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1950年6月25日、朝鮮半島の南北統一をもくろむ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が事実上の国境となっていた38度線を超えて南の大韓民国(韓国)に侵攻。
1953年7月27日まで丸々三年続くことになる朝鮮戦争が始まった。
6月27日に開催された国連安保理では、この北朝鮮の南侵を侵略と認定。
7月7日、北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国防衛のため、加盟国にその軍事力と支援を提供するよう求め、アメリカを中心とする国連軍の出動が決定された。
この国連軍には、北朝鮮の後ろ盾であり言わずと知れた黒幕のソ連や中国(この当時は国連に加盟していなかった)はもちろん参加しておらず、アメリカをはじめとする西側陣営の諸国が中心となった16か国で構成されていたが、その中には、遠くアフリカ大陸から参戦したエチオピア軍も加わっていた。
規模ではアメリカ軍32万人に遠く及ばない1200人程度の大隊の派遣であり、アメリカ軍の指揮下での戦闘参加である。
しかし、ただ国連軍に名を連ねていただけの影の薄い存在では、決してなかった。
なぜならその“カグニュー大隊”と呼ばれたエチオピア軍は、北朝鮮軍や中国軍(抗美援朝義勇軍)と戦闘で、対等以上に渡り合ったからである。
カグニュー大隊の派遣
当時エチオピアを統治していたエチオピア帝国皇帝のハイレ・セラシエは、国連の要請を受けると部隊の派兵を快諾した。
第二次大戦中イタリア軍に自国を侵略されたハイレ・セラシエは、集団安全保障という考え方の信奉者であったからである。
そして、派遣される部隊は主に皇帝直属の親衛隊から選ばれた大隊規模で、指揮官や将校も第二次世界大戦を経験した筋金入りで組織された。
その大隊は、ハイレ・セラシエ皇帝の父で19世紀末に起きた第一次エチオピア戦争の英雄でもあるラス・マコネンの乗馬の名にちなんで、“カグニュー”大隊と呼ばれるようになる。
カグニュー大隊は、派遣前に朝鮮半島の地形に似た山岳地帯で八か月の訓練を受けると、買開戦翌年の1951年4月12日に、当時フランスの植民地だった隣国のジプチから、第一陣1122名が海路極東に向けて出発。
5月6日、釜山に到着すると米国製の装備を受け取って、さらに六週間にわたる訓練を受けてから米軍第7歩兵師団の指揮下に加わり、共産軍との一進一退の攻防が続く38度線近くの最前線に配置された。
カグニュー大隊の戦闘
カグニュー大隊は1951年8月12日、現在の韓国江原道華川群の赤根山での作戦を皮切りに、米軍の下で共産軍相手の戦闘を開始した。
それから間もない10月の三角丘の戦い(鐵原郡)において、夜間戦闘で目覚ましい働きにより頭角を現し、米軍将兵を瞠目させるようになる。
それもそのはず、彼らはエチオピア軍の最精鋭部隊である皇帝の親衛隊隊員。
エチオピア国内において卓越した頭脳、精神力、肉体を有した者の中から選抜された本物の戦士たちだったからだ。
そんな“男の中の男”たちで構成されたカグニュー大隊の戦場でのモットーは“勝利か死か”。
米軍から貸与されたM1ガーランドやM1カービンを使いこなし、500メートル以内での命中率は抜群で、迫りくる共産軍の兵士を片っ端から射殺。
白兵戦も上等で、人数にモノを言わせて雲霞のごとく押し寄せてくる中国軍にも銃剣で立ち向かって返り討ちにしたのだ。
朝鮮戦争の休戦まで同大隊は三回入れ替わったが、その間 “鉄の三角地”での戦いや1953年の“ポークチョップヒル”の戦いまで激戦を戦い抜き、どの戦闘でも共産軍相手に後退することはなかった。
1953年5月の戦いでは、共産軍の一個大隊を壊滅させ、大韓民国政府から勲章を授与される栄誉に浴する。
そして、1953年の7月27日に休戦協定が結ばれるまで、戦場に留まり続けた。
カグニュー大隊は、この戦争で延べ6037人が派遣され121人の戦死者と536人の戦傷者を出したが、特筆すべきは、共産軍の捕虜になった者が一人もいなかったことである。
また、戦死者の死体を戦場に置き去りには、決してしなかったという。
この勇敢さと戦闘力を、指揮下に置いていた米軍も、大いに認めていた。
米国はこの戦争で「敵対する武装勢力との交戦において勇敢さを示した」兵士に対して授与される最高の勲章、シルバースターを9個、それに次ぐ「作戦において英雄的、かつ名誉ある奉仕を行い、成果を挙げた」兵士に授与されるブロンズスターメダルを18個、エチオピアの戦士たちに贈ったのだ。
シルバースターは、本来自国の兵隊である米兵にしか授与されないものなので、いかに彼らの評価が高かったかが分かるであろう。
戦後
休戦後もエチオピアからの派兵は続き、国連軍の一部として第4、第5カグニュー大隊が入れ替わりで韓国内に駐留した。
余談ではあるが、ローマと東京オリンピックのマラソンで二大会連続金メダルを獲得したアベベ・ビキラは、皇帝親衛隊出身でカグニュー大隊の一員として朝鮮に派遣されおり、釜山到着後休戦になったため、駐留軍に加わることもなく帰国している。
このように、朝鮮半島で命をかけて戦った彼らだが、その功労に報いるべきエチオピア帝国は、長く続かなかった。
皇帝のハイレ・セラシエは外交では、活躍したが内政では失政が続いたために国内では不満が溜まり、1974年のエチオピア革命で廃位された上に翌年殺害されてしまい、帝国が滅んだからだ。
エチオピアの新たな支配者となったメンギスツ率いる社会主義軍事政権は当然、前政権で特権的地位にあった皇帝の親衛隊隊員たちを快く思うはずがない。
その後の人生を手厚く保証されるはずだった元隊員たちの多くが殺されないまでも冷遇され、みじめな境遇に落ちぶれることになってしまった。
だが、その一方で韓国は彼らへの感謝の念を忘れていなかった。
第二次大戦前における日本の所業を捏造してまで追求し、ベトナム戦争時での自国軍の戦争犯罪には知らんぷりするが、国家存亡の危機にアフリカからはるばる救いの手を差し伸べたエチオピアに対しては違ったのだ。
カグニュー大隊の記念碑や記念館を建立し、1996年にはカグニュー大隊の生き残りの兵士たちへの給付金の支給を決定。
多くが貧困に落ちぶれた元隊員の子弟たちの中でも成績の優秀な青年を学費免除で韓国に留学させたりするなど、目に見える形で報いようとしているのだ。
朝鮮戦争が休戦になってから、60数年となった現代。
かつてはるか遠くの朝鮮半島で戦ったカグニュー大隊の隊員たちは老境に達し、200人余りとなった彼らは時々戦友たちと旧交を温めながら故国で余生を送っている。
そのうちの一人はこう語った。
「皇帝陛下の御命令は、“韓国の自由と平和を守れ”だった。しかし一つ目の“自由”は守ったが、二つ目の“平和”は守れなかった。あの戦争は休戦したのであって終戦ではなく、未だに韓国と北朝鮮に分かれて緊張状態が続いているからだ。せめて死ぬ前に統一された朝鮮を見たい」
出典元-百度百科、ウィキペディア英語版
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