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目指せ!暴力団構成員 ~1973年・現役ヤクザが熱血指導!~ “暴力団組員養成塾” 

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まだ元号が昭和だった1973年(昭和48年)4月18日、神奈川県横浜市緑区十日市場町にある横浜市立十日市場中学校の体育館ステージにあった垂れ幕が、ズタズタにされる事件が発生した。

被害総額は、50万円と当時としてはかなりのものであったために警察が捜査したところ、区内のアパート三保荘に住む無職・田邊亨(仮名・16歳)ら不良少年グループの存在が浮かび上がる。

そこで、警察は田邊が暮らす三保荘を調べたところ、同アパートの三部屋を田邊以外に同じく不良少年である中富裕易(仮名・17歳)と稲川会の三次団体高橋組の組員である玉利和信(本名・22歳)が借りていることが分かった。

しかも周辺住民からの聞き込みによると、そこには、常に大勢の不良少年たちが入れ代わり立ち代わり出入りしているというではないか。

犯罪の臭いをいやがうえにも感じ取った警察が捜索に入ったところ、案の定とんでもないことが行われていたことが判明したのだが、それは捜査関係者の予想の斜め上を行っていた。

何と現役バリバリのヤクザである玉利は、暴力団員養成のための「私塾」を開き、多くの少年たちに悪さのテクニックを伝授していたのだ。

“暴力団組員養成塾”の講義内容

新聞の一部の白黒写真

中程度の精度で自動的に生成された説明
“講師”の玉利和信

玉利の暴力団組員養成塾の「塾生」は、中学生7人と高校生19人(女子も4人交じっていた)、その他有職・無職の少年たちを含む計43人。

塾は同年2月に「開校」しており、玉利の「一人前のヤクザになるための講座」は三保荘八号室で毎晩行われ、必ず5、6人は参加していたのだが、その講義内容はヤクザの作法だの仁義だのの面倒くさいものはそっちのけだった。

玉利が主に教えていたのは、窃盗や恐喝のテク、効果的な脅し方であって、いっぱしの現役暴力団組員である自身の豊富な犯罪経験から、過去に遭遇した事例や想定されるさまざまなパターンを網羅した実践的なものである。

もちろん、座学だけではなく「実技」もあった。

正規の暴力団組員である玉利は、自身のシノギとして恐喝もやっており、塾生たちを伴って恐喝する相手のところに押しかけて脅したり、さらったり、監禁して暴行したりの実際の現場も体験させたりしていたのである。

世の中のために全くならない者を育成しているのだが、何らかの技術を習得させる講座としては、かなり充実かつ理想的だったと言わざるを得ない。

また、22歳の玉利は少年たちにとって怖いけど、何でも知ってて頼りになる兄貴であり、先生としても優秀だった。

犯罪のコツを指導しつつ「ヤクザになれば、女にも金にも不自由しないし誰からもナメられることはない」とそのうま味を語り、「気合い入れて、テメーらも一人前の男(ヤクザ)になれ!」と激励。

見込みがあると認められた「優等生」は、玉利の所属する組織の事務所での電話番や使い走りなどをさせてもらえる「インターン」制度まで設けていた。

それに触発されたガキどもは、覚えたての悪事のテクを実践。

この塾が神奈川県警緑署に摘発されるまで、塾生たちは悪事にいそしみ、犯した犯罪は判明しているだけで、窃盗33件にして被害金額は50万円以上、不法監禁2件、暴行や恐喝は数知れずだったという。

新聞の一部の白黒写真

中程度の精度で自動的に生成された説明
“塾”のあった三保荘(現在もあるのだろうか?)

受講生たちの階層と時代背景

結局同年6月、捜査にやって来た警察によって塾は閉校となり、塾長の玉利はもちろん逮捕された。

43人の塾生たち全員も補導され、うち田邊や中富はじめ悪質だった19人が書類送検となる。

だが、なぜたかだか四か月かそこらで、暴力団員を育成する塾などにこんなに多くの塾生が集まったのだろうか?と思うのは現代の感覚だ。

脱退者が相次いで弱体化著しい現代の暴力団組織とは違って、この時代のヤクザは組員数も多くて勢いがあった。

暴力団対策法(暴対法)が施行されるはるか以前だったし、取り締まる側の警察ともある程度癒着していたから、今に比べればやりたい放題。

闇社会の頂点に君臨し、近年ハバを利かせ始めている半グレなど彼らの縄張り内で、ちょっとでものさばったら瞬殺されたであろうおっかない存在だったのだ。

そして「おっかないこと」は往々にして「かっこいいこと」と同義語であり、あこがれて組に入ろうとする青少年も、数多く存在したのである。

だったとしても、そのような塾で熱心に学んで組員になろうとするような塾生たちは、筋金入りの不良少年ばかりだろうと思われたが、補導された中高生たちの多くは意外にも、それぞれの学校で問題行動を起こしたことのない、どちらかと言えば一般の少年たちだった。

彼らは、不良、それもそのワンランク上のヤクザにあこがれて入塾した中二病たちだったのだ。

この事件の発覚した1973年当時は、東映の『仁義なき戦い』が放映されて大ヒット。

映画を観た大人の観客は、劇場を出たとたん肩で風を切ってのし歩くようになるほどで、より影響されやすい年代のガキどもにとっては、なおさらだった。

そんなところへ、手軽にかっこいい暴力団組員の世界を体験できる場所があるとわかるや、友達が友達を呼んで増えていったらしい。

また、玉利ら暴力団の側にも事情があったようで、現代よりぬるかったとはいえ、当時の神奈川県警の取り締まりの強化で勢力が弱まりつつあった組織を立て直そうと、とにかく組員を増やす狙いがあったと見られている

そんな暴力団の思惑とヤクザがかっこよかった時代背景のおかげもあって起きた珍事件であったが、この塾が一期生を指導しているうちにつぶされ、そこで十分学んで闇の世界へ羽ばたく卒業生が出なかったことだけは幸いであった。

出典元―毎日新聞

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