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誤解を招く名言の真実 – 名言の裏に潜む危険な思考


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世の中には数多の格言、名言、ことわざ及び喩えがある。

これらは昔から伝わっていたり、偉人や有名人が言った言葉だったりする。

それを心の支えにして自分の座右の銘にしている人もいれば、昔からこう言うんだからこうしろと他人を言いくるめて納得させるために使う人もいる。

だが、我々は果たして昔から言われてきたから、あるいは偉い人が言ってたからと無条件にそれを信じたり、他人に偉そうに説教するために使ったりしていいのだろうか?

実は結構ツッコミどころがあるんじゃないだろうか?

私の中では個人的にどうしてもおかしいと思ったり、誤解を招きかねず鵜呑みにすると危険な格言やことわざがある。

ヒマな私はそれをいくつか取り上げて、批判的考察を述べたいと思う。

●「嘘つきは泥棒の始まり」

いや違う。そうとは限らない。

ちゃんと嘘つきのその後と、泥棒の過去をリサーチしたのか?

両者は別物だ。必要となるスキルに互換性は少ない。

嘘つきがプロフェッショナル嘘つきの詐欺師になることはあっても、泥棒に転化するとは限らん。

軽度のアマチュアであるが、結構嘘つきな私が言うんだから間違いがない。

私は嘘をついたことはあっても、モノを盗んだことはないからだ。

ちなみにこれは嘘をついていないからな。念のため。

●「立つ鳥跡を濁さず」

私は個人的にこの言葉が相当嫌いだ。言われるとムカつく。

経験上、かなり都合よく使われる場合が多いと考えるからだ。

そりが合わず大嫌いだった中学校の怨師(・・)や(恩師(・・)の誤記ではない)、立地条件や日当たりが悪すぎるのに、家賃やら更新料が高すぎるから引っ越すことにしたボロアパートの強欲大家とかが言ってた言葉である。

昔働いていたブラック企業を一方的にリストラされた時も、そこの総務部長がヌケヌケと言いやがった。

冗談じゃねえぞ!私は鳥ではない。

ムカついた場所を去る時は汚し放題汚して、ションベンしてから火をつけて出て行ってやりたいというのが本音だ!

●「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」

この言葉もおかしい。

発明王エジソンの言葉だが、多分に成功者バイアスがかかっていると思う。

特にスポーツの世界では思いっきり当てはまらない。

リーチが長くて肩幅の広い奴にボクシングで勝てるか?

身長2メートルの奴とバスケやって勝てるか?

西アフリカの黒人に100メートル走で勝てるか?

第一、言ったエジソン自身が「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄になる」と言いたかったんだとか、後にその意味を部分的に否定している。

子供だましだ。いい大人が大人に向かって言っていい言葉じゃない。

何らかの習い事を我が子にやらせたいと思った親が、その分野で明らかに才能のない子供に無理やりやらせる場合とかに使いそうな言葉だ。

ウチの親がそうだった。

だから私ならこう言う。

「天才とは、99%の才能と1%の努力である」

●「電車と女は追うな。すぐまた来る」

オーストリアの格言だ。

正直、若い頃この格言を知った時には雷に撃たれたようにしびれた。

何てカッコいい言葉なんだと思い、

私を振った女に未練たらしくするのをスパッとやめた。

しかし、中年になった今は思わない。

どちらにも終電というものがあることが分かったからだ。

あれやこれや大胆にも名言や格言にツッコミを入れたが、批判してばかりは建設的ではない。

実は私は既存の格言やことわざを改良したり、新たに自分で作った言葉もあるのだ。

憚りながら、いまここにその拙作をいくつか紹介させていただこうと思う。

〇「性犯罪者にも一分の理」

嫌な気分にさせて申し訳ない。

「盗人にも三分の理」ということわざがあるが、これは窃盗犯の肩を持っているのではなく、その気になればいくらでも理屈はつけられることを表している。

同様にこの言葉も性犯罪者の立場に立っているわけではない。

むしろ逆。

三分も理がつく盗人と比べて性犯罪者は一分しかなく、それくらい情状酌量の余地がないということを言いたかった。

「生活できない」「もう三日も食べてない」と比較して、「モテない」「彼女がいない」は1ミリも世の支持を得られない。

これは主に私自身に対する…いや、性犯罪をやりかねない者全員への警句である。

〇「出る鼻毛は抜かれる」

これを言い出した時、勘違いする人が本当に多かった。

「出る杭は打たれる」の類義語で、出て打たれたり抜かれたりするくらいになることはいいことだと答える人が意外といた。

違うのだ。

鼻毛は確かに必要だ。

呼吸する際、外部からの異物をシャットアウトするフィルターの役割を果たす。

だが、鼻の外に出てきたりしたら、抜かれるだろう?

鼻毛は、眉毛やまつ毛のように自己主張したら消される運命にある。

だから、自分本来の役割を果たし、それ以上でしゃばるなという警句のつもりなのだ。

〇「一知らせたければ、十聞かせよ」

これが普通なんじゃないだろうか?

一を知らせるには、十言わなきゃならない。

私は人にものを教える時はこうしているつもりだ。よく「しつこい奴だ」とか言われるが。

最初に勤めた会社の上司の口癖が「一を聞いて十を知れ」だった。

そんなテレパシー能力を人に期待してはいけない。

「一知らせたけりゃ一伝えりゃいいだろう」とおっしゃるかもしれないが、そうはならないことが多く、万全を期すべきだということを説いている。

〇「運命の女神はストーカーに屈する」

私の人生訓だ。

そろそろ人格を疑われ始めているだろうが、他に的確な喩えが思いつかない。

自らの運命に関して、

かのローマ帝国には「運命の女神は勇者に味方する」という格言があった。

ルネッサンス期のイタリアの政治思想家マキャベリも著書『君主論』で、

「運命の女神は女であり、彼女を支配するには怒鳴りつけ殴りつける必要がある。そういう者にこそ運命は従順になるようだから」

と、補足的にそのバージョンアップ版を論じている。

確かに、歴史を切り開いてきた者の多くには共通点がある

カエサルしかり、チンギスハンしかり、織田信長しかり、ナポレオンしかり…。

その後の運命はともかく、彼らは猪突猛進的な突破力によってそれまでの自らの運命を変えて一時代を築き、歴史にその名を残してきた。

皆、積極果敢な行動により運命を従わせてきた者たちなのだ。

マキャベリの言う通り運命の神は女。

それも男にも女にもモテモテな絶世の美女だから、気まぐれで傲慢不遜。

相手をその気にさせてもてあそぶのが大好きな性悪である。

むろん、一目ぼれしてこちらに寄って来てくれることは滅多にない。

ならばと、こちらから声をかけ、おだてて媚びを売ってようやく微笑んでくれたと思った瞬間、「遊んでやっただけなのにその気になりやがって」と冷酷にそっぽを向かれる。

ようやく交際できたとしても、すぐに飽きられて浮気され、自分の元から去ってゆく。

相思相愛の恋愛関係などほぼあり得ないし、長続きはよりあり得ないのだ。

ならば、好かれる必要はない。愛される必要もない。

言うことを聞かせさえすればよいのだ。有無を言わさず。

相手に言うことを聞かせたければ、愛されるより恐れられる方がはるかに効果的である。

勇気を持って果敢な行動により運命の女神を脅し上げて泣かし、髪の毛を掴んで連行し、自分の目指す道を共に進むのだ。

しかし、その勇気は一時だけではだめだ。終始一貫持続させる必要がある。

さもないと逃げられる。

また、女神が脅しに屈せず、反撃されたり逃げられたりすることも多い。

ローマの格言も、マキャベリもそういった場合をカバーしていない。

ならばどうするか?

そういう時はストーカー行為をすればよいではないか。

たとえ嫌われても、想い続けて付きまとうのだ!

勇気を持って行動を起こし、姿を現して「オレはお前の近くにいるぞ」とアピールすることも忘れるな!

何年かかっても自らの存在を主張し、ビビらせ続けよ!

運命の女神を従わせて自らの願望をかなえるには勇気を持っているだけじゃ足りない。

食い下がること、

執拗たることも必要とされるはずなのだ。

自分の願望に対して執拗であることは美徳である。

好みでも何でもない、むしろ「キモい奴」が荒れ狂いながらいつまでもまとわり続ければ、さしもの女神も恐怖で持ち前の冷徹ぶりが狂い始める。

いつの日か、彼女がおびえ切って「もう見逃して」と泣きを入れてくる時が来るだろう。

その瞬間こそ、断固見逃してはならない!

最大限の勇気を奮って全力で拉致し、有無を言わさず冷酷に××しまくれ!

そうすれば、運命の女神はもうあなたの奴隷だ。

私はロクな職歴もないフリーターだった29歳の時、翻訳者で身を立てようと思った。

その直後、運送会社の契約社員になって荷物の仕分けをしながら翻訳の勉強を続け、「いつの日か」が来るのをしつこく願い続けた。

39歳になってしまった時、ようやく「いつの日か」が「その日」となった。

「その日」を迎えて以降七年間、私は翻訳者・通訳者として未だ食うに困っていない。

だから、僭越ながら自信を持って言うのだ。

「運命の女神はストーカーに屈する」と。

いつの日か私も彼女に逃げられるかもしれないが、少なくとも好ましくない運命を望ましいものに変えさせることができたのは事実だと確信している。

他に類義語として、私のかつての恋愛哲学であった「来る者拒まず、去る者地の果てまで追い回す」などがあるが、

こちらの方は危険すぎるし、成功した後或いは成功する前に自身が社会的に破滅する可能性が高い。

あくまでストーカー行為は運命の女神相手だけにしよう。あなたも私も。

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「楽しい工作シリーズ」- 苦い思いでの工作体験


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タミヤの『楽しい工作シリーズ』をご存じだろうか?

総合模型メーカーとして世界的に有名な株式会社タミヤが1971年から販売する児童向けの動く模型工作のシリーズ製品だ。

同シリーズは、あらかじめ必要なパーツや組み立て説明書を揃えたダンプやフォークリフト、バギーなどの組み立てキットから、本格的な工作・開発に使えるパーツ物までを含んでおり、これまでに200種類以上が販売されている。

また時代とともに進化を続けた製品をリリースしており、ソーラーパネルを含むものや、近年では『カムプログラムロボット工作セット』のようにプログラミングの要素を含んだものまで登場している。

それは子供に動力や機構への理解を深めさせ、創造力をはぐくませるのに最適の製品シリーズの一つといっても過言ではなく、小学校時代に夏休みの工作や自由研究でお世話になった方もきっと多いはずだ。

これによってモノを作ったり機械をいじったりする楽しさを知り、その方面の道に進むきっかけとなった方も少なくないだろう。

反面、どうしてもうまく作れずに自分の不器用さを呪い、自分はこの方面に才能がないことをトラウマ級で思い知らされた方もいらっしゃるはずだ。

私のように。

自称科学少年

『楽しい工作シリーズ』とのファーストコンタクトは小学校四年生の時だった。

当時学校では四年生以上を対象にクラブ活動の時間が設けられており、生徒たちは「お料理クラブ」や「サッカークラブ」など自分の趣味・嗜好に合ったクラブに加入して活動していた。

私が入ったのは「科学工作クラブ」、モーターやギアなどの機械的動力を用いた工作を目的としたクラブだ。

「科学工作クラブ」では主にタミヤ(当時の社名は田宮模型)の『楽しい工作シリーズ』の組み立てキットやパーツを使って車やロボットを作っていた。

私が「科学工作クラブ」に入ったのは、世界の偉人伝で「エジソン」や「ライト兄弟」、「フォード」などを愛読していたことが大きい。

それに影響を受けた私は自分も機械をいじりたくなり、我が家の家電製品を勝手に分解しては修理不能にし、そのたびに親に折檻を加えられていた。

それでも機械いじりの誘惑に勝てなかったため、今度は作る方に回ろうと考えたのだ。

それに、段ボールや紙をハサミやカッターで切ったり、のりやセロハンで貼ったりの工作は三年生以下のガキの図工だ。

一方で乾電池やモーター、ギアなどで自動的に動くものを作るのは大人の図工である、というのが小学四年生だった当時の私の認識である。

こうして私は「大人」の仲間入りをすべく、「科学工作クラブ」に加入した。

楽しい工作シリーズの洗礼

クラブ活動が始まって、顧問の先生から与えられた工作のお題は組み立てキットを自由に選んで作れ、というものだった。

一緒に入った同級生たちはこういったモーターだのギアだのを使った科学的な工作をやるのが初めてな者が多く、買ってきたのは自動車工作基本セットなどの構造が単純でひかえ目なもの。

私が買ってきたのは『F1工作基本セット』。

値段も工作の難易度もやや高めだったが、完成した後スピードで他の生徒の作品を圧倒してやろうという小癪な考えを持っていた。

これは科学工作とは関係ないが、私自身が非常に見栄っ張りで自分の実力をはるかに超えて背伸びしたがる性格に起因する。

それに私は今まで、家電製品の分解を経験するなど機械をいじることに慣れているという自負があった。

そんな玄人はだしの私が、ド素人の同級生たちと同じレベルのものであっていいはずがない。

だが、間違っていた。

私は分解して壊すことには慣れていても、組み立てて作ることには慣れていなかったのだ。

そう言えば、この当時の何年か前に流行ったガンダムのプラモデルも、まともに完成させたことがない。

並外れて不器用だし、より致命的なのはパーツをしょっちゅうなくすからだ。

その時も私はやらかした。

よりによってギアを軸に固定するための重要なパーツをなくしてしまったのだ。

結果、スイッチを入れてもモーターだけが空回りし、私のマシンはピクリとも動きやしない。

五年生や六年生の先輩に泣きついてみたが「この部品なくしたらだめだ」とさじを投げられ、次から次へと完成させて「動いた動いた」とはしゃぐ同級生たちの中で、作品が最後まで可動しなかったのは私だけだった。

二学期に顧問から出たお題は自由作品。

組み立てキットではなく、バラでパーツを買ってきて創意工夫して車を作れというものだった。

私は一学期の雪辱を晴らし、皆をあっと言わせてやろうと燃えていた。

構想していたのは、何と八輪駆動のモンスターマシン。

四輪駆動なんてけち臭いこと言わずにゴージャスに行こうと考えたのだ。

八輪駆動なんてどんな機構が必要なんだろうか?

何のことはない。

四軸すべてに動力をつければよいと考えたのだ。

つまり、モーターとギアをすべての車軸に取り付けようとしたのだ。

動力も四つあれば、スピードも四倍。

いかにも頭の悪い小学生が考えそうなお粗末な構想だった。

かくして、長めの板にゴテゴテと動力や乾電池ボックスを装着したグロテスクな八輪車が出来上がった。

それは科学工作というより前衛芸術作品のようであり、

作者はピカソ、作品名は『ゲルニカ』という感じの見た目であった。

これで曲がりなりにも動けば多少はよかったのだが、

それぞれの車軸に動力を設けたために動力が干渉し合って動かないという当然の結末を迎えた。

「お前の作った車、また動かねえのか」

「だせえな。不器用すぎだろ」

私以外も頭の悪い小学生ばかり。

前回に引き続き、またしても失敗作を作った愚か者を見て見ぬふりするわけがない。

私は『科学工作クラブ一不器用な男』の烙印を押されたばかりか、

不器用ぶりがクラスにも広められて語り草にまでされてしまった。

タミヤの割礼~己を知れ~

小学四年生だった私は科学工作クラブにおいて、

「動力とは何たるか?」

「動力にはいかなる機構が必要か?」

「自動車のしくみとは?」

を自らの尊厳を犠牲にして知ったのだった。

何より自分にはモノを作る才能が全くないことも。

すべてタミヤの『楽しい工作シリーズ』が教えてくれた。

今から思えば、これも模型メーカー・タミヤの社会貢献の一種なのかもしれない。

タミヤは『楽しい工作シリーズ』を通じてモノ作りの楽しさを数多くの子供たちに教え、将来モノ作りを担うことになる人間をはぐくむ一助も果たしてきた。

同時に

才能がない者に己の不器用さを心に刻み込ませ、
将来的にモノづくりの現場から排除し、
彼らがもたらすであろう欠陥品による事故から社会を守る役目も果たしているのだ。

何とも見上げた理念じゃないか!

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