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人命第一の裏で見捨てられた命 ~2024年羽田空港航空機事故~

航空業界の非情な現実

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2024年は新年早々災いで始まった。

1月1日午後4時過ぎ、能登半島を震源とする震度7の地震が発生。

石川県の能登半島を中心として、北陸地方に大きな被害をもたらした。

そして翌2日夕方には、全国のお茶の間に、東京羽田空港の滑走路で火災が発生している衝撃的な映像が流される。

当初、二か所で火炎が上がっていることだけが報道されて、なぜその火災が起こったかは分からなかったが、ほどなくして新千歳空港発の日本航空(以下JAL)516便のA350-900と海上保安庁羽田航空基地所属の航空機(MA722)が、羽田空港のC滑走路で衝突したことが報じられ、その後、事故の瞬間の映像も公開された。

原因は、本ブログ執筆中の1月6日時点で調査中であるが、この事故で海上保安庁のMA722は大破・炎上して乗員5名が死亡、1名が重傷を負う大惨事となったことが、その日のうちに発表される。

ちなみに同機は、前日に発生した能登半島地震の被災地に救援物資を運ぼうとしていた。

一方のJAL516便は、炎にからみつかれながら滑走路からずれて停止し、駆け付けた消防隊の決死の消火活動むなしく機体がみるみる炎に包まれる模様がテレビ画面に映され、さらに犠牲者が出ているのではと危惧されたが、516便のクルーの適切な処置で、乗員乗客は全員無事脱出に成功。

旅客機の側に死者が出なかったのは、不幸中の幸いであったと全国の視聴者が安堵した。

だが、この516便では人命こそ失われなかったものの、それ以外で失われた命があったことが後に判明する。

貨物室に預けられていた乗客のペットの命だ。

なぜ助けられなかったのか?

516便に徐々に火が回り、全焼していくさまを観ていた視聴者の中には「貨物室に預けられていたペットはいなかったのだろうか?」と懸念した人も少なからずいたようだが、その懸念は翌日的中する。

事故の翌3日にJALが乗客から、預かっていた犬一匹と猫一匹が、そのまま焼け死んだことが発表されたのだ。

彼らは、火が回る機内に取り残されて見捨てられたのである。

この悲劇を受けて、SNS上でタレントなどの著名人を中心に「ペットも客室に入れてあげるべきだ」「生きている命をモノとして扱うことが解せない」という意見が上がった。

例えば、フリーアナウンサーの笠井信輔氏は自身のインスタグラムを更新して、この事故で愛猫を失った乗客の慟哭のコメントを紹介。

自らも猫を飼っている笠井氏は、他人事と思えず落涙したと述べ、ペットを客室に同乗させることができる海外の航空会社を例に出して、限定的な条件を定めた上で日本でも検討できないかと訴え、犬や猫を飼う人々から大いなる賛同を得た。

また、3日以降二日間で“貨物扱い”禁止を求める署名も1.6万人を超えたことから、この問題への関心は高まっているようだ。

だが、もちろん反論もある。

「犬や猫が苦手どころか、アレルギーの人もいる」

「緊急事態になったら、人命第一なのは仕方がない」

「そもそも、飛行機に乗せることは犬や猫にとって大きなストレスになるはずだから、ペットホテルに預けるべき」

上記のような、もっともな意見もあって論争が巻き起こった。

そうは言っても、犬や猫も人間と同じ命。

暗い貨物室に押し込めて、緊急事態となったら見捨てざるを得ないのは、忍びないというのも事実だ。

笠井氏が言うように、客室へペットを持ち込める海外の航空会社も現実に存在し、日本国内でも「スターフライヤー」という中堅航空会社が、今年1月15日から小型の犬や猫を客室内に持ち込めるサービスを国内の全便において開始する予定である。

だが、いざ事故が起きても、一緒に避難できるわけではないようだ。

非情な現状

車, モニター, 座る, フロント が含まれている画像

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そもそも、今回の事故のように乗客が緊急脱出する際、手近にあるからといって手荷物を持って脱出することはできない。

それには理由がある。

手荷物は、通路をふさいだりして他の客の脱出の妨げになる可能性があり、脱出用のスライドを傷つけて空気が抜けた場合に、後から来る客が脱出できなくなりかねないからだ。

これはJALに限ったことではなく、どの航空会社でも規則でそう定めている。

そして、ペットを客室内に持ち込める海外の航空会社も、ペットを「手荷物」に分類している。

つまり、盲導犬などの特例は除くものの、緊急事態においては機内に置き去りにせざるを得ないのが、航空業界の世界的な常識なのだ。

ペットを客室内に持ち込めるサービスを開始する「スターフライヤー」も同様で、「緊急脱出が必要になった場合は、ペットを機内に残して脱出してください」と公式ホームページ内で明記し、サービス利用の際には、ペットの死傷に関して責任を問わない同意書に署名する必要があるという。

たしかに、家族同様のペットを置き去りにして逃げなければならない悲しみは動物を飼っていない人間にも理解できる。

恐怖や苦痛を感じるのはペットも人間と同じだから、「何とかならなかったのか」とも思いたくなるだろう。

しかし、他の大勢の乗客の脱出の支障になりかねないのは事実であって、これを変えることは難しいのが現状となっている。

JALの行ったペットを見捨てさせる緊急避難は、間違ってはいなかったと見るのが正しいのだ。

とは言え、さまざまな意見が交差しているが、前述の笠井氏も述べているとおり、変える努力をしてもいいのではないかと本ブログの著者は思う。

何事も「現状では仕方ないからあきらめる」では、この先の進歩や改善を放棄することになるのでないだろうか。

一寸の虫にも五分の魂。

長いこと連れ添ったペットならなおさらだ。

この悲劇が、航空会社が緊急時のペットの避難について検討をする契機となることを願いたい。

参考文献―Yahoo!Japanニュース、ライブドアニュース

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2023年 オラオラ系 ならず者 不良 事件 事件簿 復讐 悲劇 昭和 本当のこと

1986年・中学生と決闘して殺した22歳の男

本記事に登場する氏名は、一部仮名です

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1986年(昭和61年)2月、兵庫県神戸市東灘区にある市営団地で中学三年生の少年が殺される事件が起きた。

殺したのは、同区の県営住宅に住む小林寛智(仮名・22歳)。

一見すると、成人が未成年を殺した許しがたい凶行に思えるこの殺人だが、実は加害者も加害者ならば、被害者も被害者と言わざるを得ない性質の事件であった。

ミニFM局

YouTubeやツイキャスが出現するはるか以前の80年代、ミニFM局が注目を浴びていた。

ミニFM局とは、FM電波を送信する送信機を使って自分の好きな音楽などの情報を不特定多数に発信するミニラジオ局ともいうべきものである。

スマートフォンもパソコンもなかった時代だったから、情報の受け手はもっぱらラジオからだったが、テレビ局やラジオ局ではない一般人が情報を広く発信するという意味では、現代のSNSとやっていることは変わらないから、個人メディアのはしりと言ってもいいだろう。

グローバルに発信できるSNSが定着した現代と違って電波法の規制もあったから、出力できる範囲は限られていたが、それでも自分の意見なり嗜好を多くの人々に知らしめて、何らかの反応や共感を得たいという承認欲求を満たせるツールとして、多くの若者がミニFM局を開設していた。

屋外, 建物, ストリート, 市 が含まれている画像

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「FMシティ」のあった県営団地の現在

神戸市東灘区に住む小林寛智もその一人で、小林は1985年7月から、自宅の県営住宅でミニFM局「FMシティ」を開設。

定職のなかった彼は、ヒマに任せて自分の好みの音楽などを配信するようになった。

小林の「FMシティ」の放送エリアは東灘区一帯という狭い範囲だったが(ちなみに当時の電波法に定められた範囲には違反していた)、出だしから好調で中学生を中心に口コミで人気が広がる。

曲をリクエストする電話もかかって来るようになり、中には小林の自宅を訪ねてくる中学生のファンも現れた。

自分より若い世代に支持されていることに気を良くしたんだろう。

小林は、気さくにその中学生を自宅に上げるや、やがてその仲間たちも誘われてやってくるようになり、いつしか小林の家は中学生のたまり場になった。

だが、これが大きな間違いであったことに気づくのに時間はかからなかった。

つけあがるガキども

中学生たちは、主に小林の「FMシティ」が放送される午後11時から午前4時の間に来ることが多く、そのまま泊まっていく者もいた。

中学生のくせにそんな時間に外出していたような者たちなんだから、当然真面目でおとなしい少年少女たちではない。

小林は彼らよりだいぶ年長だったが、当初から同級生のような目線で接したのもいけなかった。

おまけに、年少者からある程度畏敬される兄貴分的な気質もみじんもなかったために、中学生たちは増長。

小林の家でタバコを吸ったり酒を飲んだり、深夜に騒いで近所の住民から注意されると逆ギレして、ビール瓶を投げ込んだりのやりたい放題をするようになったが、小林は特に注意することなく、そのままにしていた。

もっとも、注意していたとしても効果はなかったであろう。

生意気盛りのガキどもは、自分たちに対して弱気と見た小林を侮るようになっていたからだ。

そして「FMシティ」開設の翌年1986年2月、事件のきっかけが起こる。

それは、小林宅に出入りする悪ガキどもの一人である町田理人(仮名・15歳)が、聞き捨てならないことを耳にしたことから始まる。

小林が自分のことを「うざい奴だ」と言っていることを、仲間から聞いたのだ。

反抗期真っただ中の中学三年生でいいカッコしいの町田は、日頃から小林相手に生意気な態度で接し、みんなの前ではナメられまいと威勢よくふるまっていたから、そのままにしておくと自身の沽券に係わると考えた。

小林と賭けマージャンをしたりもしていたのだが、そのマージャンで賭け金やマージャンの打ち方をめぐって、小林ともめていたこともあったから、なおさらムカつく。

「あんガキ、ナメくさりおってからに!白黒つけたらあ!」

町田は、小林よりはるかに年下のガキのくせにいきり立ち、小林と話をつけると宣言した。

中学生にナメられる22歳

小林寛智(仮名・22歳)

1986年2月19日夜7時、町田は勝手知ったる小林の自宅に押しかけた。

こういう穏やかじゃない目的を持っている場合、悪ガキは往々にして一人で行かず何人か引き連れて行くものだが、町田もご多分に漏れず仲間4人を同伴している。

そんなに怖くない相手でも一人で行くのは嫌なのだ。

「おい、小林くんよお。オレの悪口言うとるみたいやけど、どういうことやねん?ああん?」

町田は仲間も来ているから、遠慮なくドスを効かせて対応に出た気の弱い年上男を脅した。

小林は中学生たちにこんな態度をとられるようだから、もともと臆病で見くびられやすい男だったのは間違いがない。

だったとしても、この時、年甲斐もなくはるか年少の少年たちの剣呑な雰囲気にビビるあまり、年上らしからぬことを口にしてしまった。

「言うとらへんよ…、オレちゃうわ。悪口言うとるんは髙澤やて…」

高澤は、町田と同じく小林宅に出入りしている中学生である。

何と22歳の小林は、中学生の高澤に矛先をそらそうとしたのだ。

どうりでガキどもから見下されるわけである。

「ホンマやろな?ほんなら、一緒に本人に聞こうやないか!ちょっとツラ貸せや!」

もう、どっちが22歳でどっちが中学生かわからない。

中学生たちは小林を連れて、近所の市営団地に住む高澤宅に向かい、団地のロビーに呼び出した本人に問い詰めたが、当然ながら激しく否定される。

ばかりか、高澤は悪口を言っていたのは小林だと主張した。

「言うわけないやろ!ええ加減なこと言うてからに!お前が言うとったんやないかい!!」

高澤も町田同様小林のことをナメているのだ。

「やっぱ、そうやったやないか!どう落とし前つけてくれるんや?コラ!」

「いや、落とし前て…んなアホな…」

「タイマンで決着つけようやないか!」

町田は語気鋭く言うや、登山ナイフを取り出した。

若気の至りの代償

何と、町田は素手ではなくナイフでタイマンしようというのだ。

「な、なんやそれは?あかん!落ち着けや…やめとこうや」

「お前もナイフ取れや、おい、誰かこいつに一本貸したれや」

町田は、仲間の一人から折り畳みナイフを出させて、小林に取らせようとする。

彼らの学校のそれなりの素行の生徒の間では、ナイフを持って歩くことが流行しており、しゃれっ気の塊のような町田が握っている登山ナイフは自慢の一品だ。

思春期の町田は仲間もいるし、気が大きくなっていたんだろう。

また、みんなの見ている前で中途半端に終わらせてしまったら、後々見くびられてしまうと考えたのも間違いない。

「なあ、なあ、あかんて、こういうの…。冷静になろうや!」

小林はナイフこそ受け取ったが、勝負しようとしない。

だが、一緒に来ていた少年たちがはやし立てる。

「はよやらんかい!」

「ビビっとんのか?!情けねえ年上やな!」

この時の町田が、どこまで本気だったかは分からない。

本当に刺すつもりだったのか、ハッタリだけで小林が謝罪してくれたらいいやと考えていたのか。

それはこの直後、永遠に確かめることができなくなる。

ナイフを握って、こちらに向かってきた町田を、小林がとっさに受け取ったナイフで刺したのだ。

町田は、うめき声を上げてうずくまった。

小林のナイフは、町田の左わき腹を貫いており血が止まらない。

ロビーにみるみる広がる鮮血を前に、刺した小林はもちろん、さっきまではやし立てていた少年たちも顔色を失った。

町田は、刺された場所が悪かったようだ。

そのまま気を失い、呆然とするあまり周りの者たちの処置が遅れたこともあって出血多量で死亡。

15年という短い人生を自業自得で終わらせてしまった。

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事件現場となった市営団地の現在

小林は、その後に駆け付けた警察によって殺人容疑で逮捕される。

「ナイフを持って向かってきたから刺した。殺すつもりはなかった」と主張したが、当然正当防衛が認められるわけはない。

結果的に殺してしまったわけだし、その前に家にやって来た中学生と賭けマージャンをやったり、喫煙や飲酒を放置していたこと、そもそも自身のミニFM局が電波法に違反していたことなどから、刑事責任を免れることはできなかった。

いずれにせよ、だらしなさ過ぎたことが原因で長期の実刑を受けたであろう小林はもちろん、生意気すぎたことが原因で死んでしまった町田も同情するに値しない事件である。

防ぐことはできなかったんだろうか?

無理だったろう。

どっちも救いようがないくらい愚かだったとしか考えられないのだから。

出典元―神戸新聞、毎日新聞

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90年代 MMA ファイターのベンチマーク? ポール・ヴァレランス

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90年代に総合格闘技、それも始まったばかりだった UFC やバーリトゥードルールの試合が好きだった方ならば、ポール・ヴァレランス(Paul Varelans)というファイターを覚えておられる方も多いのではないだろうか。

ポール・ヴァレランスは、1969年アメリカ合衆国カリフォルニア州サニーベール生まれ。高校時代にレスリング、大学時代はフットボールの選手として鳴らした身長 203cm 体重 140kg という恵まれ過ぎなほどの体格の持ち主であり、中国武術をベースに、レスリングやムエタイを組み合わせた「トラップファイティング」という格闘技をバックボーンとするファイターとして 1995年の UFC6 でデビューし、その後の UFC 7、8 、Ultimate Ultimate ’96 にも出場して、UFC7 では準優勝したこともある MMA 創世記のファイターだ。

1996年に有明コロシアムで開かれた『THE U-JAPAN』にも来日し、日本の総合格闘家・片瀬慎治を 30秒余りで秒殺している。

片瀬慎治を秒殺するヴァレランス

その巨体から「ポーラーベア(北極熊)」とも呼ばれていたが、そのファイトスタイルも北極熊そのもので、テクニックよりも体格にモノをいわせて、相手を力技でねじ伏せる試合運びが多かった。

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二流選手は体格で圧倒
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二流選手は体格で圧倒

MMA での対戦成績は 18戦9勝9敗と微妙で、負けた相手としては、タンク・アボット、マルコ・ファス、ダン・スバーン、イゴール・ボブチャンチン、キモ・レオポルド、マーク・ケアー、カーロス・バヘットなどが含まれる。

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タンク・アボット、イゴール・ボブチャンチンに敗れるヴァレランス
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タンク・アボット、イゴール・ボブチャンチンに敗れるヴァレランス

彼らは 90年代 MMA におけるトップファイターであり、200cm オーバーの巨体から繰り出されるパワーも、これら一流どころ相手には通用しなかったようだ。

返り討ちにされてリングに崩れ落ち、小よく大を制した形となった対戦相手を引き立ててしまう姿がよく目立った。

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ポール・ヴァレランスに勝てるか否かが、一流かそうでないかの指標と言えたのかもしれない。

あるいは、この巨人とどう勝負したかもファイターとしての資質を問う基準となっていた面もあるようだ。

UFC6 一回戦でヴァレランスと対戦したカル・ウォーシャムは敗れたとはいえ、178cm 105kg と体格では圧倒的に劣りながら堂々殴り合いを挑んで、途中まで対等に戦ってヴァレランスを流血させるなど健闘。

カル・ウォーシャム
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カル・ウォーシャム

そのためか UFC からすぐさまリリースされることなく UFC9、Ultimate Ultimate ’96 に出場し、MMA ファイターとしての通算対戦成績も16戦10勝6敗と、そこそこの活躍をしているのだ。

そういったベンチマークという意味でヴァレランスは存在感のある選手であったと言えよう。

ポール・ヴァレランスは UFC の他に、キエフで開かれた『IFC COMBAT』、ブラジルの『W.V.C.3』などの MMA の大会にも出場し、日本においては『THE U-JAPAN』以外にも、パンクラスやキングダムといった団体でも試合を行い、1998年2月にオランダで開かれた『リングス・オランダ大会』でリングスの名選手だったディック・フライを KO してから、公の試合に出ることはなくなった。

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ディック・フライを KO

試合に出場しなくなった彼は、その圧倒的な体格を生かしてクラブなどのバウンサー(警備員)を主に務めながら、MMA の大会の役員として働いていたという。

だが 2020年12月、ヴァレランスは再び戦いの場に引き戻されることになる。

相手は、彼の人生において最強最悪の敵、新型コロナウイルスだ。

ヴァレランスはフェイスブックをやっていたのだが、同年 12月10日に体調を悪化させて「人生で、こんなに気分が悪くなったのは初めてだ。今日は検査を受ける」と投稿。

12月12日に陽性と判断されて、アトランタのミッドタウンにあるエモリー大学病院に入院。

「地獄のような気分だ」と述べた翌 13日には「新型コロナの感覚をたとえるなら、腎臓へのパンチを得意技とする相手と戦っているようなものだ」と投稿したのを最後に、フェイスブックで彼のコメントは見られなくなる。

それから、症状は人工呼吸器をつけなければならないほど悪化し、昏睡状態にまでなってしまったヴァレランスは、一か月の闘病生活を経た翌年 2021年1月16日、帰らぬ人となった。

享年 51歳。

彼の人並外れたパワーをもってしても、新型コロナウイルスには勝てなかったのだ。

ヴァレランスは、並外れた体格に現役時代の荒々しい面構えと力任せのファイトスタイルから、気性の激しい荒くれ者と思われがちだったが、実際は体の大きさと同じく心が広くて温厚な人物であり、彼と接した人物は皆、その誠実な人柄に好感を持っていた。

そんなヴァレランスの早すぎる死を身近な者たちはもちろん、UFC で彼と親交のあった関係者誰もが悲しみ、その死を悼んだという。

出典元―ESPN、MMA Junkie、Wikipedia

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2023年 いじめ ならず者 事件 事件簿 悲劇 昭和 本当のこと 歌舞伎町 誘拐

1982年・女子高生監禁暴行事件

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女子高生を監禁した事件と言えば1989年に発覚した東京都足立区綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人が悪名高いが、同じような悪さをする奴はこの事件の前後にも時々現れている。

この1982年(昭和57年)8月25日に発覚したこの事件では、被害に遭った女子高生は幸いにも殺されることはなかったが、犯人の非行少年少女グループの極悪ぶりは、かなりのものであった。

ガードが甘すぎる家出少女

学校が夏休みに入った1982年7月20日、神奈川県逗子市に住む私立高校一年生の米山成美(仮名・15歳)が家出した。

何が原因かは報道されていないが、黙って家を飛び出た成美が向かった先は東京。

それも、よりによって魑魅魍魎跋扈する新宿区歌舞伎町であり、未成年の女の子が日本一ひとりで行ってはいけない場所であった。

何の当てもなく歌舞伎町を歩いていると、さっそく声をかけてきた者が現れた。

成美と同い年かちょっと上くらいの少年で、どう見ても普通に高校に行っている感じではない。

知り合いもおらず行く当てのあるはずのない成美に、その少年は親しげな感じで「オレらのトコに来ねえか?」と誘ってくる。

どう考えても危険なにおいがするし、この時点で事件に巻き込まれるフラグが立ちまくっているが、成美は愚かにも、その誘いに乗ってついて行ってしまった。

15歳にもなったら、普通は声をかけてきた見ず知らずの相手について行くのが、いかに危ないことか分かるはずだ。

しかし家出するくらいだから、成美は家庭環境か素行に全く問題のない少女ではなかった可能性が高い。

年ごろから推測して不良を気取っていたか、あこがれていたかもしれず、相手がヤンキー丸出しの少年であっても、類友だから安心だとでも思ったのだろうか?

いずれにせよ、それが大いに軽率であったことを後日思い知らされることになる。

生涯忘れることができないであろう地獄の夏休みになったからだ。

監禁生活

その少年の言う「オレらのトコ」とは歌舞伎町からほど近い新宿区百人町にあり、18歳のホステスと女子高生、男子中学生姉弟が住んでいた。

本当は父親がいるが病院に入院しており、それに乗じて少年少女たちのたまり場となっていたようだ。

もちろん、どいつもこいつもまともなわけはなく、喫煙や飲酒ばかりか、シンナー遊びまでが行われる不良の巣窟である。

当初新入りの成美は、このろくでなしグループと遊びに行くなど、一見受け入れられたような感じだったが、それは長くは続かなかった。

新入りだからか、それとも不良の世界では下に見られていたらしく、ぐうたらな姉弟に炊事洗濯などの家事を命じられ、うまくできないと殴られるようになったのだ。

おまけに、出入りする少年たちに輪姦されてしまった。

地獄の始まりだ。

成美は、このろくでなしたちに逃げないように監視されて監禁状態になり、毎日面白半分にいじめられるようになる。

犯されたり、恥ずかしいことをさせられたり、よってたかって顔をパンチされたり、バットやベルトで殴られたこともあった。

その間、食事も満足に与えられず、成美は顔がパンパンに腫れて衰弱し、変わり果てた姿となっていく。

だが成美は、後年足立区で同じように監禁されて虐待され、殺されてコンクリ詰めにされた女子高生よりは幸運だったようだ。

一か月以上後の8月25日午前、見張りの少年の隙をついて脱走に成功。

そのまま、最寄りの戸塚三丁目派出所に助けを求めて駆け込んで、署員に保護される。

その後ホステス姉弟はじめ、監禁にかかわった15歳から18歳までの少年少女9人は暴力行為・傷害容疑で現行犯逮捕された。

しかし駆け込んだ際、成美は裸足で着ていた服は家出した時のままで垢や血で汚れており、顔を腫らして全身あざだらけで全治一か月の重傷。

ひと夏の火遊びは、心にも体にも大きなダメージを負う結果となってしまった。

出典元―朝日新聞、読売新聞

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地獄の集団就職 ~高度経済成長の生贄にされた金の卵たち~

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「集団就職」という雇用の形態が、かつての日本にはあった。

ご存じの方も少なからずいらっしゃることであろうが、一般的には高度成長の時代に盛んに行われた、地方の中卒者らが大都市の企業や店舗などへ集団で就職することを指す。

「金の卵」とも呼ばれた彼らは年端もいかぬ年齢で親元を離れ、故郷から遠く離れた都会の職場でホームシックに苛まれながら厳しい労働に耐え、ある者は後にその会社の中核となったり、またある者は起業して経営者となったりと、日本の発展を支える存在となっていったことはもはや伝説と言ってもよいだろう。

だが、伝説に謳われているように職場で懸命に働いた努力が報われて成功した者たちばかりではなかった。

中には厳しい環境に耐えられずに離職してしまった者もいたが、そもそも、その職場環境自体が人間の生存に適さない、すなわち超ブラック企業だった場合も多かったのだ。

本ブログでは『週刊明星』1959年4月26日号に掲載された記事から、こうした悪辣な企業の餌食になって夢も希望もつぶされて故郷に逃げ帰った少年たちを例にとり、集団就職の暗部をご紹介しよう。

祝福されて地獄へ送り込まれた少年たち

バスに乗り込む人々の白黒写真

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1959年(昭和34年)3月25日午前9時、群馬県高崎市市役所前から、七台のバスが出発した。

それぞれのバスに乗っているのは、つい先日中学校を卒業したばかりの少年少女たち約240名、職安や教員ほか同市の関係者らに盛大に祝福されて集団就職のために東京へ出発する「金の卵」たちである。

バスの外では彼らの親たちも駆けつけ、寂しさと感慨の入り混じったまなざしで、我が子の早めの巣立ちを見送っていた。

まだ十代半ばの少年少女たちは、涙をにじませて窓の外の親兄弟たちに手を振り、親元や故郷を離れる心細さやこれから始まる新たな生活への大いなる不安とかすかな希望を胸に一路大都会東京へ向かう。

レストランにいる人々

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若者たちを乗せたバスは国道17号線を南下し、およそ100㎞先の東京都千代田区にある九段会館に到着したのは正午過ぎ。

ここ九段会館では、在京の群馬県出身の有力者による「受入式」という大げさな式典が行われ、彼らは地元群馬県選出の自民党幹事長・福田赳夫(後の第67代内閣総理大臣)などお偉方の長ったらしい祝辞を聞かされた後、それぞれの就職先の責任者らに連れられて東京各地に散って行くことになる。

このように大仰に送り出された「金の卵」たちの中に阿部慎(仮名)、江田紘孝(仮名)、松林宜秀(仮名)という三人の少年が含まれていた。

彼らは他の者たち同様、ついこないだ中学の卒業式を終えたばかりで、就職先は高千穂ランプ(仮名)という自転車や自動車のランプ及び関連部品を製造する従業員数180名あまりの中小企業だ。

新しい職場へ行くことは何度転職を経験していたとしても期待より不安が勝るものだが、15歳かそこらで社会へ放り込まれることになる安倍たちにとってはなおさらである。

そうは言っても、大きな安心材料もあった。

それは出身中学こそ違えど同じ群馬県出身で、これから同じ職場へ向かう“戦友”が17人もいたことだ。

また、彼らには他にもこれからの新生活に期待を持たせる要素もあったようである。

阿部慎は地元高崎の職安で高千穂ランプの社員寮には当時まだ広く普及していなかったテレビがあると聞かされており、仕事終わりには、毎日実家にはないテレビが見れるであろうことを楽しみにしていた。

また、家を出る際に母親がいなりずしを持たせようとしてくれたが、昼食くらい出してくれるだろうと思って持ってこなかったという。

江田紘孝は、野球を見るのもやるのも大好きだ。

安倍と同じく地元の職安で高千穂ランプの社長と面談した際に「野球が好きだ」と言ったところ、社長はにこやかに「そうか、君は野球が好きか。じゃあ、仕事に慣れてきたら、みんなで野球大会をやろう」と言ってくれたらしい。

「社会人になっても野球ができる!」と、その時江田はうれしくてうれしくて仕方がなくなり、これから始まる社会人生活も悪くないだろうと信じていた。

松林宜秀は比較的向学心が旺盛で、家が貧しい農家でなかったならば高校に進学していたはずの少年である。

彼は姉に買ってもらったノート十冊と万年筆を持参し、通信教育を受けるための会費も払い込んでいた。

仕事の傍ら勉強するつもりだったのだ。

しかし、彼らのほんの些細な希望は入社早々ことごとく裏切られるばかりか、絶望のどん底に叩き込まれることになる。

情報が限られていたうえに社会経験が未熟な中学生だったから仕方のない話だが、知っていたのならば従業員数180人の会社に群馬県出身の新入社員だけで17人というのが何を意味するのか気づくべきだった。

高千穂ランプはパワハラや長時間労働が横行するブラック企業だらけだった昭和30年代においても、その漆黒さがトップクラスの超ブラック企業だったのだ。

時間も金もむさぼられる金の卵たち

高千穂ランプの作業場兼寮

少年たちが社会人生活をスタートさせることになる高千穂ランプは東京都東部の江東区にあった。

安倍は初日となるその日のうちに、高千穂ランプの工場の二階にある「第一寮」と呼ばれる社員寮に入居したのだが、第一日目から嫌な予感を感じることになる。

その部屋は日当たりが悪くて暗く、背の低い安倍でも手を伸ばせば手が届くくらい天井が低いのだ。

また、その部屋は八畳ほどの広さしかないのだが、入居者は安倍とそれ以外の新入社員七人。

一人あたり一畳しかスペースがなく、楽しみにしていたテレビもない。

「受入式」でも会社からも昼食すら出なかったし、この住環境を前に少々嫌な気分になったが、その日は一つ屋根の下で同じ年頃の少年たちばかりということで修学旅行のようなノリになり、荷解きをしながらワイワイ言っているうちに、そんな気分は消えていった。

しかし、翌日になって少年たちは超ブラック企業の洗礼を本格的に受けることになる。

第二日目となったその日、他の者たちと一緒にさっそく工場に投入された安倍は、コンベアの上でヘッドライトを組み立てる作業を任された。

それは新人でもすぐできるようになる簡単な作業であったが、初めてやる作業なんだから、もう一度やり方を確認してからやるべきだ。

高千穂ランプの作業場

そう思った慎重な性格の阿部が職長と呼ばれるこの現場の責任者である中年男に作業のやり方を改めて聞いた時、社会に出てまだ二日目の彼にとって信じられない反応が返って来た。

「説明してやったろ?二回も聞くんじゃねえ!!だいたい仕事ってのはな、見て覚えるモンなんだよ!!!」

と、とんでもない大声で怒鳴られたのだ。

確認しようとしただけなのに、何でこんな剣幕で怒られなければならないのか。

安倍は一挙に委縮した。

どの時代のどの職場にもいるが、「仕事は見て覚えろ」と言う奴は新人に指導することを面倒くさがっているだけであることが多い。

この職長は、まさにそんな手合いであったようだ。

そして、こいつは怠慢で気が短いだけでなく陰険な奴でもあった。

「こんなのバカでもできる仕事だけどよ、オメーは初めてなんだからこれやれ」と、

もう一人の新人である松林にランプ磨きを横柄に命じたのだが、さっき安倍を怒鳴った剣幕を見て縮みあがっていた松林は緊張のあまり手を滑らせてランプに指紋をつけてしまう。

すると「このボケ!そんなこともできねえのか!!」と罵声を浴びせたばかりか、

「おい!オメーら!!このバカみてーにボケーっと仕事してんじゃねえぞ!」などと、他の人間に聞かせるように松林を吊し上げるのだ。

新入社員たちは一挙に凍り付いた。

こんな横暴な奴が上司で、気持ちよく働けるわけがない。

さらに高千穂ランプは、労働環境や待遇も負けず劣らず劣悪だった。

会社の始業時間は午前8時ということになっていたが、実際は午前7時から開始であり、その一時間分の時間外手当はつかない。

そして残業は午後10時くらいになることもあり、休日にいたっては月二回。

寮で出される食事も貧相かつ劣悪で、米は異臭漂う三級品。

おかずは、朝は菜っ葉と味噌汁、昼はカブの煮つけとつくだ煮、夕は漬け物だけで魚がつくことすら滅多にない。

極めつけは一月の給料が5500円だったが、そこから寮の食費(2500円)、積立金(1000円)、作業服代や寮費などを差っ引かれると手取りは1000円しか残らないことが先輩からの話で判明した。

タコ部屋顔負けの搾取である。

一週間にもなると「こんなトコ辞めたい」が彼らの合言葉になったというのも無理はない。

そして翌4月になって、早々それを実行に移した者が現れた。

仕事の傍ら勉強しようとしていた松林だ。

横暴な職長や奴隷労働そのものの職場環境には、もちろん我慢ができない。

何より、勉強して知識をつけ、金をためて独立しようともくろんでいた松林は、高千穂ランプの長時間労働と薄給ではそれが半世紀くらい後にならないかぎり不可能であることに気づいたのだ。

4月2日、彼は「実家に相談しに行く」と仲間たちに告げて寮を出て行ってしまった。

松林の離脱がトリガーとなり、翌3日にはテレビを毎日見れるという約束を反故にされた安倍と野球をする時間もないことに不満の江田、そして他数名の少年たちが早朝に寮から脱走する。

故郷へ向かう列車が出る上野駅で「雇い主に黙って出てきたんじゃないか?」と警官に呼び止められて補導されはしたが、ひどい職場環境であったことなどを説明した結果、会社に戻されることなく群馬に逃げ帰ることに成功した。

無責任で薄情な大人たち

当時の『週刊明星』の記者は少年たちに取材したばかりではなく、高千穂ランプや送り出した群馬県の関係者にも話を聞いている。

まず張本人の超ブラック企業「高千穂ランプ」常務・石黒勉(仮名)は取材に対しこう語った。

「中小企業は労働基準法どうりやってたら経営が成り立たないんだよ。だいたい、そんなきついことやらせてないはずだよ。何で逃げたかわかんないね。職長がおっかなかったとか言ってるみたいだけど、あの人は職人気質なんだから仕方ないだろう」

すがすがしいほど奴隷労働をさせていたという意識も反省もない。

石黒という奴は、ブラック企業の役員どころか、限りなく奴隷商人に近い思考回路の持ち主であると言わざるを得ない。

そして、安倍の中学三年生時のクラス担任だった瑞田由紀子(仮名)は、

「一生その会社でコツコツやるという意識がない子が最近は多いですね。理想と現実が合わないとすぐやめてしまう」

もう卒業してしまったら、教え子ではないとばかりに他人事だ。

昔の教師もこんな手合いはいたようである。

もう一人の当事者で、安倍たちに高千穂ランプを紹介した職業安定所職業課長の幸迫義則(仮名)は、

「高千穂ランプは定着率が悪くってね。毎年三分の一はすぐやめて、こっちに帰ってきちゃうんだよ。あそこは管理がなってないんじゃないかな」

定着率が悪いことや管理がなっていないのを知っていて紹介したということだ。

紹介して送り出しさえすればよいという考え方で、その後は知ったこっちゃないと言っていると理解すべきだろう。

『週刊明星』によると、高千穂ランプでひどい目に遭った安倍たち以外にも、

「雇い主の子供に殴られているのに、その雇い主である両親は黙って見ていて止めようともしない」

「御用聞きに行った客先で待たされて、帰ってきたら「帰ってくるのが遅え!」と怒鳴られた」

「雇い主の主人と妻が夫婦喧嘩し、八つ当たりされた」

などなど雇われ先で理不尽な目に遭わされた少年少女は少なくなく、記事が掲載された昭和34年の4月8日の時点で、職場から故郷に逃げ帰ろうとして上野駅で保護された者が32名もいたことが報告されている。

単に根気がなかっただけの者もいたんだろうが、就職ガチャで大ハズレを引いてしまった不幸な者も多かったはずだ。

もっとも、高度経済成長中とはいえ、まだ貧しかった当時の日本は、他人をそこまで思いやるほど余裕のある社会ではなかったとも考えられる。

また「金の卵」とかいいつつも、少子高齢化になって久しい現代の日本と違って、若者は吐いて捨てるほどいたから、代わりはいくらでもいたと多くの職場では考えていたのではないか。

だがいずれにせよ、多感な十代中盤で社会に出たとたんに最悪の職場に出くわしてしまった安倍たちは、その後の人生に深刻な悪影響が出たはずだ。

本ブログの筆者の体験から言って、社会に出たばかりの時の経験は、後々の社会人人生に大きく影響する。

社会人一年生の時点でひどい会社に入ったり、ひどい上司にパワハラを受けてすぐやめてしまった経験は、言い方は悪いが強姦されたに等しい災難で、働くこと自体怖くなってしまう。

集団就職で入った都会の勤め先から逃げた少年少女たちの中には、その悪夢から一生を棒に振るほどの精神的ダメージを負った者もいたのではないだろうか。

群馬へ逃げ帰った安倍は、暗い目で記者にこうも言ったという。

「東京の人間はウソつきだ」

2023年の現在、もう八十近い年齢になっているはずの彼が、いずれかの時点で立ち直ってやり直し、今は安らかな老後を送っていることを願わずにはいられない。

出典元―週刊明星

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友情を食い物にした女 ~中野区中国人留学生殺害事件(江歌案)~

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2016年11月3日深夜、東京都中野区中野のアパートで法政大学の大学院に通う中国人女子留学生・江歌(ジャンガ―・24歳)が、刃物でめった突きにされて刺殺された。

現場には、江歌と同居する同じ中国人女子留学生の劉鑫(リュウシン・24歳)がおり、無事だった彼女が警察に証言したところによると、犯人は見知らぬ男だったという。

当初、この事件は被害者が中国人であったからか、日本では新聞で小さく報道されるにとどまる扱いだった。

その一方の中国では、事件で一人っ子である江歌を殺された母・江秋蓮(ジャンチウィエン)の悲憤が報道されると多くの同情を誘い、駐日中国大使館も警視庁に事件の早期解決を要請するよう動き出す。

そしてその後、事件発生直後に劉鑫が述べた「犯人は見知らぬ男だった」という証言が嘘であって、実際は劉鑫の元カレの中国人留学生・陳世峰(チェンシーフォン・25歳)であったこと、犯行時にとった行動が最初の証言とは全く異なっていたことがわかり、さらには母・江秋蓮に対する冷淡かつ不誠実な対応によって、中国中から怒りの声が上がる事態に発展した。

異国で出会った同じ学校の同級生

劉鑫(リュウシン)

劉鑫は、1992年に中華人民共和国山東省青島市で生まれた。

両親は農民だったが、商品作物の販売に成功した農家であって、結構な金を持っていたために、幼少期から何不自由なく暮らしてきたようだ。

そのせいか、少々わがままなところがあったが、才覚ある両親の血はしっかり受け継いでおり、人に好かれやすく嫌われにくいという、おいしいキャラの持ち主であったらしい。

学校に通っていた頃は、誰もが悩む人間関係でうまく立ち回り、恋愛にもおおらかで、彼氏をとっかえひっかえしたりの華やかな青春も経験した。

2014年に、地元の泰山学院(4年生大学)の日本語学科を卒業した後、お目当ての仕事が見つからずにプラプラしていた劉鑫を心配した両親の勧めで日本に留学。

もともと日本語が専攻ではあったが、より実践的な日本語を習得すべく、当初は他の留学生と同じく、日本語学校に通うようになった。

その日本語学校で、劉鑫は同じ中国人女子留学生と知り合う。

後に命を奪われることになる江歌である。

江歌(ジャンガ―)

中国人の留学生なんてそこら中にいるのだが、江歌は特別だった。

彼女は自分と同じ山東省青島市出身で、それも互いの実家の距離は約10㎞という近さであって、なおかつ実は同じ中学校出身だったのだ。

生徒数が多かったので顔を知らない者がウヨウヨいたし、江歌も地味な子だから全然気づかなかった。

江歌は母一人子一人の家庭で育った苦労人で、母を楽させてあげたいという気概を持って、あこがれていた日本にやって来たらしい。

気ままに育ってきた劉鑫とは境遇が違っていたが、異国の空の下で同国人、それも同郷かつ同じ中学校の同級生という奇跡的なよしみから、二人は問答無用で親友になった。

これは、後に江歌の方にとっては破滅的な出会いとなるのだが、この時点では両人とも知る由もない。

災いのきっかけ

2016年4月、日本語学校を卒業した劉鑫は大東文化大学の大学院生となり、江歌は法政大学大学院に入学。

本格的な留学生活がスタートした。

そして劉鑫は大東文化大学で、江歌にとって第二の破滅的な出会いをする。

後に、江歌を殺害することになる陳世峰との出会いだ。

陳世峰は、自分より一つ上の25歳で陝西省出身(生まれは寧夏回族自治区)。

日本語がうまくて知的であり、研究発表する際などに見せるクールな立ち振る舞いに、入学したばかりの劉鑫の目はくぎ付けになって、たちまち「女」をうずかせた。

陳世峰(チェンシーフォン)

発情した劉鑫のアプローチに、優等生だがウブなところのあった陳世峰は一挙に陥落。

同年6月には、早くも板橋区高島平で同棲生活を始めた。

しかし、劉鑫は恋愛では百戦錬磨で意中の男を落とすことには長けていたかもしれないが、関係を維持することは苦手だったようだ。

また、交際する前に男を見る目も養われていなかった。

学校であれほどかっこよく見えた陳世峰だったが、一緒に暮らし始めてすぐに、彼がクールというより陰キャで、陰険なキモ男であったことに気づいたのだ。

そのくせ、ちょっとでもわがままを言うとすぐにキレる。

同棲生活開始早々、痴話ゲンカが絶えなくなり、こらえ性のない劉鑫は8月後半に別れを一方的に宣言して家出した。

たった三か月弱の交際だったが、嫌いになった男と我慢して付き合う必要はない。

さっさとポイだ。

これまでの恋愛でもそうしてきたから、今回もそうするだけである。

ただ、今回困ったことは、ヘボチン野郎の陳世峰と同棲するために住居を引き払っていたから、住む所がなくなってしまっていたことだ。

だがぬかりはない。

立ちまわるのがうまく、抜け目のない劉鑫は、この時すでに同郷の友達・江歌に連絡をとって事情を話し、彼女の部屋を間借りすることを承諾させていたのだ。

劉鑫は、他人に自分の無理難題を承知させることに長けており、しかも江歌は困っている人間の頼みを断れない性格だったからイチコロだった。

建物の入り口

低い精度で自動的に生成された説明
江歌のアパート

もっとも、この時期は母の江秋蓮が日本に来ていたために、江歌の部屋には入れない。

その間は、自分のバイト先のオーナーに泣きついて、バイト仲間の部屋に住まわせてもらっていたというから、かなりの強者だ。

やがて母親が帰国すると、劉鑫は首尾よく江歌宅に転がり込んで住居問題を解決させた。

しかし、より困った大問題が残っていた。

劉鑫の中ではとっくに元カレとなった陳世峰だったが、陳世峰の方はそう思っていなかったことだ。

さっぱりあきらめるという言葉が辞書にないこの男は、自分が運命の相手と思い込んだ女を、学業そっちのけで追いかけ始める。

毒闺蜜

劉鑫と江歌

中国語には、闺蜜(クイミー)という言葉がある。

この魅惑的な字面が意味するところは「女性の同性の親友」、「(女性にとっての)親密な女友達」だ。

同郷のよしみで、元彼氏から逃げてきた劉鑫をかくまった江歌は、まさに「闺蜜の鏡」と言えよう。

だが、劉鑫の方は紛れもなく悪い闺蜜、「毒闺蜜」だった。

下手したら江歌のことを親友ではなく、自分の都合よく動いてくれる便利なアイテムだと思っていた可能性がある。

居候させてもらっているのに、まるで自分の家のようにふるまうようになり、彼女といると息がつまり始めた江歌の方は、コーヒー屋に行って勉強するようになるなど「庇を貸して母屋を盗られた」状態になっていた。

劉鑫の方は、陳世峰から逃れてまんまと江歌にかくまってもらえたわけだが、大安心というわけではない。

ずっと部屋の中にいるわけにもいかず、外へ出たとたん陳世峰にまとわりつかれるようになっていたのだ。

別れた後も、同じ学校だから顔を合わすに決まっている大学院に劉鑫が通い続けていたのかどうか、報道では明らかにされていないが、江歌と同居しながらバイトには行っており、陳世峰にそのバイト先をつきとめられていたのである。

そして11月2日、江歌の家もストーカー野郎にバレた。

その日の午後、江歌は外にいて劉鑫が一人で部屋にいた時に、陳世峰が押しかけて来たのである。

それまでのストーカー行為で、すっかり精神的に参っていた劉鑫は、迷わず江歌に電話でこちらに来てくれるように頼んだ。

助けを求められた江歌は、当然ながら警察に通報しようと提案したが、劉鑫は何とこれを拒否する。

警察が入ると余計に面倒なことになると考えたようだが、これまで江歌にさんざん面倒をかけているという自分の立場を全く分かっていない。

いくらストーカーと化した元カレにおびえ切っていたとはいえ、都合が良すぎであろう。

親友ならば、どんなに迷惑かけてもよいと考えていたのだろうか。

それでも、義侠心に厚い江歌は親友の求めに応じて部屋に駆け付け、すっかり危険な状態になりつつあった陳世峰と対峙する。

そして、自分一人ではないと安心して部屋から出てきた劉鑫も交えて談判になったが、相手の事情などお構いなしに、よりを戻そうとしか考えていないストーカー野郎と話し合いになるわけがない。

ほぼ押し問答となった話し合いは、劉鑫がバイトへ、江歌が大学院へ行く時間になったことでタイムアップとなって物別れとなり、三人はそれぞれ行くべき場所や帰るべき場所に向かうことになった。

いったん穏便に収まったように見えるが、実はこの時点で陳世峰は、すでに暴発寸前だった可能性がある。

これより以前のことであるが、ストーカー行為に辟易としていた劉鑫が、浅智慧をひねり出して、彼氏ができたと思わせればあきらめてくれるだろうと考え、バイト仲間の男に頼み込んで新しい彼氏のふりをしてもらい、付きまとう陳世峰に見せつけたことがあったようなのだ。

事の真偽は分からないが、もしこれが本当だったとしたら、未練がましくてみみっちい陳世峰のことだから、「他の男のモノになるくらいなら殺してやる」と決意したことは大いに考えられる。

また、後に分かったことだったが、江歌は母親の江秋蓮が日本に来た時に、劉鑫のことを話していた。

その際に、劉鑫が彼氏から逃げてきたことや一緒に住まわせてあげようと考えていることを娘の江歌から聞いた母親は、「そういう人と関わらない方がいいよ」と娘を諭していたというが、結局、この人生経験豊かな母の忠告を、人が良すぎる娘は守らなかった。

結果、母の懸念は最悪の形で的中することになる。

江歌と母の江秋蓮

親友に見殺しにされて絶たれた夢

アルバイトに向かった劉鑫だったが、いったんはあきらめて帰ったと思われた陳世峰が、後をつけてきたことに気づく。

なおかつ劉鑫のスマートフォンに「オレの所に戻らねえなら、お前のヌード写真をネットにばらまくぞ」というメールを送って脅迫までしてきた(劉鑫は、なぜブロックしていなかったのだろう?)。

恐怖のどん底に陥った劉鑫は、ずうずうしくも再び江歌に救援を求め、「バイトが終わってから、21時に東中野駅で待っていて欲しい」と電話。

学校が終わってから自分のバイトに行っていた江歌は了承し、退勤してから律儀にも時間通りに東中野に向かった。

だが、劉鑫の姿は見えない、どころかなかなか現れない。

まだバイトが終わっていなかったのだとしても、自分の都合で呼び出しておいて出てこないとは、とことん厚かましい女だ。

江歌はコーヒーショップに入り、この時間を利用して中国版Lineである「微信(WeChat)」で母親の江秋蓮に電話した。

一時間半ほど話をした中で、江歌は劉鑫の一件のことも話しており、何か嫌な予感がしたらしい江秋蓮は娘に、「気を付けなさいよ」と話したという。

母娘の会話は、何時間も遅刻していた劉鑫がようやく現れたことによって終了するが、これが江秋蓮にとって娘と交わした最後の会話となる。

江歌と劉鑫が中野区のアパートに到着した頃には、すでに日が変わって3日午前0時を回っていたのだが、そこで二人は凍り付いた。

陳世峰の野郎が、アパートの玄関で待ち構えていたのだ。

江歌は、すかさずスマートフォンで「不審者がいる」と警察に通報。

二人は濁った目でこちらを凝視する陳世峰の脇を、そそくさと通り抜けて部屋に向かったが、奴は後からついてくる。

部屋の前まで来た時に、江歌は「嫌がってるのわかんない!?もう警察呼んだんだからね!」と帰るように要求したが、この時の陳世峰は、先ほどとは比べものにならないくらい危険な状態になっていた。

「オメー、戻ってこいっつってんだろ!」と怒鳴って劉鑫の手をつかみ、無理やり連れ去ろうとするのだ。

そればかりではない。

「やめなよ!」と江歌が叫んで間に入るや、何と刃物を持って向かってくるではないか。

これを見た劉鑫がいち早く動く。

驚くべきことに、江歌が立ち向かっているのをいいことに、彼女の部屋の中に入ってしまったのだ。

しかも、江歌を置き去りにしてカギまで閉めた。

「テメー開けろ、おい!鑫!!コラあああああ!」

激高した陳世峰は、狂ったようにノアノブをガチャガチャ言わせ始めたが開くわけがない。その結果、逆上の極みに達した陳世峰が、さらにとんでもない行動に出た。

怒りの矛先が、あろうことか第三者である江歌の方に向き、持っていた刃物で一突きしたのだ。

一突きでは済まない。

失恋で頭がおかしくなっていた陳世峰は「オレの邪魔ばかりするお前が悪い!」とばかりに、部屋から閉め出されてしまった形の江歌を滅多突きにする。

「啊啊啊~!!!」

何か所も刺された江歌は、叫び声を上げてその場に崩れ落ち、陳世峰は逃走。

江歌の部屋に逃げ込んで鍵を閉めた劉鑫はパニックになりながらも、この間に110番を二回もしていたが、警察官が現場に到着するまで部屋の鍵を開けることはついになかった。

陳世峰がまだその場にいたならともかく、江歌を刺して逃走した後もだ。

その間に、江歌は手の施しようがない状態となってゆき、警官が到着後に病院に搬送されたが時すでに遅し。

複数個所を刺されたことにより失血死した。

育ててくれた母親に恩返ししようと、あこがれの日本にやってきて勉学に励んでいた江歌は、親友を助けたばかりに、夢半ばで命を絶たれてしまったのだ。

たった24年の生涯だった。

バスルームの一角

中程度の精度で自動的に生成された説明
犯行現場

母の悲憤を逆なでする劉鑫

江歌の悲報は駐日中国大使館によって、その日のうちに中国にいる母親の江秋蓮の元に届けられた。

動顛した母は翌日には来日。

変わり果てた姿となった我が子と悲しみの対面をした。

江秋蓮はシングルマザー。

離婚した後は、たった一人の我が子である江歌を、女手一つで育て上げてきたのだ。

そのかけがえのない唯一の宝を殺された母の悲しみと怒りが、尋常でなかったのは言うまでもない。

犯人は一人しか考えられない。

江秋蓮は、娘とは生前よく話していて知っていた。

親友・劉鑫の元カレの陳世峰である。

娘は劉鑫のせいで死んだという思いを抑えつつ、江秋蓮は事件現場にいて事情を知っている彼女に、犯人の逮捕のための協力と当時の状況を教えてくれるように微信経由で頼んだ。

一人の母親としては、当然の要求である。

だが、自分だけ助かった劉鑫は「事件当時は江歌と一緒にアパートへ戻り、自分はズボンが生理で汚れていたので履き替えようと先に部屋に入り、江歌は郵便物を確認するために外にいたが、外で江歌の叫び声が聞こえた。慌てて扉を開けようとしたが開かず、ドアスコープから覗いてもよく見えなかったから、怖くなって電話で110番に通報した」と返答した。

犯人が陳世峰だと彼女にも分かっているはずなのに、まるで見知らぬ人間にやられたと言っているとしか思えない主張である。

また、彼女を置き去りにして自分だけ部屋に逃げ込んでカギまで閉めたことも、この時点では言っていなかった。

ちなみに、劉鑫が110番通報した時の録音が残っているが、彼女はここでも半泣きになって動顛しながらも、たどたどしい日本語で「そとは誰か、誰か変な人がいて」と陳世峰の名前を出していない。

テキスト

自動的に生成された説明
テキスト

自動的に生成された説明

名前を出したのは、11月7日に陳世峰が恐喝容疑で逮捕された二日後の9日になってからからで、この時初めて江歌を殺したのは陳世峰であることや、自分が部屋に閉じこもってカギをかけてしまったことを、警察や江秋蓮に打ち明けた。

自分のせいで江歌が殺されたことは明らかだったから、あわよくば隠し通そうとしたのである。

劉鑫は徹底的に卑劣な女だった。

たとえ自分が原因で起こったことでも、面倒になりそうだと見れば、責任から徹底的に逃げる性分なのだ。

それは、その後の行動で示される

11月11日に江歌の葬儀が行われたが、前日に出席を約束したにもかかわらず欠席。

誰のせいで死んだと思っているのか?最低限の礼儀であろう。

また江秋蓮は、11月19日に江歌の遺骨を抱いて中国へ帰国するが、それまで一度も会いに来なかったばかりか、娘の最後の状況や事件の詳細を知りたがる江秋蓮の微信にも応答しなかった。

グラフィカル ユーザー インターフェイス, テキスト, チャットまたはテキスト メッセージ

自動的に生成された説明
江秋蓮からの連絡は無視

この態度を取られて、我慢ができるはずがない。

一人娘を殺されて悲嘆にくれる母親は行動に出た。

ネットで、この非情な態度を中国の世論に訴えたのだ。

すると、中国のネット民はいち早く反応した。

中国国内で「友人を見殺しにした」と、劉鑫に対する非難が巻き起こるようになったのである。

この殺人事件は、日本ではあまり取り上げられなかったが、中国では大いに関心を集めていたのだ。

やがて、日本から帰国していた劉鑫はバッシングされるようになり、たまりかねて江秋蓮に連絡をしてきた。

しかし、それは捜査や裁判に協力するという承諾ではなく、「これ以上騒ぎ立てるなら、一切協力しない」という逆ギレの応答だった。

劉鑫の心ない返信

江秋蓮は、自分の娘はこんな奴のために死んだのかと怒りに震えた。

おまけに劉鑫の両親も両親で、彼らは微信の江秋蓮のアカウントをブラックリストに載せて連絡を絶ち、一家そろって転居して雲隠れ。

後に「心ある」ユーザーによって転居先が発見されて通報されるや、江秋蓮に電話をかけて「ウチの娘にからむな!殺した奴を恨めよ!」だの「あんたの娘は短命の運命だったんだ」などと罵倒する始末。

どうりで劉鑫みたいな女が育つわけである。

当残ながら、江秋蓮も泣き寝入りはしない。

これらの微信でのやりとりや通話内容を公開して、徹底的な反撃に出た。

中国人の怒りの炎は、日本人のものより火力が大きく、高温である。

非常識な女とその両親へのバッシングは、より激しくなった。

世間からの猛烈な反発には、さすがの劉鑫も追い込まれたようだ。

某メディアの仲介で、しぶしぶ江秋蓮との面会に同意する。

しかし、2017年8月22日に二人はようやく顔を合わせることになったが、江秋蓮が許すはずもなく、和解には至らなかった。

世に憚る憎まれっ子への制裁

そもそも、一番悪いのは江歌を殺した陳世峰である。

陳世峰は、逮捕後の2016年12月14日に殺人罪で正式に起訴され、翌2017年12月11日に公判が始まったが、江歌殺害の理由を「先に部屋に逃げ込んだ劉鑫が部屋の中から江歌に刃物を渡し、それを持って立ち向かってきた江歌から刃物を取り上げようともみ合っているうちに不意に刺してしまった」とほざいて起訴内容を否認した。

江秋蓮は一人娘を殺害した挙句に、あきれたたわごとを並べる陳世峰の死刑判決を求めて来日、支援者の協力を受けて署名運動を行ったが、日本は犯罪者に甘い。

12月20日に結審した東京地方裁判所による一審判決は脅迫罪と殺人罪による懲役20年であり、陳世峰も控訴しなかったために、この軽い刑が確定した。

新聞の記事

自動的に生成された説明

中国なら間違いなく死刑だったと江秋蓮は判決に不満を表していたが、まだ肝心な奴が罰を受けずに残っている。

娘が殺される原因を作っておきながら、のらりくらりと責任逃れをし続けた劉鑫だ。

劉鑫に対する訴訟も、起こさないわけにはいかない。

許しがたいことに、劉鑫は全く反省していないどころか、面会の後にも偽名を使ってネット上で江秋蓮のことを「クソババア」だの「全部金のためだ」などとののしり、あまつさえ「あたしはアンタの娘の生前の写真いっぱい持ってるよ。アンタにはやらないけどね」などと、直接メールを送ったりして挑発していたのだ。

しかもその後、このクソ女は名前を劉暖曦と変え、SNSで30万人超のフォロワーを持つインフルエンサーとして成功、広告収入やライブ配信の投げ銭などで、のうのうと人生をエンジョイしていることが判明する。

おまけに、時々事件をネタにしているというではないか。

こんなふざけた奴を、罰しないわけにはいかない。

2018年1月12日に中国へ帰国した江秋蓮は、弁護士に協力を要請して訴訟の準備を行い、2019年10月28日、劉鑫に対して生存権に関する民事訴訟を提起する。

裁判が始まったのは2020年4月15日。

この訴訟で、江秋蓮は劉鑫改め劉暖曦に、死亡した娘の死亡賠償金、葬儀費及び精神的苦痛への慰謝料合計207万610元(現在のレートで約4140万円ほど)を要求した。

一審判決は2022年1月10日に下され、裁判所は劉暖曦に対して約70万元の賠償金支払いを命じた。

要求額の三分の一だったが、江秋蓮は2022年1月19日に一審判決を受け入れて控訴しないことを表明した。

しかし、1月24日になって、あきらめの悪い劉暖曦は一審判決を不服として控訴。

青島市中級人民法院(地方裁判所)で、2月16日から審議が始まった。

とはいえ、中国の司法も言われているほど非情ではない。

むしろ許しがたい行いをした者には、きっちりしている。

2022年12月30日、青島市中級人民法院は、劉暖曦の控訴を棄却。

一審判決を維持し、なおかつ裁判にかかった費用10760元を上乗せして支払うことを命じた。

母の戦いは終わった。正義はようやく果たされたのだ。

ちなみに、劉暖曦は払わされることになる莫大な賠償金を得るために、現在の心境を語った文章をSNSで公開して投げ銭を集めており、驚くべきことに、少なからぬ金額が集まったらしい。

人口が多いと、こんな奴をフォローするばかりか、投げ銭までする変わり者が、まとまった数出てくるようだ。

もっとも、その後、劉暖曦のSNSのアカウントは反社会的であることを理由に削除されて、永久追放となってしまった。

いい気味である。

2023年8月12日、江秋蓮は支払われた賠償金を使って「江歌专项助学基金(江歌特別奨学基金)」という基金を設立した。

学生を支援するための基金である。

経済的苦境から勉学を断念せざるを得ないような若者が、江秋蓮の目には、志半ばで命を落とした娘の姿に重なっていたようだ。

江歌を助けられなかった分、彼らを息子や娘と思って助けてあげなければならない。

その思いから立ち上げたのではないだろうか。

同時に、江秋蓮は江歌がこれからも自分の心の中だけでなく、この基金が存続する限り、人々の心の中で生き続けることを願っているのだ。

出典元―小郭历史、現代ビジネス、朝日新聞

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暴走族に返り討ちにされた毎日新聞論説室顧問 ~1989年片瀬江ノ島駅前暴走注意事件~

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かつて毎日新聞に、吉野正弘という記者がいた。

吉野氏は、1956年(昭和31年)毎日新聞社に入社後、記者としてキャリアを積み重ねて、1964年に連載企画『組織暴力の実態』で新聞協会賞、1976年には、連載企画『宗教を現代に問う』により菊池寛賞、1987年には1980年から担当、執筆していた夕刊コラム『近事片々』で、日本記者クラブ賞を受賞した。

また、同社内でも社会部副部長、特別報道部編集委員、論説委員を歴任して論説室顧問という役職を得るなど、記者として大成功を収めたと言っても過言ではないであろう。

しかしこの人物、論説室顧問を務めていた1989年(平成元年)4月18日、56歳で帰らぬ人となる。

その最後はお世辞にも、その社会的地位にふさわしからぬものであった。

おれは暴走族が嫌いだ

以前の小田急線片瀬江ノ島駅

1980年代後半の神奈川県藤沢市にある小田急線片瀬江ノ島駅周辺の住民は、週末の夜ともなると騒音に悩まされていた。

湘南海岸にほど近いこの場所に、地元のみならず、埼玉や千葉からもバイクや改造車に乗った暴走族の若者が押し寄せてきていたからだ。

当時の暴走族

この地に自宅を構えていた吉野氏もその一人で、何度も電話で警察に取り締まりを求めていたという。

実害があるうえに、新聞記者という職業柄からか正義感の強かった彼は、当然暴走族に良い感情は持っていない。

それは、1989年4月17日に最悪の形で爆発し、翌日が氏の命日となってしまうことになる。

その日吉野氏は、妻と甥の三人で小田急片瀬江ノ島駅近くにある飲食店で食事し、酒も飲んだ。

三人は、午後10時ごろに店を出て帰路についたが、その通り道の片瀬江ノ島駅前まで来たところ、駅前のロータリーには、暴走族風の若者が乗ったバイクや車が集っているのが目に入った。

当時の暴走族

そのうち一台のバイクが、耳障りな音を立てて空ぶかしをし始めるや、日ごろから彼らの出す騒音にイラついていた吉野氏は、意外な行動に出る。

近くにあった長い鉄の棒を拾うやそれを手に取って「オレは暴走族が嫌いだ。懲らしめてやる」と言いつつ近づいて行ったのだ。

年寄りの冷や水どころか、無謀極まりない蛮勇である。

一緒にいた甥の証言によると、氏は酩酊したほど飲んではいなかったらしいが、酒が入っていて気分が大きくなっていたのは間違いない。

だったとしても、天下の毎日新聞の論説室顧問という重職にある56歳の人物のとっていい行動ではないだろう。

とはいえ、空ぶかしをしていたバイクは、鉄パイプを持った氏にビビったのか、それともたまたまなのか、ロータリーから立ち去る。

一番ムカつく奴は消えた。

だが、車に乗っていた者たちの中で、イキった若者らしい素直な反応を文句をつけてきた50男相手に示した者たちがいた。

元暴走族で日産フェアレディーZを運転して、近くの茅ヶ崎市からやって来た工員の山上正(25歳)と石井徳久(24歳)だ。

山上と石井は「貴様ら暴走族が気に入らん」とか言って鉄パイプ片手にやって来た50男のこしゃくな挑戦を、ダイレクトに受けて立ったのである。

吉野氏は正義感が強く、新聞業界において大成した人物ではあったが、荒事には全く慣れていない。

だから自分の力がどの程度であるか全くわかっておらず、鉄パイプを持てば無双だとでも酒が入った頭で考えたんだろう。

そんな吉野氏に、そこそこ修羅場も経験してきたであろう若者たちの過酷な洗礼が待っていた。

若者たちは、あっさりと氏の鉄パイプを取り上げるや拳で殴り、足で腹を蹴る。

「やめて!」

妻と甥が止めに入ったが、甥の方が若者に殴り倒される。

彼らはひとしきり吉野氏を暴行すると、乗って来た白い日産フェアレディーZに乗って逃走した。

公衆の面前での暴行だったために、犯行は短時間であったようだが、打ち所が悪かったらしい。

吉野氏は病院に運び込まれたが、翌日の未明に外傷性ショックにより死亡してしまった。

犯人の逮捕とその後の影響

当時の取り締まり

この傷害致死事件を受けて、神奈川県警は大規模な検問を実施。

さらに目撃証言から、犯人の乗っていた車として、県内の3073台にのぼる白い日産フェアレディーZの捜索が始まった。

事件から約二か月後、茅ヶ崎市内のある駐車場に日産フェアレディーZが停まっていたが、事件直後に姿を消したという証言が入る。

この日産フェアレディーZの持ち主として、山上正の事情聴取が始まり、ほどなくして山上は犯行を自供。

共犯者の石井徳久も、その後に逮捕された。

山上によると、鉄パイプを持った吉野氏が、明らかに酔っぱらっていたように見えたため、何をされるかわからないと思って、ついついやりすぎてしまったようだ。

山上は、事件直後に友人から買ったばかりの愛車である前述のフェアレディーZを証拠隠滅のために転売。

また、両人とも翌日には普段と変わらず、何食わぬ顔で職場に出勤していた。

その後、藤沢市では県警により暴走族の大規模な締め出しが行われ、週末に多くの若者が集まることはなくなった。

また、事件の起こった片瀬江ノ島駅前も、車が入ってこれないように車止めが設置されて現在に至っている。

ところで、殺されてしまった吉野氏だが、当時の報道を見る限り正義感を発揮して命を絶たれた気の毒な人、という扱いがされている。

たしかに、死ぬまで暴行した山上と石井はとんでもない野郎だが、吉野氏も吉野氏ではなかろうか。

大新聞・毎日新聞の重職にある56歳が、酒に酔って鉄パイプを持って若者に挑むのは、褒められた行為ではあるまい。

言っちゃ悪いが、生前の功績を台無しにする最後を迎えた人間の一人と考えるのは、筆者だけではないだろう。

出典元―朝日新聞、毎日新聞

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見殺しにされたブラジル少年 ~1997年・小牧市日系ブラジル人少年集団暴行殺人事件~

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1997年10月6日、愛知県小牧市でバットやゴルフクラブを持った暴走族の少年20人あまりが、小牧駅通路でたむろしていた日系ブラジル人の少年少女たち10人を襲撃。

三人のブラジル人の若者が重軽傷を負い、14歳のブラジル人少年・エルクラノ・ルコセビシウス・レイコ・ヒガが拉致されて暴行を受け、後日死亡する事件が起きた。

暴走族による襲撃の理由は、不良ブラジル人三人にケンカを吹っ掛けられ、車をへこまされた報復である。

しかしエルクラノを含め、襲われたブラジル人少年たちは、日本人少年グループにケンカを売った三人と全く関係がなく、同じブラジル人という理由で攻撃されてしまったのだ。

そして、事件後に明らかになったのは、被害者及びその両親に対する少なからぬ日本人の冷たい対応だった。

ブラジル人の多い小牧市

エルクラノ

殺されたエルクラノ・ルコセビシウス・レイコ・ヒガ(14歳)は、1991年に出稼ぎ労働者として来日していた両親に呼ばれて、1995年に日本にやって来た。

来日して日本の中学校に入ったが、いくら言語習得の黄金期である十代前半でも、来日したばかりの彼にとって言葉の壁は厚く、学校生活になじめなかったようだ。

そこで中学校をやめて、ブラジルの通信教育システムを使って在宅で勉強を続けていた。

このように、日本の学校になじめなかった日系ブラジル人の少年少女は全体の約半数に上っていたため、エルクラノは少数派というわけではない。

かといってグレたわけでは決してなく、仕事で忙しい両親をサポートするために家事を手伝ったり、14歳ながらアルバイトをして、家計を助けていたまじめな少年だったのだ。

そんな彼にとっての息抜きは、小牧駅北側通路付近で同じブラジル人の若者と集まって話すことだった。

1990年6月に「出入国管理及び難民認定法」が改正されて日系人に在留資格が認められて以来、労働目的で日系ブラジル人が来日するようになり、特にここ小牧市は、現在でも日系ブラジル人が多い。

エルクラノと話す仲間のブラジル人の若者たちも両親に連れられてきたか、自分も工場などで働いている日系人だ。

来日して間もない者が多く、日本人は自分たちを避けて遠巻きにするから、やはり同国人同士は楽しい。

かといって、ブラジル人だけで固まっているわけではなく、このグループには仲良くなった日本人の少年少女も混じっていた。

十代の者がほとんどだが、彼らは悪さをする集団ではない。

集まって話をしているだけで、無害な部類の若者たちだった。

が、日系ブラジル人は彼らのような者ばかりではない。

数が多いと、不心得者も一定数出てくる。

エノクラノが命を奪われる事件のきっかけとなる出来事が、二日前に彼とは関係のないところで起こされていた。

シルビアに乗った不良ブラジル人

その出来事は10月4日、車を運転していた兼井亮(仮名・19歳)たちが三人の日系ブラジル人の若者にケンカを売られたことから始まる。

前をノロノロ走っていたシルビアを兼井の車が追い越したところ、そのシルビアが急加速して追いかけてきて、パッシングをするなど煽ってきたのだ。

そして横に並ぶや、中に乗っていた一人が身を乗り出して「バカヤロ!」と、なまりのある日本語で怒鳴るや、ゴルフクラブで兼井の車を一撃。

そのまま走り去った。

「あのボケら!」

暴走族などの悪い連中と付き合いがあり、その一味の者でもある兼井は怒り狂ったが、この車は知り合いから借りた車。

どこかへこまされていないか点検しようと車を停めると、先ほどのシルビアが戻って来た。

車内には、ここのところ街でよく見かけるようになった日系ブラジル人と思しき、ほりの深い顔立ちの三人の若者。

こちらを見ながら、ヘラヘラ笑って挑発しつつ再び去って行った。

「覚えとけよガイジン!顔は覚えただでな!」

兼井はヤンキーらしい捨て台詞をシルビアに向かって吠えたが、ナメられているのは明らかだから、この怒りは押さえられない。

彼は不良少年、ナメられたら自分はおしまいだと考えている種類の人間なのだ。

だいたい最近小牧市のあちこちで見かけるようになった日系ブラジル人だが、彼はいい印象を持っていない、というかムカついていた。

ついこないだも、小牧駅で日系ブラジル人らしき少年たちに「オマエ、オレニ“バカ”イッタデショ?」とか、訳のわからんいいがかりをつけられ、もめたことがあったのだ。

そういえば、さっきの奴らと同じ連中だったような気がしないでもない。

この時の兼井が知っていたか否かはわからないが、さきほどのシルビアの三人は、この小牧界隈のブラジル人ばかりか日本人不良少年の間でも有名になり始めていた札付きであった。

窃盗などの悪さを重ねる一方で、暴走族のようなイキっている日本人の不良少年が大好物らしく、見かけるとすぐにケンカを売ってくる武闘派でもあるのだ。

その夜、家に帰ってムカムカしていた兼井の携帯電話に着信があった。

かけてきたのは、タメ年の吉池浩二(仮名・19歳)。

かなりヤンチャしている男で、あちこちの暴走族にも顔が利く実力者だ。

その要件は何と、あの「シルビアのガイジン」、兼井の顔見知りでもある後輩の一人が車をへこまされたから、仕返しの手伝いに来いと言うではないか。

「そいつ知っとるぞ!俺も探しとったんだわ!」

時間はすでに夜12時を回っていたが、復讐の炎をたぎらせるあまり寝付けなかった兼井は、いきり立って家を出た。

兼井は吉池とその後輩らと合流した後、車に分乗。

車に鉄パイプやゴルフクラブを積んで、「シルビアのガイジン」狩りに夜の街へ繰り出した。

それにしても「シルビアのガイジン」は、この日特に大暴れだったらしい。

兼井や吉池の後輩にそれぞれケンカを売ったばかりではなく、別のグループにもちょっかいを出していたようなのだ。

兼井たちは途中に立ち寄ったコンビニで、自分たちより年下と思しき鉄パイプを手にした不良少年たちに出くわしたが、何かを探している様子だったので、もしやと思い「オメーら、ダレ探しとんだ?」と先輩風を吹かせて聞いたところ、彼らの答えは「シルビアのガイジン三人っす」。

少年たちは原チャリをやられたという。

その後、兼井たちは目を血走らせて、午前4時まであちこち探して回った。

だが、結局この日は誰も「シルビアのガイジン」を見つけることはできず、ムカつく気持ちを抑えられないまま、日本人の不良少年たちは帰宅した。

続々集まる日本人不良少年たち

10月6日の夕方、市内のファミレスに、吉池と兼井ほか三人の少年が集まっていた。

要件は、吉池が仲介した仲間同士の車の売り買いについてだったが、兼井は一昨日の「シルビアのガイジン」たちへの怒りが頭から離れず、この場でもそれを口にする。

二日前のことだがまだムカつく。

そして話しているうちにだんだん怒りが増してきた。

「ガイジンたよ(外人たちさ)、小牧駅にようけおるみたいなんだわ」

夕方に同胞に会おうと小牧駅北側通路に集まる、エルクラノを含む日系ブラジル人の少年たちのことである。

前に自分に文句をつけてきたガイジンも小牧駅にいた奴らだったし、「シルビアのガイジン」はあの中にいるか、もしくは知り合いかもしれないと考えたようだ。

「ああ、そういや、あそこいつもガイジンようけおるな」

「あれんた(あいつら)の中におるて、ぜってーに。やってまわんか?」

ここで兼井の話を聞いていた吉池も、自分の息のかかった者がやられているので熱くなり、こう言った。

「そうだて、やってまおうぜ。どつき回したろう」

日系ブラジル人襲撃の決行が決まった瞬間だった。

内心行きたくないと思っていた者もいたが、ここで「やめよう」と言ったら、周りに怖気づいたと思われてしまうだろう。

ここにいるお世辞にも善良とは言えない少年ばかりの中で、それは立場を完全に失うことを意味した。

そうは言っても、ここにいる人数では心細い。

悪ガキどもは、頭数を揃えるためにそれぞれのツレに電話し始めた。

同時に兼井は、バイクで小牧駅に彼らがいるかどうか偵察に向かう。

その頃、自宅で家族団らんの夕食を終えたエルクラノは、いつもの小牧駅北側通路に向かっていた。

「みんな来てるから、お前も来いよ」と、同じ日系ブラジル人の友達であるホリオンに電話で誘われたからだ。

家を出る時、母親のミリアンには「早く帰ってきなさいよ」と言われながら、喜び勇んで憩いの場所に出かけた。

小牧駅に着くと、いたいた。

ホリオンも、コウタも、エリオも、カヨコも、みんないる。

エルクラノを見つけると「よーう」とか言って、笑顔を向けてくる。

いつものメンツに加えて何人かの見かけない顔とカヨコのような地元の日本人もいるが、ここに集っている以上みんな友達だ。

エルクラノもその輪に加わって、仲間たちと話を始めた。

気の置けない友人たちと直接会って話をするのはやはり楽しい。

こういうのは携帯電話ではだめだ

彼が合流してからしばらくして、一台のバイクが彼らの近くを通り過ぎた。

バイクの形とそれにまたがっている者の風体から、日本人の中で不良とみなされている「暴走族」っぽい若者である。

それは、日系ブラジル人の少年少女たちにも分かるのだ。

バイクは距離がある程度離れたところに停まると、それに乗っていた若者はこちらに向かって「馬鹿野郎!」と吠えて走り去った。

「なんだあいつは?」

少々気分が悪いが、気にしない。

日系ブラジル人の若者たちは、つい先日行った同国人の開いたイベントの話題などで盛り上がり始めた。

「おったぞおったぞ!ガイジンた、十人くらい小牧駅におった!」

小牧駅への偵察から戻って来た兼井が、ファミレスに待機していた吉池たちに報告した。

「よっしゃ!人数も集まったで、ガイジンども、ボコボコにしたろう!」

ファミレスには、いつの間にか先ほどより多くの不良少年が集まっている。

それぞれのツレを呼び、またそのツレがツレを呼んだりして、20人くらいになっていたのだ。

当然、どいつもこいつも暴走族をやってたりするろくでなしで、木刀や鉄パイプ、ゴルフクラブなどの凶器持参なのは言うまでもない。

こんな奴らに集合場所にされて、店もいい迷惑である。

悪ガキどもは「腹が減ってはいくさはができぬ」とばかりに飯を食いながら、事実上の司令官である吉池による襲撃の手順などの説明を拝聴する。

当初の目的は「シルビアのガイジン」をぶちのめすことだったが、それはいつの間にか、小牧駅でたむろしているガイジンを一網打尽にすることに変わっていた。

また、何のために集まったかわからず、ファミレスで初めてその目的を聞いて帰りたくなった者もいたが、ここまで来といて帰るわけにいかない。

何度も言うが、こいつらは不良。

ビビったと思われたらおしまいだと考えているバカどもだからだ。

夜九時を回ろうとしたころ、総勢20人のバカたちは、車やバイクに分乗して小牧駅に向かった。

襲撃

午後9時を回ったころ、談笑していたエルクラノら日系ブラジル人の耳に、バイクの爆音が再び入って来た。

また暴走族である。

しかし、今度は大人数であり、しかも手に手にバットやバールなどの得物を持っている。

そして、何か怒鳴りながら、こちらにまっしぐらに向かってくるではないか。

「やばい!逃げろ!!」

自分たちを襲撃しに来たと分かったブラジル人の若者たちは、いっせいに逃げ始めた。

「待てコラ!ガイジン!!」

吉池と兼井を先頭に、暴走族グループは、二十人を二手に分けて挟み撃ちにする配置で襲撃。

ブラジル少年三人が逃げ遅れ、それぞれ取り囲まれる。

「こいつか?こいつじゃねえな」

「オイ、コラ!シルビアのガイジンどこだて!?」

「言えや!」

当初の目的どおり「シルビアのガイジン」のことを聞き出そうとしていたが、日本語が未熟なブラジル少年たちに、方言とスラングの混じった早口の日本語が聞き取れるわけがない。

それに、「シルビアのガイジン」って何のことだ?ブラジル人なら誰でも知り合いというわけではないのだ。

「ワタシシラナイ!ソレハナニ?」

「ちゃんと日本語しゃべらんかい!!」

イラついた兼井は、拳を脇腹に叩き込む。

他の奴らも木刀やバットをブラジル人に振り下ろし、蹴りを入れまくる。

最初は「シルビアのガイジン」の行方を聞き出すことが目的だったが、「シルビアのガイジン」もこいつらも同じガイジンだ。

日本に来て偉そうにしているように見えるから、ムカつく。

彼らが標的にしたのは、日系人でも明らかに外国人だと分かる顔立ちの者であり、一緒にいた日本人の少女や日本人そのものの顔をしている日系ブラジル人は襲われなかった。

兼井たちに痛めつけられた三人の若者は、ふらつきながら小牧駅構内に入って改札にいた駅員に助けを求めたが、何と駅員は「自分で警察に電話しなさい」と、つれない態度を取るではないか。

暴走族にビビッて、かかわらないようにしていたんだろう。

それでも三人は改札を飛び越えてホームに向かい、運よくやって来た電車に飛び乗って難を逃れることができた。

一方のエルクラノもホームに逃げ込んできたが、運悪く電車はまだ来ない。

そこで反対のホームに移動したのだが、そこで暴走族に見つかり捕まってしまう。

彼らは改札の外にいたのだが、エルクラノを見つけると、改札を飛び越えて殺到してきたのだ。

「タスケテクダサイ!」

エルクラノも構内にいた駅員に訴えたが、こいつも冷たい奴、いや非常識極まりない奴だった。

「他のお客さんに迷惑だから出て行きなさい」と明らかに身の危険にさらされているエルクラノを見捨てる態度に出るんだから信じられない。

彼は暴走族に羽交い絞めにされて、小突かれながら連れ去られようとしているのにだ。

暴走族たちは嫌がるエルクラノを車に押し込んで、すでに騒然となっている小牧駅から退散していった。

市之久田中央公園でのリンチ

現在の市之久田中央公園

「コラ!シルビアのガイジンはどこ住んどるんだ?!」

「知っとるだろが!言えて!おい!」

「日本でちょうすいた(生意気な)態度とるなてボケ!!」

エルクラノをさらって市内の市之久田中央公園に移動した不良たちは、ここでも「シルビアのガイジン」の行方を聞き出そうとしていたが、小牧駅同様同じガイジンだからとばかりに、その怒りが何の関係もないエルクラノに向かいつつあった。

どころか「そういえば、こいつあのシルビアに乗っとった奴の一人に似とるな」「いや、こいつじゃねえか!」ということになり、木刀で突き、顔面に拳を連打し、飛び蹴りをくらわし、歯が折れたらしいエルクラノは、口から血泡を出し始める。

「ワタシ、チガウ!イウイウ!ソノヒトシッテル!!」

「ほんまか?ほんなら電話しろや!」

エルクラノが苦し紛れにそう言うので、暴走族の一人が自分の携帯電話を出して電話させた。

携帯電話を貸したのは、谷永健一郎(仮名・19歳)というこの公園に移動してから新たに加わった少年で、一緒に働いている中野拓也(仮名・19歳)と難波友親(仮名・19歳)たちと来たようだ。

難波は木刀、中野はバタフライナイフ持参で来ている。

この時点で、不良の数は27人に増えていた。

だが実際、エルクラノは「シルビアのガイジン」の顔は知っていても友達ではないのだ。

よって電話番号などの個人情報は知るわけがない。

彼は谷永の電話を操作し、相手が出るとポルトガル語で話し始めたが、不良たちはその話しぶりから、すぐに何だかおかしいことに気づき始めた。

「シルビアのガイジン」じゃなくて助けを呼んでいるような感じがしたのだ。

「こいつ、助け呼んどらせんか?」

「オメーどこかけとるんだて!」

「おい!日本語使えて!」

エルクラノから携帯電話を取り返そうとしたが、手を離さずにポルトガル語で、何かを必死に訴えている。

彼は「シルビアのガイジン」と見せかけて、自宅に電話して父親に助けを求めていたのだ。

暴走族たちは、エルクラノの背中をバットで強打し、ゴルフクラブで殴りつけて、携帯電話を奪い取った。

この暴行で特に威勢が良かったのは、小牧駅での襲撃に間に合わなかった難波と谷永のグループである。

難波は、木刀でエルクラノを連打し、谷永は中野が持ってきたバタフライナイフを拝借して、エルクラノの右の太ももを刺すことまでしたのだ。

「アイイイイ!!!」

悲鳴を上げた彼だったが、暴走族グループによって、さらに容赦のない殴る蹴るの暴行を加えられる。

このままやったら死ぬな、と思った者も中にはいたらしいが、誰もやめようとはしない。

その最中、不良たちは公園内に複数の人影を見つけた。

夜のジョギングか散歩をしに来た人々である。

「やっべ!ずらかるぞ!!」

不良たちはそれぞれ乗って来た車やバイクに分乗して、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

やっと地獄のリンチから解放されたエルクラノ。

だが、遅かった。

彼はその後、近所の学習塾の講師によって助けられ、救急車で病院に運ばれたが、あまりにも身体へのダメージが重く、二日後に死亡する。

たった十四年の生涯だった。

そして皮肉なことに、日本人の不良少年が追っていた「シルビアのガイジン」たちは、10月6日の時点で車上荒らしにより逮捕されていたのだ。

エルクラノを救え!

「とうちゃん!助けて!!おれ、暴走族にめちゃくちゃやられてるんだよ!」

「エルクラノか!?今どこにいるんだ!?」

「えと、国道41号で、あと、おもちゃ屋の看板が見える。頼むよ!早く助けて!」

「大丈夫か!おい!!」

「痛っ!やめてくれよ!痛い痛い!!」

「おい!もしもし!もしもし!」

エルクラノの父マリオが受けた息子からの電話である。

彼はこの時、市之久田中央公園で暴行を加えられている最中であり、谷永の電話を借りて電話したのは、父親に助けを求めるためであったが、通話は暴走族に電話を取り上げられてすぐに終了した。

小牧駅で日系ブラジル人の少年少女たちが暴走族に襲われ、エルクラノがさらわれたことは、襲われた者たちが知らせたために、彼の両親であるマリオとミリアンだけでなく、市内の日系ブラジル人に知れ渡っていたようだ。

マリオの家の周りには知り合いだけではなく、全く見ず知らずの日系ブラジル人までもが続々集まってきて、車でそれぞれエルクラノを探し回り始めていた。

さらわれたのは、同じブラジル人の少年。

相手は暴走族だから見つけたとしても、おとなしく返してくれるわけはない。

ならば、実力で奪い返すまでだ。

マリオが知らせた情報を頼りに、腕ずくで取り戻すことも辞さない熱血漢たちは、車を走らせて血眼になって同胞の少年の行方を捜した。

だが、彼らはエルクラノを救うことはできなかった。

反省の色がない不良たち

市之久田中央公園からバックレてきた吉池や兼井ら不良少年たちは、市内のスーパー銭湯の駐車場に集まっていた。

「谷永、あのガイジン刺しとったが。どんな感じ?」

「別に、すうーって刺さったって感じ」

「オレかて木刀クリーンヒットさせたったがな」

「おめー、後ろで見とっただけだったが!」

「やっとったて!おめえが見とらんだけだがな!!」

彼らは、まるで試合後のスポーツマンのように、自分がいかにエルクラノや他の日系ブラジル人を痛めつけたかを自慢し合った。

こいつらは不良少年だからヤバいことをすることは美徳だと思っているのだ。

「あいつ死んどるぞ。これで俺らやっとらん犯罪はなくなったってことだでよ!」と言ったりして得意げですらある。

そして、乗って来た車に付着したエルクラノの血を洗い流すなど証拠隠滅にもいそしむ。

彼らは「やってやったぜ」などと、反省の色もなく威勢が良かったが、同時に懸念もしていた。

日系ブラジル人からの報復があると予想していたのだ。

そしてその予想は、この日のうちに的中する。

小牧駅での襲撃には間に合わず、公園から参加してきた谷永と難波たちは、吉池たちと別れて居酒屋に向かったのだが、途中でエルクラノを探していたブラジル人たちと鉢合わせしてしまったのだ。

同胞の少年を拉致されて気が立っていたブラジル人は、いかにも暴走族風な見かけの谷永たちを犯人の一味とみなして攻撃。

谷永たちのグループのうち一人が逃げ遅れてバットで殴られ、骨折する重傷を負った。

この時も、追われる立場になった谷永たちが応援を呼んだりしたため、事態は日本人不良少年とブラジル人の全面抗争に発展する気配になりつつあった。

さらに二日後に、エルクラノが死亡したために暴走族への報復を主張するブラジル人の若者が続出する。

小牧市の警察も大規模な衝突の発生を予感して厳重な警戒態勢を取った。

だが、そうなることはなかった。

エルクラノの葬式の日、地元の在日ブラジル人向けテレビ放送で暴力に訴えることを、声を大にして反対した人物がいたからだ。

それは、彼の父であるマリオである。

「仕返しはやめてくれ!暴力はもうたくさんだ!!死んだ息子はそんなこと望んでない!」

エルクラノの死を最も悲しんでいる人物のこの言葉を前に、血気盛んな日系ブラジル人の若者たちも矛を収めざるをえなかった。

冷たい日本社会

ビラを配るエルクラノの父・マリオ

小牧駅でブラジル人たちが襲撃された際に、彼らを見捨てた駅員たちも問題だったが、小牧市の警察も問題だった。

生死の境をさまようエルクラノが病院の集中治療室で治療を受けている際、無事を必死で祈る父親のマリオと母親のミリアンに、後からやって来た警察が開口一番に尋ねたのは「ビザを持っているか?」

最初から不法滞在者ではないかと疑っているような口ぶりだったという。

また、エルクラノが死亡した後、何度も警察署に行って犯人逮捕を求めても、なかなか捜査しようとはしなかった。

明らかに事件であるにもかかわらずだ。

マスコミの報道も小さく、何よりエルクラノの名前が間違っていた。

警察が動いてくれないなら、自分たちで動くしかない。

マリオとミリアンは愛知県庁前に立って、捜査をしてくれるように事件について書かれたビラを通行人に配り、署名活動を始めた。

やがて、心ある日本人も現れて彼らを支援してくれるようになり、マスコミにも取り上げられるようになって、この事件が日本国内ばかりか、ブラジル国内まで知られるようになってくる。

これを受けたブラジル大使館が動き出したことにより小牧警察も重い腰を上げ、事件から一か月半後の11月後半に、谷永や兼井をはじめとした犯行グループが逮捕された。

だが、それまでにマリオたちは心ない輩から「日本が嫌ならとっととブラジルに帰れ」などと、いたずら電話をしょっちゅうかけられていたという。

また、日本の司法制度も、彼らにとって満足できるものではなかった。

この当時は、今以上に加害者の権利がやたらと保証されて、被害者側が蚊帳の外に置かれているようなシステムで、マリオには、家庭裁判所での少年審判の内容やその結果も知らされなかったのだ。

加害者の少年たちの態度も問題だった。

彼らは責任を擦り付け合って心から反省しているとは思えず、その弁護士は、量刑を軽くするための示談金の話しかしてこない有様。

そして翌年の1998年7月までに判決が出たのだが、主犯の吉池は求刑7年に対して懲役5年、兼井は求刑6年に対して懲役5年。

市之久田中央公園でエルクラノを刺した谷永は懲役3-5年、木刀で殴るなど致命傷を負わせたとされた難波も懲役3-5年で、後の中野たちは中等少年院送致など異様に軽い判決だった。

「オカシイ!」

判決を聞いたマリオは、思わずそう言ったという。

「義を見て為ざるは勇なきなり」の精神を持て

マリオとミリアンは、日本に大いに失望したことだろう。

最愛の息子を殺されて警察も捜査してくれず、やっと逮捕してくれたと思ったら、人殺しに異様に軽い判決。

確かに、愛知県庁前での彼らの署名活動などを支援する心ある日本人は現れた。

しかし、エルクラノが小牧駅で襲われていた時に、心ある日本人がその場に一人もいなかったのが問題だ。

あの時にいたのは、暴走族にビビッてエルクラノを見捨てた駅員のような奴か、オロオロするしかできなかった者ばかり。

「義を見て為ざるは勇なきなり」という言葉は、1997年10月6日の小牧駅において死語になっていた。

そうでなければ、エルクラノは殺されなかったはずである。

彼は見捨てられたのだ。

そして、残念ながら、前述の言葉は現代の日本の多くの場所でも死語のままのようである。

2022年1月、JR宇都宮線の電車内で喫煙をしていた無法者を注意した高校生が暴行されたが、無情にも、その時電車内の誰も高校生を助けようとした者はいなかった。

これは、まれなケースだろうか?

きっと他のほとんどの地域でも皆見て見ぬふりするだろう。

どうも日本では「義を見て為ざるは勇なきなり」よりも「君子危うきに近寄らず」の方が美徳で、危ない奴がいたら何が何でも関わってはならないのが正解になっている。

たとえ、目の前で他人がそいつの餌食になっていようとも。

それが、この世界的に治安が良い国の礼儀正しい国民の正体だ。

それでいいのか?

いかんだろう!!

危ない奴が暴れていたら、そいつを誰もが見て見ぬふりする社会よりも、周りの人間がそいつを集団リンチする社会の方がずっと健全だ。

日本国民よ。

無法者に正義の鉄拳を下すことを躊躇するな!

正面から立ち向かう必要はない、背後などの死角から、致命的一撃を加えよ!

その場にいる者は後に続け!

日本政府よ。

心ある国民による秩序の維持のための果敢な行為に対して、法的保護を与え且つ奨励せよ!

行動しない臆病者ばかりの社会では国の将来も危うい!

より良き社会の実現に向けて、国民の意識改革を推進すべし!

出典元―『エルクラノはなぜ殺されたのか』、中日新新聞

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ヤクザが最も凶悪だった時代 2 ~女子高生をナンパして歯を抜かれた大学生

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日々ナンパやキャッチに励む諸君。

君たちの日ごろの行いは、世間の評価はさておき敬服に値すると私は信ずる。

そっぽを向かれるのを覚悟の上で見ず知らずの異性に話しかけ、自身の話術と魅力を駆使して何とか自分の思い通りにさせようとする行動力、何より勇気はたいしたものだと思う。

なぜなら無視されたり、冷ややかな態度を取られるだけならまだしも、相手の女によっては、とんでもないことになる場合もあるからだ。

今から20年前の2003年に、ある女子高生をナンパした私立大学三年生の高倉隆司(仮名・22歳)のように。

猛毒女

2003年8月24日JR池袋駅西口で、大学三年生の高倉は仲間二人とともにナンパをし、ある未成年と思しき少女二人を自分の部屋に連れ込むことに成功。

本懐を遂げて見事勝利を収めた。

しかし、彼らはナンパした相手を大いに間違えていたことに、この時は気づかなかった。

連れ込んだ女はとんでもない奴だったのである。

大満足の高倉たちの一方で、連れ込まれた二人のうちの一人の女、都立高校二年生の山下侑理江(仮名・17歳)の方は、負けた気がしていた。

たいして好みでもない奴らの口車に乗ってしまい、言いなりになってしまったことが、悔しくて悔しくて仕方がない。

この恨み、晴らさでおくべきか。

相手は大学生で、そんなにヤバそうな奴らじゃなかったが、男相手に直接自分でやることはしない。

不良少女の山下には、こういう場合にとても頼りになりそうな知り合いに心当たりがあった。

それは、藤川直哉(仮名・30歳)という男。

関東に拠点を持つ指定暴力団住吉会系の組所属の暴力団員だ。

暴力団の恐怖

ヤクザの藤川と女子高生の山下がどのように知り合ったかの詳細はよくわかっていないが、だいたい想像はつく。

おそらく、街でたむろしていた山下に藤川が声をかけて、「何かあったら連絡しろ」とか言って、組の代紋入りの名刺を渡したか何かだろう。

裏社会の人間にとって若い女は何かと利用価値が高いから、なるべくたくさんつばをつけておくに越したことはない。

一方の山下はバカに決まっているから、頼りがいのある知り合いができたと、ほくそ笑んだはずだ。

そして、何の考えもなくその力を利用することに決め、藤川に連絡を取った。

「あのさ、金取れそうな話あんだけど」

とっちめた上に、金をいただこうという算段だったんだろう。

話を持ち掛けられた藤川だったが、こいつはペーペーの組員で単体ではさほど頼りにならなかった。

自分で動くことができないし、動かせる下の人間がいなかったらしく、取り分が減ることを覚悟のうえで、組の幹部である能勢将大(仮名・41歳)に相談する。

能勢は組の幹部ではあったが、チンケなヤクザであったようだ。

小娘の持ってきた話に大真面目に乗って、山下をナンパした大学生から金を脅し取る計画を練り始めた。

そしてその小物ヤクザの考えた計画はすこぶる正攻法だった。

8月31日未明、能勢は山下に教えられた高倉のマンションに手下とともに押し入って高倉を粘着テープで縛り上げ、車のトランクに入れて拉致。

曲がりなりにも職業犯罪者だから、大学生のガキ一人をさらうなど朝飯前である。

いきなり相手の家に押しかけて連れ去るあたり、能勢は悪い意味で正統派のヤクザだったらしい。

そんな奴が脅して言うことを聞かせるためにまずすることは、たっぷり怖い思いを相手にしてもらうことだ。

そのために、高倉をトランクに監禁した車が向かった先は、人気のない河川敷である。

「コラ!ガキい!!詫び入れろや!!」

「すいません!すいません!もうかんべんしてくださいい!!」

トランクから出された高倉は、おっかない奴らに拉致され、すでに恐怖で泣き出している。

脅迫の第一段階は、十分に果たしたと言えよう。

だが能勢の脅迫には第二段階があった。

それは、すごく痛い思いを相手にしてもらうことだ。

「オラァ!口開けやがれ!!」

能勢は、高倉の口を無理やり開けさせるや、何とペンチで歯を抜き始めた。

「あががががが~!!!」

歯医者で歯を抜いたことがある人ならわかると思うが、歯を抜かれる痛みは半端じゃない。

もちろん、麻酔など使っていないからなおさらだ。

一本だけじゃすまない。

能勢たちは、さらに泣きわめく高倉の歯をもう一本二本と抜いて、合わせて上下の歯七本を抜いた。

地獄のような暴行である。

能勢は歯を抜き終わった後、山下をナンパした他の二人も呼び出し、三人にそれぞれ普段金として『150万円を払う』という念書を書かせた。

二人は歯を抜かれなかったようだが、歯を抜かれて口から血を流しながら泣いている高倉を見て、凍り付いたはずだ。

断ったら同じ目にあわされる。

高倉はもちろん、友人二人も念書を書かざるを得なかった。

彼らはその後解放されたようだが、こんなことをしたら警察に駆け込まれるのは目に見えている。

だが、長年ヤクザをやっていた能勢は経験上、徹底的に恐怖と苦痛を与えた相手は、決して訴えやしないという自信があったのかもしれない。

被害に遭った者は訴えたが最後、報復として同じ目かそれ以上ひどいことをされると、恐怖のあまり精神的に折れて泣き寝入りする場合が多いのだ。

そして、この凶行のきっかけとなった山下も、凍り付いたことだろう。

「まさかここまでやるとは思わなかった」と愕然とすると同時に、もしこの人たちを怒らせたら自分もこういう目に合うかもしれないと、震えあがったはずである。

それも、能勢の狙いだった可能性が高い。

「俺たちはここまでやってやったんだから、お前は何してくれる?」などと、過大な見返りを求めやすくなるからだ。

そして、それは延々続くことになるはずである。

それがヤクザというものだ。

しかし、この件が警察の知るところとなるのに、そんなに時間はかからなかった。

高倉たちが警察に駆け込んだのか、それとも医者か周囲の者が通報したのか、能勢や山下ら4人は事件からほどない9月18日には、逮捕監禁や恐喝で逮捕。

26日には、話をつないだ藤川も逮捕された。

その後、逮捕された能勢たちがどんな法的制裁を受けたか報道されていないが、高倉たち三人は、二度とナンパをする気がなくなったに違いない。

断られてもそっぽを向かれてもめげず、相手の迷惑そっちのけで道行く女性に声をかけ続ける諸君。

君たちも、十分気を付けてナンパにいそしんでくれ。

出典元―夕刊フジ、朝日新聞

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夢の国で起きた悲劇 ~ディズニーリゾートで心中した一家~

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1983年4月15日にオープン以来40年、「世代を超え、国境を超え、あらゆる人々が共通の体験を通してともに笑い、驚き、発見し、そして楽しむことのできる世界…」を理念として、大人も子供も楽しませてきた東京ディズニーランド。

そんな夢の国のすぐ近くで、今から30年以上前に、あまりにも悲惨な出来事が起きていた。

時は1989年(平成元年)12月2日、同園から目と鼻の先のオフィシャルホテルでもあるシェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテルで、一家心中事件が起きたのだ。

この心中した一家の中には、11歳と6歳の幼い兄弟も混じっていた。

誰もが幸福でいられるはずの場所で、なぜ彼らはこんな悲しい結末を自ら迎えなければならなかったのだろうか?

心中した一家

1989年(平成元年)12月2日午前1時10分、ディズニーランドの目と鼻の先にあり、オフィシャルホテルにも指定されているシェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテルの北側の中庭に、複数人が倒れているのを宿泊客が発見。

倒れていたのは子供も含む男女四人で、すでに死亡していた。

ホテルのいずれかの部屋から飛び降りたらしい。

両親と思しき中年の男女はジャンパー姿で、子供二人はオーバーコート姿だったという。

やがて彼らは、このホテルの10階に宿泊していた家族であり、岐阜県不破郡垂井町から来た会社員の中林昭さん(仮名・39歳)、妻の美彩さん(仮名・35歳)、長男の弘樹君(仮名・11歳)と次男の啓二君(仮名・6歳)の家族だと判明する。

一家は11月26日から同ホテルに滞在しており、宿泊していた部屋には四通の遺書が残されていたことから、心中したと見て間違いはない。

その遺書は、中林家の一人一人がそれぞれ書いたものだった。

まず、父親の昭さんは自分の実家や上司にあてて、『お世話になりました。妻が心臓病でよくならず、不安感がつのっていました。その結果、死を選ぶことになりました…』

母親の美彩さんは自身の父親に、『私の体は悪くなるばかりで、生きていても長生きできないだろうと思います。夫と弘樹と三人で話し合い、死を選び、旅に出ることになりました。今日でこの旅も終わりです』と記していた。

長男の弘樹君も、彼にとっては祖父である美彩さんの父親に遺書を書いていた。

『おじいちゃん。これまでの11年間、どうもありがとうございました。楽しいことがたくさんありました。お父さん、お母さんが苦しんでいるのを見て、僕は決めました』

幼稚園児だった啓二君は、遺書のかわりに祖父の似顔絵を残していた。

遺書から分かるように、中林一家が心中する原因となったのは、母親である美彩さんの病気であったようだ。

美彩さんはこの10年前より糖尿病を患い、しょっちゅう起こる発作に苦しめられていた。

家族仲の円満だった中林家の大黒柱の昭さんは、たびたび会社を早退して妻の看護にあたっていたし、長男の弘樹君も午後5時には帰宅して、家の手伝いをしたり病院へ薬を取りに行ったりしていたという。

だが、美彩さんの病状は日に日に悪化し、病魔に苦しむ美彩さんと介護に追われる一家は、疲弊して限界に達していたと思われる。

そして、前途を悲観した中林一家は、10月18日にこの苦しみに自ら終止符を打つ決意を固め、自宅からそろって姿を消す。

その前日、幼稚園に次男の啓二君を迎えにやってきた昭さんは、「一週間ほど旅行に連れて行きます」と職員に話していた。

弘樹君の小学校の担任にも、同じようなことを言っていたらしいが、一週間たっても登校してこないのを不審に思った担任が、中林一家の近所に住む子供たちの祖父である美彩さんの実父に連絡。

祖父は、一家の暮らす県営住宅へ行ったが家はもぬけの殻で、郵便通帳が一冊残されており、口座から300万円が引き出されていた。

最後に思い出を残そうと、二度と帰ることのない永遠の家族旅行に出たのだ。

慌てた祖父は、最寄りの警察署に連絡して捜索願を出した。

その後、不意に一度長男の弘樹君から電話があったという。

しかし彼は「元気だから」と話していたものの、どこにいるかは言わなかった。

彼らが悲しき不帰の旅のエピローグとしてディズニーランドを選び、シェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテルにチェックインした11月26日までの足取りは分かっていない。

そして、一家が命を絶った12月2日は美彩さんが「今日でこの旅も終わりです」と遺書に記したように、同ホテルをチェックアウトする予定の日だった。

無力だったディズニーの魔法

一家が落ちた場所は玉砂利が敷き詰められた中庭であり、それがクッションとなったらしく四人とも驚くほどきれいな死に顔だったと、現場を見た宿泊客の一人は涙ぐんで証言している。

彼らの遺体は4日に浦安市で火葬され、親族によって岐阜へ帰った。

一家が泊まっていた部屋には、遺書の他にランド内で買ったと思われる大きなミッキーマウスのぬいぐるみやおもちゃも残されていた。

さらに、数冊の預金通帳と数十万円の現金。

ホテル代と迷惑料を清算したつもりだったんだろうか?

心中の場所に選んでしまった上に、宿泊費を踏み倒す気はなかったのだろう。

彼らなりの心遣いだったとすれば胸が痛む。

何より、この世の見納めと各地を漫遊してから最後にディズニーランドを楽しんだ後、どんな気持ちでこの最後の瞬間を一家そろって迎えたのかと思うと、心が張り裂けそうになる。

自殺はいけない。

ましてや、幼い子供まで巻き込んで心中するなんて考えられない。

そう言うのは簡単だ。

誰が好き好んで一家心中などするものか。

こんな手段でしか終わらせることができなかったほどの苦しみと悲しみを、この一家は味わい続け、それが限界に達してしまったのだろう。

ディズニーランドについて書かれたある本で、借金苦で心中を図る前の最後の思い出にとやって来たある一家が、ランド内で子供たちが楽しんでいる姿を見るうちに思いとどまり、「生きてもう一度やり直そう」と決心したエピソードが紹介されている。

ウソか誠か知らぬが、それを「ディズニーの魔法だ」などとその本では絶賛していたが、中林一家にその魔法は効かなかった。

そんな程度のものでは救えないほど、彼らの苦悩と絶望は大きかったのだ。

だったとしても、こんな悲しい手段を取らなくても、よかったじゃないかと思わずにはいられない。

我々にできるのはこの世で苦悶したぶん、向こうの世界で報われていて欲しいと願うことだけだ。

しかし、多くの宗教では自殺した者の魂は死後も救われず、天国に行けないと説いている。

それが本当だったら神は何と非情なのかと、この一家の一件に関しては思う。

死を選ばなければ解決できない苦しみも、世の中にはあるのがわからないのか。

天罰上等で言わせてもらう。

神よ、もし存在するならよく聞け。

この一家の魂だけは何が何でも救え。

彼らは、貴様が気まぐれで与えた試練に殺されたんだ。

責任を取れ!

出典元―岐阜新聞、朝日新聞、女性セブン

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