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無自覚な男の身勝手な夢に奪われた児童六人の命 ~2011年・鹿沼市クレーン車暴走事故~

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この写真の男を見て、好印象を抱く人はどれだけいるのだろうか?

清潔感のかけらもなく、小汚くてむさくるしい顔のうえに、中途半端にイキったバカ面をしていると思ったのは拙ブログの著者だけではあるまい。

個人的には好きか嫌いのどちらでもなく、大嫌いな顔だ。

ただでさえムカつく面構えのこの男、名前を柴田将人という。

この醜悪で、カンに触る人相の持ち主の柴田だが、読者諸兄がこいつのやったことを知ったら、ぶん殴りたくなるはずである。

なぜなら、この野郎は少子高齢化が深刻な我が国において6人もの小学生の命を奪ったクソだからだ。

集団登校中に起きた大惨事

2011年4月18日午前7時40分、栃木県鹿沼市樅山町の国道263号沿いの歩道で、その悪夢のような事故は起こった。

歩道を集団登校していた市立北押原小学校の児童たちの列に、12トンの大型クレーン車が突っ込んだのだ。

新聞の記事

自動的に生成された説明

クレーン車は子供たちを巻き込んで歩道を突っ切り、その先の民家の作業小屋に突っ込んで停止。

巻き込まれた4年生から6年生までの5人の児童が即死、重傷を負って病院に搬送されていた6年生児童が同日午後に死亡したことにより、合計6人の死者を出す大惨事となった。

現場は、児童たちが通う北押原小学校から170メートルほどの場所であったため、通学路に立ってあいさつをしていた同小学校校長と登校していた多くの児童たちは、否応なくこの大惨劇の目撃者となる。

生き残った小学生たちは、悲鳴を上げて小学校に走り込むか、ショックのあまりその場で固まっていたという。

中には、突っ込まれた列にいながら運よく難を逃れたものの、目の前で自分の弟が命を落とす瞬間を目の当たりにしてしまった女児もいた。

年端もいかぬ子供たちにとっては、精神への負荷とその後の影響が大きすぎる衝撃である。

一体なぜこんな悲惨な事故が起きてしまったのだろうか?

それは、実に不可解な事故だった。

後に目撃者が語ったところ、クレーン車は当初児童が歩いていた歩道沿いの車線ではなく反対車線を走っていたのだが、突然大きく右へ曲がって子供たちの列の前方に突っ込んだらしい。

どんな運転ミスをしたらこんなことになるのだろう?

事故直後、小屋に突っ込んで停止したクレーン車の運転席から、張本人の運転手がフラフラ出てきて呆然としていた。

腹立たしいことに、無事だったようだ。

ほどなくしてこの大事故を起こした運転手は、現場に駆け付けた栃木県警に自動車運転過失傷害の容疑で現行犯逮捕された。

そう、この運転手こそが柴田将人なのだ。

そしてその後日、自動車運転過失致死傷容疑に切り替えられて取り調べを受けた柴田の供述と、その後の関係者の証言によって、ただでさえ取り返しがつかないこの大事故が、単なる不注意やミスなどではなく、柴田の日ごろの無自覚と無責任ぶりによって起こり、防ぐことができたものであることが明らかとなる。

運転してはいけなかった男

これは、事故の前年に鹿沼市の広報誌に掲載された柴田の記事である。

記事の中で柴田は、自分の仕事であるクレーンの操作技術の向上に日々邁進するさわやかな好青年として紹介されているが、6人もの児童の命を奪った事故を起こした後で見たらけったくそ悪いことこの上ない。

こいつがクレーン車に乗っていなかったら、事故は起こらなかったのだ。

そもそも、柴田はクレーン車のような大型車どころか、自動車そのものを運転してはいけなかったのである。

と言っても、普通車はもちろん大型特殊の免許まで持っているから無免許ではない。

免許は交付されていても、車を運転させるには、あまりにも危険な特性があったのである。

この事故を目撃していた人間は、クレーン車が小学生の列に突っ込んだ時、運転手はハンドルに突っ伏していたと証言しており、柴田も当初の取り調べでは、居眠りをしていたと供述していた。

さらに柴田は「ドン」とぶつかったのは覚えているが、人をはねたかどうかは覚えていないとも話し、ぼうぜんとした状態であったという。

だが、柴田の務める小太刀重機は現場から700メートルしか離れておらず、それだけの距離で居眠りをするのは不自然であり、何らかの持病があって発作を起こしたのではないかと見られていた。

ほどなくして、3年前の2008年4月9日にも、柴田は乗用車の運転中に小学生をはねて複雑骨折の重傷を負わせる事故を起こしていたことが判明する。

同年11月には、宇都宮地裁により自動車運転過失傷害罪で禁固1年4か月執行猶予4年の判決が下され、執行猶予中だった。

この事故でも、当時の柴田は居眠りをしていたと供述しており、事故後に病人のようにふらふらしていたとの目撃証言があったことから、発作によって意識を失ったのではないかと見られていたが、インフルエンザの影響などとも言い張って否定していた。

これはいよいよ単なる居眠りではなかった可能性が高まって調査を続けたところ、案の定柴田には持病があったことが分かる。

それはてんかんだ。

てんかんは、脳の神経細胞が無秩序に活動することによって発作が起こる慢性の病気であり、柴田は子供のころから、てんかん発作を起こして度々通院していたのである。

それも、意識を失うくらいだから症状が重い。

薬を飲めば、その発作をある程度抑えることができるのだが、事故当日に柴田はその薬を飲んでおらず、しかも前日は夜遅くまで携帯電話でゲームをしていたと供述。

柴田の自身の持病に向き合おうとしない無自覚さが、この大惨事の一因であったことが明らかになった。

さらに、免許の取得や更新時の記録などを調べたところ、より許しがたい事実が発覚する。

柴田は、義務付けられている持病の申告や診断書の申告をせず、持病を隠して免許を取得・更新していたのだ。

遺族の感情を逆なでするボンクラ親子

柴田が事故を起こしたことは、2008年と今回の大惨事以外にもあった。

何と免許を取得した2003年から、通算12回もの事故を起こしていたのである。

なおかつ、柴田を診断していた医師からは「大事故を起こす可能性がある」と、再三運転をやめるよう忠告されてもいた。

にもかかわらず、このバカは車に乗り続け、あまつさえ大型クレーン車を運転していたのだ。

正直に申告したら、クレーンどころか普通車の免許も取得もしくは更新できないと考えたらしいが、身勝手極まりなく、もはや未必の故意による殺人の一歩手前の犯罪者と言えるだろう。

そして、死亡した児童の親の目から見た公判中の柴田は、とても反省しているように見えなかった。

柴田将人

公判中に、幼い我が子を失った遺族の調書が読み上げられたり、モニターで事故現場が映されていてもヌボーとした様子であり、何より誠意が感じられなかったのは、事故から3か月後に6人の児童の遺族へ出した謝罪文が、全て同じ内容だったことである。

だいたい、当初の「人をはねたかどうかは覚えていない」という供述でもわかるとおり、事故現場からパトカーに乗せられた時に「オレ交通刑務所行くんですかね?」と警官に尋ねるなど、自分がどれだけ重大なことをやらかしたかについての自覚がなかったのだ。

「わざとやったわけじゃねえから、しかたねえだろう」とでも思っていたんだろうか?

そのくせ、同じく公判中において危険な持病を隠してまでクレーン車の運転を続けた理由を聞かれると、自分はクレーン車の運転手は天職だと考えていたと答えて、その魅力について目を輝かせてとうとうと語ったりするなど、あらゆる発言や態度に配慮や自責の念が感じられず、遺族の心情を逆なでした。

彼らは「おまえのその夢に、うちの子は殺されたんだ」と怒り狂ったはずだ。

自分の病気の精密検査の結果や服用する薬について、被害者側弁護士から聞かれても「よく分からないので、オカンに聞いてください」などと平然と答え、26歳にもなって同居する母親まかせだったようであるから、タチの悪いマザコンでもある。

そんな柴田は母子家庭であったのだが、母親もこのボンクラの親にふさわしいバカだった。

母親は、事故の二日後に息子の務めていた会社に『(息子の)持病、執行猶予中の身であることを隠したまま面接を受け働かせていただいておりました。たいへんなご迷惑をおかけしてしまいました、本当に申し訳ありません。一生をかけて償いたく思います』と、お詫びの手紙を出しているのだが、一番肝心なことをしていなかった。

そう、幼い我が子を失った遺族たちの方には、何ら謝罪していなかったのだ。

虫唾が走る母性愛である。

しかも遺族によると、彼らの前に一度も姿を現すことはなく、後の民事裁判にも出廷してこなかったという。

どうりで、柴田のような無責任な男が生まれるわけである。

そんなバカ母は柴田が幼いころ、てんかんの発作を時々起こす息子にいらだつ余り、せっかんを加えたこともあったようだが、反面で中途半端に甘やかしてもいたようだ。

おかげですっかりわがままになって、高校を中退するなど完全無欠なバカに成長した息子が、発作を起こして事故を起こすたびに車を買い与えたり、てんかんの薬を飲もうとしない柴田を注意することもしなかった。

クレーンの免許を取りに行く際には、試験場まで車で送迎しているし、2008年の事故では「てんかんの持病があるって言ったら殺すぞ」と息子にオラつかれて、警察に病気持ちではないとウソの証言をしていたのだ。

180cmという無意味にデカい体に育って暴君と化していた息子の言いなりになってしまっていたと弁護できなくもないが、事故の共犯とみなされても仕方がない。

当然その後、彼らは大きな代償を支払わされることになる。

後味が悪い結末

治療薬の服用を怠ったり、てんかんの症状があるのを隠してクレーン車を運転した挙句の重大事故であったことから、柴田には上限懲役20年の危険運転致死罪の適応が検討された。

同罪の対象は「故意」による無謀運転だったが、最終的に検察側は「故意」の立証を断念して上限7年の自動車運転過失致死罪の適応に留めてしまった。

宇都宮地裁は、2011年12月19日に自動車運転過失致死罪で柴田に懲役7年の実刑判決を言い渡し、翌年1月5日までに柴田が控訴しなかったために刑が確定する。

小学生6人の命を奪った割には、あまりに軽い制裁であった。

遺族はその後、防げたはずの事故であったとして柴田とその母親、勤めていた会社に対し3億7770万円の損害賠償を求めて宇都宮地裁に提訴。

2013年4月24日、宇都宮地裁は被告3者の責任を認めたが、命じられた賠償は合計して、たったの1億2500万円だった。

もっとも、成人である柴田の母親に対する内服管理責任を認めた点は特筆的であったが。

この事故は、そもそも柴田がてんかんの持病を有しているのにもかかわらず、それを申告せずに運転を続けた結果である。

遺族は同様の事態を防ぐべく、「持病を有し、それを申告せず免許を取得、更新した場合の事故」に、危険運転致死傷罪を適用すること、てんかん患者が病気を隠して不正に免許を取得できないようにすることを求める署名を、2012年4月9日法務省に提出した。

しかし、それから間もない4月12日、京都府祇園で同じくてんかんを申告せずに運転していた男の危険運転行為により、7人が死亡する事故が起きてしまう(運転手も死亡)。

京都祇園軽ワゴン車暴走事故

ようやく法律を見直す動きが加速し、2013年に「自動車運転処罰法」が成立し、てんかんや統合失調症といった一定の病気により「正常な運転に支障が生じるおそれがある状態」で自動車を運転し人を死傷させたケースを、危険運転致死傷罪の一種として規定。

死亡事故の場合は、15年以下の懲役を科せることになった。

だが、多くの人命を脅威にさらしていることを承知の上で、自分の権利をごり押しした無自覚なバカどもに奪われてしまった命は戻らない。

京都で7人を死なせた方のバカは、もうすでに地獄に落ちたからよしとして、柴田の方はもう刑期を終えてシャバに出てきているはずだ。

莫大な賠償金を課されてはいるが、身勝手な夢を見て6人の児童の命を奪った罪には到底及ばない。

まさか、今でものうのうと車を運転してはいまいな。

こんな奴には原チャリすら乗る資格はない、一生徒歩で移動してろ。

そして、人並の暮らしをする権利もない。

読者諸兄も柴田を見かけたら遠慮なく冷たい視線を、より願わくば、そのアホ面に鉄拳をお見舞いしていただきたい。

出典元―毎日新聞、朝日新聞、京都新聞、

『あの日 鹿沼児童6人クレーン車死亡事故 遺族の想い』

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「呪い」は「願い」よりかない易し

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小学生低学年だった頃、学校にほど近い国道沿いにパチンコ店があった。

名前は『ザ・パチンコ ○○閣』

夕方、暗くなり始めると『ザ・パチンコ ○○閣』とド派手なネオン看板を輝かせ、国道を行き交う車に存在をアピールしていた。

私の通っていた小学校の児童たちの多くは当然『○○閣』の存在を知っていたが、夜になると輝き出すその看板に対して、みんな秘かな願望を抱いていた。

『ザ・パチンコ…』の「パ」の字消えたら面白いだろうな、と。

実にレベルの低い、子供じみた願望であったが、小学生は子供なんだから仕方がない。

同時に子供ながら「そんなうまくいくわけはない」ことは分かっていた。

いくら何でも世の中そうそう願ったりかなったりになることはあり得ないことくらい、人として生まれて7、8年生きれば十分達観できるのだ。

だが、その後「願ったりかなったり」がドンピシャリで実現してしまうことも時にはあるのが世の中だと知ることになる。

それは私が小学校二年生時の10月末、土曜日の夕方だった。

当時の私は、毎週土曜日に親に車で送り迎えしてもらってスイミングスクールに通っていたが、夕方となる帰り道はいつも『○○閣』のある国道。

輝く『ザ・パチンコ ○○閣』のネオン看板を横目に見ながらの帰宅となり、通りかかるたびに「パの字消えろ」「パの字消えろ」と念じていたものだ。

そしてついにその日、純粋で無垢だが限りなく呪いに近い子供の祈りが、超自然的な何者かによってかなえられたがごとく具現化していた。

見事に消えてくれていたのである。
『ザ・パチンコ ○○閣』の「パ」の字だけが!

世の中捨てたものじゃないと子供ながら感激した。

切なる願いがここまで思った通りにかなってくれたことが信じられず、私は生まれて初めて神を身近に感じたくらいだ。

それにしても。

ずっと何度も実現した時のビジュアルを想像してはニヤニヤしていたが、

いざ現実に目の当たりにすると「パ」の字が消えた「ザ・パチンコ」のネオン看板は予想以上に壮観だった。

「パチンコ」からよりによって「パ」の字が消えただけでも十分絵になるのに、その前に「ザ」と強調されているその看板のインパクトは絶大の極み。

日本語を母国語とする者ならば目に焼き付いて離れなくならざるを得ない破壊力を有したスペクタクルだったのだ。

ダイレクトに「ザ・ チ〇コ」とまばゆいネオンで大真面目に自己主張している看板は、一字分暗くなっているはずなのに普段より輝いて見えたのは私だけだろうか?

それは小学校二年生の幼く未熟な笑いのツボを突き破り、なおかつピストンさせたかのごとく激しく刺激した。

「あははははは!!ザ・チ〇コだ!ザ・チ〇コだ!!」

子供だった私は車内で狂ったように笑い転げた。

だが神は恩恵だけではなく、代償として天罰も用意していたようだ。

私を乗せた車を運転していたのは母親。

同じくその絶景を目の当たりにしていたが、私とは感じ方が著しく相違した。

成人女性である彼女は、その圧巻のお下劣看板とそれを見てバカ笑いする息子を好意的に見る感性は持っていなかったのだ。

「何がおかしいの!?アホか!!」

と大声で一喝されてしまった。

おまけに母親はこの日かなり機嫌が悪かった。

決して安くはないレッスン料を払って通わせているスイミングスクールでは、背泳ぎからバタフライまで様々な泳法を教えている。

だが、当時から不器用で覚えの悪かった私はなかなか泳法をマスターできず、この日も月末恒例の背泳ぎコースの修了テストで不合格。

もう一か月背泳ぎコースを履修することが決定したため、母はお冠だったのだ。

「何回不合格すれば気が済むの!?後から入ったN島くんやS司くんはもうクロール習ってるのに、いつまでもアンタは背泳ぎばっかり!悔しくないの!?」

先ほどのバカ笑いで母の堪忍袋の緒が切れたらしく、他の子と比べて出来の悪い私をなじり始めた。

ママ友の息子がいずれも自分の息子を易々抜いていたことを知って、ずっと悔しく思っていたらしい。

それから家までの帰り道どころか家に到着してからも母の怒りは収まらずエスカレート。

車の中で「あんなくだらんモノ見て笑うな」だの「勉強も習字もそろばんもいい加減」だの、私にビンタまで食らわしながら延々説教は続く。

「パ」の字が消えてくれた喜びが一挙にしぼんで泣きべそすらかき始めた私は、おかげでこんなひどい目に遭っているという逆恨みの感情が芽生えた。

月曜日に学校に行くと、クラスでは『○○閣』のパの字消失事件の話で持ちきりになっており、「ザ・チ〇コ」「ザ・チ〇コ」とみんな大爆笑していた。

私以外のクラスメイトも結構レベルが低いが、それがリアルな小学校低学年なのだよ、その当時のウチの母親よ。

しかし母親にこっぴどく怒られた記憶が生々しい私には、そのきっかけを作った『○○閣』の話は不愉快極まりなく、話の輪の中に加わることはなかった。

通常、ネオン看板の「ザ・パチンコ」の部分から絶対に消えてはいけない一文字が消えたんだから、『○○閣』もこのまま放置しておくはずがない。

だが、翌日も翌々日もそのままだったことを近所に住むクラスメイトが証言したため、数日間『○○閣』ネタでクラスが沸き返ることになる。

その週末、例のごとくスイミングスクールからの帰りの車の中から見たら、驚くことに『○○閣』は先週と同じく「パ」の字が消えたまま営業を続けていた。

近所の住民も行政も何をしていたんだろうか?

少なからぬ未成年や児童も目の当たりにしているであろうにもかかわらず、「ザ・チ〇コ」と恥ずかしげもなく燦然と輝き続けていたのだ。

「もうわかったから、ええっちゅうねん」

その日も私を乗せた車を運転してたのは母親で、笑うとまた怒られるだろう。

だいたいこっちは先週怒られたのは『○○閣』のせいだと思っていたし、いくらツボをついたネタも延々やり続けられると引く。

もうさすがにクラスでも話題にはならなくなっていたし。

次の週末も同様にスイミングスクールに行った私は、迎えに来てくれた母親の車に乗って同じ道を家に向かって走っていた。

その帰り道で、何だかわからないが違和感を感じた。

心なしかいつもより国道が暗い気がするのだ。

そう思ったのは、いつもなら光り輝く『○○閣』のネオン看板が見えてくるはずの地点まで来た時である。

みるみる『○○閣』のある場所に近づくに至り、その理由がはっきりわかってきた。

あのギラギラしたネオン看板はパの字ばかりか全体が消え、店も明かりを消していた。

『ザ・パチンコ ○○閣』は閉業していたのだ。

パの字が消えたままだったのは、どうせ閉店するからだったのか。

翌週月曜日の学校では『○○閣』閉店についてはさほど話題にならず、そっけなく「『○○閣』つぶれたらしい」「みたいだな」くらいの会話がちらほら聞こえた程度である。

皆完全に関心を失って、「まだその話してるのかよ」という反応を示す者もいた。

一方の私は、何だか罪悪感のような感情を覚え始めていた。

「パ」の字が消えてくれと願うがあまり、店そのものまで消してしまったような気がしていたからだ。

同時にこうも考えた。

願っていたのは私だけか?他のみんなだって願ってたじゃないか。

私だけが悪いわけじゃない!と。

その考えに沿えば、子供たち一人一人が願い続けた一つ一つの思いは他愛もない小さなものだったが、その同じ思いが結集した結果「パ」の字だけでなく店そのものを消し去ってしまうほどの巨大なエネルギーになっていったと解釈すべきだろう。

だがもしそうだったとしたら、そのエネルギーは『○○閣』を倒産に追い込んだだけでは済まなかったようだ。

その後『○○閣』の建物はほどなくして解体され、跡地にはすぐさまガソリンスタンドが建ったが、私が中学生になる前に閉店。

次いでレンタルビデオ店、リサイクル店、ファーストフード店、ラーメン店などが開店しては次々閉店して行った。

現在はレンタルビデオ店開店の時に建て替えられ、最後にラーメン店に改装されて閉店した十年近く前の姿のままで廃墟となっている。

交通量の多い国道沿いで、決して商業的に立地条件が悪いわけではなさそうなのにも関わらずだ。

それが証拠に対面の回転すし店や、両隣のカラオケ店とファミレスは長らく営業を続けているし、『○○閣』自体閉業するまで長い歴史を持っていた。

「子供たちの願い」が転化した「呪い」は『○○閣』だけにはとどまらず、その土地そのものに今でも渦巻いているのかもしれない。

そう、罪悪感を少々覚えながら考えるのは私だけだろうか?

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