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目指せ!暴力団構成員 ~1973年・現役ヤクザが熱血指導!~ “暴力団組員養成塾” 

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まだ元号が昭和だった1973年(昭和48年)4月18日、神奈川県横浜市緑区十日市場町にある横浜市立十日市場中学校の体育館ステージにあった垂れ幕が、ズタズタにされる事件が発生した。

被害総額は、50万円と当時としてはかなりのものであったために警察が捜査したところ、区内のアパート三保荘に住む無職・田邊亨(仮名・16歳)ら不良少年グループの存在が浮かび上がる。

そこで、警察は田邊が暮らす三保荘を調べたところ、同アパートの三部屋を田邊以外に同じく不良少年である中富裕易(仮名・17歳)と稲川会の三次団体高橋組の組員である玉利和信(本名・22歳)が借りていることが分かった。

しかも周辺住民からの聞き込みによると、そこには、常に大勢の不良少年たちが入れ代わり立ち代わり出入りしているというではないか。

犯罪の臭いをいやがうえにも感じ取った警察が捜索に入ったところ、案の定とんでもないことが行われていたことが判明したのだが、それは捜査関係者の予想の斜め上を行っていた。

何と現役バリバリのヤクザである玉利は、暴力団員養成のための「私塾」を開き、多くの少年たちに悪さのテクニックを伝授していたのだ。

“暴力団組員養成塾”の講義内容

新聞の一部の白黒写真

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“講師”の玉利和信

玉利の暴力団組員養成塾の「塾生」は、中学生7人と高校生19人(女子も4人交じっていた)、その他有職・無職の少年たちを含む計43人。

塾は同年2月に「開校」しており、玉利の「一人前のヤクザになるための講座」は三保荘八号室で毎晩行われ、必ず5、6人は参加していたのだが、その講義内容はヤクザの作法だの仁義だのの面倒くさいものはそっちのけだった。

玉利が主に教えていたのは、窃盗や恐喝のテク、効果的な脅し方であって、いっぱしの現役暴力団組員である自身の豊富な犯罪経験から、過去に遭遇した事例や想定されるさまざまなパターンを網羅した実践的なものである。

もちろん、座学だけではなく「実技」もあった。

正規の暴力団組員である玉利は、自身のシノギとして恐喝もやっており、塾生たちを伴って恐喝する相手のところに押しかけて脅したり、さらったり、監禁して暴行したりの実際の現場も体験させたりしていたのである。

世の中のために全くならない者を育成しているのだが、何らかの技術を習得させる講座としては、かなり充実かつ理想的だったと言わざるを得ない。

また、22歳の玉利は少年たちにとって怖いけど、何でも知ってて頼りになる兄貴であり、先生としても優秀だった。

犯罪のコツを指導しつつ「ヤクザになれば、女にも金にも不自由しないし誰からもナメられることはない」とそのうま味を語り、「気合い入れて、テメーらも一人前の男(ヤクザ)になれ!」と激励。

見込みがあると認められた「優等生」は、玉利の所属する組織の事務所での電話番や使い走りなどをさせてもらえる「インターン」制度まで設けていた。

それに触発されたガキどもは、覚えたての悪事のテクを実践。

この塾が神奈川県警緑署に摘発されるまで、塾生たちは悪事にいそしみ、犯した犯罪は判明しているだけで、窃盗33件にして被害金額は50万円以上、不法監禁2件、暴行や恐喝は数知れずだったという。

新聞の一部の白黒写真

中程度の精度で自動的に生成された説明
“塾”のあった三保荘(現在もあるのだろうか?)

受講生たちの階層と時代背景

結局同年6月、捜査にやって来た警察によって塾は閉校となり、塾長の玉利はもちろん逮捕された。

43人の塾生たち全員も補導され、うち田邊や中富はじめ悪質だった19人が書類送検となる。

だが、なぜたかだか四か月かそこらで、暴力団員を育成する塾などにこんなに多くの塾生が集まったのだろうか?と思うのは現代の感覚だ。

脱退者が相次いで弱体化著しい現代の暴力団組織とは違って、この時代のヤクザは組員数も多くて勢いがあった。

暴力団対策法(暴対法)が施行されるはるか以前だったし、取り締まる側の警察ともある程度癒着していたから、今に比べればやりたい放題。

闇社会の頂点に君臨し、近年ハバを利かせ始めている半グレなど彼らの縄張り内で、ちょっとでものさばったら瞬殺されたであろうおっかない存在だったのだ。

そして「おっかないこと」は往々にして「かっこいいこと」と同義語であり、あこがれて組に入ろうとする青少年も、数多く存在したのである。

だったとしても、そのような塾で熱心に学んで組員になろうとするような塾生たちは、筋金入りの不良少年ばかりだろうと思われたが、補導された中高生たちの多くは意外にも、それぞれの学校で問題行動を起こしたことのない、どちらかと言えば一般の少年たちだった。

彼らは、不良、それもそのワンランク上のヤクザにあこがれて入塾した中二病たちだったのだ。

この事件の発覚した1973年当時は、東映の『仁義なき戦い』が放映されて大ヒット。

映画を観た大人の観客は、劇場を出たとたん肩で風を切ってのし歩くようになるほどで、より影響されやすい年代のガキどもにとっては、なおさらだった。

そんなところへ、手軽にかっこいい暴力団組員の世界を体験できる場所があるとわかるや、友達が友達を呼んで増えていったらしい。

また、玉利ら暴力団の側にも事情があったようで、現代よりぬるかったとはいえ、当時の神奈川県警の取り締まりの強化で勢力が弱まりつつあった組織を立て直そうと、とにかく組員を増やす狙いがあったと見られている

そんな暴力団の思惑とヤクザがかっこよかった時代背景のおかげもあって起きた珍事件であったが、この塾が一期生を指導しているうちにつぶされ、そこで十分学んで闇の世界へ羽ばたく卒業生が出なかったことだけは幸いであった。

出典元―毎日新聞

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1954年・日光参道で修学旅行生同士が乱闘 ~広島県立山陽高校vs.青森市立第一高校~

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戦前か戦後すぐ後くらいに生まれた人々は、今や後期高齢者の爺さん婆さんたちである。

令和の現在ではすっかり好々爺となっているが、彼らにも10代20代だった頃はあった。

まだ日本は貧しかったし、昔ながらの厳しいしつけを受けて育っている人々だから、甘やかされて育って堕落した現代の若者よりも総じてまともだったような気がしないだろうか。

とんでもない。

明らかに血の気が多く、無法を働く輩の比率が今より高かったのだ。

それは当時の新聞の事件欄を見れば明らかで、乱闘や暴行、ついカッとなっての殺人の報道が目白押しなのである。

現代の半グレなど比べものにならないくらいの数のヤカラが街にのさばっており、全国の津々浦々で毎日のようにケンカ沙汰や暴力沙汰が発生していたのだ。

その一端を示すエキサイティングな事件が、今から70年前の栃木市日光市で起きた。

列車内でエキサイトする二高校の修学旅行生たち

1890年(明治23年)に開業して以来、古くより名勝地として知られる日光へ多くの観光客を宇都宮から運んできた日光線。

いつもは、賑やかで観光客たちの笑顔であふれているこの日光線の列車内であったが、1954年(昭和29年)の4月2日の同列車内は、これから観光地へ向かうとは思えないほど険悪な空気が充満していた。

その空気の発生源は、この列車に乗り合わせた二つの高校の修学旅行生たち。

片方は遠く中国地方からやって来た広島県立山陽高校と、もう片方は同じく遠方の青森県から来た青森市立第一高校の生徒たちであり、ガンを飛ばし合って相手をしきりに威嚇している。

実は、この二校の敵対的なファーストコンタクトは、この日光線が初めてではない。

東京から宇都宮までも同じ列車に乗り合わせており、どちらが始めたかは分からないが、東京にいた時点から互いににらみ合っていたのだ。

二校の修学旅行生の内訳は、山陽高校側が約100名、第一高校側が約180名。

ケンカ腰だったのは、当初ほんの一部の威勢のいい生徒だけだったが、このころになると元気のいい生徒たちに触発されたのか、双方の普段はまじめな一般生徒たちも加わって、すでに学校対学校の全面抗争勃発の兆しすら呈し始めている。

「何なら!われらナニガン飛ばしよんじゃ!」

「おめ?やるのが?殺すてけるべが!」

「上等じゃけえ!相手しちゃるぞ!!コラ!」

「なんだばや!かがってごい!弱虫が!」

互いの方言でののしり合い、こうした事態を想定して持ってきていたのか山陽高校側は木刀を出し、第一高校側は登山ナイフをちらつかせるなど、一瞬即発の事態に発展しつつあった。

さすがに、ここまで危険な局面になると双方の引率の教師たちも黙っておらず、生徒たちを制止にかかる。

高校生たちも、このまま列車内で殺し合いになるのは望んでいなかったと見え、教師たちが止めに入ったのを幸いに、お互い矛を収めた形となったようだ。

だが、それは一時休戦に過ぎなかった。

列車が日光駅に到着してからも、双方の生徒たちのアドレナリンは沸騰して高温のままであり、日光市内でほんの些細な原因によりそれが発火、爆発することになる。

日光参道での全面衝突

道路と道路標識

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修学旅行や遠足で遠方に行った威勢のいい中高生が、その先で出くわした他の学校のそれなりの生徒とにらみ合う、というのは珍しくはない。

本ブログの筆者の世代もやっていたし、その前後の世代の者たちも含めて、令和の中高生もやっているだろう。

もっとも、ヤンキー漫画ではないのだから、本当にケンカになることはまれなはずだ。

だが、この時そのまれなことが発生することになる。

それも、漫画以上に。

日光に下車した両校の修学旅行生たちは、互いにメンチを切り合いながらも、それぞれ日光東照宮を見学。

それから、生徒たちは自由行動となって日光参道の散策に入ったのだが、両校の引率の教師たちは、どちらも監督者として致命的な職務怠慢を犯す。

さっきまで刃物や木刀などの凶器まで取り出して相手を威嚇していた元気者たちを、凶器持参のまま野放しにしてしまったのだ。

彼らが日光参道で出くわせばケンカになるのがわかりそうなものだから、現代の教師だったら、凶器を取り上げるか彼らに付き添って見張るなどの措置をとっていただろう。

昭和20年代の教師はのんびりしてた、というか無神経だった者が多かったようだ。

そして、案の定の事態が起こる。

山陽高校の泊智樹(仮名)と一色和明(仮名)ら威勢のいい生徒たちが日光の西参道をぶらついていた時、さっき電車内で揉めた相手の高校の生徒たちと出くわしたのだ。

「田舎もんが!」

こっちがガンを飛ばすと向こうもガンをつけてきたので、またしても街中でにらみ合いになったのだが、今度はにらみ合いだけではすまなかった。

山陽高校側の一人が木刀で第一高校の一人を小突いたとたん、第一高校側のスイッチが入って殴りかかって来たのだ。

「おめ!おだづな!!」

「やっちゃるぞ!田舎もんが!」

完全に頭に血が上った双方は、他の観光客もいる面前で殴り合いを始めた。

彼らは、それぞれ応援を呼んだために乱闘の参加者は増加し、ばかりか、それを見ていた他の生徒たちも呼ばれてもいないのに相手の学校の生徒を見かけると自主的に殴りかかるなど、本物の学校間全面抗争に発展。

乱闘は、通報により飛んできた地元日光署の警官隊によって鎮圧されたが、第一高校側は持参してきた刃物を躊躇なく使っており、山陽高校の泊が下腹部を、一色が肩を刺されて地元の病院に運ばれるという重傷を負ってしまった。

命に別状はなかったとはいえ、彼ら二人の修学旅行は強制終了となったのだ。

刃物を使った生徒は拘束され、双方の引率の教師は日光署で事情徴収を受けたり、ケガをした生徒の看護に病院に詰めたりしたのだが、双方の高校とも他の生徒は修学旅行を続行した。

それにしても、なんて戦闘的なんだ。

令和の現在、いや平成のどんな底辺高校であっても集団でここまで元気を暴発させることはないのではないか。

この当時の日本は、つい九年前まで戦争していたんだから、暴力をふるうことに対する免疫が現在よりぐっと低かったのもあるだろう。

殴られたら殴り返すのが当たり前だった時代だったのだ。

だが、暴力沙汰と言えば無抵抗の相手を一方的に暴行したり、大勢で一人をフクロにするのが主流になってしまった気がする現代より、清々しいように思えるのは筆者だけだろうか?

殴られたら殴り返すケンカには、エネルギーが必要だ。

この時代の若者は礼儀や常識はともかく、エネルギーが総じて現代の若者を凌駕していたのは間違いないだろう。

だからこそ、彼らの力はその後の日本を先進国に発展させる源となり、後期高齢者になった今でもかくしゃくとしていられるのかもしれない。

群衆の前に立っている男性の白黒写真

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出典元―栃木新聞

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1986年・中学生と決闘して殺した22歳の男

本記事に登場する氏名は、一部仮名です

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1986年(昭和61年)2月、兵庫県神戸市東灘区にある市営団地で中学三年生の少年が殺される事件が起きた。

殺したのは、同区の県営住宅に住む小林寛智(仮名・22歳)。

一見すると、成人が未成年を殺した許しがたい凶行に思えるこの殺人だが、実は加害者も加害者ならば、被害者も被害者と言わざるを得ない性質の事件であった。

ミニFM局

YouTubeやツイキャスが出現するはるか以前の80年代、ミニFM局が注目を浴びていた。

ミニFM局とは、FM電波を送信する送信機を使って自分の好きな音楽などの情報を不特定多数に発信するミニラジオ局ともいうべきものである。

スマートフォンもパソコンもなかった時代だったから、情報の受け手はもっぱらラジオからだったが、テレビ局やラジオ局ではない一般人が情報を広く発信するという意味では、現代のSNSとやっていることは変わらないから、個人メディアのはしりと言ってもいいだろう。

グローバルに発信できるSNSが定着した現代と違って電波法の規制もあったから、出力できる範囲は限られていたが、それでも自分の意見なり嗜好を多くの人々に知らしめて、何らかの反応や共感を得たいという承認欲求を満たせるツールとして、多くの若者がミニFM局を開設していた。

屋外, 建物, ストリート, 市 が含まれている画像

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「FMシティ」のあった県営団地の現在

神戸市東灘区に住む小林寛智もその一人で、小林は1985年7月から、自宅の県営住宅でミニFM局「FMシティ」を開設。

定職のなかった彼は、ヒマに任せて自分の好みの音楽などを配信するようになった。

小林の「FMシティ」の放送エリアは東灘区一帯という狭い範囲だったが(ちなみに当時の電波法に定められた範囲には違反していた)、出だしから好調で中学生を中心に口コミで人気が広がる。

曲をリクエストする電話もかかって来るようになり、中には小林の自宅を訪ねてくる中学生のファンも現れた。

自分より若い世代に支持されていることに気を良くしたんだろう。

小林は、気さくにその中学生を自宅に上げるや、やがてその仲間たちも誘われてやってくるようになり、いつしか小林の家は中学生のたまり場になった。

だが、これが大きな間違いであったことに気づくのに時間はかからなかった。

つけあがるガキども

中学生たちは、主に小林の「FMシティ」が放送される午後11時から午前4時の間に来ることが多く、そのまま泊まっていく者もいた。

中学生のくせにそんな時間に外出していたような者たちなんだから、当然真面目でおとなしい少年少女たちではない。

小林は彼らよりだいぶ年長だったが、当初から同級生のような目線で接したのもいけなかった。

おまけに、年少者からある程度畏敬される兄貴分的な気質もみじんもなかったために、中学生たちは増長。

小林の家でタバコを吸ったり酒を飲んだり、深夜に騒いで近所の住民から注意されると逆ギレして、ビール瓶を投げ込んだりのやりたい放題をするようになったが、小林は特に注意することなく、そのままにしていた。

もっとも、注意していたとしても効果はなかったであろう。

生意気盛りのガキどもは、自分たちに対して弱気と見た小林を侮るようになっていたからだ。

そして「FMシティ」開設の翌年1986年2月、事件のきっかけが起こる。

それは、小林宅に出入りする悪ガキどもの一人である町田理人(仮名・15歳)が、聞き捨てならないことを耳にしたことから始まる。

小林が自分のことを「うざい奴だ」と言っていることを、仲間から聞いたのだ。

反抗期真っただ中の中学三年生でいいカッコしいの町田は、日頃から小林相手に生意気な態度で接し、みんなの前ではナメられまいと威勢よくふるまっていたから、そのままにしておくと自身の沽券に係わると考えた。

小林と賭けマージャンをしたりもしていたのだが、そのマージャンで賭け金やマージャンの打ち方をめぐって、小林ともめていたこともあったから、なおさらムカつく。

「あんガキ、ナメくさりおってからに!白黒つけたらあ!」

町田は、小林よりはるかに年下のガキのくせにいきり立ち、小林と話をつけると宣言した。

中学生にナメられる22歳

小林寛智(仮名・22歳)

1986年2月19日夜7時、町田は勝手知ったる小林の自宅に押しかけた。

こういう穏やかじゃない目的を持っている場合、悪ガキは往々にして一人で行かず何人か引き連れて行くものだが、町田もご多分に漏れず仲間4人を同伴している。

そんなに怖くない相手でも一人で行くのは嫌なのだ。

「おい、小林くんよお。オレの悪口言うとるみたいやけど、どういうことやねん?ああん?」

町田は仲間も来ているから、遠慮なくドスを効かせて対応に出た気の弱い年上男を脅した。

小林は中学生たちにこんな態度をとられるようだから、もともと臆病で見くびられやすい男だったのは間違いがない。

だったとしても、この時、年甲斐もなくはるか年少の少年たちの剣呑な雰囲気にビビるあまり、年上らしからぬことを口にしてしまった。

「言うとらへんよ…、オレちゃうわ。悪口言うとるんは髙澤やて…」

高澤は、町田と同じく小林宅に出入りしている中学生である。

何と22歳の小林は、中学生の高澤に矛先をそらそうとしたのだ。

どうりでガキどもから見下されるわけである。

「ホンマやろな?ほんなら、一緒に本人に聞こうやないか!ちょっとツラ貸せや!」

もう、どっちが22歳でどっちが中学生かわからない。

中学生たちは小林を連れて、近所の市営団地に住む高澤宅に向かい、団地のロビーに呼び出した本人に問い詰めたが、当然ながら激しく否定される。

ばかりか、高澤は悪口を言っていたのは小林だと主張した。

「言うわけないやろ!ええ加減なこと言うてからに!お前が言うとったんやないかい!!」

高澤も町田同様小林のことをナメているのだ。

「やっぱ、そうやったやないか!どう落とし前つけてくれるんや?コラ!」

「いや、落とし前て…んなアホな…」

「タイマンで決着つけようやないか!」

町田は語気鋭く言うや、登山ナイフを取り出した。

若気の至りの代償

何と、町田は素手ではなくナイフでタイマンしようというのだ。

「な、なんやそれは?あかん!落ち着けや…やめとこうや」

「お前もナイフ取れや、おい、誰かこいつに一本貸したれや」

町田は、仲間の一人から折り畳みナイフを出させて、小林に取らせようとする。

彼らの学校のそれなりの素行の生徒の間では、ナイフを持って歩くことが流行しており、しゃれっ気の塊のような町田が握っている登山ナイフは自慢の一品だ。

思春期の町田は仲間もいるし、気が大きくなっていたんだろう。

また、みんなの見ている前で中途半端に終わらせてしまったら、後々見くびられてしまうと考えたのも間違いない。

「なあ、なあ、あかんて、こういうの…。冷静になろうや!」

小林はナイフこそ受け取ったが、勝負しようとしない。

だが、一緒に来ていた少年たちがはやし立てる。

「はよやらんかい!」

「ビビっとんのか?!情けねえ年上やな!」

この時の町田が、どこまで本気だったかは分からない。

本当に刺すつもりだったのか、ハッタリだけで小林が謝罪してくれたらいいやと考えていたのか。

それはこの直後、永遠に確かめることができなくなる。

ナイフを握って、こちらに向かってきた町田を、小林がとっさに受け取ったナイフで刺したのだ。

町田は、うめき声を上げてうずくまった。

小林のナイフは、町田の左わき腹を貫いており血が止まらない。

ロビーにみるみる広がる鮮血を前に、刺した小林はもちろん、さっきまではやし立てていた少年たちも顔色を失った。

町田は、刺された場所が悪かったようだ。

そのまま気を失い、呆然とするあまり周りの者たちの処置が遅れたこともあって出血多量で死亡。

15年という短い人生を自業自得で終わらせてしまった。

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事件現場となった市営団地の現在

小林は、その後に駆け付けた警察によって殺人容疑で逮捕される。

「ナイフを持って向かってきたから刺した。殺すつもりはなかった」と主張したが、当然正当防衛が認められるわけはない。

結果的に殺してしまったわけだし、その前に家にやって来た中学生と賭けマージャンをやったり、喫煙や飲酒を放置していたこと、そもそも自身のミニFM局が電波法に違反していたことなどから、刑事責任を免れることはできなかった。

いずれにせよ、だらしなさ過ぎたことが原因で長期の実刑を受けたであろう小林はもちろん、生意気すぎたことが原因で死んでしまった町田も同情するに値しない事件である。

防ぐことはできなかったんだろうか?

無理だったろう。

どっちも救いようがないくらい愚かだったとしか考えられないのだから。

出典元―神戸新聞、毎日新聞

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オレの代わりに受験しろ! ~替え玉受験させるために軟弱陰キャ大学生を脅して猛勉強させた男~

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「加害者も加害者なら、被害者も被害者」と言わざるを得ない事件が起きることがある。

どう考えても加害者は「普通はこんなことやらないだろう」ということをしでかし、被害者は「普通はこんなことやられないだろう」ということをされる事件のことだ。

1975年(昭和50年)に起きたこの珍妙な出来事は、まさにそれにあたり、その「どっちもどっち」さぶりは語り継ぐに値すると考える。

大志を抱く出来損ない

兵庫県姫路市で生まれた片倉卓己(仮名・19歳)は、お世辞にもデキのいい男とは言えなかった。

地元姫路市内の中学を卒業後に、高校受験に失敗。

家庭環境が複雑で家に居づらかったこともあって、1973年(昭和48年)に上京して新聞配達の仕事を始めたが、一緒に働いていた年上の大学生を殴ってクビになってしまう。

その後は東京をいったん離れ、翌年四月に四国の電波系高等専門学校に入学したが、せっかく入った高専も合わなかったらしく一年余りで退学してしまった。

その後、自分探しをするように職に就いたりしていたが、高専を退学した1975年に再び上京する。

科学技術に興味のあった片倉は、いつしか科学者になりたいと思うようになっており、それを実現するために、理系の大学に入ろうと受験勉強をするつもりだったのだ。

しかし、その夢は、片倉の知能を大きく上回っていた。

高校を卒業していない彼は、まず大学受験の資格を得るために大学入学資格検定(現・高等学校卒業程度認定試験)をパスする必要があり、大学入学試験は、それよりさらに難易度が高かったのは言うまでもないが、どちらもからっきし合格する自信がなかったのである。

普通なら、この時点であきらめるし、だいたい19にもなったら自分の能力や資質をある程度把握して見て、いい夢と悪い夢の区別くらいはつくはずだが、片倉にはそれが分からなかった。

どうしてもクリアしたいが、全く自信がない試験にどうやったら受かることができるのか?

普通のバカならば、やるだけムダな受験勉強をダラダラ続けたことだろう。

だが、片倉はそんじゃそこらのバカとはレベルが違った。

その劣悪な頭脳で思いついたのは「自分の代わりに誰か頭のいい奴に受験させる」ことだったのだ。

そして、そんな都合のいい奴に心当たりがあった。

気弱な大学生

だいたい、入学試験にも合格できない者が授業についていけるわけがないのだが、片倉は合格して入学さえしてしまえば、こっちのもんだとでも思っていたんだろう。

間違いなく頭が悪い。

しかし、片倉は頭こそ悪かったが、行動力が抜群にあった。

思いついたら、すぐ行動なのだ。

つまり、バカなぶん相当タチが悪い。

上京して借りた部屋は、北区十条のアパート。

そこには、顔見知りが住んでいたからなのだが、その顔見知りとは、最初に務めた新聞店で片倉が殴った大学生だった。

その大学生、本田雄介(仮名・21歳)は某工科大学の三年生で年上だったが、極端に気弱な男であったために、ちょっと脅せば言うことを聞いてくれる奴である。

新聞店にいた時に殴ってしまったのは、日ごろからいいように使っていたところ、ちょっと気に入らない態度を見せたことからついカッとなったからだ。

そんな奴と同じアパートに引っ越してきた目的は言うまでもない。

目的どおり、自分の替え玉として受験させるためだ。

本田はヘタレだが腐っても大学生である。

試験がからっきし苦手な自分が受験するよりも、合格する確率ははるかに高い。

6月ごろ、片倉は本田に自分の替え玉となって受験するように強要。

その際「オレは地元にヤクザのツレがおってのう。嫌や言うんやったら、そいつも連れて来たるで!」と見え見えのハッタリまでかました。

とんでもない無茶ぶりだが、本田は元々気弱すぎるうえに、以前片倉に殴られたこともあって、恐怖が身に染みていたと思われる。

その要求を嫌々飲まされた結果、受験勉強地獄が始まった。

受験勉強地獄

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いくら大学生とはいえ、何もせずに一発で合格できるとは思えない。

念には念を入れて、やりすぎなぐらい勉強するのが望ましいのだ。

片倉は、受験で必須となる科目の参考書を本田に買い与えて学習スケジュール表を作成、一日五時間の受験勉強を義務付けた。

勉強は片倉の部屋でさせ、その間つきっきりで本田の勉強を監視。

本田はアルバイトの新聞配達をしつつ昼間は学校に通っているから学習中にウトウトすることがあったが、片倉は甘やかさない。

ちょっとでも居眠りしようものならば「合格する気あんのか!!わりゃあ!!」と、タバコの火で根性焼きか鉄拳制裁だ。

片倉は、自分が勉強する場合はダラダラやっていたが、他人に勉強させる場合は熱心かつスパルタなのだ。

自分の夢を実現するためなんだから、手は決して抜かない。

本田の家財道具も没収して自分の部屋に運び込み、「逃げた場合はこれを処分する」と脅した。

本田も本田で、いくら気弱で自分で抵抗する勇気はなかったとしても、学校や周囲の人間に相談するくらいできそうなものだが、対人恐怖症的なところもあったのか相談できる友はなく、東京で唯一知っている人間は片倉だけだったようだ。

知人が片倉のようなバカしかいないとは最悪である。

強制受験勉強が始まって一か月後、本田の大学は夏休みに入った。

だが、本田に遊ぶ時間はない、夏休みを制する者は受験を制するのだ。

学習時間は、なんと12時間にされてしまった。

これでは、授業がある時よりきつい。

本田がウトウトする頻度も多くなり、そのたびに、片倉によるお仕置きにも力がこもる。

「もうすぐ大学入学資格検定やぞ、分かっとるんか!!?」

そして、大学の夏休みも終盤を迎えた8月28日、朝から英語の学習をさせられていた本田がまた居眠りを始める。

「ナニ寝とるんじゃい!ボケェ!!」

この日、特に機嫌が悪かったらしい片倉は激怒し、火で熱したナイフを本田の右腕に押し付けた。

「あっつううううう!!!!」

この暴行には、さすがの本田もたまりかねたようだ。

同日午後1時ごろ、今までされるがままだった彼は、隙をついて部屋から脱走。

110番通報した結果、駆け付けた警察官によって片倉は暴行傷害の容疑であっさり逮捕され、その実現方法を大いに間違えた夢は潰えた。

自分が受かる自信がないから、他人に受験させようと勉強までさせ続けていたこの奇特な事件だが、加害者の片倉も相当なバカだが、被害者の本田もかなりのもんであろう。

一番悪いのは片倉だが、ここまでされるがままだった本田も問題だと言わざるをえない。

極端にバカで凶悪な奴と極端に気弱な奴が出会ったからこそ起きた世にも珍妙な事件であった。

新聞記事の一部

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出典―読売新聞、毎日新聞、朝日新聞

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昭和の超戦闘的暴力団抗争 ~1964年・第一次松山抗争~

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1964年(昭和39年)ごろの日本は、社会全体に活気があった。

高度経済成長の真っただ中だったし、この年の10月には東京オリンピックを控えており、三種の神器と呼ばれたテレビ・冷蔵庫・洗濯機が全国の家庭に普及して、生活が目に見えて便利になっていくのを体感できるなど、現在も未来も明るかった時代だ。

当然、日本企業も一般庶民も元気だったわけだが、そうであってはまずい人たちも元気だった。

すなわち、反社会勢力、暴力団のことである。

その中でも最も威勢が良かった組織の一つが、ご存じ現在も神戸市に本拠を置く山口組であり、すでに西日本を中心に日本全国へ地元組織を屈服させながら、勢力を拡大中であった。

そして、その魔の手は四国の愛媛県松山市にも伸ばされ、同市を仕切ってきた地元暴力団の郷田会と対立。

1964年6月には、その対立がエスカレートして、現在なお語り草となっているパワフルな抗争が勃発した。

当時のサンデー毎日が報じた暴力団事情

抗争の発端

もめごとのきっかけは1964年4月2日、三代目山口組(田岡一雄組長)の直参である矢嶋長次(28歳)率いる矢嶋組が、愛媛県松山市大手町の大陸ビルの一部屋を「八木保」という人物の名義で借りたことから始まる。

矢嶋組は、電通局の下請業者として協同電設株式会社を設立し、電気工事事業を始めようとしたのだ。

だが松山市内の同事業は、それまで地元暴力団である郷田会が牛耳っていたために、山口組二次団体である矢嶋組の参入は、同会にとって縄張り荒らしも同然の行為であって面白いわけはなく、軋轢が生じ始めていた。

ちなみに郷田会は、関西を舞台として、当時まだ山口組と対等に張り合うことができた広域暴力団・本多会の二次団体である。

巨大組織をバックにする両者が衝突する事態になったのは、矢嶋組が協同電設株式会社を設立した2か月後の6月。

6月2日に、矢嶋組は再び「八木保」の名義で東雲ビルと入居契約をし、同3階を借りて事務所としたのだが、この東雲ビルこそが、その後の銃撃戦の舞台となる。

そして、三日後の6月5日に最初の事件が起きた。

同日の夜11時ごろ松山市内のバーで矢嶋組組員・末崎康雄(30歳)とその舎弟の門田晃(19歳)が酒を飲んでいたのだが、そのバーのママは矢嶋組と一瞬即発になっていた郷田会の会長と関係の深い女。

郷田会の息がかかっていることを自認するママは、敵対組織の手下が自分の店に来たことを訝って「矢嶋組の若いモンが来とる」と郷田会の事務所に連絡、いきり立った郷田会の組員・野中義人(20歳)ら数人がバーに殺到した。

肩を怒らせてバーにやって来た野中たちは、末崎ら二人を見るなり怒り狂った。

末崎たちは、ついこないだまで自分たちの郷田会事務所に出入りしていたチンピラであり、ゆくゆくは、こちらの身内となるはずだったのに、敵である矢嶋組のバッチをつけていたからだ。

「こん裏切りモンが!」

郷田会のヤクザたちは、末崎と門田を拉致。

末崎は逃げたが、取り残された門田は、さんざん暴行を加えられて拳銃で銃撃までされてしまった(拳銃が粗悪な模造銃だったためにさほど威力はなかった)。

翌6月6日、矢嶋組の側は一応この件について市内の喫茶店で郷田会幹部と話し合ったが、「ウチの若いモンやった奴出せや」だの強硬だったために、物別れに終わる。

すでに矢嶋組の方では、組員一同昨晩の事件について話し合った結果、「ウチにケンカを売っている」ということで、意見が一致していたのだ。

ヤクザ者同士が話し合いで決着しないなら、どう決着をつければよいかは決まっている。

同日のうちに、矢嶋組組長の矢嶋長次は戦争の準備を命じ、事務所となっている東雲ビル3階に、きっかけを作った末崎をはじめ銃器を持った組員たちを待機させた。

白昼の銃撃戦&籠城戦

6月7日(日曜日)午前10時、矢嶋組が早速行動を開始する。

末崎ら矢嶋組組員数人は東雲ビルを出て、郷田会傘下組織の岡本組の組員・阿部公孝(20歳)を阿部の自宅の付近で、拳銃を突きつけて拉致、東雲ビル3階に監禁したのだ。

そして午前11時、岡本組・岡本雅博(29歳)組長に電話をかけて、「テメーんとこの若いモン預かっとるから受け取りに来んかい」と挑発し、これを受けた岡本組組員・金昌二(22歳)や野中義人はじめ4人が、自動車2台に分乗して東雲ビルに急行する。

言うまでもなく、金たちは猟銃や拳銃などの道具持参だった。

午前11時50分頃、東雲ビルの近くまで来た岡本組組員の乗る車2台は、通りを歩いていた矢嶋組組員であるくだんの末崎ら2名と出くわす。

末崎たちは拳銃を持っていたが、分が悪いと見て逃走、発砲しながら追ってくる乗用車2台に応射しながら、東雲ビルに向かって走っていく。

この際に、末崎が猟銃の散弾を受けて負傷したものの、2人とも東雲ビルに逃げ込むことに成功した。

ダイアグラム

中程度の精度で自動的に生成された説明

ビル内の矢嶋組事務所には末崎含め同組員が8人おり、岡本組の車2台が東雲ビル前の路上に到着するや、3階の窓から数人が車2台にめがけて、拳銃や猟銃、ライフルを発砲、岡本組組員の野中と金、もう一人の未成年組員(19歳)が被弾する。

岡本組の組員たちも車を盾に応戦し、白昼堂々の銃撃戦が始まった。

あさま山荘や少年ライフル魔の事件のように犯人の側がほぼ一方的に銃撃するものではなく、銃器を持った双方が互いを狙って複数発撃ち合う正真正銘の銃撃戦である。

銃撃する矢嶋組組員

これら一連の銃撃戦は市内の公衆の面前で行われたために、管轄の松山東警察署には110番通報が殺到、12時5分頃には、通報を受けた同署の捜査員6名が防弾チョッキ着用で東雲ビル前に急行したが、この人数で足りるわけがない。

とは言え、警官の出現はすで3人が負傷している岡本組組員たちには効果があったようで、4人は車に乗って逃走した。

彼らはその後、犯行に使った銃器持参で警察署に出頭している。

だが、問題は東雲ビルにいる矢嶋組の組員たち8人である。

彼らは、そのまま銃器を持って籠城を続けていたのだ。

中には、人質にされた岡本組の阿部もいる。

フェンスの前にいる男性の白黒写真

中程度の精度で自動的に生成された説明

午後1時頃までに、非常招集に応じた松山東警察署員が現場に到着し、東雲ビルの周りの交通を遮断、最終的には各警察署から応援で駆け付けた約250名の警官隊が包囲。

また、この日は日曜日であったこともあって、現場には野次馬が約千人も集まってきた。

警察は、籠城する組員たちに投降を呼びかけたが、全く応じる気配がないどころか、それに威嚇射撃で答え、その銃口を警官隊の次にうっとうしい野次馬たちにも向けて「撃ったろか、素人ども!」と吠える始末。

午後2時半に、最初の銃撃戦で被弾した矢嶋組組員の末崎が人質の阿部を連れた上にライフルと猟銃、拳銃を持って投降したが、残る7人は時々威嚇の発砲をしながら立てこもり続けた。

その後、説得を続ける警官隊に対し、籠城する矢嶋組組員の一人である片岡正郎(23歳)が「午後4時までに全員降りてくる」と答えはしたが、午後4時を過ぎても投降してくる気配はない。

警察の側にも、強硬手段を講じる時が来た。

警官隊は予告の上、東雲ビルの3階の窓へ催涙弾2発を撃ち込んで20名で突入。

乱闘の末、矢嶋組組員7人全員を逮捕した。

矢嶋組のヤクザたちは銃器こそ持っていたが、それを使うことなく拳で抵抗したらしい。

この突入で警官2人が負傷、その腹いせか、組員たちは警官に殴られながら連行されていった。

本を持っている人の白黒写真

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その後

この銃撃戦で岡本組側から3人、矢嶋組から1人の負傷者を出したが死者はなく、突入の際に警官二人が軽傷を負った以外に、野次馬にもけが人はなかった。

しかし、この事件は社会と愛媛県警に重大なインパクトを与えることになる。

白昼堂々の市内での銃撃戦は、やはりやりすぎだ。

事態を重く見た愛媛県警によって、矢嶋組は組長の矢嶋長次はじめ組員のほぼ全員が逮捕され、郷田会は組長の郷田昇含む41人の逮捕者を出して、多数の銃器と弾薬が押収された。

カレンダー が含まれている画像

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また、かように大それた出入りを起こした矢嶋組は組員数が20人ほどで、もう一方の郷田会は、その下部団体全員を含めても50名に満たないくらいだったと言われているから、さほど大きな組織同士の抗争というわけではない。

だが、それぞれの上部団体は各地に系列団体を有する巨大組織の山口組と本多会。

両団体は後日、系列の組から松山に、それぞれ応援の組員を派遣してきた。

その内訳は、山口組が101人、本多会が44人であったが、これを予想していた愛媛県警の検問によって、両団体の応援は阻止されて抗争の拡大は防がれた。

後に、第一次松山抗争と呼ばれたこの衝突は、松山刑務所の拘置所に収容された双方の組長である矢嶋と郷田が五分の手打ちをしたために終結したが、両組織とその後ろ盾だった組織の明暗は、はっきり分かれていくことになる。

矢嶋組は、組長の矢嶋長次が、後に懲役7年の判決を受けて服役することになるが、六代目山口組の二次団体として令和の現在も存続。

一方の郷田会は、郷田昇が実業家に転身したために1964年のうちに解散し、郷田会のバックだった本多会も、翌年1965年に解散して大日本平和会と名を変え、右翼団体として活動を続けたが勢力を縮小させ、1997年をもって解散した。

ちなみに、この抗争によってあまりにも多くの暴力団組員が拘置された松山刑務所では、1人の看守が買収されたことをきっかけに、ここの職員はチョロいと判断した組員たちが増長。

飲酒、喫煙、賭博など、やりたい放題した挙句に看守を脅してカギを奪い取って我が物顔で刑務所内を自由に歩き回り、女囚が収容されている女区に入り込んで強姦まで行った「松山刑務所事件」が起きた。

壁に貼られたポスター

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出典元―愛媛新聞、朝日新聞、読売新聞、サンデー毎日

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見るだけの人お断り ~2000年・暴力ブティック「ヨコハマソウルシティ」~

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。

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「万引き」「金無し」「見るだけ」「ひやかし」

上記の方は、入店を固くお断りします。

今から二十年以上前、横浜市元町に以上のような注意書きを記した紙を入口に貼って、営業していた店が実在した。

その名は、ヨコハマソウルシティ

そりゃあ、買う気もないのに店に来て何も買わずに帰っていく奴は、店の側からしたら好ましくないのは理解できるが、こうもはっきり書かれると、感じがバチクソ悪い。

たいていの人は、かように不遜な注意書きを見せられたら、入る気は失せるだろう。

だが、中には「そんなバカな」と高をくくるか見落として入ってしまい、「万引き」はともかく「見るだけ」で帰ってしまおうとする人もいた。

そして、そういった不注意な人々は、ヨコハマソウルシティが一般常識の通じる店ではないことを思い知り、同店どころか元町に行く気が終生起きなくなるくらいの思いをさせられることになった。

なぜなら、このヨコハマソウルシティは、暴力バーのブティック版、「暴力ブティック」だったからだ。

冷やかし客への過酷な仕置き

2000年11月17日、横浜の元町ショッピングストリートを訪れた村上園美(仮名・26歳)は、一軒のブティックに入った。

その店の入り口には、店名である「ヨコハマソウルシティ」のアルファベット表記の下に注意書きらしき貼り紙が貼られていたが、彼女の目は、ガラス越しの店内にある商品にあったようだ。

だからと言って、お目当てのモノがあったわけではない。

とにかく、これは、と思えるようなモノがあれば買おうというノリであり、なければ次の店に行けばよい。

ひととおり見て回って、なかなかいい感じと思えるコートを見つけた。

一応手に取って他のモノを物色するが、この店にはなさそうだ。

このコートも最初はいい感じだと思ったが、やっぱり買うのはやめとこう。

「試着してみますか?」

店主と思しき中年の男が話しかけてきた。

「すいません。やめときます」

悪いけど買う気はない。

元の場所に戻して次の店に行こう、と思っていたから、サバサバした感じで断った。

しかし、その店主の男の態度が次の瞬間に急変する。

「あ?試着しねえだと!?どういうことだ!オイ!」

いきなり怒声を張り上げ、園美を罵倒し始めたのだ。

え?何で何で?どうしてこんなこと言ってくるの?

まさか、店の人間からこんな態度を取られるとは予想だにしていなかった園美は凍り付いた。

「あ、いや、えっと…あんまり好みじゃなかったから…」

「表の貼り紙に書いてあんだろ!買う気がねえのに入ってくるたあ、ナメてんのか!?コラ!!」

「ごめんなさい」

大の男に大声で罵声を浴びせられ、園美はショックのあまり頭が真っ白になっていたが、この男が純粋にこの店の商品を買わないことにキレていることは分かった。

「じゃあ、これください…」

園美は一番安い小物を買って許してもらおうとしたが、男の怒りは収まらない。

「そんなもんで、お茶濁してんじゃねえ!てめえがさっきべたべた触ったコート買えよ!」

「いくらですか…?」

「42000円だよ!」

「そんなお金持ってません…」

男は、より激高した。

「金も持ってねえのにウチの店入りやがったのか!!土下座しろ!!ボケえ!!!」

「え…」

「しろっつってんだろ!!オラあ!!!」

あまりの剣幕に、すっかりおびえ切っていた園美は、へたり込むように土下座した。

ばかりか、男は店内でタバコを吸い始め、彼女をなじりながら吸い殻を投げつけることまでした。

園美は所持金3000円を取り上げられ、次の一週間後に残金を支払うことを約束させられた後でやっと解放されたが、この世のものとは思えないほどの言葉の暴力を加えられて、ズタボロにされた彼女は悔し泣きをしながら、その足で交番に駆け込んだ。

土下座の強制は、刑法的には義務のないことを命令したりする行為、強要罪であるから、立派な犯罪に当たる。

園美は被害届を神奈川県警加賀町署に提出し、同署は12月7日店主である石黒成(本名・38歳)を恐喝の疑いで逮捕した。

六年間のさばり続けたヨコハマソウルシティ

ヨコハマソウルシティは、事件の六年前の1995年に開店した当初から、何かと問題を起こしてきた店だったようだ。

商品を買わなかったばっかりに、園美のように土下座させられたり、肩を突き飛ばされたり、買うまで入口に施錠されて出してもらえなかったりしたなどの苦情が、元町の商店会や交番に数多く寄せられていたのである。

商店会は、たびたび改善を申し入れていたのだが、石黒は「これがうちの営業方針だ」と言い張って、聞く耳を持たなかったという。

また、被害にあうのは冷やかし客だけではない。

事件の起こる二か月前の9月には、店舗の前に配送のトラックを停めた男性に「店の前の道路もオレのもんなんだよ」とか「オレの店は1時間1万円売る店だから1万円分買え」などと、Tシャツ3枚を無理やり買わせて、1万1000円を恐喝していたのだ。

ちなみに、その店の前の道は市道であり、トラックが停まっていた時間に店のシャッターは閉まっていた。

こういうことが重なって石黒はとうとう逮捕されたが、取り調べにあたった警官によると、この男は人格的に大いに問題があったらしい。

彼は、事情聴取を受けている際にたびたび激高して大声を張り上げて、反抗的な態度を取ったかと思えば、ほどなくして、人が変わったように猫なで声を出すなど、感情の起伏が激しすぎる面が目立ったという。

何らかの人格障害があったと思われる。

ヨコハマソウルシティは店主が逮捕された後、残った女性の店員が営業を継続。

しかし、この店員もかなりの強者で、あるテレビ局が取材したところ、

「うちは、こういう方針でやっていますから」と悪びれもせずに言い放ったという。

もっとも全国的に、この店の危険性が知られた以上、営業を継続することは困難だったようで、翌年2001年の春には同店は閉店。

同年9月、恐喝、暴行罪に問われた石黒には、横浜地裁により懲役2年6月、執行猶予5年(求刑懲役2年6月)が言い渡された。

出典元―朝日新聞、日刊スポーツ

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ヤクザが最も凶悪だった時代 2 ~女子高生をナンパして歯を抜かれた大学生

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。

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日々ナンパやキャッチに励む諸君。

君たちの日ごろの行いは、世間の評価はさておき敬服に値すると私は信ずる。

そっぽを向かれるのを覚悟の上で見ず知らずの異性に話しかけ、自身の話術と魅力を駆使して何とか自分の思い通りにさせようとする行動力、何より勇気はたいしたものだと思う。

なぜなら無視されたり、冷ややかな態度を取られるだけならまだしも、相手の女によっては、とんでもないことになる場合もあるからだ。

今から20年前の2003年に、ある女子高生をナンパした私立大学三年生の高倉隆司(仮名・22歳)のように。

猛毒女

2003年8月24日JR池袋駅西口で、大学三年生の高倉は仲間二人とともにナンパをし、ある未成年と思しき少女二人を自分の部屋に連れ込むことに成功。

本懐を遂げて見事勝利を収めた。

しかし、彼らはナンパした相手を大いに間違えていたことに、この時は気づかなかった。

連れ込んだ女はとんでもない奴だったのである。

大満足の高倉たちの一方で、連れ込まれた二人のうちの一人の女、都立高校二年生の山下侑理江(仮名・17歳)の方は、負けた気がしていた。

たいして好みでもない奴らの口車に乗ってしまい、言いなりになってしまったことが、悔しくて悔しくて仕方がない。

この恨み、晴らさでおくべきか。

相手は大学生で、そんなにヤバそうな奴らじゃなかったが、男相手に直接自分でやることはしない。

不良少女の山下には、こういう場合にとても頼りになりそうな知り合いに心当たりがあった。

それは、藤川直哉(仮名・30歳)という男。

関東に拠点を持つ指定暴力団住吉会系の組所属の暴力団員だ。

暴力団の恐怖

ヤクザの藤川と女子高生の山下がどのように知り合ったかの詳細はよくわかっていないが、だいたい想像はつく。

おそらく、街でたむろしていた山下に藤川が声をかけて、「何かあったら連絡しろ」とか言って、組の代紋入りの名刺を渡したか何かだろう。

裏社会の人間にとって若い女は何かと利用価値が高いから、なるべくたくさんつばをつけておくに越したことはない。

一方の山下はバカに決まっているから、頼りがいのある知り合いができたと、ほくそ笑んだはずだ。

そして、何の考えもなくその力を利用することに決め、藤川に連絡を取った。

「あのさ、金取れそうな話あんだけど」

とっちめた上に、金をいただこうという算段だったんだろう。

話を持ち掛けられた藤川だったが、こいつはペーペーの組員で単体ではさほど頼りにならなかった。

自分で動くことができないし、動かせる下の人間がいなかったらしく、取り分が減ることを覚悟のうえで、組の幹部である能勢将大(仮名・41歳)に相談する。

能勢は組の幹部ではあったが、チンケなヤクザであったようだ。

小娘の持ってきた話に大真面目に乗って、山下をナンパした大学生から金を脅し取る計画を練り始めた。

そしてその小物ヤクザの考えた計画はすこぶる正攻法だった。

8月31日未明、能勢は山下に教えられた高倉のマンションに手下とともに押し入って高倉を粘着テープで縛り上げ、車のトランクに入れて拉致。

曲がりなりにも職業犯罪者だから、大学生のガキ一人をさらうなど朝飯前である。

いきなり相手の家に押しかけて連れ去るあたり、能勢は悪い意味で正統派のヤクザだったらしい。

そんな奴が脅して言うことを聞かせるためにまずすることは、たっぷり怖い思いを相手にしてもらうことだ。

そのために、高倉をトランクに監禁した車が向かった先は、人気のない河川敷である。

「コラ!ガキい!!詫び入れろや!!」

「すいません!すいません!もうかんべんしてくださいい!!」

トランクから出された高倉は、おっかない奴らに拉致され、すでに恐怖で泣き出している。

脅迫の第一段階は、十分に果たしたと言えよう。

だが能勢の脅迫には第二段階があった。

それは、すごく痛い思いを相手にしてもらうことだ。

「オラァ!口開けやがれ!!」

能勢は、高倉の口を無理やり開けさせるや、何とペンチで歯を抜き始めた。

「あががががが~!!!」

歯医者で歯を抜いたことがある人ならわかると思うが、歯を抜かれる痛みは半端じゃない。

もちろん、麻酔など使っていないからなおさらだ。

一本だけじゃすまない。

能勢たちは、さらに泣きわめく高倉の歯をもう一本二本と抜いて、合わせて上下の歯七本を抜いた。

地獄のような暴行である。

能勢は歯を抜き終わった後、山下をナンパした他の二人も呼び出し、三人にそれぞれ普段金として『150万円を払う』という念書を書かせた。

二人は歯を抜かれなかったようだが、歯を抜かれて口から血を流しながら泣いている高倉を見て、凍り付いたはずだ。

断ったら同じ目にあわされる。

高倉はもちろん、友人二人も念書を書かざるを得なかった。

彼らはその後解放されたようだが、こんなことをしたら警察に駆け込まれるのは目に見えている。

だが、長年ヤクザをやっていた能勢は経験上、徹底的に恐怖と苦痛を与えた相手は、決して訴えやしないという自信があったのかもしれない。

被害に遭った者は訴えたが最後、報復として同じ目かそれ以上ひどいことをされると、恐怖のあまり精神的に折れて泣き寝入りする場合が多いのだ。

そして、この凶行のきっかけとなった山下も、凍り付いたことだろう。

「まさかここまでやるとは思わなかった」と愕然とすると同時に、もしこの人たちを怒らせたら自分もこういう目に合うかもしれないと、震えあがったはずである。

それも、能勢の狙いだった可能性が高い。

「俺たちはここまでやってやったんだから、お前は何してくれる?」などと、過大な見返りを求めやすくなるからだ。

そして、それは延々続くことになるはずである。

それがヤクザというものだ。

しかし、この件が警察の知るところとなるのに、そんなに時間はかからなかった。

高倉たちが警察に駆け込んだのか、それとも医者か周囲の者が通報したのか、能勢や山下ら4人は事件からほどない9月18日には、逮捕監禁や恐喝で逮捕。

26日には、話をつないだ藤川も逮捕された。

その後、逮捕された能勢たちがどんな法的制裁を受けたか報道されていないが、高倉たち三人は、二度とナンパをする気がなくなったに違いない。

断られてもそっぽを向かれてもめげず、相手の迷惑そっちのけで道行く女性に声をかけ続ける諸君。

君たちも、十分気を付けてナンパにいそしんでくれ。

出典元―夕刊フジ、朝日新聞

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本格的不良俳優のさらなる転落 ~2003年・京都市下京区放火殺人事件~

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大地義行という俳優を、ご存じの方はどれだけいらっしゃることだろうか?

もしご存じならば、その方はヤクザものの映画やVシネマが好きで、それもかなり昔からのコアなファンだと言えるだろう。

大地義行、本名平野善幸は、1964年大阪府生まれ。

さまざまな経歴を経た後、1992年より俳優活動を開始。

Vシネマを中心に出演していたようだが、1998年の『JUNK FOOD』の出演を皮切りに、2000年から2002年にかけて『新・仁義なき戦い』、『荒ぶる魂たち』、『新・仁義の墓場』に出演。

コンピューターのスクリーンショット

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『新・仁義なき戦い』などのこれら三作の映画の出演者はベテラン俳優が目白押しであり、大地はほんのチョイ役の暴力団組員を演じていたにすぎなかった。

しかし、その毒々しい存在感と迫力は本職級であり、並み居る有名な役者たちに埋もれることが全くないほどのインパクトを残して「本格的不良俳優(ヤクザ俳優)」と注目を浴び、以後の活躍が大いに期待されるようになった。

だが、2002年の『新・仁義の墓場』以降に、彼の姿をスクリーンの中で見ることは不可能になってしまっている。

なぜなら殺人で逮捕され、無期懲役で服役しているからだ。

2003年1月16日の事件

グラフィカル ユーザー インターフェイス

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2003年1月16日午後2時。京都市下京区の木造二階建ての大地の自宅から出火して、二階の一室24平方メートルが焼ける火事が発生。

そして鎮火した後の焼け跡から、女性の焼死体が発見された。

死体は、仲居手伝いの丸山珠子さん(仮名・47歳)で、大地とは内縁関係にあった女性であったが、手足を電線コードやテープのようなもので縛られた状態で焼死していたことから、京都府警は放火殺人と見て捜査を開始する。

一方の大地は、火災時に現場にいたのだが、言動がおかしかったために、駆け付けた京都府警によって取り調べを受けた結果、覚せい剤反応が出たために逮捕されてしまっていた。

彼は覚せい剤の常用者だったのだ。

新聞記事の一部

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その後、大地は傷害事件で執行猶予中の身でもあったことから、覚せい剤の件で1年2か月の実刑判決を受けて服役することになったのだが、捜査の方は、状況証拠から明らかに怪しい大地を有力な容疑者として進められ、同年7月30日に、殺人・現住建造物放火の疑いで再逮捕となる。

大地は、女性を縛ったのは同じく覚せい剤の常用者だった彼女が暴れたからであるとし、火事はその時、部屋で点けていたストーブから出火したもので、自身が火をつけたわけではないと主張。

しかし、火事の時に、大地は救出しようともせずに、ぼんやりとしていたという住民の証言が決定打となって、大地は犯人と断定されてしまう。

グラフィカル ユーザー インターフェイス

自動的に生成された説明

2005年3月の京都地方裁判所の判決では懲役15年(求刑無期懲役)が言い渡されたが、ここでも大地は無罪を主張したため、大阪高等裁判所の二審では「反省の態度が見られない」と一審判決を破棄され、求刑通りの無期懲役が言い渡された。

2006年の最高裁でも、上告が棄却されて無期懲役の判決が確定。

もともと転落していた彼は、さらに落ちることができる最底辺まで落ち込んでしまった。

大地義行は、2022年の現在も徳島刑務所で服役している。

近所での評判

大地義行はヤクザ俳優として評価されたが、それはどうやら演技ではなかったらしい。

普段の大地は、商品にケチをつけては金を払わなかったり、近所での工事がうるさいと怒鳴り込んだりと、居住する地域では悪名高き迷惑住民。

火災で死亡した女性以外にも関係を持っている女性がおり、痴話げんかが高じて、時々自宅前の路上で暴力をふるったりもしていた。

また、映画の撮影においても現場に遅刻することがよくあり、怒られると逆ギレするなどなかなかのトラブルメーカーだったから、高く評価された演技は素だったのだろう。

「本格的不良俳優」ならぬ、単なる「本格的不良」だったと報道するマスコミもあった。

そんな彼だから近所の住民もよく思っておらず、「女性を助けようともせず、ぼんやりと座っていただけだった」という証言までされた。

当時の大地の人となりを知るそれらの人々には、「やっていないとは思えない」と言われている始末である。

そんな彼は今でも獄中で無罪を叫び続けており、支援する弁護士も現れて再審請求の活動がなされている。

確かに支援者らの主張によると、検察の提示した証拠には矛盾が多く、女性を助けようとしなかったどころか、燃え盛る家の中に入って救出に向かおうとしていたと、当時から証言していた人間も存在しており、今後の展開によっては、無実を勝ち取って出てくることがあるかもしれない。

しかし、彼は現在57歳。

獄中で、あまりにも多くの時間を失ってしまった。

自由の身になったとしても、もう彼の姿をスクリーンで見ることはできないだろう。

たとえ、この事件はやっていなかったとしても、今までさんざん周囲に迷惑をかけてきたのだから、人を殺したと疑われても仕方なく、自業自得だという人もいるかもしれない。

しかし同時に、彼の登場シーンを改めて見てみると思うのだ。

画面の中でヤクザを演じる大地は、本物の悪党そのものの脂ぎった嫌らしさを見事に醸し出し、ベテランのコワモテ俳優相手でも、全く迫力負けをしていない。

こんな毒気は、演技や稽古で作り上げられた悪役では、絶対に出せないだろう。

やっぱり、大地義行の姿をもっと映画で見たかった。

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ヤクザが最も凶悪だった時代 ~1998年・那須町調理師兄弟生き埋め事件~

本記事に登場する氏名は、一部仮名です。

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1998年11月27日、栃木県那須町のホテルに勤務する調理師の兄弟・丸田紘一さん(仮名・49歳)と丸田昭二さん(仮名・48歳)が、夜中に出かけたまま失踪した。

翌28日、弟の昭二さんの家族から捜索願が出されたが、兄弟に家出や自殺の動機が一切なかったことから、警察も事件に巻き込まれた可能性の高い特異家出人として受理して捜査に乗り出す。

栃木県警捜査一課及び二課、黒磯署は、兄弟の周囲でトラブルがなかったかの聞き込みを行ったところ、明らかに不審な点が見つかった。

兄弟は、暴力団関係者とトラブルを抱えていたのだ。

そして、27日の晩に飲みに行ったと思われるスナックで、暴力団員風の男らから、暴行を受けて連れ去られたことが判明する。

やがて、その相手であった暴力団員である岩瀬裕(本名・51歳)ら、三人を暴力行為違反法で逮捕して丸田兄弟の行方について聞いたところ、二人ともすでに殺されて栃木県那須町の山林に埋められていたことが分かった。

供述により、翌1999年1月8日に発掘したところ、地中から1.5メートルの深さの地点から二人の死体を発見。

身元はやはり、紘一さんと昭二さんであったが、司法解剖の結果、恐ろしい事実が判明する。

二人とも刺し傷などの外傷はなく、暴行を受けたことによる肋骨などの骨折があり、気管に土砂が詰まっていた。

つまり、生き埋めにされていたのだ。

「逆らう奴は許さん」

新聞記事の一部

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岩瀬裕。絶対に近づきたくない人相だ。

丸田兄弟を埋めたのは、山口組系の二次団体の組員の岩瀬裕(本名・51歳)、菅原康正(本名・31歳)、坂本薫(本名・40歳)である。

兄弟は、この岩瀬とトラブルになっていたのだが、そのきっかけは無茶苦茶なものだった。

それは、失踪する二か月前の9月下旬に、ある男性が岩瀬らに些細なことから因縁をつけられたことから始まる。

その男性は、丸田さんらの飲み仲間だったのだが、岩瀬は何と飲み仲間であるという理由で、丸田さんにまで慰謝料を要求してきたのだ。

とんでもない外道である。

こんな理不尽な要求でも、ヤクザが相手だと払ってしまう一般人もいるが、兄弟は断固拒否、再三にわたる恫喝も無視し続けた。

こんな奴らに払う義理はないし、払ったら払ったでまた何かとたかってくるに決まっているからだ。

こうして、約二か月が経過した11月27日。

その日、二人は弟の昭二さん宅で酒を飲んでいたが、午後11時半ごろ「ちょっと出かけてくる」と家族に言って出かけた。

行先は、黒磯市内のスナックである。

だが、このまま家で飲んでいるか、もう遅いから寝るべきであった。

なぜならば、そのスナックで彼らを脅し続けている岩瀬たちと鉢合わせしてしまったからだ。

岩瀬は、自分の要求を拒み続けていたカタギの相手が、自分たちの息のかかったスナックで平然と飲んでいるのに激怒。

自分たちを見てもビビらない態度も火に油を注いだ。

「テメーら!ナニ偉そうに飲んでやがんだコラ!!」

一緒にいた菅原と坂本、滝本郁夫(本名・43歳)も加わって、丸田兄弟に殴りかかって暴行を始めた。

岩瀬は51歳だったが幹部ではないペーペーの組員、つまり出世できずに、歳だけくった三流ヤクザだ。

そのくせ、世間から恐れられるヤクザの端くれであることに妙な誇りを持っており、堅気ならば自分の言うことにビビッて従うべきだと考えていた馬鹿野郎でもある。

そんな岩瀬は、畏怖されて然るべきヤクザである自分に逆らう丸田兄弟にはかなり腹を立てており、今日という今日はけじめをつけてやるとばかりに暴行を加えたが、これだけやられても泣きを入れてこない兄弟にますます逆上した。

「オイ、場所替えるぞ!」

二人をスナックの階段から蹴り落とし、自分たちの車に押し込んで、岩瀬と菅原、坂本が向かった先は那須町寺子丙の山林。

底辺ヤクザの岩瀬は、後先を冷静に考える頭を持っていない。

自分たちをナメた相手を生かしておくつもりはなく、埋めることにしたのだ。

この時、岩瀬は自分たちに協力させようと、もう一人の男を真夜中に電話で呼び出していた。

中林邦夫(仮名・49歳)という造園業に従事する男であり、ヤクザではない。

だが、岩瀬の組から金を借りたことがあり、金はすでに返済していたが、そのまま関係を断ち切れないでいた。

ヤクザは一度関係を持った相手を離さず、延々と自分たちに都合よく利用しようとするものなのだ。

中林が命じられたのは、人気のない場所に自分たちを案内することと、そこにショベルカーで穴を掘ること。

後に、殺人ほう助の罪で逮捕されることになる中林は「穴は掘ったが人を埋めるとは思わなかった」と供述しているが、自分がこの時こんな山奥で何のために穴を掘らされていたかは、十分に推察できていたのは間違いない。

かと言って拒否すれば「さんざん世話になったオレの言うことが聞けねえのか」などと言われて、どんな報復をされるかわからないし、下手をすれば、その穴に自分が入れられかねない。

警察が動くのは、やられてしまってからの方が多いのだ。

そんなことは百も承知の中林は「チャッチャとやれよ!」とか、岩瀬らにどやされながら嫌々ショベルカーを操作した。

「テメーらが埋まる穴だぜ」

丸田さんたちは、自分たちを埋める穴を掘るところを見せられて、恐怖のあまり絶句していたという。

穴を二メートル程度まで掘り終わると、車から引きずり出して穴に蹴り落とす。

二人とも穴から出ようとしたが、上から踏みつけられて、再び落とされた。

そして、犯人三人のうち一人がショベルカーを運転して穴に土砂をぶっかけ、兄弟を生き埋めにした。

ナメられたと思ったら、なりふり構わないから職業犯罪者であるヤクザは恐ろしい。

だが、しょせんはヤクザの中でも低級な部類に属する岩瀬の犯罪。

それまで被害者を脅していたり、スナックで暴行を働いたりと目立ちすぎ、捜査線上にすぐに浮かんで逮捕となった。

いくら犯罪者に甘い日本でも、こんなことをしでかしてただで済むわけがない。

岩瀬は、翌1999年11月18日に求刑どおり無期懲役の判決を下された。

本来なら死刑が妥当な気もするが、犯罪の冷酷さから、現在まだ生きていたとしても塀の中のはずだ。

また、出てくることもないだろう。

ヤクザが最も恐ろしかった時代、そして今後

この1990年代後半から2010年代にかけて、ヤクザが最も凶悪化した時代ではないかと本ブログの筆者は個人的に思う。

一般人を相手にした殺人事件が、やたら目立ったのだ。

ちなみに栃木県では、この那須での生き埋め事件からさかのぼること一年前の1997年11月30日にも、凶悪な事件が発生している。

同じ栃木県内の真岡市のスナックで、松葉会系暴力団の組員二人が口論になったとび職の男性を、さんざん暴行した上に店外まで連れ出し、とどめとばかりに車でひき殺したのだ。

新聞の記事

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2001年7月には、出会い系サイトで知り合った女性のとの間で金銭トラブルを起こした埼玉県越谷市の高校教師が、女性の背後にいた暴力団組員に監禁されて金を脅し取られた上に殺されて、静岡県内の山林に遺棄された。

2002年3月4日には、兵庫県神戸市で神戸商船大学の大院生が暴力団員に言いがかりをつけられて暴行後、拉致されて殺される事件が起きている。

暴力団が背後に立って違法な金利で取り立てをする闇金が生まれ、振り込め詐欺が横行しはじめたのもこの頃だ。

それ以外にも、中国人窃盗団の手引きをしたり、中には自ら一般人の家庭に押し込み強盗を働いて、家人を殺傷する組員すら出現していた。

思うに、90年代後半は暴力団対策法が施行された上に、不況で資金獲得が難しくなってきた時期でもあったから、シノギのためには、なりふり構っていられなかった組員が多かったはずである。

だから余裕がないあまり、テンパって暴走する者が少なからず出たようだ。

何よりこの頃は、血気盛んな若年の組員の総数も多かったからなおさらである。

今から考えれば、恐ろしい時代だ。

だが2004年以降、さらに暴力団を締め付ける暴力団排除条例が各地の自治体で施行され始めて、暴力団は徐々に弱体化してゆく。

暴力団員が犯罪を起こせば、より重い刑罰も課されるようになり、抗争はもちろん、シノギもますます難しくなる。

脱退者は増え続けるのに加入者は少なく、2022年の現在は、残った組員たちも高齢化して行動力も低下し、もはや、かつてのように我が物顔でのさばることはできなくなった。

強力な悪を追い詰めた結果、その悪がより凶悪になった1990年代後半から2010年代を経た後、その勢力は力を失いつつあるのだ。

これは、表面上とても良いことに思える。

だが、本当にそうか?

一つの勢力の力がなくなれば、その空白を別の勢力が埋めるのが世の常だ

現実に暴力団の弱体化とともに、半グレと呼ばれる勢力が力を伸ばしてきたのは周知のとおりである。

どの時代でも、道を踏み外す者は出てくるが、その受け皿が暴力団という勢力から、半グレという新しい勢力に移りつつあるのだ。

外国人の犯罪組織も、今後ますます力を持つようになるだろうし、もうすでに地盤を固めている可能性もある。

そして、こういった新たな勢力というのは往々にして旧勢力よりやっかいで、扱いにくいものであることが多い。

事実、彼らは従来のヤクザ組織と違って実態がつかみにくく、その全容を把握するのは困難であるという。

よって、暴力団の完全消滅は、より安全な社会の到来であると筆者は無条件に信じることができない。

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軟弱日本人大学生に白人至上主義者の洗礼 ~90年・デンバー日本人大学生襲撃事件~

本記事に登場する氏名は、一部を除き、全て仮名です。

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1990年10月7日深夜、アメリカ合衆国コロラド州デンバー市のダートマス公園。

六人の日本人大学生が現地の若者四人に襲撃され、暴行を加えられた上に金品を奪われる事件が起きた。

当時の日本はバブル期真っただ中。

日本経済は最盛期であり、有り余る金と強い円を背景に、人も企業も海外に進出していた時代である。

同時に、安全な日本と同じ感覚でふるまって犯罪者の恰好の餌食になる邦人が後を絶たず、危機管理の意識の低さが指摘されてもいた。

この災難に遭った六人の若者も、その無自覚な日本人の典型例であることは間違いがなく、彼らのケースは「こうなってはならない」という悪い見本として、その後しばらく語られることになってしまった。

日本人ばかりのアメリカの大学

帝京ロレットハイツ大学(現コロラドハイツ大学)

襲われた日本人大学生たちは、同デンバー市のサウス・フェデラル・ブルーバードにある帝京ロレットハイツ大学の学生たちである。

帝京ロレットハイツ大学とは、その名のとおり日本の私立大学である帝京大学の系列であり、もともと経営難で破産したカソリック系の学校を受け継いだリージス大学から、前年の1989年に買収したものであった。

「国際化」が叫ばれ始めた80年代後半から日本の私立大学の米国進出が相次いでおり、帝京大学もその波に乗ったのだ。

同大学はこれ以後、デンバーの同校と合わせてアメリカに系列の大学を五校も開校させることになるのだが、この帝京ロレットハイツ大学は、他の四校とはやや違った点があった。

それは、建物と土地は揃っていたが、肝心の教授や教員、清掃や事務担当の職員などもおらず、何より、元からそこに通っている在学生がいなかったことだ。

そこで、買収の翌1990年に開校して、新入生の受け入れを始めたのだが、何と帝京大学はその新入生を全て日本国内から募集し、その数は374名にものぼった。

そして、この学生たちの多くは、アメリカの大学に来たからと言って、英語力も目的意識も高い者たちではなかった。

帝京大学を受験した受験生の中で、第二志望として、同じ帝京大学系列の同ロレットハイツ大学を希望するかという試験中に回ってきた書類に〇をつけた結果、ここへ入学することになった者がかなりいたのだ。

つまり、そういった新入生は、第一志望がこのロレットハイツ大学というわけではなく、日本国内の帝京大学に落ちた結果、アメリカまで来ることになったということである。

中には、そこしか合格できなかった者もいたようだ。

しかも、同校の教授陣やスタッフはアメリカ人とはいえ学生は日本人ばかりと、まるで日本国内の大学であるかのようであり、彼らも、日本にいるかのようにふるまうようになった。

もちろん、友達はみな日本人で、いつも話しているのは日本語である。

彼らが現地入りしたのは4月で、9月の本入学まで時間があり、それまで他の州へ研修に出かけたりと、みっちり英語のトレーニングを受けさせられていた。

しかし、元々のレベルがたいしたことなく、周りが日本人ばかりの環境では、どの程度向上したか推して知るべしであろう。

事実、本入学から学校での授業は全て英語だったが、学生たちのほとんどは、その内容を理解できなかったという。

どう考えても、アメリカの大学に来た意味がほとんどない。

もっとも、学校の外は完全にアメリカの街であり、ずっと学内や寮に閉じこもっているわけにもいかない学生たちは、最低限街に出る必要はあった。

だがこのデンバー市は、アメリカの中でも治安がかなり良い街であり、開校前にも地元住民たちによる露骨な反対運動なども起きておらず、街に金を落としてくれると、同市は帝京大学の進出を表向きは歓迎していた。

おかげで、彼ら日本人学生も街中で、受験から解き放たれた解放感をたいして危険な思いをすることなく、味わうことはできたようである。

しかし、この1990年は、国内経済が低調だったアメリカの不動産や企業などを日本企業が買いあさっていたこともあって、アメリカ人の間でやっかみ半分の「ジャパンバッシング」が起こっていた時代だった。

グラフィカル ユーザー インターフェイス, テキスト

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ジャパンバッシング

この一見友好的で平穏そうなアメリカ中西部の街にも、金にモノを言わせて大挙してやって来た日本人たちに反感を募らせ、それを行動に移す者たちはいたのだ。

帝京ロレットハイツ大学は、その年の開校早々、学校の敷地内に「ジャップス・ゴーホーム」と書かれたダイナマイトに似せた発煙筒が投げ込まれたり、学生の中には、白人の若者に怒鳴られたり、モノを投げつけられたりの嫌がらせを受ける者も出はじめた。

正式な授業が始まって間もない9月30日には、不用意にも深夜に外出した日本人学生二人が殴られて所持品を奪われる事件が起きているが、これは表沙汰にならなかったこともあって、他の日本人学生たちの危機意識を高めることにはならなかった。

そして翌月の10月7日深夜、これらノー天気な日本人学生たちばかりか、日本本土の日本人まで凍り付かせる事件が起こる。

1990年10月7日、事件発生

その前の日の10月6日は日本人学生の一人、小松善幸の20歳の誕生日。

それを祝って小松の友達の高石健、永田真也らが学校の寮の一室で飲み会を開いていた。

若者たちの飲み会なので、日が変わった夜12時になっても、宴たけなわでお開きになる気配がなかったが、ここは大学の寮である。

寮には「クワイエットタイム」という、騒いではいけない時間帯が規則として設定されており、いつまでもはしゃぎ続けるわけにはいかないのだ。

そこで、まだまだ飲み足りない彼らは、大学のすぐ近くのダートマス公園で飲もうということになり、寮を次々に抜け出した。

もちろん、この行為も寮の規則に違反している。

ダートマス公園(現ロレット・ハイツ・パーク)

彼ら日本人学生たちにとって、誰かの誕生日などは適当な居酒屋もカラオケボックスもないデンバー市では、恰好の憂さ晴らしだったのだろう。

規則を破って公園に集まったのは、30人近くにも上った。

学生たちは、園内の街灯の下に集まって「二次会」を始めた。

バンドをやっている高石の仲間の永田が、持参してきたギターで演奏を始め、酔いが回っていた学生たちも、カラオケ替わりに歌い出す。

デンバー市が、いくらアメリカでも治安の良い街とはいえ、真夜中の公園で飲み会とは無警戒極まりない。

しかし、学生たちは以前にも、他の学生の誕生日を祝って深夜のダートマス公園でこのように騒いだことがあり、今回が初めてではなかった。

しばらく飲んだり歌ったりのどんちゃん騒ぎをしていたが、高原都市デンバーの夜は10月初旬でも冷える。

やがて、大勢いた学生たちも一人二人と寮に引き上げ、残ったのは、今回の飲み会の主役である小松善幸、その友人の高石健、永田真也、矢萩芳樹、前原健吾、久木田恵一の六人のみとなった。

彼らは朝まで騒ぐつもりだったようだが、六人になってほどなくして、自分たちのすぐ近くに人が来ていることに気づく。

寮からの新たな参加者ではない。

現地の白人の若者たちで、全部で四人いる。

そのうち一人の長髪で2m近くの長身の男が口笛を吹くと、彼らは、小松たちを囲むような配置を取った。

その様子から、お友達になりに来たのとは逆であることが明らかであり、おまけに手にバットを持っている。

そのバットの用途は、状況から考えて容易に察しがつく。

相手は自分たちより少人数だったが、どいつもこいつも自分たちより強そうな白人の男たちを前に、肝っ玉の小さい日本人学生たちは震えあがった。

日本の街中で、ヤンキーに絡まれるよりずっと怖い。

「Show me your fukking ID!!」

やがて、そのうち一人の口ひげを生やした男が、IDを見せるように高飛車に命令してきた。

「アイドントハーブアイディー、ビコウズ…えと、えと…」

寮からそのまま出てきたので、IDなど持っているわけがない。

最初、その招かれざる客が公園の警備の人間か何かだと思った学生もいたようだが、続けて白人の一人が金を要求するようなことを言ってきたのを聞くや、誰もがこれはおかしいことに気づく。

彼らの貧弱な英語力でも、これがカツアゲそのものの脅しであることはわかったのだ。

「なあ、これやばいんちゃう?もうずらかろうや…」

六人のうち、矢萩が高石にボソボソとささやいたが、すでに遅い。

もう完全に囲まれてしまっていたのだ。

「Lay down!!」

次に、男たちは腹ばいになれと命令し、永田の持っていたギターを取り上げて破壊した。

呆然と突っ立っていた日本人のうち、前原が長髪の男につかまれて、もう一人の白人に、バットで太ももをはたかれて倒れ込む。

本格的な暴力に震えあがった根性なし六人は、一斉に言いなりになった。

腹ばいになった直後、まず最初に思わず顔をあげた永田がバットで頭を殴られ、それを合図に、他の者たちに対しても仕置きが始まった。

頭を殴り、思わず手で頭を覆うと、すかさずガラ空きの脇腹にバットがジャストミート。

起き上がろうとしようものなら背中に渾身の打撃を加えられ、かと言っておとなしく腹ばいになっていても、連続的にバットの一撃が降ってくるなど、小癪で無慈悲な攻撃が加えられた。

白人の襲撃者たちは、暴行しながら学生たちのポケットを探ったりして、財布やら金目の物を盗ってゆく。

小松は、指にはめていた指輪を先ほど口笛を吹いた長髪の大男に要求されたために、あわてて抜こうとしていたが、まごつき、イラついた長髪野郎に顔を蹴り上げられた。

しかしこの時、四人で六人の相手をしていた襲撃者たちにスキができる。

それを見ていたのか、高石が起き上がるや、公園の外へ向けて走り出す。

さらに、白人たちがそれに気を取られたのに乗じて、矢萩、永田、久木田が逃げ出し、一呼吸遅れて、小松と前原もそれに続いた。

白人たちも追いかけてきたが、てんでバラバラの方向に逃げる日本人学生の誰を優先的に追跡するかまごついたらしく、誰一人捕捉することができない。

逃走中に小松は公園を抜けて通りに出たところ、停車しているパトカーの存在に気づく。

中には警官が乗っており、何か書類を書いている。

助けを求めようと、パトカーのボンネットをたたいたら警官が出てきたが、何と警官は小松を捕まえようとしてきた。

不審者だと思ったようだ。

だが、小松には状況を説明できるような英語力はなく、公園を指さしてとっさに出たのは「向こう!向こう!」という日本語だった。

アメリカで半年間、何をやっていたのだろうか。

その後、小松は一瞬あっけにとられた警官をも振り切って寮に駆け込むことに成功したが、殴られた頭からは流血していた。

他の高石たち五人の学生も、ケガを負いながら逃走に成功していたが、彼らはこの件が表沙汰になることを恐れ、警察に通報することなく部屋に閉じこもる。

アメリカでは、法律で21歳以上でないと酒が飲めず、彼らは皆現役か一浪だったために、その年齢に達している者はいなかったからだ。

また、寮の規則を破って真夜中に公園に行っていたことも具合が悪い。

だが、逃げた小松を追って寮内に入ってきた警官たちに詰問されて、隠し通すことは不可能になる。

ともあれ、全員が負傷していたので、その夜は救急車で病院に運ばれた。

その後

バットまで使った暴行を加えられた彼らだったが、幸いにも頭部裂傷や打撲を負ってはいても命に別状はなく、骨折などの重傷者もなかった。

だが、この事件は被害者の思惑とは裏腹に大いに表沙汰になってしまい、日本国内でも報道されてしまう。

この事件は、当初から日本人に反感を持つアメリカ人によるヘイトクライムではないかと日本国内では予想されており、アメリカの暗部の恐ろしさを、国内の日本人に大いに知らしめた。

同時に、真夜中の公園に出かけて騒いでいた日本人学生の軽率さにも非難の声が上がる。

その声は、特にアメリカ在住の日本人や日系人からのものが大きかった。

さらには学生たちだけでなく、アメリカ国内に開校した学校に日本人だけを受け入れたおかげで反発を招いたとして、帝京大学を批判する人も少なくはなかった。

一方、現地のデンバー市警も、この事件はヘイトクライムである可能性があるとして捜査を開始。

その結果、一か月後の11月にロレットハイツ大学の近所に住むジェームス・クロース(実名・当時18歳)、ハワード・クロース(実名・当時17歳)、デリック・ニース(実名・当時15歳)、トム・スティーブンス(実名・当時20歳)を、事件に関係したとして逮捕した。

新聞の記事のスクリーンショット

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これらの犯人のうち、ハワード・クロースは主犯のジェームスの弟で、同じくこの事件の犯人であるデリック・ニースとともに、直前の9月30日に起こったロレッタハイツ大学の日本人学生の暴行にも関与しており、9月の事件の捜査で容疑者として浮かび上がった結果、この事件にも関わっていたことが判明して、犯人全員が御用となったようだ。

犯人たちは不良少年グループであり、日本人学生を暴行する直前には、駐車していた車を破壊している。

そして、ジェームスとハワードの兄弟は、白人至上主義者との関わりを周囲に吹聴し、普段から公然と日本人のことを「ジャップ」と呼んで嫌悪していた人種差別主義者でもあった。

日本の報道では、彼らが白人至上主義の秘密結社であるKKK(クー・クラックス・クラン)の関係者の可能性を指摘していたが、実際はスキンヘッズなどの団体の名刺をもらってはいても、有色人種襲撃などの目立った武勇伝を持っていないジェームスたちは、当の白人至上主義者から軽んじられていたらしい。

そんなジェームスらが日本人を襲ったきっかけは、全くの偶然だった。

それは、犯人グループ四人に少女二人を加えた六人が、その夜にビールを飲んだ後にドライブに出かけ、途中他のグループに喧嘩を吹っ掛けられたことから始まる。

相手は人数でかなわぬとみたらしく退散したが、彼らのむしゃくしゃは収まらず、家に帰ってバットやこん棒を車に積み込むと、誰でもいいから殴るつもりで、再び出かけたのだ。

事件の舞台となったダートマス公園の近くまで来た時、駐車していた車をうっぷん晴らしに破壊した後、彼らは園内から響く騒ぎ声を耳にした。

「あいつらをやろう」

まだまだ暴れ足りないジェームスたちの次なるターゲットは決まった。

彼らも、よくこの公園で夜中にビールを飲んだりして騒いだことがあり、「誰だか知らねえが、オレらの縄張りで勝手なことしやがって」という気持ちもあったんだろう。

公園内で騒いでいるのが何者か、まだこの時点ではわからなかったが、女たちを車に残して、四人はぶちのめす気満々でバットやこん棒を手に園内に入って行き、同暴行事件が起きることになる。

日ごろから嫌っているジャップが相手だとわかり、相手の中に抵抗してくる気合のある者がいなかったこともあって、ジェームスたちは大張り切りで、やりたい放題やってしまったのだ。

主犯のジェームスは警察の取り調べで、日本人に因縁をつけて暴行したのは、主に弟のハワードとデリックであり、自分は暴行にバットなどを使っていなかったし、自分が暴行に参加したのは、日本人に殴られたためだと主張。

しかし、このジェームスは長髪に195cmの長身という特徴があり、被害者の学生たちの証言で出てきた口笛を吹いて他のメンバーに指図したり、小松の顔を蹴り上げて指輪を奪ったりの大活躍をした、まさにその人物であったことは言い逃れようがなかった。

そして開き直ったのか、警察でのビデオ撮影付きの事情聴取ではふてぶてしい態度を取り、「ジャップ」という差別用語を何度も使い、白人至上主義者との交流をここでもほのめかした。

だが、この態度と供述で、ジェームスは墓穴を掘ったことになる。

アメリカは、人種差別がらみの犯罪には厳しい国だ。

ジェームス・クロースは、くだんのビデオでの供述の結果、翌年1991年5月の裁判において、ヘイトクライムの他、加重強盗、第二級暴行罪などで有罪になり、下された判決は何と懲役75年。

求刑の際には、自分の予想をはるかに超えた刑期だったことに動揺し、195cmという無意味に大きな体をくねらせて慟哭したという。

弟のハワード・クロースも、犯行当時17歳であったが成人と同じように裁かれ、ヘイトクライムで悪質極まりなかった犯行に積極的に加担したこともあって、兄と同じ懲役75年を下された。

デリック・ニースは、犯歴を重ねた本格的な不良少年であり、学生たちにIDを見せろと命令したり、暴行にも大いに参加していたが、15歳という年齢から少年裁判所で裁かれ、刑期はたったの2年だった。

トム・スティーブンスは、最年長の20歳だったが、犯行にはあまり関わっていなかったとみなされ、裁判で証言をすることを条件に司法取引し実刑を免れた。

一方の被害を受けた学生たちのうち、小松、高石、前原、久木田は、その後も大学に通い続けたようだが、永田と矢萩は退学して日本に帰ってしまった。

日本は事件の翌年、バブルがはじけて失われた時代が始まり、もはや我が者顔で日本人が海外をのし歩ける時代ではなくなっていったが、帝京ロレットハイツ大学はコロラドハイツ大学へと校名を変更し、帝京大学グループのうちの一校として、現在も存続している。

そして、この事件は、その後しばらく、これから海外へ出ようとする日本人に対する警鐘を鳴らすものとなった。

しかし、その警鐘は長く響かなかったか、聞こえても耳を素通りしていた者がいたようだ。

翌1991年のパキスタンを舞台に、この帝京ロレットハイツ大学の大学生を、はるかに上回る軽率さと身勝手さで、より大規模な犯罪に巻き込まれる日本人大学生が現れるのである。

続く

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