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泡沫候補という言葉をご存じか?
泡沫候補とは、選挙において当選する見込みが極めて薄い立候補者を指すものである。
彼らは選挙に必要な地盤(後援会組織)・看板(知名度)・鞄(資金)がそろっていないのはもちろんのこと、あまり目立った政治活動をやっていなかったり、荒唐無稽か実現不可能な主張をしたりする者も多い。
また、ハナから当選ではなく、売名が目的だったりする者もいる。
よって、我が国をはじめ多くの民主主義国家では、公職選挙においてこうした候補の乱立を阻止する目的で、立候補する際に選挙管理委員会等に対して寄託することが定められている供託金という制度がある。
この供託金は落選したとしても法定得票数に達すれば全額返却されるが、一定票に達しない場合は全額没収されてしまう。
だが、それでも泡沫候補は全国いたるところで出現し、特に東京都知事選においては数多の泡沫候補が立候補する傾向がある。
時代が昭和から平成に移ったばかりの1989年の岐阜県の県知事選でもそんな候補者がいた。
だが、その男は30年以上たった現在でも忘れられることはなく、ある程度の年齢の岐阜県民にはしっかり記憶されているほどの恥…、いやインパクトを残したのだ。
平成最初の地方大型選挙
1989年(平成元年)1月9日、元号が昭和から平成に変わって間もないころ、岐阜県で平成最初の大型選挙と銘打たれた岐阜県知事選挙がスタートした。
この年の2月5日、1977年(昭和52年)より12年間にわたり、三期岐阜県知事を務めた上松陽助氏は、任期満了を機に引退することを表明していた。
よって、この選挙は新しい時代の岐阜県県政を担う、新たな県知事を選ぶ選挙であったのだ。
名乗りを上げたのは無所属新人の候補三名。
- 一人目は、上松氏の下で四年間副知事を務めた梶原拓氏(当時55歳)
- もう一人は、元岐阜県高教組委員長の岡本靖氏(当時61歳)
- 最後は、ウナギ販売会社社長の児島清志氏(仮名、当時40歳)
である。
立候補者は以上の三氏だったが、事実上は梶原氏と岡本氏の二氏の争いとみられており、当時、選挙戦の模様を伝えていた岐阜県の地方紙である岐阜新聞の記事は、両氏の動向のみを取り上げていた。
梶原氏は副知事を務めてきたという実績もあったし、自民党や社会党(後の社会民主党)などを含めた五政党の推薦を受けていたし、岐阜県の教育界でハバを利かせてきた岡本氏は、共産党の推薦を受けていたからだ。
一方、支持母体や政党のバックもなく、県政に関わった活動をしてこなかった児島氏は、ハナから泡沫候補と見られていたのもある。
しかし、それ以前にこの第三の男である児島氏は候補者としての資質に問題があった。
その主張が、あまりにも陰湿且つ幼稚だったからだ。
「梶原拓はかくのごとき男です」
新聞社というのは、当選の見込みのない泡沫候補の主張や選挙戦の模様に、紙面を割きたがらない傾向があるものだ。
それは地元紙の岐阜新聞も同じであり、選挙戦での発言や公約はすべて梶原氏と岡本氏で占められていたのは、前述のとおりである。
だが、蚊帳の外に置かれていた児島清志氏も、全く何もしなかったわけではない。
選挙戦が始まってからほどなくして、前述の岐阜新聞の朝刊の折込広告の中に、あるチラシが混じるようになった。
それは、あの第三の候補者である児島氏の主張が書かれたものだった。
当時、私は岐阜県内の中学校に通う二年生。
知事選挙が行われていることは何となく知っていたが、関心があるわけはない。
そんな私がこの選挙を今でも覚えているのは、そのチラシに書かれた児島氏の主張を目にしたからだ。
それは、
『岐阜県知事候補・梶原拓はかくのごとき男です』という題名から始まっており、梶原氏の裏の顔とその正体を告発するものだった。
なんでも、児島氏は自身の仕事の関係か何かで何度か岐阜県庁に足を運び、副知事だった梶原拓氏と接触したのだが、話し合いがこじれてモメたらしい。
その結果、梶原氏本人とその部下から恫喝されたり暴力を振るわれたり、屈辱的な仕打ちを受けたというのだ。
チラシの中で、権力を笠に着た梶原氏がどんな罵声を浴びせてきたか、自分が何をされたかを延々と書き連ねており、そんなもの見せられた読者の家庭はドン引きして。朝っぱらから重力が重くなったことだろう。
梶原氏だけでなく、その部下と思しき人物も『暴力公務員』という枕詞を冠して実名で告発されていた。
例えば、
「…梶原拓の部下である暴力公務員〇〇と△△は私の胸倉をつかんで「てめえ、それでも男かて」「ちんぼ見せてみんかいオラ!!」と脅しました…」
というような内容なのだ。
「ちんぼ見せてみんかいオラ!!」って…、ホントに言われたとしても書くかフツー。
とにかく書いていることが、高卒レベル(偏差値48くらいの)の文章力を有した小学生が、いじめられたことを先生にチクるために書いているような恨み帳そのものである。
文章は、終始一貫して梶原氏への誹謗中傷で占められており、県知事になってからの具体的でまともな公約がほとんど目立たない。
このヒト、一応県知事候補だよな?
中学二年生の私から見てもあまりにもかっこ悪く、圧巻の大人げなさだった。
とても当時の両親と同い歳くらいのおっさんが書いているとは思えない、と感じたことを覚えている。
こんなものを、児島氏は岐阜県中の家庭にばらまいていたのだ。
彼は泡沫候補の中でも他の候補に対する妨害を目的とした、いわゆる特殊候補だったのである。
記事として取り上げる価値のない泡沫候補である前に、どうりで岐阜新聞が相手にしないわけである。
もっとも、岐阜新聞も完全にシカトしていたわけではなく、時々小さく児島氏の主張を載せて、その存在をささやかながら県民に知らせてはいた。
しかし、梶原氏や岡本氏のように「日本一住みやすい岐阜県づくりに努めたい」とか「弱者切り捨ての県政は終わりにしよう」などのお決まりだが景気のよい前向きなものではなく、ひたすら私怨ほとばしり、被害妄想に満ちたネクラなものだった。
何より日本語も少々おかしい。
梶原氏の対抗馬の岡本氏にとってはありがたい存在ではあったろうが、ここまで程度が低いとあまり頼りにはならなかっただろう。
そして迎えた投票日の1月29日、開票が行われた結果は以下のとおりだった。
- 梶原拓氏は544069票
- 岡本靖氏は204309票
- 児島清志氏は42465票
梶原拓氏の圧勝だった。
予想されたことだったが児島氏は大惨敗であり、得票が法定得票数に満たなかったために、供託金は没収となったはずだ。
というか、四万人もこんな人物に入れた県民がいたことは驚きだったが。
この結果になることはわかりきっていたはずだし、時間と、何より金の無駄以外の何者でもない。
しかし、彼はあきらめなかった。
驚くべきことに、再び立候補するのである。
しかも、この年のうちに。
第十五回参院通常選挙
岐阜県中の失笑を買った児島清志氏だったが、1989年の岐阜県知事選から半年もたたないうちに、再びその名前を岐阜県民は目にすることになる。
同年7月に行われる第十五回参院通常選挙に再び出馬したのだ。
一体何を考えていたんだろうか?
国会議員になって、今や岐阜県知事の梶原氏を見返したかったのか。
この参院選挙での岐阜選挙区の立候補者は自民・現職の杉山令肇氏(66歳)も含めて5人だったが、その中には川瀬一雄氏(仮名、42歳)という元印刷会社社員、元警察官、元証券会社社員で現在は無職というわけのわからない経歴の泡沫候補も混じっていた。
児島氏も泡沫仲間がいてよかった。
だが、児島氏は体を張って岐阜県民を楽しませる泡沫候補としての経験値が違った。
今回も岐阜新聞に相手にされなかったが、またしても折り込み広告には自らの主張を挟んできたのだ。
そして案の状その内容は『岐阜県知事・梶原拓はかくのごとき男です』で始まる例の恨み帳だった。
参院選挙だぞ、岐阜県知事関係ないだろ?
よっぽど梶原拓が嫌いらしい。
今回のお話も敵役が梶原氏であることに変わりはなかったが、前回の県知事選とは違うバージョンの内容だったことをよく覚えている。
いじめられたのは、一回だけではなかったようだ。
そして新聞でもお情けでささやかながら、その主張を掲載させてもらっていたが、相変わらず何が言いたいのか意味がわからない。
ここまで来ると、選挙には関係がない我々中学生も児島氏のことを知るようになり、学校で話題にする同級生もいた。
もちろん応援するのではなく、その大人げなさを小馬鹿にしていたのだ。
「こんな大人になってはいけない」という見本を岐阜県中の未成年者の前に自ら晒していたといっても過言ではない。
また、真剣なぶん余計笑えた。
そして7月23日の投票の結果、当選は454154票を獲得した新人の高井和伸氏(48歳)。
現職だった杉山氏とは、約34000票差の接戦であった
もちろん児島氏は、今回も28049票で大惨敗。
だが、泡沫候補仲間の川瀬氏の得票23660票を上回っており、こちらも接戦であったが。
それ以降、児島氏の名前を選挙で見かけることはなかったが、その小人物ぶりと負けっぷりは岐阜県人の間で伝説となった。
副知事時代に児島氏をいじめたと訴えられたものの、1989年から晴れて岐阜県知事となった梶原拓氏の方は、2006年に健康上の理由により退任するまで四期16年間知事を務めた。
また在任中は、財政を悪化させるハコモノ行政を行ったと批判を浴びたこともあったが岐阜県知事としてだけではなく全国知事会会長をも務める重鎮ともなり、2006年4月には旭日大綬章を受章、2017年83歳で天寿を全うした。
児島氏にとっては、地元で悪が栄え続ける様を見せ続けられたことになろう。
ところでこの児島氏なんだが、実は私の実家からほど近い場所に住んでいたらしい。
1989年当時40歳だったから、2022年現在ご存命ならば御年73歳くらいか。
まだお元気でお住まいもそのままだったら、次回帰省した際に訪問してお話を伺ってみたいものだ。梶原拓氏について。
出典元―岐阜新聞
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