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1962年・岐阜抗争

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日本の暴力団が主要団体である山口組や住吉会、稲川会などに寡占化されるはるか以前の1960年代はまだ各地に地元の独立系暴力団組織が健在であったが、主要団体の進出は着実に進んでいた。

中部地方の岐阜県岐阜市も同様であり、1961年(昭和36年)市内の博徒系暴力団池田一家の大幹部・坂東光弘が組を離れて稲川組系林一家・林喜一郎総長の傘下となり、稲川組岐阜支部長に就任する。

稲川組とは、後の広域指定暴力団・稲川会の当時の名称であり、静岡県熱海市を本拠にして神奈川県や東京都など各地に進出して大組織に成長しつつあった。

だが、これによりかねてよりパチンコ利権をめぐって池田一家といがみ合っていた地元組織の的屋系暴力団の芳浜会や瀬古安会との対立が激化。

1962年9月16日午後9時、タクシーに乗って移動中だった坂東光弘を芳浜会杉本組の組員が射殺するという事件が起こる。

傘下組織のトップを殺された稲川組は、報復を決定して林喜一郎はじめ200人の組員を岐阜に向かわせ、一方の芳浜会も迎え撃つために300人を集めて対峙する事態となった。

対規模抗争勃発の予感を感じた岐阜県警も警官300人以上を配備、両組織の衝突阻止に動く。

この抗争は、芳浜会が岐阜中警察署に騒動を起こさないよう警告されたこともあり、芳浜会会長の西松政一が稲川組のかねてからの要求どおり坂東光弘射殺に対する詫びを入れたことでいったんは和解した。

しかし、その遺恨は解消されることはなく、この年のうちに再燃する。

1962年10月、芳浜会系菊田一家の菊田吉彦と瀬古安会の鈴木康雄(安璋煥)が稲川組改め鶴政会林一家の林喜一郎の舎弟になりたいと申し入れてきた。

やはり寄らば大樹の陰であり、大組織の傘下に入ることを選んだようだ。

林はこれを受け入れたが、鶴政会側としては身内である坂東光弘を殺されたわだかまりがまだあったようだ。

鶴政会岐阜支部長・清家国光などは「若衆(子分)になるならいいが、舎弟(弟分)になるのは反対だ」と言っていた。

そんな事情もあったからなのか、11月に菊田と鈴木は鶴政会と同じく岐阜に進出してきていた関西の雄である山口組若頭の地道行雄の舎弟になってしまう。

寄るならばより大きな大樹の下の方がいい。

だが、鷹揚に受け入れた林にしてみれば、これは裏切り行為以外の何者でもない。

怒った林は、菊田と鈴木の殺害を命じた。

命を狙われることになった両人はそれを察したのか、行方知れずとなって所在がつかめなくなる。

その代わりに鶴政会はターゲットを菊田一家の他の人間に変え、その標的となったのは同一家の幹部である足立哲雄。

足立は芳浜会系菊田一家から融和をはかるために池田一家に派遣されて池田一家に席を置いて地元の有力勢力間の橋渡しの役割を担っており、池田一家を完全に傘下に置きたい鶴政会にとっても邪魔な人物であったようだ。

足立哲雄

12月14日正午、足立が襲撃される。

岐阜県大垣市にある大垣競輪へ行こうと国道21号を車で飛ばしていたところ、後ろから来た車が追い抜きざまに足立の車の前に停車。

降りてきた二人の男のうち一人が車に一発拳銃を発射した。

足立は車を降りてたまらず逃げ出したが、ヒットマンたちは発砲しながら追いかけてくる。

一発が右腕、もう一発が右肩に命中した足立は、この騒動で停車した車のうちの一台の下に転がり込んだ。

ヒットマンは運転手も含めて三名で、もう十分だと思ったのか袋のネズミの足立にとどめを刺そうとせずに撤収していった。

命だけは助かった足立は目撃者によって病院に担ぎ込まれ、一時意識不明の重体になりながらも一命を取り留める。

足立には誰の手の者にやられたか、なぜ自分が狙われたのか十分理解していたようだが、どっぷりやくざ者の足立は、その後の警察の事情徴収に何も答えることはなかった。

菊田一家も黙っていない。

二時間後の同日午後二時、岐阜市内にある鶴政会の拠点の一つである倉知興行社に組員六名が押しかけ、拳銃十数発を撃ち込むカチコミを行った。

足立がやられたことへの仕返しであることは言うまでもない。

年内に二回も立て続けに抗争を起こされた岐阜県警は岐阜市内に非常線を張って、徹底的な犯人捜索と抗争の当事者である鶴政会と菊田一家の組事務所への家宅捜索を始めた。

抗争の拡大防止どころか、組織の壊滅を狙い始めたのだ。

これは、鶴政会にとっても芳浜会系菊田一家にとっても望ましいことではない。

鶴政会のドンである稲川聖城は林を熱海市の自邸に呼び出し、足立襲撃の実行犯三人を使用した拳銃持参で捜査本部の置かれた大垣警察署に出頭させるよう指示した。

稲川は抗争を拡大させてもいいことがないことが分かっていたから、林に「軽々しく行動するな」と指示していたし、ナアナアの関係だった神奈川県警にも「応援を出すな」と要請されてもいたのだ。

稲川の意向もあって両組織は早い段階で手打ちを決定し、年末には菊田吉彦・鈴木康雄と林喜一郎の間で手打ちが行われた。

手打ちの条件は岐阜県に林一家を置くことを承認することで、鶴政会、後の稲川会は現在に至るまで岐阜市内に勢力を持ち続けることになる。

一方で菊田と鈴木は山口組の地道の舎弟を経て山口組の直参になったため、山口組も稲川会と同じく岐阜県下に組織を拡大させた。

また、岐阜抗争で襲われた足立ものちに山口組に加入してその二次団体である足立会を率い、山口組若中にまで昇格した。

出典元―岐阜日日新聞、ウィキペディア

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