本記事に登場する氏名は、全て仮名です。
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1992年11月30日、天理市内のとある寿司店。
金融業を営む森本正成さん(仮名・48歳)と妻の照子さん(仮名・46歳)、小学校五年生の長男の一家三人はすでに店内に入って席についていたが、一向に寿司を注文しようとせずにやきもきしていた。
注文するわけにはいかない。
この店に来るはずの森本家の長女、私立短大一年生の森本知世さん(仮名・19歳)がまだ来ないのだ。
森本家の人々は、この日は家族で食事をしようと決めており、大阪市内の短大に通う知世さんも家族とは別に、学校の帰りに店に来ることになっていた。
だが、その約束した時刻である午後7時は、もうとっくに過ぎている。
この時代に携帯電話はない。
待ち合わせに相手が現れないからといって、今どこにいるか又はいつ来るのか、相手に連絡をとることはできないのだ。
遅れるなら遅れるで、この店にいることは分かっているはずだから、店に電話があってもいいのだがそれも全くない。
「ナンで来(け)えへんのやろ?」
「なんかあったんやろか?」
来るはずの娘が姿を現さないのでは、心配でゆったりと寿司を食べていられるわけがない。
両親は悪い予感がして仕方がなかった。
そして、その予感は的中する。
脅迫電話
結局知世さんは、寿司屋に現れなかった。
森本家の人々は、仕方なく三人で砂をかむような思いで寿司を食べた後、午後9時には自宅に帰っていた。
そして、9時10分ごろ自宅の電話が鳴る。
娘からのものでは?と直感した母親が急いで電話に出ると、はたして娘の知世さんからだった。
ホッとしたのもつかの間、様子がおかしい。
「お母さん」と一言発してから、泣き声しか聞こえてこないのだ。
「どうしたん?」
呼びかけても泣き続けるばかりである。
「はっきりしいや。何があったん?」
ただ事でないのは明らかだ。
まさか…。
「誘拐された」
母親の照子さんは言葉を失った。
「どこや?どこににおるんや?!」
隣でやり取りを聞いていた父親の正成さんが電話に代わった。
「どこかわからへん~」
電話の向こうで知世さんは激しく泣き始め、もう言葉にならない。
「聞こえたやろ、誘拐したったんや。」
突然男の声に変った。こいつが犯人のようだ。
犯人は立て続けに要件に入った。
「明日までに二億まわし(用意)せい!」
とんでもない野郎である。
森本さんは金融業を営んでおり、そこそこ裕福だったようだが、二億をポンと出せるほどの大金持ちではない。
「二億て…!そなあほな…。よう集められへんわ、そんな金…」
そんな事情など犯人は、お構いなしだった。
犯人「でけへんのやったら、娘死ぬだけやで!」
父親「ちょっと待ってえな、頼むわ!とりあえず500万やったらええけど」
犯人「そないなはした金いらんわ」
父親「あんた鬼か?こっちかて、すぐには無理なんや。とにかく待ってくれって」
犯人「ほうや、わしゃ鬼や。ええから明日までに、二億耳揃えてつくらんかい!」
ここで母親が受話器を取って「お金は用意しますから、何もせんといて!」と絶叫。
だが冷酷な犯人は、次は下の息子もさらうなどと脅し続ける。
言葉からして、犯人は自分たちと同じ奈良の人間、少なくとも関西の人間のようだ。
「お母さん何とかして!!」と、知世さんが電話の向こうで泣き叫ぶのを母親に聞かせた後、警察に言ったら必ず娘を殺すと言って電話が切られた。
「警察に言うな」と言わない誘拐犯はいない。
だからと言って、言われたとおりにするわけにはいかない森本夫妻は、知人の警察官を通じて奈良県警天理署に通報した。
二日目
通報により森本家に駆け付けた警察は、次の電話に備えて逆探知の準備を開始。
翌12月1日、奈良県警は天理署に「身代金目的誘拐事件捜査本部」を設置し、報道各社は人質の安全を考えて、事件解決まで報道を控える報道協定を結んだ。
そして森本夫妻は、犯人からの電話を待つ一方で、預金を解約するなどして、約2000万円の資金を集めていた。
この日の日中は犯人からの連絡は全くなく、ただ時間だけが過ぎるのを見守る状態が続く。
やがて日が沈んだ夕方6時、唐突に黒いレクサスに乗った男が、森本家を訪ねてきた。
それは、正成さんの顔見知りの石川卓己(仮名・27歳)という男である。
石川は不動産仲介業の会社を経営しており、仕事を通じてつい最近知り合ったばかりだ。
そして森本家を訪ねた要件は、ゴルフ場予約の代行の依頼だった。
のんきな男である。
こっちは愛娘をさらわれて、ゴルフどころではないのだ。
「森本はん、顔色悪いんとちゃいますか?」
などと言ってきたりして、そんなに長い付き合いでもないのになれなれしい。
かと言って娘が誘拐されているとも言えない正成さんは「今ちょっと立て込んでいるから」などとごまかして断ると、「そら、えろうすんませんでした」と、あっさりと引き下がって車に乗り込んで立ち去った。
その車には、もう一人見知らぬ若い男が乗っていた。
石川が去ってからほどない午後6時48分、犯人からの二回目の連絡が入る。
これには、母親の照子さんが対応した。
犯人「金どうなっとる?」
母親「今うちの人が集めてます」
犯人「それと、さっきの黒い車はなんや?警察やろ!?」
先ほど訪ねてきた石川を、警察官と思ったらしい。
そして、こちらを見張っていたようだ。
母親「ちゃいますよ!あれは主人の友達なんです」
犯人「約束破ったんと違うんか?コラ!」
母親「ホンマに違うんです!信じてください!」
最悪だ。
空気の読めない訪問者のおかげで、犯人は態度を硬化させてしまった。
次いで母親は「娘の声聞かせてください!」と懇願したが、電話は無情にも切られた。
通話時間は二分間で、逆探知には足りない。
しかし7時15分、犯人から再び連絡が来る。
犯人も金を手に入れたいのだ。
「お金ですけど、今、二千万あります」
今度も母親が出たが、要求金額の十分の一しかないことで犯人は「二億言うたやろ、そないなはした金いらん!」「家も車も売らんかい!」などとオラついた。
そして「さっき友達や言うとった黒い車の奴呼べや。警察とちゃうこと証明せい!」と要求。
また、二億円には遠く及ばないが二千万で妥協したらしく、「その友達に金を持たせてやな、お前んとこの親父の車に乗せい。三十分以内や」と一方的に迫って電話が切れた。
第三者を、現金の受け渡しに使おうという腹のようだ。
受け渡し場所などは、まずそれからということだろう。
だが正成さんは、犯人の言うところの友達である石川に連絡を取らなかった。
そして、三十分たった7時48分に、三度目の電話か来る。
犯人「約束守らんかい!さっきの奴早う呼べや!」
母親「ウチも行ったらあきまへんか?」
犯人「あかん!その友達たらいう奴だけや!」
犯人はやたらと石川にこだわり、一緒に行くと言い張る母親の頼みを拒絶して電話を切った。
午後10時24分、今度は知世さんの声で電話が入った。
知世「お母さん…早うして…」
母親「大丈夫。何とかしたるから、気強く持ちや」
知世「ウチもうダメ…殺される…」
母親「そないなこと言うたらあかん!なあ…もしもし?もしもし?」
今度も涙声で、かなり参っている様子である。
この日の電話はこれで最後であったが、警察は逆探知する以外にも捜査を進めており、その手は犯人に迫りつつあった。
決死の電話
12月2日になって、事件は三日目となる。
警察は、昨日夕方に森本家を訪問したレクサスの男、石川卓己の身元を洗い始めていた。
捜査関係者は唐突の訪問から、何やら怪しいにおいをかぎ取っていたし、犯人がその石川にこだわって金を運ばせようとしていることから、事件に関係している可能性が高いと見始めていたのだ。
そして、これまで泣いてばかりだった知世嬢も、この日の午後2時、思い切った行動に出る。
犯人が寝入ったスキをついて、内緒で森本家に電話してきたのだ。
知世「もしもし、お母さん?ウチ、今、内緒で電話しとんねん」
母親「ホンマに?犯人はその辺におらへん?」
知世「昼寝してはる」
母親「ほんなら、起こさんよう小声で話しいや。犯人は何人おるの?」
知世「わからへん。目隠しされとる。ずっと縛られとった」
母親「ひどいことされとらん?抵抗したらあかんよ」
知世「うん、それと、警察に言うてない?お金取れへなんだら、殺す言われとるの」
母親「大丈夫。何とかしたるから。もうちょっとの辛抱や」
知世「あ、起きたかもしれへん。切る」
こうして電話が切られたが、時間にして13分間。
知世嬢の決死の電話で森本家に張り込んでいた警察は、ついに逆探知に成功、発信源は奈良県磯城郡田原本町内であることを突き止める。
そしてその田原本町内には、石川卓己の経営する不動産会社『D開発』があった。
石川を最有力の容疑者と断定した奈良県警は、『D開発』を張り込み始める。
捜査は、大詰めを迎えようとしていた。
午後10時42分、現金の受け渡し場所を伝える犯人からの電話が入る。
今度は知世さんに電話をかけさせ、その後に犯人に替わった。
「とりあえずやな、11時15分に家を出え。親父の車でやぞ。そんで、郡山インターから…」
「もっとゆっくり言うてください。メモしとりますんで」
今度の逆探知は地点を絞り込んでいたので、どこからかけられているか完全に判明した。
場所は、まごうことなき『D開発』である。
張り込んでいた捜査員に犯人確保と人質救出の指令が下り、『D開発』に警官が突入、案の定犯人であった石川卓己を『D開発』の事務所内で逮捕した。
突入時、石川は森本家への電話をかけている最中であり、知世さんはその向かいのソファで、目隠しをされたままぐったりしていたから言い逃れはできない。
奈良県警は突入の前に、『D開発』から出てきた男を参考人として確保していたが、その男は大谷靖(仮名・20歳)という石川の会社の従業員で、共犯者でもあったことがほどなくしてわかる。
それは石川が森本家を車で訪問した際に、同乗していた男であった。
53時間ぶりに解放された知世さんは、突入した警官隊の中にいた女性警官に抱きかかえられて外に出てきたが、相当怖かったのだろう。
それまで溜めていたものを吐き出すかのように、頼もしい同性の胸で泣き続けた。
一方、犯人の石川は被害者宅に第三者を装って身代金を奪うという奇策を弄したが、それがかえってあだとなる形となったのだ。
犯行の手口と知世さんのその後
主犯である石川卓己は、もともと不動産のトップセールスマンで、会社を辞めてから『D開発』を創業。
しかし、事件の前年のバブル崩壊のあおりを受けて業績が傾き、二千万の負債を抱えて資金繰りが悪化していた。
そこで、金融業を営んで金を持っていそうな森本さんの娘を誘拐するという犯罪に手を染めてしまったのだが、森本さんに何度か借金を申し込んで断られたこともあり、その個人的な恨みも犯行の動機になった可能性が高い。
石川は従業員である大谷を引き込んで、誘拐を決行する三日前から知世さんを尾行していた。
知世さん本人によると、事件前に何度か後をつけられたり、見られたりしている気がしていたらしい。
そして、事件当日の11月30日、最寄り駅の近鉄二階堂駅で、石川は白いレンタカーに乗って待ち伏せ、学校から帰ってきた知世さんを発見。
「ちょっと、お父さんのことで話がありまして、この書類をちょっと見ていただきたいんですよ」
などと声を掛けたところ、彼女は不注意にも車に乗り込んでしまった。
どう考えても、おかしいと思わなかったのだろうか?
車内に乗せてしまえば、こっちのものだ。
石川はナイフで知世さんを脅して粘着テープで後ろ手に縛りあげると、あちこち連れまわした後『D開発』に連れ込んで監禁。
脅迫電話は石川がかけ、大谷は監視役だった。
2日に、スキをついて電話をかけてきた際以降は目隠しだけだったが、それまで長時間縛られっぱなしだったため、彼女の手にはアザができていた。
知世さんは、手にアザができた以外にケガもなく無事生還したが、拉致されて縛られたうえに、命の危険にさらされて、あっけらかんとしていられるわけがない。
無神経にも、両親とともに記者会見に引っ張り出された知世さんは、終始顔を引きつらせっぱなしであったし、その後しばらくPTSDに苦しんだという。
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