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「お母さん!何とかして!」~1992年・奈良県天理市女子短大生誘拐事件~

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。

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1992年11月30日、天理市内のとある寿司店。

金融業を営む森本正成さん(仮名・48歳)と妻の照子さん(仮名・46歳)、小学校五年生の長男の一家三人はすでに店内に入って席についていたが、一向に寿司を注文しようとせずにやきもきしていた。

注文するわけにはいかない。

この店に来るはずの森本家の長女、私立短大一年生の森本知世さん(仮名・19歳)がまだ来ないのだ。

森本家の人々は、この日は家族で食事をしようと決めており、大阪市内の短大に通う知世さんも家族とは別に、学校の帰りに店に来ることになっていた。

だが、その約束した時刻である午後7時は、もうとっくに過ぎている。

この時代に携帯電話はない。

待ち合わせに相手が現れないからといって、今どこにいるか又はいつ来るのか、相手に連絡をとることはできないのだ。

遅れるなら遅れるで、この店にいることは分かっているはずだから、店に電話があってもいいのだがそれも全くない。

「ナンで来(け)えへんのやろ?」

「なんかあったんやろか?」

来るはずの娘が姿を現さないのでは、心配でゆったりと寿司を食べていられるわけがない。

両親は悪い予感がして仕方がなかった。

そして、その予感は的中する。

脅迫電話

森本知世さん(仮名・19歳)

結局知世さんは、寿司屋に現れなかった。

森本家の人々は、仕方なく三人で砂をかむような思いで寿司を食べた後、午後9時には自宅に帰っていた。

そして、9時10分ごろ自宅の電話が鳴る。

娘からのものでは?と直感した母親が急いで電話に出ると、はたして娘の知世さんからだった。

ホッとしたのもつかの間、様子がおかしい。

「お母さん」と一言発してから、泣き声しか聞こえてこないのだ。

「どうしたん?」

呼びかけても泣き続けるばかりである。

「はっきりしいや。何があったん?」

ただ事でないのは明らかだ。

まさか…。

「誘拐された」

母親の照子さんは言葉を失った。

「どこや?どこににおるんや?!」

隣でやり取りを聞いていた父親の正成さんが電話に代わった。

「どこかわからへん~」

電話の向こうで知世さんは激しく泣き始め、もう言葉にならない。

「聞こえたやろ、誘拐したったんや。」

突然男の声に変った。こいつが犯人のようだ。

犯人は立て続けに要件に入った。

「明日までに二億まわし(用意)せい!」

とんでもない野郎である。

森本さんは金融業を営んでおり、そこそこ裕福だったようだが、二億をポンと出せるほどの大金持ちではない。

「二億て…!そなあほな…。よう集められへんわ、そんな金…」

そんな事情など犯人は、お構いなしだった。

犯人「でけへんのやったら、娘死ぬだけやで!」

父親「ちょっと待ってえな、頼むわ!とりあえず500万やったらええけど」

犯人「そないなはした金いらんわ」

父親「あんた鬼か?こっちかて、すぐには無理なんや。とにかく待ってくれって」

犯人「ほうや、わしゃ鬼や。ええから明日までに、二億耳揃えてつくらんかい!」

ここで母親が受話器を取って「お金は用意しますから、何もせんといて!」と絶叫。

だが冷酷な犯人は、次は下の息子もさらうなどと脅し続ける。

言葉からして、犯人は自分たちと同じ奈良の人間、少なくとも関西の人間のようだ。

「お母さん何とかして!!」と、知世さんが電話の向こうで泣き叫ぶのを母親に聞かせた後、警察に言ったら必ず娘を殺すと言って電話が切られた。

「警察に言うな」と言わない誘拐犯はいない。

だからと言って、言われたとおりにするわけにはいかない森本夫妻は、知人の警察官を通じて奈良県警天理署に通報した。

二日目

天理署

通報により森本家に駆け付けた警察は、次の電話に備えて逆探知の準備を開始。

翌12月1日、奈良県警は天理署に「身代金目的誘拐事件捜査本部」を設置し、報道各社は人質の安全を考えて、事件解決まで報道を控える報道協定を結んだ。

そして森本夫妻は、犯人からの電話を待つ一方で、預金を解約するなどして、約2000万円の資金を集めていた。

この日の日中は犯人からの連絡は全くなく、ただ時間だけが過ぎるのを見守る状態が続く。

やがて日が沈んだ夕方6時、唐突に黒いレクサスに乗った男が、森本家を訪ねてきた。

それは、正成さんの顔見知りの石川卓己(仮名・27歳)という男である。

石川は不動産仲介業の会社を経営しており、仕事を通じてつい最近知り合ったばかりだ。

そして森本家を訪ねた要件は、ゴルフ場予約の代行の依頼だった。

のんきな男である。

こっちは愛娘をさらわれて、ゴルフどころではないのだ。

「森本はん、顔色悪いんとちゃいますか?」

などと言ってきたりして、そんなに長い付き合いでもないのになれなれしい。

かと言って娘が誘拐されているとも言えない正成さんは「今ちょっと立て込んでいるから」などとごまかして断ると、「そら、えろうすんませんでした」と、あっさりと引き下がって車に乗り込んで立ち去った。

その車には、もう一人見知らぬ若い男が乗っていた。

石川が去ってからほどない午後6時48分、犯人からの二回目の連絡が入る。

これには、母親の照子さんが対応した。

犯人「金どうなっとる?」

母親「今うちの人が集めてます」

犯人「それと、さっきの黒い車はなんや?警察やろ!?」

先ほど訪ねてきた石川を、警察官と思ったらしい。

そして、こちらを見張っていたようだ。

母親「ちゃいますよ!あれは主人の友達なんです」

犯人「約束破ったんと違うんか?コラ!」

母親「ホンマに違うんです!信じてください!」

最悪だ。

空気の読めない訪問者のおかげで、犯人は態度を硬化させてしまった。

次いで母親は「娘の声聞かせてください!」と懇願したが、電話は無情にも切られた。

通話時間は二分間で、逆探知には足りない。

しかし7時15分、犯人から再び連絡が来る。

犯人も金を手に入れたいのだ。

「お金ですけど、今、二千万あります」

今度も母親が出たが、要求金額の十分の一しかないことで犯人は「二億言うたやろ、そないなはした金いらん!」「家も車も売らんかい!」などとオラついた。

そして「さっき友達や言うとった黒い車の奴呼べや。警察とちゃうこと証明せい!」と要求。

また、二億円には遠く及ばないが二千万で妥協したらしく、「その友達に金を持たせてやな、お前んとこの親父の車に乗せい。三十分以内や」と一方的に迫って電話が切れた。

第三者を、現金の受け渡しに使おうという腹のようだ。

受け渡し場所などは、まずそれからということだろう。

だが正成さんは、犯人の言うところの友達である石川に連絡を取らなかった。

そして、三十分たった7時48分に、三度目の電話か来る。

犯人「約束守らんかい!さっきの奴早う呼べや!」

母親「ウチも行ったらあきまへんか?」

犯人「あかん!その友達たらいう奴だけや!」

犯人はやたらと石川にこだわり、一緒に行くと言い張る母親の頼みを拒絶して電話を切った。

午後10時24分、今度は知世さんの声で電話が入った。

知世「お母さん…早うして…」

母親「大丈夫。何とかしたるから、気強く持ちや」

知世「ウチもうダメ…殺される…」

母親「そないなこと言うたらあかん!なあ…もしもし?もしもし?」

今度も涙声で、かなり参っている様子である。

この日の電話はこれで最後であったが、警察は逆探知する以外にも捜査を進めており、その手は犯人に迫りつつあった。

決死の電話

12月2日になって、事件は三日目となる。

警察は、昨日夕方に森本家を訪問したレクサスの男、石川卓己の身元を洗い始めていた。

捜査関係者は唐突の訪問から、何やら怪しいにおいをかぎ取っていたし、犯人がその石川にこだわって金を運ばせようとしていることから、事件に関係している可能性が高いと見始めていたのだ。

そして、これまで泣いてばかりだった知世嬢も、この日の午後2時、思い切った行動に出る。

犯人が寝入ったスキをついて、内緒で森本家に電話してきたのだ。

知世「もしもし、お母さん?ウチ、今、内緒で電話しとんねん」

母親「ホンマに?犯人はその辺におらへん?」

知世「昼寝してはる」

母親「ほんなら、起こさんよう小声で話しいや。犯人は何人おるの?」

知世「わからへん。目隠しされとる。ずっと縛られとった」

母親「ひどいことされとらん?抵抗したらあかんよ」

知世「うん、それと、警察に言うてない?お金取れへなんだら、殺す言われとるの」

母親「大丈夫。何とかしたるから。もうちょっとの辛抱や」

知世「あ、起きたかもしれへん。切る」

こうして電話が切られたが、時間にして13分間。

知世嬢の決死の電話で森本家に張り込んでいた警察は、ついに逆探知に成功、発信源は奈良県磯城郡田原本町内であることを突き止める。

そしてその田原本町内には、石川卓己の経営する不動産会社『D開発』があった。

石川を最有力の容疑者と断定した奈良県警は、『D開発』を張り込み始める。

捜査は、大詰めを迎えようとしていた。

午後10時42分、現金の受け渡し場所を伝える犯人からの電話が入る。

今度は知世さんに電話をかけさせ、その後に犯人に替わった。

「とりあえずやな、11時15分に家を出え。親父の車でやぞ。そんで、郡山インターから…」

「もっとゆっくり言うてください。メモしとりますんで」

今度の逆探知は地点を絞り込んでいたので、どこからかけられているか完全に判明した。

場所は、まごうことなき『D開発』である。

張り込んでいた捜査員に犯人確保と人質救出の指令が下り、『D開発』に警官が突入、案の定犯人であった石川卓己を『D開発』の事務所内で逮捕した。

D開発

突入時、石川は森本家への電話をかけている最中であり、知世さんはその向かいのソファで、目隠しをされたままぐったりしていたから言い逃れはできない。

奈良県警は突入の前に、『D開発』から出てきた男を参考人として確保していたが、その男は大谷靖(仮名・20歳)という石川の会社の従業員で、共犯者でもあったことがほどなくしてわかる。

それは石川が森本家を車で訪問した際に、同乗していた男であった。

53時間ぶりに解放された知世さんは、突入した警官隊の中にいた女性警官に抱きかかえられて外に出てきたが、相当怖かったのだろう。

それまで溜めていたものを吐き出すかのように、頼もしい同性の胸で泣き続けた。

解放直後の知世さん

一方、犯人の石川は被害者宅に第三者を装って身代金を奪うという奇策を弄したが、それがかえってあだとなる形となったのだ。

犯行の手口と知世さんのその後

犯人の石川卓己と大谷靖
犯人の石川卓己と大谷靖

 

主犯である石川卓己は、もともと不動産のトップセールスマンで、会社を辞めてから『D開発』を創業。

しかし、事件の前年のバブル崩壊のあおりを受けて業績が傾き、二千万の負債を抱えて資金繰りが悪化していた。

そこで、金融業を営んで金を持っていそうな森本さんの娘を誘拐するという犯罪に手を染めてしまったのだが、森本さんに何度か借金を申し込んで断られたこともあり、その個人的な恨みも犯行の動機になった可能性が高い。

石川は従業員である大谷を引き込んで、誘拐を決行する三日前から知世さんを尾行していた。

知世さん本人によると、事件前に何度か後をつけられたり、見られたりしている気がしていたらしい。

近鉄二階堂駅

そして、事件当日の11月30日、最寄り駅の近鉄二階堂駅で、石川は白いレンタカーに乗って待ち伏せ、学校から帰ってきた知世さんを発見。

「ちょっと、お父さんのことで話がありまして、この書類をちょっと見ていただきたいんですよ」

などと声を掛けたところ、彼女は不注意にも車に乗り込んでしまった。

どう考えても、おかしいと思わなかったのだろうか?

車内に乗せてしまえば、こっちのものだ。

石川はナイフで知世さんを脅して粘着テープで後ろ手に縛りあげると、あちこち連れまわした後『D開発』に連れ込んで監禁。

脅迫電話は石川がかけ、大谷は監視役だった。

2日に、スキをついて電話をかけてきた際以降は目隠しだけだったが、それまで長時間縛られっぱなしだったため、彼女の手にはアザができていた。

知世さんは、手にアザができた以外にケガもなく無事生還したが、拉致されて縛られたうえに、命の危険にさらされて、あっけらかんとしていられるわけがない。

無神経にも、両親とともに記者会見に引っ張り出された知世さんは、終始顔を引きつらせっぱなしであったし、その後しばらくPTSDに苦しんだという。

記者会見

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冒険小僧たちを待っていたパキスタン犯罪組織の熱烈歓迎 ~91年・パキスタン早大生誘拐事件~

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1991年3月、パキスタンを流れるインダス川をカヌーで下る旅行をしていた早稲田大学の「フロンティアボートクラブ」に所属する三人の早稲田大学の学生と現地ガイド一名が姿を消した。

早大生たちは春休みを利用して、インダス川とカブール川の合流地点であるアトックからアラビア海に面した同川河口のカラチまで、約1500㎞を三週間ほどかけてカヌーで漕ぎぬくという大冒険を計画。

2月中旬にパキスタンの首都イスラマバードに到着後、物資調達や訓練を経て3月4日にアトックを出発したのだが、カラチに到着予定の同月28日になっても姿を現さず、安否が心配されていた。

やがて4月になり、春休みが終わろうとしていた同月4日に、現地の日本大使館を経由して、外務省から最悪の事態の発生が公表される。

彼らは現地の犯罪組織に誘拐され、組織から多額の身代金と獄中の幹部の釈放を要求されていたのだ。

だが、これは必然的な結末でもあった。

早大生たちが通過する予定だった場所は、誘拐事件が年間千数百件発生する危険地帯であり、彼らが出発前の情報収集のために通っていた現地の大使館の職員からは、中止するように説得されてもいたからだ。

彼らは、幸運にも生還することになるのだが、その平和ボケの極みともいうべき愚行は、その後大いに非難を浴びることとなった。

ヌケまくった冒険計画

当初のメンバー

誘拐された早稲田大学の学生は、同大学教育学部の大浜修一(仮名・当時20歳)、教育学部の斎藤実(仮名・当時19歳)、政経学部の高原大志(仮名・当時20歳)の三人である。

彼らが所属する早稲田大学の「フロンティアボートクラブ」は、ラフティングというゴムボートでの激流下りを中心に活動しており、1967年の設立以降インドのガンジス川やタイのメナム川を下ったり、ゴムボートの大会では四回優勝するなど伝統も実績も有したサークルだ。

インダス川

そんな気合いの入ったサークルに所属していた大浜たちだったからこそ、インダス川の川下りという大それた冒険を実行に移したのだが、その準備と見通しはあまりにずさんだった。

それは、川下りに出発する前の早大生たちに現地で出会った日本人女性ジャーナリストの証言によって明らかになる。

1991年の2月中旬、取材のためにパキスタンの首都イスラマバードを訪れた同ジャーナリストは、パキスタン人の夫を持つ日本人女性が経営する宿にチェックイン。

その宿に、たまたま誘拐されることになる早大生たちが宿泊しており、他の宿泊者らも交えて彼らと話をするようになった。

一見して頼りなさそうな青年たちだという印象を持った彼女だったが、話していて仰天したのが彼らのやろうとしていたインダス川の川下りの計画だった。

それは冒険というより、自殺行為に近い暴挙だと思ったからだ。

彼らが行こうとしているインダス川のうち、下流のシンド州流域は、日本より総じて治安の悪いパキスタンの中でも指折りの危険地帯であり、自動小銃などで重武装した「ダコイト」と呼ばれる犯罪集団が60団体以上跋扈し、誘拐や強盗事件が横行する現地の人間ですら恐れる場所なのである。

彼らはそのことを全く知らず、どんなレベルの危険か、全く想像がつかない様子だったという。

おまけに服装も襲ってくださいとばかりに派手な新品であり、インダス川の航行には、パキスタン観光省の許可証が必要であることも知らなかった。

外見を大きく上回る大甘ぶりである。

この時点で、後に誘拐されることになる三人以外にも一緒に川下りをするはずだった教育学部の臼井誠二(仮名・当時20歳)がいたが、臼井は、この話を聞いて賢明にも計画の中止を主張。

だが「逃げんのか?」「ここまで来たら行くしかねえだろ」「危険な方がスリリングじゃねえか」と、他のバカ三人が耳を貸さず、結局臼井だけが断念して日本に帰国することになった。

そして彼らは、現地の治安について無知だっただけではない。

物資の補給についての見通しも甘く、辺鄙で商店など一軒もない流域が多いにもかかわらず、十分な食料を調達していなかった。

また彼らが、これから始まる冒険に備えてトレーニングをしているところも女性ジャーナリストは見ていたが、普段から鍛えていないのが見え見えだったし、ゴムボートを専門としている彼らは、カヌーの漕ぎ方があまりにもぎこちなかったらしい。

かように大浜たちは準備も計画もあまりに痛々しかったが、腐っても天下の早稲田大学の名門サークル「フロンティアボートクラブ」所属の学生である。

今回の川下りに際して、そのブランド力を利用して光学機器メーカーのニコンや出版社である集英社を抜け目なくスポンサーにつけ、機材などを援助してもらっていた。

そのためにも、後には引けないという思いがあったのかもしれない。

だとしても、絶対するべきではなかった。

イスラマバードでの滞在中、自殺行為だと確信していた宿の女主人とジャーナリストは、あの手この手で出発を断念させようとしたし、情報収集のために再三訪れた日本大使館の職員にも、中止するように説得されていた。

だがこの愚行は、パキスタン観光省が渋々ながらも許可証を出してしまったこともあって強行される。

そして、この「冒険ごっこ」はスポンサーになってくれた二社に対するものより、はるかに大きな迷惑を日本・パキスタン両国政府にかけることになったのだ。

シンド州で待っていた案の定の展開

マップ

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アトックの場所

臼井が帰国してしまい三人となったが、早大生たちは現地ガイド一名も加えた四人で、予定通りイスラマバードから近いパンジャーブ州アトックを3月4日に出発した。

一行は当初順調に川を下って南北に長いパンジャーブ州を南下。

途中、パキスタン警察の検問を何度か受けるが、観光省の許可証があるので、それも難なく通過した。

夜になると、岸辺にカヌーをつけてテントを張って宿営地としながらシンド州に入ったのは3月16日。

コンピューターの画面のスクリーンショット

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グッドゥ

このシンド州に入ってすぐにグッドゥ(Guddu)という街があり、彼らはそこを停泊地としてレストハウスに宿泊した。

地図上で見たら目的地のカラチまではあとわずかだが、ここからが厄介である。

なぜなら、このシンド州のインダス川流域こそ、犯罪組織ダコイトが出没する危険地帯だからだ。

とはいえ、彼らが泊ったレストハウスの主人は非常にフレンドリーで、はるか遠方の日本からやってきた若者たちを大歓迎。

しかも彼らがこれから向かう先を知るや、心配してダコイトが出没しない安全なルートをこと細かく教えてくれた。

親切な人だ!そして、さすが地元の人間!

よそ者の大浜たちはそのルートを取ることを即決し、明日からの冒険に備えて久々のベッドに入った。

しかし、彼らはすでにこの時点で、ダコイトに捕捉されていた。

どの国でもそうだが、裏社会の組織というものは、強大な情報網を有している。

パキスタンのダコイトも、ご多分に漏れずそれを完備していた。

誘拐や強盗のターゲットを探知するために、そこら中にシンパがおり、彼らのもたらす情報は、逐一構成員の元に届けられていたのだ。

そして、その情報網の一角を、このレストハウスの主人は担っていた。

主人は、金持ち国日本からの最上級のカモの出現と、その行先を迷わず自身の所属する組織に報告。

しかも、安全だと称して早大生たちに教えたルートは、ダコイトが待ち受けるのに都合のよい場所であり、それも併せて伝えたことは言うまでもない。

翌日、グッドゥを出発して、馬鹿正直にもダコイトのシンパの提示した水路を進んだ一行は、まんまと網にかかり、準備万端待ち構えていたダコイトの大歓迎を受ける。

それは、グッドゥを離れて一時間ほどのことだった。

左岸から自動火器の連射音が聞こえたかと思ったら、うち何発かが至近をかすめたのだ。

「ヤバい!!」

早大生らは、たまらず右岸へカヌーを漕いで逃げたが、そこにもダコイトの一員と思われる者たちが、ショットガンを構えて待ち構えていた。

手慣れた連係プレーである。

すっかり腰を抜かした一行は、抵抗どころか逃走も断念してホールドアップ。

ダコイトに捕獲されてしまう。

ちなみに、彼らが捕まった地点は観光省に許可されたルートから大幅に外れていた。

こうして、インダス川の川下りより、はるかにスリリングで生きた心地すらしない日々が始まった。

最上級人質

ダコイトに捕まった早大生たちは、インダス川のほとりの森の中にある掘っ立て小屋に連行された。

アジトのひとつで、さらった人間を監禁するための施設である。

このような拠点は他にもあり、その後監禁場所が数回変わったという。

とはいえ、さらった人間の身体の一部を切り取ったり、殺すことも平気だと恐れられるダコイトだが、大浜たちに対する待遇は、そんなに悪くなかった。

朝昼晩ちゃんと食事を出してくれたし(むろんカレー)、歯ブラシやトイレットペーパーなどの生活必需品も支給され、暴行を受けることもなかったらしい。

また、鎖でつながれたり閉じ込められたりも一切なく、監視付きだが近所を散歩することもできた。

彼らは「松竹梅」のうち、間違いなく最上級の「松」の部類に入る人質だったからだ。

まだ金持ち国だったころの日本から来た日本人だから、たんまり身代金が見込める。

交渉がまとまるまで、死なせてはならない。

ゲストに近い人質であり、体調を崩して体重が落ちることもなかった。

一方で「松竹梅」のうち、「梅」にも入らないとみなされると、こうはいかなかったようだ。

ここには早大生以外にも、他の場所でダコイトに捕まった一般のパキスタン人たちが何人かいたが、人質のランクとしては序の口とみなされたらしく、足かせをはめられてムチやこん棒などで、さんざん暴行を加えられていた。

これが、ダコイトたちによる本来の人質の扱い方であったのであろう。

また、それを大浜たちに見せつけることで、恐怖心を植え付ける効果もあったようだ。

そして、ゲストのように扱いながらも、絶妙のタイミングで早大生たちを「身代金の支払いが遅れたら殺すからな」と脅したりして、巧みに心を折って自分たちのコントロールに置く。

本当かどうかは分からないが、冒険家を自称する彼らは、このダコイトのアジトから脱出する計画を練っていたらしいが、常に銃を持った手下たちが抜け目なく見張っていたために、断念したという。

計画性を著しく欠いていた彼らだったが、自分たちがインディージョーンズではないことくらいは分かっていたのだ。

こんな生きた心地のしない生活がいつまで続くのか?と思った早大生たちだったが、捕まってから六日後の3月22日、三人のうち、高原大志だけが解放される。

ダコイトの要求を、日本大使館に伝えさせるためだ。

後に判明したことだが、日本大使館に早大生を誘拐したことを手紙で知らせたのに何のアクションもなく(郵便事情が悪くて届いていなかった)、そのために、致し方なくメッセンジャーとして選んだらしい。

高原は、その足でパンジャーブ州へ向かって、翌23日に同州内の地方都市から日本大使館に電話し、迎えに来た大使館員に保護された。

イスラマバードの日本大使館は、翌月の4月4日に、誘拐事件発生を公表した。

人質解放交渉

外務省は4月4日に、早稲田大学の学生三人が誘拐されたと発表したが、ほどなくして、高原大志が解放されたことを補足。

高原は、残る二人の解放交渉のために必要とみなされたために現地に残る。

この頃には、パキスタンのシンド州政府を中心に、人質解放のための行動は起こされていた。

州政府は対策本部を州内の都市サッカルに設け、地元の有力者を仲介者に立てて早大生をさらったダコイトの組織と交渉を始めた一方で、5日には特殊部隊を投入して、強行救出作戦を行ってダコイトのアジトを強襲するなど、硬軟織り交ぜた対策で臨む。

文字の書かれた紙

自動的に生成された説明

犯人側の要求は身代金1000万ルピー(当時のレートで6千万)と投獄されている仲間の釈放という法外なものであったため、交渉は紛糾。

早大生たちがいる場所は、シンド州と隣のバルーチスターン州の州境あたりにいるのではと思われたが、強行作戦を続行し続ければ人質に危害が及びかねない。

そのために交渉による解決が図られ、仲介者を介しての人質の解放条件などの交渉は続いた。

4月12日には、犯人側との合意に達したと地元警察が発表し、人質の解放も近いと思われたが、その二日後に解放されたのはパキスタン人のガイドのみ。

ガイドは「警察が動いたら人質を殺す」というメッセージを持たされていた。

その後、犯人側が態度を硬化させて、交渉が中断するなど暗雲が立ち込めた時期もあったものの、粘り強い交渉を続けた結果、残る早大生二人の解放への道筋は整ってきてはいた。

このころまでに多くのパキスタン軍・警察関係者が動員され、日本人が誘拐されたことも地元で大きく報じられるようになっており、20日には、当時のパキスタン首相ナワーズ・シャリーフが「パキスタンに汚名をもたらした事件の解決に全力を挙げる」と記者会見で異例の声明を発表。

パキスタン政府としては、不手際を犯して最大のODA供与国・日本との関係を悪化させるわけにはいかなかったのだ。

そして誘拐されてから44日目の4月30日、最終的な合意をしたダコイトは二人を解放した。

解放された二人

交渉は主にパキスタン側が引き受けていたために、その合意に至った条件の詳細な内容は公表されていない。

だが、パキスタン側は否定しているとはいえ、100万ルピー(600万円)ほどの現金が支払われたとの見方がされている。

イタい冒険者たちの帰国

解放された早大生二人は、解放現場のシンド州インダス川流域から車で、川下りの目的地だったカラチに到着。

在カラチ総領事館に入ってから、シンド州警察の事情聴取や健康チェックなどを受けた後、先に解放されていた高原とともに、5月4日に日本に帰国する。

身内や大学のサークル仲間及び関係者らはもちろん安心したが、世間は彼らを無謀で軽率な行動をして、日本・パキスタン両国政府に迷惑をかけたと批判的な見方が一般的だった。

記者会見では、ねぎらいの言葉よりも厳しい質問が多く、三人は『関係者に大変な迷惑をかけ、反省している』『身代金は払われていないと聞いているが、もし払われていたら働いて返す』と、神妙な面持ちで答えて頭を下げた。

記者会見する三人

だが、本当に心の底から反省していたかは疑わしいと世論は見ていた。

「悪気があってやったわけじゃないのに何で?」という怒られた時の子供のような顔をしているように世の人々の目には映っていたのだ。

早大生の行動に批判的な報道が多かったし、帰国前、彼らはカラチの総領事館でマスコミに『我々がやろうとしたことを理解してほしい』など書いたメモを渡したことも新聞で報道されたりと、その無責任さを糾弾する空気も作り出されていたのが大きい。

彼ら早大生が乗っていた飛行機には偶然、後にアフガニスタンで医療活動や用水路建設で活躍することになる医師・中村哲氏が乗っており、彼らの態度を見続けていた中村氏は、後に新聞記事で『空港での賑々しい記者会見で英雄気取りの態度に、軽蔑の思いで唾の一つでもかけたくなったものである』と憤激。

『パキスタン政府の面目を実質上潰し、日本の恥をふりまいて、意気揚々と帰国した』とまで罵倒している。

中村哲氏

さらに、記者会見での『これからも川下りを続けるか?』という質問に対して、天然ボケと受け取られるような言葉を吐いて世間を完全に敵に回す。

『どこが悪かったかを、しばらく考えて決断したい』などと、人によっては「これにめげずに冒険を続ける」とも解釈できる発言をしてしまったのだ。

それによって、彼らはさまざまなバッシングを受けることになってしまった。

悪気があってやったわけではないのは事実だろうが、計画性のなさと、見通しが甘すぎたのも事実である。

20歳くらいの年代ならば、このような経験と思慮のなさゆえに失敗することは十分ありうるが、彼らはそれを海外でやってしまい、結果的に国際的な大騒動に発展してしまったのだ。

誰にでもある若さゆえの過ちの代償は、人によって、或いは場合や状況によっては、とてつもなく大きなものとなりうる。

バッシングを受けた日々は、ダコイトに監禁されることには及ばないだろうが、耐え難い苦痛だったことだろう。

やがて月日は流れて、世間の早大生たちへの怒りも冷めてゆき、彼らも誰にも知られることなく卒業して社会に出た。

事件が全く語られなくなった現在、誘拐された早大生の一人だった大浜修一は、フリーランスのカメラマンとなって活躍している。

卒業後は某出版社に就職し、専属のカメラマンを経てから独立したらしい。

自分たちを叩いたマスコミの世界に、果敢に入っていったのである。

若き頃にパキスタンでは大失敗したが、少なくとも彼は、日本国内において冒険を続けていたといえるのではなかろうか。

出典元―読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、週刊文春

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西成暴動 ~バブル期の日本で起きた大暴動~

今から30年前の1990年、すなわち平成2年の日本はどのようであったか?

そう、まだバブル景気真っただ中だった。

モノは飛ぶように売れ、庶民は財テクに走り、海外旅行に行ってはブランド品あさり。

就職難とも無縁で、誰もが空前の好景気を実感できた時代。

経済の凋落が著しく、失われた30年となることが決定的となりつつある現在の日本と比べると、素晴らしい時代に見えるはずだ。

だが当時を生きていた人々が皆そう思っていたわけではなかった。

特に大阪市西成区北部に位置する通称「あいりん地区」で生きていた日雇い労働者たちは。

日本人が最も幸福だったはずの1990年10月2日に、彼らは大暴動を起こした。

大阪市西成区の通称あいりん地区は釜ヶ崎という旧名でも呼ばれ、日雇い労働の斡旋所があり、労働者向けの簡易宿泊所や飲食店が軒を連ねるドヤ街である。

多くの日雇い労働者が集まるため、中には怪しい人間も交じり、暴力団事務所も多いことから治安が悪いことでも有名な地域だ。

暴動のきっかけは、このあいりん地区を管轄する西成署の刑事課の捜査員が、西成を縄張りとする暴力団から捜査情報の見返りに賄賂を受け取っていたことだった。

この当時はバブル景気真っただ中で日雇い労働者たちも仕事にあぶれることはあまりなかったが、その暴力団は日当をピンハネするなど労働者たちを食いモノにしており、一方の西成署員たちは労働者たちを普段から犯罪者扱いして邪険にしていた。

その憎むべき両者が結託していたことに労働者たちが激怒し、西成署前に押しかける。

「出てこい汚職警官!」「税金ドロボー!」

折しも夕方だったために、仕事明けの労働者たちが西成署の前に続々集まって怒声やヤジを張り上げた。

労働者たちに盾を持った署員や機動隊員が立ちはだかったが、やがて騒動はその警官隊に向かっての投石にエスカレート。

午後八時には、約500人にまで膨れ上がった労働者たちが車や道路に積み上げた自転車に火を着け、本格的な暴動に発展していった。

明けた10月3日、午前中のうちに日雇い仕事にあぶれた労働者ら数百人が集結して警官隊に向けた投石が始まり、各地から応援を得て1500人まで増員された機動隊は放水車まで使った鎮圧に乗り出す。

この当時はデモ隊との衝突が頻発した安保闘争の時代からすでに二十年が経過しており、警察側にも暴徒鎮圧のための経験が不足していため、冷静さを失った隊員たちは制圧のために過剰な暴力を行使する。

だが、暴動は一向に収まる気配はなく、いたるところで車や自転車が放火されて炎上。

道路のど真ん中で、火をつけられたプロパンガスが炎を噴き上げるなど異様な光景が西成で展開された。

暴動三日目となった10月4日。

このころから群衆の中に中学生か高校生の年代の少年が混じるようになる。

労働者の起こした暴動に便乗してひと暴れしようとやって来た不良少年たちで、彼らの出現によって西成暴動は最悪の規模に発展した。

彼らは機動隊に向かって火炎瓶を投げる一方、自動販売機や商店を破壊して略奪を始めたのだ。

この日の夜、暴動はピークに達する。

騒動は西成区ばかりか隣接する浪速区にまで拡大。

車ばかりか阪堺電軌阪堺線・南霞町停留場が放火されて全焼し、翌5日未明までにこうした放火が12件を数えるほど事態は悪化した。

四日目となった5日も小競り合いが続いたが、大阪府警は前日より1000人多い約2500人もの警官を動員して警備体制を強化。

検問や通行止めなどによって過激な行動に出る若者らと群衆を分断し、なんとか大規模な騒動を回避するのに成功した。

この日を境に西成暴動はようやく終息に向かう。

翌6日にも数十人規模の抗議活動は行われていたが、もはや投石や放火などが発生することはなくなり、西成暴動は終結した。

このあいりん地区で起きた暴動はこれが初めてではなく、この1990年の暴動の17年前にも発生しており、通算22回目の暴動だった。

しかしこの第22次西成暴動は被害の程度から、これまでに起きた中で最悪のものだったと言われている。

その後、あいりん地区では1992年(平成4年)10月に第23次、2008年(平成20年)6月にも第24次西成暴動が発生しているが、そこまでの規模には発展していない。

相変わらず日雇い労働者の集まるドヤ街ではあるが、現在では簡易宿泊所の安さに魅かれてやってくる外国人旅行者もおり、しょっちゅう暴動が起きたことから「西成ライオットエール」という危険なネーミングの地ビールまで製造・販売されている。

日雇い労働者の高齢化が進んだからか、あいりん地区から、かつてのような危険な匂いは薄れてきているようだ。

それは平成・令和と時代が移り行くうちに、昭和の毒々しさや荒々しさが失われたということでもある。

現在のあいりん地区には、平成が始まったころまでは残っていた、良くも悪しくも活力があった時代の面影はない。

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