた襲撃者たちにスキができる。

それを見ていたのか、高石が起き上がるや、公園の外へ向けて走り出す。

さらに、白人たちがそれに気を取られたのに乗じて、矢萩、永田、久木田が逃げ出し、一呼吸遅れて、小松と前原もそれに続いた。

白人たちも追いかけてきたが、てんでバラバラの方向に逃げる日本人学生の誰を優先的に追跡するかまごついたらしく、誰一人捕捉することができない。

逃走中に小松は公園を抜けて通りに出たところ、停車しているパトカーの存在に気づく。

中には警官が乗っており、何か書類を書いている。

助けを求めようと、パトカーのボンネットをたたいたら警官が出てきたが、何と警官は小松を捕まえようとしてきた。

不審者だと思ったようだ。

だが、小松には状況を説明できるような英語力はなく、公園を指さしてとっさに出たのは「向こう!向こう!」という日本語だった。

アメリカで半年間、何をやっていたのだろうか。

その後、小松は一瞬あっけにとられた警官をも振り切って寮に駆け込むことに成功したが、殴られた頭からは流血していた。

他の高石たち五人の学生も、ケガを負いながら逃走に成功していたが、彼らはこの件が表沙汰になることを恐れ、警察に通報することなく部屋に閉じこもる。

アメリカでは、法律で21歳以上でないと酒が飲めず、彼らは皆現役か一浪だったために、その年齢に達している者はいなかったからだ。

また、寮の規則を破って真夜中に公園に行っていたことも具合が悪い。

だが、逃げた小松を追って寮内に入ってきた警官たちに詰問されて、隠し通すことは不可能になる。

ともあれ、全員が負傷していたので、その夜は救急車で病院に運ばれた。

その後

バットまで使った暴行を加えられた彼らだったが、幸いにも頭部裂傷や打撲を負ってはいても命に別状はなく、骨折などの重傷者もなかった。

だが、この事件は被害者の思惑とは裏腹に大いに表沙汰になってしまい、日本国内でも報道されてしまう。

この事件は、当初から日本人に反感を持つアメリカ人によるヘイトクライムではないかと日本国内では予想されており、アメリカの暗部の恐ろしさを、国内の日本人に大いに知らしめた。

同時に、真夜中の公園に出かけて騒いでいた日本人学生の軽率さにも非難の声が上がる。

その声は、特にアメリカ在住の日本人や日系人からのものが大きかった。

さらには学生たちだけでなく、アメリカ国内に開校した学校に日本人だけを受け入れたおかげで反発を招いたとして、帝京大学を批判する人も少なくはなかった。

一方、現地のデンバー市警も、この事件はヘイトクライムである可能性があるとして捜査を開始。

その結果、一か月後の11月にロレットハイツ大学の近所に住むジェームス・クロース(実名・当時18歳)、ハワード・クロース(実名・当時17歳)、デリック・ニース(実名・当時15歳)、トム・スティーブンス(実名・当時20歳)を、事件に関係したとして逮捕した。

新聞の記事のスクリーンショット

自動的に生成された説明

これらの犯人のうち、ハワード・クロースは主犯のジェームスの弟で、同じくこの事件の犯人であるデリック・ニースとともに、直前の9月30日に起こったロレッタハイツ大学の日本人学生の暴行にも関与しており、9月の事件の捜査で容疑者として浮かび上がった結果、この事件にも関わっていたことが判明して、犯人全員が御用となったようだ。

犯人たちは不良少年グループであり、日本人学生を暴行する直前には、駐車していた車を破壊している。

そして、ジェームスとハワードの兄弟は、白人至上主義者との関わりを周囲に吹聴し、普段から公然と日本人のことを「ジャップ」と呼んで嫌悪していた人種差別主義者でもあった。

日本の報道では、彼らが白人至上主義の秘密結社であるKKK(クー・クラックス・クラン)の関係者の可能性を指摘していたが、実際はスキンヘッズなどの団体の名刺をもらってはいても、有色人種襲撃などの目立った武勇伝を持っていないジェームスたちは、当の白人至上主義者から軽んじられていたらしい。

そんなジェームスらが日本人を襲ったきっかけは、全くの偶然だった。

それは、犯人グループ四人に少女二人を加えた六人が、その夜にビールを飲んだ後にドライブに出かけ、途中他のグループに喧嘩を吹っ掛けられたことから始まる。

相手は人数でかなわぬとみたらしく退散したが、彼らのむしゃくしゃは収まらず、家に帰ってバットやこん棒を車に積み込むと、誰でもいいから殴るつもりで、再び出かけたのだ。

事件の舞台となったダートマス公園の近くまで来た時、駐車していた車をうっぷん晴らしに破壊した後、彼らは園内から響く騒ぎ声を耳にした。

「あいつらをやろう」

まだまだ暴れ足りないジェームスたちの次なるターゲットは決まった。

彼らも、よくこの公園で夜中にビールを飲んだりして騒いだことがあり、「誰だか知らねえが、オレらの縄張りで勝手なことしやがって」という気持ちもあったんだろう。

公園内で騒いでいるのが何者か、まだこの時点ではわからなかったが、女たちを車に残して、四人はぶちのめす気満々でバットやこん棒を手に園内に入って行き、同暴行事件が起きることになる。

日ごろから嫌っているジャップが相手だとわかり、相手の中に抵抗してくる気合のある者がいなかったこともあって、ジェームスたちは大張り切りで、やりたい放題やってしまったのだ。

主犯のジェームスは警察の取り調べで、日本人に因縁をつけて暴行したのは、主に弟のハワードとデリックであり、自分は暴行にバットなどを使っていなかったし、自分が暴行に参加したのは、日本人に殴られたためだと主張。

しかし、このジェームスは長髪に195cmの長身という特徴があり、被害者の学生たちの証言で出てきた口笛を吹いて他のメンバーに指図したり、小松の顔を蹴り上げて指輪を奪ったりの大活躍をした、まさにその人物であったことは言い逃れようがなかった。

そして開き直ったのか、警察でのビデオ撮影付きの事情聴取ではふてぶてしい態度を取り、「ジャップ」という差別用語を何度も使い、白人至上主義者との交流をここでもほのめかした。

だが、この態度と供述で、ジェームスは墓穴を掘ったことになる。

アメリカは、人種差別がらみの犯罪には厳しい国だ。

ジェームス・クロースは、くだんのビデオでの供述の結果、翌年1991年5月の裁判において、ヘイトクライムの他、加重強盗、第二級暴行罪などで有罪になり、下された判決は何と懲役75年。

求刑の際には、自分の予想をはるかに超えた刑期だったことに動揺し、195cmという無意味に大きな体をくねらせて慟哭したという。

弟のハワード・クロースも、犯行当時17歳であったが成人と同じように裁かれ、ヘイトクライムで悪質極まりなかった犯行に積極的に加担したこともあって、兄と同じ懲役75年を下された。

デリック・ニースは、犯歴を重ねた本格的な不良少年であり、学生たちにIDを見せろと命令したり、暴行にも大いに参加していたが、15歳という年齢から少年裁判所で裁かれ、刑期はたったの2年だった。

トム・スティーブンスは、最年長の20歳だったが、犯行にはあまり関わっていなかったとみなされ、裁判で証言をすることを条件に司法取引し実刑を免れた。

一方の被害を受けた学生たちのうち、小松、高石、前原、久木田は、その後も大学に通い続けたようだが、永田と矢萩は退学して日本に帰ってしまった。

日本は事件の翌年、バブルがはじけて失われた時代が始まり、もはや我が者顔で日本人が海外をのし歩ける時代ではなくなっていったが、帝京ロレットハイツ大学はコロラドハイツ大学へと校名を変更し、帝京大学グループのうちの一校として、現在も存続している。

そして、この事件は、その後しばらく、これから海外へ出ようとする日本人に対する警鐘を鳴らすものとなった。

しかし、その警鐘は長く響かなかったか、聞こえても耳を素通りしていた者がいたようだ。

翌1991年のパキスタンを舞台に、この帝京ロレットハイツ大学の大学生を、はるかに上回る軽率さと身勝手さで、より大規模な犯罪に巻き込まれる日本人大学生が現れるのである。

続く

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2022年 Apple ガジェット コンピューター バックアップ 自動化

MacOS の Time Machine がうざいので設定を変えたい

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MacOS に標準で搭載されているバックアップアプリに、「Time Machine」があります。

標準で付いてくるアプリなのですが、必要最小限の機能はちゃんと搭載されており、非常に便利なアプリです。バックアップは、ちゃんと取っておかないと、何かあった時に泣くのは自分ですからね。

でもこのアプリ、やり過ぎなんです。1時間に一度バックアップを走らせてます。昼間に仕事している時にでもバックアップが走ります。かといって、自動バックアップを止めて手動で行うと、これはこれで面倒です。

そして、自動バックアップのバックアップ間隔の変更とかができないです。

これが不便に感じて、設定変更できるツールってないのかなと思って探したら、ありました!「TimeMachineEditor」です。

ここからダウンロードできます。

TimeMachineEditor のインストール

ダウンロードしたPKGファイルを、ダブルクリックしてインストールします。

インストーラー画面が表示されますので、画面に従って進めていきます。「続け」るをクリックして進みます。

Macへのログインパスワードが求められたら、パスワードを入力します。「ソフトウェアをインストール」をクリックして進みます。

これでTimeMachineEditorのインストールは完了です。非常に簡単ですね。

TimeMachineEditor の起動と設定

早速、TimeMachineEditorを起動してみましょう。

アプリケーション一覧からTimeMachineEditorを探して、打プルクリックで起動します。

まず「Back up」のチェックボックスにチェックを入れます。

その隣のプルダウンメニューをクリックしてみると、「不使用時」「インターバル」「カレンダー」の3つが選択できることが分かります。

不使用時の設定

ここでは、Time Machine のバックアップを使用したくない時間を指定することができます。

  • Do not back up from
    • 指定した何時から何時までの間はバックアップを行わない
  • Don’t backup when an app prevents display sleep
    • アプリがディスプレーのスリープを妨げる場合、バックアップを行わない
  • Don’t backup when an app prevents system sleep
    • アプリがシステムのスリープを妨げる場合、バックアップを行わない
  • Don’t backup when not wired to the network
    • ネットワークにケーブル接続されていない場合、バックアップを行わない
  • Create local snapshots every hour
    • スナップショットを毎時、ローカルに作成する

私の場合ですと、朝の9時から夜中の12時まではパソコンを触ることが多いので、この時間を指定して、バックアップ処理が走らないようにしています。つまり、バックアップは、夜中の12時から朝の9時までの間に処理するということです。

インターバル

ここでは、バックアップの間隔を指定することができます。

具体的には、何時間ごと、何日ごと、何週間ごとと単位で指定ができ、「1」以上の整数を入力していきます。

私の場合は、1日に1回のバックアップを取得するように設定しています。

カレンダー

ここでは、カレンダーを使って、バックアップを処理する曜日をや時間を指定できます。

「+」を押していくことで、複数の設定を行うことができます。

ちなみに私の場合は、毎日バックアップは取得しておきたいので、この機能は使用していません。

最後に、「適用」を押して設定を完了させます。

設定の適用

「適用」ボタンを押すと、こんな画面が表示されます。

実は、これが非常に重要です。

肝心なところが英語でしか表示されていないので見逃しがちなのですが、

Please make sure to disable automatic backup in System Preference in order to turn off the system scheduler.

です。

つまり、標準搭載されているTime Machineの設定で、自動バックアップを停止する必要があるのです。

この画面の左側にある「Back Up Automatically」のことです。

私はこれを読んでおらず、この自動バックアップのチェックボックスにチェックを入れたままにしてましたので、TimeMachineEditor で指定した間隔でのバックアップが行われず悩んでました。

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2022年 AWS AWS Solutions Architect - Associate クラウド コンピューター 技術一般 認定資格

AWSを学ぶ(25)VPCエンドポイントを理解しよう

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例えば、S3 や DynamoDB などといったサービスは、インターネットから直接利用できる、VPC 外の AWS サービスとなります。

これらへのアクセスは、VPC 内の AWS リソースからインターネットゲートウェイを経由して通信します。つまり、通信がインターネットに一度出ます。

セキュリティーを考えると、インターネットには出したくないというケースもあるでしょう。そこで VPC エンドポイントです。

VPC エンドポイントとは

VPC エンドポイントは、セキュリティ上の制約でインターネットとの通信が制限されているプライベートサブネット内の AWS リソースから、インターネットゲートウェイを経由せずに、VPC 外の AWS サービスへアクセス可能にする機能です。

VPC エンドポイントの種類と特徴

VPC エンドポイントには 3種類があり、それぞれ利用できるAWS サービスが異なります。

1. ゲートウェイエンドポイント(ゲートウェイ型)

ゲートウェイエンドポイントは、Amazon S3 または DynamoDB のみ対応しています。

S3 や DynamoDB へ接続したいリソースが配置されている VPC に VPC エンドポイントを割り当て、ルートテーブルにターゲットが VPC エンドポイントのルーティングを設定します。

ゲートウェイエンドポイントを使って S3 や DynamoDB にアクセスする時のイメージ

DynamoDB はゲートウェイ型のみ利用できますが、S3 はゲートウェイ型と PrivateLink の両方で利用可能です。

ゲートウェイエンドポイントは料金なしで使用できます。

2. インターフェイスエンドポイントAWS PrivateLink(インターフェイス型))

インターフェイスエンドポイントは AWS PrivateLink を使用し、サービスを送信先とするトラフィックのためのポイントとして Elastic Network Interface (ENI) を使用します。

サービスへ接続したいリソースが配置されているサブネットにプライベートIPアドレスを持つENIを作成し、ENIとサービスをリンクさせます。

AWS PrivateLink を使って CloudWatch や S3 にアクセスする時のイメージ

数多くの AWS サービスに対応しています。

AWS PrivateLinkと統合できる AWS のサービス

プライベート IP アドレスを使用して、VPC 内、オンプレミス、または VPC ピアリングや AWS リージョン を使用する別の AWS Transit Gateway にある VPC から Amazon S3 にリクエストをルーティングすることにより、ゲートウェイエンドポイントの機能を拡張します。

時間単位の使用料金とデータ処理料金が課金されます。

ゲートウェイ型とインターフェース型の比較

https://docs.aws.amazon.com/ja_jp/AmazonS3/latest/userguide/privatelink-interface-endpoints.html#types-of-vpc-endpoints-for-s3

3. Gateway Load Balancer エンドポイント

ゲートウェイロードバランサーのエンドポイントは AWS PrivateLink を使用し、サービスを送信先とするトラフィックのためのポイントとして Elastic Network Interface (ENI) を使用します。

時間単位の使用料金とデータ処理料金が課金されます。

VPC エンドポイントポリシー

エンドポイントの作成時、または変更時にエンドポイントにアタッチする IAM リソースポリシーのことです。

注意点は、以下の通りです

  • エンドポイントの作成時にポリシーを適用しない場合、サービスへのフルアクセスを許可するデフォルトのポリシーが適用
  • サービスがエンドポイントポリシーをサポートしていない場合、エンドポイントはサービスへのフルアクセスを許可

エンドポイントポリシーは、IAM ユーザーポリシーやサービス固有のポリシー (S3 バケットポリシーなど) を上書き、または置き換えません。これは、エンドポイントから、指定されたサービスへのアクセスを制御するための別のポリシーであるためです。

また、1つのエンドポイントに複数のポリシーを関連付けることはできません。

ポリシーはいつでも変更可能です。

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2022年 ならず者 不良 事件 事件簿 人気ブログ 悲劇 本当のこと 無念 綾瀬

知られざる女子高生コンクリ詰め殺人発覚当時の報道(後編)

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1989年3月に発覚した、足立区綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人。

2022年の現代になっても語り継がれ、世界的にも知られている悪名高きこの事件は大きく報道され、1989年の日本に大きな衝撃を与えた。

殺された女子高生・古田順子さんは不良でもないし、犯人たちを怒らせるようなことは何もしていない。

上場企業の部長職を務める父と母、兄と弟の三人兄弟という健全な家庭で育っており、家族思いで母親の家事もよく手伝い、近所の人にも挨拶ができたため「よくできた娘さんだ」と評判だった。

学業成績や学校での素行にも問題はなく、身も心も華のある彼女は、友達も多かったという。

かといって傲慢な態度をとることは全くなく、誰からも愛されていたのだ。

そんな順子さんが、卒業後の進路として家電量販店への就職が決まり、残りわずかとなった高校生活を満喫していた頃に、宮野ら鬼畜たちの毒牙にかかり、若い命を絶たれてしまった。

理由はただひとつ。

彼女の容貌が、彼らにとっても魅力的だったからだ。

おまけに彼らは、欲しいものがあったらモノでも人でも、奪うことを無計画に繰り返す無法者たちでもあった。

両親や兄弟はもちろんのこと、同級生たちも彼女の死を悲しみ、葬式では、慟哭の嗚咽がこだましていた。

そして、葬式にはいなかったが、家族と同じくらい深い悲しみと喪失感に打ちひしがれ、怒りに身を震わせていた人物がいた。

順子さんの彼氏である。

彼氏が語る順子さんと過ごした日々

彼氏であることを自ら名乗り出て、某女性誌のインタビューに応じ、同誌記者にそのやるせない心情を語ったのは、川村(仮名)という建築作業員の23歳の青年であり、順子さんとは歳がやや離れている。

高校を中退しているが、犯人の宮野たちのように当然の権利のごとく道を踏み外すことなく、まじめに生きてきた勤労青年だ。

川村青年が語ったところによると、順子さんとの出会いは、事件が起こる前の年のクリスマス。

友人の一人が順子さんの親友と交際しており、その縁で初めて顔を合わせた。

「目が大きくて明るい子」

それが、川村青年の彼女に対する第一印象だったという。

それから二回ほど、その友達も含めた複数名で遊びに行ったりしてほどなく、本格的な交際が始まる。

川村青年のことを気に入ったらしい順子さんの方から、「今度は二人だけで会いましょう」と言ってきたからだ。

付き合うようになってすぐに迎えたバレンタインデーの日。

お菓子作りが好きだった順子さんは、手作りのチョコレートを贈ってくれた。

2月は彼女の誕生日でもあり、チョコレートをもらった川村青年は18金のネックレスを贈る。

それから、週に一回くらいデートをするようになったのだが、順子さんはいつも律儀にも、そのネックレスをつけてきた

また、彼女は普段から非常に気が利き、六歳も年下なのにこちらの気持ちを察してくれたらしい。

非の打ちどころのない子だったのだ。

夏になると、川村青年の運転する車でよく海へ一緒に遊びに行ったりして、1988年という年は、幸福に満たされて過ぎていく。

やがて秋になり冬が近づいてきたころには、「冬になったらスキーに行こう」などと話し合ったりもした。

秋も深まった11月23日は、川村青年の誕生日。

その日のデートでは、順子さんはセーターを持ってきてプレゼントしてくれた。

彼女の手編みの黒いセーターだった。

その日は、二人で食事をしてボーリングを楽しみ、順子さんを自宅まで送り届ける。

「またね!」

別れ際、笑顔で手を振る順子さん。

この時、川村青年はこれが順子さんを見た最後となるとは、つゆほども思わなかったに違いない。

だが、この最高の彼女はその二日後、青年の元から永遠に奪われることになる。

彼氏の悲憤

デートから四日後の27日。

順子さんの母親から、ただ事でない連絡を受ける。

娘が、学校の制服のまま失踪したというのだ。

自分の彼女が消えて、平然と構えていられる男などいない。

川村青年は心当たりのある所を血眼になって探し始めた。

休みの日はもちろん、仕事が終わってからも。

そのさなか、再び順子さんの母親から連絡が入り、順子さんが「家出しただけだからすぐに帰る」と、電話で伝えてきたことが知らされる。

これは当の母親はもちろん、川村青年も「これはおかしい」と感じた。

不自然すぎるし、何かあったのなら共通の知り合いに真っ先に連絡があるはずだと考えたからだ。

何かよくないことが起こっていることを、彼はこの時点で確信したという。

事実、この電話は監禁されている最中に犯人によって言わされたものだったことが、後の調べで判明している。

その後も、川村青年は独自で必死の捜索を続けたが、何の手がかりも得られない。

昨年順子さんと出会い、今年は一緒に楽しむはずだったクリスマスが過ぎ、年が明けて正月も過ぎ、バレンタインデーも過ぎ、彼女の18歳の誕生日も過ぎた。

そして3月30日。

その日は、川村青年にとって、それまでの人生で最も悲しく、最も怒りを覚えた日となる。

埋め立て地のコンクリート詰めのドラム缶の中から、順子さんがむごたらしい死体となって発見されたのだ。

その知らせを聞いた後、川村青年はフラフラと親友のアパートに転がり込み、悲嘆のあまり正気を失うまで酒を飲んだ。

4月1日、順子さんの通夜。

川村青年もひっそりと線香をあげに行ったが、翌日の葬式には姿を見せなかった。

その代わりに、彼女の死体が発見された埋め立て地に花を供えに行き、ひとりむせび泣いたという。

「もう順子ちゃんとは会えない」

4月の中頃、まだ悲しみと怒りの真っただ中だった川村青年は酒浸りの生活になっており、生前の順子さんに勧められて禁煙していたタバコをひっきりなしに吸いながら、涙声で記者に語った。

そして犯人たちについて話が及ぶと拳を握りしめ、当然ながら憤懣やるせない様子でこう言った。

「あいつらの顔は覚えた!出てきたら同じ目にあわせて殺してやりたい!!」

この取材までの間に、彼は被害者側の関係者として刑事から犯人たちの写真を見せられており、その顔を目に焼き付けていたのだ。

「あいつら人間じゃない!」

川村青年はそう吐き捨てながら怒りに震えていたという。

少年ならば何をやっても許されていた時代

そう、人間じゃない。

やったこともさることながら、逮捕されて刑事処分を受けた四人のうち三人が出所後に罪を犯しているから、本当にそのとおりだ。

宮野裕史は、振り込め詐欺の片棒をかついだ。

小倉譲は、出所後も反省するどころか周囲に犯行を自慢、そればかりか知人男性を監禁して暴行。

湊伸治に至っては殺人未遂まで犯した。

異様に軽い判決を下した裁判官の一人は彼らに、「事件を、各自の一生の宿題として考え続けてください」などと、迷言を吐いていたらしいが、そんな宿題をまじめにやるような奴らだと思うか?

90年代初頭、この事件を扱った書籍が何冊か世に出る。

そのうちの一冊の作者は、拘留中だった犯人本人たちにも面会して取材し、その著作で彼らの育った家庭環境などの面から、この事件を社会の問題として扱っていた。

それを読むと、まるで未成年だった犯人たちが、ゆがんだ家庭と社会環境の犠牲者であり、そのおかげでこの事件が“起こってしまった”かのような印象を受ける。

今から見れば、先のことだからわからなかったとしても、バカげた主張にしか思えない。

何歳だろうが、どんな環境で育とうが、救いようもなく悪い奴というのは世の中にはいるもので、まさしく彼らがそれに該当していることは、出所後に事件を起こしていることから、すでに証明されているではないか!

だが、事件が起きてからほどない、これらの本が出版された当時というものはまだ人間性善説が全盛で、社会の安全を守るために殺処分が必要なくらいのレベルの未成年の悪党が、世の中にいないことになっていたようだ。

現代ならば、未成年でも彼らのうち複数名が、無期懲役の判決を下されていたはずである。

あの時代から生き、凶悪犯罪を犯した者が少年だという理由で、甘い判決を下されるのを目の当たりにし、他人事ながら釈然としない思いをしてきた者から見て、犯罪に対してより厳しくなった点に限って言えば、今の日本は、あの時より良くなっているのかもしれない。

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