カテゴリー
2021年 K田 いじめ おもしろ カツアゲ ならず者 不良 事件 悲劇 本当のこと

高校デビューした少年 – O農業高校とK田の変容の物語


にほんブログ村

高等学校の中には、素行不良な生徒の占める割合が異様に高い学校がある。

約三十年前の1990年代のことなので現在はどうか知らないが、私の郷里の県立O農業高校がまさにその典型だった。

大学進学率は一ケタどころか小数点第二位で測定不能、その反面で退学率が二ケタ台で出席番号がしょっちゅう若くなるという凄まじさ。

反社会人予備校か出入り自由の少年院としか考えられない環境の高校で、中学時代はおとなしかった生徒も入学すると悪くなり、悪かった生徒はより悪くなる。

真面目な生徒だと無事にそこでの学校生活を送れないからだろう。

逆教育機関と言っても過言でない学校、それがO農業高校だった。

そんな悪名高きO農業高校に、私の出身中学からも何人かの同級生が進学したが、その多くが見事に同校の校風に染まってヤンキー化。

その中には中学時代によくつるんでいたK田もいた。

K田の高校デビュー

中学時代のK田は真面目というか気弱な生徒で、学業成績も破滅的だった。

中学卒業後の進路を聞かれた時に「高校進学」と答えたら、周囲から「爆弾発言」とからかわれたくらいだから、小学校低学年程度の学力を有しているか日本生まれのヒト科でありさえすれば入学できるとまで言われていたO農業高校しかなかったようだ。

そんなK田と私は同じく気弱で、腕力に劣るスクールカーストの底辺に位置することからそこそこウマが合い、中学では一緒であることが多かった。

卒業後、私は一応進学校の県立O西高校に進学したが、それとは対極のO農業高校に入ったK田とは家が比較的近所ということもあって中学時代の関係は続いた。

K田に異変が生じ始めたのは高校に入学してほどなくだった。

やはり入った高校がO農業高校だったからだろう。

彼は坊主頭だったが、心なしか剃り込みを入れているような気がしてきたし、眉毛の形も以前とは違う。

そして会うたびにその剃り込みは深くなり、眉毛も細くなってゆき、変形ズボンを穿いた本格的なヤンキーに変身するのに夏休みまでかからなかった。

外見にリンクして言動も変化。

「どけや、くそガキども!」と声を荒げて小学生を蹴散らすし、タバコを吸うようになったし(銘柄は「エコー」)、私に対する態度も変わってきた。

極悪校O農業高校の生徒であることをなぜか誇りとし、進学率のそこそこ高い普通科高校の生徒を十把一絡げにシャバ僧とバカにし始めていたからだろうか。

K田の口調はだんだんガラが悪くなり、「ジュース買ってこい」だの「タバコ買ってこい」だの私をパシリ扱い。

この時点で友人関係を解消してもよかったが、私自身まだ高校でつるむ友人に乏しかった頃だったために、彼との付き合いはしばらく続いた。

ヤンキーと言えば格好だけではだめで、ある程度ケンカっ早くなければならないことくらい私でも知っている。

彼もいっぱしのヤンキーを気取っていたから、私にO農業高校の恐ろしさを語り、よく学校の内外で誰かとモメたことを自慢するのが好きだった。

そして、私にも「気に食わん奴がおったらぶん殴ったらなあかんぞ」だの「ケンカにガタイも人数も関係あらへん、根性や!」などと忠告。

おそらく覚えたばかりのケンカのやり方や人の殴り方を頼んでもいないのによく教授してくれた。

こっちは誰かを殴ったりしたら退学になりかねない進学校の高校生なのだ。
はっきり言って余計なお世話であった。

K田の試練~生意気な中学生に対して~

そんなK田のヤンキーとしての資質を問われる出来事が私の目の前で起きたのは、その年の夏休み後くらいの休日だった。

その日、私とK田は自転車に乗って中学時代の友達の家に遊びに行った帰り道、前から歩いてくる我々の出身中学の在校生二人に出くわした。

直接面識はないが、二人とも知っている顔だ。

私の二歳下の弟と同学年の、確か名前はT島とS本で、我々が在学中に一年生だったからその時は中学二年生。

部活帰りらしく中学校の体操着姿のため、悪そうな見かけはしていなかったが、どちらも体格が良くて見るからに強そうだった。

それもそのはず、二人とも柔道部に入っていた記憶がある。

高校一年生の我々が自転車で彼らに近づいた時、中学二年生のT島とS本の顔は我々の方、特にK田に向いているような気がした。

そして通り過ぎた後もこちらを見続けている。

ガンをつけているという程ではないが、ニヤニヤしながらバカにしたような顔でだ。

「なんやあいつら?」とK田は自転車を漕ぎつつ、後ろを振り返りながらイラつき始めた。

T島とS本は相変わらずこちらを見ながらヘラヘラして、挑発しているとしか思えない態度である。

K田は二人を睨みながら「やったろか中坊ども!」とうなり始めた。

ケンカする気なのか?相手は中学生とはいえこちらよりガタイが大きい。

しかもあいつら柔道部だぞ。

私はそう懸念したが、K田の怒りはもう制御不能だった。

「てめえらやんのか!?コラ!!」

K田が中学生二人に向けて怒声を発した。

しかしそれは、

彼らから100メートル以上の距離に達してからだった。

そして前を向くと、そのまま自転車を漕いで遠ざかって行った。

時々後ろを振り返りながら、心なしかスピードを上げて。

振り向いて見てみると、遠くのT島は大笑いし、S本は「来てみろよ」とばかりに手招きしていた。

確かK田は「気に食わん奴がおったらぶん殴ったらなあかん」とか「ケンカにガタイも人数も関係あらへん、根性や!」とか私に言ってたはずだ。

そういうのは範で示さなきゃ説得力がないと思うが。

「あいつら殺したる」と、彼らの姿が見えなくなった安全圏でいきり立つK田のヤンキーとしての資質に私の中で疑念が生じ始めた。

それからさすがにバツが悪くなったのか、ケンカについて講釈を垂れなくなったK田だが、彼の本当の試練はその後日にあった。

K田の最後~本物の不良少年に対して~

中学生たちとの一件から一か月ほど後、私とK田はゲームセンターでゲームをしていた。

ケンカの自慢話はしなくなったとはいえ、K田は相変わらず横柄な態度で私に接しており、高校でまともな友達ができ始めた私は彼との関係の解消を考慮し始めていた頃だ。

我々はゲーム機に隣り合って座り、それぞれのゲームに興じていた。

私はゲームセンター版「ゼビウス」を、右隣のK田は「エコー」をくわえて「スターソルジャー」をプレイし、時々ゲーム機の右隅に置いた灰皿に灰を落としていた。

その日の私は絶好調で高得点を重ねて初めてのエリアに突入。

これからが肝心という最中だった。

横からK田が私をつつき「おいおい、あのさ」と話しかけてきた。

その声はいつものガラの悪い命令口調ではなくやたら切迫した弱々しい感じだった。

「何?」私はゲームに熱中してたので顔を上げずに聞き返した。

「あそこにいる奴なんだけど、こっち見てへんか?」

「え?どこの?」

「あの『アフターバーナー』のトコにおる金髪の奴」

そう言われてから、顔を上げて戦闘機ゲーム「アフターバーナー」の方を見たら、いた!確かに金髪のリーゼントでスカジャンを着た少年がこっちを見ている!

90年代初頭の地方都市O市で、未成年で金髪にしているのはグレ方が半端じゃない奴とみなされていた。

実際その金髪少年は相当悪そうで、目つきのヤバさもかなりなものだ。

グレたばかりのK田とは貫禄が違いすぎる。

そんなのがこっちを睨んでいたから私も思わず目を伏せた。

もうゲームどころじゃない。

横のK田も目を伏せており、「なあ、どうしよう?どうしよう?」とこちらを向いたその顔は今にも泣き出しそうだった。

そんなの私に振られても困る!完全に気弱だった中学生時代のK田に戻っている。

「あ、ヤバイこっち来た!」
顔を上げると、その金髪がタバコを吸いながらこちらに近寄ってくるのが見えた。

再び目を伏せてから隣のK田を見ると、彼はより深く顔を伏せて目をきつく閉じ、膝をがくがく震わせていた。

「おい、オメーよぉ」

その声で顔を上げると金髪はK田のゲーム機の右横まで来て、彼の座っているゲーム機を蹴った。

顔を伏せていたK田がビクッとする。

次にタバコの煙をK田の顔に吹きかけた後、おびえるK田の髪をつかんで顔を上げさせ、「オメー見かけん顔やな、どこのモンや?」と凄み始めた。

金髪は前歯が二本欠けていた。

「あの、あの、O農業高校です」と震えながら答えるK田に、「農業ふぜいがナニ偉そうにしとるんじゃ」と言い放つ。

この金髪の本格的不良少年には極悪校O農業高校のブランドも通じない。

「それとよ、オメーさっきからえれぇ調子こいとりゃせんか?おう?」

「いや、そんな…。別に調子こいてないで…、アチイッ!!

金髪に火のついたタバコを顔に押し付けられたK田が悲鳴を上げる。


「ま、ちょっと話あるからツラ貸せや」

そう言うと髪を引っ張ってK田を無理やり立たせた金髪は私を睨んで、「そっちのゴミは失せろ」と出口に向けて顎をしゃくった。

否も応もあるわけがない。

私は一目散にゲームセンターから退散した。

自転車置き場に置いた自分の自転車のカギを、手が震えてうまく外せない私の耳に「オラ!来いや!」という金髪の怒声と、「すいません!」「勘弁してください!」というK田の叫び声が入ってきた。

それが、ヤンキー少年としてのK田を見た最後だった。

K田のその後

その日以降彼からの連絡がなくなり、見殺しにした私もあえて連絡しようとしなかったが、とりあえず殺されてはいなかった。

何週間かした後で学校帰りのK田と不意にばったり出くわしたのだ。

彼は中学時代と同じ丸坊主で眉毛も剃っておらず、学ランも変形ではなくなって普通の高校生の姿になっていたが、私から目をそらしてそそくさと立ち去った。

私との関係は終了したが、奴はすっかり更生したようだ。

いや、ヤンキー生命を絶たれたのではないだろうか?

あの金髪にヤンキーをやるのが嫌になるくらい怖い目にあわされたに違いない。

あの時のK田の、あのおびえ方を目の当たりにした私はそう感じた。

ヤンキー少年、少なくともK田のような中途半端な即席タイプを、形がどうあれ更生させるのは善良な人である必要はないのかもしれない。

悪いことをすることがどれだけ間違っているかを教えるより、どれだけ怖いことかを分からせた方が効果的なのだ。

それを分からせられるのは本当に悪い奴しかいない。

あの金髪のような本物も使いようによっては、O農業高校のような極悪校の生徒を少しはまじめな学生に近づけることができるのではないだろうか。 

関連する記事:

最近の記事:

カテゴリー
2020年 事件 事件簿 昭和 本・雑誌

西成暴動 ~バブル期の日本で起きた大暴動~

今から30年前の1990年、すなわち平成2年の日本はどのようであったか?

そう、まだバブル景気真っただ中だった。

モノは飛ぶように売れ、庶民は財テクに走り、海外旅行に行ってはブランド品あさり。

就職難とも無縁で、誰もが空前の好景気を実感できた時代。

経済の凋落が著しく、失われた30年となることが決定的となりつつある現在の日本と比べると、素晴らしい時代に見えるはずだ。

だが当時を生きていた人々が皆そう思っていたわけではなかった。

特に大阪市西成区北部に位置する通称「あいりん地区」で生きていた日雇い労働者たちは。

日本人が最も幸福だったはずの1990年10月2日に、彼らは大暴動を起こした。

大阪市西成区の通称あいりん地区は釜ヶ崎という旧名でも呼ばれ、日雇い労働の斡旋所があり、労働者向けの簡易宿泊所や飲食店が軒を連ねるドヤ街である。

多くの日雇い労働者が集まるため、中には怪しい人間も交じり、暴力団事務所も多いことから治安が悪いことでも有名な地域だ。

暴動のきっかけは、このあいりん地区を管轄する西成署の刑事課の捜査員が、西成を縄張りとする暴力団から捜査情報の見返りに賄賂を受け取っていたことだった。

この当時はバブル景気真っただ中で日雇い労働者たちも仕事にあぶれることはあまりなかったが、その暴力団は日当をピンハネするなど労働者たちを食いモノにしており、一方の西成署員たちは労働者たちを普段から犯罪者扱いして邪険にしていた。

その憎むべき両者が結託していたことに労働者たちが激怒し、西成署前に押しかける。

「出てこい汚職警官!」「税金ドロボー!」

折しも夕方だったために、仕事明けの労働者たちが西成署の前に続々集まって怒声やヤジを張り上げた。

労働者たちに盾を持った署員や機動隊員が立ちはだかったが、やがて騒動はその警官隊に向かっての投石にエスカレート。

午後八時には、約500人にまで膨れ上がった労働者たちが車や道路に積み上げた自転車に火を着け、本格的な暴動に発展していった。

明けた10月3日、午前中のうちに日雇い仕事にあぶれた労働者ら数百人が集結して警官隊に向けた投石が始まり、各地から応援を得て1500人まで増員された機動隊は放水車まで使った鎮圧に乗り出す。

この当時はデモ隊との衝突が頻発した安保闘争の時代からすでに二十年が経過しており、警察側にも暴徒鎮圧のための経験が不足していため、冷静さを失った隊員たちは制圧のために過剰な暴力を行使する。

だが、暴動は一向に収まる気配はなく、いたるところで車や自転車が放火されて炎上。

道路のど真ん中で、火をつけられたプロパンガスが炎を噴き上げるなど異様な光景が西成で展開された。

暴動三日目となった10月4日。

このころから群衆の中に中学生か高校生の年代の少年が混じるようになる。

労働者の起こした暴動に便乗してひと暴れしようとやって来た不良少年たちで、彼らの出現によって西成暴動は最悪の規模に発展した。

彼らは機動隊に向かって火炎瓶を投げる一方、自動販売機や商店を破壊して略奪を始めたのだ。

この日の夜、暴動はピークに達する。

騒動は西成区ばかりか隣接する浪速区にまで拡大。

車ばかりか阪堺電軌阪堺線・南霞町停留場が放火されて全焼し、翌5日未明までにこうした放火が12件を数えるほど事態は悪化した。

四日目となった5日も小競り合いが続いたが、大阪府警は前日より1000人多い約2500人もの警官を動員して警備体制を強化。

検問や通行止めなどによって過激な行動に出る若者らと群衆を分断し、なんとか大規模な騒動を回避するのに成功した。

この日を境に西成暴動はようやく終息に向かう。

翌6日にも数十人規模の抗議活動は行われていたが、もはや投石や放火などが発生することはなくなり、西成暴動は終結した。

このあいりん地区で起きた暴動はこれが初めてではなく、この1990年の暴動の17年前にも発生しており、通算22回目の暴動だった。

しかしこの第22次西成暴動は被害の程度から、これまでに起きた中で最悪のものだったと言われている。

その後、あいりん地区では1992年(平成4年)10月に第23次、2008年(平成20年)6月にも第24次西成暴動が発生しているが、そこまでの規模には発展していない。

相変わらず日雇い労働者の集まるドヤ街ではあるが、現在では簡易宿泊所の安さに魅かれてやってくる外国人旅行者もおり、しょっちゅう暴動が起きたことから「西成ライオットエール」という危険なネーミングの地ビールまで製造・販売されている。

日雇い労働者の高齢化が進んだからか、あいりん地区から、かつてのような危険な匂いは薄れてきているようだ。

それは平成・令和と時代が移り行くうちに、昭和の毒々しさや荒々しさが失われたということでもある。

現在のあいりん地区には、平成が始まったころまでは残っていた、良くも悪しくも活力があった時代の面影はない。

出典―平成史全記録・毎日新聞出版平成史編集室

今回ご紹介しました「平成史全記録・毎日新聞出版平成史編集室」は、以下のリンクからご購入頂けます!

平成史全記録 [ 毎日新聞出版平成史編集室 ]

価格:3,520円
(2020/8/29 11:59時点)
感想(1件)