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1990年・ドラクエ Ⅳ 放火事件 ~ドラクエ熱で焼けた家~

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1986年(昭和61年)5月27日に第一作が発売されて以来、30年以上にわたり根強い人気のドラゴンクエストシリーズ。

発売されたばかりの数年、すなわち、ドラゴンクエストⅣまでのファミコン用ゲームソフトだった頃の人気ぶりはすさまじく、社会現象ですらあった。

そして、その人気の過熱ぶりから、さまざまな騒動も起こっていたという。

発売当日は販売店に長蛇の行列ができて、その日のうちに完売するだけならまだしも、平日で学校があるにもかかわらず、その行列に並ぶ小中学生が少なからず現れた。

さらには、ドラクエを買い求めた彼らを、その帰り道に襲って奪い取る不良少年まで現れるなど、ちょっとした社会問題になってもいたのである。

シリーズ四作目である『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』が発売された1990年(平成2年)2月11日、前回のような問題や混乱を避けるために発売日を日曜日とし、初日に130万本を用意したが、初日に長蛇の列ができて瞬く間に完売。

やっとの思いで買ったドラクエをカツアゲされる小中学生も案の定続出し、発売日には全国で60件近い被害が報告されている。

製作したメーカーのエニックス(現スクウェア・エニックス)にとってはドラクエ様様

で笑いが止まらなかったであろうが、カツアゲされた少年たちにとっては、ドラクエⅣのおかげでとんだ災難に遭ってしまったことであろう。

だが、このドラクエⅣのせいでカツアゲをはるかに超える犯罪に巻き込まれてしまった人もいた。

その人々は、ドラクエにはまったバカ息子によって自宅が燃えてしまったのだ。

バカ兄弟

ドラクエⅣがリリースされて間もない1990年2月14日午前11時ごろ、愛知県大府市森岡町の武田和之(仮名・51歳)宅の二階で、留守番をしていた武田家のバカ息子二人がケンカを始めた。

ケンカの原因は、ドラゴンクエストⅣ。

長男が買ってきたドラクエを次男が借りようとしたのだが、自身の部屋でドラクエをプレイ中であった長男が、断固拒否したからだ。

「何でやらしてくれんのだて!」

「俺がやっとるが!」

「ちょっとだけだて!ちょっとくらい、やらせてくれてもええがや!」

「おめえ、いっつもなかなか返さんがや!昨日かて、夜遅うまでやりよってよ!」

「すぐ返すて!おめえばっかやってセコイぞ!」

「俺が買ったんやぞ!俺のモンだに!!」

断っておくがこの二人、子供ではない。

ドラクエを貸そうとしない長男の武田亘(仮名)は20歳、借りようとしている次男の満(仮名)は19歳。

年甲斐もなくドラクエにハマるばかりか、それをめぐって兄弟げんかになるくらいなんだから、あまりデキのいい兄弟でないのは間違いない。

それが証拠に、20歳の満は無職のためにいつも家でブラブラし、次男の満は働いていたがこの日は仕事をさぼって家にいた。

ヒマ人は、ろくなことを考えない。

何が何でもドラクエをやりたい弟と、断固貸す気のない兄のレベルの低い口論は延々続いたが、やがて頭に血が上った弟の満は階下に降りて行った。

あきらめたのではない、わからずやの兄貴に思い知らせてやろうとしたのだ。

満が向かったのは台所。

普通のバカなら包丁を手にして兄貴を刺しただろうが、こいつは普通のバカではない。

二階に上がって来た満の手には、油をしみこませたティッシュを巻き付けたフォークが握られており、亘の部屋に入ってそのフォークに火を点けて、部屋にあった布団に放り投げた。

腹いせに兄貴の部屋を燃やしてやろうというのだ。

だが、そんなことをしたら、一つ屋根の下の部屋に火をつけたら自分の部屋も含めて家が全焼する可能性があるのが分からないのだろうか?

こいつは、バカというレベルではない。

そして亘の方も、相当なものであった。

自分の部屋の布団に火がつけられ、煙を上げているというのに再び食ってかかってきた弟と、「貸せ」「貸さない」の不毛な押し問答を再開したのだ。

その間にも布団の火は燃えあがっていたのだが、機能が劣悪な頭に血をのぼらせて同じく熱くなっている二人はおかまいなし。

バカ二人がようやく兄弟げんかしている場合じゃないと悟った時には、火が手の施しようがないほど広がって周りは煙だらけ。

この時になって、ようやく身の危険を感じた二人は階下に逃げて無事だったが、結局、火は亘の部屋どころか満の部屋にも燃え広がり、二階部分を全焼させるほどの火事になってしまった。

ドラクエ無罪

信じられないことだが、満も本当は兄貴の亘にだけ仕返しするつもりで火を点け、ここまでの火事になるとは思っていなかったようである。

その日のうちに、放火の現行犯で愛知県東海署に逮捕された満は「ついカッとなって」と供述していたが、ついカッとなっても、ここまでのレベルのことをするバカはそうそういない。

そんな稀代のバカの満の人となりについて、近所の住民によると、「短気なところはあったがおとなしい人」と、要するに普段はおとなしいが、キレたら何をするか分からない男という印象ではあったようだ。

また、育ての親である武田夫妻も自分の子供の出来の悪さが分からなかったようで、車もバイクも自分の給料で買っていることを理由に「いい息子だ」と自慢していたらしい。

どうりで、こんな息子たちが育つわけである。

カレンダー が含まれている画像

自動的に生成された説明

ドラクエ発売日の騒動が問題視されていた当時の新聞報道では「ドラクエ騒動ついに放火」とされ、一部の識者は紙上で「人間関係より孤独な世界を求める若者が増え…現実的努力を避ける傾向にあるのでは」として、この事件を加熱しているブームを反省する機会とすべしとの意見を述べている。

だが、ドラクエに罪はないであろう。

いつの時代にも、救いようのないバカというものはいるものであり、間違いなく、この事件はそれに該当する者によって引き起こされたに過ぎないわけで、ドラクエの問題でも社会の問題でもなかったはずだ。

ダイアグラム, 概略図

自動的に生成された説明

出典元―毎日新聞、中日新聞

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2023年 世界平和 中国 化学 科学

ブラックホール爆弾が出現する日は来るか?

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ブラックホールとは、質量の巨大な恒星が超新星爆発後、自身の重力によって極限まで収縮して生成されたり、巨大なガス雲の収縮で生成されるものであり、極めて高い密度と強い重力のために物質のみならず、周囲の時間と空間、光さえ脱出することができない天体であることは皆さんご存じのことであろう。

それほどの力を持つブラックホールであるが、それを何らかのエネルギー源として利用できないかと考えるぶっ飛んだ発想は古くからあった。

数理物理学者のロジャー・ペンローズ氏などは、1969年にブラックホールからエネルギーを取り出す方法として、「ペンローズ過程」と呼ばれる理論を提唱している。

ロジャー・ペンローズ氏

これはゴミを容器に入れて、回転するブラックホールのエルゴ球と事象の地平線の間に投入して、ゴミはブラックホールに捨てて容器のみを回収した場合、質量とエネルギーの等価性により「ゴミの質量+ブラックホールの減少した質量」に相当するエネルギーが容器を加速させることから、発電が可能というものだ。

むろん、こんなものはあくまで仮想的方法であって、現在のテクノロジーでは不可能なのは言うまでもない。

だが、エネルギー源として利用しようと考えるならば、同時に兵器としても利用できると考えてしまうのが人類のようである。

中華人民共和国の検索エンジン・百度のオンライン百科事典である『百度百科』において、そのブラックホールの力を利用した兵器「ブラックホール爆弾」が取り上げられており、しかも将来実現する可能性があるか否かについて、SFではなく大真面目に論じているのだ。

拙ブログでは、その攻めた内容をご紹介させていただく。

ロシア人科学者の予言とその説

まず「ブラックホール爆弾」とは、ブラックホールに投入したエネルギーが増幅されて戻ってくる連鎖反応を利用した物理的効果を指す。

当然、巨大なエネルギーを持っているこの「ブラックホール爆弾」であるが、何と百度百科において50年後には実現可能となり、現代の人類の心胆を寒からしむる原子爆弾をチャチなおもちゃに陳腐化し得るであろうと予言した人物がいることが紹介されている。

その人物の名は、ロシアの科学者アレクサンダー・トロフィメンコ氏。

トロフィメンコ氏によると、人類が反物質であるオトン(otone)の謎を解明した日には、原子力というテクノロジーを手に入れた後のように、この新しいエネルギーを発電に利用し、同時に新型兵器——「ブラックホール爆弾」の開発に用いることになるであろうというのだ。

発電に利用した場合、原子核サイズのブラックホールは、原子力発電所のそれを大きく上回るエネルギーを有するが、兵器に使われた場合、一発の「ブラックホール爆弾」の破壊力は大量の原子爆弾の同時爆発に匹敵し、10億人以上を死に至らしめることができるために瞬時に地球をも破壊できることを意味する。

それに比べたら、核兵器の危険性など取るに足らないものとなるはずだ。

だが、そもそもブラックホールとは、はるか遠くの何光年も先の宇宙空間に存在し、地球には関係のないところにあるものではないだろうか?

ところがどっこい、前述のトロフィメンコ氏の説では、宇宙のブラックホールのミニ版——「マイクロブラックホール」は地球上どこにでも存在し、人類に多くの災難をもたらすというのだ。

また、他のロシアの科学者の中にも、地球上で起きる自然現象のいくつかがマイクロブラックホールと関係があると考えている人物もいる。

例えば火山の噴火だが、火山活動のエネルギー及び熱量は地球上の特定の地点に集中しており、尽きることがないのだが、これは、太陽のエネルギーがブラックホールを通じて地球の深層部に伝わっているからではないかということである。

さらに、太陽には核エネルギーだけでなく、マイクロブラックホールも存在し、他のどの惑星の内部にもマイクロブラックホールはあるのではないかという説まで提唱されているらしい。

そして、ブラックホールは自然界に存在するだけでない。

「人工ブラックホール」を作り出すことは可能だと、トロフィメンコ氏は主張する。

ちなみにこの「人工ブラックホール」という発想は、最初1980年代カナダのブリティッシュコロンビア大学のウィリアム・ウンルー教授によってもたらされた。

教授は、音波が流体において示す動きは、光がブラックホールで見せる動きと非常に似ていると考え、流体の速度が音速を超えたら、その流体において人工ブラックホールとも言うべき現象が成立すると考えたのだ。

そして2001年1月、英国セント・アンドルーズ大学の著名な物理学者ウルフ・レオンハート博士の研究グループが、実験室内でブラックホールを作り出すことに成功したと主張。

しかし、レオンハート博士が作り出そうとした人工ブラックホールは十分な重力に欠けたため、本物のブラックホールのように光線をはじめ、周囲の全てのものを飲み込むことができず、当時はあまり注目を浴びることはなかった。

どうやら、トロフィメンコ氏が全てを飲み込む本物のブラックホールが将来的に実験室で作り出せると考えている根拠は、このレオンハート博士の実験から来たようだ。

こうして氏は、ロシアの新聞「プラウダ」で、ブラックホールは実験室にとどまらず、50年後には膨大なエネルギーを有する「ブラックホール爆弾」が、核兵器とは比べものにならない脅威として出現しているだろうという前述の予言をしたらしい。

だが、それに対して、主に中国の科学者の間から大いに疑問の声が挙げられた。

懐疑論

まず、中国科学院原子核研究所の研究員である沈文慶氏が、上記の説に対して疑問を呈した。

沈氏によると、「人工ブラックホール」を形成するための方法として、二つ以上の粒子を粒子加速器の加速によって衝突させて強大な吸引力を有するブラックホール様の物質を形成することが挙げられるが、このような方法で生成した物質をブラックホールと呼ぶことができるか否かについてのコンセンサスは、まだ得られていないという。

沈文慶氏

しかも、これらブラックホールに近い物質は、いまだに理論上の産物であり、地球上のいかなる実験室においても完成品を作り出すことに成功していない。

沈氏は「たった50年で、人工ブラックホールからブラックホール爆弾を製造できるようになるというのは現実的ではないですね。1%の可能性をもって100%できるはずというのは間違いであり暴論でしょうな」と一笑に付した。

天文学の専門家である南京紫金山天文台の研究者・王思潮氏も、人工ブラックホールはSFの領域を出ていないと主張している。

人工的にブラックホールを作り出そうとするならば、まず解決しなければならないのは、物質の分子や原子の間の間隔を小さくして質量を巨大にすることであり、質量が大きくなれば、万有引力の法則により、その物質の引力も巨大になり、近づく物質を吸収するようになる。

だが、現状では物質の質量を改変する装置は存在せず、できることと言えば、物質の原子核を圧縮して中性子の状態にすることであり、それですら困難であるため、密度が巨大なブラックホールならばなおさらではないかと、王氏は冷静であった。

次に、たとえブラックホールを作り出したとしても、いったいどんなキャリアを使ってブラックホール爆弾にするのか?ブラックホール爆弾を、どのような装置と方法で輸送及び保管するのか?

確かに威力は破滅的だが、現代のテクノロジーでは、持っている方がまず破滅するだろう。

中国科学院高エネルギー物理学研究所の科学者も、具体的な研究の進展はともかく、現時点でのテクノロジーでは、50年かかってもブラックホール爆弾が出現することはないだろうとしている。

上記の反論から見る限り、ブラックホールに対する認識は、ブラックホールがありうる場所があるという程度のものであり、この程度で、50年間以内にブラックホール爆弾が誕生するというのは絵空事であるようなので、ひとまず安心だ。

だが、50年後は無理でも100年後か200年後はわからない。

危険だから研究するなと言っても、研究するのが人類だ。

しかし、どうせやるなら地球上ではやらないでほしい。

頼むから最低でも太陽系外でやってくれ。

出典元——百度百科『黑洞炸弹』

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君は『喧嘩芸・骨法』を覚えているか?

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1989年、当時中学三年生だった私は、ある深刻な悩みを抱えていた。

それは私にとって幼少時から始まり、最も多感な時期である中学時代になるや爆発的に増大し、私自身を内面から苛むようになった悩みだ。

それは、ケンカが弱いことだ。

それは思春期特有の自意識過剰なあまり、自分で勝手に悩むようになったからではない。

実際に不利益と実害が大いにあったからだ。

ぶっちゃけ、私は中学校でいじめに遭っていた。

持ち物は取られるわ、ズボンは下げられるわ(女子の前で)、砂場に首まで埋められるわ、修学旅行の宿ではオナニーさせられるわ。

かといってちょっとでもやり返したら、当然の権利のごとく返り討ちに遭うなど、苦痛と屈辱を大いに味わわされていたのだ。

何とか反撃、あわよくば倍返できるようケンカに強くなるためのハウツー本はないかと、本屋に行ったある日、私はある本に出合った。

それは『喧嘩芸骨法』だ。

喧嘩芸…、殺し文句だった。

これぞ、私の求めていた本ではないか!

表紙の写真は、長髪にひげを生やしたおっさんが構えを取っており、そのおっさんはいにしえの侍もかくありや、と思わせるような感じの迫力とインパクト満点の容貌をしており、「喧嘩芸」という言葉に説得力を持たせている。

だが、思わず手に取って読んでみたか、というとそうでもなく、

中学生ながらそんなもん読んだからって、すぐに強くなれるはずないと分かっていたし、第一金がなかったから、そのまま立ち読みをしに成人誌のコーナーへ向かった。

しかし、その時から「喧嘩芸」「骨法」というワードは、頭に残った。

神秘の必殺拳・骨法

骨法とは、先ほどの長髪でヒゲのおっさん・堀辺正史氏が創始した格闘術である。

堀部氏によると、骨法は柔術とは異なる流れの古来の日本武術を復興させたものであり、その著書『喧嘩芸骨法』において、

東條英機のボディガードを務めた父からその技を相伝され、骨法司家の第52代・源一夢(みなもとのいちむ)を襲名し、伝統的骨法の修行の傍らケンカ・他流試合に明け暮れた日々の中から、実戦的な格闘技術を習得、古流の骨法を改革して喧嘩芸骨法を創始した

と述べて、その実戦性を盛んに主張していた。

もっとも、古来から骨法が実在したことの信ぴょう性は乏しく、実際は他流派の古流柔術などを学んだ堀辺氏が、独自に創始したとされている。

しかし、骨法とその創始者の堀辺氏は、同書を世に出した80年代後半から90年代にかけて世間に広く知られるようになり、メディアにも多数出演するようになった。

また、新日本プロレスとも交流があって、アントニオ猪木や船木誠勝などの日本を代表するレスラーにも指導を行い、骨法由来の技がプロレスに使われるようにもなった。

プロレスが最強の格闘技だと思われていた時代に、プロレスラーから認められていたのである。

よって90年代初めまでは、マスコミの影響もあって、骨法はまさに神秘的な超実戦的格闘技だと信じていた人は本当に多かった。

だが、現代のユーチューブにも公開されている当時の骨法の組手動画を実際に見てみると、長いグローブをつけてペチペチ叩き合っており、こんなものが強いわけないだろ!と疑ってしまう。

また、1993年に開催された骨法のイベント『骨法の祭典』での演武では、技を決められた選手が「あだだだだだだ!!!」とか叫び声をあげたりして、あまりの大げさぶりに笑えたりもするが、当時の格闘技ファンの多くの目には、骨法が「参った」した相手でも極め続ける危険な殺人格闘術に映っていた。

格闘技専門雑誌『格闘技通信』もたびたび骨法を取り上げており、その強さを疑う声はあまりなかったのだ。

しかし1996年、メッキがはがされたと言われても仕方がない出来事に見舞われることになる。

骨法の他流試合

1996年、骨法に試練が立ちはだかった。

同年8月4日に開催される『ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング2nd』で、ブラジルの選手と対戦することになったのだ。

今まで骨法の選手同士の試合はしていたが、これは事実上初めての他流試合である。

これより前の1993年11月12日、海の向こうのアメリカでUFCの第一回大会が開かれ、格闘技界に衝撃を与えていた。

現在でこそMMA(総合格闘技)の最高峰の一つとなっているUFCだが、当時の考え方は「ノールールの戦いの勝者こそが最強」というもので、この大会のルールは打撃や投げ技、寝技はもちろんのこと、グローブなしの顔面パンチもOKなばかりか、嚙みつきと目つぶし以外は「何でもあり」、だからノールールと称しており、当時としては恐るべきものだった(何と金的も禁じられていなかった)。

この大会はトーナメント制で、ケン・ウェイン・シャムロックやジェラルド・ゴルドーなど90年代の日本でも名が知れた格闘家が参加したが、倒した相手の顔面に蹴りを見舞ったり、頭を踏みつけたりのストリートファイトさながらの凄惨なものとなった。

そして、この大会で上記名だたる選手を制して優勝したのが、それまでまだ世に知られていなかったグレーシー柔術のホイス・グレーシーだ。

ホイス・グレーシー

ホイス・グレーシーはブラジル出身。

ブラジルでは昔からこのような何でもありであるノールールの試合「バーリトゥード」が開かれており、ホイスの父であるエリオ・グレーシーが興したこのグレーシー柔術はその中で磨かれてきた格闘技である。

そして自身も、それまで道場破り相手にバーリトゥード形式の試合を行っていたため、何でもありの試合の対策を熟知してもいた。

ホイスは、翌年開催されたUFCの第二回大会も、圧倒的な技術で制する。

そして、この「バーリトゥード」は、94年日本にも上陸。

同年と翌年には「バーリトゥードジャパン94」と「バーリトゥードジャパン95」が開かれ、これにはホイスの実兄であるヒクソン・グレーシーが出場して、弟と同じく圧巻の強さで連覇。

ヒクソン・グレーシー

日本人の格闘ファンに「グレーシー柔術強し」という印象を、問答無用で植え付けた。

また、日本のプロレスラーや総合格闘技の団体である修斗の選手などが、このノールールの試合で敗れることが多かったからなおさらである。

ノールールの試合とグレーシー柔術はまさに黒船だったのだ。

一方、実戦格闘術を売りにしている骨法の創始者・堀辺氏は早くからこのノールールの考え方に賛同していたようで、骨法のスタイルをそれに合わせて、元来の打撃技を中心とした立ち技系から寝技系へと変革していた。

格闘技通信も、それを進化として大々的に取り上げ、特集を組んで堀辺氏の持論や試合に臨む骨法の選手が、米国に渡ってブラジリアン柔術(グレーシー柔術から発展したブラジルの柔術の総称)の技術指導を受ける模様を読者に伝えていた。

紙面には、これまで神秘的な最強説が唱えられていた骨法なら何かやってくれるだろうという期待感が作り出されていた。

プロレスも空手も修斗もやられたが、まだ日本には骨法があると。

そして、読者の多くもそれを信じていたことだろう。

当時の私もそう信じていた一人だった。

骨法神話の終焉

そして迎えた8月4日の『ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング2nd』。

骨法は二人のエース級の選手、小柳津弘選手と大原学選手が出場した。

彼らの相手はどちらもブラジル人であったが、グレーシー柔術をはじめとしたブラジリアン柔術ではなくルタ・リーブリというグレコローマンレスリングを発展させた格闘技の選手である。

ルタ・リーブリは、グレーシー柔術と同じくノールールの試合で磨かれてきた技術を有し、ブラジル本国では因縁すら生じているほどのライバル関係で対抗戦も行われるなど、柔術と渡り合ってきた。

そのため、アメリカで骨法の両代表選手は手の内を知るブラジリアン柔術の選手から技術指導を受けてきたのだ。

準備は万端。

これまで日本の他の格闘技の選手はブラジル勢に負け続けていたが骨法は最後の切り札、負けるわけにはいかない。

そして、今まで秘められていた真の実力を見せる時である。

だが、

両選手とも負けてしまった。

まず最初に試合をしたのは小柳津弘選手、骨法内の試合では打撃技を繰り出して相手選手を撃破してきた「骨法の狂気」という異名を冠せられた看板選手だ。

小柳津選手の相手は、カーロス・ダニーロ選手。

前述のとおりルタ・リーブリの選手ということになっていたが、本来はキックボクサーで、ルタ・リーブリは試合が決まった一か月前に始めたばかりだったようである。

試合が開始されるや、小柳津選手は打撃ではなく組みつきに行ったのだが、ダニーロ選手に腕を取られてしまう。

そのままコントロールされて転がされるも、腕を振りほどいて今度は相手を倒したが再び下になった相手から腕を取られた。

そして下からパンチと肘の連打を浴び、三角締めでタップしてしまう。

この間たった1分0秒。

完敗である。

次に登場したのは、小柳津選手と並んで骨法最強と言われた大原学選手。

対戦相手は、ペドロ・オタービオ選手。

オタービオ選手は、ブラジル国内では中堅どころの実力と見られていたが、この年の4月に東京で開催された『ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング』にも出場。

大相撲の元横綱で、ノールールなら日本人最強とも目されたこともあるプロレスラーの北尾光司選手を、1RTKOで破っていた。

そして、このオタービオ選手は身長190cm体重100kgであり、身長170cm体重90kgの大原選手に体格で大いに上回っている。

しかし、小柳津選手は秒殺に等しい完敗だったが、その精神力と寝技の技術で定評のあった大原選手ならば、もう少しいい勝負ができるのでは?という期待はあったようだ。

こうして始まった骨法の第二試合、大原選手は果敢にオタービオ選手に組み付いて、テイクダウンを奪った。

だが、両者とも決定打を欠き膠着状態になったためにレフェリーがブレイクを命じ、再びスタンドでの試合再開となる。

だがその後、大原選手は倒されてしまい完全にマウントポジションを取られて、上からオタービオ選手のパウンドの猛攻を加えられた。

レフェリーもストップせず、セコンドもタオルを投入しなかったので、100発以上のパンチを浴びせられてしまう。

しかし、大原選手は耐え抜いて、マウントポジションから脱出することに成功。

そのまま30分の試合終了まで戦い抜いた。

大原選手は、体格差をものともせず最後まで善戦したと言えるが、マウントパンチを浴びるなど劣勢だったことは否めず、結果は2-0の判定負けであった。

骨法の完全敗北である。

それも、骨法の中でもツートップの選手が負けた。

喧嘩芸だのなんだの言っていても、このほぼ喧嘩であるノールールの試合で、その威力を発揮できなかったのは間違いなかったのだ。

骨法最強幻想は、ブラジルからやってきた現実の前に崩れ去ったと言ってもよかった。

これまで骨法の話題をさんざん取り上げ、日本格闘技界の最後の切り札とばかりの論調だったくだんの『格闘技通信』は、この試合結果を伝える記事において、「負けたとはいえ、大原選手は素晴らしい選手だった」とか、まだまだこれからだというような一見前向きな意見を書きつつも、

結論―。

「これまで骨法に多くのページを割きすぎました」

という一文がその中にはあった。

そして、その一文は紛れもない本音だったことが、後に証明される。

骨法のその後

それまで、あれほどまで骨法を持ち上げてきた『格闘技通信』は、手のひらを返したかのように骨法を話題に取り上げなくなった。

その他のメディアの露出も以前ほどなくなり、多くいた門下生も減ってしまったという。

本格的な他流試合であるブラジル勢相手の試合での敗北は、かなりの痛手となっていたのだ。

一方で、96年に骨法がブラジル勢に敗れて以降、一時期ノールールにおいて日本の格闘技界は、世界において「日本最弱」とまで言われていたが(これはくだんの格闘技通信が言った)、翌年97年から日本の格闘家の逆襲が始まる。

1997年2月7日、UFC 12に出場した日本のプロレスラー・高橋義生選手がブラジリアン柔術の選手から判定で勝ち、日本人のUFC初勝利をあげる。

1997年10月11日には今や伝説となった格闘技イベント『PRIDE』が始まり、第一回大会で当時日本のトップレスラーだった高田延彦選手が、バーリトゥードジャパンを連覇した前記ヒクソン・グレーシー選手に敗れはしたが、同大会では、和術慧舟會の小路晃選手が、同じグレーシー一族の一人であるヘンゾ・グレーシー選手と引き分けに持ち込むなど大健闘。

その後『PRIDE』に桜庭和志選手が登場し、ホイス・グレーシーを含めたグレーシー一族の選手を連覇して「グレーシーハンター」の異名をとるなど大活躍、「日本最弱」の汚名を大いに返上する。

しかし、この一連の逆襲劇の中に骨法の姿はなかった。

もはや、以前ほどの注目を浴びることはなく、汚名を返上できるような選手も結果的に現れなかったのだ。

とはいえ、骨法は創始者の堀辺正史氏の下でその後も存続し続けた。

2015年12月26日に、堀辺氏は心不全でこの世を去ったが、時代が令和になった2022年の現在でも『日本武道傳骨法會』の名で活動している。

ちなみに格闘技だけでなく整体もやっているようだ。

今から思えば、グレーシー柔術をはじめとしたブラジル勢が無敵だった時代もはるか昔だ。

90年代は喧嘩大会だったUFCも今や洗練され、MMAの最高峰の大会となった。

それ以上に、骨法が最強だと信じられていた時代があったことが信じられない感がある。

まだネット社会になる前だった90年代はマスコミに取り上げられたりしようものなら、それだけで真実だと無条件に信じられてしまった時代だった。

その当時、青少年期を過ごした私は、まさにそんな一人だったからこそそう思う。

その時期骨法に入門した人々も、その神秘性に魅かれて入った人も多かったのではないだろうか。

骨法最強神話は、90年代までの若者だけが信じることができたおとぎ話だったのかもしれない。

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2022年 世界平和

世界を平和にする方法

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思春期真っただ中だった中学校の頃、私は本気で異星人の地球侵略を心配していた。

あれから四半世紀以上たった現在では、さすがにあの時のような無意味で愚かな懸念はしていない。

だが、今でも異星人の存在は確信しており、歳を重ねて自分なりにある程度見識を深めた中年になってから、思春期とは全く違うことを考えるようになってきた。

それは、あのころとは全く逆のこと。

「地球に、どこかの異星人が攻めて来てくれないだろうか?」だ。

異星人の地球侵略待望論

なぜそんな考えを持つに至ったかと言うと、世界平和について私なりに思うところがあるからだ。

ご存じのとおり、2022年2月現在の世界も、相変わらず平和じゃない。

ウクライナとの国境沿いでは十万人のロシア軍が集結、軍事侵攻の危険性が高まってきているし、中国の台湾侵略の可能性だって指摘されている。

危機どころか、実際に内戦になってしまったシリアやイエメンではいまだに戦闘が収まる気配もない。

他にも南スーダンで、リビアで、アフガニスタンで、エチオピアで…。

いつも地球上のどこかで血なまぐさい戦闘や紛争、テロが起こり、人間同士の殺し合いが絶えることはない。

やったらやり返し、やってやったらやり返されるのループはズルズル続く。

当事者双方はもちろん譲る気なんてないし、国際平和の推進を目的としているはずの国連でも積極的に仲介どころか各国、特に大国がエゴを振りかざして問題が一向に解決しないことの方が多い。

そして、そのまま長期化して人が死に続ける。

なぜなんだろう?

背景にはいろいろな政治的理由やら歴史的な因縁だのもあるが、要はつまり、人類というのは敵を作って戦いたがる本能があるからじゃないだろうか?というのがまず一つ。

また、過酷な現実を正しい努力によって変えようとするよりも、誰かのせいにして、そいつを敵視して憂さ晴らしをする方をどうしても選んでしまうというのも一つだ。

特にこの特性は、民衆の不満が鬱積している国家や地域の指導者にとっては利用価値が大いにあり、誰の目にもわかりやすい敵を示してやれば、民の大多数が闘争本能をたぎらせて見事にまとまって支持が得られるという効能がある。

だからすぐに新しい敵が作られるし、昔の敵は敵のままであることが多い。

もちろん敵視された方も黙っていないから、争いの火種には事欠かないのだ。

人類は歴史上いつもそうしてきた。

現在もそうだし、しばらく先の未来もそうなることだろう。

世界は、いつまでたってもまとまらないし、人類皆兄弟なんて夢のまた夢だ。

だが、この悪しき特性により、昔から進んでいがみ合いたがる人類全員を、一致団結に導き得る条件が一つだけ考えられる。

それこそが、異星人の地球侵略だ。

全人類が団結した世界

共通の敵がいればまとまるのが人類なんだから、人間同士殺し合うことなく団結するには、人類共通の敵がいればよい。

環境問題とかは人類共通の課題だが、人類を団結させるには曖昧すぎて弱い。

コロナも人類共通の完全な「敵」だが、人類の闘争本能を熱く駆り立てるには不十分だ。

いつか勝てると達観してるフシがあるし。

それらの脅威はどちらかと言えば「問題」であって「敵」ではなく、大同団結に向けて全人類を動かすには、やはり明確な「敵」でなければならない。

その「敵」は目に見える形での他者、異星人であるのが一番分かりやすい。

異星人とは他の惑星に住む、すなわち地球に住んでいない完全なよそ者である。

そのよそ者の存在は、まず全人類にお互い同じ地球に住む地球人だという意識を否応なしに持たせるはずだからだ。

選べるはずはないけど、何十万年も進化してるようなのは地球人類に勝ち目はないから、千年か二千年くらい先を行ってる程度で、うまくやれば勝てそうなレベルのやつがいい。

もっとも、バカ正直に真正面から軍事侵攻をしてくるとしたら、そのくらいの中途半端に高度な種族であろうとも考えられる。

そんなよそ者が全人類を敵視して地球に攻め込んできたら、今までの因縁を忘れて人類は団結して戦うであろう。

ロシアもウクライナにかまっている場合じゃなくなるし、中国も台湾をいびるのは中止する。

アメリカも地球上ではNATO以外で最も頼りとなるであろう中国やロシアに歩み寄り、両国ももろ手を挙げて受け入れる。

NATO・ロシア連合軍だって高い確率で実現するはずだし、アメリカと中国も第二次大戦以来初めて全面的に手を組むだろう。

南アジア地区での戦闘に備えて、インド・パキスタン同盟軍が結成されるかもしれない。

韓国人が妄想してやまない韓国・北朝鮮合同軍だって夢じゃない。

イスラム国やタリバン、イランの革命防衛隊が異星人の宇宙戦艦に自爆攻撃を仕掛けるさまは欧米諸国の人々だって応援したくなるだろう。

異星人との戦闘で米英軍やイスラエル軍が惨敗したら、パレスチナ人やイラク人だって落胆する。

航空自衛隊が空中戦で異星人の円盤をバッタバッタ撃墜すれば、中国人や韓国人だって拍手喝采するはずだ。

もうそこには、人種も宗教も歴史的な因縁もない。

ロシア人とウクライナ人も、日本人と韓国人や中国人も、イスラエル人とアラブ人も。

白人、黒人、黄色人種も。

キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、ヒンズー教徒も。

誰にとっても憎むべき敵に立ち向かうべく、全人類は共闘する。

平和ではないが、人と人とが大規模に殺し合わない、人類が一つになった世界が、ようやく実現するのだ。

そして勝利した暁には、全人類が勝者としてお互いを認め合い、くまなく歓喜に包まれ、人間同士が争わなくなった世界を目にすることができるであろう。

夢にまで見た理想的な世界じゃないか!

もっとも、敵である異星人がいなくなってしばらくしたら、それは長く続かないだろう。

しかし、地球人類は痛みを伴いつつ、同じ地球に住む者として完全に一つになったという素晴らしい初体験を確実に記憶することになるはずである。

それは良くも悪くも、今より明らかに大きく前進した世界となるのではないだろうか。

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2022年 おもしろ 中二病 動物 悲劇 鹿

鹿の戦闘力 = 奈良公園の鹿との格闘

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。

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奈良県の奈良公園には、多数の鹿が生息していることはよく知られている。

鹿は同公園内に鎮座する春日大社の神使であり、国の天然記念物とされて保護を受け、公園内外に約1100頭がいるという。

そんな奈良公園には、国内外から多くの観光客が訪れ、「鹿せんべい」を与えたりして、直に鹿と触れ合うことが可能である。

だが、奈良の鹿は飼いならされているわけではなく、れっきとした野生動物。

人間に従順でも、なついてもいないのだ。

よって、鹿にかまれたり追突されたりしてケガをする観光客が続出していたことが、問題となっていたものである。

鹿をナメてはいけない。

草食動物だし、昔から人類にしょっちゅう狩られているが、だからと言って、人類が素手でタイマン張っても楽勝であることを意味しない。

日本の鹿は成獣だと、オスは60キログラムから100キログラムになるため、その攻撃力は中型犬や猫をはるかに凌駕するのだ。

ウサギと一緒などと考えない方がいい。

私はそんな鹿の恐ろしさについて身を持って知っている。

なぜなら奈良公園の鹿と戦ったことがあるからだ。

あれは、私が高校二年生だった時の春休みのことである。

『青春18きっぷ』で東大寺へ遊びに行った際に、それは起こった。

東大寺に行くのは小学校6年生の修学旅行以来だったが、小学校の時も高校生になったその当時も、奈良公園には鹿が観光客の間を歩き回るほどウヨウヨいて、観光客は鹿せんべいを与えることができた。

そのころから、鹿に負傷させられる観光客が続出していたかどうかは知らないが、修学旅行の時にやられた人間なら知っている。

他のクラスの金子浩という奴で、鹿にいたずらした結果、突き飛ばされて返り討ちにされたらしい。

金子はその後、「鹿に負けた男」と呼ばれて、学年最弱の烙印を押され、小学校卒業まで嘲笑され続けた。

小学生の頭の中では、人間が鹿に負けるわけはないという認識だったようだ。

実は私もその一人で、高校二年になっても、それは変わらなかった。

鹿にやられるなんて人間として恥ずかしいと、頑なに信じていたのだ。

また、体はでかいがウサギと同じでおとなしく、何をやっても基本無抵抗であろうとも。

だからその時、地面に落ちている鹿せんべいを食べていた鹿を見た私は、ついつい、いたずら心を起こしてしまった。

背後から、鹿の後ろ足に足払いをかけたのだ。

鹿は後ろ足を私に払われて、一瞬よろけたものの倒れることはなく、前足で踏ん張ってすぐに体勢を立て直した。

さすが四本足の野生動物、かなりバランス感覚はいいようだがスキだらけだ。

そんなんじゃ奈良公園では生きられても、山では生きていけんぞ。

これから、お前はもっと注意力を…。

などとヘラヘラしながら考えていた私の方を、その鹿が向いた。

私を見たその顔は「さっきやったのはお前だな」と言っているような感じである。

そして、つぶらな瞳は白目をやや剥いており、明らかに怒っている様子だ。

何だ、その反抗的な態度は?鹿のくせに。

などと、人間として鹿などに謝罪する気は毛頭ない私は、余裕をぶっこいていたが、いざ向かい合ったとたんに少しビビり始めていたことを告白する。

改めて気づいたのだが、

その鹿は、周りの鹿より一回り以上大きいオスであり、角は切られていたが、体感的に素手で戦ったら勝てそうにない個体だったのだ。

ちょっとヤバかったかも。

と悟ったが、もう遅かった。

一瞬上半身を低くしたかと思ったら、勢いをつけてこちらに頭から突っ込んできたのだ。

当時、体重が50キロを上回るか上回らないかだった私は、もろにくらって吹っ飛ばされた。

だが鹿の攻撃は続き、突進して頭突きを連打してくる。

思わぬ奇襲攻撃にしてやられたが、私だって無抵抗ではない。

切られた角の部分をつかみ、前から腕を回してフロントネックチョークをかけようとしたら、ガジっと腕をかまれて振りほどかれた。

力もかなりのもんなのだ。

さらに、前足で蹴りを入れたと思ったらフェイントで、カウンターで再び下半身に向けて突進してくるなど、結構ケンカ慣れたテクニシャンでもある。

こりゃ勝てん!

鹿の思わぬ戦闘力の高さに一気に戦意を喪失した私は、全速力で逃走を図った。

私は足が遅い方で、高二にして100メートルを14秒台でしか走れなかったが、その時ちゃんとタイムを測ったとしたら、13秒台をクリアできるくらいの、自分史上最速の走りだったはずである。

しかし、草食動物から逃げ切るには遅すぎた。

いいスタートと走りではあったが、走り始めてほどなくして背中に鈍く重い衝撃。

背中に頭突きをくらわされて豪快に転んだ私に、なおも鹿は追い打ちをかけてくる。

地面に転がる私に頭突きはかましてくるは、前足で蹴るはで、滅多打ちで手も足も出ない。

ほかの観光客は「おお~」とか「ああ~」とか言って誰も助けてくれやしなかったが、さすがに奈良公園の職員は見て見ぬふりはしなかった。

「コラー!!!」

とか、大声で叫びながら飛んできて、しつこく私を攻撃する鹿を追っ払ってくれた。

危ないところであった。ちょっと遅いが助かった。

しかし、私を救い出した職員のおっさんの第一声は「大丈夫?」ではなく「鹿にいたずらするからこうなるんだ!」だった。

その前の私の所業を見ていたらしい。

さっきの「コラー」も私に向けた怒声だったようだ。

鹿にさんざん痛めつけられた後は、おっさんにグラグラ怒られた。

それら一連の様子を他の観光客は興味深そうに見ていたから、私はいい笑い者である。

また、私が攻撃されている間、他の観光客の中には笑っていたり写真を撮っていた者も、横目に入っていた。

彼らにとって私が鹿と職員にやられている様子は、東大寺や鹿とのふれあいと同じかそれ以上に面白かったに違いない。

体を張って彼らに愉快な思い出を提供してしまい、少々シャクでもある。

若気の至りというか、高校生の割にはあまりに幼稚な行為のおかげで黒歴史を刻んでしまったことは確実だった。

この事件で身に染みたのは、「自分はとんでもないバカだ」という幼児の頃から気づいていること以外に、何と言っても鹿の戦闘能力の高さだ。

メス鹿や子鹿にしときゃよかった。

とか考えたこともあったが、子鹿はともかく、体格から判断してメス鹿もそこそこ強いはずであるからナメてはいかんだろう。

あそこまで徹底的やられた私は、現在でもトラウマレベルで鹿の怖さを覚えているし、とてもじゃないが他の観光客のように鹿にせんべいを与えたりして楽しく触れ合うことはできない。

また、奈良公園どころか、奈良県自体に行く気もなくなった。

自業自得だと自分でもわかっているから、なおさらである。

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新幹線の食堂車での思い出 =終生忘れ得ぬこの無念

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かつて東海道・山陽新幹線の「ひかり」には食堂車があった。

覚えている方も多いことだろう。

この食堂車は1974年、博多駅開業目前に登場して以来、最盛期には全ての「ひかり」に編成されて営業をしていたが、後に新幹線のスピードアップにより、乗車時間が短縮されたと同時に利用率が低下。

これを踏まえたJR各社が不要と判断した結果、2000年に営業を終了した。

この新幹線の食堂車をリアルに見たことがある人の中で、一度はそこで食事をしてみたいと思った方も多いはずだ。

まだ食堂車が全ての0系新幹線の「ひかり」にあったころに小学生だった私もその一人である。

そしてある日、その夢の食堂車で食事するチャンスに恵まれた。

だが、それは2022年の現在になっても忘れられない、無念極まる思い出となった。

あこがれの食堂車

岡山県に母方の伯母一家が住んでおり、盆暮れには新幹線に乗って私の住む岐阜県の祖父母の家に帰省していた。

そして岡山に帰る際、祖父母と私の家はよく新幹線の岐阜羽島駅のホームまで見送りに行ったものだが、たびたび食堂車を伴った「ひかり」によく出くわした。

私が小学生だった時代の新幹線はだいたい0系であり、食堂車は後に登場する100系新幹線に連結された電車二階建ての168形ではなく、36形食堂車である。

36形食堂車
168形食堂車

「ひかり」が岐阜羽島駅に入ってきて停車し、食堂車が通り過ぎると、何とも言えないいい匂いがしたものだ。

特急列車が好きだった当時の私にとっては問答無用であこがれの車両である。

是が非でもそこで食事をしたいと、しょっちゅう両親にせがんでいた。

しかし、夫婦そろって出不精な両親は、たまにしか行かない家族旅行も100キロ圏内だったし、いつも車を利用していたために食堂車どころか新幹線にもなかなか乗れなかった。

子供心に「大人になってからにしよう」と半ばあきらめかけてもいたが、持続的な強い願いは時に運命をも動かす。

食堂車で食事ができる絶好のチャンスが訪れたのである。

夢の食堂車

新幹線の食堂車

それは小学校四年生の春休み、今から37年前の1985年のことだ。

いつも岡山から岐阜に来るだけだった伯母一家が、「たまにはうちに遊びに来て」と誘ってくれたため、私の一家は重い腰を上げて岡山まで新幹線「ひかり」で行くことになったのである。

岐阜羽島駅から岡山駅までは300km以上の距離があり、当時の「ひかり」でも二時間はかかる。

食堂車を利用する時間は十分あるではないか。

両親はあまり乗り気じゃなかったが、だだをこねまくって、当日は食堂車に行くことを約束させることに成功した。

ようやく夢がかなう!

私は伯母の家に行って従兄妹たちに会うよりずっと食堂車の方が楽しみだった。

岡山に向かうその日、岐阜羽島駅までの道中では、二歳年下の弟と、食堂車で何を食おうかそればかり話をしていたものである。

このころから何かと気が合わない弟だったが、食堂車は奴にとっても楽しみだったのだ。

新幹線「ひかり」の自由席に乗ったのは昼前だったから、ちょうど昼食時には食堂車だ。

この日は休日だったはずだったが意外と空いており、我々一家は新幹線の端の方の自由席に席を四人分確保することに成功。

だが、もう居ても立っても居られない私たち兄弟は、席にどっかりと腰を降ろしてゆったりしようとする両親を食堂車へせかした。

真ん中くらいに存在する食堂車は昼時とあって混んでいるかもしれないと思っていたが、自由席同様空いていた。

食堂のスペース手前の方にメニューがあったが、私はとりあえずカレーを食べると決めていたので、そのまま席にまで直行。

弟も付いてきて、まだメニューを見ている両親より先に着席した。

メニュー

席にもメニューがあり、やっぱりカレーじゃなくて他のにしようかなどと考えたりしていた。

食堂車の飯はどんなもんなんだろう!?

たとえまずかったとしても、恨み言は言うまい。

我が家では外食自体が珍しく、近所のラーメン屋に行くことだけでも一大イベントであったが、私にとっては食堂車での食事は、他のどんな店での外食にも勝る慶事だった。

新幹線の食堂車で飯を食うこと自体に、意義があるからだ。

ああ、もう待ちきれない。

だが、それにしても…。

親父とおっ母がなかなか席に来やしない。

何やってるんだ?

まだ入り口近くのメニューを見て、何ごとか話し合っている。

ウエイトレスのおばさんが我々の席に注文を聞きに近づいてきた時、母親が「ちょっと、ちょっと」と声を出して、我々兄弟を呼んだのが聞こえた。

「ねえ、早う来てや」と私は催促したが、父も母も「こっちにこい」と手招きしているのが目に入った。

何だよ、いったい。

多少イラつきながら両親の元に向かった我々兄弟は、父の口から告げられた一言により、有頂天の極みから奈落の底へ突き落とされた。

冷酷な両親

「昼飯やけどな、岡山駅で食べることにしたで」

はあ!?

「ここで食べたっておいしゅうないて」と母親も助け船を出す。

「いや、ここで食べようよ!」

「岡山の方がずっとおいしいトコいっぱいあるで」

「そうや。こういうトコは高いばっかでおいしくないに決まっとる」

だまされないぞ!!

ここまで来といて、そりゃないだろ!

どうやら両親は、新幹線の食事の高額さにビビったらしいことが当時の私にもわかった。

だが、家計に致命的な打撃を与えるほどではないはずだ。

「食堂車がどういうもんか分かったやろ?だから、もうええやん」

ごまかしているつもりか!入っただけで満足できるわけないだろ!

「ここで食べたい!ここで食べる!!」

「あかんあかん。もう席戻ろか」

両親は抗議する我々兄弟を無情にも力づくで食堂車から退去させ始めた。

小二の弟は大声で泣き出し、小学校四年生の私も泣き出した。

私はせめて食堂車の隣のビュッフェで食べさせてくれと懇願したが、岡山で昼食を食べるという両親の決意は変わらない。

自由席に戻る途中、幼児並みに泣きわめいて駄々をこねた我々小学生の兄弟だったが、

「しつこい!」

「母ちゃんのいうことが聞けへんのか!」

と逆ギレした両親にゲンコツをかまされ、抗議活動は鎮圧されてしまった。

こうして忸怩たる思いのまま岡山駅に到着して、我々一家が昼食に入ったのは、

駅の立ち食いソバ。

食堂車の代替に全く及ばないではないか!

しかし、「文句を言ったらまたゲンコツだぞ」オーラを出す両親にはこれ以上文句は言えず、我々の意向も聞かず一方的に注文されたかけそばをすすらざるを得なかった。

私はこの年齢になるまで、あの時以上にひもじい気持ちでかけそばを食べたことはない。

そんなことがあったから、伯母の家に到着して従兄妹たちに会っても楽しくなかった。

そこに一泊して、次の帰りも新幹線だったが、今度乗ったのは食堂車のない「こだま」。

おまけに行きと違って、客がぎっしりで自由席は空いてやしない。

立ちっぱなしの道中で、両親は

「食堂車はまた今度にしようや」

とかふてくされる我々に言い聞かせていたが、

その「また今度」が永遠に来ることはなかった。

その時、両親は絶対に叶えてくれないに決まっているから、大人になったら絶対に食堂車で食おうと固く決意していたが、その決意を忘れて大人になって、思い出した時には新幹線の食堂車は、廃止されていた。

感謝は感謝、無念は無念

「なあ、何で小四の時、新幹線の食堂車で飯食わしてくれへなんだんや?」

2021年の年末、実家に帰省した際に両親に訊ねた。

この時ばかりではない、小学校時代から高校卒業後に実家を出て今に至るまで、数百回は言っている。

だが、いつも答えは同じだ。

「はあ?そんなことあったかいな?」

「覚えとらんて、そんな昔のコト」

ウソだ。

最初にそれを聞いたのは小五の夏休みだったが、半年前のことを忘れているはずがないのに同じようなことを言っていた。

「俺やったら、ウチの子に食わせたで」

妻子を伴って帰省していた私の弟も口をはさんだ。

「昔のことは忘れた」とよく言う奴だが、あの時の無念は忘れてはいないらしい。

それでも両親は忘れてしまったようなことを言い、なかったことにしようとしている。

両親にはこれまでさんざん苦労をかけさせた自覚はあるし、そこそこ感謝もしている。

だが、あの件だけはいまだに許せない。

一年に一回はあの時の夢を見る。

新幹線「ひかり」の36形食堂車の席に座ってさあ食事しよう、という夢だ。

私自身はまだ子供だったり、もう今の歳になっていたり、親が来なかったり、ウエイトレスが来なかったりいろいろなバージョンを見たが、いつも共通しているのは料理にありつけないことだ。

どんなにうまいものを腹いっぱい食べて苦痛なほど満腹になったとしても、あの時口に入るはずだった料理を出されたら食べるだろう。

あのたった一食の喪失感は30年以上たった今でも忘れられない。

「どうでもええことばっか、いつまでもよう覚えとるな」

「昔っからホンマぐちゃぐちゃしつこいな、アンタは」

年老いた両親には、なんら罪の意識がないようだ。

大人げないのは承知だが、この件を風化させる気はない。

今後も言い続けるし、両親を看取る時は、

「苦労かけてすまんかった。でもあの時食堂車で飯食わしてくれなかったのはいかんだろう」

と一応言うつもりだ。

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我が中二病 ~人類防衛の大義に燃えた思春期~

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中二病なる言葉がある。

なんでも、「思春期に特徴的な空想や価値観、過剰な自意識やそれに基づく言動を揶揄する俗語」であるらしい。

それが大体中学校の二年生くらいで発症することが多いから、こう呼ばれているようだ。

そういえば私が中学生の頃も、グレ出す奴は、大体二年生からだった気がする。

反抗期もこれくらいの時期から本格化するみたいだし。

また、この年代はかなり多感な時期らしいから、自我が目覚めて荒れ狂うあまり、かなり恥ずかしい言動をしてしまいがちなようだ。

そして、身内以外の他者の影響も受けやすい。

私もそういえばその時期、その中二病に近い症状を患った記憶がある。

ただし、私は問題行動を起こさなかったし、校則はきっちり守る真面目な生徒だった。

先生や親に怒られるのが怖かったし、第一そんなことしたら他の生徒にシメられるのは当時からわかりきっていたからな。

私の場合はそういった人様の鼻につく症状ではなく、主に精神面及び思想面で発症したのだ。

もっとも、その影響は言動にきっちり表れていたから、中二病マンマであったが。

私の発症した中二病とは何か?

それは、異星人の地球侵略を本気で心配していたことだ。

思春期にありがちな異性への関心や将来への不安そっちのけで、私の中学校生活の後半は、異星人の侵略におびえる毎日だった。

きっかけは、金曜ロードショーで放映されたアメリカの異星人侵略モノのテレビドラマV』を見たこと、そして愛読していた漫画『ドラゴンボール』に戦闘民族サイヤ人が登場してきたことだったと思う。

元々心霊やUFOなど超常現象に興味があり、薄々異星人への脅威は感じていた。

だがその脅威は、それらの作品との出会いが思春期に達した当時の私の精神状態と不適切に相互作用して、多感な頭の中で爆発的に増大したのだ。

とどめは、日本テレビで放送された『矢追純一UFO現地取材シリーズ』

まだ1980年代後半で、当時騒がれていたノストラダムスの大予言「1999年の7の月、人類は滅ぶ」とは、異星人の侵略だろうと確信した。

私はその圧倒的な脅威におびえるあまり、熱心に家庭や学校でその危険性を説き、身近な人々をまず啓蒙しようと努めた。

だが、無理解な両親は「もうすぐ受験だろ」と突き放し、学校ではいつもつるんでいた友達に距離を置かれ、「面白い奴がいる」と私を迫害する同級生が増加しただけだった。

誰も理解を示してくれなかったが、私は三年生になると心機一転して、自分ひとりだけでも異星人に立ち向かおうと決意、独自に戦闘訓練を開始した。

まず、攻めてくる異星人は『矢追純一UFO現地取材シリーズ』で主に取り上げられているリトル・グレイという種族だと断定。

そのリトル・グレイと戦うためにまずは格闘術の訓練として、二歳年下で中学校一年生の弟を異星人に見立て、組手の相手とした。

なぜ中学一年生の弟だったかというと、そのリトル・グレイという種族は身長140センチくらいで、当時の弟の身長とほぼ同じであり、まさに練習相手としてうってつけと考えたからだ。

私は「異星人の侵略に対する抵抗のため」という大義を弟に説き、練習相手となるよう命じたが、当時から兄である私を小バカにしていた弟は断固拒否。

それを自分さえよければいいという勝手な考えとみなした私が、組手訓練を強行すると弟は激しく抵抗し、二階の子供部屋で大乱闘に発展した。

弟も本気になってくれたので有意義な訓練になったが、一階で仕事をしていた父親が上がってきて「うるさい」と怒鳴られ、「お前が悪い」と私だけがシメられた。

こうして格闘術の訓練はできなくなったが、やはり異星人との戦いのキモとなるのは対空戦闘であろう。

異星人と言えば円盤、きっと主に円盤に乗って攻撃してくるはずだ。

そこで私は、対空戦闘の訓練に専心することにした。

本物の銃は将来的に狩猟免許を取得してから購入するとして、私はまず、保有していたエアーガンでの射撃訓練を開始する。

標的は、家の畑に飛んでくる蝶。

円盤のように不規則な動きをするため、ふさわしい標的だろう。

私は来るべき地球防衛の戦闘に備え、自宅の前の畑にやって来た蝶を片っ端から銃撃した。

しかし、蝶を狙ったBB弾は時々近所の家に飛び込んで、そこの住民に命中。

「お宅の長男に狙撃されてる」と、その住民から苦情を受けた両親にまたしてもシメられ、エアーガンを取り上げられてしまった。

自宅での自主戦闘訓練を封じられた私だが、やはり独自にやるのではなく、ある程度専門的な機関に所属する必要を感じるようになった。

すなわち自衛隊だ。

ちょうど中学三年生で将来の進路をある程度目星をつけるべき時期に差し掛かっていた私は、とりあえず中学卒業後は一旦普通科高校に行くこととして、高校卒業後には自衛隊に入隊することを学校での三者面談で宣言。

志望動機を聞かれたが、理由はもちろん「異星人と戦うため」だ。

「自分の将来なんだから真面目に考えろ」と両親も担任教師も激怒したが、

人類防衛の大義に燃える私の信念はいささかも揺るがなかった。

将来自衛隊に入隊することを決めていた私だったが、一方で今のままの自衛隊では、異星人にまともに立ち向かえないとも感じていた。

円盤を真っ先に迎撃するのは戦闘機だが、その自衛隊の戦闘機F-15Jは、やすやすマッハ10を超す速度で飛ぶ円盤の敵ではない。

海上自衛隊や陸上自衛隊はモノの役には立たないであろう。

ムダ死には御免だ。

だいたい憲法で縛られた自衛隊では、ソ連軍(当時はまだ健在)や中国軍相手でも持たない。

そこで私は他力本願とはいえ、地球上で最強最大の軍事力を誇る米軍に思いをはせるようになった。

だいたい、映画でも異星人の侵略など地球規模の未曽有の脅威に真っ先に立ち向かうのは米軍と相場が決まっている。また、現実にも、そうなるであろう。

矢追純一のUFO特番でもやっていたが、米国は異星人と密約を結ぶ一方で、万が一の対決に備えて円盤を宇宙空間で迎撃するための『スターウォーズ計画』を策定するなど、日本政府が及びもつかないようなことをやってのける国なのだ。

米国なら、何か考えてくれているに違いない。

そしてその頃、ずっとベールに包まれていた米国の最新兵器がプレスリリースされた。

ステルス戦闘機F-117ナイトホークである。

それは後に、実は攻撃機であったことがわかるのだが、私はその従来の軍用機とは一線を画するF-117の未来的な形状を一目見て、対異星人戦用の兵器だと確信した。

これの主武器はきっとレーザーガンで、宇宙空間だって飛べるはず。

速度マッハ5くらい出してもおかしくはなさそうだし、最低でも空中静止は堅いと

だが私の期待むなしく、F-117はレーザーガンどころか爆弾しか積んでおらず、宇宙空間は飛べないし空中静止もムリ、速度だってマッハ1すら出せやしない。

円盤との空中戦どころか、既存の戦闘機とドッグファイトしたら返り討ちに遭ってしまうことが分かった。

取り柄はレーダーに映らないことで、それは爆撃される側にとって相当ヤバいことなのだが、その時には、そんなことに思いもよらず大いに失望した。

画期的な兵器であることは私が高校一年生の時に起こった湾岸戦争で証明されたが、迎撃を受けることなく爆弾を落とすだけでは、異星人の相手になりそうもない。

人類は終わりだ、と絶望した。

そんな私だったが歳を重ねていくうちに、私の中で中二病たる異星人への恐怖は徐々に消え、地球防衛の大義のために自衛隊へ入隊するという情熱もどこかへ失せていった。

同時に、あの時の自分は何と無意味で恥ずかしいことに時間と労力を費やしてしていたのか、という常識的な反省ができるようには一応なれた。

だが成人して、久しい現在でもその後遺症は残っているようである。

画期的な新兵器が開発されて出現するたびに、それは地球上の軍隊や武装勢力ではなく、異星人相手にどこまで通用するかということを、この年齢になってもついつい考えるからだ。

軍事技術に限っては、私の目線は地球上だけではなく、地球外にも向いてしまっている。

私の中二病は、まだ完治していないということだ。

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「老い」という不幸からの解放

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歳をとるのは嫌だ。

二十代とかに戻りたいとは言わないから、せめて今の年齢のままでいたい。

いつから歳を重ねるのが嫌になったんだろうか?

たしか子供の頃は、誕生日が来るたびにうれしかった気がしていた。

早く大人になりたかったはずだ。

ほぼ大人の高校生くらいのお兄さんやお姉さんたちが、うらやましくはなかっただろうか?

大人になったら社会へ出て働かねばならず、ある程度の責任も求められて甘えが許されなくなるのは分かっていたが、それ以上に、子供だとできないことが大人になったらできるようになるのが大きかった。

酒やたばこなどの嗜好品、自動車の運転、パチンコ店や競馬場などのギャンブル、夜の怪しいお店…。

子供の目には、自分たちには許されない大人の世界は魅惑に満ちていた。

だが、そんな背伸びしてまで待ち望んでいた大人に一旦なってしまうと、今度は一転して歳をとるのが嫌になってしまう。

なぜだろう。

日本経済の将来性とか年金問題とか以前に、ごく自然な流れとして歳を重ねるごとに体は劣化して、自分の死も近くなることを悟るようになる。

そして、今はできても将来はできなくなることばかりになり、
子供の頃のように今はできなくても、将来はできるようになるモノも少ない。

どう考えても、老いることは不幸なこと以外の何者でもなく思うようになる。

だが、不幸なままでいいんだろうか?

もし、誰でも歳を重ねれば楽しめるモノが老後に待っていたらどうだろう?

退職後悠々自適とか孫の顔を見るとか、そんな程度のもんじゃない。

「歳を重ねてこそ人生」などと、開き直りだか強がりのような苦しい意識改革なんかでも決してない。

若者には許されないが、ある程度の年齢になったら許されるようになるモノがあったら?

子供たちにとっての酒やたばこのように、ちょっと味見することすら許されない魅惑の禁制品を嗜める権利が、例えば65歳になったら得られるようになったならばどうだろう?

少しは歳をとるのが嫌じゃなくなりはしないか?

そこで私は憚りながら今ここに、人類共通の不幸の一つである老いを幸福なことに転換させる一助となりうる施策を提言したいと思う。

それは即ち、現状での我が国の法律において全ての年齢層において禁止されている違法薬物の一つ、大麻の吸引を65歳以上から合法化することだ。

大麻の危険性は?

大麻とは、大麻取締法でいう大麻草「カンナビス・サティバ・エル」及びその樹脂を指す。

一般的には樹脂や乾燥葉をタバコに混ぜて、紙巻きタバコを用いて吸うが、吸引するとリラックスした幸せな気分になり、眠気、視界がよりはっきりし、音楽が心地よく聞こえるといった、いわゆる「ハイ」な気分になる。

しかし含まれる有害成分であるTHC(テトラヒドロカンナビノール)は、幻覚作用や記憶への影響、学習能力の低下等をもたらすため、無許可の栽培や所持等は法律で禁止されている。

一方で、海外では北米を中心に大麻の再評価が進んでもいる。

マリファナ合法化、医療大麻の解禁、ヘンプ(産業用大麻)製品の拡大といった動きは「グリーンラッシュ」と呼ばれるほどの大きな潮流になり、約2兆円の市場ともなっている。

また、大麻が特別健康に害を及ぼすという科学的根拠も報告されていない。

つまり成人には合法とされているタバコよりも健康に与える害は少なく、依存性も低いとされる。

確かに前述のとおり記憶や学習能力など脳機能への障害が指摘されてはいるが、

すでに現役を退いていることが多い65歳以上の高齢者が吸引するようになっても社会的な影響は限られるはずだ。

大麻吸引のルール

合法になったからと、自宅や公園で自由にラリられては困る。

社会的な影響は甚大で、路上での飲み会や喫煙以上に迷惑だからだ。

また、街中で自由に売らせると、65歳以上に見えるマセた61歳や58歳が買いに来るかもしれない。

タバコや酒だって、16歳くらいの奴でも20歳以上だと言い張れば買えるんだから、あり得ないはずがない。

よって、大麻吸引は厳重に管理された公的な施設内のみで許可されるものとし、販売もそこでしか行われない。

利用者は65歳以上であることを証明できる免許証やマイナンバーカードの持参が義務づけられるのは言うまでもなく、飲酒と同じく運転にも影響を与えることから、自家用車で施設に来てはいけない。

また、大麻は必ずその施設内で消費せねばならず、外部への持ち出しは禁止する。

自宅に持ち帰らせたら、必ず65歳未満に譲ったり売ったりする者が出てくるだろうからだ。

吸いすぎて完全な中毒になられるのも具合が悪いから、回数も制限すべきだろう。

また65歳以上に解禁したからといって、大麻の闇市場が大幅に縮小するとは考えられず、制限回数を超えて我慢できなくなった高齢者に施設外で売る者や、私的に買ったりする不心得者の高齢者も出てくるかもしれない。

そういう輩に対しては、大麻取締法で厳重に処罰するものとし、権利の範囲を超えた乱用や違法行為は断固許さない姿勢を示すべきである。

75歳以上になったら?~加齢に伴う段階的違法薬物合法化政策~

こうして65歳になって、晴れて大麻を味わえるようになるが、70歳くらいになるとまたぞろ「これから先には何もない」とか思い始め、歳をとるのがまた嫌になってくるかもしれない。

だったら、また追加で用意してやろうじゃないか、歳を重ねることの醍醐味を!

75歳になったら大麻に加えてエクスタシーやLSDも解禁する。

吸引や販売はもちろん大麻と同じく公的な施設内で行い、利用回数なども制限を受けるし、75歳未満厳禁は言うまでもない。

ただし、大麻と違って健康に対する影響がかなり深刻なので、医師の許可を得られたことを証明する書類の提出などを義務づけたいところだが、あくまで本人の自己責任としよう。

85歳まで生きたら覚せい剤だ。

ここまで来るとさすがに施設内で死亡する利用者も出てくるだろうが、明らかに健康に害があり、摂取すると命の危険にさらされる者でも、街中で買おうと思えば買える酒やタバコと同じと考えよう。

酒やタバコ同様、過度に摂取して健康を損なうのは自分の責任であるべきだ。

そして晴れて95歳を迎えたら、違法薬物の王様ヘロインやコカインを許可する。

断っておくが、前述の大麻やエクスタシーなども含めて、無理やり吸引させるわけではない。

あくまで「やってもいい」のであって、実際に吸うか否かは本人の自由意志だ。

この年齢だとヘロインやコカインは明らかに危険極まりないが、試してみることを選択した以上、名実ともに昇天したとしても、思い残すことがあったとは言わせない。

老いる不幸からの解放

私は少子高齢化に対処するために「出生数を増やすより高齢者を減らした方が現実的」などと、冷酷なことを主張しているわけでは決してない。

私だってこのまま死ななければ、高齢者になるんだからな。

私は自分自身も含めた世の全ての人々が抱える「老いる不幸」からの解放を提案してるのだ。

初体験は人生の醍醐味の一つと私は信ずる。

それがなくなってしまうと、生きている意味が見出せない。

何もかも分かった気になって、ロクな初体験が残らなくなるのも老いが不幸となる大きな一因ではなかろうか。

だが、危険な魅力的に満ちた初体験が誰に対しても歳を重ねた先に待っていたら、加齢も少しは悪いことではなくなるはずだ。

65歳未満が65歳以上を、幼稚園児が小学生や中学生を見るような羨望のまなざしを向け、「早く65歳になりたい!」と思うようになることは、「歳をとりたくない」と考えることより、ずっと幸福なことではないだろうか!

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柿ピーと日本経済

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酒を飲む時、結構な確率で柿ピーをつまみにしている。

特に好きってわけじゃないが、何にしようか迷ったら必ず柿ピーを買っている。

柿ピーと言えば、「亀田の柿の種」が真っ先に思い浮かぶ人が多いことだろう。

だが、私は「亀田の柿の種」だけは絶対に買わない。

なぜなら同商品は、私が理想とするあるべき姿の柿ピーではないからだ。

理由はピーナツが少ないから。

「亀田の柿の種」は他の柿ピー製品と比べても、ピーナツの割合が低いと思う。

柿の種とピーナツの比率は 7:3 だと標榜しているが、私は視覚的にどんなひいき目に見ても 8:2 くらいに見える。

だから私的には「亀田の柿の種」は論外。

では、他社の柿ピーはどうかと言うと、やはり私の理想とする柿の種とピーナツの比率ではない。

私の中での柿の種とピーナツの黄金比率は 4:6。

3:7 でも構わない。

つまり柿ピーと言うよりも、ピーナツ優勢の「ピー柿」であることが望ましいのだ。

だが、世の人々は柿の種派が多数派らしく、どの柿ピー製品も柿の種優勢である文字どおり「柿ピー」ばかりが市場に並んでいる。

だから私は柿ピーを買う時は、

いつもピーナツも一緒に買って来て、それを柿ピーに足して「ピー柿」にしてから食べている。

そんな強引なマネをしている。

だが、実はそんなことをしなくてもよかったことを最近知った。

市販されているのを発見したのだ。

ピーナツ優勢の柿ピーが。

普段あまり行かない『食品館あおば』で偶然見つけたその商品、名前だけで瞬殺された。

その名もずばり「ピー柿」。

何というまんまであろう。

『ピーナツ好きにオススメ!ピーナツたっぷり 60%』、私の理想とする黄金比率とも一致する。

渡る世間に鬼はない。

日本は柿の種派の一党独裁ではなかったのだ。

長年存在することさえ期待することがなかった商品が市販されていた事実に、日本の市場経済の良心と光明を見た。

衝動買いをしたのは言うまでもない。

だが、家に持って帰り、改めてよく見てから気づいた。

なんか、言うほどピーナツ多くないんじゃないか?

袋を破って皿に開けてみた。

やっぱりピーナツ少なくね?

数えてみた。

結果、柿の種:ピーナツ = 230:138。

騙された!

なにがピー柿だ!

どこがピーナツ 60% だ!

普通に「柿ピー」じゃないか!

もしかしてピーナツの重量が 60%?

いや、個数で測るべきだろう。

私は結局いつもどおりピーナツを新たに買って来てピーナツを増量させながら、少数派の消費者の硬いニーズにすら答えられない日本企業と、それを包括する日本経済の将来に失望を感じざるを得なかった。

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バカはバカに厳しい

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  • 『自分は自分、バカはバカ。他人に振り回されない一人勝ちメンタル術』
  • 『バカとつき合うな』
  • 『「バカ」の研究』
  • 『バカの壁』
  • 『コロナとバカ』

「バカ」という言葉をタイトルに含む書籍は数多い。

それはある社会現象や風潮を文字通り「バカ」にして皮肉ったり、あるいは世にはびこる「バカ」への対処法や、「バカ」を科学するものもあるようで、やはり、「バカ」という言葉は心の琴線に直接接触する一種のキラーキーワードなんだろう。

これらの書籍はそれなりに社会的に成功した人々が著者なんだから、まず著者はバカではなく、読者も著者の言うところのバカではない、という前提と思われる。

それか、読者の方は自分がバカではないことを確認する反証バイアスのために読むのだろうか?

しかし、私はかねてよりこうした「バカ」について解説しているとみられる書籍の中に肝心なものがないように思えてならなかった。

それは「バカによるバカのための本が存在しない」ということだ。

つまり、主にバカがどう生きるべきかを、バカが自分の体験を基に世の中のバカたちに指南する本があってもよいのではないかと考えているのだ。

バカとは?

ここで言及するバカはもちろん悪い意味でのバカである。

「空手バカ」とか「野球バカ」とかの、それ一筋で他のことを考えないポジティブな意味でのバカではない。

バカとは誰が何と言おうと欠点である。

平均的で健全な社会生活を営むのに必要な資質や能力に著しく欠ける深刻な欠陥を指すのだ

その欠陥たる「バカ」には多種多様なタイプがあり、私的に大きく分類すると、

  • 知識の総量が一般人に及んでいないか、現代に対応していない「無教養系バカ」
  • いくらモノを教えてもなかなか習得しない「学習困難系バカ」
  • 物事の筋道を立てたり、合理的な思考や言動ができない「非論理系バカ」
  • 大切なことをすぐ忘れたり、注意力に著しく欠ける「不注意系バカ」
  • 応用力や想像力が全く機能しないか、させる気のない「思考停滞系バカ」
  • まっとうな社会生活を送るために必要な常識や配慮に欠ける「無神経・非常識系バカ」
  • 自分が他人にどう見られているか、自分の立ち位置が分からない「無自覚系バカ」

…などなど際限なく思い浮かぶ。

私自身はこのうち少なくとも「学習困難系バカ」、「非論理系バカ」、「不注意系バカ」、「無神経・非常識系バカ」に該当しており、合併症すら発症している。

私はバカであることに胸を張る気はない。

これまでよく怒られたり、職場を解雇されたりと様々な不利益を被ってきたことが誇らしいことでは決してないはずだからだ。

自分がバカだと分からない「無自覚系バカ」じゃないだけマシだと言う者もいるが、自分がバカだと分かっているからといって心が楽になるわけではない。

バカゆえに将来への展望や可能性が大きく制限されることを自覚するのはあまり気持ちのいいものではないからだ。

バカは傍から見て面白いかもしれないが、バカ本人はそう思っていない。

バカもバカにされると不愉快になるのだ。

誰が人様を楽しませるために自分の尊厳を犠牲にすることが面白いものか。

近年ではバカとひとくくりにされてきた者たちが、発達障害や学習障害などの疾患を抱えていると見て理解を示す向きもあるが、社会は相変わらずバカとみなされる者に冷たいし、暖かくなることもないだろう。

効果的な救いの手が伸ばされることなく、生きづらさを抱えながら人生を送らざるを得ないことは私も覚悟している。

長年バカとして生きてきたが、実はどうすれば心地よく生きられるかはいまだによくわからない。

だがどうすれば最悪かはよくわかっているつもりだ。

46年生きてきた中で振り返ると、これをやったらヤバイいことになったと思われる行為が自分自身の経験からも他人の例からもかなり見受けられるのだ。

それは私自身だけでなく他のバカにも適用可能で普遍的な教訓ではないかと思う。

もしあなたが自他ともに認めるバカだが、他人の話を理解できないほど深刻なものではないならば、他山の岩としていただければ幸いである。

バカであることをアピールするなかれ

バカは恥ずべきことだ。

胸を張って主張することではない。

なのに世の中には、

「俺はバカだから」

と、自分でバカであることを白状する者は少なくない。

本当にそう思って、自分を卑下しているのかもしれないが、これは多分に「俺にあまり期待しないでくれ」とか「難しいことをさせないでくれ」と予防線を張っているつもりなんだろう。

私もそうしたことはある。

だが、これは実はよくない。

あんまり言いすぎると、

周りの者に「こいつはバカにしていいのだ」

と思われる可能性があるからだ。

人間は本能的に自分を最底辺には置かず、自分より下を作りたがる。

特に本物のバカに限ってその傾向が強い。

バカにバカにされるのは我慢がならないだろう?

また「自分はバカだ」と言い続けると、周りからそう思われるだけではなく、自分も本当によりバカになっていくことが多い気がする。

自身の経験から、

どうも「バカ」という日本語に宿る霊力はかなり強力で、特に自分に対して言った場合には言霊となって本当に実現しやすいようなのだ

つまり今以上にバカになってしまう。

「俺は天才だ」と公言するのもよくないが、自分がバカだと周りには言わない方がよい。

本当にそうであったとしても。

バカは利口ぶってはならない

バカだと白状するのもいけないが、だからと言って知ったかぶりをしたり利口ぶったりするのもよくない。

切れ者にあこがれる気持ちはよくわかる。

だが何をやってもバカは終生切れ者にはなれない。

それなのに、私はついついやってしまう。

知ったばかりのことを、さも一般常識ですらあるかのように利口ぶって得意げに語った結果、相手はもっとそれについて知ってて、間違いを指摘されたり、突っ込まれたりして木っ端みじんに粉砕されてしまうことが。

ついこないだもやってしまった。

これは南米かアフリカあたりの失敗国家の経済政策か軍事クーデターみたいなもので、これからも繰り返すであろう。

バカは愛されなければ生きていけない

バカが周りから嫌われたら最悪だ。

有能な人間が嫌われるよりずっとやばい。

はっきり言ってその所属する社会ではアウトオブカースト同然となる。

いつの世も人間は嫌らしい。

バカにしている人間が憎たらしいと、そういう時だけ正義感を発揮して大いに排斥してくるはずだ。

では、憎まれるバカとはどんなバカか?

バカであることを認めないバカ、姑息な計算をするバカ、反抗的なバカ、利口ぶるバカ、プライドの高いバカなどが思い浮かぶが、

要するに素直じゃないバカが嫌われる。

バカは嫌われてはならないのだ。

ただでさえあてにならない奴だと良く思われているのに、その上嫌われたらもう評価が覆ることはない。

一挙手一投足がカンに触るものとみなされるようになる。

私はそういう扱いを受けていたバカを何人か知っているし、私自身がそうなったことがあるから切実に思うのだ。

バカはバカに厳しい

先ほどの「バカであることをアピールするなかれ」でも述べたことだが、バカに限って自分よりバカだと思った者をバカにしたがるようだ。

よく職場で仕事ができない奴に限って新入りなどには厳しく接していた気がする。

日ごろのうっぷん晴らしか、それとも自分がやられて嫌なことを他人にやるのは楽しいからか?

はたまた自分が利口になったと錯覚するからだろうか?

だが、他人をバカだと決めつけてバカにする前によく考えてみてほしい。

そいつが本当に自分よりバカだとは限らないし、いつまでもバカだとも限らないのだ。

まあ、そんな簡単なことにも頭が及ばないからバカなんだろう。

ずっとバカだと思っていた奴が、実は自分よりずっと有能だったと証明された時のバツの悪さとそれ以降の居心地の悪さと言ったら、たまったもんじゃない。

これも身に覚えがある。

バカにされないバカになるには?

本当にバカなのにバカにされない者もいる。

バカなのにバカにしてはいけないバカとはどんなバカ?

決まってる。

怒らせると怖いバカだ。

前々項で「バカは嫌われたら、おしまいだ」と述べたが、

恐れられるバカは違う。

怒らせたらやばい奴がバカなんだから、その脅威の深刻度は倍増しである。

尊重されるわけでは決してないが、触らぬ神に祟りなしとばかりに、腫れ物に触るように扱われるだろう。

どっちかと言えばぼっちにされていることになるが、バカにされて見下されるよりはマシかもしれない。

とは言え、こういうバカはそもそも平均以上の腕力やケンカ上等の精神力という資質を備えていなければならず、どちらもないならば目指してはならない。

また、あったとしても目指すのは危険だ。

この文章を読んでいる人が、その理由が分からないほどバカではないことを祈ってやまないが。

以上、バカが生きる上で心がけるべきだと思うことについて私なりにまとめてみたが、

他にも忘れてしまった重大なことがあったかもしれないし、

私自身がまだ気づいていない、バカとしてやってはいけないことがあるのかもしれない。

また、私の文章が分かりにくくて矛盾に満ち、参考にならなかったかもしれない。

でも、これは仕方がないことだ。

なぜなら、私もあなたもバカなんだから。

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