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1962年・岐阜抗争

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日本の暴力団が主要団体である山口組や住吉会、稲川会などに寡占化されるはるか以前の1960年代はまだ各地に地元の独立系暴力団組織が健在であったが、主要団体の進出は着実に進んでいた。

中部地方の岐阜県岐阜市も同様であり、1961年(昭和36年)市内の博徒系暴力団池田一家の大幹部・坂東光弘が組を離れて稲川組系林一家・林喜一郎総長の傘下となり、稲川組岐阜支部長に就任する。

稲川組とは、後の広域指定暴力団・稲川会の当時の名称であり、静岡県熱海市を本拠にして神奈川県や東京都など各地に進出して大組織に成長しつつあった。

だが、これによりかねてよりパチンコ利権をめぐって池田一家といがみ合っていた地元組織の的屋系暴力団の芳浜会や瀬古安会との対立が激化。

1962年9月16日午後9時、タクシーに乗って移動中だった坂東光弘を芳浜会杉本組の組員が射殺するという事件が起こる。

傘下組織のトップを殺された稲川組は、報復を決定して林喜一郎はじめ200人の組員を岐阜に向かわせ、一方の芳浜会も迎え撃つために300人を集めて対峙する事態となった。

対規模抗争勃発の予感を感じた岐阜県警も警官300人以上を配備、両組織の衝突阻止に動く。

この抗争は、芳浜会が岐阜中警察署に騒動を起こさないよう警告されたこともあり、芳浜会会長の西松政一が稲川組のかねてからの要求どおり坂東光弘射殺に対する詫びを入れたことでいったんは和解した。

しかし、その遺恨は解消されることはなく、この年のうちに再燃する。

1962年10月、芳浜会系菊田一家の菊田吉彦と瀬古安会の鈴木康雄(安璋煥)が稲川組改め鶴政会林一家の林喜一郎の舎弟になりたいと申し入れてきた。

やはり寄らば大樹の陰であり、大組織の傘下に入ることを選んだようだ。

林はこれを受け入れたが、鶴政会側としては身内である坂東光弘を殺されたわだかまりがまだあったようだ。

鶴政会岐阜支部長・清家国光などは「若衆(子分)になるならいいが、舎弟(弟分)になるのは反対だ」と言っていた。

そんな事情もあったからなのか、11月に菊田と鈴木は鶴政会と同じく岐阜に進出してきていた関西の雄である山口組若頭の地道行雄の舎弟になってしまう。

寄るならばより大きな大樹の下の方がいい。

だが、鷹揚に受け入れた林にしてみれば、これは裏切り行為以外の何者でもない。

怒った林は、菊田と鈴木の殺害を命じた。

命を狙われることになった両人はそれを察したのか、行方知れずとなって所在がつかめなくなる。

その代わりに鶴政会はターゲットを菊田一家の他の人間に変え、その標的となったのは同一家の幹部である足立哲雄。

足立は芳浜会系菊田一家から融和をはかるために池田一家に派遣されて池田一家に席を置いて地元の有力勢力間の橋渡しの役割を担っており、池田一家を完全に傘下に置きたい鶴政会にとっても邪魔な人物であったようだ。

足立哲雄

12月14日正午、足立が襲撃される。

岐阜県大垣市にある大垣競輪へ行こうと国道21号を車で飛ばしていたところ、後ろから来た車が追い抜きざまに足立の車の前に停車。

降りてきた二人の男のうち一人が車に一発拳銃を発射した。

足立は車を降りてたまらず逃げ出したが、ヒットマンたちは発砲しながら追いかけてくる。

一発が右腕、もう一発が右肩に命中した足立は、この騒動で停車した車のうちの一台の下に転がり込んだ。

ヒットマンは運転手も含めて三名で、もう十分だと思ったのか袋のネズミの足立にとどめを刺そうとせずに撤収していった。

命だけは助かった足立は目撃者によって病院に担ぎ込まれ、一時意識不明の重体になりながらも一命を取り留める。

足立には誰の手の者にやられたか、なぜ自分が狙われたのか十分理解していたようだが、どっぷりやくざ者の足立は、その後の警察の事情徴収に何も答えることはなかった。

菊田一家も黙っていない。

二時間後の同日午後二時、岐阜市内にある鶴政会の拠点の一つである倉知興行社に組員六名が押しかけ、拳銃十数発を撃ち込むカチコミを行った。

足立がやられたことへの仕返しであることは言うまでもない。

年内に二回も立て続けに抗争を起こされた岐阜県警は岐阜市内に非常線を張って、徹底的な犯人捜索と抗争の当事者である鶴政会と菊田一家の組事務所への家宅捜索を始めた。

抗争の拡大防止どころか、組織の壊滅を狙い始めたのだ。

これは、鶴政会にとっても芳浜会系菊田一家にとっても望ましいことではない。

鶴政会のドンである稲川聖城は林を熱海市の自邸に呼び出し、足立襲撃の実行犯三人を使用した拳銃持参で捜査本部の置かれた大垣警察署に出頭させるよう指示した。

稲川は抗争を拡大させてもいいことがないことが分かっていたから、林に「軽々しく行動するな」と指示していたし、ナアナアの関係だった神奈川県警にも「応援を出すな」と要請されてもいたのだ。

稲川の意向もあって両組織は早い段階で手打ちを決定し、年末には菊田吉彦・鈴木康雄と林喜一郎の間で手打ちが行われた。

手打ちの条件は岐阜県に林一家を置くことを承認することで、鶴政会、後の稲川会は現在に至るまで岐阜市内に勢力を持ち続けることになる。

一方で菊田と鈴木は山口組の地道の舎弟を経て山口組の直参になったため、山口組も稲川会と同じく岐阜県下に組織を拡大させた。

また、岐阜抗争で襲われた足立ものちに山口組に加入してその二次団体である足立会を率い、山口組若中にまで昇格した。

出典元―岐阜日日新聞、ウィキペディア

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超絶小物候補の逆恨み選挙戦 ~岐阜県知事にいじめられたと訴えた男~

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泡沫候補という言葉をご存じか?

泡沫候補とは、選挙において当選する見込みが極めて薄い立候補者を指すものである。

彼らは選挙に必要な地盤(後援会組織)・看板(知名度)・鞄(資金)がそろっていないのはもちろんのこと、あまり目立った政治活動をやっていなかったり、荒唐無稽か実現不可能な主張をしたりする者も多い。

また、ハナから当選ではなく、売名が目的だったりする者もいる。

よって、我が国をはじめ多くの民主主義国家では、公職選挙においてこうした候補の乱立を阻止する目的で、立候補する際に選挙管理委員会等に対して寄託することが定められている供託金という制度がある。

この供託金は落選したとしても法定得票数に達すれば全額返却されるが、一定票に達しない場合は全額没収されてしまう。

だが、それでも泡沫候補は全国いたるところで出現し、特に東京都知事選においては数多の泡沫候補が立候補する傾向がある。

時代が昭和から平成に移ったばかりの1989年の岐阜県の県知事選でもそんな候補者がいた。

だが、その男は30年以上たった現在でも忘れられることはなく、ある程度の年齢の岐阜県民にはしっかり記憶されているほどの恥…、いやインパクトを残したのだ。

平成最初の地方大型選挙

1989年(平成元年)1月9日、元号が昭和から平成に変わって間もないころ、岐阜県で平成最初の大型選挙と銘打たれた岐阜県知事選挙がスタートした。

この年の2月5日、1977年(昭和52年)より12年間にわたり、三期岐阜県知事を務めた上松陽助氏は、任期満了を機に引退することを表明していた。

よって、この選挙は新しい時代の岐阜県県政を担う、新たな県知事を選ぶ選挙であったのだ。

名乗りを上げたのは無所属新人の候補三名。

  • 一人目は、上松氏の下で四年間副知事を務めた梶原拓氏(当時55歳)
  • もう一人は、元岐阜県高教組委員長の岡本靖氏(当時61歳)
  • 最後は、ウナギ販売会社社長の児島清志氏(仮名、当時40歳)

である。

立候補者は以上の三氏だったが、事実上は梶原氏と岡本氏の二氏の争いとみられており、当時、選挙戦の模様を伝えていた岐阜県の地方紙である岐阜新聞の記事は、両氏の動向のみを取り上げていた。

梶原氏は副知事を務めてきたという実績もあったし、自民党や社会党(後の社会民主党)などを含めた五政党の推薦を受けていたし、岐阜県の教育界でハバを利かせてきた岡本氏は、共産党の推薦を受けていたからだ。

一方、支持母体や政党のバックもなく、県政に関わった活動をしてこなかった児島氏は、ハナから泡沫候補と見られていたのもある。

しかし、それ以前にこの第三の男である児島氏は候補者としての資質に問題があった。

その主張が、あまりにも陰湿且つ幼稚だったからだ。

「梶原拓はかくのごとき男です」

新聞社というのは、当選の見込みのない泡沫候補の主張や選挙戦の模様に、紙面を割きたがらない傾向があるものだ。

それは地元紙の岐阜新聞も同じであり、選挙戦での発言や公約はすべて梶原氏と岡本氏で占められていたのは、前述のとおりである。

だが、蚊帳の外に置かれていた児島清志氏も、全く何もしなかったわけではない。

選挙戦が始まってからほどなくして、前述の岐阜新聞の朝刊の折込広告の中に、あるチラシが混じるようになった。

それは、あの第三の候補者である児島氏の主張が書かれたものだった。

当時、私は岐阜県内の中学校に通う二年生。

知事選挙が行われていることは何となく知っていたが、関心があるわけはない。

そんな私がこの選挙を今でも覚えているのは、そのチラシに書かれた児島氏の主張を目にしたからだ。

それは、

『岐阜県知事候補・梶原拓はかくのごとき男です』という題名から始まっており、梶原氏の裏の顔とその正体を告発するものだった。

なんでも、児島氏は自身の仕事の関係か何かで何度か岐阜県庁に足を運び、副知事だった梶原拓氏と接触したのだが、話し合いがこじれてモメたらしい。

その結果、梶原氏本人とその部下から恫喝されたり暴力を振るわれたり、屈辱的な仕打ちを受けたというのだ。

チラシの中で、権力を笠に着た梶原氏がどんな罵声を浴びせてきたか、自分が何をされたかを延々と書き連ねており、そんなもの見せられた読者の家庭はドン引きして。朝っぱらから重力が重くなったことだろう。

梶原氏だけでなく、その部下と思しき人物も『暴力公務員』という枕詞を冠して実名で告発されていた。

例えば、

「…梶原拓の部下である暴力公務員〇〇と△△は私の胸倉をつかんで「てめえ、それでも男かて」「ちんぼ見せてみんかいオラ!!」と脅しました…」

というような内容なのだ。

「ちんぼ見せてみんかいオラ!!」って…、ホントに言われたとしても書くかフツー。

とにかく書いていることが、高卒レベル(偏差値48くらいの)の文章力を有した小学生が、いじめられたことを先生にチクるために書いているような恨み帳そのものである。

文章は、終始一貫して梶原氏への誹謗中傷で占められており、県知事になってからの具体的でまともな公約がほとんど目立たない。

このヒト、一応県知事候補だよな?

中学二年生の私から見てもあまりにもかっこ悪く、圧巻の大人げなさだった。

とても当時の両親と同い歳くらいのおっさんが書いているとは思えない、と感じたことを覚えている。

こんなものを、児島氏は岐阜県中の家庭にばらまいていたのだ。

彼は泡沫候補の中でも他の候補に対する妨害を目的とした、いわゆる特殊候補だったのである。

記事として取り上げる価値のない泡沫候補である前に、どうりで岐阜新聞が相手にしないわけである。

もっとも、岐阜新聞も完全にシカトしていたわけではなく、時々小さく児島氏の主張を載せて、その存在をささやかながら県民に知らせてはいた。

児島氏の主張

しかし、梶原氏や岡本氏のように「日本一住みやすい岐阜県づくりに努めたい」とか「弱者切り捨ての県政は終わりにしよう」などのお決まりだが景気のよい前向きなものではなく、ひたすら私怨ほとばしり、被害妄想に満ちたネクラなものだった。

何より日本語も少々おかしい。

梶原氏の対抗馬の岡本氏にとってはありがたい存在ではあったろうが、ここまで程度が低いとあまり頼りにはならなかっただろう。

そして迎えた投票日の1月29日、開票が行われた結果は以下のとおりだった。

  • 梶原拓氏は544069票
  • 岡本靖氏は204309票
  • 児島清志氏は42465票

梶原拓氏の圧勝だった。

予想されたことだったが児島氏は大惨敗であり、得票が法定得票数に満たなかったために、供託金は没収となったはずだ。

というか、四万人もこんな人物に入れた県民がいたことは驚きだったが。

この結果になることはわかりきっていたはずだし、時間と、何より金の無駄以外の何者でもない。

しかし、彼はあきらめなかった。

驚くべきことに、再び立候補するのである。

しかも、この年のうちに。

第十五回参院通常選挙

岐阜県中の失笑を買った児島清志氏だったが、1989年の岐阜県知事選から半年もたたないうちに、再びその名前を岐阜県民は目にすることになる。

同年7月に行われる第十五回参院通常選挙に再び出馬したのだ

一体何を考えていたんだろうか?

国会議員になって、今や岐阜県知事の梶原氏を見返したかったのか。

この参院選挙での岐阜選挙区の立候補者は自民・現職の杉山令肇氏(66歳)も含めて5人だったが、その中には川瀬一雄氏(仮名、42歳)という元印刷会社社員、元警察官、元証券会社社員で現在は無職というわけのわからない経歴の泡沫候補も混じっていた。

児島氏も泡沫仲間がいてよかった。

だが、児島氏は体を張って岐阜県民を楽しませる泡沫候補としての経験値が違った。

今回も岐阜新聞に相手にされなかったが、またしても折り込み広告には自らの主張を挟んできたのだ。

そして案の状その内容は『岐阜県知事・梶原拓はかくのごとき男です』で始まる例の恨み帳だった。

参院選挙だぞ、岐阜県知事関係ないだろ?

よっぽど梶原拓が嫌いらしい。

今回のお話も敵役が梶原氏であることに変わりはなかったが、前回の県知事選とは違うバージョンの内容だったことをよく覚えている。

いじめられたのは、一回だけではなかったようだ。

児島清志-確かにいじめたくなる顔だ

そして新聞でもお情けでささやかながら、その主張を掲載させてもらっていたが、相変わらず何が言いたいのか意味がわからない。

ここまで来ると、選挙には関係がない我々中学生も児島氏のことを知るようになり、学校で話題にする同級生もいた。

もちろん応援するのではなく、その大人げなさを小馬鹿にしていたのだ。

「こんな大人になってはいけない」という見本を岐阜県中の未成年者の前に自ら晒していたといっても過言ではない。

また、真剣なぶん余計笑えた。

そして7月23日の投票の結果、当選は454154票を獲得した新人の高井和伸氏(48歳)。

現職だった杉山氏とは、約34000票差の接戦であった

もちろん児島氏は、今回も28049票で大惨敗。

だが、泡沫候補仲間の川瀬氏の得票23660票を上回っており、こちらも接戦であったが。

それ以降、児島氏の名前を選挙で見かけることはなかったが、その小人物ぶりと負けっぷりは岐阜県人の間で伝説となった。

副知事時代に児島氏をいじめたと訴えられたものの、1989年から晴れて岐阜県知事となった梶原拓氏の方は、2006年に健康上の理由により退任するまで四期16年間知事を務めた。

また在任中は、財政を悪化させるハコモノ行政を行ったと批判を浴びたこともあったが岐阜県知事としてだけではなく全国知事会会長をも務める重鎮ともなり、2006年4月には旭日大綬章を受章、2017年83歳で天寿を全うした。

梶原拓氏

児島氏にとっては、地元で悪が栄え続ける様を見せ続けられたことになろう。

ところでこの児島氏なんだが、実は私の実家からほど近い場所に住んでいたらしい。

1989年当時40歳だったから、2022年現在ご存命ならば御年73歳くらいか。

まだお元気でお住まいもそのままだったら、次回帰省した際に訪問してお話を伺ってみたいものだ。梶原拓氏について。

出典元―岐阜新聞

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「呪い」は「願い」よりかない易し

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小学生低学年だった頃、学校にほど近い国道沿いにパチンコ店があった。

名前は『ザ・パチンコ ○○閣』

夕方、暗くなり始めると『ザ・パチンコ ○○閣』とド派手なネオン看板を輝かせ、国道を行き交う車に存在をアピールしていた。

私の通っていた小学校の児童たちの多くは当然『○○閣』の存在を知っていたが、夜になると輝き出すその看板に対して、みんな秘かな願望を抱いていた。

『ザ・パチンコ…』の「パ」の字消えたら面白いだろうな、と。

実にレベルの低い、子供じみた願望であったが、小学生は子供なんだから仕方がない。

同時に子供ながら「そんなうまくいくわけはない」ことは分かっていた。

いくら何でも世の中そうそう願ったりかなったりになることはあり得ないことくらい、人として生まれて7、8年生きれば十分達観できるのだ。

だが、その後「願ったりかなったり」がドンピシャリで実現してしまうことも時にはあるのが世の中だと知ることになる。

それは私が小学校二年生時の10月末、土曜日の夕方だった。

当時の私は、毎週土曜日に親に車で送り迎えしてもらってスイミングスクールに通っていたが、夕方となる帰り道はいつも『○○閣』のある国道。

輝く『ザ・パチンコ ○○閣』のネオン看板を横目に見ながらの帰宅となり、通りかかるたびに「パの字消えろ」「パの字消えろ」と念じていたものだ。

そしてついにその日、純粋で無垢だが限りなく呪いに近い子供の祈りが、超自然的な何者かによってかなえられたがごとく具現化していた。

見事に消えてくれていたのである。
『ザ・パチンコ ○○閣』の「パ」の字だけが!

世の中捨てたものじゃないと子供ながら感激した。

切なる願いがここまで思った通りにかなってくれたことが信じられず、私は生まれて初めて神を身近に感じたくらいだ。

それにしても。

ずっと何度も実現した時のビジュアルを想像してはニヤニヤしていたが、

いざ現実に目の当たりにすると「パ」の字が消えた「ザ・パチンコ」のネオン看板は予想以上に壮観だった。

「パチンコ」からよりによって「パ」の字が消えただけでも十分絵になるのに、その前に「ザ」と強調されているその看板のインパクトは絶大の極み。

日本語を母国語とする者ならば目に焼き付いて離れなくならざるを得ない破壊力を有したスペクタクルだったのだ。

ダイレクトに「ザ・ チ〇コ」とまばゆいネオンで大真面目に自己主張している看板は、一字分暗くなっているはずなのに普段より輝いて見えたのは私だけだろうか?

それは小学校二年生の幼く未熟な笑いのツボを突き破り、なおかつピストンさせたかのごとく激しく刺激した。

「あははははは!!ザ・チ〇コだ!ザ・チ〇コだ!!」

子供だった私は車内で狂ったように笑い転げた。

だが神は恩恵だけではなく、代償として天罰も用意していたようだ。

私を乗せた車を運転していたのは母親。

同じくその絶景を目の当たりにしていたが、私とは感じ方が著しく相違した。

成人女性である彼女は、その圧巻のお下劣看板とそれを見てバカ笑いする息子を好意的に見る感性は持っていなかったのだ。

「何がおかしいの!?アホか!!」

と大声で一喝されてしまった。

おまけに母親はこの日かなり機嫌が悪かった。

決して安くはないレッスン料を払って通わせているスイミングスクールでは、背泳ぎからバタフライまで様々な泳法を教えている。

だが、当時から不器用で覚えの悪かった私はなかなか泳法をマスターできず、この日も月末恒例の背泳ぎコースの修了テストで不合格。

もう一か月背泳ぎコースを履修することが決定したため、母はお冠だったのだ。

「何回不合格すれば気が済むの!?後から入ったN島くんやS司くんはもうクロール習ってるのに、いつまでもアンタは背泳ぎばっかり!悔しくないの!?」

先ほどのバカ笑いで母の堪忍袋の緒が切れたらしく、他の子と比べて出来の悪い私をなじり始めた。

ママ友の息子がいずれも自分の息子を易々抜いていたことを知って、ずっと悔しく思っていたらしい。

それから家までの帰り道どころか家に到着してからも母の怒りは収まらずエスカレート。

車の中で「あんなくだらんモノ見て笑うな」だの「勉強も習字もそろばんもいい加減」だの、私にビンタまで食らわしながら延々説教は続く。

「パ」の字が消えてくれた喜びが一挙にしぼんで泣きべそすらかき始めた私は、おかげでこんなひどい目に遭っているという逆恨みの感情が芽生えた。

月曜日に学校に行くと、クラスでは『○○閣』のパの字消失事件の話で持ちきりになっており、「ザ・チ〇コ」「ザ・チ〇コ」とみんな大爆笑していた。

私以外のクラスメイトも結構レベルが低いが、それがリアルな小学校低学年なのだよ、その当時のウチの母親よ。

しかし母親にこっぴどく怒られた記憶が生々しい私には、そのきっかけを作った『○○閣』の話は不愉快極まりなく、話の輪の中に加わることはなかった。

通常、ネオン看板の「ザ・パチンコ」の部分から絶対に消えてはいけない一文字が消えたんだから、『○○閣』もこのまま放置しておくはずがない。

だが、翌日も翌々日もそのままだったことを近所に住むクラスメイトが証言したため、数日間『○○閣』ネタでクラスが沸き返ることになる。

その週末、例のごとくスイミングスクールからの帰りの車の中から見たら、驚くことに『○○閣』は先週と同じく「パ」の字が消えたまま営業を続けていた。

近所の住民も行政も何をしていたんだろうか?

少なからぬ未成年や児童も目の当たりにしているであろうにもかかわらず、「ザ・チ〇コ」と恥ずかしげもなく燦然と輝き続けていたのだ。

「もうわかったから、ええっちゅうねん」

その日も私を乗せた車を運転してたのは母親で、笑うとまた怒られるだろう。

だいたいこっちは先週怒られたのは『○○閣』のせいだと思っていたし、いくらツボをついたネタも延々やり続けられると引く。

もうさすがにクラスでも話題にはならなくなっていたし。

次の週末も同様にスイミングスクールに行った私は、迎えに来てくれた母親の車に乗って同じ道を家に向かって走っていた。

その帰り道で、何だかわからないが違和感を感じた。

心なしかいつもより国道が暗い気がするのだ。

そう思ったのは、いつもなら光り輝く『○○閣』のネオン看板が見えてくるはずの地点まで来た時である。

みるみる『○○閣』のある場所に近づくに至り、その理由がはっきりわかってきた。

あのギラギラしたネオン看板はパの字ばかりか全体が消え、店も明かりを消していた。

『ザ・パチンコ ○○閣』は閉業していたのだ。

パの字が消えたままだったのは、どうせ閉店するからだったのか。

翌週月曜日の学校では『○○閣』閉店についてはさほど話題にならず、そっけなく「『○○閣』つぶれたらしい」「みたいだな」くらいの会話がちらほら聞こえた程度である。

皆完全に関心を失って、「まだその話してるのかよ」という反応を示す者もいた。

一方の私は、何だか罪悪感のような感情を覚え始めていた。

「パ」の字が消えてくれと願うがあまり、店そのものまで消してしまったような気がしていたからだ。

同時にこうも考えた。

願っていたのは私だけか?他のみんなだって願ってたじゃないか。

私だけが悪いわけじゃない!と。

その考えに沿えば、子供たち一人一人が願い続けた一つ一つの思いは他愛もない小さなものだったが、その同じ思いが結集した結果「パ」の字だけでなく店そのものを消し去ってしまうほどの巨大なエネルギーになっていったと解釈すべきだろう。

だがもしそうだったとしたら、そのエネルギーは『○○閣』を倒産に追い込んだだけでは済まなかったようだ。

その後『○○閣』の建物はほどなくして解体され、跡地にはすぐさまガソリンスタンドが建ったが、私が中学生になる前に閉店。

次いでレンタルビデオ店、リサイクル店、ファーストフード店、ラーメン店などが開店しては次々閉店して行った。

現在はレンタルビデオ店開店の時に建て替えられ、最後にラーメン店に改装されて閉店した十年近く前の姿のままで廃墟となっている。

交通量の多い国道沿いで、決して商業的に立地条件が悪いわけではなさそうなのにも関わらずだ。

それが証拠に対面の回転すし店や、両隣のカラオケ店とファミレスは長らく営業を続けているし、『○○閣』自体閉業するまで長い歴史を持っていた。

「子供たちの願い」が転化した「呪い」は『○○閣』だけにはとどまらず、その土地そのものに今でも渦巻いているのかもしれない。

そう、罪悪感を少々覚えながら考えるのは私だけだろうか?

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円空 ~至高のアマチュア仏師~

プロフェッショナルとは何ぞや?

その道の専門家にして、その分野の技術と知識、経験を生かすことによって報酬を得ている者を指すというのが一般的なところだろうか?

私は憚りながらそれにもう一つ定義を加えたいと思う。

それは「その分野において自分でも頑張ればできるようになると一般人に決して思わせない、神々しいまでの圧倒的技量を有した者」ということだ。

だからこそ、一般人はプロフェッショナルに敬意を払って少なくない報酬を払うのだ。

また、そうあるべきだと思う。

江戸時代前期、円空という僧侶がいた。

円空はその出生地の岐阜県内では特に有名な人物で、名前の通り僧侶だが同時に仏師でもあり、「円空仏」と呼ばれる独特の作風の仏像を多数彫ったことで知られている。

円空の彫った仏像の特徴は簡素化されたデザインで、その素朴でゴツゴツとした野性味に溢れた刀法でありながら、見る者を思わずほっこりさせる微笑をたたえていることだ。

遊行僧として北海道から畿内に渡る範囲を行脚し、その生涯で約12万体の仏像を彫ったとされる円空の作品「円空仏」は、出身地の岐阜県と隣の愛知県を中心に全国各地に約5300体以上現存している。

岐阜県を中心に、その温かみのある個性的な作風は今でも根強い人気があり、円空の作風をまねた円空彫りで仏像を制作する「円空会」のような団体もいくつか存在する。

岐阜県で生まれ育ち、幼いころからことあるごとに「円空仏」を目にしていた私は東京在住の現在、「円空仏」を見ると郷愁に駆られる。

そして同時に、かねてよりこんな不埒な思いを抱いていたことを告白する。

「この程度なら俺でも彫れそうだ」

あまりにも不遜すぎて岐阜県では禁句ですらあるが、公然の秘密というやつだろう。

同じ思いを抱いた者は円空の生前から2020年の現代まで通算で最低数十万人はいたはずだ。

確かに円空の彫る仏像は独特でえもいわれぬ優しい笑みをたたえているとかなんとか評価されているが、ぱっと見で彫り方が大雑把すぎるのだ。

はっきり言って素人っぽい

本気出せばできる気がしてしまうのだ。

ピカソとかゴッホはその気になれば素人には真似できない写実的な絵が描けるが、円空がその気になった作品を見たことがない。 生涯で12万体仏像を彫ったんならもっと上達しろよ、と言いたくなる私は罰当たりが過ぎるだろうか?

とにかく数を彫ることが目的で出来栄えには責任を負わなかったとしか思えず、そんな円空を、私は密かに「日本史上最も高名な粗製乱造者」と呼んだこともある。

私自身が前衛的な美術作品より写実的かつ迫真に迫った作品を好む傾向があるからかもしれないが、芸術作品はその発想力や表現力の前に、それを具現化するための技量も重要だと思う。

ミケランジェロとかのルネッサンス時代の巨匠なら仏像を作らせてもそれなりのものを作っただろうが、「円空のビーナス」や「円空彫りのダビデ像」はヨーロッパ文明への冒涜でしかない有様になるであろう。

もっとも、円空が仏像を彫る目的は「困っている人々を救う」ことであり、それらの人々のよりどころとなるような仏像を各地で彫り続けていたようだ。

より多くの人を救うにはたくさん彫らなければならず、そんなに時間をかけてこだわっている場合ではなかった事情もあった。

だが、彫ってもらった人々の中には「うわ、下手っ!」とか思った辛辣な恩知らずも結構いたと思う。

先ほどのプロフェッショナルの話に戻るが、私の定義から言えばやはり円空は仏師の分野において生涯アマチュアだったと断定せざるを得ない。

だいたい円空会なる円空の作風を真似ようとする人々の団体が複数存在すること自体、円空の仏師としての技量の程度を物語っているのではなかろうか?

また、同じ仏師でも運慶などはその作品のフィギュアがネットなどで販売されてるのに、私の探したところ円空仏のフィギュアは見当たらない。

運慶とかの作品を真似しようとする気が一般人に起きることはめったにないが、円空仏は自分で作れそうだもの。

つまりアマチュアにナメられている。

もう手遅れかもしれないが、円空会内外の武闘派円空愛好者が私を殺しに来るかもしれないので、円空の仏師としてのレベルについてディスるのはこれくらいにしておこう。

そうは言っても、そもそも私は円空の功績を貶めるつもりは全くない。

彼は仏師である前に宗教家たる僧侶であり、衆生を救うということこそ本分だった。

史実に残る通り円空はそれを実行にうつし、諸国を行脚して仏像を彫り続けたというその行為自体はまさに素人には真似できないことであるはずだ。

そして江戸時代前期のアマチュアレベルの仏像が三百年以上後でも5300体以上現存していることこそ、彼の宗教家としてのレベル、つまり徳の高さを物語っているのではないだろうか。

実際の彼自身は決しておろそかにできない人物であって、その人物が彫った仏像だから無下にはできないと思った人が相当数いなかったら、とっくに薪にされていたはずだからだ。

また、円空の彫った仏像はその人柄が出ていて、円空仏を見るたびに人々は円空を思い出したことだろう。

また円空に会ったことがない我々でも、何となく人となりが分かるようような気がしてこないだろうか?

きっと「いい人」とかいうレベルじゃなくて、仏様に近いかそのものの人物だったんではないかと。

円空彫りを真似ることはできても、生き方まで真似できる人はそうそういない。

円空は仏師としてはアマチュアだったが、僧侶としては疑うことなく最高のプロフェッショナルだったのだ。

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