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目指せ!暴力団構成員 ~1973年・現役ヤクザが熱血指導!~ “暴力団組員養成塾” 

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まだ元号が昭和だった1973年(昭和48年)4月18日、神奈川県横浜市緑区十日市場町にある横浜市立十日市場中学校の体育館ステージにあった垂れ幕が、ズタズタにされる事件が発生した。

被害総額は、50万円と当時としてはかなりのものであったために警察が捜査したところ、区内のアパート三保荘に住む無職・田邊亨(仮名・16歳)ら不良少年グループの存在が浮かび上がる。

そこで、警察は田邊が暮らす三保荘を調べたところ、同アパートの三部屋を田邊以外に同じく不良少年である中富裕易(仮名・17歳)と稲川会の三次団体高橋組の組員である玉利和信(本名・22歳)が借りていることが分かった。

しかも周辺住民からの聞き込みによると、そこには、常に大勢の不良少年たちが入れ代わり立ち代わり出入りしているというではないか。

犯罪の臭いをいやがうえにも感じ取った警察が捜索に入ったところ、案の定とんでもないことが行われていたことが判明したのだが、それは捜査関係者の予想の斜め上を行っていた。

何と現役バリバリのヤクザである玉利は、暴力団員養成のための「私塾」を開き、多くの少年たちに悪さのテクニックを伝授していたのだ。

“暴力団組員養成塾”の講義内容

新聞の一部の白黒写真

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“講師”の玉利和信

玉利の暴力団組員養成塾の「塾生」は、中学生7人と高校生19人(女子も4人交じっていた)、その他有職・無職の少年たちを含む計43人。

塾は同年2月に「開校」しており、玉利の「一人前のヤクザになるための講座」は三保荘八号室で毎晩行われ、必ず5、6人は参加していたのだが、その講義内容はヤクザの作法だの仁義だのの面倒くさいものはそっちのけだった。

玉利が主に教えていたのは、窃盗や恐喝のテク、効果的な脅し方であって、いっぱしの現役暴力団組員である自身の豊富な犯罪経験から、過去に遭遇した事例や想定されるさまざまなパターンを網羅した実践的なものである。

もちろん、座学だけではなく「実技」もあった。

正規の暴力団組員である玉利は、自身のシノギとして恐喝もやっており、塾生たちを伴って恐喝する相手のところに押しかけて脅したり、さらったり、監禁して暴行したりの実際の現場も体験させたりしていたのである。

世の中のために全くならない者を育成しているのだが、何らかの技術を習得させる講座としては、かなり充実かつ理想的だったと言わざるを得ない。

また、22歳の玉利は少年たちにとって怖いけど、何でも知ってて頼りになる兄貴であり、先生としても優秀だった。

犯罪のコツを指導しつつ「ヤクザになれば、女にも金にも不自由しないし誰からもナメられることはない」とそのうま味を語り、「気合い入れて、テメーらも一人前の男(ヤクザ)になれ!」と激励。

見込みがあると認められた「優等生」は、玉利の所属する組織の事務所での電話番や使い走りなどをさせてもらえる「インターン」制度まで設けていた。

それに触発されたガキどもは、覚えたての悪事のテクを実践。

この塾が神奈川県警緑署に摘発されるまで、塾生たちは悪事にいそしみ、犯した犯罪は判明しているだけで、窃盗33件にして被害金額は50万円以上、不法監禁2件、暴行や恐喝は数知れずだったという。

新聞の一部の白黒写真

中程度の精度で自動的に生成された説明
“塾”のあった三保荘(現在もあるのだろうか?)

受講生たちの階層と時代背景

結局同年6月、捜査にやって来た警察によって塾は閉校となり、塾長の玉利はもちろん逮捕された。

43人の塾生たち全員も補導され、うち田邊や中富はじめ悪質だった19人が書類送検となる。

だが、なぜたかだか四か月かそこらで、暴力団員を育成する塾などにこんなに多くの塾生が集まったのだろうか?と思うのは現代の感覚だ。

脱退者が相次いで弱体化著しい現代の暴力団組織とは違って、この時代のヤクザは組員数も多くて勢いがあった。

暴力団対策法(暴対法)が施行されるはるか以前だったし、取り締まる側の警察ともある程度癒着していたから、今に比べればやりたい放題。

闇社会の頂点に君臨し、近年ハバを利かせ始めている半グレなど彼らの縄張り内で、ちょっとでものさばったら瞬殺されたであろうおっかない存在だったのだ。

そして「おっかないこと」は往々にして「かっこいいこと」と同義語であり、あこがれて組に入ろうとする青少年も、数多く存在したのである。

だったとしても、そのような塾で熱心に学んで組員になろうとするような塾生たちは、筋金入りの不良少年ばかりだろうと思われたが、補導された中高生たちの多くは意外にも、それぞれの学校で問題行動を起こしたことのない、どちらかと言えば一般の少年たちだった。

彼らは、不良、それもそのワンランク上のヤクザにあこがれて入塾した中二病たちだったのだ。

この事件の発覚した1973年当時は、東映の『仁義なき戦い』が放映されて大ヒット。

映画を観た大人の観客は、劇場を出たとたん肩で風を切ってのし歩くようになるほどで、より影響されやすい年代のガキどもにとっては、なおさらだった。

そんなところへ、手軽にかっこいい暴力団組員の世界を体験できる場所があるとわかるや、友達が友達を呼んで増えていったらしい。

また、玉利ら暴力団の側にも事情があったようで、現代よりぬるかったとはいえ、当時の神奈川県警の取り締まりの強化で勢力が弱まりつつあった組織を立て直そうと、とにかく組員を増やす狙いがあったと見られている

そんな暴力団の思惑とヤクザがかっこよかった時代背景のおかげもあって起きた珍事件であったが、この塾が一期生を指導しているうちにつぶされ、そこで十分学んで闇の世界へ羽ばたく卒業生が出なかったことだけは幸いであった。

出典元―毎日新聞

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1962年・岐阜抗争

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日本の暴力団が主要団体である山口組や住吉会、稲川会などに寡占化されるはるか以前の1960年代はまだ各地に地元の独立系暴力団組織が健在であったが、主要団体の進出は着実に進んでいた。

中部地方の岐阜県岐阜市も同様であり、1961年(昭和36年)市内の博徒系暴力団池田一家の大幹部・坂東光弘が組を離れて稲川組系林一家・林喜一郎総長の傘下となり、稲川組岐阜支部長に就任する。

稲川組とは、後の広域指定暴力団・稲川会の当時の名称であり、静岡県熱海市を本拠にして神奈川県や東京都など各地に進出して大組織に成長しつつあった。

だが、これによりかねてよりパチンコ利権をめぐって池田一家といがみ合っていた地元組織の的屋系暴力団の芳浜会や瀬古安会との対立が激化。

1962年9月16日午後9時、タクシーに乗って移動中だった坂東光弘を芳浜会杉本組の組員が射殺するという事件が起こる。

傘下組織のトップを殺された稲川組は、報復を決定して林喜一郎はじめ200人の組員を岐阜に向かわせ、一方の芳浜会も迎え撃つために300人を集めて対峙する事態となった。

対規模抗争勃発の予感を感じた岐阜県警も警官300人以上を配備、両組織の衝突阻止に動く。

この抗争は、芳浜会が岐阜中警察署に騒動を起こさないよう警告されたこともあり、芳浜会会長の西松政一が稲川組のかねてからの要求どおり坂東光弘射殺に対する詫びを入れたことでいったんは和解した。

しかし、その遺恨は解消されることはなく、この年のうちに再燃する。

1962年10月、芳浜会系菊田一家の菊田吉彦と瀬古安会の鈴木康雄(安璋煥)が稲川組改め鶴政会林一家の林喜一郎の舎弟になりたいと申し入れてきた。

やはり寄らば大樹の陰であり、大組織の傘下に入ることを選んだようだ。

林はこれを受け入れたが、鶴政会側としては身内である坂東光弘を殺されたわだかまりがまだあったようだ。

鶴政会岐阜支部長・清家国光などは「若衆(子分)になるならいいが、舎弟(弟分)になるのは反対だ」と言っていた。

そんな事情もあったからなのか、11月に菊田と鈴木は鶴政会と同じく岐阜に進出してきていた関西の雄である山口組若頭の地道行雄の舎弟になってしまう。

寄るならばより大きな大樹の下の方がいい。

だが、鷹揚に受け入れた林にしてみれば、これは裏切り行為以外の何者でもない。

怒った林は、菊田と鈴木の殺害を命じた。

命を狙われることになった両人はそれを察したのか、行方知れずとなって所在がつかめなくなる。

その代わりに鶴政会はターゲットを菊田一家の他の人間に変え、その標的となったのは同一家の幹部である足立哲雄。

足立は芳浜会系菊田一家から融和をはかるために池田一家に派遣されて池田一家に席を置いて地元の有力勢力間の橋渡しの役割を担っており、池田一家を完全に傘下に置きたい鶴政会にとっても邪魔な人物であったようだ。

足立哲雄

12月14日正午、足立が襲撃される。

岐阜県大垣市にある大垣競輪へ行こうと国道21号を車で飛ばしていたところ、後ろから来た車が追い抜きざまに足立の車の前に停車。

降りてきた二人の男のうち一人が車に一発拳銃を発射した。

足立は車を降りてたまらず逃げ出したが、ヒットマンたちは発砲しながら追いかけてくる。

一発が右腕、もう一発が右肩に命中した足立は、この騒動で停車した車のうちの一台の下に転がり込んだ。

ヒットマンは運転手も含めて三名で、もう十分だと思ったのか袋のネズミの足立にとどめを刺そうとせずに撤収していった。

命だけは助かった足立は目撃者によって病院に担ぎ込まれ、一時意識不明の重体になりながらも一命を取り留める。

足立には誰の手の者にやられたか、なぜ自分が狙われたのか十分理解していたようだが、どっぷりやくざ者の足立は、その後の警察の事情徴収に何も答えることはなかった。

菊田一家も黙っていない。

二時間後の同日午後二時、岐阜市内にある鶴政会の拠点の一つである倉知興行社に組員六名が押しかけ、拳銃十数発を撃ち込むカチコミを行った。

足立がやられたことへの仕返しであることは言うまでもない。

年内に二回も立て続けに抗争を起こされた岐阜県警は岐阜市内に非常線を張って、徹底的な犯人捜索と抗争の当事者である鶴政会と菊田一家の組事務所への家宅捜索を始めた。

抗争の拡大防止どころか、組織の壊滅を狙い始めたのだ。

これは、鶴政会にとっても芳浜会系菊田一家にとっても望ましいことではない。

鶴政会のドンである稲川聖城は林を熱海市の自邸に呼び出し、足立襲撃の実行犯三人を使用した拳銃持参で捜査本部の置かれた大垣警察署に出頭させるよう指示した。

稲川は抗争を拡大させてもいいことがないことが分かっていたから、林に「軽々しく行動するな」と指示していたし、ナアナアの関係だった神奈川県警にも「応援を出すな」と要請されてもいたのだ。

稲川の意向もあって両組織は早い段階で手打ちを決定し、年末には菊田吉彦・鈴木康雄と林喜一郎の間で手打ちが行われた。

手打ちの条件は岐阜県に林一家を置くことを承認することで、鶴政会、後の稲川会は現在に至るまで岐阜市内に勢力を持ち続けることになる。

一方で菊田と鈴木は山口組の地道の舎弟を経て山口組の直参になったため、山口組も稲川会と同じく岐阜県下に組織を拡大させた。

また、岐阜抗争で襲われた足立ものちに山口組に加入してその二次団体である足立会を率い、山口組若中にまで昇格した。

出典元―岐阜日日新聞、ウィキペディア

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昭和の超戦闘的暴力団抗争 ~1964年・第一次松山抗争~

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1964年(昭和39年)ごろの日本は、社会全体に活気があった。

高度経済成長の真っただ中だったし、この年の10月には東京オリンピックを控えており、三種の神器と呼ばれたテレビ・冷蔵庫・洗濯機が全国の家庭に普及して、生活が目に見えて便利になっていくのを体感できるなど、現在も未来も明るかった時代だ。

当然、日本企業も一般庶民も元気だったわけだが、そうであってはまずい人たちも元気だった。

すなわち、反社会勢力、暴力団のことである。

その中でも最も威勢が良かった組織の一つが、ご存じ現在も神戸市に本拠を置く山口組であり、すでに西日本を中心に日本全国へ地元組織を屈服させながら、勢力を拡大中であった。

そして、その魔の手は四国の愛媛県松山市にも伸ばされ、同市を仕切ってきた地元暴力団の郷田会と対立。

1964年6月には、その対立がエスカレートして、現在なお語り草となっているパワフルな抗争が勃発した。

当時のサンデー毎日が報じた暴力団事情

抗争の発端

もめごとのきっかけは1964年4月2日、三代目山口組(田岡一雄組長)の直参である矢嶋長次(28歳)率いる矢嶋組が、愛媛県松山市大手町の大陸ビルの一部屋を「八木保」という人物の名義で借りたことから始まる。

矢嶋組は、電通局の下請業者として協同電設株式会社を設立し、電気工事事業を始めようとしたのだ。

だが松山市内の同事業は、それまで地元暴力団である郷田会が牛耳っていたために、山口組二次団体である矢嶋組の参入は、同会にとって縄張り荒らしも同然の行為であって面白いわけはなく、軋轢が生じ始めていた。

ちなみに郷田会は、関西を舞台として、当時まだ山口組と対等に張り合うことができた広域暴力団・本多会の二次団体である。

巨大組織をバックにする両者が衝突する事態になったのは、矢嶋組が協同電設株式会社を設立した2か月後の6月。

6月2日に、矢嶋組は再び「八木保」の名義で東雲ビルと入居契約をし、同3階を借りて事務所としたのだが、この東雲ビルこそが、その後の銃撃戦の舞台となる。

そして、三日後の6月5日に最初の事件が起きた。

同日の夜11時ごろ松山市内のバーで矢嶋組組員・末崎康雄(30歳)とその舎弟の門田晃(19歳)が酒を飲んでいたのだが、そのバーのママは矢嶋組と一瞬即発になっていた郷田会の会長と関係の深い女。

郷田会の息がかかっていることを自認するママは、敵対組織の手下が自分の店に来たことを訝って「矢嶋組の若いモンが来とる」と郷田会の事務所に連絡、いきり立った郷田会の組員・野中義人(20歳)ら数人がバーに殺到した。

肩を怒らせてバーにやって来た野中たちは、末崎ら二人を見るなり怒り狂った。

末崎たちは、ついこないだまで自分たちの郷田会事務所に出入りしていたチンピラであり、ゆくゆくは、こちらの身内となるはずだったのに、敵である矢嶋組のバッチをつけていたからだ。

「こん裏切りモンが!」

郷田会のヤクザたちは、末崎と門田を拉致。

末崎は逃げたが、取り残された門田は、さんざん暴行を加えられて拳銃で銃撃までされてしまった(拳銃が粗悪な模造銃だったためにさほど威力はなかった)。

翌6月6日、矢嶋組の側は一応この件について市内の喫茶店で郷田会幹部と話し合ったが、「ウチの若いモンやった奴出せや」だの強硬だったために、物別れに終わる。

すでに矢嶋組の方では、組員一同昨晩の事件について話し合った結果、「ウチにケンカを売っている」ということで、意見が一致していたのだ。

ヤクザ者同士が話し合いで決着しないなら、どう決着をつければよいかは決まっている。

同日のうちに、矢嶋組組長の矢嶋長次は戦争の準備を命じ、事務所となっている東雲ビル3階に、きっかけを作った末崎をはじめ銃器を持った組員たちを待機させた。

白昼の銃撃戦&籠城戦

6月7日(日曜日)午前10時、矢嶋組が早速行動を開始する。

末崎ら矢嶋組組員数人は東雲ビルを出て、郷田会傘下組織の岡本組の組員・阿部公孝(20歳)を阿部の自宅の付近で、拳銃を突きつけて拉致、東雲ビル3階に監禁したのだ。

そして午前11時、岡本組・岡本雅博(29歳)組長に電話をかけて、「テメーんとこの若いモン預かっとるから受け取りに来んかい」と挑発し、これを受けた岡本組組員・金昌二(22歳)や野中義人はじめ4人が、自動車2台に分乗して東雲ビルに急行する。

言うまでもなく、金たちは猟銃や拳銃などの道具持参だった。

午前11時50分頃、東雲ビルの近くまで来た岡本組組員の乗る車2台は、通りを歩いていた矢嶋組組員であるくだんの末崎ら2名と出くわす。

末崎たちは拳銃を持っていたが、分が悪いと見て逃走、発砲しながら追ってくる乗用車2台に応射しながら、東雲ビルに向かって走っていく。

この際に、末崎が猟銃の散弾を受けて負傷したものの、2人とも東雲ビルに逃げ込むことに成功した。

ダイアグラム

中程度の精度で自動的に生成された説明

ビル内の矢嶋組事務所には末崎含め同組員が8人おり、岡本組の車2台が東雲ビル前の路上に到着するや、3階の窓から数人が車2台にめがけて、拳銃や猟銃、ライフルを発砲、岡本組組員の野中と金、もう一人の未成年組員(19歳)が被弾する。

岡本組の組員たちも車を盾に応戦し、白昼堂々の銃撃戦が始まった。

あさま山荘や少年ライフル魔の事件のように犯人の側がほぼ一方的に銃撃するものではなく、銃器を持った双方が互いを狙って複数発撃ち合う正真正銘の銃撃戦である。

銃撃する矢嶋組組員

これら一連の銃撃戦は市内の公衆の面前で行われたために、管轄の松山東警察署には110番通報が殺到、12時5分頃には、通報を受けた同署の捜査員6名が防弾チョッキ着用で東雲ビル前に急行したが、この人数で足りるわけがない。

とは言え、警官の出現はすで3人が負傷している岡本組組員たちには効果があったようで、4人は車に乗って逃走した。

彼らはその後、犯行に使った銃器持参で警察署に出頭している。

だが、問題は東雲ビルにいる矢嶋組の組員たち8人である。

彼らは、そのまま銃器を持って籠城を続けていたのだ。

中には、人質にされた岡本組の阿部もいる。

フェンスの前にいる男性の白黒写真

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午後1時頃までに、非常招集に応じた松山東警察署員が現場に到着し、東雲ビルの周りの交通を遮断、最終的には各警察署から応援で駆け付けた約250名の警官隊が包囲。

また、この日は日曜日であったこともあって、現場には野次馬が約千人も集まってきた。

警察は、籠城する組員たちに投降を呼びかけたが、全く応じる気配がないどころか、それに威嚇射撃で答え、その銃口を警官隊の次にうっとうしい野次馬たちにも向けて「撃ったろか、素人ども!」と吠える始末。

午後2時半に、最初の銃撃戦で被弾した矢嶋組組員の末崎が人質の阿部を連れた上にライフルと猟銃、拳銃を持って投降したが、残る7人は時々威嚇の発砲をしながら立てこもり続けた。

その後、説得を続ける警官隊に対し、籠城する矢嶋組組員の一人である片岡正郎(23歳)が「午後4時までに全員降りてくる」と答えはしたが、午後4時を過ぎても投降してくる気配はない。

警察の側にも、強硬手段を講じる時が来た。

警官隊は予告の上、東雲ビルの3階の窓へ催涙弾2発を撃ち込んで20名で突入。

乱闘の末、矢嶋組組員7人全員を逮捕した。

矢嶋組のヤクザたちは銃器こそ持っていたが、それを使うことなく拳で抵抗したらしい。

この突入で警官2人が負傷、その腹いせか、組員たちは警官に殴られながら連行されていった。

本を持っている人の白黒写真

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その後

この銃撃戦で岡本組側から3人、矢嶋組から1人の負傷者を出したが死者はなく、突入の際に警官二人が軽傷を負った以外に、野次馬にもけが人はなかった。

しかし、この事件は社会と愛媛県警に重大なインパクトを与えることになる。

白昼堂々の市内での銃撃戦は、やはりやりすぎだ。

事態を重く見た愛媛県警によって、矢嶋組は組長の矢嶋長次はじめ組員のほぼ全員が逮捕され、郷田会は組長の郷田昇含む41人の逮捕者を出して、多数の銃器と弾薬が押収された。

カレンダー が含まれている画像

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また、かように大それた出入りを起こした矢嶋組は組員数が20人ほどで、もう一方の郷田会は、その下部団体全員を含めても50名に満たないくらいだったと言われているから、さほど大きな組織同士の抗争というわけではない。

だが、それぞれの上部団体は各地に系列団体を有する巨大組織の山口組と本多会。

両団体は後日、系列の組から松山に、それぞれ応援の組員を派遣してきた。

その内訳は、山口組が101人、本多会が44人であったが、これを予想していた愛媛県警の検問によって、両団体の応援は阻止されて抗争の拡大は防がれた。

後に、第一次松山抗争と呼ばれたこの衝突は、松山刑務所の拘置所に収容された双方の組長である矢嶋と郷田が五分の手打ちをしたために終結したが、両組織とその後ろ盾だった組織の明暗は、はっきり分かれていくことになる。

矢嶋組は、組長の矢嶋長次が、後に懲役7年の判決を受けて服役することになるが、六代目山口組の二次団体として令和の現在も存続。

一方の郷田会は、郷田昇が実業家に転身したために1964年のうちに解散し、郷田会のバックだった本多会も、翌年1965年に解散して大日本平和会と名を変え、右翼団体として活動を続けたが勢力を縮小させ、1997年をもって解散した。

ちなみに、この抗争によってあまりにも多くの暴力団組員が拘置された松山刑務所では、1人の看守が買収されたことをきっかけに、ここの職員はチョロいと判断した組員たちが増長。

飲酒、喫煙、賭博など、やりたい放題した挙句に看守を脅してカギを奪い取って我が物顔で刑務所内を自由に歩き回り、女囚が収容されている女区に入り込んで強姦まで行った「松山刑務所事件」が起きた。

壁に貼られたポスター

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出典元―愛媛新聞、朝日新聞、読売新聞、サンデー毎日

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2023年 ベトナム マフィア 東南アジア

ベトナムマフィア

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どの国にも悪い奴はいるように、近年日本に数多くやってくるようになったベトナム人も全てが、真面目で善良であるわけではない。

一部の不心得者がいて、グループで家畜窃盗をやったり、飲食店で集団乱闘したりするニュースが報道され、北関東では bộ đội(ボドイ、“部隊”の意)と呼ばれる犯罪集団が形成されているらしい。

家畜泥棒

そんな犯罪組織であるマフィアは、彼らの母国ベトナム社会主義共和国にも当然いる。

では、そんな本国のベトナムマフィアはどのようなものなのだろう。

チャイニーズマフィアなどと違って想像しにくいのではないだろうか?

そこで本ブログでは、日本で紹介されることの少ないベトナム本国のマフィアの実態について、ウィキペディアのベトナムの組織犯罪(ベトナム語版)を参考に取り上げて見たいと思う。

本稿が皆さんのご理解の一助になれば幸いである。

ベトナムの裏社会

ベトナムには「黒社会(Xã hội đen、サーフォイデン)」という言葉がある。

これは、おなじみ中国語における裏社会を指す言葉「黒社会(ヘイシャーホェイ)」と同じで 、文字通り犯罪者や犯罪組織で形成されるアンダーグラウンドな社会全体を指す語であり、元々は、1990年代に香港映画から入って来たのが定着し、現代ではメディアでも使われるようになった。

そしてベトナムの黒社会に棲息し、コソ泥から嘱託殺人まで非合法活動をする者たち「クマの頭(チンピラの意)」は、「兄弟姉妹たち」、「ナイフ」、「風来坊」などと多種多様な呼び名で呼ばれるが、やはり組織化されて一家を構えたマフィアが、その裏社会の生態系の頂点に君臨するのは、日本をはじめとした他国と事情は同じである。

そのベトナムのマフィアも当然構成員(dân xã hội đen)がいて、そのボスとして親分(Ông trùm)がおり、ボスの指令のもとで刃傷沙汰や銃撃事件、薬物や武器の密売、殺人、犯罪組織間の抗争を頻発させている。

カイン・チャン
男性の顔

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フック・ボー

ごく最近では、カイン・チャンやフック・ボーの組織の悪名が最も高いが、アメリカのマフィアや南ベトナム時代に悪名を馳せたナム・カムやダイ・キャセイの組織ほどの危険性や組織力はなく、半グレの域を出ていないようだ。

組織に属する手下たちは普段、バイクタクシーや運送業というまっとうな仕事をしていることが多いが、その裏で闇金や性風俗、用心棒、麻薬売買、武器の密売、サッカー賭博などの違法性の高い商売に手を染めている。

それら構成員は男女混成であり、女親分も少なからず存在する。

そして、甘言に釣られて加入してしまう未成年の学生も後を絶たない。

彼らはシノギのために徒党を組んで一般人を脅したり危害を加えることもするが、法律では解決できない一般人のもめ事を有料で収めることもする。

かつて、日本のヤクザもやっていた民事介入暴力のようなこともしているのだ。

もっとも、そのやり方はしばしば流血を伴うものであり、個人間や組織間の紛争が大掛かりな乱闘や殺傷事件に発展することも少なくない。

また、国をまたいで犯罪を行う外国人のマフィアもいる。

韓国人のソン・ムン・グルはハノイとブンタウの外国人クラブの雇われオーナーであったが、増長して本国からゴロツキを呼び寄せて組織を作り、同国人の投資家からゆすりたかりを行っていた。

各地での犯罪行為

2008年の統計によると、分かっているだけで 313 団体のマフィア組織が活動中である。

それらの団体は、犯罪組織のご多分に漏れず勢力争いや縄張りをめぐる抗争もあり、合法非合法を問わず、あらゆる事業体からみかじめ料を取っている。

そして、ベトナム国内において南部カインホア省ニャチャン市は危険な街としてイメージが定着しているようで、そうなったのは2005年10月から2006年7月までグエン・ゴック・タイン・ハンに率いられた武闘派組織が大暴れしたからだ。

グエン・ゴック・タイン・ハン

このマフィアは殺傷事件を数多く起こし、特に同市のフン・ヴォン通りにあるマッサージ店に刃物や水中銃を持った数十人を暴れこませて従業員を追いかけ回し、店を破壊する大立ち回りを演じて有名になり、さらには、カインホア省の観光協会会長のボー・ディン・トゥー氏の殺害を5000万ドンの報酬で実行した事件をも起こしている。

それから後にもカインホア省のマフィア犯罪は猖獗を極め、警官射殺事件まで起こしたが、長いこと徹底した取り締まりが行われてこなかった。

中国との国境にほど近い北部クアンニン省でも、長年約100名の構成員を有するマフィアが君臨し、刃物まで使った暴行傷害事件や器物破損事件を起こして、現地の一般人を恐怖のどん底に叩き落としていた。

中央直轄市であるハイフォンのマフィアも危険なことで知られ、刃傷沙汰どころか銃撃事件が頻発している。

そして首都であるハノイにも、闇金や債権取り立てなどを主なシノギとするマフィアが存在し、彼らは近年、あろうことか強姦や売春をさせる目的で未成年を誘拐するようになっている。

仁義もへったくれもない連中だ。

しかし、手口が相当巧みなのか警察の怠慢なのか(あるいはビビっているのか)、その捜査はあまり進んではいないようだ。

こうして見てみると、ベトナムのマフィアは日本のヤクザほど大規模で組織化されてはいないが、犯罪行為の凶悪さが日本以上なのは間違いがない。

また取り締まる側の警察の取り締まりも十分とは言えないケースが多く、さらには、犯罪者と警察が癒着していることも考えられる。

ただ、現在のベトナムの治安の状況は1990年代や2010年代の中国の状況と似ており、中国においては、まがりにも社会が成熟して政府も取り締まりに本腰を入れるようになってから、かつてほど犯罪組織が公安と結託したりして大手を振って活動できなくなったようだ。

よって、ベトナムもこの治安対策において中国に学べば、大きな改善が見込めるのではないかとみられる。

出典元―Tội phạm có tổ chức tại Việt Nam(ウィキペディア)

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ヤクザが最も凶悪だった時代 2 ~女子高生をナンパして歯を抜かれた大学生

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。

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日々ナンパやキャッチに励む諸君。

君たちの日ごろの行いは、世間の評価はさておき敬服に値すると私は信ずる。

そっぽを向かれるのを覚悟の上で見ず知らずの異性に話しかけ、自身の話術と魅力を駆使して何とか自分の思い通りにさせようとする行動力、何より勇気はたいしたものだと思う。

なぜなら無視されたり、冷ややかな態度を取られるだけならまだしも、相手の女によっては、とんでもないことになる場合もあるからだ。

今から20年前の2003年に、ある女子高生をナンパした私立大学三年生の高倉隆司(仮名・22歳)のように。

猛毒女

2003年8月24日JR池袋駅西口で、大学三年生の高倉は仲間二人とともにナンパをし、ある未成年と思しき少女二人を自分の部屋に連れ込むことに成功。

本懐を遂げて見事勝利を収めた。

しかし、彼らはナンパした相手を大いに間違えていたことに、この時は気づかなかった。

連れ込んだ女はとんでもない奴だったのである。

大満足の高倉たちの一方で、連れ込まれた二人のうちの一人の女、都立高校二年生の山下侑理江(仮名・17歳)の方は、負けた気がしていた。

たいして好みでもない奴らの口車に乗ってしまい、言いなりになってしまったことが、悔しくて悔しくて仕方がない。

この恨み、晴らさでおくべきか。

相手は大学生で、そんなにヤバそうな奴らじゃなかったが、男相手に直接自分でやることはしない。

不良少女の山下には、こういう場合にとても頼りになりそうな知り合いに心当たりがあった。

それは、藤川直哉(仮名・30歳)という男。

関東に拠点を持つ指定暴力団住吉会系の組所属の暴力団員だ。

暴力団の恐怖

ヤクザの藤川と女子高生の山下がどのように知り合ったかの詳細はよくわかっていないが、だいたい想像はつく。

おそらく、街でたむろしていた山下に藤川が声をかけて、「何かあったら連絡しろ」とか言って、組の代紋入りの名刺を渡したか何かだろう。

裏社会の人間にとって若い女は何かと利用価値が高いから、なるべくたくさんつばをつけておくに越したことはない。

一方の山下はバカに決まっているから、頼りがいのある知り合いができたと、ほくそ笑んだはずだ。

そして、何の考えもなくその力を利用することに決め、藤川に連絡を取った。

「あのさ、金取れそうな話あんだけど」

とっちめた上に、金をいただこうという算段だったんだろう。

話を持ち掛けられた藤川だったが、こいつはペーペーの組員で単体ではさほど頼りにならなかった。

自分で動くことができないし、動かせる下の人間がいなかったらしく、取り分が減ることを覚悟のうえで、組の幹部である能勢将大(仮名・41歳)に相談する。

能勢は組の幹部ではあったが、チンケなヤクザであったようだ。

小娘の持ってきた話に大真面目に乗って、山下をナンパした大学生から金を脅し取る計画を練り始めた。

そしてその小物ヤクザの考えた計画はすこぶる正攻法だった。

8月31日未明、能勢は山下に教えられた高倉のマンションに手下とともに押し入って高倉を粘着テープで縛り上げ、車のトランクに入れて拉致。

曲がりなりにも職業犯罪者だから、大学生のガキ一人をさらうなど朝飯前である。

いきなり相手の家に押しかけて連れ去るあたり、能勢は悪い意味で正統派のヤクザだったらしい。

そんな奴が脅して言うことを聞かせるためにまずすることは、たっぷり怖い思いを相手にしてもらうことだ。

そのために、高倉をトランクに監禁した車が向かった先は、人気のない河川敷である。

「コラ!ガキい!!詫び入れろや!!」

「すいません!すいません!もうかんべんしてくださいい!!」

トランクから出された高倉は、おっかない奴らに拉致され、すでに恐怖で泣き出している。

脅迫の第一段階は、十分に果たしたと言えよう。

だが能勢の脅迫には第二段階があった。

それは、すごく痛い思いを相手にしてもらうことだ。

「オラァ!口開けやがれ!!」

能勢は、高倉の口を無理やり開けさせるや、何とペンチで歯を抜き始めた。

「あががががが~!!!」

歯医者で歯を抜いたことがある人ならわかると思うが、歯を抜かれる痛みは半端じゃない。

もちろん、麻酔など使っていないからなおさらだ。

一本だけじゃすまない。

能勢たちは、さらに泣きわめく高倉の歯をもう一本二本と抜いて、合わせて上下の歯七本を抜いた。

地獄のような暴行である。

能勢は歯を抜き終わった後、山下をナンパした他の二人も呼び出し、三人にそれぞれ普段金として『150万円を払う』という念書を書かせた。

二人は歯を抜かれなかったようだが、歯を抜かれて口から血を流しながら泣いている高倉を見て、凍り付いたはずだ。

断ったら同じ目にあわされる。

高倉はもちろん、友人二人も念書を書かざるを得なかった。

彼らはその後解放されたようだが、こんなことをしたら警察に駆け込まれるのは目に見えている。

だが、長年ヤクザをやっていた能勢は経験上、徹底的に恐怖と苦痛を与えた相手は、決して訴えやしないという自信があったのかもしれない。

被害に遭った者は訴えたが最後、報復として同じ目かそれ以上ひどいことをされると、恐怖のあまり精神的に折れて泣き寝入りする場合が多いのだ。

そして、この凶行のきっかけとなった山下も、凍り付いたことだろう。

「まさかここまでやるとは思わなかった」と愕然とすると同時に、もしこの人たちを怒らせたら自分もこういう目に合うかもしれないと、震えあがったはずである。

それも、能勢の狙いだった可能性が高い。

「俺たちはここまでやってやったんだから、お前は何してくれる?」などと、過大な見返りを求めやすくなるからだ。

そして、それは延々続くことになるはずである。

それがヤクザというものだ。

しかし、この件が警察の知るところとなるのに、そんなに時間はかからなかった。

高倉たちが警察に駆け込んだのか、それとも医者か周囲の者が通報したのか、能勢や山下ら4人は事件からほどない9月18日には、逮捕監禁や恐喝で逮捕。

26日には、話をつないだ藤川も逮捕された。

その後、逮捕された能勢たちがどんな法的制裁を受けたか報道されていないが、高倉たち三人は、二度とナンパをする気がなくなったに違いない。

断られてもそっぽを向かれてもめげず、相手の迷惑そっちのけで道行く女性に声をかけ続ける諸君。

君たちも、十分気を付けてナンパにいそしんでくれ。

出典元―夕刊フジ、朝日新聞

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新潟県六日町トンネル内灯油焼殺事件 ~16歳と19歳の恋愛に嫉妬した三十路の暴力団組員~

記事に登場する氏名は、全て仮名です。

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2000年(平成12年)5月22日午前5時ごろ、民家もまばらな新潟県魚沼群六日町の農道を歩いていた近所の住民の女性(72歳)の前に、ただごとでない様子の少年が現れた。

十代後半くらいのその少年は裸足で、全身ずぶ濡れとなってぶるぶる震えており、女性を見つけるなり「警察を呼んでほしい」と懇願するのだ。

そして、その理由は耳を疑うものだった。

何と男二人に灯油をかけられて、火をつけられそうになったから逃げてきたというのである。

しかも、もう一人一緒にいた友達は逃げることができず、焼き殺されたかもしれないと言うではないか。

それが証拠に、ずぶ濡れの彼の体からは、灯油かガソリンのような刺激臭が漂っていた。

その後、女性の家からの通報により、新潟県警六日町署の署員が出動。

少年が火をつけられそうになったという六日町舞台のわらび野トンネルに駆け付けたところ、トンネル内で焼け焦げた焼死体を発見。

それは、焼き殺されたかもしれないと言われていた少年、千村健太(仮名・16歳)の変わり果てた姿だった。

事件の経緯

千村健太(仮名)

事件は前日の5月21日の午後11時ごろ、殺されることになる千村健太と、助かった方の宇田川弘明(仮名・16歳)が、ある人物から「遊びに行こう」と呼び出しを受けたことから始まる。

彼らを呼び出したのは、矢内彰浩(仮名・32歳)という人物。

前月の4月下旬まで、千村と宇田川が働いていたラーメン店の店主であった。

彼ら二人が迎えに来た矢内の車に乗り込んだのは、日が変わった22日午前2時ごろ。

こんな夜中に「遊びに行こう」と誘われて、喜んで行く人間はあまりいない。

しかも、相手は前に働いていた職場の雇い主ではるかに年長、真夜中に呼び出されて遊ぶには、面白くないことこの上ない相手だ。

だが、二人とも断るわけにはいかなかった。

彼らに電話したのは矢内だったが、本当に用があって呼び出したのは、亀井俊彦(仮名・32歳)という男である。

ラーメン店の客として来ていたから顔なじみであったが、亀井がどういう人物であるかを、二人ともよく知っていたのだ。

亀井は暴力団組員であり、なおかつ地元では数々の暴力事件を起こしてきた悪名高き乱暴者。

前の年には、歩行者をひき逃げして逮捕されたが、それは単なるひき逃げ事故ではなかった。

その事故の際に、自分の車にぶつかった歩行者に腹を立てた亀井は、車を繰り返し前進後退させて三回も轢いて、そのまま立ち去ったという正真正銘の犯罪だったのだ。

亀井はその事件で逮捕されて、先月まで刑務所に服役して出てきたばかりであり、そんな危険な男の呼び出しを断ったら、何をされるかわからない。

そもそも、彼らがアルバイトをしていたラーメン店自体、堅気の店ではなかった。

店を直接切り盛りする店長の矢内は堅気だったが、オーナーは片岸祐一(仮名・34歳)という暴力団組員であり、亀井の兄貴分。

おまけに、ラーメン屋で働いていた千村は店員としてだけではなく、ヤクザである片岸の「若い衆見習い」ということにされていたらしい。

それに千村はこの時、自分が呼び出されたのが、なぜなのか気づいていた。

なおかつ、自分がタダでは済まないであろうことも。

彼には身に覚えがあった。

絶対にやってはいけないあることをして、それがバレたのだ。

だからと言って、逃げるわけにはいかない。

そうしたら余計厄介なことになることくらい、ヤクザの「若い衆見習い」にされていた彼なら嫌というほどわかる。

案の定、車内の亀井は、千村が乗り込んだ時から明らかに不機嫌であり、車が発進してほどなくして、いきなり暴力を振るってきた。

「このガキ、ナメたことしやがって!コラあ!!おらあ!!!」

ただでさえ危険な男は、酒をしこたま飲んで来たらしく、余計狂暴になっていた。

「宇田川ぁ、テメーも知ってたんだろ?なぁ!!」

「いえ、あの、その…ぶっ!!」

宇田川も殴られた。

宇田川が呼び出されたのは、ツレの千村がやらかした「やってはいけないこと」を知っていたにもかかわらず、報告しなかったからなのだ。

やらかした本人である千村の次に、罪が重いとみなされていた。

怒りの矛先が向けられたのは、二人の少年だけではない。

「停まんじゃねえよ!!飛ばせボケぇ!」

赤信号で車を停止させた、矢内も殴られた。

彼は普段から、ヤクザの片岸や亀井に奴隷扱いされていたのだ。

やがて、車は事件現場となる六日町の工業団地に到着すると、ほどなくして、一台の白い車がやってきた。

四人は車を降りてその車に近づき、亀井が「これに乗れ」と他の三人に命じた。

「お前ら逃げろ」

ある程度事情を知っていた矢内は、小声で二人の少年に言って自分は逃げたが、二人ともモタモタして逃げられず、白い車に乗せられてしまう。

その車を運転していたのは、加藤夏樹(仮名・28歳)という暴力団員ではないが、亀井の舎弟気取りの男だ。

車内で亀井は千村と宇田川を交互に殴りつつ、加藤の運転する車は、だんだん明るくなってきた午前四時ごろ、わらび野トンネルに到着。

車から降ろされた二人は、トンネルの中で正座させられた。

わらび野トンネル

「テメーら、これからどうなるかわかるか?アン?!」

そう言うと亀井は、加藤の車からポリタンクを取り出すや、正座させられている二人に、その中に入っていた液体をぶっかけた。

手下の加藤に、あらかじめ用意させて車に積んでいた灯油だ。

やがて、ライターを取り出して、それを加藤に渡すと、「夏樹、燃やしちまえ」と命じた。

大物ぶって、自分で手を下す気はないのだ。

加藤は、どちらかというと肝っ玉の座らない根性なしだったが、だからこそ、おっかない亀井には絶対服従な男。

本当にライターを近づけてきた。

脅しじゃない、本気で焼き殺す気だ。

逃げ出そうと立ち上がる二人。

宇田川は、前述のとおり逃げおおせたが、千村は間に合わなかった。

加藤のライターで火をつけられた千村は、火だるまになり、叫び声を上げて走り回ったあげく、トンネル内に倒れ込み絶命した。

事件現場

千村が犯してしまった過ち

事件が発生して翌々日の5月24日午前1時ごろ、実行犯の一人の加藤が六日町署に自首してきた。

加藤は堅気のくせに普段から「亀井さんのためなら何でもやります」などと公言してヤクザ気取りだったが、本性は気弱。

人を焼き殺してしまった事実を、受け入れることができなかったのだ。

そして、事実上の主犯である亀井は犯行後に逃走していたが、翌月6月9日に出頭して逮捕された。

だが、彼らは実行犯にすぎない。

亀井は顔見知りとはいえ直接の恨みはないし、加藤に至っては初対面。

実は亀井たちの背後には、犯行を指示した本物の主犯がいた。

その人物とは亀井の兄貴分であり、千村たちが働いていたラーメン店のオーナーである片岸祐一である。

彼こそが、千村の犯した行為に激怒していたのだ。

事件発覚当時から、犯行を指示したのは片岸ではないかと事情を知る関係者の間ではささやかれていた。

捜査を担当する六日町署もそれを知って、片岸の行方を追い始める。

片岸は、亀井同様事件後に行方をくらませていたが、7月7日になって、ようやく殺人容疑で逮捕された。

片岸は逮捕当時容疑を否認していたが、千村に危害を加えるように亀井に命じたことは認めた。

そして、彼が舎弟を使って制裁を加えようとした理由、それは、ある女性をめぐってのものだ。

その女性の名は、大熊径子(仮名)。

片岸がオーナーを務めるラーメン店で、アルバイトをしていた当時19歳の少女である。

彼女は、事件の起こるちょうど一年前の1999年(平成11年)5月ころの高校在学中から働き始めていた。

径子は、地元では有名な企業の社長の娘である。

片岸は、当時所属していた暴力団の組員になる前は、その会社で働いていたことがあるし、ラーメン店の開業に際して保証人になってもらったりしていたために、その社長に恩義を感じていた。

そんな恩人のお嬢さんを預かっていたうえに、その社長夫妻からはヘタな男を近づかせないように、特に依頼をされてもいたらしい。

なにせ、径子は近所でも評判の美少女だったからだ。

片岸は社長夫妻の頼みを律儀に聞き、彼女が自動車学校に通い始めた頃には、送り迎えまでしていた。

だが、その年の11月に千村がアルバイトとして雇われてしばらくしてから、ややこしいことになる。

翌年の3月ころから、径子が千村と交際するようになったのだ。

それも、ぞっこんだったのは径子の方であった。

千村は高校に行っておらず、自身の「若い衆見習い」をさせているから、社長夫妻が言うところの娘に近づかせてはいけない男のカテゴリーに入る。

事実、この交際が4月末に社長夫妻の耳に入るや、夫人は片岸に別れさせるように依頼してきたという。

そして、このティーンエイジャーの交際を、夫人以上に快く思わない者がいた。

当の片岸本人である。

片岸は、径子の父親が経営する会社で働いていたころ、まだ幼児だった径子をかわいがっていたが、彼女が美女に成長した今は魅力的な異性として、熱視線を注ぐようになってしまっていたのだ。

意識するだけでなく行動にも移し、プレゼントを渡して告白めいたことまでしでかした。

片岸は離婚したばかりでもあったから、何としても径子をモノにしようとしていたらしい。

しかし、幼いころはなついていたとはいえ、片岸はヤクザのうえに、19歳の彼女から見たら完全におじさんの34歳。

明らかに10年以上遅い。

身の程知らずにも、ほどがあるだろう。

径子は遠回しな言い方でやんわりと断ったが、こんな勘違い野郎がオーナーの店で、気持ちよく働けるわけがない。

ほどなくして、彼女は年下の彼氏である千村、その友達の宇田川と相前後して、店を辞めてしまった。

社長夫人から依頼を受けてほどない5月2日、片岸はもうすでにラーメン屋を辞めてしまった千村を呼び出して「今回は見逃すが、次はないぞ」という脅し文句とともに、径子との交際を辞めるよう迫った。

夫人に頼まれていることを理由にしていたが、本当は、こんなガキごときに自分が付き合いたい女を取られたことに、腹わたが煮えくり返っていたことを、とりあえずこの場では隠す。

一方の径子に対しても「このまま付き合い続けたら、千村は殺されるぞ」というメールまで送ったりしたため、ただ事ではないと感じた径子も千村も、別れることをこの時は了承する。

だが、そんなことまでしても、燃え上がっている最中の十代のカップルを止めることはできなかったようだ。

二日後には、二人とも連絡を取り合うようになり、千村の身を案じた径子は、一人暮らししている自分のアパートや友達の家に、千村をかくまったりして交際は続く。

しかし、いつまでも隠し通すことはできなかった。

事件発生直前の5月21日、娘がまだ千村と交際を続けていることが、社長夫人にバレてしまう。

夫人は、その日のうちにそのことを電話で片岸に伝え、「まだ付き合ってるみたい」と愚痴った。

5月2日の最後通告は守られなかったのだ。

ヤクザとしてのメンツは完全につぶされたと、片岸は激怒した。

その矛先はもちろん「若い衆見習い」の千村である。

だいたい、こんな奴が自分の狙っていた女と付き合い続けているのは許しがたい。

ナメたガキからは、きっちりケジメを取ってやる。

しかし、だからと言って、自分で手を下す気はない。

社長夫人からの電話の後、片岸は、別の人間に電話をかけた。

それは、彼の舎弟であり暴力装置、この事件の実行犯となる亀井俊彦だ。

亀井は、暴走族だったころから片岸の世話になっており、自分の体に片岸の名前を入れ墨するほど心酔しているくらいだから、命じれば、いくらでも体を張ってくれる都合のよい奴である。

「千村のガキがよ、また社長の娘にちょっかい出してやがった。しめちまえ」

片岸はこの時、そう電話で亀井に指示したと、後に供述している。

「殺せ」ではなく、あくまで「痛めつけるだけでいい」と言ったのだ、ということだ。

だが片岸も亀井もヤクザである。

彼らの世界において、上の者は本当の目的を隠して、具体的に指示することなく、それを匂わせるような言い方で指示することがあるし、下の者は、その意図を正確に察しなければならない場合があるものだ。

長年一緒に過ごしてきた彼らの間に、どんな暗黙の了解や呼吸があったかは立証できないが、亀井の方は、単に殴る蹴る以上のことをする必要があると解釈した可能性があるのは、事前に灯油を準備していたことから見て間違いがない。

おまけに、電話を受けた時は酒をしこたま飲んでおり、この乱暴者は、余計に分別のつかない状態になっていた。

その後、矢内に運転させて千村たちを連れ出し、日が変わった22日の午前3時ごろ、亀井は片岸に連絡を入れている。

その時、片岸はさらに「どういうことになるか、きっちり分からせろ」と命じたという。

そして、その電話からほどない午前4時ごろ、前述のとおり千村は、六日町舞台のわらび野トンネルで焼殺という最悪の殺され方をされてしまうことになったのだ。

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不条理な判決

こんな残忍な犯行を犯した連中が、社会に出てきていいはずはない。

死刑か無期懲役、あるいは社会の脅威となる可能性がほぼなくなるほどの高齢になるまで、塀の中に隔離しておくべきである。

しかし、驚くべきことにこの凶悪犯たちは、また何か別の犯罪で捕まっていなければ、現在自由の身になっているのだ。

犯行を指示した片岸だったが、逮捕後から殺人に関して「共謀はしていない」と一貫して無罪を主張し、実行犯である亀井も殺害するように頼まれてはおらず、犯行前に灯油を準備していたのは脅すためだったと供述。

灯油までかけて加藤に「燃やしちまえ」と命じてはいたが、今回も本当は脅すつもりだったと言い張った。

ちなみに亀井は、事件前の過去に相手に灯油をかけて脅す事件を起こしている。

そして下った判決は、片岸が殺人罪で懲役13年。

実行犯の亀井は懲役18年で、加藤は15年と、人を一人焼き殺した代償にしては、軽すぎるものだった。

亀井と加藤の刑は一審で確定したが、片岸は判決を不服として控訴。

その結果、2002年4月24日に東京高裁で開かれた控訴審で「暴力を加えろという指示をしたと言えるが、殺害しても構わないという未必の殺意までは認められない」という判断がなされ、一審における殺人罪での懲役13年というただでさえ軽い判決が破棄されて、傷害致死での懲役8年という判決となってしまった。

「しめろ」「わからせろ」などの電話での指示では、殺意を立証できなかったのだ。

焼き殺すつもりは本当になかったのかもしれないが、結果としてあのような犯罪を犯した割には、あまりにも軽い制裁にしか見えない。

2023年の現在、この鬼畜がごとき犯罪者たちは恐ろしいことに、もうとっくにこの事件での刑期を終えている。

彼らはまだ50代、悪さをしようと思えば、まだできる年齢だろう。

こんな悪さをしでかした奴らが、たとえ自分とは関係のない場所に住んでいたとしても、この社会にいるというだけで、そこはかとない不気味さと釈然としなさを感じざるを得ない。

再び何かの罪で捕まって、現在は長期刑真っただ中か、より願わくば、すでに死んでいて欲しいものだ。

出典―朝日新聞、週刊新潮、週刊朝日

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本格的不良俳優のさらなる転落 ~2003年・京都市下京区放火殺人事件~

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大地義行という俳優を、ご存じの方はどれだけいらっしゃることだろうか?

もしご存じならば、その方はヤクザものの映画やVシネマが好きで、それもかなり昔からのコアなファンだと言えるだろう。

大地義行、本名平野善幸は、1964年大阪府生まれ。

さまざまな経歴を経た後、1992年より俳優活動を開始。

Vシネマを中心に出演していたようだが、1998年の『JUNK FOOD』の出演を皮切りに、2000年から2002年にかけて『新・仁義なき戦い』、『荒ぶる魂たち』、『新・仁義の墓場』に出演。

コンピューターのスクリーンショット

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『新・仁義なき戦い』などのこれら三作の映画の出演者はベテラン俳優が目白押しであり、大地はほんのチョイ役の暴力団組員を演じていたにすぎなかった。

しかし、その毒々しい存在感と迫力は本職級であり、並み居る有名な役者たちに埋もれることが全くないほどのインパクトを残して「本格的不良俳優(ヤクザ俳優)」と注目を浴び、以後の活躍が大いに期待されるようになった。

だが、2002年の『新・仁義の墓場』以降に、彼の姿をスクリーンの中で見ることは不可能になってしまっている。

なぜなら殺人で逮捕され、無期懲役で服役しているからだ。

2003年1月16日の事件

グラフィカル ユーザー インターフェイス

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2003年1月16日午後2時。京都市下京区の木造二階建ての大地の自宅から出火して、二階の一室24平方メートルが焼ける火事が発生。

そして鎮火した後の焼け跡から、女性の焼死体が発見された。

死体は、仲居手伝いの丸山珠子さん(仮名・47歳)で、大地とは内縁関係にあった女性であったが、手足を電線コードやテープのようなもので縛られた状態で焼死していたことから、京都府警は放火殺人と見て捜査を開始する。

一方の大地は、火災時に現場にいたのだが、言動がおかしかったために、駆け付けた京都府警によって取り調べを受けた結果、覚せい剤反応が出たために逮捕されてしまっていた。

彼は覚せい剤の常用者だったのだ。

新聞記事の一部

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その後、大地は傷害事件で執行猶予中の身でもあったことから、覚せい剤の件で1年2か月の実刑判決を受けて服役することになったのだが、捜査の方は、状況証拠から明らかに怪しい大地を有力な容疑者として進められ、同年7月30日に、殺人・現住建造物放火の疑いで再逮捕となる。

大地は、女性を縛ったのは同じく覚せい剤の常用者だった彼女が暴れたからであるとし、火事はその時、部屋で点けていたストーブから出火したもので、自身が火をつけたわけではないと主張。

しかし、火事の時に、大地は救出しようともせずに、ぼんやりとしていたという住民の証言が決定打となって、大地は犯人と断定されてしまう。

グラフィカル ユーザー インターフェイス

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2005年3月の京都地方裁判所の判決では懲役15年(求刑無期懲役)が言い渡されたが、ここでも大地は無罪を主張したため、大阪高等裁判所の二審では「反省の態度が見られない」と一審判決を破棄され、求刑通りの無期懲役が言い渡された。

2006年の最高裁でも、上告が棄却されて無期懲役の判決が確定。

もともと転落していた彼は、さらに落ちることができる最底辺まで落ち込んでしまった。

大地義行は、2022年の現在も徳島刑務所で服役している。

近所での評判

大地義行はヤクザ俳優として評価されたが、それはどうやら演技ではなかったらしい。

普段の大地は、商品にケチをつけては金を払わなかったり、近所での工事がうるさいと怒鳴り込んだりと、居住する地域では悪名高き迷惑住民。

火災で死亡した女性以外にも関係を持っている女性がおり、痴話げんかが高じて、時々自宅前の路上で暴力をふるったりもしていた。

また、映画の撮影においても現場に遅刻することがよくあり、怒られると逆ギレするなどなかなかのトラブルメーカーだったから、高く評価された演技は素だったのだろう。

「本格的不良俳優」ならぬ、単なる「本格的不良」だったと報道するマスコミもあった。

そんな彼だから近所の住民もよく思っておらず、「女性を助けようともせず、ぼんやりと座っていただけだった」という証言までされた。

当時の大地の人となりを知るそれらの人々には、「やっていないとは思えない」と言われている始末である。

そんな彼は今でも獄中で無罪を叫び続けており、支援する弁護士も現れて再審請求の活動がなされている。

確かに支援者らの主張によると、検察の提示した証拠には矛盾が多く、女性を助けようとしなかったどころか、燃え盛る家の中に入って救出に向かおうとしていたと、当時から証言していた人間も存在しており、今後の展開によっては、無実を勝ち取って出てくることがあるかもしれない。

しかし、彼は現在57歳。

獄中で、あまりにも多くの時間を失ってしまった。

自由の身になったとしても、もう彼の姿をスクリーンで見ることはできないだろう。

たとえ、この事件はやっていなかったとしても、今までさんざん周囲に迷惑をかけてきたのだから、人を殺したと疑われても仕方なく、自業自得だという人もいるかもしれない。

しかし同時に、彼の登場シーンを改めて見てみると思うのだ。

画面の中でヤクザを演じる大地は、本物の悪党そのものの脂ぎった嫌らしさを見事に醸し出し、ベテランのコワモテ俳優相手でも、全く迫力負けをしていない。

こんな毒気は、演技や稽古で作り上げられた悪役では、絶対に出せないだろう。

やっぱり、大地義行の姿をもっと映画で見たかった。

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ヤクザが最も凶悪だった時代 ~1998年・那須町調理師兄弟生き埋め事件~

本記事に登場する氏名は、一部仮名です。

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1998年11月27日、栃木県那須町のホテルに勤務する調理師の兄弟・丸田紘一さん(仮名・49歳)と丸田昭二さん(仮名・48歳)が、夜中に出かけたまま失踪した。

翌28日、弟の昭二さんの家族から捜索願が出されたが、兄弟に家出や自殺の動機が一切なかったことから、警察も事件に巻き込まれた可能性の高い特異家出人として受理して捜査に乗り出す。

栃木県警捜査一課及び二課、黒磯署は、兄弟の周囲でトラブルがなかったかの聞き込みを行ったところ、明らかに不審な点が見つかった。

兄弟は、暴力団関係者とトラブルを抱えていたのだ。

そして、27日の晩に飲みに行ったと思われるスナックで、暴力団員風の男らから、暴行を受けて連れ去られたことが判明する。

やがて、その相手であった暴力団員である岩瀬裕(本名・51歳)ら、三人を暴力行為違反法で逮捕して丸田兄弟の行方について聞いたところ、二人ともすでに殺されて栃木県那須町の山林に埋められていたことが分かった。

供述により、翌1999年1月8日に発掘したところ、地中から1.5メートルの深さの地点から二人の死体を発見。

身元はやはり、紘一さんと昭二さんであったが、司法解剖の結果、恐ろしい事実が判明する。

二人とも刺し傷などの外傷はなく、暴行を受けたことによる肋骨などの骨折があり、気管に土砂が詰まっていた。

つまり、生き埋めにされていたのだ。

「逆らう奴は許さん」

新聞記事の一部

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岩瀬裕。絶対に近づきたくない人相だ。

丸田兄弟を埋めたのは、山口組系の二次団体の組員の岩瀬裕(本名・51歳)、菅原康正(本名・31歳)、坂本薫(本名・40歳)である。

兄弟は、この岩瀬とトラブルになっていたのだが、そのきっかけは無茶苦茶なものだった。

それは、失踪する二か月前の9月下旬に、ある男性が岩瀬らに些細なことから因縁をつけられたことから始まる。

その男性は、丸田さんらの飲み仲間だったのだが、岩瀬は何と飲み仲間であるという理由で、丸田さんにまで慰謝料を要求してきたのだ。

とんでもない外道である。

こんな理不尽な要求でも、ヤクザが相手だと払ってしまう一般人もいるが、兄弟は断固拒否、再三にわたる恫喝も無視し続けた。

こんな奴らに払う義理はないし、払ったら払ったでまた何かとたかってくるに決まっているからだ。

こうして、約二か月が経過した11月27日。

その日、二人は弟の昭二さん宅で酒を飲んでいたが、午後11時半ごろ「ちょっと出かけてくる」と家族に言って出かけた。

行先は、黒磯市内のスナックである。

だが、このまま家で飲んでいるか、もう遅いから寝るべきであった。

なぜならば、そのスナックで彼らを脅し続けている岩瀬たちと鉢合わせしてしまったからだ。

岩瀬は、自分の要求を拒み続けていたカタギの相手が、自分たちの息のかかったスナックで平然と飲んでいるのに激怒。

自分たちを見てもビビらない態度も火に油を注いだ。

「テメーら!ナニ偉そうに飲んでやがんだコラ!!」

一緒にいた菅原と坂本、滝本郁夫(本名・43歳)も加わって、丸田兄弟に殴りかかって暴行を始めた。

岩瀬は51歳だったが幹部ではないペーペーの組員、つまり出世できずに、歳だけくった三流ヤクザだ。

そのくせ、世間から恐れられるヤクザの端くれであることに妙な誇りを持っており、堅気ならば自分の言うことにビビッて従うべきだと考えていた馬鹿野郎でもある。

そんな岩瀬は、畏怖されて然るべきヤクザである自分に逆らう丸田兄弟にはかなり腹を立てており、今日という今日はけじめをつけてやるとばかりに暴行を加えたが、これだけやられても泣きを入れてこない兄弟にますます逆上した。

「オイ、場所替えるぞ!」

二人をスナックの階段から蹴り落とし、自分たちの車に押し込んで、岩瀬と菅原、坂本が向かった先は那須町寺子丙の山林。

底辺ヤクザの岩瀬は、後先を冷静に考える頭を持っていない。

自分たちをナメた相手を生かしておくつもりはなく、埋めることにしたのだ。

この時、岩瀬は自分たちに協力させようと、もう一人の男を真夜中に電話で呼び出していた。

中林邦夫(仮名・49歳)という造園業に従事する男であり、ヤクザではない。

だが、岩瀬の組から金を借りたことがあり、金はすでに返済していたが、そのまま関係を断ち切れないでいた。

ヤクザは一度関係を持った相手を離さず、延々と自分たちに都合よく利用しようとするものなのだ。

中林が命じられたのは、人気のない場所に自分たちを案内することと、そこにショベルカーで穴を掘ること。

後に、殺人ほう助の罪で逮捕されることになる中林は「穴は掘ったが人を埋めるとは思わなかった」と供述しているが、自分がこの時こんな山奥で何のために穴を掘らされていたかは、十分に推察できていたのは間違いない。

かと言って拒否すれば「さんざん世話になったオレの言うことが聞けねえのか」などと言われて、どんな報復をされるかわからないし、下手をすれば、その穴に自分が入れられかねない。

警察が動くのは、やられてしまってからの方が多いのだ。

そんなことは百も承知の中林は「チャッチャとやれよ!」とか、岩瀬らにどやされながら嫌々ショベルカーを操作した。

「テメーらが埋まる穴だぜ」

丸田さんたちは、自分たちを埋める穴を掘るところを見せられて、恐怖のあまり絶句していたという。

穴を二メートル程度まで掘り終わると、車から引きずり出して穴に蹴り落とす。

二人とも穴から出ようとしたが、上から踏みつけられて、再び落とされた。

そして、犯人三人のうち一人がショベルカーを運転して穴に土砂をぶっかけ、兄弟を生き埋めにした。

ナメられたと思ったら、なりふり構わないから職業犯罪者であるヤクザは恐ろしい。

だが、しょせんはヤクザの中でも低級な部類に属する岩瀬の犯罪。

それまで被害者を脅していたり、スナックで暴行を働いたりと目立ちすぎ、捜査線上にすぐに浮かんで逮捕となった。

いくら犯罪者に甘い日本でも、こんなことをしでかしてただで済むわけがない。

岩瀬は、翌1999年11月18日に求刑どおり無期懲役の判決を下された。

本来なら死刑が妥当な気もするが、犯罪の冷酷さから、現在まだ生きていたとしても塀の中のはずだ。

また、出てくることもないだろう。

ヤクザが最も恐ろしかった時代、そして今後

この1990年代後半から2010年代にかけて、ヤクザが最も凶悪化した時代ではないかと本ブログの筆者は個人的に思う。

一般人を相手にした殺人事件が、やたら目立ったのだ。

ちなみに栃木県では、この那須での生き埋め事件からさかのぼること一年前の1997年11月30日にも、凶悪な事件が発生している。

同じ栃木県内の真岡市のスナックで、松葉会系暴力団の組員二人が口論になったとび職の男性を、さんざん暴行した上に店外まで連れ出し、とどめとばかりに車でひき殺したのだ。

新聞の記事

自動的に生成された説明

2001年7月には、出会い系サイトで知り合った女性のとの間で金銭トラブルを起こした埼玉県越谷市の高校教師が、女性の背後にいた暴力団組員に監禁されて金を脅し取られた上に殺されて、静岡県内の山林に遺棄された。

2002年3月4日には、兵庫県神戸市で神戸商船大学の大院生が暴力団員に言いがかりをつけられて暴行後、拉致されて殺される事件が起きている。

暴力団が背後に立って違法な金利で取り立てをする闇金が生まれ、振り込め詐欺が横行しはじめたのもこの頃だ。

それ以外にも、中国人窃盗団の手引きをしたり、中には自ら一般人の家庭に押し込み強盗を働いて、家人を殺傷する組員すら出現していた。

思うに、90年代後半は暴力団対策法が施行された上に、不況で資金獲得が難しくなってきた時期でもあったから、シノギのためには、なりふり構っていられなかった組員が多かったはずである。

だから余裕がないあまり、テンパって暴走する者が少なからず出たようだ。

何よりこの頃は、血気盛んな若年の組員の総数も多かったからなおさらである。

今から考えれば、恐ろしい時代だ。

だが2004年以降、さらに暴力団を締め付ける暴力団排除条例が各地の自治体で施行され始めて、暴力団は徐々に弱体化してゆく。

暴力団員が犯罪を起こせば、より重い刑罰も課されるようになり、抗争はもちろん、シノギもますます難しくなる。

脱退者は増え続けるのに加入者は少なく、2022年の現在は、残った組員たちも高齢化して行動力も低下し、もはや、かつてのように我が物顔でのさばることはできなくなった。

強力な悪を追い詰めた結果、その悪がより凶悪になった1990年代後半から2010年代を経た後、その勢力は力を失いつつあるのだ。

これは、表面上とても良いことに思える。

だが、本当にそうか?

一つの勢力の力がなくなれば、その空白を別の勢力が埋めるのが世の常だ

現実に暴力団の弱体化とともに、半グレと呼ばれる勢力が力を伸ばしてきたのは周知のとおりである。

どの時代でも、道を踏み外す者は出てくるが、その受け皿が暴力団という勢力から、半グレという新しい勢力に移りつつあるのだ。

外国人の犯罪組織も、今後ますます力を持つようになるだろうし、もうすでに地盤を固めている可能性もある。

そして、こういった新たな勢力というのは往々にして旧勢力よりやっかいで、扱いにくいものであることが多い。

事実、彼らは従来のヤクザ組織と違って実態がつかみにくく、その全容を把握するのは困難であるという。

よって、暴力団の完全消滅は、より安全な社会の到来であると筆者は無条件に信じることができない。

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仙台アルバイト女性集団暴行殺人

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。

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2000年(平成12年)12月24日、宮城県仙台市でアルバイト店員の女性、曳田明美さん(仮名、20歳)が暴力団員を含む8人の男女に拉致されて6日間にわたるリンチの末に殺害され、遺体は灯油で焼かれて遺棄されるという悲惨な事件が起きた。

こんなむごい殺され方をするなんて、この曳田という女性はよっぽどのことをしでかしたんだろうか?

いや、実は全く何もしていない。

グループの一人の一方的で身勝手な思い付きとその他全員の勢いだけで監禁され、何の落ち度もないのに残忍な暴行を加えられ続けて殺されてしまったのだ。

犯人たちと事件の発端

この凶行を犯したのは、某広域指定暴力団組員の平竜二(仮名、25歳)、大野和人(仮名、21歳)、平の弟分で同組員の猪坂大治(仮名、21歳)、大野の彼女である木場志乃美(仮名、21歳)、田中久美子(仮名、20歳)、兼田亮一(仮名、19歳)、高橋衛(仮名、18歳)、赤塚幸恵(仮名、19歳)の男女8人である。

もっとも、ずっと以前からつるんでいたわけではなく、事件が発生する直前までに知人を介して知り合って、たまたまその場に居合わせた者もいたという関係性が希薄な集団であった。

そして、当然どいつもこいつもまともな連中ではない。

暴力団員まで含めたこのろくでなし集団が、よってたかって一人の女性を死に至らしめることになる事件の発端は、被害者となる曳田明美さんとは全く関係がないところで始まった。

それは2000年12月中旬ごろ、一味の一人である木場志乃美のもとに、ある男からメールが送られてくるようになったことからである。

そのメールは、木場に対して気があるようなことをにおわせる内容であったが、木場本人にはその気はなかった。

むしろ、不快極まりない。

同じく一味の一人である大野和人と付き合っており、同棲までしていたからなおさらだ。

木場は、彼氏である大野にこの件を言いつけた。

メールを送ってきた男は大野の顔見知りではあったが、自分の女にそんなことをする奴は許せない。

「ふざけやがって。シメてやる」といきり立った。

大野は窃盗で少年院に送られたこともあるし、暴力団構成員の平や猪坂とつるんで、暴力団事務所にも出入りしているから準構成員と言ってもよいが、中途半端に危険な男だ。

だから、一人でやる気はさらさらない。

他のメンバーにも声をかけて頭数をそろえた上で、一味の親玉であり暴力団組員の平竜二にもお願いして仙台市内の組事務所マンションを使わせてもらうことに成功。

平はこの組の部屋住みらしく、普段この組事務所で寝泊まりしており、融通が利いたようだ。

ほどなくして12月18日夜に相手の男を事務所に呼び出すや、平らとともに殴る蹴るの制裁を加える。

さんざん殴られた男は顔を腫らして完全に泣きが入ったため、ヤキを入れる目的は順調に果たした。

しかし、調子に乗った大野は、おさまらなかったらしい。

「誰か、こいつ以外にヤキ入れてー奴いるか?ついでにやっちまおう!」などと言い出したのだ。

組事務を使わせてもらって気に入らない奴を痛めつけることができたから、のぼせ上っていたのだろう。

それに、すかさず答えた者がいた。

大野の彼女、この制裁の発端となった木場志乃美である。

「中学ん時の一コ下でさ、約束破った奴いるんだよね。そいつやっちゃおうよ」

「よっしゃ。で、どんな奴?女?」

「曳田明美って女。ウリ(援助交際)しないって約束したのにしやがってさ」

「おう、その曳田って女、今から呼び出せ」

親分気取りの平も了承し、惨劇の幕が切って降ろされることになった。

深夜の呼び出し

曳田明美さん(仮名)

曳田さんは、援助交際など全くしていない。したこともない。

健全な家庭で育っており、進路が決まるまで自分を見つめなおそうと普段ファミレスでアルバイトをし、夜間に出歩いて両親に心配をかけたりすることが全くない、まじめな性格の持ち主だった。

完全に木場のホラである。

そもそも両人とも、そこまで長く深い付き合いではない。

あくまで木場の供述なのだが、曳田さんは中学の後輩だったとはいえ、実際に木場との交友が始まったのは、事件が起こった年の3月ごろからだという。

また、実際には特に怨恨らしい怨恨も全く発生していないようだ。

にもかかわらず、木場はこの時もう日付けが変わって19日の深夜になっているのに、曳田さんを痛めつけるために呼び出そうと携帯に電話する。

一方、真夜中にいきなりの呼び出しの電話を掛けられた曳田さんは当然断った。

「もう夜遅いから無理ですよ。これからお風呂だし」

だが、しつこい誘いと「今から迎えに行くから」という強引さに根負けしてしまい、しぶしぶ了承してしまう。

この時のやり取りを、隣の部屋にいた曳田さんの妹が聞いていた。

普段、携帯電話で話をする時は、いつも楽しそうにしゃべっていた姉だったが、この時は本当に憂鬱そうな声で対応していたという。

第一、この付き合いは木場の一方的な思い込みであり、さほど親しい間柄でもない。

それどころか曳田さんの方は、つきまとう木場をできることなら避けたかったらしいことが、ある友人の証言で明らかになっている。

木場は性格が極めて陰険で、高校を中退してから窃盗などの犯罪歴を重ね、今では暴力団関係者とつるみ続けているクズ女だったからだ。

かと言って、お人よしすぎるところがあった曳田さんは、きっぱり拒絶することもできず、中途半端な状態が続いていた。

また、前述のごく少数を除いて、曳田さんの友人知人の中に木場との付き合いがあることを知っている者はいなかった。

木場が痛めつける相手として嘘までついて曳田さんを選んだ納得のいく具体的な理由は事件後に逮捕されてからも明らかになっていないが、木場の方は曳田さんのよそよそしい態度を感じて、ムカつき始めていたのではないだろうか。

自分勝手な奴に決まっているから、なぜ自分が避けられているか考えるはずもなく、「親しくしてやってるのに距離とろうとしやがって」と逆ギレし、その逆恨みの感情がきっかけになった可能性が高い。

曳田さんは、木場に言われるまま翌19日の午前4時に家を出て、迎えに来た大野と木場の車に乗り、前述のマンションに向かう。

あまりいい予感はしなかったであろうが、まさかこれから連日地獄のような暴行を加えられて、命を絶たれることになるとは思いもせず。

凄惨な暴行の始まり

大野と木場に連れられてマンションの一室に入った、曳田さんは凍り付いた。

その一室の雰囲気は暴力団事務所なだけに、とても普通の住居やオフィスとは思えないだけでなく、明らかに堅気ではなさそうな雰囲気の者たちがこちらを剣呑なまなざしで見ているし、何より顔を腫らした男が正座させられているではないか。

「オメーも正座しろ!」

木場が突然豹変して、高飛車に命令してきた。

何のことかわからないが、その場の雰囲気に押されて言われるがまま正座した曳田さんを、鬼の形相でののしり始める。

「何でヤキ入れられるかわかってるべが!?おめえ約束破ったろ!!」

「え、約束って…何のことですか?」

「しらばっくれんじゃねえ!」

木場は拳で有無を言わさず曳田さんの顔を殴った。

「オメー何だ!その態度はよう!おう!?」

完全にでっち上げなのに、まるで実際に許しがたいことをやったかのごとく檄高して怒声を上げて暴力をふるう。

いきなり暴行を加えられたショックに、曳田さんはされるがままだ。

「はっきりせいや!!」

彼氏の大野もここでやらなきゃ男がすたるとばかりに、曳田さんの髪をつかんで殴りつける。

その場にいた連中、平や猪坂以下ほかのメンバーも暴行に加担、無抵抗の彼女を殴るわ蹴るわ。

矛先は先ほどのメール男から、完全にシフトした。

木場の言うことが本当かどうか、又は相手が誰かなんて関係がない、みんながやっているからやる。

ならず者集団の一員ならば、やらなかったら他の奴にどう思われるかわからないし、その前に人を痛めつけるのは面白いと考えているはずの連中だから躊躇はない。

グループの親分格の平は曳田さんに木刀を突き付けて「殺してやろうか?コラ!何とか言えや!」などと脅し、髪をつかんで部屋の外に引きずり出して、非常階段の所から落とそうとすらした。

本来ならば最年長者の平はこの暴挙を止める立場にあるし、大の男が女性相手にここまでするのはみっともない、というのは一般社会の考え方である。

平竜二(仮名)

こいつは、反社会勢力である暴力団組員なのだ。

むしろ、皆に自分が危ないことをする人間であることを見せつけて「暴力ってのはこうすんだ」という模範を、示そうとすらしていた。

平は組の中では下っ端であり、事件発覚後にテレビの取材に応じた街の若者の一人には「ヤクザだけど大したことない奴」と陰口をたたかれていた程度の男だったらしいから、なおさら弱者相手だと威勢が良い。

さすがに曳田さんが大声で泣き叫ぶ声がマンション中に響いたため、弟分の猪坂が平を制止して、再びマンションの中に曳田さんを引きずり込んだ。

「ごめんなさい。もう勘弁してください」

一時間ほど暴行された曳田さんは泣きながら木場のついた嘘を認めて謝罪した。

全く何もやっていないにも関わらず。

手ひどい暴行で曳田さんの左目と左頬は腫れあがっており、木場の望みはかなった。

だが、これは始まりに過ぎなかった。

暴行を楽しむ犯人たち

犯人グループは曳田さんを十分に痛めつけたはずだったが、このまま帰すわけにはいかないと考えていた。

なぜなら顔が腫れて、何をされたか明白だったからだ。

彼女は実家暮らしだから、本人が通報しなくても家族の者がするだろう。

そこで一味は、曳田さんの顔の腫れが引くまで監禁することにした。

さらにアルバイト先にも電話をかけさせて、「ケガをしたから今日は休む」と言わせてバイト先から通報されないようにもする。

19日午前9時、平が全員に組事務所から出ていくように言い渡す。

部屋住みの平が事務所を自由に使えるのは、自分と猪坂以外の組員がいない時だけなのだ。

そこで大野と木場、田中は曳田さんを連れて仲間の一人である高橋の住むマンションへ向かう。

だが、このマンションで木場と田中は、曳田さんが携帯電話を握っているのが気に入らないと因縁をつけ始め、暴力をふるった。

その後、実家に「不良少女にからまれたところを先輩に助けられた。今は西公園の先輩の所にいる」と言うように命じ、実際に曳田さんはその日の午後に心配する母親からかかってきた電話に対してそのように答えている。

一味の者は、不良にからまれて殴られたことにすれば、顔に傷があっても不思議じゃないと考えたようだ。

その電話の後、母親にさっきと同じようなことを伝える電話をかけさせた後、外部へ連絡できないように曳田さんの携帯は破壊した。

当初一味は彼女の顔の腫れが引くまで家に帰さないつもりだった。

だが、やがてそれをぶち壊しにすることをやり始める。

またもや、理由をつけて殴り始めたのだ。

積極的なのは、やはり木場である。

性悪どころか極悪女の木場の目から見た曳田さんはぶりっ子なところがあり、お嬢様ぶってるような気がして気に食わない。

そして、暴力を振るわれたショックでしょげかえっている姿は、見ているだけで余計いじめたくなる。

木場は「和人、こいつオメーに犯されたとか言ってたよ」などとでたらめを大野に言ってたきつける。

やるならみんなと一緒の方がいいと考えるのは、こいつも同じなのだ。

「ナンだと?テメーみたいなの犯るわきゃねーだろ、コラア!!」

でたらめなことは百も承知な大野だが大真面目に激怒して、曳田さんをベランダに引きずり出して傘で殴った。

「もう許してください」と泣いて謝っても手は緩めない。

その場にいた高橋と田中も調子に乗って手を出し、後からマンションに来た兼田と赤塚も「俺らもやっていいっすか」などと言ってリンチに参加した。

もはや暴行する理由など、どうでもよかった。

彼らは後先考えずに、暴力を楽しむようになっていたのだ。

度重なる暴行で曳田さんの顔は余計に腫れ上がり、ますます家に帰せなくなる。

犯人たちは彼女の服を全て脱がせて、代わりにトレーナーを着せ、組事務所や仲間の家へ連れていく際は後ろ手に手錠をはめて車のトランクに入れていた。

監禁先は転々としていたのだ。

そして、監禁中は絶えず言いがかりをつけては集団で殴り、たばこの火を押し付け、髪を切り、頬をカッターで切ったりと暴行はエスカレートしていった。

犯人たちはグループ以外の知人の家にも連れて行ったことがあったが、その知人は度重なる暴行でむごたらしい姿となった曳田さんを見て仰天し、自分の家で凄惨な暴行が行われている間は目を背けていたと後に証言している。

だが、後難を恐れて警察に通報することはついになかった。

両親の捜索

曳田さんの両親は、愛娘がそんな目にあっているとは思ってもいなかった。

木場たちに監禁されることになる直前の18日、バイト先から帰ってきた曳田さんは家族そろって夕食の席についており、その時何も変わった様子はなかったからだ。

むしろ、目前に迫ったクリスマスには付き合っている彼氏が指輪をプレゼントしてくれるんだと母親にうれしそうに語っていたし、翌年に控えた人生の一大イベントである成人式に着る晴れ着が24日には受け取れると、ウキウキしていたのだ。

そんな幸せいっぱいだった曳田さんが姿を消した。

19日深夜に木場に呼び出されて、家を出た彼女は玄関の鍵を開けっぱなしにしており、その日の朝に起床した父親は不審に思ったが、娘は自宅二階の自室で寝ているんだろうと思い、この時点では失踪したとはつゆほども考えていなかったという。

彼女はバイトで遅番が多く、昼前まで寝ていることが多かったからだ。

その後、部屋におらず全く行方知れずになっていたことがわかり、心配した母親が同日18時に曳田さんの携帯電話に電話した。

この時は、まだ携帯電話を破壊されておらず、曳田さん本人が電話に出てこう話した。

「今、西公園(仙台市青葉区)のとこにいる。レディースにからまれて殴られちゃってね。バイト先には休むと連絡しといたけど」

これは木場たちに言いつけられた通りのことだ。

もちろん近くに木場たちがいて、余計なことを言わせないよう聞き耳を立てていたのは言うまでもない。

「え?どういうこと?」

「また後でかけなおすね」

そう言って電話が切れた。

ただ事ではないと感じた母親がその後、数分おきにかけたが一向につながらない。

この時、初めて娘の身に不測の事態が起きたことを、曳田家の人々は知った。

その2時間後の20時、今度は母親の携帯に曳田さんから電話が入って、以下のような会話がなされた。

「今も西公園の先輩の所にいるんだけど、先輩のおかげで助かった。今顔を冷やしてもらっているところ」

「どういうことなの?あと、さっき言ってたレディースって何なの?」

「…」

「とにかく早く帰っておいで。被害届けも出さなきゃ。顔は大丈夫なの?電車で帰れる?」

「大丈夫。帰れるよ」

「電車でモール(仙台市の商業施設)まで来なさい。迎えに行くから」

「わかった」

「着いたら電話するんだよ」

母親はそう伝えると電話を切った。

とりあえず、先輩とかいう人物に介抱されていることはわかった。

それを聞いた父親は「とりあえず、明美からの電話を待とう」と言って夜勤に向かった。

そして、これが曳田さんの声を聞いた最後となる。

父親は、職場に着いてからもやはり心配だったので、何度も電話を掛けたがつながらなかった。

家に電話しても、娘からの電話はまだ来ないという。

翌20日から、異常事態の発生を確信した両親はじめ家族の者は、曳田さんの友達に連絡するなどして、血眼になって娘の行方を捜し始めた。

「西公園の」という線からもその近くに住む娘の知人を捜したが、さっぱり見当がつかない。

前述のとおり、この時点で曳田家の人々もほとんどの友人たちも、娘が木場という女との付き合いがあったことを知らなかったため、犯行グループに近づくことができなかった。

突然の家出は考えられない。

彼女は非常にまじめな性格で、親に迷惑をかけることをこれまでしたことがなかったし、前日まであんなに楽しそうにしていたのだ。

失踪から5日目の12月23日、行方に関して何ら手掛かりが得られず、ひょっこり帰ってくるのではという望みも薄くなりつつあったため警察署に捜索願を出した。

警察も「レディースにからまれた」という話や、5日間も連絡がないことから、事件性が高いと判断して捜査に乗り出す。

その後、曳田家の人々は友人知人関係のみならず、近所で独自に聞き込みを行い、時には藁にもすがる思いで霊能力者にまで霊視を依頼して娘の行方を必死に探し続けた。

だが、曳田さんは家族が捜索願を提出した翌日には殺されていたのだ。

非業の死

曳田さんが監禁されてから5日目の12月23日午前11時ごろ、木場は大野らに車で送ってもらって、保護司との面談を行っていた。

前年に大野と犯した窃盗事件で2年間の保護観察処分を受けていたためだ。

面談を終えて、車で待っていた大野たちのもとに戻る木場の機嫌は最悪だった。

このむしゃくしゃは明美のやろうをいじめて晴らしてやると考えながら。

車に乗ると、仲間に「さっき警察が来ててさ、『お前ヒト監禁して殴ってるだろ?』って逮捕状見せられたから逃げてきたよ」と、愚にもつかない嘘八百を並べ始める。

曳田さんが通報したと、皆に思わせようとしているのだ。

「なにい?ふざけやがって!めちゃくちゃにしてやる!!」

大野たちは、ろくに疑いもせずに怒り出す。

午後17時、曳田さんを監禁している組事務所にやってきた大野たちは「平さんにも逮捕状が出てるみたいだぜ」などと、ここでも嘘をついて、余計に皆をあおる。

「テメー事務所の電話使って通報しただろ!」と、曳田さんを囲んですごんだ。

「そんなことしてません!何もしてないです!!」

涙ながらに訴えたが、意に介さず拳や灰皿で殴りつける。

さらに暴行により血を流し続ける口にティッシュペーパーを入れて火をつけて、悶絶する彼女を見て笑い転げた。

翌24日の午前1時、弱い者いじめが大好きな平は、これまでの暴行で顔が原型をとどめないほど変形して、青息吐息の曳田さんをたたき起こして正座させると、

「テメー通報したろう。埋めるぞ!」

と木刀を突き付け、風俗店に勤めるように要求。

誓約書や借用書を書かせた後、大野、高橋、兼田も加わって再びリンチを始めた。

無抵抗の女性の顔に拳を叩き込み、蹴り上げ、フライパンで強打する。

「…痛いです。もうやめてください…。いっそのこと殺してください」

と弱々しい声で哀願する曳田さんを、午前8時まで暴行し続けた。

これが、最後の暴行となった。

この日の午後3時の組事務所、曳田さんの様子がおかしいことに平が気づき、他のメンバーを集める。

すでにピクリとも動かず、鼻の上にティッシュペーパーを置いても反応がない。

曳田さんは楽しみにしていたクリスマスイブの日に、20年というあまりに短い人生を絶たれていたのだ。

そして、その日受け取るはずだった晴れ着を着て、成人式に参加することもかなわなくなった。

死体遺棄

人を一人殺してしまったにもかかわらずこの人でなしたちは、強がりだったのかもしれないが、何ら痛痒を感じない様子でこう言い合っていた。

「あっけねえ、もう死んだのかよ」

「自業自得だぜ」

「こんな奴、死んだって誰も悲しまねえべ」

「でも、死体どうにかしなきゃな。ダリいな」

平はいったん用事があって事務所を後にし、大野と木場も曳田さんの死体を残したまま外出して、ゲーム機を買って戻ってきた。

そして、平を除く7人はそのゲーム機に興じ、その間に曳田さんの死体にサングラスをかけるなどして笑い合っていた。

午後10時に平が戻った後、改めて遺体をどうするか相談が始まる。

薬品で溶かすとか海に捨てるとかの意見が出たが、結局事務所のあるマンション近くの山の中で燃やそうということになった。

男たちばかり5人は車2台に分乗して曳田さんの死体を積んでその山に向かい、途中で灯油を購入。

山の中で死体に灯油をかけて火をつけたが、なかなか思ったように焼けない。

「しぶといな。もっと燃えろよ」

などと、平は木の棒でつついたりして死体をもてあそんだ。

火が消えた後は焼け焦げた死体を引きずって斜面から投げ落とした。

「ここらはもうすぐ雪が積もるから、春まではバレねえべ」

などと言って現場を後にした。

一方、事務所で留守番をしていた女性陣のうち田中と赤塚は飛び散った血痕のふき取りにいそしんでいたが、木場は寝転がってふんぞりかえっていたようだ。

逮捕

このならず者たちは、曳田さんを監禁して暴行する以外にも悪事を働いていた。

21日、監禁していた曳田さんを車のトランクに入れて知人宅に向かう途中立ち寄ったコンビニで商品を万引き。

なおかつ、店で木場と田中ら一味の女に声をかけた男性二人を集団で暴行して金を巻き上げているし、その日の夜には目が合ったという理由で男性に因縁をつけてカツアゲしている。

22日には平と猪坂の所属する暴力団の忘年会に大野と兼田、高橋も平に連れられて参加。

ゆくゆくは正式な組員となる準構成員として、組長はじめ他の組員一同に紹介するためだった。

その帰り道にも、平以外の4人は通行人を殴って現金を脅し取っていたから、どこまでもクズい連中だ。

曳田さんを殺して山に捨ててから間もない12月31日、今度は平と大野をはじめとした男たち5人が仙台市内のファッションビルで男性5人を暴行、またもやカツアゲだ。

だが、これが悪運のツキとなる。

いつまでもこんな悪事を続けられるほど、仙台市は無法地帯ではない。

この時に兼田が現行犯逮捕され、年が明けた1月には平、猪坂、大野及び高橋も逮捕された。

そしてそのころ、曳田さんを必死に探す両親は娘の交友関係の中から木場の存在を突き止めて、何か情報を知っているのかもしれないと警察に情報提供していた。

警察も木場を曳田さんの失踪に関係があるとにらんで調べを進めていたところ、現在傷害容疑で拘留中の平たちとの交友があることが判明。

曳田さんのことを拘留中の男たちに問い詰めたところ、あっさりと死体を焼いて捨てたことを供述した者がいた。

供述したのは、何と親分格で暴力団員である平。

どうせバレるなら真っ先に供述して刑を軽くしようと考えたらしいが、当初のうちは「事務所で女が死んでいたので、処理に困って燃やして捨てた」と自分で殺したわけではないと言っていたから往生際の悪い奴だ。

あろうことか子分を真っ先に売るんだから、ヤクザとしても褒められたものではない。

平を同行させて山を捜索したところ、供述通り白骨化した死体を発見。

両親から曳田さんが生まれた時のへその緒を取り寄せて鑑定した結果、その死体は曳田明美さんの変わり果てた姿だと断定される。

無事に取り戻したいという両親の切なる願いは、無情にも絶たれてしまった。

その後、仲間の木場が連れてきた女を皆で暴行して死なせたと平が白状し、2月5日には木場を逮捕。

残りの田中と赤塚も逮捕される。

ちなみに、他のメンバーはすべて犯行を自供した中で、木場だけは最後まで否認し続けていた。

遺体発見現場

その後

この事件の初公判は2001年(平成13年)5月より開かれ、悲憤にくれる両親は、曳田さんの遺影を持って出廷していた。

仙台地裁は一審で「類を見ない非人道的行為」と指弾、被告たちも控訴しなかったために以下のとおり刑が確定した。

  • 大野和人、懲役12年(求刑懲役13年)
  • 木場志乃美、懲役10年(求刑どおり)
  • 平竜二、懲役10年(求刑どおり)
  • 猪坂大治、懲役9年(求刑懲役10年)
  • 田中久美子、懲役8年(求刑どおり)
  • 兼田亮一、懲役10年(求刑どおり)
  • 高橋衛、懲役5年以上10年以下(求刑懲役10年)
  • 赤塚幸恵、少年院送致

あれだけ残忍な所業をした割にはこの程度であったが、当時の日本では、これが限度であったようだ。

曳田さんの両親はその後の2003年(平成15年)、事件の実質的な首謀者であった木場と大野に対して約1億円の損害賠償を求めて仙台地裁に提訴。

和解協議の名目で、2人との対面を求めた。

自分の娘を殺した犯人と直接会って、どんな者たちなのか知りたかったのだ。

そして、本来ならば親族以外はできない受刑者との面会が実現。

2005年2月2日には栃木刑務所で木場と、3月1日には宮城刑務所で大野との対面を行い、和解が成立。

和解条項には7600万円の解決金の支払いと両親への「心からの謝罪」が盛られていた。

もっとも、法的には和解を成立させたとはいえ両親によると木場は泣いてばかりであったし、大野は謝罪はしたものの形ばかりのようでどこか他人事であり、両人とも心から反省している様子はうかがえなかったようだ。

2022年現在、この8名は全員刑期を終えて出所しているものと思われるが、あれほどのことをしでかした奴らがたった10年かそこらでこの社会に放たれていることに驚きと憤りを感じざるを得ない。

反省しているとか更生しているとかは関係ない。

こんな奴らが一般社会で、もしかしたら自分の近くにいるかもしれないなんて考えたくもない。

こいつらは死後、曳田さんのいる天国ではない方に行くことは確実なんだろうが、今すぐそこに送り込んでやりたいと思うのは私だけではないだろう。

参考文献―『再会の日々』(本の森)・河北新報

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