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浜田省吾 – 聖地巡礼情報 –

2022年08月05日更新

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浜田省吾の大ファンです。

浜田省吾の住んでいたところは、どこでも行ってみたいと思い、広島に行く度に聖地巡礼してます。

自分の聖地巡礼のために、いろいろと情報を集めています。

ちなみに、こちらの記事で、私が実際に行ったところを公開しています。広島に行く度に更新してます。

2022年5月に、新たな聖地巡礼で北鎌倉へ行ってきました。「紫陽花のうた」の歌の舞台ですね。北鎌倉への聖地巡礼のブログも追加しました。

浜田省吾

1952年12月29日

広島県竹原市で生まれる

浜田省吾生家: 広島県竹原市港町2丁目7番池2号

3歳から

御調郡向島町岩子島(現尾道市)

佐伯郡廿日市町宮内

五日市町(現広島佐伯区)

広島市元宇品(現南区元宇品)

と広島県内で転校を繰り返す。引越しは、18歳までに20近くとか。

9歳の時

江田島の海沿いの町、鷲部に移居。

♪海辺の田舎町〜10才のころラジオから〜

浜田省吾が昔通っていた小学校は、今は図書館になっています。

13歳の時

呉市汐見町に転居

呉市立二河中学に転校

広島県立呉三津田高校に入学

以降は高校卒業まで呉市で育った。

♪この町のメインストリートわずか数百メートル(れんがどおり)、さびれた映画館(呉シネマ(現ポポロシアター))

♪15の時〜通りのウィンドウに〜飾ってあった〜ギターを見た時〜(楽器店&レコード店の公声堂)

大学受験に失敗後

大竹市に転居。

♪溶けたタールパルプの匂いの

♪丘の上幾つもの〜工業地帯の向こう沈んでいく(2号線沿いに立ち並ぶ石油コンビナート・紙パルプ・化学繊維工場)

そして予備校生活

♪予備校の湿っぽい廊下で〜あの娘を見つけた〜(英数学館(現 並木学園=高校)は、広島老舗の予備校)

♪放課後の図書館のロビーで〜(予備校から一番近い市役所の図書館)

  • 予備校(現 並木学園)広島市中区

予備校に行かずにライブハウスFIVEに通っていた(中央通り)。

今後行ってみたいところ

今まで、浜田省吾の住んでいたいろんなところへ行ってますが、歌の舞台になっているところが中心でした。

それ以外にもいろいろと調べてみると情報がありますので、今後は、是非そちらを訪問してみたいと思います。

私の今後の行きたいところのメモです。新しい情報を見つけては、アップデートしています。自分用のメモとして。

尾道市

〒722-0072 広島県尾道市向島町岩子島1306−1

地図は尾道市岩子島農業構造改善センター(旧岩子島小学校)

尾道に住んでいたことまでは知っていましたが、場所までは分かりませんでした。次回の広島訪問時に時間ができたら、再度、尾道へ行ってみたいと思います。再び、尾道で尾道ラーメンを食べてきます。

小学校2〜3年生の時に通った元宇品小学校

場所は広島の最南端、元宇品(宇品島)

「広島の一番海岸べりにひょっこりひょうたん島みたいな島があって、橋で結ばれてるんですけど、その島の丘の上にある学校で・・・」

元宇品の小学校にも通っていたのだとか。小学校は江田島だけかと思ってました。

浜田省吾が広島でライブをやる時は、プリンスホテルに泊まるらしいのですが、昔住んでたところのすぐそばだったからなのかも知れませんね。今度、広島にいく時は、私もプリンスホテルに泊まってみることにします。

竹原市

「西に歩いて2〜3分行くと、「長建寺」というお寺があります。なんでもここの境内で省吾さんは遊んでいたそうです」とのことです。

竹原には、浜田省吾の生家があるということで行ってきましたが、当時、このお寺の存在は知りませんでした。次回、竹原を訪問の際には、ぜひ行ってみたいと思います。

2階からビートルズの曲を流してもらった同級生のせっちゃん家

浜田省吾の同級生のせっちゃんの家も、見に行ってみたいです。これも、次回の広島訪問時の目標です。

これの場所をずっと探していたのですが見つけました。

江田島の省吾が通っていた小学校(現図書館)のもう少し北側です。次回の江田島には言ってみます。

すぐ近くにあの青木病院もありますね。

喫茶サントス

浜田省吾の同級生がやっている喫茶店です。本人も通っていたらしいです。この喫茶店に行くと、昔のアルバムなどを見せてくれるらしいです。

去年、呉に行った時に寄ってみようと思って、店の前まで行ったのですが、サントスは日曜休みなんですね。開いてませんでした。今度、呉に行く時は、ぜひ行ってみたいです。

2021年12月14日に、サントスを訪問しました。

2021年12月14日サントス
2021年12月14日サントス

浜田省吾ファンということを店員に伝えると、中学の時と高校の時の卒業アルバムや雑誌の記事などを見せてくれます。

左側が中学と高校の卒業アルバム、右側が雑誌の記事

こんなものもありました。裏側には、三津田高校の校歌が記載されています。我らの省吾の卒業した年のものですね。

これがおそらく、当時の省吾が書いたものでは?とされています。そう聞くと省吾っぽさが見える気もします。

サントスでは、このオムカレーが定番です。美味しいのですが、めちゃくちゃ量が多いですので、女性の方は気をつけてください。

サントスのオムカレー

特に何もないのは分かってはいるのですが、省吾の住んでいたところがどんなところか知りたくて、五日市と廿日市にも行ってみました。

佐伯郡廿日市町宮内

昔住んでいたと言われる場所の詳しい住所が分かりません。分かったら、再度訪問してみたいと思います。

五日市町(現広島佐伯区)

五日市駅から佐伯区役所まで、ブラブラと歩いてみました。この辺りに省吾は住んでいたのかなあ。

おまけ

東京で浜田省吾ファンの集い(浜省ナイト)をやってます。丘の上の会という名前です。

コロナの影響で、最近は活動ができていませんが、浜田省吾ファン10名くらいと集まり、食事をしながら浜田省吾の話をし、カラオケで浜田省吾を歌ってます。

イベントをやる時は、Facebook に掲載してますので、興味がありましたら、ご連絡ください。

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高校デビューした少年の悲劇

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高等学校の中には、素行不良な生徒の占める割合が異様に高い学校がある。

約三十年前の1990年代のことなので現在はどうか知らないが、私の郷里の県立O農業高校がまさにその典型だった。

大学進学率は一ケタどころか小数点第二位で測定不能、その反面で退学率が二ケタ台で出席番号がしょっちゅう若くなるという凄まじさ。

反社会人予備校か出入り自由の少年院としか考えられない環境の高校で、中学時代はおとなしかった生徒も入学すると悪くなり、悪かった生徒はより悪くなる。

真面目な生徒だと無事にそこでの学校生活を送れないからだろう。

逆教育機関と言っても過言でない学校、それがO農業高校だった。

そんな悪名高きO農業高校に、私の出身中学からも何人かの同級生が進学したが、その多くが見事に同校の校風に染まってヤンキー化。

その中には中学時代によくつるんでいたK田もいた。

K田の高校デビュー

中学時代のK田は真面目というか気弱な生徒で、学業成績も破滅的だった。

中学卒業後の進路を聞かれた時に「高校進学」と答えたら、周囲から「爆弾発言」とからかわれたくらいだから、小学校低学年程度の学力を有しているか日本生まれのヒト科でありさえすれば入学できるとまで言われていたO農業高校しかなかったようだ。

そんなK田と私は同じく気弱で、腕力に劣るスクールカーストの底辺に位置することからそこそこウマが合い、中学では一緒であることが多かった。

卒業後、私は一応進学校の県立O西高校に進学したが、それとは対極のO農業高校に入ったK田とは家が比較的近所ということもあって中学時代の関係は続いた。

K田に異変が生じ始めたのは高校に入学してほどなくだった。

やはり入った高校がO農業高校だったからだろう。

彼は坊主頭だったが、心なしか剃り込みを入れているような気がしてきたし、眉毛の形も以前とは違う。

そして会うたびにその剃り込みは深くなり、眉毛も細くなってゆき、変形ズボンを穿いた本格的なヤンキーに変身するのに夏休みまでかからなかった。

外見にリンクして言動も変化。

「どけや、くそガキども!」と声を荒げて小学生を蹴散らすし、タバコを吸うようになったし(銘柄は「エコー」)、私に対する態度も変わってきた。

極悪校O農業高校の生徒であることをなぜか誇りとし、進学率のそこそこ高い普通科高校の生徒を十把一絡げにシャバ僧とバカにし始めていたからだろうか。

K田の口調はだんだんガラが悪くなり、「ジュース買ってこい」だの「タバコ買ってこい」だの私をパシリ扱い。

この時点で友人関係を解消してもよかったが、私自身まだ高校でつるむ友人に乏しかった頃だったために、彼との付き合いはしばらく続いた。

ヤンキーと言えば格好だけではだめで、ある程度ケンカっ早くなければならないことくらい私でも知っている。

彼もいっぱしのヤンキーを気取っていたから、私にO農業高校の恐ろしさを語り、よく学校の内外で誰かとモメたことを自慢するのが好きだった。

そして、私にも「気に食わん奴がおったらぶん殴ったらなあかんぞ」だの「ケンカにガタイも人数も関係あらへん、根性や!」などと忠告。

おそらく覚えたばかりのケンカのやり方や人の殴り方を頼んでもいないのによく教授してくれた。

こっちは誰かを殴ったりしたら退学になりかねない進学校の高校生なのだ。
はっきり言って余計なお世話であった。

K田の試練~生意気な中学生に対して~

そんなK田のヤンキーとしての資質を問われる出来事が私の目の前で起きたのは、その年の夏休み後くらいの休日だった。

その日、私とK田は自転車に乗って中学時代の友達の家に遊びに行った帰り道、前から歩いてくる我々の出身中学の在校生二人に出くわした。

直接面識はないが、二人とも知っている顔だ。

私の二歳下の弟と同学年の、確か名前はT島とS本で、我々が在学中に一年生だったからその時は中学二年生。

部活帰りらしく中学校の体操着姿のため、悪そうな見かけはしていなかったが、どちらも体格が良くて見るからに強そうだった。

それもそのはず、二人とも柔道部に入っていた記憶がある。

高校一年生の我々が自転車で彼らに近づいた時、中学二年生のT島とS本の顔は我々の方、特にK田に向いているような気がした。

そして通り過ぎた後もこちらを見続けている。

ガンをつけているという程ではないが、ニヤニヤしながらバカにしたような顔でだ。

「なんやあいつら?」とK田は自転車を漕ぎつつ、後ろを振り返りながらイラつき始めた。

T島とS本は相変わらずこちらを見ながらヘラヘラして、挑発しているとしか思えない態度である。

K田は二人を睨みながら「やったろか中坊ども!」とうなり始めた。

ケンカする気なのか?相手は中学生とはいえこちらよりガタイが大きい。

しかもあいつら柔道部だぞ。

私はそう懸念したが、K田の怒りはもう制御不能だった。

「てめえらやんのか!?コラ!!」

K田が中学生二人に向けて怒声を発した。

しかしそれは、

彼らから100メートル以上の距離に達してからだった。

そして前を向くと、そのまま自転車を漕いで遠ざかって行った。

時々後ろを振り返りながら、心なしかスピードを上げて。

振り向いて見てみると、遠くのT島は大笑いし、S本は「来てみろよ」とばかりに手招きしていた。

確かK田は「気に食わん奴がおったらぶん殴ったらなあかん」とか「ケンカにガタイも人数も関係あらへん、根性や!」とか私に言ってたはずだ。

そういうのは範で示さなきゃ説得力がないと思うが。

「あいつら殺したる」と、彼らの姿が見えなくなった安全圏でいきり立つK田のヤンキーとしての資質に私の中で疑念が生じ始めた。

それからさすがにバツが悪くなったのか、ケンカについて講釈を垂れなくなったK田だが、彼の本当の試練はその後日にあった。

K田の最後~本物の不良少年に対して~

中学生たちとの一件から一か月ほど後、私とK田はゲームセンターでゲームをしていた。

ケンカの自慢話はしなくなったとはいえ、K田は相変わらず横柄な態度で私に接しており、高校でまともな友達ができ始めた私は彼との関係の解消を考慮し始めていた頃だ。

我々はゲーム機に隣り合って座り、それぞれのゲームに興じていた。

私はゲームセンター版「ゼビウス」を、右隣のK田は「エコー」をくわえて「スターソルジャー」をプレイし、時々ゲーム機の右隅に置いた灰皿に灰を落としていた。

その日の私は絶好調で高得点を重ねて初めてのエリアに突入。

これからが肝心という最中だった。

横からK田が私をつつき「おいおい、あのさ」と話しかけてきた。

その声はいつものガラの悪い命令口調ではなくやたら切迫した弱々しい感じだった。

「何?」私はゲームに熱中してたので顔を上げずに聞き返した。

「あそこにいる奴なんだけど、こっち見てへんか?」

「え?どこの?」

「あの『アフターバーナー』のトコにおる金髪の奴」

そう言われてから、顔を上げて戦闘機ゲーム「アフターバーナー」の方を見たら、いた!確かに金髪のリーゼントでスカジャンを着た少年がこっちを見ている!

90年代初頭の地方都市O市で、未成年で金髪にしているのはグレ方が半端じゃない奴とみなされていた。

実際その金髪少年は相当悪そうで、目つきのヤバさもかなりなものだ。

グレたばかりのK田とは貫禄が違いすぎる。

そんなのがこっちを睨んでいたから私も思わず目を伏せた。

もうゲームどころじゃない。

横のK田も目を伏せており、「なあ、どうしよう?どうしよう?」とこちらを向いたその顔は今にも泣き出しそうだった。

そんなの私に振られても困る!完全に気弱だった中学生時代のK田に戻っている。

「あ、ヤバイこっち来た!」
顔を上げると、その金髪がタバコを吸いながらこちらに近寄ってくるのが見えた。

再び目を伏せてから隣のK田を見ると、彼はより深く顔を伏せて目をきつく閉じ、膝をがくがく震わせていた。

「おい、オメーよぉ」

その声で顔を上げると金髪はK田のゲーム機の右横まで来て、彼の座っているゲーム機を蹴った。

顔を伏せていたK田がビクッとする。

次にタバコの煙をK田の顔に吹きかけた後、おびえるK田の髪をつかんで顔を上げさせ、「オメー見かけん顔やな、どこのモンや?」と凄み始めた。

金髪は前歯が二本欠けていた。

「あの、あの、O農業高校です」と震えながら答えるK田に、「農業ふぜいがナニ偉そうにしとるんじゃ」と言い放つ。

この金髪の本格的不良少年には極悪校O農業高校のブランドも通じない。

「それとよ、オメーさっきからえれぇ調子こいとりゃせんか?おう?」

「いや、そんな…。別に調子こいてないで…、アチイッ!!

金髪に火のついたタバコを顔に押し付けられたK田が悲鳴を上げる。


「ま、ちょっと話あるからツラ貸せや」

そう言うと髪を引っ張ってK田を無理やり立たせた金髪は私を睨んで、「そっちのゴミは失せろ」と出口に向けて顎をしゃくった。

否も応もあるわけがない。

私は一目散にゲームセンターから退散した。

自転車置き場に置いた自分の自転車のカギを、手が震えてうまく外せない私の耳に「オラ!来いや!」という金髪の怒声と、「すいません!」「勘弁してください!」というK田の叫び声が入ってきた。

それが、ヤンキー少年としてのK田を見た最後だった。

K田のその後

その日以降彼からの連絡がなくなり、見殺しにした私もあえて連絡しようとしなかったが、とりあえず殺されてはいなかった。

何週間かした後で学校帰りのK田と不意にばったり出くわしたのだ。

彼は中学時代と同じ丸坊主で眉毛も剃っておらず、学ランも変形ではなくなって普通の高校生の姿になっていたが、私から目をそらしてそそくさと立ち去った。

私との関係は終了したが、奴はすっかり更生したようだ。

いや、ヤンキー生命を絶たれたのではないだろうか?

あの金髪にヤンキーをやるのが嫌になるくらい怖い目にあわされたに違いない。

あの時のK田の、あのおびえ方を目の当たりにした私はそう感じた。

ヤンキー少年、少なくともK田のような中途半端な即席タイプを、形がどうあれ更生させるのは善良な人である必要はないのかもしれない。

悪いことをすることがどれだけ間違っているかを教えるより、どれだけ怖いことかを分からせた方が効果的なのだ。

それを分からせられるのは本当に悪い奴しかいない。

あの金髪のような本物も使いようによっては、O農業高校のような極悪校の生徒を少しはまじめな学生に近づけることができるのではないだろうか。 

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