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神秘の世界をのぞいた代償~女子トイレをのぞいた元少年の懺悔~

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橋本健一は、今年26歳になった。

だが、心はO市立北中学校三年七組の生徒のままだ。

彼は三年生の夏休み前に登校拒否になり、そのまま十年以上ニート生活を送って来た。

登校拒否の原因はいじめ。

いじめを受けるようになったきっかけは、当時のクラスメイトの前田瞳が大いに関係している。

中学校時代の橋本の片思いの相手だ。

だが、橋本は瞳を恨んではいない。

むしろ、悪いことをしたと今でも悔やんでいる。

クラスの人間ばかりか、他のクラスの者からも二度と学校へ行く気がなくなったほどのいじめを受けたことは確かだが、やられても仕方がないことをしてしまった。

それは、魔がさしたとしても許されざることだったと反省している。

思えば11年前の5月10日木曜日三時間目の英語の授業。

「体調が悪い」と教師に告げて教室を出て行った瞳を見た当時の橋本は、トイレに行ったのだと確信。

日頃から瞳の入浴や排泄を想像してはオナニーをしていた橋本は、のぞきたいという衝動を抑えきれない余り実行に移してしまった。

彼女が出て行った直後に、自分も「気分が悪い」とか言って教室を出て、予想通り女子トイレに入って行く瞳の後ろ姿を遠目から確認すると橋本も間を置いて女子トイレに入り、彼女が入ったに違いない個室の隣の個室の壁と床の隙間から、片思いの相手の排便を拝む。

まず目に入ったのは丸い尻。

二つに分かれた何の変哲もない尻だが、あの瞳の尻も二つに割れていることに、妙な安心感と感慨を感じて拝見していたのもつかの間。

その直後、圧巻のスペクタクルが始まる。

ぶぶっ、ぶうぅうう~、ぶりっぶりぶりぶり…ぶり!

音消しの水を流していたにも関わらず、丸い尻から大音響の屁が響いた直後に盛大にひり出される糞、ほどなくして漂ってきた鼻が曲がりそうな糞臭に、橋本の思春期の股間は決壊。

ズボンとパンツをはいたまま盛大に射精した。

その情景は目に焼き付いて離れず、悪いことをしたと思いつつも、26歳になった今でも橋本の重要なズリネタになり続けているくらいだ。

このまま教室に無事戻っていれば完全犯罪、いや、思春期の後ろめたくも素晴らしい思い出で済んでいたことだろう。

だが、こののぞきが、その後に続く大きな代償を払うことにつながってしまったのは、瞳がケツを拭いている間に女子トイレから脱出しようとしたところを、校内巡回中の体育教師に見つかってしまったからだ。

その体育教師も気のきかない奴で「お前のぞいてただろう!」とその場において大声で問い詰めるものだから、その後、トイレから出てきた瞳に自分の脱糞がのぞかれていたことと、その犯人が橋本であることを気づかせてしまった。

その場で泣き崩れた瞳は、ショックのあまり、その日以来しばらく学校に来なくなってしまったみたいだ。

「みたいだ」というのは、それから一か月くらい後に、橋本も学校に行けなくなったからである。

トイレをのぞいたことでその日の放課後、体育教師や橋本の担任教師、生徒指導の教師にこっぴどく叱られて親にまで知らされて、家でも怒られる羽目になったが、これは大したことではなかった。

教師たちは、生徒に知られないようにしてくれていたみたいだが、泣きながら教室に戻って行った瞳が、仲のいい友達に打ち明けたのが伝わってしまったらしい。

橋本のやったことは、次の日には三年七組の生徒たちに知られており、ここから本物の地獄が始まる。

まず始まったのはシカトだった。

それまで仲の良かった者まで、橋本が話しかけても露骨に無視するし、女子生徒などは性犯罪者を見る目つきで敵意のこもった視線を向けてくる。

さらに、学校の不良グループに体育館の裏に呼び出されて殴られた。

橋本を殴った不良は。学年一の美少女の瞳に気があったらしく、正義の鉄拳とばかりに張り切って「変態野郎!」とか「のぞき魔」とか罵声を浴びせつつタコ殴りにしてきた。

クラスの者たちも、それを機に積極的に攻撃してくるようになり、机に花は置かれるわ教科書は破かれるわ、男子にはいきなり小突かれ蹴られるようになり、女子には集団でズボンとパンツを脱がされる屈辱を味わわされるなど、正真正銘のいじめに遭うようになる。

それまで、和気あいあいとした居心地のいいクラスだったので、この豹変ぶりに橋本は愕然とした。

始めから一体感があって団結した雰囲気があったが、こういう場合はより団結するようだ。

橋本ののぞきは、クラスを超えて伝わっていたらしく休み時間に廊下に出ると、他のクラスの連中から「性犯罪者!」と罵声が飛んだり、モノが投げつけられたし、橋本をボコった不良も出くわすたびにパンチをくらわせて「テメー登校拒否するか自殺しろよ」とまで脅してきたから、クラス八分どころか学年八分になっていた。

担任に訴えても「お前が招いたことじゃないか」と言って聞いてくれやしない。

どころか、のぞきをやった一件について、高校受験で重要になる内申書に書かざるをえないことまで宣告してきた。

もう限界だ、そして終わりだ。

高校受験を控えた学年だったが、橋本は夏休みになるのを待たずに学校に行かなくなった。

二学期になっても三学期になっても行かなかった。

卒業式にも出なかった。

もちろん高校受験をすることはなく、橋本の両親は登校拒否した当初やそれからの数年は、死に物狂いで息子を社会復帰させようとしたが、とっくにあきらめたのか、何年も前から今後について何も言ってこなくなっている。

よって26歳の今になっても、ズルズルとニート生活を送ってきた。

いじめは、たしかにつらかった。

あれ以来、学校に行くのが怖くなってしまった。

でも、いじめを招いたのは、のぞきをやった自分であるのは間違いない。

思春期真っただ中だった瞳は一番恥ずかしい姿を見られて、深く傷ついたはずだ。

もう11年たったけど、現在の彼女はどう思っているんだろう?

願わくば、会って謝りたい。

そう思いつつも、例のごとく11年前の瞳の排便を脳内でリプレイしてのオナニーを自宅のトイレで済ませた橋本は、ため息をついた。

11年間考えてきたのは、そればかりである。

トイレから出てゲームでもしようと自分の部屋に戻る前、玄関からサンダルを履いて外に出て郵便受けをのぞいた。

両親は共働きで家にいないので日中は橋本一人なのだが、郵便受けから郵便物をとってくるのが、彼のこの家での唯一の仕事となっていたのである。

郵便物はほぼ父か母宛で、橋本宛のものはほとんど何か商品やサービスを宣伝するダイレクトメールだったのだが、この日は違った。

数枚あった郵便物中に往復はがきがあり、その文面を見て橋本はハッとなる。

それは「O市立北中学校三年七組平成24年度卒業生同窓会」のお知らせだったのだ。

忘れもしない一学期に満たない期間しかいなかったあの三年七組のことだ。

そこには季節のあいさつに続いて、会場の居酒屋の場所や受付・開宴時間などの案内があったのだが、その横の返事の送り先を見た橋本は、何年も感じたことのなかったうれしい驚きを感じざるを得なかった。

この十年以上の間、何度この三文字の人名が頭に浮かんだことだろう。

何度会って謝りたいと思ったことだろう。

でも許してくれなかったら、と思うとこちらから連絡をすることができなかった。

学校へ行かなくなってから同級生の誰とも連絡をとっていなかったから、瞳がその後どうなっているかは分からなかったが、こうして同窓会の連絡窓口になっているのだから、学校に復帰して無事卒業したようだ。

そして、同窓会に招いてくれている以上、自分のことを許してくれているのではないだろうか。

あの過ちは人生における一番大きな忘れ物だったが、その忘れ物が向こうから帰って来たような気分である。

今度こそ、あの時のことを正式に謝ろう。

そうすれば、このニート生活も終わりにして、やり直すことができそうな気がした。

同窓会の会場は市内だし、いつもヒマだから、何日の何時だって行ける。

こんなにうれしいことは、あの中学三年生の五月以来全くない。

もちろん参加するつもりだ。

橋本は、喜び勇んで出席の返事を書こうと往復はがきを裏返す。

そして返信面を見た結果、今の瞳が橋本のことをどう思っているかを大いに悟ることになる。

瞳は橋本を許していなかった。

「様」と「ご出席」の部分を塗りつぶし、「ご欠席」に〇が幾重も書かれている所に、女の恨みの深さを感じる。

同窓会のお知らせを出さないだけならともかく、わざわざ同窓会への出席を断固拒絶する意思表示を示してきたのだ。

橋本は完全に打ちのめされた。

それはもう何もする気は起きず、社会復帰どころか生きる気力すら失われたような気がしたほどだった。

ちょうど同じころ、同じく26歳になっていた瞳は、勤務先で仕事中にもかかわらず我ながら陰険極まりない往復はがきを憎っくき相手に出し、それを見たあの変態野郎がどんな顔をしているか想像しながら邪悪な笑みをこぼしていた。

下痢便しているところをのぞかれた屈辱は、あと三十年くらいたっても忘れられそうにない。

高校大学と順調に進学して卒業した後、IT企業に勤めているが、中学三年以来ずっと今のように仕事の最中であっても時々思い出してしまい気分が悪くなる。

橋本の野郎は、一年の時から自分をチラチラ見てきやがったキモい奴だ。

三年で同じクラスになってしまい、しかも隣の席にされてしまった。

恐る恐る話しかけてきたから、その勇気に免じて嫌々口をきいてやったのに、あんなことしやがって!

当時はシ、ョックのあまり学校に一時期行けなくなり、心配する同級生からの電話やメールに対して「橋本の顔は一生見たくない」と返答し続けていたら、クラスのみんなばかりか、不良グループまでもが一丸となって橋本を追い出してくれた。

学校に復帰できたのは彼らのおかげだ。

だが、あれによって自分の人生は狂わされたと思っている。

二度と和式トイレに入れなくなったし、橋本を恨み続けた結果なのか顔立ちも陰湿なものになってしまったらしい。

高校・大学でも中学校時代ほど、ちやほやされなくなった。

就職活動でも悪い印象を持たれたようで、希望していた仕事に就けず、ようやく入れたのは今働いているブラック企業。

パワハラと激務のストレスで甘いものを爆食したおかげで体重は70㎏に迫る勢いだし、彼氏もできやしない。

全部橋本のせいだ。

今回中学の同窓会の連絡係になったことを機に、何年も温めていた嫌がらせをしてやったが、こんなもんじゃ済まさない。

そう思っていた最中、さらに陰険で破滅的な第二段の報復が頭に浮かんだ瞳は、26歳という年齢にしては老けて丸くなった顔を醜くゆがませてニヤリと笑った。

今度こそとどめを刺してやる!

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1982年・女子高生監禁暴行事件

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女子高生を監禁した事件と言えば1989年に発覚した東京都足立区綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人が悪名高いが、同じような悪さをする奴はこの事件の前後にも時々現れている。

この1982年(昭和57年)8月25日に発覚したこの事件では、被害に遭った女子高生は幸いにも殺されることはなかったが、犯人の非行少年少女グループの極悪ぶりは、かなりのものであった。

ガードが甘すぎる家出少女

学校が夏休みに入った1982年7月20日、神奈川県逗子市に住む私立高校一年生の米山成美(仮名・15歳)が家出した。

何が原因かは報道されていないが、黙って家を飛び出た成美が向かった先は東京。

それも、よりによって魑魅魍魎跋扈する新宿区歌舞伎町であり、未成年の女の子が日本一ひとりで行ってはいけない場所であった。

何の当てもなく歌舞伎町を歩いていると、さっそく声をかけてきた者が現れた。

成美と同い年かちょっと上くらいの少年で、どう見ても普通に高校に行っている感じではない。

知り合いもおらず行く当てのあるはずのない成美に、その少年は親しげな感じで「オレらのトコに来ねえか?」と誘ってくる。

どう考えても危険なにおいがするし、この時点で事件に巻き込まれるフラグが立ちまくっているが、成美は愚かにも、その誘いに乗ってついて行ってしまった。

15歳にもなったら、普通は声をかけてきた見ず知らずの相手について行くのが、いかに危ないことか分かるはずだ。

しかし家出するくらいだから、成美は家庭環境か素行に全く問題のない少女ではなかった可能性が高い。

年ごろから推測して不良を気取っていたか、あこがれていたかもしれず、相手がヤンキー丸出しの少年であっても、類友だから安心だとでも思ったのだろうか?

いずれにせよ、それが大いに軽率であったことを後日思い知らされることになる。

生涯忘れることができないであろう地獄の夏休みになったからだ。

監禁生活

その少年の言う「オレらのトコ」とは歌舞伎町からほど近い新宿区百人町にあり、18歳のホステスと女子高生、男子中学生姉弟が住んでいた。

本当は父親がいるが病院に入院しており、それに乗じて少年少女たちのたまり場となっていたようだ。

もちろん、どいつもこいつもまともなわけはなく、喫煙や飲酒ばかりか、シンナー遊びまでが行われる不良の巣窟である。

当初新入りの成美は、このろくでなしグループと遊びに行くなど、一見受け入れられたような感じだったが、それは長くは続かなかった。

新入りだからか、それとも不良の世界では下に見られていたらしく、ぐうたらな姉弟に炊事洗濯などの家事を命じられ、うまくできないと殴られるようになったのだ。

おまけに、出入りする少年たちに輪姦されてしまった。

地獄の始まりだ。

成美は、このろくでなしたちに逃げないように監視されて監禁状態になり、毎日面白半分にいじめられるようになる。

犯されたり、恥ずかしいことをさせられたり、よってたかって顔をパンチされたり、バットやベルトで殴られたこともあった。

その間、食事も満足に与えられず、成美は顔がパンパンに腫れて衰弱し、変わり果てた姿となっていく。

だが成美は、後年足立区で同じように監禁されて虐待され、殺されてコンクリ詰めにされた女子高生よりは幸運だったようだ。

一か月以上後の8月25日午前、見張りの少年の隙をついて脱走に成功。

そのまま、最寄りの戸塚三丁目派出所に助けを求めて駆け込んで、署員に保護される。

その後ホステス姉弟はじめ、監禁にかかわった15歳から18歳までの少年少女9人は暴力行為・傷害容疑で現行犯逮捕された。

しかし駆け込んだ際、成美は裸足で着ていた服は家出した時のままで垢や血で汚れており、顔を腫らして全身あざだらけで全治一か月の重傷。

ひと夏の火遊びは、心にも体にも大きなダメージを負う結果となってしまった。

出典元―朝日新聞、読売新聞

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超絶小物候補の逆恨み選挙戦 ~岐阜県知事にいじめられたと訴えた男~

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泡沫候補という言葉をご存じか?

泡沫候補とは、選挙において当選する見込みが極めて薄い立候補者を指すものである。

彼らは選挙に必要な地盤(後援会組織)・看板(知名度)・鞄(資金)がそろっていないのはもちろんのこと、あまり目立った政治活動をやっていなかったり、荒唐無稽か実現不可能な主張をしたりする者も多い。

また、ハナから当選ではなく、売名が目的だったりする者もいる。

よって、我が国をはじめ多くの民主主義国家では、公職選挙においてこうした候補の乱立を阻止する目的で、立候補する際に選挙管理委員会等に対して寄託することが定められている供託金という制度がある。

この供託金は落選したとしても法定得票数に達すれば全額返却されるが、一定票に達しない場合は全額没収されてしまう。

だが、それでも泡沫候補は全国いたるところで出現し、特に東京都知事選においては数多の泡沫候補が立候補する傾向がある。

時代が昭和から平成に移ったばかりの1989年の岐阜県の県知事選でもそんな候補者がいた。

だが、その男は30年以上たった現在でも忘れられることはなく、ある程度の年齢の岐阜県民にはしっかり記憶されているほどの恥…、いやインパクトを残したのだ。

平成最初の地方大型選挙

1989年(平成元年)1月9日、元号が昭和から平成に変わって間もないころ、岐阜県で平成最初の大型選挙と銘打たれた岐阜県知事選挙がスタートした。

この年の2月5日、1977年(昭和52年)より12年間にわたり、三期岐阜県知事を務めた上松陽助氏は、任期満了を機に引退することを表明していた。

よって、この選挙は新しい時代の岐阜県県政を担う、新たな県知事を選ぶ選挙であったのだ。

名乗りを上げたのは無所属新人の候補三名。

  • 一人目は、上松氏の下で四年間副知事を務めた梶原拓氏(当時55歳)
  • もう一人は、元岐阜県高教組委員長の岡本靖氏(当時61歳)
  • 最後は、ウナギ販売会社社長の児島清志氏(仮名、当時40歳)

である。

立候補者は以上の三氏だったが、事実上は梶原氏と岡本氏の二氏の争いとみられており、当時、選挙戦の模様を伝えていた岐阜県の地方紙である岐阜新聞の記事は、両氏の動向のみを取り上げていた。

梶原氏は副知事を務めてきたという実績もあったし、自民党や社会党(後の社会民主党)などを含めた五政党の推薦を受けていたし、岐阜県の教育界でハバを利かせてきた岡本氏は、共産党の推薦を受けていたからだ。

一方、支持母体や政党のバックもなく、県政に関わった活動をしてこなかった児島氏は、ハナから泡沫候補と見られていたのもある。

しかし、それ以前にこの第三の男である児島氏は候補者としての資質に問題があった。

その主張が、あまりにも陰湿且つ幼稚だったからだ。

「梶原拓はかくのごとき男です」

新聞社というのは、当選の見込みのない泡沫候補の主張や選挙戦の模様に、紙面を割きたがらない傾向があるものだ。

それは地元紙の岐阜新聞も同じであり、選挙戦での発言や公約はすべて梶原氏と岡本氏で占められていたのは、前述のとおりである。

だが、蚊帳の外に置かれていた児島清志氏も、全く何もしなかったわけではない。

選挙戦が始まってからほどなくして、前述の岐阜新聞の朝刊の折込広告の中に、あるチラシが混じるようになった。

それは、あの第三の候補者である児島氏の主張が書かれたものだった。

当時、私は岐阜県内の中学校に通う二年生。

知事選挙が行われていることは何となく知っていたが、関心があるわけはない。

そんな私がこの選挙を今でも覚えているのは、そのチラシに書かれた児島氏の主張を目にしたからだ。

それは、

『岐阜県知事候補・梶原拓はかくのごとき男です』という題名から始まっており、梶原氏の裏の顔とその正体を告発するものだった。

なんでも、児島氏は自身の仕事の関係か何かで何度か岐阜県庁に足を運び、副知事だった梶原拓氏と接触したのだが、話し合いがこじれてモメたらしい。

その結果、梶原氏本人とその部下から恫喝されたり暴力を振るわれたり、屈辱的な仕打ちを受けたというのだ。

チラシの中で、権力を笠に着た梶原氏がどんな罵声を浴びせてきたか、自分が何をされたかを延々と書き連ねており、そんなもの見せられた読者の家庭はドン引きして。朝っぱらから重力が重くなったことだろう。

梶原氏だけでなく、その部下と思しき人物も『暴力公務員』という枕詞を冠して実名で告発されていた。

例えば、

「…梶原拓の部下である暴力公務員〇〇と△△は私の胸倉をつかんで「てめえ、それでも男かて」「ちんぼ見せてみんかいオラ!!」と脅しました…」

というような内容なのだ。

「ちんぼ見せてみんかいオラ!!」って…、ホントに言われたとしても書くかフツー。

とにかく書いていることが、高卒レベル(偏差値48くらいの)の文章力を有した小学生が、いじめられたことを先生にチクるために書いているような恨み帳そのものである。

文章は、終始一貫して梶原氏への誹謗中傷で占められており、県知事になってからの具体的でまともな公約がほとんど目立たない。

このヒト、一応県知事候補だよな?

中学二年生の私から見てもあまりにもかっこ悪く、圧巻の大人げなさだった。

とても当時の両親と同い歳くらいのおっさんが書いているとは思えない、と感じたことを覚えている。

こんなものを、児島氏は岐阜県中の家庭にばらまいていたのだ。

彼は泡沫候補の中でも他の候補に対する妨害を目的とした、いわゆる特殊候補だったのである。

記事として取り上げる価値のない泡沫候補である前に、どうりで岐阜新聞が相手にしないわけである。

もっとも、岐阜新聞も完全にシカトしていたわけではなく、時々小さく児島氏の主張を載せて、その存在をささやかながら県民に知らせてはいた。

児島氏の主張

しかし、梶原氏や岡本氏のように「日本一住みやすい岐阜県づくりに努めたい」とか「弱者切り捨ての県政は終わりにしよう」などのお決まりだが景気のよい前向きなものではなく、ひたすら私怨ほとばしり、被害妄想に満ちたネクラなものだった。

何より日本語も少々おかしい。

梶原氏の対抗馬の岡本氏にとってはありがたい存在ではあったろうが、ここまで程度が低いとあまり頼りにはならなかっただろう。

そして迎えた投票日の1月29日、開票が行われた結果は以下のとおりだった。

  • 梶原拓氏は544069票
  • 岡本靖氏は204309票
  • 児島清志氏は42465票

梶原拓氏の圧勝だった。

予想されたことだったが児島氏は大惨敗であり、得票が法定得票数に満たなかったために、供託金は没収となったはずだ。

というか、四万人もこんな人物に入れた県民がいたことは驚きだったが。

この結果になることはわかりきっていたはずだし、時間と、何より金の無駄以外の何者でもない。

しかし、彼はあきらめなかった。

驚くべきことに、再び立候補するのである。

しかも、この年のうちに。

第十五回参院通常選挙

岐阜県中の失笑を買った児島清志氏だったが、1989年の岐阜県知事選から半年もたたないうちに、再びその名前を岐阜県民は目にすることになる。

同年7月に行われる第十五回参院通常選挙に再び出馬したのだ

一体何を考えていたんだろうか?

国会議員になって、今や岐阜県知事の梶原氏を見返したかったのか。

この参院選挙での岐阜選挙区の立候補者は自民・現職の杉山令肇氏(66歳)も含めて5人だったが、その中には川瀬一雄氏(仮名、42歳)という元印刷会社社員、元警察官、元証券会社社員で現在は無職というわけのわからない経歴の泡沫候補も混じっていた。

児島氏も泡沫仲間がいてよかった。

だが、児島氏は体を張って岐阜県民を楽しませる泡沫候補としての経験値が違った。

今回も岐阜新聞に相手にされなかったが、またしても折り込み広告には自らの主張を挟んできたのだ。

そして案の状その内容は『岐阜県知事・梶原拓はかくのごとき男です』で始まる例の恨み帳だった。

参院選挙だぞ、岐阜県知事関係ないだろ?

よっぽど梶原拓が嫌いらしい。

今回のお話も敵役が梶原氏であることに変わりはなかったが、前回の県知事選とは違うバージョンの内容だったことをよく覚えている。

いじめられたのは、一回だけではなかったようだ。

児島清志-確かにいじめたくなる顔だ

そして新聞でもお情けでささやかながら、その主張を掲載させてもらっていたが、相変わらず何が言いたいのか意味がわからない。

ここまで来ると、選挙には関係がない我々中学生も児島氏のことを知るようになり、学校で話題にする同級生もいた。

もちろん応援するのではなく、その大人げなさを小馬鹿にしていたのだ。

「こんな大人になってはいけない」という見本を岐阜県中の未成年者の前に自ら晒していたといっても過言ではない。

また、真剣なぶん余計笑えた。

そして7月23日の投票の結果、当選は454154票を獲得した新人の高井和伸氏(48歳)。

現職だった杉山氏とは、約34000票差の接戦であった

もちろん児島氏は、今回も28049票で大惨敗。

だが、泡沫候補仲間の川瀬氏の得票23660票を上回っており、こちらも接戦であったが。

それ以降、児島氏の名前を選挙で見かけることはなかったが、その小人物ぶりと負けっぷりは岐阜県人の間で伝説となった。

副知事時代に児島氏をいじめたと訴えられたものの、1989年から晴れて岐阜県知事となった梶原拓氏の方は、2006年に健康上の理由により退任するまで四期16年間知事を務めた。

また在任中は、財政を悪化させるハコモノ行政を行ったと批判を浴びたこともあったが岐阜県知事としてだけではなく全国知事会会長をも務める重鎮ともなり、2006年4月には旭日大綬章を受章、2017年83歳で天寿を全うした。

梶原拓氏

児島氏にとっては、地元で悪が栄え続ける様を見せ続けられたことになろう。

ところでこの児島氏なんだが、実は私の実家からほど近い場所に住んでいたらしい。

1989年当時40歳だったから、2022年現在ご存命ならば御年73歳くらいか。

まだお元気でお住まいもそのままだったら、次回帰省した際に訪問してお話を伺ってみたいものだ。梶原拓氏について。

出典元―岐阜新聞

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奪われた修学旅行2=宿で同級生に屈辱を強いられた修学旅行生

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本記事中に出てくる人物の名前は、全て仮名となります。

修学旅行の第一日目早々、もっとも楽しみにしていたディズニーランドで他校の不良少年たちにカツアゲされて金を巻き上げられた私は、放心状態でランド内を歩き回っていた。

集合時間までまだ時間があったが、ショックのあまりとてもじゃないが、他のアトラクションを楽しもうという気にはなれない。

そして、もうランド内にいたくなかった。

私は、集合場所であるバス駐車場に向かおうと出口を目指した。

誰でもいいから自分の学校、O市立北中学校の面々に早く会いたかった。

たった一人で他の学校のおっかない奴らに囲まれて恐ろしい目に遭わされたばかりで、その恐怖が生々しく残っていた私は、見知った顔と一緒になれば、多少安心できるような気がしたからだ。

何より、さっきの不良たちもまだその辺にいるかもしれず、それが一番怖かった。

だが、カツアゲされたことだけは、絶対に黙っておこうと、心に決めていた。

私にだって、プライドはある。

恰好悪すぎるし、教師や親、同級生に何やかやと思い出したくないことを聞かれたりして、面倒なことになるのはわかりきっていたからだ。

踏んだり蹴ったり

「コラ!オメーどこ行っとったー!!」

出口目指してとぼとぼ歩いていた私の後ろから、甲高い怒声が飛んできた。

私が本来一緒に行動しなければいけなかった班の長・岡睦子だ。

班員の大西康太や芝谷清美も一緒にいる。

さっきまで自分の学校の面子に会ってほっとしたいと思っていたが、実際に会ったのがよりによってこいつらだと、気分が滅入ってしまった。

そんな私の気も知らないで、岡は鬼の形相で、なおも私に罵声を浴びせてくる。

「勝手にどっか行くなて先生に言われとったがや!もういっぺんどっか行ってみい!先生に言いつけたるだでな!」

「わかったて、もうどっこも行かへんて…」

女子とはいえ柔道部所属で170センチ近い長身、横幅もそれなりにある大女の岡は、さっきのヤンキーに負けず劣らす迫力がある。

一方で、中学三年生男子のわりにまだ身長が150センチ程度で貧相な体格だった当時の私は思わずひるんで、岡に服従した。

しかし、何で再び脅されねばならんのか。

もうバスに戻りたかったのに、岡たちはまだ、ランド内から出ようとせず、私を引っ張りまわした。

それも、お土産を買うとか言って、ショップのはしごだ。

岡も芝谷も、ああ見えて一応女子なので、買い物にかける時間が異様に長く、ショップに入るとなかなか出てこない。

有り金全部とられて何も買えない私には、苦痛極まりない時間であるが、班を離れるなと厳命されているので、外でおとなしく待っていた。

男子の大西は早くも買い物を済ませたらしく、商品の入った袋を両手に外へ出てきて「女ども長げえな、早よ済ませろて」とぶつぶつ言っている。

私もお土産を買う必要があるが、もう金は一銭もない。

それにひきかえ、大西はお菓子だのディズニーのキャラクターグッズだのずいぶんいろいろ買っている。うらやましい限りだ。

「えらいぎょうさん買ったな、金もう無いんちゃうか?」

ムカつくので、少々皮肉っぽいことを言ってやったら、大西は自慢げに答えた。

「俺まだ1万円以上残っとるんだわ」

何?1万円だと?今回の修学旅行では持ってくるお小遣いは、学校側から7千円までというレギュレーションがかかっており、私はそれを律義に守っていた。

だが、大西はそれを大幅に超える金額を持参してきていたということだ。

畜生、私も律義に7千円枠を守るんじゃなかった。いや、それならそれでさっきのカツアゲで全部とられていただろうが。

「そりゃそうと、おめえは何も買わんのかて?」

「いや、俺は…」

カツアゲされて金がないとは、口が裂けても言えない。

そうだ、大西から金を借りられないだろうか?こいつとはあまり話したことがないが、金を落としてしまったとか事情を話せば、千円くらい都合つけてくれるかもしれない。

何だかんだ言っても同じクラスだし、同じ班なんだ。

「あのさ、俺、財布落としてまってよ…金ないんだわ」

「アホやな」

「そいでさ、千円でええから…貸してくれへんか?」

「嫌や」

にべもなかった。1万以上持ってるなら千円くらいよいではないか!

「頼むて。何も買えへんのだわ」

「嫌やて、何で俺が貸さなあかんのだ?おめえが悪いんだがや、知るかて」

普段交流があまりないとはいえ、大西の野郎は想像以上に冷たい奴だった。頼むんじゃなかった。

結局、ぎりぎりまで女子の買い物に付き合わされたが、集合時間前にはディズニーランドのゲートを出て、我々は時間通りバスの停まっている集合地点までたどり着いた。

他の面々は皆充実した時間を過ごせたらしく、買ってきたお土産片手に、あそこがよかったとか、あのアトラクションが最高だったとか盛り上がっている。

「もう一回行きたい」とか話し合っており、「もう永久に行くものか」と唇をかんでいるのは私だけのようだ。

そんな一人で悲嘆にくれる私に、更なる追い打ちがかけられた。

「おい!お前、単独行動したらしいな!」

私のクラスの担任教師、矢田谷が、私をいきなり大声で怒鳴りつけてきたのだ。

話に花を咲かせている生徒たちの話が止まり、好奇の視線がこちらに注がれる。

どうやら岡から私が班行動をしなかったことを聞いたらしく、完全に怒りモードだ。

この矢田谷は陰険な性格の体育教師で、一年生の時からずっと体育の授業はこいつの担当だったが、私のような運動神経の鈍い生徒を目の敵にして人間扱いしない傾向があり、これまでも、何かと厳しい態度に出てくることが多かった。

そんな馬鹿が不幸にも私のクラス担任になっていたのだ。

「いや、俺だけじゃないですよ、俺以外にも勝手に班を離れた人間は他にも…」

「先生は今、お前に言っとるんだ!言い訳するな!!」

クラス一同の前で、ねちねちと怒鳴られた。

なぜ私ばかり?私以外にも班行動しなかった者はいたのに!

私は再び涙目になった。

神も仏もないのか。どうして立て続けに、嫌な目に遭い続けなければならないのか?

私は今晩の宿に向かうバス内で、わが身の不運に打ちひしがれていた。

通路を挟んで斜め向かい席では、元々一緒に行動しようと思っていた中基と難波がまだディズニーランドの話を続けている。

彼らは一緒に行動してたようだ、私を置いてけぼりにして…。

そして頼むから「カリブの海賊」の話はやめて欲しい、こっちはリアルな賊にやられたばかりで心の傷がちくちくするのだ。

「おい、お前どうかしたんか?」

私の横にクラスメイトの小阪雄二が来た。

一番後ろの席に座っていたのに私のいる真ん中の席まで来るとは、どうやら私が落ち込み続けている様子に気付いていたらしい。

だが、私は十分すぎるほど知っている。こいつは私の身を案じているのではなく、その逆であることを。

それが証拠にニヤニヤと何かを期待しているようないつものムカつく顔をしている。

二年生から同じクラスの小阪は他人の災難、特に私の災難を見て、その後の経過観察をするのを生きがいにしているとしか思えない奴だ。

私が今回のようにこっぴどく先生に怒られたり、誰かに殴られたりした後などは真っ先に近寄ってきて、実に幸福そうな顔で「今の気分はどうだ?」だの「あれをやられた時どう思った?」などと蒸し返してきたりと、ヒトの傷に塩を塗りたくるクズ野郎なのだ。

「別に何でもないて!」

「何やと、心配したっとんのによ!」

嘘つけ!ヒトが怒鳴られて落ち込んでいる顔を拝みに来てるのはわかってるんだ!

しかし、奴の関心は別のところにあった。

「お前、財布落として金ないって?」

「何で知っとるんだ?関係ないがや!」

大西の野郎がしゃべりやがったんだな!

隣に座る大西は小阪と以前から仲が良く、私を見て口角を吊り上げている。

同じ班なので、バスの席も近くにされていた。前の座席には岡と芝谷も座っている。

「お前、ホントはカツアゲされたやろ?」

「!!」

「おお、こいつえらい深刻な顔しとったでな。ビクビクしとったしよ」

大西も加わってきた。気付いていたのか?

「ナニ?ナニ?おめえカツアゲされとったの?」

前の席の岡と芝谷までもが、興味津々とばかりに身を乗り出してくる。

やばい、ばれてる!ここはシラを切りとおさねばならない!

カツアゲされたことがみんなに知られて、いいことなど一つもない。

修学旅行でカツアゲされた奴として、卒業してからも伝説として語り継がれるのは必定。

それに、こいつらを喜ばせる話題を提供するのは、最高にシャクだ!

被害に遭った後、被害者が更に好奇の視線にさらされるなんて、まるでセカンドなんとかそのものじゃないか!

「されとらんて!落としたんだって!」

「ホントのこと言えや。おーいみんな!こいつカツアゲされたってよ」

「されてないっちゅうねん!」

「先生に知らせたろか?ふふふ」

小阪らの尋問及び慰め風口撃は、バスが今晩の宿に到着するまで続いた。

修学旅行生の宿での悪夢

我々O市立北中学校一行の修学旅行第一日目の宿泊地は、東京都文京区にある「鳳明館」。長い歴史を持ち、全国からやってくる修学旅行生御用達の宿だ。

なるほど、かなり昔に建てられたと思しき重厚な外観と内装をしている。

カツアゲに遭っていなければ、私も中学生ながら感慨にふけることができたであろう。

建物の前に立っている

低い精度で自動的に生成された説明
鳳明館

実はこの宿に関して、旅行前からちょっとした懸念材料があった。

ぶっちゃけた話、私は普段の学校生活で嫌な思いをさせられていた。

それも、冗談で済むレベルではない。

トイレで小便中にパンツごとズボンを下ろされたり、渾身の力で浣腸かまされたりのかなり不愉快になるレベル、即ち低強度のいじめに遭っていた。

その主たる加害者である池本和康が、同じ部屋なのだ!

おまけに、小阪や今日最高に嫌な奴だとわかった大西も同室で、あとの二人も悪ノリしそうな奴らであるため、一緒に一つ屋根の下で夜を明かすのは、危険と言わざるを得ない。

部屋割りはこちらの意思とは関係なく、旅行前に担任教師の矢田谷とクラス委員によって一方的に決められており、その面子が同室であることを知った時は、そこはかとない悪意を感じざるを得ず、私は密かに抗議したが、陰険な矢田谷の「もう決まったことだ」という鶴の一声で神聖不可侵の確定事項となっていた。

もっとも、その宿に到着した頃、私の精神状態はカツアゲの衝撃でショック状態が続いていたため、旅行前に感じた部屋に関する懸念については、部分的に麻痺していた。

同じ部屋の面子のことなどもうどうでもよい。今日出くわした災難に比べればどうってことないと。

ちなみに、夕飯を宴会場のような大きな座敷で食べた後は入浴の時間だったが、私はあえて入らなかった。

いたずらされるに決まっているからだ。

実際、二年生の時の林間学校では、やられていた。

同じ部屋の連中が風呂に入ってさっぱりして帰って来た時、私はもうすでに敷かれていた布団に入っていた。

今日はもう疲れた、もう寝よう。明日になれば少しは今日のことを忘れられるだろうと信じて。

しかし、私はこの時全く気付いていなかった。

本日の悲劇第二幕の開幕時間が始まろうとしていたことを。

とっとと寝ようと思ってたが、消灯時間になっても眠れやしない。

小阪や池本、大西及びあとの二人も寝ようとせずに、電気をつけたまま、ジュースやスナックの袋片手に話を続けていたからだ。

「やっぱ、前田のケツが一番ええわ」

「ええなー、池本は前田と同じ班やろ?うちのはブスばっかだでよ」

「小阪ンとこはまだええがな、うちは岡と芝谷だで。あれんた女のうちに入らへんて」

話題はもっぱらクラスの女子の話で、言いたい放題、時々下品な笑い声を立てる。

女子に関してなら私も多少興味があったので、目をつぶりながらも聞き耳を立てていたが。

しかし彼らはほどなくして、私の話を始めやがった。

「ところで、あいつカツアゲされとるよな、絶対」

「ほうやて、泣いた後みたいな顔しとったもん」

いい加減しつこい奴らだ。

だが私に関する話題は続く。

「そらそうと、あいつ今日風呂入って来なんだな。せっかくあいつで遊んだろう思うとったのに」

やっぱり池本は何かするつもりだったんだ。風呂に入らなくて正解だ。

「あいつってムケとるのかな?」

大西がここで、突然嫌なことを言い出した。

「なわけないやろうが、毛も生えてへんて。俺、林間学校で見たもん」

小阪の野郎!言うなよ!

つい前年の林間学校の風呂場で、小阪は私の素朴な下半身を散々からかってくれたものだ。

彼らの会話がどんどん不快な方向に発展しつつあった。カツアゲのことを蒸し返されるのもムカつくが、私の下半身の話も相当嫌だ!

「なあ、そうだよな!あれ?おーい。もう寝とるのか?」

どうしてヒトの下半身にそこまで興味があるのかこの変態どもは!誰が返事などしてやるものか。こっちはもう寝たいんだ!

私は断固相手にせず、タヌキ寝入り堅持の所存だったが、池本の恐ろしい一言で考えを変えざるを得なかった。

「ほんなら、いっぺん見たろうや!」

何?!それはだめだ!私の下半身は、その林間学校の時から変わらないのだ!

「おもろそうやな」「脱がしたろう」他の奴らも大喜びで賛同し、一同そろって私のところに近づいてくる。

私は思わず布団にくるまり、防御態勢を取った。

「何や、起きとるがやこいつ。おい、出てこいて」

「やめろ!」

五人がかりで布団を引きはがされた後、肥満体の池本に乗っかられ、上半身を固められた。

「おら、脱げ脱げ」と他の奴が私のズボンに手をかける。

「やめろ!やめろて!!やめろてえええ!!!」

私は半狂乱になって抵抗し、声を限りに叫ぶが、彼らの悪ノリは止まらない。

畜生!何でこんな目に!

前から思っていたが、うちの両親はどうして反撃可能な攻撃力を有した肉体に生んでくれなかった!

五体満足の健康体な程度でいいわけないだろ!

私がなぜか両親を逆恨みし始めながら、凌辱されようとしていたその時だ。

ドカン!!

入口の戸が乱暴に開けられる音が室内に響き渡り、その音で一同の動きが止まった。

そして、怒気露わに入ってきた人物を見て全員凍り付いた。

「やかましいんじゃい!!」

その人物はスリッパのまま室内に上がり込むなり凄味満点の声で怒鳴った。

我がO市立北中学校で一番恐れられる男、四組の二井川正敏だ!

やや染めた髪に剃り込みを入れた頭と細く剃った眉毛という、私をカツアゲした連中と同じく、いかにもヤンキーな外見の二井川は、見かけだけではなく、これまで学校の内外で数々の問題行動を起こしてきた『実績』を持つ本物のワル。

池本や小阪のような小悪党とは貫禄が違う。

「何時やと思っとるんじゃい?ナメとんのか!コラ!!」

そう凄んで、足元にあった誰かのカバンを蹴飛ばし、一同を睨み回すと、池本や小阪、大西らも顔色を失った。

もう私にいたずらしている場合ではない。

どいつもこいつも「ご、ごめん」「すまない、ホント」と、しどろもどろになって謝罪し始めている。

ざまあみろ!池本も小阪も震え上がってやがる。さすが二井川くんだ!

普段は他のヤンキー生徒と共に我が物顔で校内をのし歩き、気に入らないことがあると誰彼構わず殴りつけたりする無法者だが、二井川くんがいてくれて本当によかった。

災難続きのこの日の最後に、やっとご降臨なされた救い主のごとく後光すらさして見えた。

この時までは…。

「さっき一番でかい声で“やめろやめろ”って叫んどったんはどいつや!!」

え?そこ?夜中に騒ぐ池本たちに頭に来て、怒鳴り込んで来たんじゃないの?

「あ…ああ、それならこいつ」

池本も小阪も私を指さした。二井川の三白眼がこちらを睨む。

「おめえか、やかましい声でわめきおって!コラァ!」

二井川は私の胸ぐらをつかんで無理やり引き立てた。

「え、いや、だってそれは…」

大声出したのは、こいつらがいたずらしてきたからじゃないか!おかしいだろ!何で私なのだ?そんなのあんまりだ!!

「ちょっと表へ出んか…、お?こいつ何でズボン下げとるんや?」

「ああ、それならさっき、こいつのフルチン見たろう思ってさ、脱がしとったんだわ」

矛先が自分には向かないと分かった池本が喜色満面で答えると、二井川からご神託が下った。

「そやったら、お前。お詫びとして、ここでオ〇らんかい

「え…いや、何で…!」

「やらんかい!!」

魂を凍り付かせるような凄絶な一喝で私は固まってしまった。

「おい、おめーら!こいつを脱がせい!」

「よっしゃあ!」

凍り付いた私は、二井川からお墨付きをもらって大喜びの池本たちに衣服をはぎ取られた。

終わった、私の修学旅行は一日目で終わってしまった。

飛び入り参加した二井川を加えた一同の大爆笑を浴び、当時放送されていた深夜番組『11PM』のオープニング曲を歌わされながらオ〇ニー(当時はつい数か月前に覚えたばかり)を披露する私の中で、修学旅行を明日から楽しもうという気力は完全に消失していった。

絶頂に達した後は、カツアゲされたショックも矢田谷に怒鳴られたことなど諸々の不快感も吹き飛んだ。

明日からの国会議事堂も鎌倉も、あと二日もある修学旅行自体もうどうでもよくなった。

私の中学生活も、私の今後の人生までも…。

そんな気がしていた。

おまけに次の日、国会議事堂見学の時に昨日のショックでふらふら歩いていた傷心の私は、二井川の仲間で同じくヤンキー生徒の柿田武史に「目ざわりなんじゃい!」と後ろから蹴りを入れられた。

谷田谷の野郎は、担任なのに知らんぷり。

それもかなり不愉快な経験だったが、その他のことについて、昨日までのことで頭がいっぱいとなっていた当時の私が、二日目からの修学旅行をどう過ごしたか、あまり覚えてはいない。

初日にさんざん私で遊んだ池本たちは、二日目の晩にはもうちょっかいをかけてこなかったが、彼らと私との間で時空のゆがみが生じていたことだけは確かだ。

「ああー帰りたくねえな」と彼らはぼやき、「まだ帰れないのか」と私は思っていた。

失われた修学旅行

修学旅行が終わって日常が始まった。

ディズニーランドでカツアゲされたことは明るみにならなかったが、あの第一日目の宿「鳳明館」で私が強制された醜態は池本たちが自慢げに言いふらしたことにより、私は卒業するまでクラスの笑い者にされた。

修学旅行で起きたことは、もちろん親にも話さなかったし、高校進学後の三年間、誰にも話せなかった。

時間というものはどんな嫌な記憶でもある程度は消してくれるものらしいが、私の場合、三年間では半減すらしなかったからだ。

高校時代に中学の卒業式の日に配られた卒業アルバムを開いたことがあったが、中に修学旅行の思い出の写真ページがあり、二日目の国会議事堂前で撮ったクラスの集合写真に写る私自身が、あまりにもしょっぱい顔をしているので、見ていられなかった。

卒業文集の方も読んでみたら、池本と小阪がいけしゃあしゃあと修学旅行の思い出を書いていたのには、思わずカッとなった。

池本の思い出にいたっては題名が『仲間と過ごした鳳明館の夜』だ。

私にとって悪夢だった修学旅行にとどめを刺した第一日目の宿の思い出を、主犯の一人である池本は、かゆくなるほど詩情豊かに書いてやがった。

そこには私も二井川も登場せず、ディズニーランドの思い出や将来について、小阪や大西らと部屋で語り明かしたことになっている。

「僕はこの夜のことを一生忘れない」と結んだところまで読み終えた時、私はまだ少年法で保護される年齢だったため、他の高校に進学した池本の殺害を本気で検討した。

そうは言っても、時間の経過による不適切な記憶の希釈作用が私にも働くのはそれこそ時間の問題だったようだ。

大学に進学した頃には他人に話せるようになっていたし、何十年もたった今では『失われた修学旅行』などと笑って話せるまでになっている。

もっとも、未だに中学校の同窓会には一度も参加したことがないし、どんなことがあっても東京ディズニーランドにだけは行く気がせず、ミッキーマウスを見ただけで殴りたくなるが。

しかし、今となってはあの修学旅行であれらの出来事があったからこそ、今の私があるのかもしれない。

どんなに調子が良くても「好事魔多し」を肝に銘じ、有頂天になって我を忘れることがないように自分を戒め、慎重さを堅持することこそ肝要としてきた。

今まで大きな災難もなく過ごせてきたのはそのおかげだと、今の自分には十分言い聞かせられる。

中学の卒業アルバムを今開いてみると、三年二組の担任だった矢田谷、宿で私をいたぶった池本、小阪、大西たち、そして四組の二井川の顔写真は、コンパスやシャープペンシルで何度もめった刺しにされて原型を留めていない。

中学卒業後の高校時代の自分がやったことに、思わず苦笑してしまう。

これではどんな顔をしていたか、写真だけでは思い出すことはできないが、しばらくすると中学校時代が部分的にリプレイされ、徐々にだが彼らの顔が頭に浮かんでくる気がする。

そして、私をディズニーランドで恐喝したあの他校のヤンキーたち一人一人も。

時が過ぎて、はるか昔になってしまえばどんな出来事もセピア色。

三十年後の今では中学時代のほろ苦くもいい思い出に…。

いや!そんなわけあるか!

やっぱり2021年の今でもあいつらムカつくぞ!!

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奪われた修学旅行 = カツアゲされた修学旅行生

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本記事中に出てくる人物の名前は、全て仮名となります。

中学校生活で最高のイベントといえば、修学旅行を挙げる人は少なくないだろう。

私はその中学校の修学旅行を、気が早すぎることに、まだ小学校六年生の頃から楽しみにしていた。

小学校での修学旅行先は京都・奈良であり、一泊二日とあっという間であったが、11歳だった私には、旅行先での瞬間瞬間が非常に充実しており、それまでの人生で最良の二日間だった。

旅行先の宿でクラスメイトたちと過ごした一夜は、家族旅行では味わうことができない鮮烈な体験であったことを、今でも覚えている。

当時の私

旅行から帰った後の私は、修学旅行ロスとも言うべき症状に襲われ、配られた思い出の写真を見ながら、もう二度と来ることのないその瞬間を脳内でリプレイしようと努めては、タメ息をついていたくらいだ。

同時に、私は中学校の修学旅行に思いをはせるようになった。

同級生のうち、中学生以上の兄や姉がいる者から聞いたところ、中学の修学旅行は二泊三日だという。

たった一泊二日の小学校の修学旅行でも、あれだけ楽しかったのだ。単純計算で、倍以上の楽しさになるだろうと確信していた。

しかし、その時は全く予想していなかった。

その中学の修学旅行が、これまでの人生で最もひどい目に遭った体験の一つとなり、「好事魔多し」という鉄の教訓を、私に生涯刻み込むことになるであろうことを。

待ちに待ったその日

中学に入学した時から、私の心は二年後の修学旅行にあった。

早く三年生になって、修学旅行当日を迎えたかったものだ。

そんな私の期待を、いやがうえにもさらに高めた知らせを耳にした。

私が入学した年、三年生の修学旅行の行き先は関東方面で変わらなかったが、第一日目の目的地が、何とあの東京ディズニーランドになったというのだ。

教会の塔

自動的に生成された説明
ディズニーランド

私の期待は、一年生の時点で早くも暴騰した。

これはきっと最高の思い出になるに違いないと確信し、いよいよ三年生になるのが待ち遠しくなった。

そして、短いような長いような中学校生活も二年が過ぎ、晴れて中学校三年生となった1989年の5月20日、私は夢にまで見た修学旅行初日を迎えた。

それまでの中学校生活はこの日のためだったと言っても、過言ではない。

前日、修学旅行へ持参するお菓子を、学校で定められた千円の範囲内でいかに好適な組み合わせで購入すればよいかと、スーパーでじっくりと選んでいたために、帰宅が遅くなったものだ。

きっと明日から始まる三日間は、人生で最も幸福な時間となり、終生忘れることなく、何度も思い出すことになるだろう。

私はその日、そう信じて疑わなかった。

そして迎えた修学旅行当日は、私の通うO市立北中学校に集合し、バスに乗って東海道新幹線の駅へ。

そこからは新幹線に乗って、最初の目的地・東京へは一直線だ。

新幹線の中では、クラスの皆はお菓子を食べたり、トランプをやったり、意味もなく動き回ったり、私を含めた三年二組全員は、これから始まる輝かしい時間に誰もが胸躍らせ、車内に期待が充満していた。

新幹線はあっという間に愛知県を越えて静岡県に入った。

浜名湖を超えて天竜川を過ぎて、富士山の雄姿を拝みながら、そのまま一路東に向かい、普段の退屈な学校生活とは全く異なる得難い極上の非日常を味わいながら、三島、熱海、小田原、そして新横浜に到達。

やがて多摩川を越えて東京都に達すると、今まで見たこともない大都会に入ったことを実感した。

ビルの大きさや市街地の質が自分たちの知っている最も大きな街、名古屋市を凌駕しているのだ。

テレビでしか見たことがない東京を実際に目の当たりにした我々は圧倒された。

東京駅に到着すると、そこからはバスに乗って最初の目的地、東京ディズニーランドに向かう。

車中では、私を含めたクラスメイトたち誰もが旅の疲れなどみじんも見せず、これからが本番だと興奮していた。

ディズニーランドへの道中は、窓の外がいかにも東京という光景の連続に目を奪われ続けたため、あっという間に到着してしまった印象がある。

昼食は外の景色を見ながら移動中のバスの中で摂り、待ちに待った約束の地に到達したのは正午過ぎ。

広大なディズニーランドの駐車場でバスを降りて一刻も早くランド内に突撃したかった我々だが、いったん集合させられ、学年主任の教師である宮崎利親から、長ったらしい注意事項を聞かされた。

宮崎が、いつもの論理破綻した冗長な説明において何度も強調したのは、班行動厳守。

所属する班を離れて班員以外の人間と、又は単独で行動してはならないということだ。

そうは言っても、私は自分の所属する班に不満だった。

なぜなら、班長の岡睦子は、私の好みからは程遠い容貌の上に、気が短く口うるさい女。

もう一人の女子、芝谷清美はクラスのカーストで底辺に位置するネクラな不可触民的女子。

男子の大西康太とは、同じクラスになったのは小学校から通算して初めてだし、少々気が合わないところもあって、普段からあまり話す仲ではない。

こんな奴らと一緒でどう楽しめと?

私は班から離脱することを、とっくに心に決めていた。

だが、その決断が後の災難の大きな要因になることを、この時点の私はまだ知らない。

入口ゲートをくぐると、もう教師たちの統制は効かない。

班は、大体男女二人ずつの四人を基本構成としているが、わが校の制服を着た男ばかり三人や女ばかり五人、或いは男女のペア等の不自然な組み合わせが、あちこちで出現し始めた。

皆考えることは同じなのだ。

私もしない手はないではないか。

我々の班は、独裁的な班長の岡の一存で最初に「シンデレラ城」、次に「ホーンテッドマンション」に行くことになっていたが、私は移動のどさくさに紛れて離脱に成功、別行動を開始した。

本当は、同じクラスで気の合う中基伸一や難波亘と行動を共にする手はずになっていたが、あまりにも人が多すぎて、彼らがどこへ行ったか分からなくなった。

今から思えば携帯電話のない時代の悲しさだ。

そうは言っても、私は一人であることを幸いに、自由自在にアトラクションを回ることができた。

「カリブの海賊」、「ビッグサンダーマウンテン」に「空飛ぶダンボ」等々、ジェットコースター系を好む私は「スペースマウンテン」に三回も乗った。

屋外, 草, 車, 座る が含まれている画像

自動的に生成された説明
ビッグサンダーマウンテン
建物の前の飛行機

低い精度で自動的に生成された説明
スペースマウンテン

「ホーンテッドマンション」やショーなど見てても、退屈なだけだ。

「シンデレラ城」など論外、班長の岡の感性に支配された班と行動を共にしていたら、そういった退屈なアトラクションやショッピングばかり行く羽目になっていたはずで、こんなに満喫はできなかったであろう。

私は、自分の果敢な実行主義を自画自賛しつつ、自分好みのアトラクションを渡り歩き、小腹がすくとソフトクリームやポップコーンを買って小腹を満たした。

ディズニーランドの食べ物はどこも割高であったが、心配はない。お小遣いはたっぷりもらっているのだ。

しかし、調子に乗って食べ過ぎて、もよおしてきてしまった。

幸い、トイレはすぐ近くに見つかった。

この差し迫った緊急事態を回避するためにそのトイレに入ると、さすが天下のディズニーランド。床で寝ても平気なくらい清潔だ。

しかもありえないことに、私以外に人がいないのがありがたい。私は心置きなく個室の一つに飛び込んだ。

そして、修学旅行が楽しかったのはこの時までだった。

今考えても無駄だが、なぜよりによって、このトイレを選んでしまったのだろうか?

このトイレこそ、有頂天の私を奈落の底へと突き落とす悲劇の舞台となったのだから。

悪魔たちとの遭遇

ちょうど個室に入ってドアを閉めて、一安心したのと同時だった。

下卑た大声が外から聞こえたのだ。

「お、誰かウンチコーナー入ったぞ!」

誰かに入るところを見られたようである。

声からして私と同じ中学生くらいだと思われたが、その声に聞き覚えはないため、きっと他の学校の修学旅行生だろう。

しかし、ウンチコーナーだと?

私のいた中学校では大便をするということ自体がスキャンダルになるため、外にいるのが自分の学校の人間でないとみられることに一瞬ほっとしたが、それは大きな間違いだった。

「おい出て来いよ」

「ちょっと顔見せろ!」

などと言ってドアを叩いたり蹴ったりで、かなり悪質な連中なのだ。

そんなこと言ったって、こっちはもうズボンを脱いで、便座に腰掛け、大便を始めている。

だが、彼らの悪ノリは止まらない。

「余裕こいてウンコしてんじゃねえよ」

「お、中の奴、今屁ぇこいたぞ」

「おい!いつまでケツ吹いてんだ?紙使い過ぎなんだよ!」

何なのだ、こいつらは?余計なお世話ではないか!

ヒトの排泄の実況中継や批評まで始められるに至って、私のいらだちは頂点に達した。

ドンッ!!

私は「うるさい」とばかりに、内側から個室のドアを思いっきり叩いた。

音は思ったより大きく響き渡り、外の連中の茶化す声が一瞬静まり返る。

私の強気にビビったのか?

いやいや、その逆だった。

「ナニ叩いてんのオイ!」

「俺らと喧嘩してえのか?!」

「引きずり出すぞ!ボケ、コラ!!」

彼らは、先ほどよりずっと大きな声で威嚇しながら、ドアをより強く蹴飛ばし始めたのだ。

まずい、怒らせてしまった。

そして、さっきから思っていたことだが、外の奴らは悪質も悪質、ヤンキーなのではないのか?やたらとドスが利いたガラの悪い口調である。

ならば、断固出るわけにはいかないではないか!

私はパニックになりながらも、まずは外に何人いるのか確認するのが先決だと判断。

この個室にはドアと床の間に隙間があったため、私はその隙間から外を偵察することにした。

清潔だとはいえ少々抵抗があったが、手をついて、床とドアの隙間に顔を近づける。

が、相手も外の隙間から中をのぞこうとしていたらしい。

それがちょうど私が顔を近づけた場所と向かい合わせで、至近距離で私と相手の目と目が合ってしまった。

「うわ!」

「うおお!」

私も驚いたが、外の奴もかなりびっくりしたらしい。中と外で同時に驚きの声を上げて、顔をそらした。

「中にいる奴、宇宙人みてえなツラしてるぞ!」

私は、相手の顔を一瞬すぎて判断できなかったが、外の奴は私の特徴を一方的にそう表現した。

ヒトを宇宙人呼ばわりとは失礼な奴らだ。

しかし、連中の失礼さは、そんなレベルではなかった。

「君は完全に包囲された。無駄な抵抗はやめて出てきなさい」

とか、ふざけたことを言って、タバコに火をつけて、個室に投げ込んできやがった。燻り出そうという腹らしい。

水も降って来たし、借金の取り立てみたく、ドアも連打してくる。

屈してはならない!出て行ったら何されるかわからない!

何より、やられっ放しもしゃくだ。

私は降ってきた火の付いたタバコを投げ返したり、ドアを蹴飛ばし返したりと『籠城戦』を展開した。

どれだけ攻防戦が続いただろうか。まだ水も流せないし、私はズボンもパンツも下ろしたままだ。

籠城戦というより、闇金の取り立てにおびえる多重債務者の気分に近かっただろう。

そのように、ここで一生暮らす羽目になるのではないかとすら、錯覚した時だった。

外の連中とは違う感じの声が響いてきた。

「ちょっと、ちょっと、止めてください。何してるんですか?」

その声がしたとたん、外からの攻撃が止んだ。

ディズニーランドの従業員、通称『キャスト』か!?

そうだろう!いつまでもこんな無法行為を続けれるほど、日本はならず者国家ではない、止めに来てくれたんだ!

「何だよ!中の奴が俺らをナメてんだよ」

「とにかくダメ。こういうことはやめて。警察呼ぶよ」

「中の奴と話させろよ」

「ダメダメ、もういいから出て!」

外で押し問答が続いていたが、ヤンキーどもが折れたようだ。

「わかったよ、行きゃいいんだろ!くそやろーが!覚えとけよ!」と、捨て台詞を吐いて出て行く気配がするのを、ドア越しに感じた。

助かった!さすがディズニーランド、しっかりしてる!これで安心だ。

やっとズボンを穿ける。脱出できる!

恐る恐るドアを開けて外に出ると、外の世界はさっきと同じただのトイレだったが、あの極限状態から脱した後は違って見えた。

異常事態は終わり、日常世界に生還してやった、という歓喜と達成感に満たされていたからだ。

当時のトイレのイメージ

私はトイレの光景を見て、あんな感慨に浸ったことはない。また、今後もないだろう。

同時に他校の不良少年たちの攻撃に耐え抜き、敢闘したという充実感に満たされていた。

これは災難ではあったが、あの勇敢なキャストの助けもあったとはいえ、私の偉大なる勝利だと。

命の恩人たるくだんのキャストにお礼を言うべきだったが、ヤンキー共々トイレ内にはもういないから、別にいいだろう。

とにかくトイレの外に出よう。外では美しい夢の国が待っている。

だが、それは間違いだった。

奴らは出入り口で私を待っていやがったのだ。

夢の国でのひとり悪夢

「このウンコ野郎、やっと出てきやがったか」

そう言って剣呑な目つきで出入り口をふさいでいたのは、ヤンキー漫画のリアル版のような不良中学生七人。

さっきの連中であろうことは間違いないが、剃りこみ頭や染めた髪で、変形学生服を着た本格的な奴らだった。

写真はイメージです

どういうことだ?キャストに追っ払われたんじゃなかったのか?

私は一瞬キツネにつつまれたようにあ然とした。

「ダメダメ!トイレの中へ戻ってください!」

ヤンキーたちの中の一人、眉なしのデブがおどけて言ったその声も口調も、あの恩人だったはずのキャストそのもの。

「オメー、バカじゃねえの?フツーひっかかるか?」

茶髪のヤンキーの一言で、私は彼らの打った猿芝居に、見事に騙されたことを知った。

「そりゃそうとオメーよ、俺らにずいぶんナメたマネしてくれたな」

と、同じ中学生、いや同じ人類とは思えないくらい凶悪な人相のヤンキーたちが私を囲む。

恐怖のあまり穿いていたブリーフの前面が、用を足した直後にもかかわらず尿でじわじわと濡れてきたその時の感覚を、今でも覚えている。

震えあがった私は「え、俺知らないよ」と苦しい嘘をついたが、「オメ―しかいなかっただろう!」と一喝され、トイレの中に連れ込まれた。

二人くらいが、見張りのためか出口を固める。

悪夢の本番が始まった。

床に土下座させられた私は、ヤンキーどもに脅されながら小突き回され、頭を踏まれ、手数料だとかわけのわからない面目で、金を巻き上げられた。

旅行先でのカツアゲに備えて、靴下の下に紙幣を隠すなどの危機管理を行う修学旅行生もいるようだが、当時の私にとってそんなものは想定外であり、財布の中に全ての金があったために有り金全てを強奪された。

私の金を奪った後も、彼らは「殺されてえのか」だの「まだ終わったと思うなよ」などと、私の髪の毛を引っ張ったり胸ぐらをつかんだりして執拗に脅し続け、その時間は、個室に籠城していたよりも確実に長かった気がする。

生徒手帳まで奪われた私は「テメーの住所と学校はわかった。チクったら殺しに行くぞ」と脅迫された。

ヤンキーどもは「そこで正座したまま400まで数えたら出ていい」と命じ、最後に「東京に来るなんて百年早えぞ、田舎者!」と捨て台詞を吐いて、私の頭をかわるがわる小突いたり蹴りを入れてきたりして立ち去って行った。

さっきのようにまだ外にいるかもしれず、恐怖に震えるあまり、涙目の私が律義に400まで数えてから外に出た時には、日がだいぶ傾いていた。

ヤンキーたちは、自分たちの犯行が露見するのを恐れてたらしく、あまりこっぴどい暴行を加えてこなかったが、私の受けた精神的な打撃及び苦痛は甚大だった。

私はまごうことなきカツアゲに遭ったのだ。

カツアゲされた気分は、実際にやられた人間にしかわからないと、今でも断言できる。

おっかない奴に脅され、さんざん小突かれて金品を奪われる恐怖と屈辱は、笑い事では済まないくらいの災難なのだ。

しかも私の場合、ずっと楽しみにしていた修学旅行でそれが起こり、一番楽しいはずの夢の国ディズニーランドで、自分だけが悪夢の真っただ中だったから、なおさらである。

信じたくはなかったが、それは事実以外の何物でもなかった。

こんな目に遭うなんて誰が思うだろう?

はしゃぐのは、許されざる罪だとでもいうのか?

予測できなかった当時の私を誰が責められよう。

ランド内で目に入る客たちは誰も彼も楽しそうにしているため、私は余計に前を見ていられず、下ばかり見て歩いていた。

地面がさっきより暗く見えたのは、日が落ちてきたからばかりではない。

私は半泣きだったため、視界が時々グニャリとゆがむ。

私は修学旅行への期待に胸膨らませていた小学六年生からこれまでの三年近くの年月ばかりか、中学校生活そのものが崩れ去ったように感じていた。

もう、何も考えたくなかった。

こんな不幸に遭うことは、なかなかないはずだ。

これに匹敵する不愉快が、その後も立て続けに起こることは普通ありえない。

だが信じられないことに、私の災難はこれで終わらなかったのだ!

それもこの直後の、この日のうちにだ!

神が私に与えた試練?いや、天罰か。いやいや、嫌がらせとしか思えない。

試練にしては明確に害意を感じるし、ここまで罰されなければいけないことをした覚えもない。

私がどの神の機嫌を、いつどのように損ねたんだろうか?

その神による嫌がらせ第二段の開始時刻が刻々と迫っていることに、この時の私はまだ気づかなかった。 

パート2に続く

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犬鳴峠リンチ焼殺事件 ~超凶悪少年犯罪~

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1988年(昭和63年)12月7日、福岡県粕屋郡久山町の旧犬鳴トンネル近くの路上で未成年による、世にもおぞましい殺人事件が起きた。

4人の少年が車欲しさに、持ち主の20歳の青年を車ごと拉致、凄まじい暴行を加えたあげく、ガソリンで焼き殺した犬鳴峠焼殺事件である。

時代が昭和から平成に移りつつあった80年代末期は、未成年による犯罪が一挙に凶悪化した時期でもあり、同年2月には、名古屋市で未成年らによるアベック殺人事件が起き、東京都綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人は、この年11月から翌年1月にかけて行われた犯行であった。

だが本稿の犬鳴峠焼殺事件は、今なお悪名高き上記二件の犯罪と比べても、何の落ち度もない弱者を身勝手な理由で狙った点では共通しているし、殺害に至る過程の残忍さにおいて、勝るとも劣らない悪質さだったと断言できる。

ネット界隈では知る人ぞ知る事件であるが、本稿では当時の報道を基にして、できる限り忠実かつ詳細にこの許しがたき凶行を取り上げる。

なお、地名などの固有名詞を除き、被害者名・加害者名共に仮名とし(実名を推測できてしまうかもしれないが)、実際にはなかったかもしれないがあったと考えられる会話や挙動、犯人や被害者たちの行動に関する筆者の主観的意見も、一部含まれている点はご容赦願いたい。

死体発見

死体発見時の現場検証(当時の新聞より)

1988年12月7日正午、福岡県粕屋郡久山町の県道福岡-直方線の新犬鳴トンネル入り口から旧県道を1kmほど奥に入った路上で、通行人が焼死体を発見し、福岡東署に通報。

焼死体は二十歳くらいの男性で、身長170cmほどのやせ型で長髪、焼け残った衣類から、緑色のジャンパーを着ていたとみられ、下はジーパンに紺色のズックを履き、靴下は白色。

火に包まれながら倒れていた場所まで走った形跡があるため、現場で焼死したものとみられ、死後数時間程度と推定された。

自殺と他殺の両面で捜査を開始した福岡東署と福岡県警捜査一課だったが、自殺とするには、あまりにも不可解な点が目立った。

まず、男性の頭頂部には石のようなものにぶつかったと思われる五か所の傷(最大で長さ約8cm)があり、倒れていた男性の頭からは大量の血が路上に流れ、ガードレールの一部にも、その血しぶきと思われる血痕が付着していたが、その傷がいつどのようにしてできたかが分からないこと。

そして路上を転げ回った跡がある上に、司法解剖で気管支内からススが検出されたことから現場で焼死したのは間違いないが、右足の靴が見当たらず、その右足の靴下が、歩き回ったように汚れて破れていたこと。

何よりも、死体から漂う臭いからガソリンをかぶって火をつけたはずだが、焼身自殺ならば死体の近くに容器やライター、マッチが見当たらないのはいかにも不自然であり、なおかつ、財布や免許証なども見つからなかった。

〇捜査と犯人の逮捕

翌12月8日午後、焼死体の身元は、福岡県田川郡方城町の工員・梅川光さん(20歳、仮名)と判明する。

被害者の梅川光さん(当時の新聞より)

梅川さんは、母親(45歳)と祖母(72歳)との3人暮らし。

6日朝に、母親をマイカーの軽乗用車で通勤先まで送ってから、そのまま自身の勤務する同県田川市内のスチール製造工場に出勤、同日午後5時半ごろ、その車で退社してから、行方を絶っていた。

翌7日夜、一向に帰ってこない息子を案ずる母親がテレビで焼死体発見のニュースを知って、「ウチの息子では」と警察に届け出たため、鑑識が死体の指紋を鑑定した結果、梅川さんのものと一致したのだ。

そして、8日の夕方には、死体発見現場から約22km離れた田川市後藤寺の路上で、梅川さんの乗っていた軽乗用車が見つかると、いよいよ他殺の線が濃厚になってきた。

現場で容器やライター、マッチが見当たらない以外にも、

  1. 梅川さんの車が発見されたのは自宅とは反対方向。
  2. 梅川さんはいつも寄り道せずにまっすぐ自宅に帰る。
  3. そもそも自殺の動機がない。

などの新たな疑問点が、浮上したからである。

また、発見された車の助手席と後部のトランクからは、梅川さんのものと思われる血痕があり、さらには、別の人物のものとみられる赤みがかった髪の毛、たばこの吸い殻二種類と複数の指紋を検出。

発見された車(当時の新聞より)

死体発見現場付近の聞き込みでも重要な証言があった。

焼死体が見つかった現場近くで7日の午前中、若い男3人が梅川さんのものと同じような軽乗用車に乗っているのを農作業中の主婦らが目撃していたのだ。

これらの物証や証言などから、福岡県警捜査一課と福岡東、田川両署は、12月9日午前、殺人事件と断定。

福岡東、田川両署に合同捜査本部を設置して、本格的な捜査に乗り出した。

しかし、被害者の車が発見され、車内に指紋という決定的な証拠が残っている以上、犯人の逮捕に時間はかからなかった。

その指紋の持ち主と思われる者を1人ずつ任意同行により事情聴取した結果、その日のうちに、梅川さんを拉致して殺害したとあっさりと認めたのだ。

犯行に関わったのは5人で、全て未成年。

うち主犯格とみられる犯人は、被害者の梅川さんと顔見知りだった。

そして、調べを進めるうちに判明した犯行の動機と詳細たるや、あまりの身勝手さと残虐ぶりに、捜査員をあ然とさせるものであった。

犯行の経緯

逮捕されたのは、行商手伝い(おそらく暴力団関連)の大隅雅司(19歳、仮名)を中心として、窃盗や恐喝を繰り返す16歳から19歳までの不良少年グループの5人。

多子貧困の荒廃した家庭で育った大隅は、中学時代から非行を重ねて14回の補導歴と逮捕歴を持ち、強盗致傷や恐喝で、三回も少年院に入れられたことがある筋金入りだった。

今回の事件が発覚した際も田川署で、「まさかあいつでは」と名前が浮かんだほど、署員の間では悪名がとどろいていたくらいである。

そんな大隅が、この事件を起こすきっかけとなったのは車だった。

彼は車を持っていなかったが、車を買う必要は感じていなかったらしい。

なぜなら身近で車を持っている人間がいると、脅しては奪い取ること(“シャクる”などと称していた)を常習としており、次々と乗り換えていたからだ。

被害者も報復を恐れて通報しなかったっため、そのままま、かり通っていた。

梅川さんが彼らに連れ去られることになる6日夕方も、前日知り合いの少年を脅して奪った車を乗り回していた。

同乗していたのは、後に事件の共犯の1人となり、大隅とつるんで悪さを重ねてきた安藤薫(19歳、仮名)である。

まんまと車をせしめることに成功した2人だが、今乗っている車には不満だった。

彼らは、その日の夜、ある女子中学生とデートする約束をしていたのだが(19歳にもなって恥ずかしい奴らだ)、その車は軽トラで、デートには不向きなことこの上なかったからである。

そんな彼らの視界に入ったのは、勤務先から帰宅する梅川さんの乗るダイハツの「ミラ」だった。

当時の若者に人気があった軽乗用車である。

「あの車やったら、格好つくっちゃけどね」

と考えた大隅だが、赤信号で止まったその「ミラ」の運転席に座っているのが、幼い時から顔見知りの梅川さんだと分かると、途端に一計を案じた。

「あいつのば使うったい」

大隅は安藤を促して、軽トラを路肩に停車させて降り、信号待ちしている梅川さんの乗る「ミラ」に近寄った。

返す気があったか否かは別として、そんな場所でいきなり車を借りようとする神経もなかなかのものだが、欲しいものがあれば、脅して奪うことを繰り返している彼らに躊躇はない。

それに、大隅は梅川さんのことをよく知っていた。

子供のころから年上とはいえ極端に気が弱く、嫌とは絶対言えない性格をしていたのだ。

「よー、光やない。ちょっとドアば開けんか」

などと言って強引に車に乗り込むと、臆面もなく凄みすら効かせて、要件を切り出した。

「俺らこれから女(おなご)と会うことになっとーとたい。ばってん軽トラしかなかけん、格好つかんっちゃん。だけん、オメーの車(俺らに)貸しちゃらんや」

「断るわけはない」と踏んでいた大隅だったが、梅川さんの反応は予想外なもので、逮捕後以下のようなことを繰り返し言っていたと供述した。

「ばあちゃんに叱られるけん」

梅川さんは母親と祖母の3人暮らし。

ビルマ戦線で夫を亡くした祖母は、女手一つで行商をしながら、梅川さんの母となる娘を育て上げたが、その母は、梅川さんをもうけた後離婚。

しかし、彼女も祖母譲りのしっかり者で、梅川さんを同じく女手一つで立派に育てた。

そんなつつましく懸命に生きてきた一家の一粒種である梅川さんは、軽度の知的障害があったらしく、極度に内向的で人見知りであったため、少々将来を心配されていた。

だが、彼は工業高校を卒業後に、スチール製造工場に無事就職。

行く末を案じていた孫の就職を祖母は非常に喜び、母と共に決して多くはない貯えを大幅に切り崩して、就職祝いとして軽自動車「ミラ」を買い与えた。

そんな祖母と母の思いを梅川さんも、十分知っていたのであろう。

その車を、小さなころから悪ガキで、今は輪をかけて悪くなった大隅に、おいそれと貸すわけにいかない。

返してくれない可能性が高いからだ。

その思いがあったからこそ、出た言葉だった。

あるいは、梅川さんなりの遠回しの拒絶だったのかもしれない。

だが、札付きの不良である大隅たちに、その思いが通じるわけがなかった。

「あ?貸すとか貸さんとか?どっちや、ああ?!」

「えと、えと、ばあちゃんに…」

「ナメとうとか!バカ!」

短絡的な大隅は、中途半端な返答にイラつくあまり、梅川さんを殴りつけた。

「よか歳ばして、ばあちゃんばあちゃんて、ガキみたいなことばっか言いくさりやがって!」

一度キレたら、もう止まらない。

さっさと車を手に入れて女に会いに行きたいがばかりに完全に頭に血が上っていた。

安藤も加わって、助手席に移らせた梅川さんを殴る殴る。

暴行はかなり激しく、梅川さんは流血。

助手席の血痕はこの時に付着したようだ。

それまで乗っていた軽トラを放置したまま、新たな車を乗っ取った大隅たちは、持ち主の梅川さんを車内で乱暴しながら、向かった先は、田川市に住む配下の1人である沢村誠一(16歳、仮名)の家。

これから始まるデートの間、邪魔な梅川さんを監禁しておくためだ。

監禁した後、どうするつもりだったのか?

その場の思い付きだけで行動する彼らに大した考えはなかったのであろう。

同じく配下の坂本剛史(16歳、仮名)も呼びつけて沢村とともに見張りをさせ、その間に、自分たちは梅川さんから奪った車で、のうのうとデートに向かった。

おっかない先輩の大隅の命令だ。

断るわけにいかない沢村と坂本は、当初、おびえる梅川さんをいびるなど忠実に勤めを果たしていたが、大きな失態を犯してしまう。

夜中になっても帰ってこない先輩たちを待ち呆けるあまり眠ってしまったのだ。

手ひどい暴力を振るわれた上に、新たに加わった見るからに悪そうな2人に睨まれ続けて、縮み上がっていた梅川さんだが、夜中の午前二時、見張りが完全に寝入ったのを見て、思い切った行動に出る。

逃走を図ったのだ。

しかし、運が悪かった。

ほどなくしてデートを終えた大隅と安藤が、梅川さんの車に乗って帰ってきたのだ。

大隅は激怒した。

梅川さんを逃がしてしまったマヌケ2人に雷を落とし、帰ってきた際に車に同乗していたもう1人の配下の小島幹太(17歳、仮名)も加えて、追跡を開始する。

どこへ逃げたか、全く見当がつかないわけではなかった。

大隅は梅川さんの家を知っていたし、梅川さんが性格上見知らぬ他人の民家に駆け込んだり、通りがかりの車に助けを求めないであろうことも、見つからないように暗い場所を選んで逃げることをしないであろうことも、予測していた。

果たして大隅の読み通り、監禁場所から2km先の通りを、自分の家に向かって逃走する梅川さんを発見。

執拗に追い掛け回して捕らえた。

せっかくのいい気分だったのに、手を煩わされたと逆ギレしていたのか、それとも女子中学生とのデートの首尾が思わしくなくて、イラついていたのか。

大隅たちの身勝手な怒りは相当なものだった。

「ナメたマネしくさりやがって!オラ!オラ!オラア!!」

梅川さんへの暴力は拉致した当初よりさらに凄惨なものになり、顔面パンチが止まらない。

顔が完全に変形し、血だらけになっても手は緩めなかった。

キレたらヤバイことは不良にとって美徳である。

皆も残虐さをアピールするのはここぞとばかりにこぞって無抵抗の弱者を痛めつけた。

そして、どこまでも感情のおもむくまま場当たり的に行動する大隅は、腫れあがった顔からとめどなく血を流してうめく梅川さんを見てとんでもないことを言い出した。

「警察にチクられんごと、殺しんしゃい!」

犯歴を重ねて少年院に何度も入っている大隅は、警察で手荒な取り調べを受けたり、少年院で不自由な生活を強いられることの不快感が、骨身にしみていた。

ここまでやったら逮捕されて、四度目の少年院へ送られるのは間違いがなく、そんなことにならないよう、口を封じておこうというのだ。

だからと言って、傷害罪で訴えられるのを避けるために被害者を殺してバレれば、より重い刑が科されるに決まっているのだが、そこまで考える気はなかったらしい。

大隅は激情的で悪辣な上に人並外れて低能だったからだ。

他の者たちも同じで、誰も止めようとはしなかった。

ボロボロになった梅川さんを、彼から奪った車のトランクに押し込み、安藤はじめ配下の小島と坂本を同乗させて、まだ暗い12月の早朝、福岡県京都郡苅田町の岸壁へ向かった。

海に突き落とすつもりである。

苅田港の岸壁(イメージ)

大隅たちは岸壁への道中の車内でも、着いてからも、梅川さんをさんざん殴った。

それにも飽き足らず、口に火のついたタバコを放り込み、殴りすぎて手が痛くなるとクランクやナット回しを使って殴り、スペアタイアを投げつけるなど滅多打ちにし、岸壁から海中に落とそうとした。

「もうやめんね!!勘弁しちゃらんねえええ!!!」

だが、梅川さんは腫れあがった顔を、血と涙でぐちゃぐちゃにして泣き叫び、岸壁のへりにしがみついて、必死に落とされまいと抵抗。

すると今度はその手に向けてバールが打ち下ろされる。

肉がえぐれ、骨が露出して血が流れ出し、痛みのあまり意識を失ったらしく、ぐったりしたが手は離さない。

そんな、生への凄まじいばかりの執念を目の当たりにして、たじろいだ者もいた。

「もうやめにせんね?なんかかわいそうやん」

だが大隅は冷静だった。最悪な意味で。

「ばーか!オメーらも殺人未遂の共犯やけんね。捕まったらしばらく出て来(こ)れんとばい。何が何でも殺すしかなかろうもん!」

その時、海の向こうから一艘の船が、こちらの岸壁に近づいてきたのが見えた。

まずい、これを見られたら面倒なことになる。

彼らはここでの殺害を中止、ヘリにしがみついていた梅川さんを引きずり上げて車のトランクに入れ、その場を離れることにした。

だが殺害自体を断念したわけではなかった。

もはや誰もやめようと言い出す者もなく、集団はそのまま最悪の結末へと突き進む。

安藤がハンドルを握る車の中では、具体的な殺害方法と場所の検討が始まった。

「港は船とか車の来(く)っけん、いかんばい。ダムに沈むっとはどげんかいな。ここらでダムとかあったかいな?」

「力丸(りきまる)ダムとか、いいっちゃないと?」

「よか。オイ安藤、力丸ダムやけんね。」

一行は今度こそ確実に殺そうと、福岡県宮若市にある力丸ダムに向かったが、途中で中止した。

「ダムやったら死体が浮いてくるっちゃないと?」と、死体が浮いてくる可能性があると考えたためだ。

「そいなら、どげんすっと?埋(う)むっとは?あ、そうだ顔のわからんごと燃やしちゃろう」

「ガソリンやったら、バリバリ燃えるやん」

力丸ダム

逮捕後の取り調べで明らかにされたが、これらの会話はトランクに押し込められている梅川さんにも当然聞こえていた、というか聞かせていた。

後ろから、恐怖と苦痛のあまりうめきながらすすり泣く梅川さんにさらに追い打ちをかけるように、大隅は笑いながらこう言ったという。

「光、もうすぐ楽にしちゃる!」

7日朝8時、大隅らは途中で犯行に使うガソリンを購入するために、ガソリンスタンドに立ち寄る。

「バイクがガス欠になったけん、これに入れちゃらん」

そう言って、1リットルの瓶を差し出した彼らのことならよく覚えていると、従業員は後に語った。

一目で不良と分かる連中だったが、女性従業員に卑猥な言葉をかけて笑い合うなど、この時に買ったそのガソリンを使って殺人を起こすつもりである様子は、一切感じなかったらしい。

ガソリンを購入した後、車内で大隅は、殺害の役割分担を決めようと言い出した。

自分だけが罪をかぶる気はなかったし、全員をそれぞれ殺人に加担させれば、誰もおいそれと口外したりはしないだろうからだ。

「ガソリンかくる役やら、火ィ付くる役とかジャイケン(ジャンケン)で決めるけん」

「じゃあ俺、ガソリンばかくる役ばやりますけん」

ジャンケンの前に自ら志願したのは17歳の小島で、これは実際に火を付ける役を嫌ったかららしい。

「俺はティッシュに火ば…」ともう1人の配下の坂本も直接手を下す役を避ける。

結局、殺害場所の選定は運転する安藤が行い、火を付ける役は大隅自身に決まった。

死の恐怖を梅川さんにたっぷり味わわせながら、人気のない場所を探して車で走り回ること2時間。

殺す場所として選んだのは粕屋郡久山町の旧犬鳴トンネルで、そこは人通りがほとんどない山の中の旧県道であり、当時から心霊スポットとされるくらいの不気味な雰囲気を漂わせていた。

旧県道の入り口(現在は閉鎖されている)

午前10時ごろ、一行はトランクを開けて梅川さんを引きずり出すと、手はずどおり小島がガソリンを浴びせる。

「ああああああああ!!!」

その時、今まで弱々しくうめいていただけの梅川さんがとんでもない大声を上げたために小島は思わずひるんでしまった。

全身を鈍器まで使って滅多打ちにされた体のどこにそんな力があったのか、脱兎のごとく走り出して山の斜面を登って逃走。

「何逃(の)がしようとか、バカが!!捕まえんか!」

大隅たちも慌てて跡を追ったが、山の中に逃げ込んだ梅川さんの姿は完全に消えてしまった。

このまま逃げ続けていれば彼も20年というあまりにも短い生涯を無残に絶たれることなく、さらわれてさんざん暴行されたことによる肉体的精神的な後遺症は残ったとしても、2021年の現在まで生きていたかもしれない。

しかし神から与えられた絶体絶命の危機を脱する機会を一度ならず二度までも無駄にしてしまい、命運が尽きる。

「おーい光!(俺らが)悪かったけん出てこんね。もう何もせんけん、家にも帰しちゃーけん!」

この見え透いた大隅の呼びかけに対して、愚かにも山の中から姿を現し、おとなしく出てきてしまったのだ。

あるいは、この場は逃げおおせたとしても、自分の住所を知っている犯人たちに後日再び襲撃されて、よりひどい目に遭わされることを恐れていた可能性もあるが。

「バカか貴様(キサン)!終わったバイ」

大隅たち悪魔の方は、この機会を逃さなかった。

再び捕らえると、今度は逃がさないよう4人がかりで両手両足をビニールテープで縛り、口には仲間の1人から差し出させたシャツを破いて押し込む。

縛られて、さるぐつわをされた口から、必死に命乞いの言葉を発する梅川さんを道路に正座させ、残ったガソリンをかけて火のついたティッシュを投げ込んだ。

瞬間的に発火して火だるまとなった彼はのたうち回り、火で溶けた衣類やビニールテープを路上やガードレールにこびりつかせながら走り回った後に崩れ落ち、やがて動かなくなった。

焼殺現場(当時の新聞より)

愚劣極まりない犯行後の犯人たち

梅川さんが息絶えた後、犯人たちは、とどめとばかりに石か鈍器のようなものを頭に叩きつけており、頭の傷はこの時できたものと判明した。

ネットでは、この傷からの失血死という情報もあるが、当時の報道を見る限り死因は焼死である。

大隅たちは梅川さんを焼き殺した後、すぐに車で現場を離れたようだが、また五分後に戻ってきて車内から動かなくなっているか否かを確認。

それを三回も繰り返していた。

犯人たちは、さらなる証拠隠滅のため、奪った財布から免許証を取り出して焼き、同じく梅川さんの時計も投棄。

かように用心に用心を重ねたつもりの大隅たちだが、その後の行動が、あまりにもずさんだった。

一旦、監禁場所の家に戻ると、殺人には加わらずそのまま家にいた沢村も加えて、5人で隣町の飯塚市へ梅山さんの車で飲みに出かけ、戻ってくると、自分たちの指紋や被害者の血痕などの物証だらけの車にカギをかけ、田川市後藤寺の路上に駐車していたのだ。

逮捕後の供述によるとまた使うつもりだったらしい。

押収された梅川さんの車(当時の新聞より)

後に、その物的証拠が決め手となって逮捕に至るわけだから、犯罪者としても三流だったとしか言いようがない。

おまけに、大隅は生活保護を受ける母親と暮らす自宅に戻った際、近所の人に「警察来(き)とらんよね?人ば焼き殺してしもうたけんくさ」と、にわかには信じがたい言葉を吐いている。

被害者遺族たちの悲憤

被害者の葬儀(当時の新聞より)

生前の梅川さんは、その内向的でおとなしすぎる性格から、友達付き合いもあまりなく、仕事が終わるとまっすぐ家に帰っていた。

また、給料の10万円のうち7万円を家に入れ、よく車で祖母や母を買い物に連れて行く、近所でも評判の孝行息子だったという。

親子三代でつつましく暮らす梅川家における、かけがえのない宝だった。

その宝、たった1人の子供をあり得ないほどむごたらしい方法で奪われた遺族の悲しみが、尋常ではなかったのは言うまでもない。

9日に密葬が行われた後の自宅では、母の裕美さん(45歳、仮名)と祖母の房江さん(75歳、仮名)が奥の部屋にこもったままで、涙で目を真っ赤にはらし、親族の慰めにも無言でうなずくだけだったという。

叔父の健さん(50歳、仮名)は怒りをこらえながらマスコミの取材に答えてこう言った。

「ただ悔しいとしか言いようがない。犯人に対して何もできないし、耐えるしかないのか。許されるなら、同じことを犯人に対してしてやりたい」

反省なき鬼畜たちのその後

主犯の大隅は、姉に付き添われて田川署に出頭してきた時はぶるぶる震えており、9日の夕食、10日の朝食とも一口しか手を付けず「光のことを思うと食欲が出らん」などと言った。

他の少年たちも「かわいそうなことをした」と後悔の言葉を漏らすようになっていた。

しかしそれは最初だけだったようだ。

犯人たちは開き直ったのか、これが素だったのか次第に何の反省もない態度を取り始める。

朝昼晩の食事は全て平らげ、外部から差し入れられたカップラーメンも完食。

取り調べでもあっけらかんと笑みすら浮かべて犯行についての供述をした。

殺害には加わっていないことを理由に「俺は見張りしてただけやろうもん。なして捕まらんといかんと」と言い張る沢村も問題だったが、焼殺の実行犯たちの中には「あいつが車ば貸さんかったけん、やったったい」とすら口にした者もいた。

主犯格の大隅である。

大隅はさらに「俺は何年の刑になると?」と、自分が未成年であることを理由に大した刑にはならないとタカをくくってすらいた。

だが、甘かった。

その後の一審判決で無期懲役が下されるや「重すぎる」と控訴。

1991年3月8日、福岡地裁で開かれた裁判では控訴を棄却されて二審でも無期懲役が確定した。

成育歴が劣悪だっただのの言い訳や、拘置所で被害者の冥福を祈って読経をしたりのこれ見よがしの行為では、情状酌量は認められず、

『犯行は他に類例を見ないほど残虐。被告はその中心的な役割を果たしており責任は重い』

と判断されたのだ。

しかし、事実上の副主犯格の安藤薫には、5年以上10年以下、その他の従犯の小島幹太と坂本剛史には、4年以上8年以下の懲役であったのは果たして妥当であったのか?

あれほどの凶悪犯罪を行った大隅は、2021年の現在でも服役していると思われる一方、他の3人のうち出所後、地元の広域暴力団に加入して幹部にまでなった者がおり、今でも「あの時の犯人は俺だ」と犯行を自慢しているという、ウソか誠か知れぬ情報がネットでは出回っている。

しかし、あながちウソとも思えない。

あんなことをしでかした奴らだから暴力団に加入してもおかしくないし、そこしか行き場はなかっただろうからだ。

凶悪犯罪を平気で犯すような奴らは、基本的に反省することがないと考えるべきである。

必ず「あれは仕方なくやったんだ」とか「もう償いは十分したはずだ」とかの言い訳を、自分の中で確立するものだし、逆に武勇伝として誇らしく吹聴したりして、再び犯罪に手を染める輩が多いことは女子高生コンクリ殺人の犯人たちのその後が、証明している。

凶悪犯を反省させる必要はない。

だが一線を踏み越えたことへの後悔だけは、十分にさせる必要がある。

司法は更生よりも、危険極まりない人物を、社会から隔離するか無力化することに重点を置くべきだと思うのは、筆者だけではないはずだ。

死体発見現場にたむけられた花(当時の新聞より)

出典元―西日本新聞・朝日新聞西部版・『うちの子が、なぜ!―女子高生コンクリート詰め殺人事件』(草思社)

かげろうの家 女子高生監禁殺人事件 (追跡ルポルタージュ シリーズ「少年たちの未来」2) 犯人直撃「1988名古屋アベック殺人」少年少女たちのそれから―新潮45eBooklet 事件編10 うちの子が、なぜ!―女子高生コンクリート詰め殺人事件

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未成年に踏みにじられた25歳の純情 ―実録・おやじ狩り被害―

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1999年(平成11年)、24歳だった私は某電器メーカーの工場で派遣工をしていた。

大学卒業後に就職した会社を、一年とちょっとで追われたからだ。

時は就職氷河期の真っただ中、職場には私と同世代の者が意外と多かった。

就職できなかったか、私と同じく会社からドロップアウトしてしまった若者たちである。

そんな中にH川という青年がいた。

H川は私と同じラインで働いているから顔見知りだが、話したことはない。

私が職場で口を利くようになった人間の一人にM田という男がいて、そのM田がH川とよく話す仲だった。

奇しくもH川はM田の小中学校の同級生で、昔馴染みだったのだ。

つまりM田と同い年だった私とも学年は同じだった。

M田によるとH川はある専門学校を中退後、また別の専門学校へ入り直して卒業してから就職したが、一か月未満で辞めてからこの工場で働いているという。

H川は大人しそう、というか気弱でネクラそうな感じの青年である。

長めの寝ぐせを整え切れていない不潔そうな髪型、170cmくらいの細身だが運動不足で体脂肪率が高めであろうガリポチャ体型、私服のセンスも悪い。

その外見からも、活舌が悪くモゾモゾと何を言っているかわからないしゃべり方から判断しても女性には絶対にモテそうにない感じの男だった。

私も似たようなもんだったが。

だが10月中旬の金曜日、そのH川が大変身を遂げて職場にやって来た。

長めの髪を金髪に近いような茶髪に染め、耳と鼻にピアス。

上下は作業着に着替えていたのでどんな私服を着て来たのかわからなかったが、首から上だけでも十分インパクト大の変わりっぷりだった。

一体何があった?工場の薬品による労働災害か?

いやいや、女関係に決まってる。

果たしてやっぱりその通りで、今晩女性と会う約束をしているとかで、そのためのイメチェンだった。

「どうしたんだその恰好?」とM田らが聞くと、H川は待ってましたとばかりに喋る喋る。

何でもテレクラ(1999年当時は携帯の出会い系サイトも出始めていたが、テレクラも健在だった)で知り合ったらしく、しかも相手は女子高生だというではないか。

当時女子高生は『コギャル』と呼ばれて世のいい歳こいた男どもにもてはやされ、コギャル文化真っ盛りの時代。

だからH川は普段と違ってもう有頂天という感じで、相手は女子(コギ)高生(ャル)であることを特に強調していた。

M田たちは「援助交際だろう」とか「本当に女子高生か」とからかったら、もうすでに一回だけちょっと会っており、今回は二回目で本格的なデートだという。

たったその程度なのに喋っているうちにH川は相手のことを「俺のオンナ」とか「カノジョ」とか言い始め、もうすっかり交際しているつもりになっている。

それをツッコまれると、「俺のことを気に入ったって向こうは言ってんだ!」とムキになった。

「おいおい、ヤバくねえか?」「おっかない奴出て来るぞ」と、みんな懸念を表明したが、H川は聞く耳を持たない。

それどころか「俺ってマジで何歳に見える?高校生くらいに見えなくね?」とかワケわからんことを言い出している。

「25歳には見えない」と言われたらしく、いい歳こいて喋り方までそれっぽく変えて。

25歳未満ではなく25歳より上に見えるという意味じゃないのか、それは?

私も端から聞いてて、どう見てもヤバいような気がしていた。

だってH川はネクラで地味な青年で、喋りがド下手くそなコミュ障。

年上の男に魅力を感じると相手は言っていたと彼は主張するが、イメチェンしたとはいえ小学生のまま25歳になったような感じのH川に、高校生くらいの女の子が寄ってきそうな大人の魅力があるようにも見えない。

援助交際じゃないとしたら、相手の女子高生とやらには何か危険な目的があるんじゃないか?

第一、彼のイメチェンは私から見ても無理してる感が強く、痛々しい。

今までファッションに全く気を配ってこなかった者が、急にシャレっ気を出した場合特有のズレを感じる。

染めた髪だってムラがあるし、相変わらず寝グセ立ってて変な髪型のままだし、ピアスの位置もおかしい。

それにいい歳こいて、そのガキみたいなファッションは何だ?

などなど心の中でツッコミを入れつつ、実は自分と同じくらいネクラそうな奴がまんまと女性と会うことができたことに対する嫉妬が混じっていたのも事実だ。

もうすでに一回会っているって言ってるし、もしH川の話が本当だったら私もテレクラ行ってみようかな、ともちょっと思ってた。

作業が始まってもH川ははしゃぎっぱなしで、隣の奴にあれこれ話しかけてる。

聞こえてきたのは「どのラブホテルが一番おすすめ?」だ。

さっきから聞いてりゃ気が早すぎだろう、今回も約束どおり相手が来るとも限んないんだぞ。

などと横目で聞き耳を立てていたら、「おい!横見て作業するな!」

現場監督に怒鳴られたのはおしゃべりしていたH川ではなく、なぜかそれを見ていた私の方で、何とも釈然としない。

こうしてその日の作業が終わり、午後5時の終業時間になるや、H川は踊るようにタイムレコーダーに向かって行った。

さぞかし期待で胸と下半身を膨らましていたことだろう。

それが、彼を見た最後だった。

土日が明けて、月曜日。

H川の野郎はどんなこと言ってデートにこぎつけたんだろうか?普段話さないけど聞いてみようか?などと考えながら出勤した。

実は金曜日からずっと気になっていたのだ。

朝礼が行われる従業員休憩室に行くと、私の担当ラインのみんなが揃いも揃ってM田とそのツレのK保を囲んで話をしていた。

H川はその中にはおらず、まだ来ていないようだ。

彼らに近づいてみるとみんな深刻な顔をしており、「それで大丈夫なの?」とか「何で警察に言わなかったの?」とかの言葉が聞こえた。

何だかただ事ではない。

何があったのか気になったので、私もその輪に加わる。

「どうしたの?」

「H川がやられたってよ」

「やられたって?ナニされたの?」

「ボコられたらしい。K保が見たってさ」

K保は私たちと同じラインで働いており、H川とも仲が良い。

やや顔をひきつらせたK保によると、事の顛末は以下のとおりだった。

K保は金曜日の夜9時ごろ、女子高生とデートしているであろうH川に冗談半分でメールしたという。

その内容は「おい、もうどこまでいった?もしかして真っ最中か?」というようなもので、わざわざみんなにその時の携帯のショートメールの送信履歴で見せてくれた。

その後しばらく待っても返事がなかったため、K保はひとまず風呂に入った。

風呂から出て携帯を見ると、何と15分くらいの間に二件の着信履歴と留守録。

すべてH川からだった(これもK保は我々のために再生してくれた)。

一件目の留守録を再生すると、H川の「ああ、あのさ、大至急かけ直して」という短いメッセージ。

二件目は、「おい、頼むよ!大至急かけ直してくれって!」というかなり切迫した感じの声だった。

最初、K保はH川がこっぴどく女子高生に振られでもして、その愚痴を話したいんだろうと思ったらしい。

少々ザマミロとほくそえみながらかけ直したら、ワンコールでH川が出た。

だが、H川が電話に出るなりいきなりまくしたてるように話した内容が異常だった。

いきなり「金を貸してくれ!」と頼んできたのである。

しかもその額が十万円で、10時までに市内のB原中央公園という公園に持って来てくれというものだった。

確かにB原中央公園はK保の家から近いから行けないことはないが、いきなり「十万円貸せ」なんて頼みを当然聞けるわけがないからK保は断った。

だが、H川はなおも理由も言わず懇願し続けるので、二人の間で「何で貸さなきゃいけないんだ」「いいから頼む」という押し問答が続く。

付き合ってられないと思ったK保が電話を切ろうとしたら、「ええから持って来いや、ボケェ!」という怒声が電話から響いた。

その声はH川ではない若い男のものだったが、いかにもこういう脅しに慣れていそうなドスの効いた喋り方だったという。

その若い男の言い分は、H川がナメた真似したので落とし前を付けさせているが、これはツレであるK保の責任でもある、という無茶苦茶なものであった。

「俺には関係がない」とK保が少々ビビりながら突っぱねると、「ツレがどうなってもいいのか?」と電話の向こうでH川を痛めつけ始めた。

受話口から「やめてくださ…ぐふっ」とか「勘弁してく…痛ぁ!」とかのH川の叫び声が聞こえて来る。

ばかりか相手の男はK保の氏名や住所、勤務先などの個人情報を把握していることを告げ、10時までに約束の場所に金を持って来なかったらこちらから行く、と脅してきた。

K保のことはH川が苦しまぎれに教えたんだろう。

そして「警察にチクったら必ず報復する」と凄まれ、電話が切られた。

悪い奴らと何かあったのか?いや、H川は女子高生に美人局をかまされたに違いない。

K保は相手が声の感じから未成年だと確信したが、だからこそ怖くて怖くて仕方がなくなっていた。

この当時の少年法は「犯罪をやるなら未成年のうち」と言っているに等しいほど大甘で、それを盾に取った未成年の悪党たちは、金を持っていそうな成人男性を襲う「オヤジ狩り」などの凶悪犯罪を犯しまくっていたからだ。

そんなK保が取った行動は、相手の要求に従うでも警察に通報するでもなく、黙殺だった。

電話の電源を切り着信が来ないようにして、もし本当にこちらに来たらどうしようと、おびえながら床に就いた。

結局10時を過ぎても連中は来なかったが、不安のあまり朝までほとんど眠れなかった。

K保はこんなことに巻き込んだH川にムカついていたが、やはりどうなったか気になっていたので、昨晩彼らがいたであろうB原中央公園へ親から借りた車で行くことにした。

公園までは車で行けば5分とかからない。

公園に着くと、いつでも逃げられるように周りを車で巡回しながら様子を探る。

まだ連中がいるかもしれないからだ。

様子を探っていると、遊具のある広場の街灯の周りに人だかりができているのが見えた。

「もしや」と思い車を停めてその人垣に近づくと、その中央にいたのは案の定昨日職場で見たばかりのあの明るい茶髪、H川本人だった。

何と、広場の街灯にガムテープでぐるぐる巻きに縛り付けられてぐったりしている。

しかも全裸で!

H川は殺されてはいないようだったが、殴られて顔を腫らし、タバコで根性焼きをされた跡も所々体に残っており、陰毛も剃られていた。

ずいぶん屈辱的なシメられ方をしたものだ。

周りで見ているジョギングや犬の散歩で公園を訪れたと思しき人たちも人たちで、「動かさない方がいい」とか言ってガムテープをほどきもせず、H川を全裸のまま放置していた。

K保もそのまま見ていただけだったようだ。

その間にも近所の住民など野次馬が次々現れ、H川の醜態の目撃者は増えてゆく。

誰か通報はしていたらしく、ほどなくして救急車、そしてパトカーが到着した。

やっとガムテープをほどかれたH川は片手で股間を、もう片方の手で顔を覆い、警察官の質問に何事か答えながら救急隊員に促されて救急車までフラフラ内股で歩いて行ったという。

「だからヤバイって言ったのに。俺らまで巻き込みやがって」

K保と同じく電話で脅迫されたというM田も、犯行グループより自分たちを売ったH川に腹を立てているようだった。

脅された時点で彼らのうちどちらかが警察に通報していれば、H川もあそこまでこっぴどくやられることはなかったはずだが、それについての反省はしていない。

他の連中の中には「テレクラって怖いな」「無茶苦茶やる連中だな」と凍り付いている者もいたが、「バカだな」「恥ずかしいやられ方だぜ」「ちょっと笑える」と冷たいことを言う者の方が多かった。

その後、犯行グループが逮捕されたことを新聞の報道で知った。

何とH川をハメた相手は女子高生を装った女子中学生であり、ボコったのも同じ中学に通う二年生や三年生の悪ガキども8人だったことが分かった。

25歳のH川は中学生たちにハメられ、一晩中いいように痛めつけられていたのだ。

彼らはまず女子中学生がテレクラを使って相手を人気のない公園に呼び出し、いざ相手が来ると人数を頼みに金品を脅し取る、という分かりやすい手口を使っていたという。

H川は二回目に会った時にやられたが、おそらく一回目は相手を見極めていたと思われる。

H川以外にも引っかかった者がいたらしく、警察は余罪を追及しているようだったが、犯罪被害のきっかけがきっかけだけに泣き寝入りしている被害者も多いことだろう。

彼らはそれを見越して相手が大人しく金を出しても、調子に乗ってさんざん暴行を加え、友人知人にも金を持ってこさせようとするほどの向こう見ずな悪事を働いていたのだ。

ただし、今回はH川を公園に放置したためにその犯行が露見してしまったらしい。

ちなみにH川を指しているに違いない被害者についても新聞は触れており、『アルバイトの男性(25歳)は財布とATMから合計6万円を脅し取られて暴行を加えられ、顔と下半身に全治二週間の怪我』と報道されていた。

25歳のくせに全所持金が6万、それと新聞記者も「下半身」の三文字は余計だろうに。

H川はそれ以降職場に姿を現さなくなってしまった。

あれだけ職場で「相手は女子高生だぜ」とか自慢して周ったあげくまんまとハメられてシメられ、報道までされてしまったんだから、みっともなくて顔を出せるわけがない。

と言うより、外出すること自体怖くなってしまったはずだ。

私も中学生の時にカツアゲされた経験があるからわかるが、見ず知らずのおっかない奴らに脅されてドツかれたりして金を巻き上げられる体験は半端じゃない恐怖で、その後しばらく街を安心して歩けなくなるくらいの災難なのだ。

しかもH川の場合相手は中学生で、そんなガキどもに長時間好き放題やられて、マックスの恐怖と屈辱が相乗効果を発揮した人生最悪の体験だったはずだ。

その後はその後で醜態を大勢の人にさらしてしまい、きっと一生忘れられない悪夢となったことだろう。

相手方の中学生たちにとっては面白かったに決まってる。

あんなことするような奴らだから、同級生の女相手に鼻の下伸ばしてやって来たひと回り以上年上の男を痛めつけるのは快感だったに違いない。

使命感すら持って「自分がこれやられたら嫌だな」ということを思う存分やって、少年法で保護される対象年齢ど真ん中だったから、大した罪にも問われなかったはずだ。

いい思い出になったとか、三十代半ばになった現在でも居酒屋とかで笑いながら語ってたりしてるかもしれない。

若気の至りだったから仕方がないとか言って、大して反省もしていないのではないだろうか。

世の中そんなもんだ。

職場の連中も冷たい奴ばかりだった。

仲が良かったはずのM田もK保もあの一件について「あいつは女と付き合ったことが全然なかったからな」とか「せっかく気合い入れてイメチェンしたのに、チン毛まで剃られてかわいそうに」と笑顔で語り、「しかも相手中坊だぜ」とも言って笑ってたけど、その中坊に脅されてお前たちもビビったんじゃなかったか?

職場のみんなもH川ネタでしょっちゅう盛り上がってたんだから彼も浮かばれない、死んではいないはずだけど。

やられた動機も動機だし、しょせん他人事ということか。

世の中そんなもんなんだろう。

私はあれからしばらくして別の就職先が決まったため、派遣工を辞めた。

以来、M田はじめ職場の誰とも連絡を取っていないからH川のその後は知らない。

20年以上経った現在のH川はもうさすがに立ち直っているとは思うが、忘れてはいないだろう。

その気になってスケベ心をときめかせて行ってみたら美人局で、寄ってたかって裸にされて縛られ、ひと回り以上年下のガキどもに一晩中いたぶられながら「やめてください」とか懇願し続けた情けない体験を笑って話せる日など来るわけがない。

本当の話、私はH川にさほど同情していないことを告白する。

私もカツアゲされたことはあるが、中学時代の話で相手も中学生だったし、きっかけもやられ方もあそこまでカッコ悪くはないはずだ。

25歳の男のザーメン臭い純情が中学生に踏みにじられたんだから、滑稽極まりない。

ふざけたことした中学生どもにはもちろん頭に来るが、客観的に見て「犯人への怒り」が四割くらいで「H川の自業自得」が五割ほど、「H川が気の毒」に至っては一割未満というのがこの一件に対する私の正直な感想である。

そう思うのはしょせん私にとっても他人事だからだろう。

世の中そんなもんだ。

違う?

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高校デビューした少年の悲劇

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高等学校の中には、素行不良な生徒の占める割合が異様に高い学校がある。

約三十年前の1990年代のことなので現在はどうか知らないが、私の郷里の県立O農業高校がまさにその典型だった。

大学進学率は一ケタどころか小数点第二位で測定不能、その反面で退学率が二ケタ台で出席番号がしょっちゅう若くなるという凄まじさ。

反社会人予備校か出入り自由の少年院としか考えられない環境の高校で、中学時代はおとなしかった生徒も入学すると悪くなり、悪かった生徒はより悪くなる。

真面目な生徒だと無事にそこでの学校生活を送れないからだろう。

逆教育機関と言っても過言でない学校、それがO農業高校だった。

そんな悪名高きO農業高校に、私の出身中学からも何人かの同級生が進学したが、その多くが見事に同校の校風に染まってヤンキー化。

その中には中学時代によくつるんでいたK田もいた。

K田の高校デビュー

中学時代のK田は真面目というか気弱な生徒で、学業成績も破滅的だった。

中学卒業後の進路を聞かれた時に「高校進学」と答えたら、周囲から「爆弾発言」とからかわれたくらいだから、小学校低学年程度の学力を有しているか日本生まれのヒト科でありさえすれば入学できるとまで言われていたO農業高校しかなかったようだ。

そんなK田と私は同じく気弱で、腕力に劣るスクールカーストの底辺に位置することからそこそこウマが合い、中学では一緒であることが多かった。

卒業後、私は一応進学校の県立O西高校に進学したが、それとは対極のO農業高校に入ったK田とは家が比較的近所ということもあって中学時代の関係は続いた。

K田に異変が生じ始めたのは高校に入学してほどなくだった。

やはり入った高校がO農業高校だったからだろう。

彼は坊主頭だったが、心なしか剃り込みを入れているような気がしてきたし、眉毛の形も以前とは違う。

そして会うたびにその剃り込みは深くなり、眉毛も細くなってゆき、変形ズボンを穿いた本格的なヤンキーに変身するのに夏休みまでかからなかった。

外見にリンクして言動も変化。

「どけや、くそガキども!」と声を荒げて小学生を蹴散らすし、タバコを吸うようになったし(銘柄は「エコー」)、私に対する態度も変わってきた。

極悪校O農業高校の生徒であることをなぜか誇りとし、進学率のそこそこ高い普通科高校の生徒を十把一絡げにシャバ僧とバカにし始めていたからだろうか。

K田の口調はだんだんガラが悪くなり、「ジュース買ってこい」だの「タバコ買ってこい」だの私をパシリ扱い。

この時点で友人関係を解消してもよかったが、私自身まだ高校でつるむ友人に乏しかった頃だったために、彼との付き合いはしばらく続いた。

ヤンキーと言えば格好だけではだめで、ある程度ケンカっ早くなければならないことくらい私でも知っている。

彼もいっぱしのヤンキーを気取っていたから、私にO農業高校の恐ろしさを語り、よく学校の内外で誰かとモメたことを自慢するのが好きだった。

そして、私にも「気に食わん奴がおったらぶん殴ったらなあかんぞ」だの「ケンカにガタイも人数も関係あらへん、根性や!」などと忠告。

おそらく覚えたばかりのケンカのやり方や人の殴り方を頼んでもいないのによく教授してくれた。

こっちは誰かを殴ったりしたら退学になりかねない進学校の高校生なのだ。
はっきり言って余計なお世話であった。

K田の試練~生意気な中学生に対して~

そんなK田のヤンキーとしての資質を問われる出来事が私の目の前で起きたのは、その年の夏休み後くらいの休日だった。

その日、私とK田は自転車に乗って中学時代の友達の家に遊びに行った帰り道、前から歩いてくる我々の出身中学の在校生二人に出くわした。

直接面識はないが、二人とも知っている顔だ。

私の二歳下の弟と同学年の、確か名前はT島とS本で、我々が在学中に一年生だったからその時は中学二年生。

部活帰りらしく中学校の体操着姿のため、悪そうな見かけはしていなかったが、どちらも体格が良くて見るからに強そうだった。

それもそのはず、二人とも柔道部に入っていた記憶がある。

高校一年生の我々が自転車で彼らに近づいた時、中学二年生のT島とS本の顔は我々の方、特にK田に向いているような気がした。

そして通り過ぎた後もこちらを見続けている。

ガンをつけているという程ではないが、ニヤニヤしながらバカにしたような顔でだ。

「なんやあいつら?」とK田は自転車を漕ぎつつ、後ろを振り返りながらイラつき始めた。

T島とS本は相変わらずこちらを見ながらヘラヘラして、挑発しているとしか思えない態度である。

K田は二人を睨みながら「やったろか中坊ども!」とうなり始めた。

ケンカする気なのか?相手は中学生とはいえこちらよりガタイが大きい。

しかもあいつら柔道部だぞ。

私はそう懸念したが、K田の怒りはもう制御不能だった。

「てめえらやんのか!?コラ!!」

K田が中学生二人に向けて怒声を発した。

しかしそれは、

彼らから100メートル以上の距離に達してからだった。

そして前を向くと、そのまま自転車を漕いで遠ざかって行った。

時々後ろを振り返りながら、心なしかスピードを上げて。

振り向いて見てみると、遠くのT島は大笑いし、S本は「来てみろよ」とばかりに手招きしていた。

確かK田は「気に食わん奴がおったらぶん殴ったらなあかん」とか「ケンカにガタイも人数も関係あらへん、根性や!」とか私に言ってたはずだ。

そういうのは範で示さなきゃ説得力がないと思うが。

「あいつら殺したる」と、彼らの姿が見えなくなった安全圏でいきり立つK田のヤンキーとしての資質に私の中で疑念が生じ始めた。

それからさすがにバツが悪くなったのか、ケンカについて講釈を垂れなくなったK田だが、彼の本当の試練はその後日にあった。

K田の最後~本物の不良少年に対して~

中学生たちとの一件から一か月ほど後、私とK田はゲームセンターでゲームをしていた。

ケンカの自慢話はしなくなったとはいえ、K田は相変わらず横柄な態度で私に接しており、高校でまともな友達ができ始めた私は彼との関係の解消を考慮し始めていた頃だ。

我々はゲーム機に隣り合って座り、それぞれのゲームに興じていた。

私はゲームセンター版「ゼビウス」を、右隣のK田は「エコー」をくわえて「スターソルジャー」をプレイし、時々ゲーム機の右隅に置いた灰皿に灰を落としていた。

その日の私は絶好調で高得点を重ねて初めてのエリアに突入。

これからが肝心という最中だった。

横からK田が私をつつき「おいおい、あのさ」と話しかけてきた。

その声はいつものガラの悪い命令口調ではなくやたら切迫した弱々しい感じだった。

「何?」私はゲームに熱中してたので顔を上げずに聞き返した。

「あそこにいる奴なんだけど、こっち見てへんか?」

「え?どこの?」

「あの『アフターバーナー』のトコにおる金髪の奴」

そう言われてから、顔を上げて戦闘機ゲーム「アフターバーナー」の方を見たら、いた!確かに金髪のリーゼントでスカジャンを着た少年がこっちを見ている!

90年代初頭の地方都市O市で、未成年で金髪にしているのはグレ方が半端じゃない奴とみなされていた。

実際その金髪少年は相当悪そうで、目つきのヤバさもかなりなものだ。

グレたばかりのK田とは貫禄が違いすぎる。

そんなのがこっちを睨んでいたから私も思わず目を伏せた。

もうゲームどころじゃない。

横のK田も目を伏せており、「なあ、どうしよう?どうしよう?」とこちらを向いたその顔は今にも泣き出しそうだった。

そんなの私に振られても困る!完全に気弱だった中学生時代のK田に戻っている。

「あ、ヤバイこっち来た!」
顔を上げると、その金髪がタバコを吸いながらこちらに近寄ってくるのが見えた。

再び目を伏せてから隣のK田を見ると、彼はより深く顔を伏せて目をきつく閉じ、膝をがくがく震わせていた。

「おい、オメーよぉ」

その声で顔を上げると金髪はK田のゲーム機の右横まで来て、彼の座っているゲーム機を蹴った。

顔を伏せていたK田がビクッとする。

次にタバコの煙をK田の顔に吹きかけた後、おびえるK田の髪をつかんで顔を上げさせ、「オメー見かけん顔やな、どこのモンや?」と凄み始めた。

金髪は前歯が二本欠けていた。

「あの、あの、O農業高校です」と震えながら答えるK田に、「農業ふぜいがナニ偉そうにしとるんじゃ」と言い放つ。

この金髪の本格的不良少年には極悪校O農業高校のブランドも通じない。

「それとよ、オメーさっきからえれぇ調子こいとりゃせんか?おう?」

「いや、そんな…。別に調子こいてないで…、アチイッ!!

金髪に火のついたタバコを顔に押し付けられたK田が悲鳴を上げる。


「ま、ちょっと話あるからツラ貸せや」

そう言うと髪を引っ張ってK田を無理やり立たせた金髪は私を睨んで、「そっちのゴミは失せろ」と出口に向けて顎をしゃくった。

否も応もあるわけがない。

私は一目散にゲームセンターから退散した。

自転車置き場に置いた自分の自転車のカギを、手が震えてうまく外せない私の耳に「オラ!来いや!」という金髪の怒声と、「すいません!」「勘弁してください!」というK田の叫び声が入ってきた。

それが、ヤンキー少年としてのK田を見た最後だった。

K田のその後

その日以降彼からの連絡がなくなり、見殺しにした私もあえて連絡しようとしなかったが、とりあえず殺されてはいなかった。

何週間かした後で学校帰りのK田と不意にばったり出くわしたのだ。

彼は中学時代と同じ丸坊主で眉毛も剃っておらず、学ランも変形ではなくなって普通の高校生の姿になっていたが、私から目をそらしてそそくさと立ち去った。

私との関係は終了したが、奴はすっかり更生したようだ。

いや、ヤンキー生命を絶たれたのではないだろうか?

あの金髪にヤンキーをやるのが嫌になるくらい怖い目にあわされたに違いない。

あの時のK田の、あのおびえ方を目の当たりにした私はそう感じた。

ヤンキー少年、少なくともK田のような中途半端な即席タイプを、形がどうあれ更生させるのは善良な人である必要はないのかもしれない。

悪いことをすることがどれだけ間違っているかを教えるより、どれだけ怖いことかを分からせた方が効果的なのだ。

それを分からせられるのは本当に悪い奴しかいない。

あの金髪のような本物も使いようによっては、O農業高校のような極悪校の生徒を少しはまじめな学生に近づけることができるのではないだろうか。 

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