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2024年 事件 地震 悲劇 本当のこと 能登半島

悪事を働く者たち: 能登半島の震災後の犯罪


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2024年1月1日午後4時過ぎ、能登半島を震源とする震度7の地震が発生。

石川県の能登半島を中心として、北陸地方に大きな被害をもたらした。

本稿執筆中の1月7日現在において、救助活動や復旧活動が急ピッチで進められており、地震による家屋の倒壊やその後の津波襲来などで多くの住民が家を失い被災民となっている。

そんな最中、地震で大きな被害を出した輪島市で、災害に付け込んだ悪事を働く輩が現れた。

5日午前8時40分頃、壊れた民家から一つ500円の高級ミカンを六つも盗んだ男が逮捕されたのだ。

その民家は住民が不在で、出てきた見知らぬ男を不審に思った住民らが取り押さえて警察に突き出したという。

男は21歳の自称大学生で、「愛知県からボランティアで来た」などと語っているらしいがとんでもない野郎である。

被災地を助けに来たのではなく迷惑をかけに来ているのだから「逆ボランティア」と言ってもよいだろう。

それだけではない。

4日には富山県高岡市で「国から依頼されて来た」と騙って住宅で復旧作業をしていた人に10メートル一万円という法外な値でブルーシートを売りつけようとした者もいて、そいつは富山県外のナンバーの車に乗っていたという。

その他、厚労省の臨時支援金受付などと言って「電子マネーで手数料を支払えば支援金を受け取れる」などといった内容のメールが届いたとの相談も受理されており、震災に便乗した詐欺も出現し始めている。

空き巣や盗難などの被害も相次いでおり、震災のどさくさで悪事を働くとは実に許しがたい行為であるが、こういった火事場泥棒的な犯罪は今回の能登半島地震特有のものでは決してない。

被災地での犯罪は1995年の阪神淡路大震災の時から問題になっており、東日本大震災や熊本地震の時にも空き家からの貴重品の窃盗や詐欺が頻発していたのだ。

また女性、特に若い女性にはもう一つの危険が付きまとう。

それは言うまでもなく性犯罪だ。

これまで発生した大規模地震後、被災した人のための避難所において性被害を受けたと告白する女性が、少なからずいたことが報告されている。

性被害では、プライバシーが十分保たれているとは言えない避難所で被害に遭うケースが多く、今後どころか、今回から何らかの対策を大至急打つべきであろう。

地震の後に余震や津波、火事、今後の生活の心配に加えて犯罪者にまで備えなければならないのは御免こうむりたいものだ。

こういった震災に乗じた犯罪は、平時においてのものよりも許しがたく、厳しく取り締まられるべきである。

犯人は射殺か地元民による私刑が望ましいが、それは残念ながら論外だ。

ならば、震災後の避難時期か復興時期の期間に限定して、被災地域での犯罪には何割増しかの重い量刑を課すことができるよう法律を改正できぬものだろうか。

ある程度の抑止力として働くであろうことは、間違いないと思うのだが。

参考文献―Yahoo!Japanニュース、

ライブドアニュース、日テレニュース

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1986年: 中学生との命を賭けた決闘の結末

本記事に登場する氏名は、一部仮名です


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1986年(昭和61年)2月、兵庫県神戸市東灘区にある市営団地で中学三年生の少年が殺される事件が起きた。

殺したのは、同区の県営住宅に住む小林寛智(仮名・22歳)。

一見すると、成人が未成年を殺した許しがたい凶行に思えるこの殺人だが、実は加害者も加害者ならば、被害者も被害者と言わざるを得ない性質の事件であった。

ミニFM局

YouTubeやツイキャスが出現するはるか以前の80年代、ミニFM局が注目を浴びていた。

ミニFM局とは、FM電波を送信する送信機を使って自分の好きな音楽などの情報を不特定多数に発信するミニラジオ局ともいうべきものである。

スマートフォンもパソコンもなかった時代だったから、情報の受け手はもっぱらラジオからだったが、テレビ局やラジオ局ではない一般人が情報を広く発信するという意味では、現代のSNSとやっていることは変わらないから、個人メディアのはしりと言ってもいいだろう。

グローバルに発信できるSNSが定着した現代と違って電波法の規制もあったから、出力できる範囲は限られていたが、それでも自分の意見なり嗜好を多くの人々に知らしめて、何らかの反応や共感を得たいという承認欲求を満たせるツールとして、多くの若者がミニFM局を開設していた。

「FMシティ」のあった県営団地の現在

神戸市東灘区に住む小林寛智もその一人で、小林は1985年7月から、自宅の県営住宅でミニFM局「FMシティ」を開設。

定職のなかった彼は、ヒマに任せて自分の好みの音楽などを配信するようになった。

小林の「FMシティ」の放送エリアは東灘区一帯という狭い範囲だったが(ちなみに当時の電波法に定められた範囲には違反していた)、出だしから好調で中学生を中心に口コミで人気が広がる。

曲をリクエストする電話もかかって来るようになり、中には小林の自宅を訪ねてくる中学生のファンも現れた。

自分より若い世代に支持されていることに気を良くしたんだろう。

小林は、気さくにその中学生を自宅に上げるや、やがてその仲間たちも誘われてやってくるようになり、いつしか小林の家は中学生のたまり場になった。

だが、これが大きな間違いであったことに気づくのに時間はかからなかった。

つけあがるガキども

中学生たちは、主に小林の「FMシティ」が放送される午後11時から午前4時の間に来ることが多く、そのまま泊まっていく者もいた。

中学生のくせにそんな時間に外出していたような者たちなんだから、当然真面目でおとなしい少年少女たちではない。

小林は彼らよりだいぶ年長だったが、当初から同級生のような目線で接したのもいけなかった。

おまけに、年少者からある程度畏敬される兄貴分的な気質もみじんもなかったために、中学生たちは増長。

小林の家でタバコを吸ったり酒を飲んだり、深夜に騒いで近所の住民から注意されると逆ギレして、ビール瓶を投げ込んだりのやりたい放題をするようになったが、小林は特に注意することなく、そのままにしていた。

もっとも、注意していたとしても効果はなかったであろう。

生意気盛りのガキどもは、自分たちに対して弱気と見た小林を侮るようになっていたからだ。

そして「FMシティ」開設の翌年1986年2月、事件のきっかけが起こる。

それは、小林宅に出入りする悪ガキどもの一人である町田理人(仮名・15歳)が、聞き捨てならないことを耳にしたことから始まる。

小林が自分のことを「うざい奴だ」と言っていることを、仲間から聞いたのだ。

反抗期真っただ中の中学三年生でいいカッコしいの町田は、日頃から小林相手に生意気な態度で接し、みんなの前ではナメられまいと威勢よくふるまっていたから、そのままにしておくと自身の沽券に係わると考えた。

小林と賭けマージャンをしたりもしていたのだが、そのマージャンで賭け金やマージャンの打ち方をめぐって、小林ともめていたこともあったから、なおさらムカつく。

「あんガキ、ナメくさりおってからに!白黒つけたらあ!」

町田は、小林よりはるかに年下のガキのくせにいきり立ち、小林と話をつけると宣言した。

中学生にナメられる22歳

小林寛智(仮名・22歳)

1986年2月19日夜7時、町田は勝手知ったる小林の自宅に押しかけた。

こういう穏やかじゃない目的を持っている場合、悪ガキは往々にして一人で行かず何人か引き連れて行くものだが、町田もご多分に漏れず仲間4人を同伴している。

そんなに怖くない相手でも一人で行くのは嫌なのだ。

「おい、小林くんよお。オレの悪口言うとるみたいやけど、どういうことやねん?ああん?」

町田は仲間も来ているから、遠慮なくドスを効かせて対応に出た気の弱い年上男を脅した。

小林は中学生たちにこんな態度をとられるようだから、もともと臆病で見くびられやすい男だったのは間違いがない。

だったとしても、この時、年甲斐もなくはるか年少の少年たちの剣呑な雰囲気にビビるあまり、年上らしからぬことを口にしてしまった。

「言うとらへんよ…、オレちゃうわ。悪口言うとるんは髙澤やて…」

高澤は、町田と同じく小林宅に出入りしている中学生である。

何と22歳の小林は、中学生の高澤に矛先をそらそうとしたのだ。

どうりでガキどもから見下されるわけである。

「ホンマやろな?ほんなら、一緒に本人に聞こうやないか!ちょっとツラ貸せや!」

もう、どっちが22歳でどっちが中学生かわからない。

中学生たちは小林を連れて、近所の市営団地に住む高澤宅に向かい、団地のロビーに呼び出した本人に問い詰めたが、当然ながら激しく否定される。

ばかりか、高澤は悪口を言っていたのは小林だと主張した。

「言うわけないやろ!ええ加減なこと言うてからに!お前が言うとったんやないかい!!」

高澤も町田同様小林のことをナメているのだ。

「やっぱ、そうやったやないか!どう落とし前つけてくれるんや?コラ!」

「いや、落とし前て…んなアホな…」

「タイマンで決着つけようやないか!」

町田は語気鋭く言うや、登山ナイフを取り出した。

若気の至りの代償

何と、町田は素手ではなくナイフでタイマンしようというのだ。

「な、なんやそれは?あかん!落ち着けや…やめとこうや」

「お前もナイフ取れや、おい、誰かこいつに一本貸したれや」

町田は、仲間の一人から折り畳みナイフを出させて、小林に取らせようとする。

彼らの学校のそれなりの素行の生徒の間では、ナイフを持って歩くことが流行しており、しゃれっ気の塊のような町田が握っている登山ナイフは自慢の一品だ。

思春期の町田は仲間もいるし、気が大きくなっていたんだろう。

また、みんなの見ている前で中途半端に終わらせてしまったら、後々見くびられてしまうと考えたのも間違いない。

「なあ、なあ、あかんて、こういうの…。冷静になろうや!」

小林はナイフこそ受け取ったが、勝負しようとしない。

だが、一緒に来ていた少年たちがはやし立てる。

「はよやらんかい!」

「ビビっとんのか?!情けねえ年上やな!」

この時の町田が、どこまで本気だったかは分からない。

本当に刺すつもりだったのか、ハッタリだけで小林が謝罪してくれたらいいやと考えていたのか。

それはこの直後、永遠に確かめることができなくなる。

ナイフを握って、こちらに向かってきた町田を、小林がとっさに受け取ったナイフで刺したのだ。

町田は、うめき声を上げてうずくまった。

小林のナイフは、町田の左わき腹を貫いており血が止まらない。

ロビーにみるみる広がる鮮血を前に、刺した小林はもちろん、さっきまではやし立てていた少年たちも顔色を失った。

町田は、刺された場所が悪かったようだ。

そのまま気を失い、呆然とするあまり周りの者たちの処置が遅れたこともあって出血多量で死亡。

15年という短い人生を自業自得で終わらせてしまった。

事件現場となった市営団地の現在

小林は、その後に駆け付けた警察によって殺人容疑で逮捕される。

「ナイフを持って向かってきたから刺した。殺すつもりはなかった」と主張したが、当然正当防衛が認められるわけはない。

結果的に殺してしまったわけだし、その前に家にやって来た中学生と賭けマージャンをやったり、喫煙や飲酒を放置していたこと、そもそも自身のミニFM局が電波法に違反していたことなどから、刑事責任を免れることはできなかった。

いずれにせよ、だらしなさ過ぎたことが原因で長期の実刑を受けたであろう小林はもちろん、生意気すぎたことが原因で死んでしまった町田も同情するに値しない事件である。

防ぐことはできなかったんだろうか?

無理だったろう。

どっちも救いようがないくらい愚かだったとしか考えられないのだから。

出典元―神戸新聞、毎日新聞

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2023年 ベトナム マフィア 東南アジア

裏社会に潜むベトナムの犯罪組織 – ベドナムマフィア


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どの国にも悪い奴はいるように、近年日本に数多くやってくるようになったベトナム人も全てが、真面目で善良であるわけではない。

一部の不心得者がいて、グループで家畜窃盗をやったり、飲食店で集団乱闘したりするニュースが報道され、北関東では bộ đội(ボドイ、“部隊”の意)と呼ばれる犯罪集団が形成されているらしい。

そんな犯罪組織であるマフィアは、彼らの母国ベトナム社会主義共和国にも当然いる。

では、そんな本国のベトナムマフィアはどのようなものなのだろう。

チャイニーズマフィアなどと違って想像しにくいのではないだろうか?

そこで本ブログでは、日本で紹介されることの少ないベトナム本国のマフィアの実態について、ウィキペディアのベトナムの組織犯罪(ベトナム語版)を参考に取り上げて見たいと思う。

本稿が皆さんのご理解の一助になれば幸いである。

ベトナムの裏社会

ベトナムには「黒社会(Xã hội đen、サーフォイデン)」という言葉がある。

これは、おなじみ中国語における裏社会を指す言葉「黒社会(ヘイシャーホェイ)」と同じで 、文字通り犯罪者や犯罪組織で形成されるアンダーグラウンドな社会全体を指す語であり、元々は、1990年代に香港映画から入って来たのが定着し、現代ではメディアでも使われるようになった。

そしてベトナムの黒社会に棲息し、コソ泥から嘱託殺人まで非合法活動をする者たち「クマの頭(チンピラの意)」は、「兄弟姉妹たち」、「ナイフ」、「風来坊」などと多種多様な呼び名で呼ばれるが、やはり組織化されて一家を構えたマフィアが、その裏社会の生態系の頂点に君臨するのは、日本をはじめとした他国と事情は同じである。

そのベトナムのマフィアも当然構成員(dân xã hội đen)がいて、そのボスとして親分(Ông trùm)がおり、ボスの指令のもとで刃傷沙汰や銃撃事件、薬物や武器の密売、殺人、犯罪組織間の抗争を頻発させている。

カイン・チャン
フック・ボー

ごく最近では、カイン・チャンやフック・ボーの組織の悪名が最も高いが、アメリカのマフィアや南ベトナム時代に悪名を馳せたナム・カムやダイ・キャセイの組織ほどの危険性や組織力はなく、半グレの域を出ていないようだ。

組織に属する手下たちは普段、バイクタクシーや運送業というまっとうな仕事をしていることが多いが、その裏で闇金や性風俗、用心棒、麻薬売買、武器の密売、サッカー賭博などの違法性の高い商売に手を染めている。

それら構成員は男女混成であり、女親分も少なからず存在する。

そして、甘言に釣られて加入してしまう未成年の学生も後を絶たない。

彼らはシノギのために徒党を組んで一般人を脅したり危害を加えることもするが、法律では解決できない一般人のもめ事を有料で収めることもする。

かつて、日本のヤクザもやっていた民事介入暴力のようなこともしているのだ。

もっとも、そのやり方はしばしば流血を伴うものであり、個人間や組織間の紛争が大掛かりな乱闘や殺傷事件に発展することも少なくない。

また、国をまたいで犯罪を行う外国人のマフィアもいる。

韓国人のソン・ムン・グルはハノイとブンタウの外国人クラブの雇われオーナーであったが、増長して本国からゴロツキを呼び寄せて組織を作り、同国人の投資家からゆすりたかりを行っていた。

各地での犯罪行為

2008年の統計によると、分かっているだけで 313 団体のマフィア組織が活動中である。

それらの団体は、犯罪組織のご多分に漏れず勢力争いや縄張りをめぐる抗争もあり、合法非合法を問わず、あらゆる事業体からみかじめ料を取っている。

そして、ベトナム国内において南部カインホア省ニャチャン市は危険な街としてイメージが定着しているようで、そうなったのは2005年10月から2006年7月までグエン・ゴック・タイン・ハンに率いられた武闘派組織が大暴れしたからだ。

グエン・ゴック・タイン・ハン

このマフィアは殺傷事件を数多く起こし、特に同市のフン・ヴォン通りにあるマッサージ店に刃物や水中銃を持った数十人を暴れこませて従業員を追いかけ回し、店を破壊する大立ち回りを演じて有名になり、さらには、カインホア省の観光協会会長のボー・ディン・トゥー氏の殺害を5000万ドンの報酬で実行した事件をも起こしている。

それから後にもカインホア省のマフィア犯罪は猖獗を極め、警官射殺事件まで起こしたが、長いこと徹底した取り締まりが行われてこなかった。

中国との国境にほど近い北部クアンニン省でも、長年約100名の構成員を有するマフィアが君臨し、刃物まで使った暴行傷害事件や器物破損事件を起こして、現地の一般人を恐怖のどん底に叩き落としていた。

中央直轄市であるハイフォンのマフィアも危険なことで知られ、刃傷沙汰どころか銃撃事件が頻発している。

そして首都であるハノイにも、闇金や債権取り立てなどを主なシノギとするマフィアが存在し、彼らは近年、あろうことか強姦や売春をさせる目的で未成年を誘拐するようになっている。

仁義もへったくれもない連中だ。

しかし、手口が相当巧みなのか警察の怠慢なのか(あるいはビビっているのか)、その捜査はあまり進んではいないようだ。

こうして見てみると、ベトナムのマフィアは日本のヤクザほど大規模で組織化されてはいないが、犯罪行為の凶悪さが日本以上なのは間違いがない。

また取り締まる側の警察の取り締まりも十分とは言えないケースが多く、さらには、犯罪者と警察が癒着していることも考えられる。

ただ、現在のベトナムの治安の状況は1990年代や2010年代の中国の状況と似ており、中国においては、まがりにも社会が成熟して政府も取り締まりに本腰を入れるようになってから、かつてほど犯罪組織が公安と結託したりして大手を振って活動できなくなったようだ。

よって、ベトナムもこの治安対策において中国に学べば、大きな改善が見込めるのではないかとみられる。

出典元―Tội phạm có tổ chức tại Việt Nam(ウィキペディア)

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2022年 ならず者 事件簿 戦争もの 本当のこと

ドロボー少女に緊縛制裁 ~戦後無法~

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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戦争末期と戦後の昭和二十年代前半の日本は、食糧難の時代だった。

いくら昭和は芳しく見えても、この時代は誰だって嫌だろう。

一応戦後も配給制は存続していたが、そんなもので足りるはずもなく、全国各地の焼け跡に闇市が出現し、都市部の住民は着物などの持ち物を農村に持ち込んで作物と交換していたし、東京では不忍池や国会議事堂前にまで畑が作られていた。

そして、その畑から作物を盗む者も現れるようになる。

だが、そんな食糧危機の時代に食べ物を盗んだら、ただじゃすまない。

捕まったら最低数百発は殴られる。グーどころか棒で。

冗談抜きに殺された例もある。

人心は荒廃していて、食べ物の恨みは現代とは比べものにならないほど深かった。

現代みたく怒られて終わりだったり、「腹が減ってたのか。かわいそうに」なんて同情されるような甘っちょろい時代じゃない。

何より畑の主も次から次に現れる畑荒らしに、神経をとがらせていた。

1946年、栃木県宇都宮市西原で馬鈴薯を栽培していた農民の菊池太平(当時46歳)もその一人だ。

馬鈴薯は闇市の人気商品で、高値で取引されていたために、畑荒らしにも人気の作物。

腹も満たせるし、懐も温めることができるために、よく狙われていた。

菊池の馬鈴薯畑もご多分にもれず被害に遭っており、これまで丹精込めて作った作物を畑荒らしにしょっちゅう盗まれて、気が立っていたらしい。

同年5月、そんな男の畑から馬鈴薯を失敬しようと忍び込んでしまった者がいた。

木村千枝子という、何と20歳の女である。

しかも木村は、この一週間後に婚礼を控えていた。

そんな身の上の女がこんなことに手を染めるんだから、いかにこの時期の日本が食糧難にあえいでいたか、わかるであろう。

とはいえ、彼女が盗もうとした馬鈴薯は20キロ近くの量であり、なかなか大胆である。

だが、彼女は盗みに入る畑を間違えた。

この畑は立て続けの被害に怒り狂い、危険な状態となっていた菊池の畑だったのだ。

そして、より不幸なことに菊池に犯行を目撃されて、捕まってしまった。

「このデレ助が!!」

女だろうが容赦はしない。

これが初めてだったとかも関係がない。

誰の畑を荒らしたかわからせてやる。

菊池のこれまでの積もり積もった怒りが、すべて20歳の女ドロボーに向く。

木村は家に連れ込まれ、その夜、拷問に近い仕置きを受けた。

翌日になっても許してもらえない。

縄で縛り上げられた木村は、電信柱に括り付けられた。

近くには立札が立てられ、そこには『社会の害虫、野荒し常習犯』と書かれている。

痛めつけられただけではなく、さらし者にされたのだ。

だが、これはさすがにやりすぎだった。

見物人の中に通報した者がいて、菊池は過剰防衛で逮捕されてしまった。当たり前だ。

もっとも、ボコられて生き恥をさらされた木村も窃盗罪で捕まったが。

怖い時代だ。

昭和30年代の日本も貧しかったが、餓死者出るほどじゃなかったはずだからまだ人情味が入り込む余地があったが、戦後くらい貧しいと人間は、ここまで心がささくれ立つということだ。

「現代に生まれてよかった」と思うかもしれないが、日本でこのような食糧危機は、もう起こらないとは限らないのではないだろうか。

少なくともこの時代は農民も多かったし、食糧自給率は輸入に多くを頼っている現代の日本より、ずっと高かったのだ。

日本の経済力がさらに低下して、外国から安い食料が買えなくなったら…。

全く考えられない悪夢ではないはずだ。

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仙台アルバイト女性集団暴行殺人

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2000年(平成12年)12月24日、宮城県仙台市でアルバイト店員の女性、曳田明美さん(仮名、20歳)が暴力団員を含む8人の男女に拉致されて6日間にわたるリンチの末に殺害され、遺体は灯油で焼かれて遺棄されるという悲惨な事件が起きた。

こんなむごい殺され方をするなんて、この曳田という女性はよっぽどのことをしでかしたんだろうか?

いや、実は全く何もしていない。

グループの一人の一方的で身勝手な思い付きとその他全員の勢いだけで監禁され、何の落ち度もないのに残忍な暴行を加えられ続けて殺されてしまったのだ。

犯人たちと事件の発端

この凶行を犯したのは、某広域指定暴力団組員の平竜二(仮名、25歳)、大野和人(仮名、21歳)、平の弟分で同組員の猪坂大治(仮名、21歳)、大野の彼女である木場志乃美(仮名、21歳)、田中久美子(仮名、20歳)、兼田亮一(仮名、19歳)、高橋衛(仮名、18歳)、赤塚幸恵(仮名、19歳)の男女8人である。

もっとも、ずっと以前からつるんでいたわけではなく、事件が発生する直前までに知人を介して知り合って、たまたまその場に居合わせた者もいたという関係性が希薄な集団であった。

そして、当然どいつもこいつもまともな連中ではない。

暴力団員まで含めたこのろくでなし集団が、よってたかって一人の女性を死に至らしめることになる事件の発端は、被害者となる曳田明美さんとは全く関係がないところで始まった。

それは2000年12月中旬ごろ、一味の一人である木場志乃美のもとに、ある男からメールが送られてくるようになったことからである。

そのメールは、木場に対して気があるようなことをにおわせる内容であったが、木場本人にはその気はなかった。

むしろ、不快極まりない。

同じく一味の一人である大野和人と付き合っており、同棲までしていたからなおさらだ。

木場は、彼氏である大野にこの件を言いつけた。

メールを送ってきた男は大野の顔見知りではあったが、自分の女にそんなことをする奴は許せない。

「ふざけやがって。シメてやる」といきり立った。

大野は窃盗で少年院に送られたこともあるし、暴力団構成員の平や猪坂とつるんで、暴力団事務所にも出入りしているから準構成員と言ってもよいが、中途半端に危険な男だ。

だから、一人でやる気はさらさらない。

他のメンバーにも声をかけて頭数をそろえた上で、一味の親玉であり暴力団組員の平竜二にもお願いして仙台市内の組事務所マンションを使わせてもらうことに成功。

平はこの組の部屋住みらしく、普段この組事務所で寝泊まりしており、融通が利いたようだ。

ほどなくして12月18日夜に相手の男を事務所に呼び出すや、平らとともに殴る蹴るの制裁を加える。

さんざん殴られた男は顔を腫らして完全に泣きが入ったため、ヤキを入れる目的は順調に果たした。

しかし、調子に乗った大野は、おさまらなかったらしい。

「誰か、こいつ以外にヤキ入れてー奴いるか?ついでにやっちまおう!」などと言い出したのだ。

組事務を使わせてもらって気に入らない奴を痛めつけることができたから、のぼせ上っていたのだろう。

それに、すかさず答えた者がいた。

大野の彼女、この制裁の発端となった木場志乃美である。

「中学ん時の一コ下でさ、約束破った奴いるんだよね。そいつやっちゃおうよ」

「よっしゃ。で、どんな奴?女?」

「曳田明美って女。ウリ(援助交際)しないって約束したのにしやがってさ」

「おう、その曳田って女、今から呼び出せ」

親分気取りの平も了承し、惨劇の幕が切って降ろされることになった。

深夜の呼び出し

曳田明美さん(仮名)

曳田さんは、援助交際など全くしていない。したこともない。

健全な家庭で育っており、進路が決まるまで自分を見つめなおそうと普段ファミレスでアルバイトをし、夜間に出歩いて両親に心配をかけたりすることが全くない、まじめな性格の持ち主だった。

完全に木場のホラである。

そもそも両人とも、そこまで長く深い付き合いではない。

あくまで木場の供述なのだが、曳田さんは中学の後輩だったとはいえ、実際に木場との交友が始まったのは、事件が起こった年の3月ごろからだという。

また、実際には特に怨恨らしい怨恨も全く発生していないようだ。

にもかかわらず、木場はこの時もう日付けが変わって19日の深夜になっているのに、曳田さんを痛めつけるために呼び出そうと携帯に電話する。

一方、真夜中にいきなりの呼び出しの電話を掛けられた曳田さんは当然断った。

「もう夜遅いから無理ですよ。これからお風呂だし」

だが、しつこい誘いと「今から迎えに行くから」という強引さに根負けしてしまい、しぶしぶ了承してしまう。

この時のやり取りを、隣の部屋にいた曳田さんの妹が聞いていた。

普段、携帯電話で話をする時は、いつも楽しそうにしゃべっていた姉だったが、この時は本当に憂鬱そうな声で対応していたという。

第一、この付き合いは木場の一方的な思い込みであり、さほど親しい間柄でもない。

それどころか曳田さんの方は、つきまとう木場をできることなら避けたかったらしいことが、ある友人の証言で明らかになっている。

木場は性格が極めて陰険で、高校を中退してから窃盗などの犯罪歴を重ね、今では暴力団関係者とつるみ続けているクズ女だったからだ。

かと言って、お人よしすぎるところがあった曳田さんは、きっぱり拒絶することもできず、中途半端な状態が続いていた。

また、前述のごく少数を除いて、曳田さんの友人知人の中に木場との付き合いがあることを知っている者はいなかった。

木場が痛めつける相手として嘘までついて曳田さんを選んだ納得のいく具体的な理由は事件後に逮捕されてからも明らかになっていないが、木場の方は曳田さんのよそよそしい態度を感じて、ムカつき始めていたのではないだろうか。

自分勝手な奴に決まっているから、なぜ自分が避けられているか考えるはずもなく、「親しくしてやってるのに距離とろうとしやがって」と逆ギレし、その逆恨みの感情がきっかけになった可能性が高い。

曳田さんは、木場に言われるまま翌19日の午前4時に家を出て、迎えに来た大野と木場の車に乗り、前述のマンションに向かう。

あまりいい予感はしなかったであろうが、まさかこれから連日地獄のような暴行を加えられて、命を絶たれることになるとは思いもせず。

凄惨な暴行の始まり

大野と木場に連れられてマンションの一室に入った、曳田さんは凍り付いた。

その一室の雰囲気は暴力団事務所なだけに、とても普通の住居やオフィスとは思えないだけでなく、明らかに堅気ではなさそうな雰囲気の者たちがこちらを剣呑なまなざしで見ているし、何より顔を腫らした男が正座させられているではないか。

「オメーも正座しろ!」

木場が突然豹変して、高飛車に命令してきた。

何のことかわからないが、その場の雰囲気に押されて言われるがまま正座した曳田さんを、鬼の形相でののしり始める。

「何でヤキ入れられるかわかってるべが!?おめえ約束破ったろ!!」

「え、約束って…何のことですか?」

「しらばっくれんじゃねえ!」

木場は拳で有無を言わさず曳田さんの顔を殴った。

「オメー何だ!その態度はよう!おう!?」

完全にでっち上げなのに、まるで実際に許しがたいことをやったかのごとく檄高して怒声を上げて暴力をふるう。

いきなり暴行を加えられたショックに、曳田さんはされるがままだ。

「はっきりせいや!!」

彼氏の大野もここでやらなきゃ男がすたるとばかりに、曳田さんの髪をつかんで殴りつける。

その場にいた連中、平や猪坂以下ほかのメンバーも暴行に加担、無抵抗の彼女を殴るわ蹴るわ。

矛先は先ほどのメール男から、完全にシフトした。

木場の言うことが本当かどうか、又は相手が誰かなんて関係がない、みんながやっているからやる。

ならず者集団の一員ならば、やらなかったら他の奴にどう思われるかわからないし、その前に人を痛めつけるのは面白いと考えているはずの連中だから躊躇はない。

グループの親分格の平は曳田さんに木刀を突き付けて「殺してやろうか?コラ!何とか言えや!」などと脅し、髪をつかんで部屋の外に引きずり出して、非常階段の所から落とそうとすらした。

本来ならば最年長者の平はこの暴挙を止める立場にあるし、大の男が女性相手にここまでするのはみっともない、というのは一般社会の考え方である。

平竜二(仮名)

こいつは、反社会勢力である暴力団組員なのだ。

むしろ、皆に自分が危ないことをする人間であることを見せつけて「暴力ってのはこうすんだ」という模範を、示そうとすらしていた。

平は組の中では下っ端であり、事件発覚後にテレビの取材に応じた街の若者の一人には「ヤクザだけど大したことない奴」と陰口をたたかれていた程度の男だったらしいから、なおさら弱者相手だと威勢が良い。

さすがに曳田さんが大声で泣き叫ぶ声がマンション中に響いたため、弟分の猪坂が平を制止して、再びマンションの中に曳田さんを引きずり込んだ。

「ごめんなさい。もう勘弁してください」

一時間ほど暴行された曳田さんは泣きながら木場のついた嘘を認めて謝罪した。

全く何もやっていないにも関わらず。

手ひどい暴行で曳田さんの左目と左頬は腫れあがっており、木場の望みはかなった。

だが、これは始まりに過ぎなかった。

暴行を楽しむ犯人たち

犯人グループは曳田さんを十分に痛めつけたはずだったが、このまま帰すわけにはいかないと考えていた。

なぜなら顔が腫れて、何をされたか明白だったからだ。

彼女は実家暮らしだから、本人が通報しなくても家族の者がするだろう。

そこで一味は、曳田さんの顔の腫れが引くまで監禁することにした。

さらにアルバイト先にも電話をかけさせて、「ケガをしたから今日は休む」と言わせてバイト先から通報されないようにもする。

19日午前9時、平が全員に組事務所から出ていくように言い渡す。

部屋住みの平が事務所を自由に使えるのは、自分と猪坂以外の組員がいない時だけなのだ。

そこで大野と木場、田中は曳田さんを連れて仲間の一人である高橋の住むマンションへ向かう。

だが、このマンションで木場と田中は、曳田さんが携帯電話を握っているのが気に入らないと因縁をつけ始め、暴力をふるった。

その後、実家に「不良少女にからまれたところを先輩に助けられた。今は西公園の先輩の所にいる」と言うように命じ、実際に曳田さんはその日の午後に心配する母親からかかってきた電話に対してそのように答えている。

一味の者は、不良にからまれて殴られたことにすれば、顔に傷があっても不思議じゃないと考えたようだ。

その電話の後、母親にさっきと同じようなことを伝える電話をかけさせた後、外部へ連絡できないように曳田さんの携帯は破壊した。

当初一味は彼女の顔の腫れが引くまで家に帰さないつもりだった。

だが、やがてそれをぶち壊しにすることをやり始める。

またもや、理由をつけて殴り始めたのだ。

積極的なのは、やはり木場である。

性悪どころか極悪女の木場の目から見た曳田さんはぶりっ子なところがあり、お嬢様ぶってるような気がして気に食わない。

そして、暴力を振るわれたショックでしょげかえっている姿は、見ているだけで余計いじめたくなる。

木場は「和人、こいつオメーに犯されたとか言ってたよ」などとでたらめを大野に言ってたきつける。

やるならみんなと一緒の方がいいと考えるのは、こいつも同じなのだ。

「ナンだと?テメーみたいなの犯るわきゃねーだろ、コラア!!」

でたらめなことは百も承知な大野だが大真面目に激怒して、曳田さんをベランダに引きずり出して傘で殴った。

「もう許してください」と泣いて謝っても手は緩めない。

その場にいた高橋と田中も調子に乗って手を出し、後からマンションに来た兼田と赤塚も「俺らもやっていいっすか」などと言ってリンチに参加した。

もはや暴行する理由など、どうでもよかった。

彼らは後先考えずに、暴力を楽しむようになっていたのだ。

度重なる暴行で曳田さんの顔は余計に腫れ上がり、ますます家に帰せなくなる。

犯人たちは彼女の服を全て脱がせて、代わりにトレーナーを着せ、組事務所や仲間の家へ連れていく際は後ろ手に手錠をはめて車のトランクに入れていた。

監禁先は転々としていたのだ。

そして、監禁中は絶えず言いがかりをつけては集団で殴り、たばこの火を押し付け、髪を切り、頬をカッターで切ったりと暴行はエスカレートしていった。

犯人たちはグループ以外の知人の家にも連れて行ったことがあったが、その知人は度重なる暴行でむごたらしい姿となった曳田さんを見て仰天し、自分の家で凄惨な暴行が行われている間は目を背けていたと後に証言している。

だが、後難を恐れて警察に通報することはついになかった。

両親の捜索

曳田さんの両親は、愛娘がそんな目にあっているとは思ってもいなかった。

木場たちに監禁されることになる直前の18日、バイト先から帰ってきた曳田さんは家族そろって夕食の席についており、その時何も変わった様子はなかったからだ。

むしろ、目前に迫ったクリスマスには付き合っている彼氏が指輪をプレゼントしてくれるんだと母親にうれしそうに語っていたし、翌年に控えた人生の一大イベントである成人式に着る晴れ着が24日には受け取れると、ウキウキしていたのだ。

そんな幸せいっぱいだった曳田さんが姿を消した。

19日深夜に木場に呼び出されて、家を出た彼女は玄関の鍵を開けっぱなしにしており、その日の朝に起床した父親は不審に思ったが、娘は自宅二階の自室で寝ているんだろうと思い、この時点では失踪したとはつゆほども考えていなかったという。

彼女はバイトで遅番が多く、昼前まで寝ていることが多かったからだ。

その後、部屋におらず全く行方知れずになっていたことがわかり、心配した母親が同日18時に曳田さんの携帯電話に電話した。

この時は、まだ携帯電話を破壊されておらず、曳田さん本人が電話に出てこう話した。

「今、西公園(仙台市青葉区)のとこにいる。レディースにからまれて殴られちゃってね。バイト先には休むと連絡しといたけど」

これは木場たちに言いつけられた通りのことだ。

もちろん近くに木場たちがいて、余計なことを言わせないよう聞き耳を立てていたのは言うまでもない。

「え?どういうこと?」

「また後でかけなおすね」

そう言って電話が切れた。

ただ事ではないと感じた母親がその後、数分おきにかけたが一向につながらない。

この時、初めて娘の身に不測の事態が起きたことを、曳田家の人々は知った。

その2時間後の20時、今度は母親の携帯に曳田さんから電話が入って、以下のような会話がなされた。

「今も西公園の先輩の所にいるんだけど、先輩のおかげで助かった。今顔を冷やしてもらっているところ」

「どういうことなの?あと、さっき言ってたレディースって何なの?」

「…」

「とにかく早く帰っておいで。被害届けも出さなきゃ。顔は大丈夫なの?電車で帰れる?」

「大丈夫。帰れるよ」

「電車でモール(仙台市の商業施設)まで来なさい。迎えに行くから」

「わかった」

「着いたら電話するんだよ」

母親はそう伝えると電話を切った。

とりあえず、先輩とかいう人物に介抱されていることはわかった。

それを聞いた父親は「とりあえず、明美からの電話を待とう」と言って夜勤に向かった。

そして、これが曳田さんの声を聞いた最後となる。

父親は、職場に着いてからもやはり心配だったので、何度も電話を掛けたがつながらなかった。

家に電話しても、娘からの電話はまだ来ないという。

翌20日から、異常事態の発生を確信した両親はじめ家族の者は、曳田さんの友達に連絡するなどして、血眼になって娘の行方を捜し始めた。

「西公園の」という線からもその近くに住む娘の知人を捜したが、さっぱり見当がつかない。

前述のとおり、この時点で曳田家の人々もほとんどの友人たちも、娘が木場という女との付き合いがあったことを知らなかったため、犯行グループに近づくことができなかった。

突然の家出は考えられない。

彼女は非常にまじめな性格で、親に迷惑をかけることをこれまでしたことがなかったし、前日まであんなに楽しそうにしていたのだ。

失踪から5日目の12月23日、行方に関して何ら手掛かりが得られず、ひょっこり帰ってくるのではという望みも薄くなりつつあったため警察署に捜索願を出した。

警察も「レディースにからまれた」という話や、5日間も連絡がないことから、事件性が高いと判断して捜査に乗り出す。

その後、曳田家の人々は友人知人関係のみならず、近所で独自に聞き込みを行い、時には藁にもすがる思いで霊能力者にまで霊視を依頼して娘の行方を必死に探し続けた。

だが、曳田さんは家族が捜索願を提出した翌日には殺されていたのだ。

非業の死

曳田さんが監禁されてから5日目の12月23日午前11時ごろ、木場は大野らに車で送ってもらって、保護司との面談を行っていた。

前年に大野と犯した窃盗事件で2年間の保護観察処分を受けていたためだ。

面談を終えて、車で待っていた大野たちのもとに戻る木場の機嫌は最悪だった。

このむしゃくしゃは明美のやろうをいじめて晴らしてやると考えながら。

車に乗ると、仲間に「さっき警察が来ててさ、『お前ヒト監禁して殴ってるだろ?』って逮捕状見せられたから逃げてきたよ」と、愚にもつかない嘘八百を並べ始める。

曳田さんが通報したと、皆に思わせようとしているのだ。

「なにい?ふざけやがって!めちゃくちゃにしてやる!!」

大野たちは、ろくに疑いもせずに怒り出す。

午後17時、曳田さんを監禁している組事務所にやってきた大野たちは「平さんにも逮捕状が出てるみたいだぜ」などと、ここでも嘘をついて、余計に皆をあおる。

「テメー事務所の電話使って通報しただろ!」と、曳田さんを囲んですごんだ。

「そんなことしてません!何もしてないです!!」

涙ながらに訴えたが、意に介さず拳や灰皿で殴りつける。

さらに暴行により血を流し続ける口にティッシュペーパーを入れて火をつけて、悶絶する彼女を見て笑い転げた。

翌24日の午前1時、弱い者いじめが大好きな平は、これまでの暴行で顔が原型をとどめないほど変形して、青息吐息の曳田さんをたたき起こして正座させると、

「テメー通報したろう。埋めるぞ!」

と木刀を突き付け、風俗店に勤めるように要求。

誓約書や借用書を書かせた後、大野、高橋、兼田も加わって再びリンチを始めた。

無抵抗の女性の顔に拳を叩き込み、蹴り上げ、フライパンで強打する。

「…痛いです。もうやめてください…。いっそのこと殺してください」

と弱々しい声で哀願する曳田さんを、午前8時まで暴行し続けた。

これが、最後の暴行となった。

この日の午後3時の組事務所、曳田さんの様子がおかしいことに平が気づき、他のメンバーを集める。

すでにピクリとも動かず、鼻の上にティッシュペーパーを置いても反応がない。

曳田さんは楽しみにしていたクリスマスイブの日に、20年というあまりに短い人生を絶たれていたのだ。

そして、その日受け取るはずだった晴れ着を着て、成人式に参加することもかなわなくなった。

死体遺棄

人を一人殺してしまったにもかかわらずこの人でなしたちは、強がりだったのかもしれないが、何ら痛痒を感じない様子でこう言い合っていた。

「あっけねえ、もう死んだのかよ」

「自業自得だぜ」

「こんな奴、死んだって誰も悲しまねえべ」

「でも、死体どうにかしなきゃな。ダリいな」

平はいったん用事があって事務所を後にし、大野と木場も曳田さんの死体を残したまま外出して、ゲーム機を買って戻ってきた。

そして、平を除く7人はそのゲーム機に興じ、その間に曳田さんの死体にサングラスをかけるなどして笑い合っていた。

午後10時に平が戻った後、改めて遺体をどうするか相談が始まる。

薬品で溶かすとか海に捨てるとかの意見が出たが、結局事務所のあるマンション近くの山の中で燃やそうということになった。

男たちばかり5人は車2台に分乗して曳田さんの死体を積んでその山に向かい、途中で灯油を購入。

山の中で死体に灯油をかけて火をつけたが、なかなか思ったように焼けない。

「しぶといな。もっと燃えろよ」

などと、平は木の棒でつついたりして死体をもてあそんだ。

火が消えた後は焼け焦げた死体を引きずって斜面から投げ落とした。

「ここらはもうすぐ雪が積もるから、春まではバレねえべ」

などと言って現場を後にした。

一方、事務所で留守番をしていた女性陣のうち田中と赤塚は飛び散った血痕のふき取りにいそしんでいたが、木場は寝転がってふんぞりかえっていたようだ。

逮捕

このならず者たちは、曳田さんを監禁して暴行する以外にも悪事を働いていた。

21日、監禁していた曳田さんを車のトランクに入れて知人宅に向かう途中立ち寄ったコンビニで商品を万引き。

なおかつ、店で木場と田中ら一味の女に声をかけた男性二人を集団で暴行して金を巻き上げているし、その日の夜には目が合ったという理由で男性に因縁をつけてカツアゲしている。

22日には平と猪坂の所属する暴力団の忘年会に大野と兼田、高橋も平に連れられて参加。

ゆくゆくは正式な組員となる準構成員として、組長はじめ他の組員一同に紹介するためだった。

その帰り道にも、平以外の4人は通行人を殴って現金を脅し取っていたから、どこまでもクズい連中だ。

曳田さんを殺して山に捨ててから間もない12月31日、今度は平と大野をはじめとした男たち5人が仙台市内のファッションビルで男性5人を暴行、またもやカツアゲだ。

だが、これが悪運のツキとなる。

いつまでもこんな悪事を続けられるほど、仙台市は無法地帯ではない。

この時に兼田が現行犯逮捕され、年が明けた1月には平、猪坂、大野及び高橋も逮捕された。

そしてそのころ、曳田さんを必死に探す両親は娘の交友関係の中から木場の存在を突き止めて、何か情報を知っているのかもしれないと警察に情報提供していた。

警察も木場を曳田さんの失踪に関係があるとにらんで調べを進めていたところ、現在傷害容疑で拘留中の平たちとの交友があることが判明。

曳田さんのことを拘留中の男たちに問い詰めたところ、あっさりと死体を焼いて捨てたことを供述した者がいた。

供述したのは、何と親分格で暴力団員である平。

どうせバレるなら真っ先に供述して刑を軽くしようと考えたらしいが、当初のうちは「事務所で女が死んでいたので、処理に困って燃やして捨てた」と自分で殺したわけではないと言っていたから往生際の悪い奴だ。

あろうことか子分を真っ先に売るんだから、ヤクザとしても褒められたものではない。

平を同行させて山を捜索したところ、供述通り白骨化した死体を発見。

両親から曳田さんが生まれた時のへその緒を取り寄せて鑑定した結果、その死体は曳田明美さんの変わり果てた姿だと断定される。

無事に取り戻したいという両親の切なる願いは、無情にも絶たれてしまった。

その後、仲間の木場が連れてきた女を皆で暴行して死なせたと平が白状し、2月5日には木場を逮捕。

残りの田中と赤塚も逮捕される。

ちなみに、他のメンバーはすべて犯行を自供した中で、木場だけは最後まで否認し続けていた。

遺体発見現場

その後

この事件の初公判は2001年(平成13年)5月より開かれ、悲憤にくれる両親は、曳田さんの遺影を持って出廷していた。

仙台地裁は一審で「類を見ない非人道的行為」と指弾、被告たちも控訴しなかったために以下のとおり刑が確定した。

  • 大野和人、懲役12年(求刑懲役13年)
  • 木場志乃美、懲役10年(求刑どおり)
  • 平竜二、懲役10年(求刑どおり)
  • 猪坂大治、懲役9年(求刑懲役10年)
  • 田中久美子、懲役8年(求刑どおり)
  • 兼田亮一、懲役10年(求刑どおり)
  • 高橋衛、懲役5年以上10年以下(求刑懲役10年)
  • 赤塚幸恵、少年院送致

あれだけ残忍な所業をした割にはこの程度であったが、当時の日本では、これが限度であったようだ。

曳田さんの両親はその後の2003年(平成15年)、事件の実質的な首謀者であった木場と大野に対して約1億円の損害賠償を求めて仙台地裁に提訴。

和解協議の名目で、2人との対面を求めた。

自分の娘を殺した犯人と直接会って、どんな者たちなのか知りたかったのだ。

そして、本来ならば親族以外はできない受刑者との面会が実現。

2005年2月2日には栃木刑務所で木場と、3月1日には宮城刑務所で大野との対面を行い、和解が成立。

和解条項には7600万円の解決金の支払いと両親への「心からの謝罪」が盛られていた。

もっとも、法的には和解を成立させたとはいえ両親によると木場は泣いてばかりであったし、大野は謝罪はしたものの形ばかりのようでどこか他人事であり、両人とも心から反省している様子はうかがえなかったようだ。

2022年現在、この8名は全員刑期を終えて出所しているものと思われるが、あれほどのことをしでかした奴らがたった10年かそこらでこの社会に放たれていることに驚きと憤りを感じざるを得ない。

反省しているとか更生しているとかは関係ない。

こんな奴らが一般社会で、もしかしたら自分の近くにいるかもしれないなんて考えたくもない。

こいつらは死後、曳田さんのいる天国ではない方に行くことは確実なんだろうが、今すぐそこに送り込んでやりたいと思うのは私だけではないだろう。

参考文献―『再会の日々』(本の森)・河北新報

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