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かつて東海道・山陽新幹線の「ひかり」には食堂車があった。
覚えている方も多いことだろう。
この食堂車は1974年、博多駅開業目前に登場して以来、最盛期には全ての「ひかり」に編成されて営業をしていたが、後に新幹線のスピードアップにより、乗車時間が短縮されたと同時に利用率が低下。
これを踏まえたJR各社が不要と判断した結果、2000年に営業を終了した。
この新幹線の食堂車をリアルに見たことがある人の中で、一度はそこで食事をしてみたいと思った方も多いはずだ。
まだ食堂車が全ての0系新幹線の「ひかり」にあったころに小学生だった私もその一人である。
そしてある日、その夢の食堂車で食事するチャンスに恵まれた。
だが、それは2022年の現在になっても忘れられない、無念極まる思い出となった。
あこがれの食堂車
岡山県に母方の伯母一家が住んでおり、盆暮れには新幹線に乗って私の住む岐阜県の祖父母の家に帰省していた。
そして岡山に帰る際、祖父母と私の家はよく新幹線の岐阜羽島駅のホームまで見送りに行ったものだが、たびたび食堂車を伴った「ひかり」によく出くわした。
私が小学生だった時代の新幹線はだいたい0系であり、食堂車は後に登場する100系新幹線に連結された電車二階建ての168形ではなく、36形食堂車である。
「ひかり」が岐阜羽島駅に入ってきて停車し、食堂車が通り過ぎると、何とも言えないいい匂いがしたものだ。
特急列車が好きだった当時の私にとっては問答無用であこがれの車両である。
是が非でもそこで食事をしたいと、しょっちゅう両親にせがんでいた。
しかし、夫婦そろって出不精な両親は、たまにしか行かない家族旅行も100キロ圏内だったし、いつも車を利用していたために食堂車どころか新幹線にもなかなか乗れなかった。
子供心に「大人になってからにしよう」と半ばあきらめかけてもいたが、持続的な強い願いは時に運命をも動かす。
食堂車で食事ができる絶好のチャンスが訪れたのである。
夢の食堂車
それは小学校四年生の春休み、今から37年前の1985年のことだ。
いつも岡山から岐阜に来るだけだった伯母一家が、「たまにはうちに遊びに来て」と誘ってくれたため、私の一家は重い腰を上げて岡山まで新幹線「ひかり」で行くことになったのである。
岐阜羽島駅から岡山駅までは300km以上の距離があり、当時の「ひかり」でも二時間はかかる。
食堂車を利用する時間は十分あるではないか。
両親はあまり乗り気じゃなかったが、だだをこねまくって、当日は食堂車に行くことを約束させることに成功した。
ようやく夢がかなう!
私は伯母の家に行って従兄妹たちに会うよりずっと食堂車の方が楽しみだった。
岡山に向かうその日、岐阜羽島駅までの道中では、二歳年下の弟と、食堂車で何を食おうかそればかり話をしていたものである。
このころから何かと気が合わない弟だったが、食堂車は奴にとっても楽しみだったのだ。
新幹線「ひかり」の自由席に乗ったのは昼前だったから、ちょうど昼食時には食堂車だ。
この日は休日だったはずだったが意外と空いており、我々一家は新幹線の端の方の自由席に席を四人分確保することに成功。
だが、もう居ても立っても居られない私たち兄弟は、席にどっかりと腰を降ろしてゆったりしようとする両親を食堂車へせかした。
真ん中くらいに存在する食堂車は昼時とあって混んでいるかもしれないと思っていたが、自由席同様空いていた。
食堂のスペース手前の方にメニューがあったが、私はとりあえずカレーを食べると決めていたので、そのまま席にまで直行。
弟も付いてきて、まだメニューを見ている両親より先に着席した。
席にもメニューがあり、やっぱりカレーじゃなくて他のにしようかなどと考えたりしていた。
食堂車の飯はどんなもんなんだろう!?
たとえまずかったとしても、恨み言は言うまい。
我が家では外食自体が珍しく、近所のラーメン屋に行くことだけでも一大イベントであったが、私にとっては食堂車での食事は、他のどんな店での外食にも勝る慶事だった。
新幹線の食堂車で飯を食うこと自体に、意義があるからだ。
ああ、もう待ちきれない。
だが、それにしても…。
親父とおっ母がなかなか席に来やしない。
何やってるんだ?
まだ入り口近くのメニューを見て、何ごとか話し合っている。
ウエイトレスのおばさんが我々の席に注文を聞きに近づいてきた時、母親が「ちょっと、ちょっと」と声を出して、我々兄弟を呼んだのが聞こえた。
「ねえ、早う来てや」と私は催促したが、父も母も「こっちにこい」と手招きしているのが目に入った。
何だよ、いったい。
多少イラつきながら両親の元に向かった我々兄弟は、父の口から告げられた一言により、有頂天の極みから奈落の底へ突き落とされた。
冷酷な両親
「昼飯やけどな、岡山駅で食べることにしたで」
はあ!?
「ここで食べたっておいしゅうないて」と母親も助け船を出す。
「いや、ここで食べようよ!」
「岡山の方がずっとおいしいトコいっぱいあるで」
「そうや。こういうトコは高いばっかでおいしくないに決まっとる」
だまされないぞ!!
ここまで来といて、そりゃないだろ!
どうやら両親は、新幹線の食事の高額さにビビったらしいことが当時の私にもわかった。
だが、家計に致命的な打撃を与えるほどではないはずだ。
「食堂車がどういうもんか分かったやろ?だから、もうええやん」
ごまかしているつもりか!入っただけで満足できるわけないだろ!
「ここで食べたい!ここで食べる!!」
「あかんあかん。もう席戻ろか」
両親は抗議する我々兄弟を無情にも力づくで食堂車から退去させ始めた。
小二の弟は大声で泣き出し、小学校四年生の私も泣き出した。
私はせめて食堂車の隣のビュッフェで食べさせてくれと懇願したが、岡山で昼食を食べるという両親の決意は変わらない。
自由席に戻る途中、幼児並みに泣きわめいて駄々をこねた我々小学生の兄弟だったが、
「しつこい!」
「母ちゃんのいうことが聞けへんのか!」
と逆ギレした両親にゲンコツをかまされ、抗議活動は鎮圧されてしまった。
こうして忸怩たる思いのまま岡山駅に到着して、我々一家が昼食に入ったのは、
駅の立ち食いソバ。
食堂車の代替に全く及ばないではないか!
しかし、「文句を言ったらまたゲンコツだぞ」オーラを出す両親にはこれ以上文句は言えず、我々の意向も聞かず一方的に注文されたかけそばをすすらざるを得なかった。
私はこの年齢になるまで、あの時以上にひもじい気持ちでかけそばを食べたことはない。
そんなことがあったから、伯母の家に到着して従兄妹たちに会っても楽しくなかった。
そこに一泊して、次の帰りも新幹線だったが、今度乗ったのは食堂車のない「こだま」。
おまけに行きと違って、客がぎっしりで自由席は空いてやしない。
立ちっぱなしの道中で、両親は
「食堂車はまた今度にしようや」
とかふてくされる我々に言い聞かせていたが、
その「また今度」が永遠に来ることはなかった。
その時、両親は絶対に叶えてくれないに決まっているから、大人になったら絶対に食堂車で食おうと固く決意していたが、その決意を忘れて大人になって、思い出した時には新幹線の食堂車は、廃止されていた。
感謝は感謝、無念は無念
「なあ、何で小四の時、新幹線の食堂車で飯食わしてくれへなんだんや?」
2021年の年末、実家に帰省した際に両親に訊ねた。
この時ばかりではない、小学校時代から高校卒業後に実家を出て今に至るまで、数百回は言っている。
だが、いつも答えは同じだ。
「はあ?そんなことあったかいな?」
「覚えとらんて、そんな昔のコト」
ウソだ。
最初にそれを聞いたのは小五の夏休みだったが、半年前のことを忘れているはずがないのに同じようなことを言っていた。
「俺やったら、ウチの子に食わせたで」
妻子を伴って帰省していた私の弟も口をはさんだ。
「昔のことは忘れた」とよく言う奴だが、あの時の無念は忘れてはいないらしい。
それでも両親は忘れてしまったようなことを言い、なかったことにしようとしている。
両親にはこれまでさんざん苦労をかけさせた自覚はあるし、そこそこ感謝もしている。
だが、あの件だけはいまだに許せない。
一年に一回はあの時の夢を見る。
新幹線「ひかり」の36形食堂車の席に座ってさあ食事しよう、という夢だ。
私自身はまだ子供だったり、もう今の歳になっていたり、親が来なかったり、ウエイトレスが来なかったりいろいろなバージョンを見たが、いつも共通しているのは料理にありつけないことだ。
どんなにうまいものを腹いっぱい食べて苦痛なほど満腹になったとしても、あの時口に入るはずだった料理を出されたら食べるだろう。
あのたった一食の喪失感は30年以上たった今でも忘れられない。
「どうでもええことばっか、いつまでもよう覚えとるな」
「昔っからホンマぐちゃぐちゃしつこいな、アンタは」
年老いた両親には、なんら罪の意識がないようだ。
大人げないのは承知だが、この件を風化させる気はない。
今後も言い続けるし、両親を看取る時は、
「苦労かけてすまんかった。でもあの時食堂車で飯食わしてくれなかったのはいかんだろう」
と一応言うつもりだ。
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