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90年代 MMA ファイターのベンチマーク? ポール・ヴァレランス

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90年代に総合格闘技、それも始まったばかりだった UFC やバーリトゥードルールの試合が好きだった方ならば、ポール・ヴァレランス(Paul Varelans)というファイターを覚えておられる方も多いのではないだろうか。

ポール・ヴァレランスは、1969年アメリカ合衆国カリフォルニア州サニーベール生まれ。高校時代にレスリング、大学時代はフットボールの選手として鳴らした身長 203cm 体重 140kg という恵まれ過ぎなほどの体格の持ち主であり、中国武術をベースに、レスリングやムエタイを組み合わせた「トラップファイティング」という格闘技をバックボーンとするファイターとして 1995年の UFC6 でデビューし、その後の UFC 7、8 、Ultimate Ultimate ’96 にも出場して、UFC7 では準優勝したこともある MMA 創世記のファイターだ。

1996年に有明コロシアムで開かれた『THE U-JAPAN』にも来日し、日本の総合格闘家・片瀬慎治を 30秒余りで秒殺している。

片瀬慎治を秒殺するヴァレランス

その巨体から「ポーラーベア(北極熊)」とも呼ばれていたが、そのファイトスタイルも北極熊そのもので、テクニックよりも体格にモノをいわせて、相手を力技でねじ伏せる試合運びが多かった。

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二流選手は体格で圧倒
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二流選手は体格で圧倒

MMA での対戦成績は 18戦9勝9敗と微妙で、負けた相手としては、タンク・アボット、マルコ・ファス、ダン・スバーン、イゴール・ボブチャンチン、キモ・レオポルド、マーク・ケアー、カーロス・バヘットなどが含まれる。

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タンク・アボット、イゴール・ボブチャンチンに敗れるヴァレランス
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タンク・アボット、イゴール・ボブチャンチンに敗れるヴァレランス

彼らは 90年代 MMA におけるトップファイターであり、200cm オーバーの巨体から繰り出されるパワーも、これら一流どころ相手には通用しなかったようだ。

返り討ちにされてリングに崩れ落ち、小よく大を制した形となった対戦相手を引き立ててしまう姿がよく目立った。

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ポール・ヴァレランスに勝てるか否かが、一流かそうでないかの指標と言えたのかもしれない。

あるいは、この巨人とどう勝負したかもファイターとしての資質を問う基準となっていた面もあるようだ。

UFC6 一回戦でヴァレランスと対戦したカル・ウォーシャムは敗れたとはいえ、178cm 105kg と体格では圧倒的に劣りながら堂々殴り合いを挑んで、途中まで対等に戦ってヴァレランスを流血させるなど健闘。

カル・ウォーシャム
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カル・ウォーシャム

そのためか UFC からすぐさまリリースされることなく UFC9、Ultimate Ultimate ’96 に出場し、MMA ファイターとしての通算対戦成績も16戦10勝6敗と、そこそこの活躍をしているのだ。

そういったベンチマークという意味でヴァレランスは存在感のある選手であったと言えよう。

ポール・ヴァレランスは UFC の他に、キエフで開かれた『IFC COMBAT』、ブラジルの『W.V.C.3』などの MMA の大会にも出場し、日本においては『THE U-JAPAN』以外にも、パンクラスやキングダムといった団体でも試合を行い、1998年2月にオランダで開かれた『リングス・オランダ大会』でリングスの名選手だったディック・フライを KO してから、公の試合に出ることはなくなった。

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ディック・フライを KO

試合に出場しなくなった彼は、その圧倒的な体格を生かしてクラブなどのバウンサー(警備員)を主に務めながら、MMA の大会の役員として働いていたという。

だが 2020年12月、ヴァレランスは再び戦いの場に引き戻されることになる。

相手は、彼の人生において最強最悪の敵、新型コロナウイルスだ。

ヴァレランスはフェイスブックをやっていたのだが、同年 12月10日に体調を悪化させて「人生で、こんなに気分が悪くなったのは初めてだ。今日は検査を受ける」と投稿。

12月12日に陽性と判断されて、アトランタのミッドタウンにあるエモリー大学病院に入院。

「地獄のような気分だ」と述べた翌 13日には「新型コロナの感覚をたとえるなら、腎臓へのパンチを得意技とする相手と戦っているようなものだ」と投稿したのを最後に、フェイスブックで彼のコメントは見られなくなる。

それから、症状は人工呼吸器をつけなければならないほど悪化し、昏睡状態にまでなってしまったヴァレランスは、一か月の闘病生活を経た翌年 2021年1月16日、帰らぬ人となった。

享年 51歳。

彼の人並外れたパワーをもってしても、新型コロナウイルスには勝てなかったのだ。

ヴァレランスは、並外れた体格に現役時代の荒々しい面構えと力任せのファイトスタイルから、気性の激しい荒くれ者と思われがちだったが、実際は体の大きさと同じく心が広くて温厚な人物であり、彼と接した人物は皆、その誠実な人柄に好感を持っていた。

そんなヴァレランスの早すぎる死を身近な者たちはもちろん、UFC で彼と親交のあった関係者誰もが悲しみ、その死を悼んだという。

出典元―ESPN、MMA Junkie、Wikipedia

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見殺しにされたブラジル少年 ~1997年・小牧市日系ブラジル人少年集団暴行殺人事件~

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1997年10月6日、愛知県小牧市でバットやゴルフクラブを持った暴走族の少年20人あまりが、小牧駅通路でたむろしていた日系ブラジル人の少年少女たち10人を襲撃。

三人のブラジル人の若者が重軽傷を負い、14歳のブラジル人少年・エルクラノ・ルコセビシウス・レイコ・ヒガが拉致されて暴行を受け、後日死亡する事件が起きた。

暴走族による襲撃の理由は、不良ブラジル人三人にケンカを吹っ掛けられ、車をへこまされた報復である。

しかしエルクラノを含め、襲われたブラジル人少年たちは、日本人少年グループにケンカを売った三人と全く関係がなく、同じブラジル人という理由で攻撃されてしまったのだ。

そして、事件後に明らかになったのは、被害者及びその両親に対する少なからぬ日本人の冷たい対応だった。

ブラジル人の多い小牧市

エルクラノ

殺されたエルクラノ・ルコセビシウス・レイコ・ヒガ(14歳)は、1991年に出稼ぎ労働者として来日していた両親に呼ばれて、1995年に日本にやって来た。

来日して日本の中学校に入ったが、いくら言語習得の黄金期である十代前半でも、来日したばかりの彼にとって言葉の壁は厚く、学校生活になじめなかったようだ。

そこで中学校をやめて、ブラジルの通信教育システムを使って在宅で勉強を続けていた。

このように、日本の学校になじめなかった日系ブラジル人の少年少女は全体の約半数に上っていたため、エルクラノは少数派というわけではない。

かといってグレたわけでは決してなく、仕事で忙しい両親をサポートするために家事を手伝ったり、14歳ながらアルバイトをして、家計を助けていたまじめな少年だったのだ。

そんな彼にとっての息抜きは、小牧駅北側通路付近で同じブラジル人の若者と集まって話すことだった。

1990年6月に「出入国管理及び難民認定法」が改正されて日系人に在留資格が認められて以来、労働目的で日系ブラジル人が来日するようになり、特にここ小牧市は、現在でも日系ブラジル人が多い。

エルクラノと話す仲間のブラジル人の若者たちも両親に連れられてきたか、自分も工場などで働いている日系人だ。

来日して間もない者が多く、日本人は自分たちを避けて遠巻きにするから、やはり同国人同士は楽しい。

かといって、ブラジル人だけで固まっているわけではなく、このグループには仲良くなった日本人の少年少女も混じっていた。

十代の者がほとんどだが、彼らは悪さをする集団ではない。

集まって話をしているだけで、無害な部類の若者たちだった。

が、日系ブラジル人は彼らのような者ばかりではない。

数が多いと、不心得者も一定数出てくる。

エノクラノが命を奪われる事件のきっかけとなる出来事が、二日前に彼とは関係のないところで起こされていた。

シルビアに乗った不良ブラジル人

その出来事は10月4日、車を運転していた兼井亮(仮名・19歳)たちが三人の日系ブラジル人の若者にケンカを売られたことから始まる。

前をノロノロ走っていたシルビアを兼井の車が追い越したところ、そのシルビアが急加速して追いかけてきて、パッシングをするなど煽ってきたのだ。

そして横に並ぶや、中に乗っていた一人が身を乗り出して「バカヤロ!」と、なまりのある日本語で怒鳴るや、ゴルフクラブで兼井の車を一撃。

そのまま走り去った。

「あのボケら!」

暴走族などの悪い連中と付き合いがあり、その一味の者でもある兼井は怒り狂ったが、この車は知り合いから借りた車。

どこかへこまされていないか点検しようと車を停めると、先ほどのシルビアが戻って来た。

車内には、ここのところ街でよく見かけるようになった日系ブラジル人と思しき、ほりの深い顔立ちの三人の若者。

こちらを見ながら、ヘラヘラ笑って挑発しつつ再び去って行った。

「覚えとけよガイジン!顔は覚えただでな!」

兼井はヤンキーらしい捨て台詞をシルビアに向かって吠えたが、ナメられているのは明らかだから、この怒りは押さえられない。

彼は不良少年、ナメられたら自分はおしまいだと考えている種類の人間なのだ。

だいたい最近小牧市のあちこちで見かけるようになった日系ブラジル人だが、彼はいい印象を持っていない、というかムカついていた。

ついこないだも、小牧駅で日系ブラジル人らしき少年たちに「オマエ、オレニ“バカ”イッタデショ?」とか、訳のわからんいいがかりをつけられ、もめたことがあったのだ。

そういえば、さっきの奴らと同じ連中だったような気がしないでもない。

この時の兼井が知っていたか否かはわからないが、さきほどのシルビアの三人は、この小牧界隈のブラジル人ばかりか日本人不良少年の間でも有名になり始めていた札付きであった。

窃盗などの悪さを重ねる一方で、暴走族のようなイキっている日本人の不良少年が大好物らしく、見かけるとすぐにケンカを売ってくる武闘派でもあるのだ。

その夜、家に帰ってムカムカしていた兼井の携帯電話に着信があった。

かけてきたのは、タメ年の吉池浩二(仮名・19歳)。

かなりヤンチャしている男で、あちこちの暴走族にも顔が利く実力者だ。

その要件は何と、あの「シルビアのガイジン」、兼井の顔見知りでもある後輩の一人が車をへこまされたから、仕返しの手伝いに来いと言うではないか。

「そいつ知っとるぞ!俺も探しとったんだわ!」

時間はすでに夜12時を回っていたが、復讐の炎をたぎらせるあまり寝付けなかった兼井は、いきり立って家を出た。

兼井は吉池とその後輩らと合流した後、車に分乗。

車に鉄パイプやゴルフクラブを積んで、「シルビアのガイジン」狩りに夜の街へ繰り出した。

それにしても「シルビアのガイジン」は、この日特に大暴れだったらしい。

兼井や吉池の後輩にそれぞれケンカを売ったばかりではなく、別のグループにもちょっかいを出していたようなのだ。

兼井たちは途中に立ち寄ったコンビニで、自分たちより年下と思しき鉄パイプを手にした不良少年たちに出くわしたが、何かを探している様子だったので、もしやと思い「オメーら、ダレ探しとんだ?」と先輩風を吹かせて聞いたところ、彼らの答えは「シルビアのガイジン三人っす」。

少年たちは原チャリをやられたという。

その後、兼井たちは目を血走らせて、午前4時まであちこち探して回った。

だが、結局この日は誰も「シルビアのガイジン」を見つけることはできず、ムカつく気持ちを抑えられないまま、日本人の不良少年たちは帰宅した。

続々集まる日本人不良少年たち

10月6日の夕方、市内のファミレスに、吉池と兼井ほか三人の少年が集まっていた。

要件は、吉池が仲介した仲間同士の車の売り買いについてだったが、兼井は一昨日の「シルビアのガイジン」たちへの怒りが頭から離れず、この場でもそれを口にする。

二日前のことだがまだムカつく。

そして話しているうちにだんだん怒りが増してきた。

「ガイジンたよ(外人たちさ)、小牧駅にようけおるみたいなんだわ」

夕方に同胞に会おうと小牧駅北側通路に集まる、エルクラノを含む日系ブラジル人の少年たちのことである。

前に自分に文句をつけてきたガイジンも小牧駅にいた奴らだったし、「シルビアのガイジン」はあの中にいるか、もしくは知り合いかもしれないと考えたようだ。

「ああ、そういや、あそこいつもガイジンようけおるな」

「あれんた(あいつら)の中におるて、ぜってーに。やってまわんか?」

ここで兼井の話を聞いていた吉池も、自分の息のかかった者がやられているので熱くなり、こう言った。

「そうだて、やってまおうぜ。どつき回したろう」

日系ブラジル人襲撃の決行が決まった瞬間だった。

内心行きたくないと思っていた者もいたが、ここで「やめよう」と言ったら、周りに怖気づいたと思われてしまうだろう。

ここにいるお世辞にも善良とは言えない少年ばかりの中で、それは立場を完全に失うことを意味した。

そうは言っても、ここにいる人数では心細い。

悪ガキどもは、頭数を揃えるためにそれぞれのツレに電話し始めた。

同時に兼井は、バイクで小牧駅に彼らがいるかどうか偵察に向かう。

その頃、自宅で家族団らんの夕食を終えたエルクラノは、いつもの小牧駅北側通路に向かっていた。

「みんな来てるから、お前も来いよ」と、同じ日系ブラジル人の友達であるホリオンに電話で誘われたからだ。

家を出る時、母親のミリアンには「早く帰ってきなさいよ」と言われながら、喜び勇んで憩いの場所に出かけた。

小牧駅に着くと、いたいた。

ホリオンも、コウタも、エリオも、カヨコも、みんないる。

エルクラノを見つけると「よーう」とか言って、笑顔を向けてくる。

いつものメンツに加えて何人かの見かけない顔とカヨコのような地元の日本人もいるが、ここに集っている以上みんな友達だ。

エルクラノもその輪に加わって、仲間たちと話を始めた。

気の置けない友人たちと直接会って話をするのはやはり楽しい。

こういうのは携帯電話ではだめだ

彼が合流してからしばらくして、一台のバイクが彼らの近くを通り過ぎた。

バイクの形とそれにまたがっている者の風体から、日本人の中で不良とみなされている「暴走族」っぽい若者である。

それは、日系ブラジル人の少年少女たちにも分かるのだ。

バイクは距離がある程度離れたところに停まると、それに乗っていた若者はこちらに向かって「馬鹿野郎!」と吠えて走り去った。

「なんだあいつは?」

少々気分が悪いが、気にしない。

日系ブラジル人の若者たちは、つい先日行った同国人の開いたイベントの話題などで盛り上がり始めた。

「おったぞおったぞ!ガイジンた、十人くらい小牧駅におった!」

小牧駅への偵察から戻って来た兼井が、ファミレスに待機していた吉池たちに報告した。

「よっしゃ!人数も集まったで、ガイジンども、ボコボコにしたろう!」

ファミレスには、いつの間にか先ほどより多くの不良少年が集まっている。

それぞれのツレを呼び、またそのツレがツレを呼んだりして、20人くらいになっていたのだ。

当然、どいつもこいつも暴走族をやってたりするろくでなしで、木刀や鉄パイプ、ゴルフクラブなどの凶器持参なのは言うまでもない。

こんな奴らに集合場所にされて、店もいい迷惑である。

悪ガキどもは「腹が減ってはいくさはができぬ」とばかりに飯を食いながら、事実上の司令官である吉池による襲撃の手順などの説明を拝聴する。

当初の目的は「シルビアのガイジン」をぶちのめすことだったが、それはいつの間にか、小牧駅でたむろしているガイジンを一網打尽にすることに変わっていた。

また、何のために集まったかわからず、ファミレスで初めてその目的を聞いて帰りたくなった者もいたが、ここまで来といて帰るわけにいかない。

何度も言うが、こいつらは不良。

ビビったと思われたらおしまいだと考えているバカどもだからだ。

夜九時を回ろうとしたころ、総勢20人のバカたちは、車やバイクに分乗して小牧駅に向かった。

襲撃

午後9時を回ったころ、談笑していたエルクラノら日系ブラジル人の耳に、バイクの爆音が再び入って来た。

また暴走族である。

しかし、今度は大人数であり、しかも手に手にバットやバールなどの得物を持っている。

そして、何か怒鳴りながら、こちらにまっしぐらに向かってくるではないか。

「やばい!逃げろ!!」

自分たちを襲撃しに来たと分かったブラジル人の若者たちは、いっせいに逃げ始めた。

「待てコラ!ガイジン!!」

吉池と兼井を先頭に、暴走族グループは、二十人を二手に分けて挟み撃ちにする配置で襲撃。

ブラジル少年三人が逃げ遅れ、それぞれ取り囲まれる。

「こいつか?こいつじゃねえな」

「オイ、コラ!シルビアのガイジンどこだて!?」

「言えや!」

当初の目的どおり「シルビアのガイジン」のことを聞き出そうとしていたが、日本語が未熟なブラジル少年たちに、方言とスラングの混じった早口の日本語が聞き取れるわけがない。

それに、「シルビアのガイジン」って何のことだ?ブラジル人なら誰でも知り合いというわけではないのだ。

「ワタシシラナイ!ソレハナニ?」

「ちゃんと日本語しゃべらんかい!!」

イラついた兼井は、拳を脇腹に叩き込む。

他の奴らも木刀やバットをブラジル人に振り下ろし、蹴りを入れまくる。

最初は「シルビアのガイジン」の行方を聞き出すことが目的だったが、「シルビアのガイジン」もこいつらも同じガイジンだ。

日本に来て偉そうにしているように見えるから、ムカつく。

彼らが標的にしたのは、日系人でも明らかに外国人だと分かる顔立ちの者であり、一緒にいた日本人の少女や日本人そのものの顔をしている日系ブラジル人は襲われなかった。

兼井たちに痛めつけられた三人の若者は、ふらつきながら小牧駅構内に入って改札にいた駅員に助けを求めたが、何と駅員は「自分で警察に電話しなさい」と、つれない態度を取るではないか。

暴走族にビビッて、かかわらないようにしていたんだろう。

それでも三人は改札を飛び越えてホームに向かい、運よくやって来た電車に飛び乗って難を逃れることができた。

一方のエルクラノもホームに逃げ込んできたが、運悪く電車はまだ来ない。

そこで反対のホームに移動したのだが、そこで暴走族に見つかり捕まってしまう。

彼らは改札の外にいたのだが、エルクラノを見つけると、改札を飛び越えて殺到してきたのだ。

「タスケテクダサイ!」

エルクラノも構内にいた駅員に訴えたが、こいつも冷たい奴、いや非常識極まりない奴だった。

「他のお客さんに迷惑だから出て行きなさい」と明らかに身の危険にさらされているエルクラノを見捨てる態度に出るんだから信じられない。

彼は暴走族に羽交い絞めにされて、小突かれながら連れ去られようとしているのにだ。

暴走族たちは嫌がるエルクラノを車に押し込んで、すでに騒然となっている小牧駅から退散していった。

市之久田中央公園でのリンチ

現在の市之久田中央公園

「コラ!シルビアのガイジンはどこ住んどるんだ?!」

「知っとるだろが!言えて!おい!」

「日本でちょうすいた(生意気な)態度とるなてボケ!!」

エルクラノをさらって市内の市之久田中央公園に移動した不良たちは、ここでも「シルビアのガイジン」の行方を聞き出そうとしていたが、小牧駅同様同じガイジンだからとばかりに、その怒りが何の関係もないエルクラノに向かいつつあった。

どころか「そういえば、こいつあのシルビアに乗っとった奴の一人に似とるな」「いや、こいつじゃねえか!」ということになり、木刀で突き、顔面に拳を連打し、飛び蹴りをくらわし、歯が折れたらしいエルクラノは、口から血泡を出し始める。

「ワタシ、チガウ!イウイウ!ソノヒトシッテル!!」

「ほんまか?ほんなら電話しろや!」

エルクラノが苦し紛れにそう言うので、暴走族の一人が自分の携帯電話を出して電話させた。

携帯電話を貸したのは、谷永健一郎(仮名・19歳)というこの公園に移動してから新たに加わった少年で、一緒に働いている中野拓也(仮名・19歳)と難波友親(仮名・19歳)たちと来たようだ。

難波は木刀、中野はバタフライナイフ持参で来ている。

この時点で、不良の数は27人に増えていた。

だが実際、エルクラノは「シルビアのガイジン」の顔は知っていても友達ではないのだ。

よって電話番号などの個人情報は知るわけがない。

彼は谷永の電話を操作し、相手が出るとポルトガル語で話し始めたが、不良たちはその話しぶりから、すぐに何だかおかしいことに気づき始めた。

「シルビアのガイジン」じゃなくて助けを呼んでいるような感じがしたのだ。

「こいつ、助け呼んどらせんか?」

「オメーどこかけとるんだて!」

「おい!日本語使えて!」

エルクラノから携帯電話を取り返そうとしたが、手を離さずにポルトガル語で、何かを必死に訴えている。

彼は「シルビアのガイジン」と見せかけて、自宅に電話して父親に助けを求めていたのだ。

暴走族たちは、エルクラノの背中をバットで強打し、ゴルフクラブで殴りつけて、携帯電話を奪い取った。

この暴行で特に威勢が良かったのは、小牧駅での襲撃に間に合わなかった難波と谷永のグループである。

難波は、木刀でエルクラノを連打し、谷永は中野が持ってきたバタフライナイフを拝借して、エルクラノの右の太ももを刺すことまでしたのだ。

「アイイイイ!!!」

悲鳴を上げた彼だったが、暴走族グループによって、さらに容赦のない殴る蹴るの暴行を加えられる。

このままやったら死ぬな、と思った者も中にはいたらしいが、誰もやめようとはしない。

その最中、不良たちは公園内に複数の人影を見つけた。

夜のジョギングか散歩をしに来た人々である。

「やっべ!ずらかるぞ!!」

不良たちはそれぞれ乗って来た車やバイクに分乗して、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

やっと地獄のリンチから解放されたエルクラノ。

だが、遅かった。

彼はその後、近所の学習塾の講師によって助けられ、救急車で病院に運ばれたが、あまりにも身体へのダメージが重く、二日後に死亡する。

たった十四年の生涯だった。

そして皮肉なことに、日本人の不良少年が追っていた「シルビアのガイジン」たちは、10月6日の時点で車上荒らしにより逮捕されていたのだ。

エルクラノを救え!

「とうちゃん!助けて!!おれ、暴走族にめちゃくちゃやられてるんだよ!」

「エルクラノか!?今どこにいるんだ!?」

「えと、国道41号で、あと、おもちゃ屋の看板が見える。頼むよ!早く助けて!」

「大丈夫か!おい!!」

「痛っ!やめてくれよ!痛い痛い!!」

「おい!もしもし!もしもし!」

エルクラノの父マリオが受けた息子からの電話である。

彼はこの時、市之久田中央公園で暴行を加えられている最中であり、谷永の電話を借りて電話したのは、父親に助けを求めるためであったが、通話は暴走族に電話を取り上げられてすぐに終了した。

小牧駅で日系ブラジル人の少年少女たちが暴走族に襲われ、エルクラノがさらわれたことは、襲われた者たちが知らせたために、彼の両親であるマリオとミリアンだけでなく、市内の日系ブラジル人に知れ渡っていたようだ。

マリオの家の周りには知り合いだけではなく、全く見ず知らずの日系ブラジル人までもが続々集まってきて、車でそれぞれエルクラノを探し回り始めていた。

さらわれたのは、同じブラジル人の少年。

相手は暴走族だから見つけたとしても、おとなしく返してくれるわけはない。

ならば、実力で奪い返すまでだ。

マリオが知らせた情報を頼りに、腕ずくで取り戻すことも辞さない熱血漢たちは、車を走らせて血眼になって同胞の少年の行方を捜した。

だが、彼らはエルクラノを救うことはできなかった。

反省の色がない不良たち

市之久田中央公園からバックレてきた吉池や兼井ら不良少年たちは、市内のスーパー銭湯の駐車場に集まっていた。

「谷永、あのガイジン刺しとったが。どんな感じ?」

「別に、すうーって刺さったって感じ」

「オレかて木刀クリーンヒットさせたったがな」

「おめー、後ろで見とっただけだったが!」

「やっとったて!おめえが見とらんだけだがな!!」

彼らは、まるで試合後のスポーツマンのように、自分がいかにエルクラノや他の日系ブラジル人を痛めつけたかを自慢し合った。

こいつらは不良少年だからヤバいことをすることは美徳だと思っているのだ。

「あいつ死んどるぞ。これで俺らやっとらん犯罪はなくなったってことだでよ!」と言ったりして得意げですらある。

そして、乗って来た車に付着したエルクラノの血を洗い流すなど証拠隠滅にもいそしむ。

彼らは「やってやったぜ」などと、反省の色もなく威勢が良かったが、同時に懸念もしていた。

日系ブラジル人からの報復があると予想していたのだ。

そしてその予想は、この日のうちに的中する。

小牧駅での襲撃には間に合わず、公園から参加してきた谷永と難波たちは、吉池たちと別れて居酒屋に向かったのだが、途中でエルクラノを探していたブラジル人たちと鉢合わせしてしまったのだ。

同胞の少年を拉致されて気が立っていたブラジル人は、いかにも暴走族風な見かけの谷永たちを犯人の一味とみなして攻撃。

谷永たちのグループのうち一人が逃げ遅れてバットで殴られ、骨折する重傷を負った。

この時も、追われる立場になった谷永たちが応援を呼んだりしたため、事態は日本人不良少年とブラジル人の全面抗争に発展する気配になりつつあった。

さらに二日後に、エルクラノが死亡したために暴走族への報復を主張するブラジル人の若者が続出する。

小牧市の警察も大規模な衝突の発生を予感して厳重な警戒態勢を取った。

だが、そうなることはなかった。

エルクラノの葬式の日、地元の在日ブラジル人向けテレビ放送で暴力に訴えることを、声を大にして反対した人物がいたからだ。

それは、彼の父であるマリオである。

「仕返しはやめてくれ!暴力はもうたくさんだ!!死んだ息子はそんなこと望んでない!」

エルクラノの死を最も悲しんでいる人物のこの言葉を前に、血気盛んな日系ブラジル人の若者たちも矛を収めざるをえなかった。

冷たい日本社会

ビラを配るエルクラノの父・マリオ

小牧駅でブラジル人たちが襲撃された際に、彼らを見捨てた駅員たちも問題だったが、小牧市の警察も問題だった。

生死の境をさまようエルクラノが病院の集中治療室で治療を受けている際、無事を必死で祈る父親のマリオと母親のミリアンに、後からやって来た警察が開口一番に尋ねたのは「ビザを持っているか?」

最初から不法滞在者ではないかと疑っているような口ぶりだったという。

また、エルクラノが死亡した後、何度も警察署に行って犯人逮捕を求めても、なかなか捜査しようとはしなかった。

明らかに事件であるにもかかわらずだ。

マスコミの報道も小さく、何よりエルクラノの名前が間違っていた。

警察が動いてくれないなら、自分たちで動くしかない。

マリオとミリアンは愛知県庁前に立って、捜査をしてくれるように事件について書かれたビラを通行人に配り、署名活動を始めた。

やがて、心ある日本人も現れて彼らを支援してくれるようになり、マスコミにも取り上げられるようになって、この事件が日本国内ばかりか、ブラジル国内まで知られるようになってくる。

これを受けたブラジル大使館が動き出したことにより小牧警察も重い腰を上げ、事件から一か月半後の11月後半に、谷永や兼井をはじめとした犯行グループが逮捕された。

だが、それまでにマリオたちは心ない輩から「日本が嫌ならとっととブラジルに帰れ」などと、いたずら電話をしょっちゅうかけられていたという。

また、日本の司法制度も、彼らにとって満足できるものではなかった。

この当時は、今以上に加害者の権利がやたらと保証されて、被害者側が蚊帳の外に置かれているようなシステムで、マリオには、家庭裁判所での少年審判の内容やその結果も知らされなかったのだ。

加害者の少年たちの態度も問題だった。

彼らは責任を擦り付け合って心から反省しているとは思えず、その弁護士は、量刑を軽くするための示談金の話しかしてこない有様。

そして翌年の1998年7月までに判決が出たのだが、主犯の吉池は求刑7年に対して懲役5年、兼井は求刑6年に対して懲役5年。

市之久田中央公園でエルクラノを刺した谷永は懲役3-5年、木刀で殴るなど致命傷を負わせたとされた難波も懲役3-5年で、後の中野たちは中等少年院送致など異様に軽い判決だった。

「オカシイ!」

判決を聞いたマリオは、思わずそう言ったという。

「義を見て為ざるは勇なきなり」の精神を持て

マリオとミリアンは、日本に大いに失望したことだろう。

最愛の息子を殺されて警察も捜査してくれず、やっと逮捕してくれたと思ったら、人殺しに異様に軽い判決。

確かに、愛知県庁前での彼らの署名活動などを支援する心ある日本人は現れた。

しかし、エルクラノが小牧駅で襲われていた時に、心ある日本人がその場に一人もいなかったのが問題だ。

あの時にいたのは、暴走族にビビッてエルクラノを見捨てた駅員のような奴か、オロオロするしかできなかった者ばかり。

「義を見て為ざるは勇なきなり」という言葉は、1997年10月6日の小牧駅において死語になっていた。

そうでなければ、エルクラノは殺されなかったはずである。

彼は見捨てられたのだ。

そして、残念ながら、前述の言葉は現代の日本の多くの場所でも死語のままのようである。

2022年1月、JR宇都宮線の電車内で喫煙をしていた無法者を注意した高校生が暴行されたが、無情にも、その時電車内の誰も高校生を助けようとした者はいなかった。

これは、まれなケースだろうか?

きっと他のほとんどの地域でも皆見て見ぬふりするだろう。

どうも日本では「義を見て為ざるは勇なきなり」よりも「君子危うきに近寄らず」の方が美徳で、危ない奴がいたら何が何でも関わってはならないのが正解になっている。

たとえ、目の前で他人がそいつの餌食になっていようとも。

それが、この世界的に治安が良い国の礼儀正しい国民の正体だ。

それでいいのか?

いかんだろう!!

危ない奴が暴れていたら、そいつを誰もが見て見ぬふりする社会よりも、周りの人間がそいつを集団リンチする社会の方がずっと健全だ。

日本国民よ。

無法者に正義の鉄拳を下すことを躊躇するな!

正面から立ち向かう必要はない、背後などの死角から、致命的一撃を加えよ!

その場にいる者は後に続け!

日本政府よ。

心ある国民による秩序の維持のための果敢な行為に対して、法的保護を与え且つ奨励せよ!

行動しない臆病者ばかりの社会では国の将来も危うい!

より良き社会の実現に向けて、国民の意識改革を推進すべし!

出典元―『エルクラノはなぜ殺されたのか』、中日新新聞

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ヤクザが最も凶悪だった時代 ~1998年・那須町調理師兄弟生き埋め事件~

本記事に登場する氏名は、一部仮名です。

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1998年11月27日、栃木県那須町のホテルに勤務する調理師の兄弟・丸田紘一さん(仮名・49歳)と丸田昭二さん(仮名・48歳)が、夜中に出かけたまま失踪した。

翌28日、弟の昭二さんの家族から捜索願が出されたが、兄弟に家出や自殺の動機が一切なかったことから、警察も事件に巻き込まれた可能性の高い特異家出人として受理して捜査に乗り出す。

栃木県警捜査一課及び二課、黒磯署は、兄弟の周囲でトラブルがなかったかの聞き込みを行ったところ、明らかに不審な点が見つかった。

兄弟は、暴力団関係者とトラブルを抱えていたのだ。

そして、27日の晩に飲みに行ったと思われるスナックで、暴力団員風の男らから、暴行を受けて連れ去られたことが判明する。

やがて、その相手であった暴力団員である岩瀬裕(本名・51歳)ら、三人を暴力行為違反法で逮捕して丸田兄弟の行方について聞いたところ、二人ともすでに殺されて栃木県那須町の山林に埋められていたことが分かった。

供述により、翌1999年1月8日に発掘したところ、地中から1.5メートルの深さの地点から二人の死体を発見。

身元はやはり、紘一さんと昭二さんであったが、司法解剖の結果、恐ろしい事実が判明する。

二人とも刺し傷などの外傷はなく、暴行を受けたことによる肋骨などの骨折があり、気管に土砂が詰まっていた。

つまり、生き埋めにされていたのだ。

「逆らう奴は許さん」

新聞記事の一部

自動的に生成された説明
岩瀬裕。絶対に近づきたくない人相だ。

丸田兄弟を埋めたのは、山口組系の二次団体の組員の岩瀬裕(本名・51歳)、菅原康正(本名・31歳)、坂本薫(本名・40歳)である。

兄弟は、この岩瀬とトラブルになっていたのだが、そのきっかけは無茶苦茶なものだった。

それは、失踪する二か月前の9月下旬に、ある男性が岩瀬らに些細なことから因縁をつけられたことから始まる。

その男性は、丸田さんらの飲み仲間だったのだが、岩瀬は何と飲み仲間であるという理由で、丸田さんにまで慰謝料を要求してきたのだ。

とんでもない外道である。

こんな理不尽な要求でも、ヤクザが相手だと払ってしまう一般人もいるが、兄弟は断固拒否、再三にわたる恫喝も無視し続けた。

こんな奴らに払う義理はないし、払ったら払ったでまた何かとたかってくるに決まっているからだ。

こうして、約二か月が経過した11月27日。

その日、二人は弟の昭二さん宅で酒を飲んでいたが、午後11時半ごろ「ちょっと出かけてくる」と家族に言って出かけた。

行先は、黒磯市内のスナックである。

だが、このまま家で飲んでいるか、もう遅いから寝るべきであった。

なぜならば、そのスナックで彼らを脅し続けている岩瀬たちと鉢合わせしてしまったからだ。

岩瀬は、自分の要求を拒み続けていたカタギの相手が、自分たちの息のかかったスナックで平然と飲んでいるのに激怒。

自分たちを見てもビビらない態度も火に油を注いだ。

「テメーら!ナニ偉そうに飲んでやがんだコラ!!」

一緒にいた菅原と坂本、滝本郁夫(本名・43歳)も加わって、丸田兄弟に殴りかかって暴行を始めた。

岩瀬は51歳だったが幹部ではないペーペーの組員、つまり出世できずに、歳だけくった三流ヤクザだ。

そのくせ、世間から恐れられるヤクザの端くれであることに妙な誇りを持っており、堅気ならば自分の言うことにビビッて従うべきだと考えていた馬鹿野郎でもある。

そんな岩瀬は、畏怖されて然るべきヤクザである自分に逆らう丸田兄弟にはかなり腹を立てており、今日という今日はけじめをつけてやるとばかりに暴行を加えたが、これだけやられても泣きを入れてこない兄弟にますます逆上した。

「オイ、場所替えるぞ!」

二人をスナックの階段から蹴り落とし、自分たちの車に押し込んで、岩瀬と菅原、坂本が向かった先は那須町寺子丙の山林。

底辺ヤクザの岩瀬は、後先を冷静に考える頭を持っていない。

自分たちをナメた相手を生かしておくつもりはなく、埋めることにしたのだ。

この時、岩瀬は自分たちに協力させようと、もう一人の男を真夜中に電話で呼び出していた。

中林邦夫(仮名・49歳)という造園業に従事する男であり、ヤクザではない。

だが、岩瀬の組から金を借りたことがあり、金はすでに返済していたが、そのまま関係を断ち切れないでいた。

ヤクザは一度関係を持った相手を離さず、延々と自分たちに都合よく利用しようとするものなのだ。

中林が命じられたのは、人気のない場所に自分たちを案内することと、そこにショベルカーで穴を掘ること。

後に、殺人ほう助の罪で逮捕されることになる中林は「穴は掘ったが人を埋めるとは思わなかった」と供述しているが、自分がこの時こんな山奥で何のために穴を掘らされていたかは、十分に推察できていたのは間違いない。

かと言って拒否すれば「さんざん世話になったオレの言うことが聞けねえのか」などと言われて、どんな報復をされるかわからないし、下手をすれば、その穴に自分が入れられかねない。

警察が動くのは、やられてしまってからの方が多いのだ。

そんなことは百も承知の中林は「チャッチャとやれよ!」とか、岩瀬らにどやされながら嫌々ショベルカーを操作した。

「テメーらが埋まる穴だぜ」

丸田さんたちは、自分たちを埋める穴を掘るところを見せられて、恐怖のあまり絶句していたという。

穴を二メートル程度まで掘り終わると、車から引きずり出して穴に蹴り落とす。

二人とも穴から出ようとしたが、上から踏みつけられて、再び落とされた。

そして、犯人三人のうち一人がショベルカーを運転して穴に土砂をぶっかけ、兄弟を生き埋めにした。

ナメられたと思ったら、なりふり構わないから職業犯罪者であるヤクザは恐ろしい。

だが、しょせんはヤクザの中でも低級な部類に属する岩瀬の犯罪。

それまで被害者を脅していたり、スナックで暴行を働いたりと目立ちすぎ、捜査線上にすぐに浮かんで逮捕となった。

いくら犯罪者に甘い日本でも、こんなことをしでかしてただで済むわけがない。

岩瀬は、翌1999年11月18日に求刑どおり無期懲役の判決を下された。

本来なら死刑が妥当な気もするが、犯罪の冷酷さから、現在まだ生きていたとしても塀の中のはずだ。

また、出てくることもないだろう。

ヤクザが最も恐ろしかった時代、そして今後

この1990年代後半から2010年代にかけて、ヤクザが最も凶悪化した時代ではないかと本ブログの筆者は個人的に思う。

一般人を相手にした殺人事件が、やたら目立ったのだ。

ちなみに栃木県では、この那須での生き埋め事件からさかのぼること一年前の1997年11月30日にも、凶悪な事件が発生している。

同じ栃木県内の真岡市のスナックで、松葉会系暴力団の組員二人が口論になったとび職の男性を、さんざん暴行した上に店外まで連れ出し、とどめとばかりに車でひき殺したのだ。

新聞の記事

自動的に生成された説明

2001年7月には、出会い系サイトで知り合った女性のとの間で金銭トラブルを起こした埼玉県越谷市の高校教師が、女性の背後にいた暴力団組員に監禁されて金を脅し取られた上に殺されて、静岡県内の山林に遺棄された。

2002年3月4日には、兵庫県神戸市で神戸商船大学の大院生が暴力団員に言いがかりをつけられて暴行後、拉致されて殺される事件が起きている。

暴力団が背後に立って違法な金利で取り立てをする闇金が生まれ、振り込め詐欺が横行しはじめたのもこの頃だ。

それ以外にも、中国人窃盗団の手引きをしたり、中には自ら一般人の家庭に押し込み強盗を働いて、家人を殺傷する組員すら出現していた。

思うに、90年代後半は暴力団対策法が施行された上に、不況で資金獲得が難しくなってきた時期でもあったから、シノギのためには、なりふり構っていられなかった組員が多かったはずである。

だから余裕がないあまり、テンパって暴走する者が少なからず出たようだ。

何よりこの頃は、血気盛んな若年の組員の総数も多かったからなおさらである。

今から考えれば、恐ろしい時代だ。

だが2004年以降、さらに暴力団を締め付ける暴力団排除条例が各地の自治体で施行され始めて、暴力団は徐々に弱体化してゆく。

暴力団員が犯罪を起こせば、より重い刑罰も課されるようになり、抗争はもちろん、シノギもますます難しくなる。

脱退者は増え続けるのに加入者は少なく、2022年の現在は、残った組員たちも高齢化して行動力も低下し、もはや、かつてのように我が物顔でのさばることはできなくなった。

強力な悪を追い詰めた結果、その悪がより凶悪になった1990年代後半から2010年代を経た後、その勢力は力を失いつつあるのだ。

これは、表面上とても良いことに思える。

だが、本当にそうか?

一つの勢力の力がなくなれば、その空白を別の勢力が埋めるのが世の常だ

現実に暴力団の弱体化とともに、半グレと呼ばれる勢力が力を伸ばしてきたのは周知のとおりである。

どの時代でも、道を踏み外す者は出てくるが、その受け皿が暴力団という勢力から、半グレという新しい勢力に移りつつあるのだ。

外国人の犯罪組織も、今後ますます力を持つようになるだろうし、もうすでに地盤を固めている可能性もある。

そして、こういった新たな勢力というのは往々にして旧勢力よりやっかいで、扱いにくいものであることが多い。

事実、彼らは従来のヤクザ組織と違って実態がつかみにくく、その全容を把握するのは困難であるという。

よって、暴力団の完全消滅は、より安全な社会の到来であると筆者は無条件に信じることができない。

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「お母さん!何とかして!」~1992年・奈良県天理市女子短大生誘拐事件~

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。

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1992年11月30日、天理市内のとある寿司店。

金融業を営む森本正成さん(仮名・48歳)と妻の照子さん(仮名・46歳)、小学校五年生の長男の一家三人はすでに店内に入って席についていたが、一向に寿司を注文しようとせずにやきもきしていた。

注文するわけにはいかない。

この店に来るはずの森本家の長女、私立短大一年生の森本知世さん(仮名・19歳)がまだ来ないのだ。

森本家の人々は、この日は家族で食事をしようと決めており、大阪市内の短大に通う知世さんも家族とは別に、学校の帰りに店に来ることになっていた。

だが、その約束した時刻である午後7時は、もうとっくに過ぎている。

この時代に携帯電話はない。

待ち合わせに相手が現れないからといって、今どこにいるか又はいつ来るのか、相手に連絡をとることはできないのだ。

遅れるなら遅れるで、この店にいることは分かっているはずだから、店に電話があってもいいのだがそれも全くない。

「ナンで来(け)えへんのやろ?」

「なんかあったんやろか?」

来るはずの娘が姿を現さないのでは、心配でゆったりと寿司を食べていられるわけがない。

両親は悪い予感がして仕方がなかった。

そして、その予感は的中する。

脅迫電話

森本知世さん(仮名・19歳)

結局知世さんは、寿司屋に現れなかった。

森本家の人々は、仕方なく三人で砂をかむような思いで寿司を食べた後、午後9時には自宅に帰っていた。

そして、9時10分ごろ自宅の電話が鳴る。

娘からのものでは?と直感した母親が急いで電話に出ると、はたして娘の知世さんからだった。

ホッとしたのもつかの間、様子がおかしい。

「お母さん」と一言発してから、泣き声しか聞こえてこないのだ。

「どうしたん?」

呼びかけても泣き続けるばかりである。

「はっきりしいや。何があったん?」

ただ事でないのは明らかだ。

まさか…。

「誘拐された」

母親の照子さんは言葉を失った。

「どこや?どこににおるんや?!」

隣でやり取りを聞いていた父親の正成さんが電話に代わった。

「どこかわからへん~」

電話の向こうで知世さんは激しく泣き始め、もう言葉にならない。

「聞こえたやろ、誘拐したったんや。」

突然男の声に変った。こいつが犯人のようだ。

犯人は立て続けに要件に入った。

「明日までに二億まわし(用意)せい!」

とんでもない野郎である。

森本さんは金融業を営んでおり、そこそこ裕福だったようだが、二億をポンと出せるほどの大金持ちではない。

「二億て…!そなあほな…。よう集められへんわ、そんな金…」

そんな事情など犯人は、お構いなしだった。

犯人「でけへんのやったら、娘死ぬだけやで!」

父親「ちょっと待ってえな、頼むわ!とりあえず500万やったらええけど」

犯人「そないなはした金いらんわ」

父親「あんた鬼か?こっちかて、すぐには無理なんや。とにかく待ってくれって」

犯人「ほうや、わしゃ鬼や。ええから明日までに、二億耳揃えてつくらんかい!」

ここで母親が受話器を取って「お金は用意しますから、何もせんといて!」と絶叫。

だが冷酷な犯人は、次は下の息子もさらうなどと脅し続ける。

言葉からして、犯人は自分たちと同じ奈良の人間、少なくとも関西の人間のようだ。

「お母さん何とかして!!」と、知世さんが電話の向こうで泣き叫ぶのを母親に聞かせた後、警察に言ったら必ず娘を殺すと言って電話が切られた。

「警察に言うな」と言わない誘拐犯はいない。

だからと言って、言われたとおりにするわけにはいかない森本夫妻は、知人の警察官を通じて奈良県警天理署に通報した。

二日目

天理署

通報により森本家に駆け付けた警察は、次の電話に備えて逆探知の準備を開始。

翌12月1日、奈良県警は天理署に「身代金目的誘拐事件捜査本部」を設置し、報道各社は人質の安全を考えて、事件解決まで報道を控える報道協定を結んだ。

そして森本夫妻は、犯人からの電話を待つ一方で、預金を解約するなどして、約2000万円の資金を集めていた。

この日の日中は犯人からの連絡は全くなく、ただ時間だけが過ぎるのを見守る状態が続く。

やがて日が沈んだ夕方6時、唐突に黒いレクサスに乗った男が、森本家を訪ねてきた。

それは、正成さんの顔見知りの石川卓己(仮名・27歳)という男である。

石川は不動産仲介業の会社を経営しており、仕事を通じてつい最近知り合ったばかりだ。

そして森本家を訪ねた要件は、ゴルフ場予約の代行の依頼だった。

のんきな男である。

こっちは愛娘をさらわれて、ゴルフどころではないのだ。

「森本はん、顔色悪いんとちゃいますか?」

などと言ってきたりして、そんなに長い付き合いでもないのになれなれしい。

かと言って娘が誘拐されているとも言えない正成さんは「今ちょっと立て込んでいるから」などとごまかして断ると、「そら、えろうすんませんでした」と、あっさりと引き下がって車に乗り込んで立ち去った。

その車には、もう一人見知らぬ若い男が乗っていた。

石川が去ってからほどない午後6時48分、犯人からの二回目の連絡が入る。

これには、母親の照子さんが対応した。

犯人「金どうなっとる?」

母親「今うちの人が集めてます」

犯人「それと、さっきの黒い車はなんや?警察やろ!?」

先ほど訪ねてきた石川を、警察官と思ったらしい。

そして、こちらを見張っていたようだ。

母親「ちゃいますよ!あれは主人の友達なんです」

犯人「約束破ったんと違うんか?コラ!」

母親「ホンマに違うんです!信じてください!」

最悪だ。

空気の読めない訪問者のおかげで、犯人は態度を硬化させてしまった。

次いで母親は「娘の声聞かせてください!」と懇願したが、電話は無情にも切られた。

通話時間は二分間で、逆探知には足りない。

しかし7時15分、犯人から再び連絡が来る。

犯人も金を手に入れたいのだ。

「お金ですけど、今、二千万あります」

今度も母親が出たが、要求金額の十分の一しかないことで犯人は「二億言うたやろ、そないなはした金いらん!」「家も車も売らんかい!」などとオラついた。

そして「さっき友達や言うとった黒い車の奴呼べや。警察とちゃうこと証明せい!」と要求。

また、二億円には遠く及ばないが二千万で妥協したらしく、「その友達に金を持たせてやな、お前んとこの親父の車に乗せい。三十分以内や」と一方的に迫って電話が切れた。

第三者を、現金の受け渡しに使おうという腹のようだ。

受け渡し場所などは、まずそれからということだろう。

だが正成さんは、犯人の言うところの友達である石川に連絡を取らなかった。

そして、三十分たった7時48分に、三度目の電話か来る。

犯人「約束守らんかい!さっきの奴早う呼べや!」

母親「ウチも行ったらあきまへんか?」

犯人「あかん!その友達たらいう奴だけや!」

犯人はやたらと石川にこだわり、一緒に行くと言い張る母親の頼みを拒絶して電話を切った。

午後10時24分、今度は知世さんの声で電話が入った。

知世「お母さん…早うして…」

母親「大丈夫。何とかしたるから、気強く持ちや」

知世「ウチもうダメ…殺される…」

母親「そないなこと言うたらあかん!なあ…もしもし?もしもし?」

今度も涙声で、かなり参っている様子である。

この日の電話はこれで最後であったが、警察は逆探知する以外にも捜査を進めており、その手は犯人に迫りつつあった。

決死の電話

12月2日になって、事件は三日目となる。

警察は、昨日夕方に森本家を訪問したレクサスの男、石川卓己の身元を洗い始めていた。

捜査関係者は唐突の訪問から、何やら怪しいにおいをかぎ取っていたし、犯人がその石川にこだわって金を運ばせようとしていることから、事件に関係している可能性が高いと見始めていたのだ。

そして、これまで泣いてばかりだった知世嬢も、この日の午後2時、思い切った行動に出る。

犯人が寝入ったスキをついて、内緒で森本家に電話してきたのだ。

知世「もしもし、お母さん?ウチ、今、内緒で電話しとんねん」

母親「ホンマに?犯人はその辺におらへん?」

知世「昼寝してはる」

母親「ほんなら、起こさんよう小声で話しいや。犯人は何人おるの?」

知世「わからへん。目隠しされとる。ずっと縛られとった」

母親「ひどいことされとらん?抵抗したらあかんよ」

知世「うん、それと、警察に言うてない?お金取れへなんだら、殺す言われとるの」

母親「大丈夫。何とかしたるから。もうちょっとの辛抱や」

知世「あ、起きたかもしれへん。切る」

こうして電話が切られたが、時間にして13分間。

知世嬢の決死の電話で森本家に張り込んでいた警察は、ついに逆探知に成功、発信源は奈良県磯城郡田原本町内であることを突き止める。

そしてその田原本町内には、石川卓己の経営する不動産会社『D開発』があった。

石川を最有力の容疑者と断定した奈良県警は、『D開発』を張り込み始める。

捜査は、大詰めを迎えようとしていた。

午後10時42分、現金の受け渡し場所を伝える犯人からの電話が入る。

今度は知世さんに電話をかけさせ、その後に犯人に替わった。

「とりあえずやな、11時15分に家を出え。親父の車でやぞ。そんで、郡山インターから…」

「もっとゆっくり言うてください。メモしとりますんで」

今度の逆探知は地点を絞り込んでいたので、どこからかけられているか完全に判明した。

場所は、まごうことなき『D開発』である。

張り込んでいた捜査員に犯人確保と人質救出の指令が下り、『D開発』に警官が突入、案の定犯人であった石川卓己を『D開発』の事務所内で逮捕した。

D開発

突入時、石川は森本家への電話をかけている最中であり、知世さんはその向かいのソファで、目隠しをされたままぐったりしていたから言い逃れはできない。

奈良県警は突入の前に、『D開発』から出てきた男を参考人として確保していたが、その男は大谷靖(仮名・20歳)という石川の会社の従業員で、共犯者でもあったことがほどなくしてわかる。

それは石川が森本家を車で訪問した際に、同乗していた男であった。

53時間ぶりに解放された知世さんは、突入した警官隊の中にいた女性警官に抱きかかえられて外に出てきたが、相当怖かったのだろう。

それまで溜めていたものを吐き出すかのように、頼もしい同性の胸で泣き続けた。

解放直後の知世さん

一方、犯人の石川は被害者宅に第三者を装って身代金を奪うという奇策を弄したが、それがかえってあだとなる形となったのだ。

犯行の手口と知世さんのその後

犯人の石川卓己と大谷靖
犯人の石川卓己と大谷靖

 

主犯である石川卓己は、もともと不動産のトップセールスマンで、会社を辞めてから『D開発』を創業。

しかし、事件の前年のバブル崩壊のあおりを受けて業績が傾き、二千万の負債を抱えて資金繰りが悪化していた。

そこで、金融業を営んで金を持っていそうな森本さんの娘を誘拐するという犯罪に手を染めてしまったのだが、森本さんに何度か借金を申し込んで断られたこともあり、その個人的な恨みも犯行の動機になった可能性が高い。

石川は従業員である大谷を引き込んで、誘拐を決行する三日前から知世さんを尾行していた。

知世さん本人によると、事件前に何度か後をつけられたり、見られたりしている気がしていたらしい。

近鉄二階堂駅

そして、事件当日の11月30日、最寄り駅の近鉄二階堂駅で、石川は白いレンタカーに乗って待ち伏せ、学校から帰ってきた知世さんを発見。

「ちょっと、お父さんのことで話がありまして、この書類をちょっと見ていただきたいんですよ」

などと声を掛けたところ、彼女は不注意にも車に乗り込んでしまった。

どう考えても、おかしいと思わなかったのだろうか?

車内に乗せてしまえば、こっちのものだ。

石川はナイフで知世さんを脅して粘着テープで後ろ手に縛りあげると、あちこち連れまわした後『D開発』に連れ込んで監禁。

脅迫電話は石川がかけ、大谷は監視役だった。

2日に、スキをついて電話をかけてきた際以降は目隠しだけだったが、それまで長時間縛られっぱなしだったため、彼女の手にはアザができていた。

知世さんは、手にアザができた以外にケガもなく無事生還したが、拉致されて縛られたうえに、命の危険にさらされて、あっけらかんとしていられるわけがない。

無神経にも、両親とともに記者会見に引っ張り出された知世さんは、終始顔を引きつらせっぱなしであったし、その後しばらくPTSDに苦しんだという。

記者会見

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君は『喧嘩芸・骨法』を覚えているか?

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1989年、当時中学三年生だった私は、ある深刻な悩みを抱えていた。

それは私にとって幼少時から始まり、最も多感な時期である中学時代になるや爆発的に増大し、私自身を内面から苛むようになった悩みだ。

それは、ケンカが弱いことだ。

それは思春期特有の自意識過剰なあまり、自分で勝手に悩むようになったからではない。

実際に不利益と実害が大いにあったからだ。

ぶっちゃけ、私は中学校でいじめに遭っていた。

持ち物は取られるわ、ズボンは下げられるわ(女子の前で)、砂場に首まで埋められるわ、修学旅行の宿ではオナニーさせられるわ。

かといってちょっとでもやり返したら、当然の権利のごとく返り討ちに遭うなど、苦痛と屈辱を大いに味わわされていたのだ。

何とか反撃、あわよくば倍返できるようケンカに強くなるためのハウツー本はないかと、本屋に行ったある日、私はある本に出合った。

それは『喧嘩芸骨法』だ。

喧嘩芸…、殺し文句だった。

これぞ、私の求めていた本ではないか!

表紙の写真は、長髪にひげを生やしたおっさんが構えを取っており、そのおっさんはいにしえの侍もかくありや、と思わせるような感じの迫力とインパクト満点の容貌をしており、「喧嘩芸」という言葉に説得力を持たせている。

だが、思わず手に取って読んでみたか、というとそうでもなく、

中学生ながらそんなもん読んだからって、すぐに強くなれるはずないと分かっていたし、第一金がなかったから、そのまま立ち読みをしに成人誌のコーナーへ向かった。

しかし、その時から「喧嘩芸」「骨法」というワードは、頭に残った。

神秘の必殺拳・骨法

骨法とは、先ほどの長髪でヒゲのおっさん・堀辺正史氏が創始した格闘術である。

堀部氏によると、骨法は柔術とは異なる流れの古来の日本武術を復興させたものであり、その著書『喧嘩芸骨法』において、

東條英機のボディガードを務めた父からその技を相伝され、骨法司家の第52代・源一夢(みなもとのいちむ)を襲名し、伝統的骨法の修行の傍らケンカ・他流試合に明け暮れた日々の中から、実戦的な格闘技術を習得、古流の骨法を改革して喧嘩芸骨法を創始した

と述べて、その実戦性を盛んに主張していた。

もっとも、古来から骨法が実在したことの信ぴょう性は乏しく、実際は他流派の古流柔術などを学んだ堀辺氏が、独自に創始したとされている。

しかし、骨法とその創始者の堀辺氏は、同書を世に出した80年代後半から90年代にかけて世間に広く知られるようになり、メディアにも多数出演するようになった。

また、新日本プロレスとも交流があって、アントニオ猪木や船木誠勝などの日本を代表するレスラーにも指導を行い、骨法由来の技がプロレスに使われるようにもなった。

プロレスが最強の格闘技だと思われていた時代に、プロレスラーから認められていたのである。

よって90年代初めまでは、マスコミの影響もあって、骨法はまさに神秘的な超実戦的格闘技だと信じていた人は本当に多かった。

だが、現代のユーチューブにも公開されている当時の骨法の組手動画を実際に見てみると、長いグローブをつけてペチペチ叩き合っており、こんなものが強いわけないだろ!と疑ってしまう。

また、1993年に開催された骨法のイベント『骨法の祭典』での演武では、技を決められた選手が「あだだだだだだ!!!」とか叫び声をあげたりして、あまりの大げさぶりに笑えたりもするが、当時の格闘技ファンの多くの目には、骨法が「参った」した相手でも極め続ける危険な殺人格闘術に映っていた。

格闘技専門雑誌『格闘技通信』もたびたび骨法を取り上げており、その強さを疑う声はあまりなかったのだ。

しかし1996年、メッキがはがされたと言われても仕方がない出来事に見舞われることになる。

骨法の他流試合

1996年、骨法に試練が立ちはだかった。

同年8月4日に開催される『ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング2nd』で、ブラジルの選手と対戦することになったのだ。

今まで骨法の選手同士の試合はしていたが、これは事実上初めての他流試合である。

これより前の1993年11月12日、海の向こうのアメリカでUFCの第一回大会が開かれ、格闘技界に衝撃を与えていた。

現在でこそMMA(総合格闘技)の最高峰の一つとなっているUFCだが、当時の考え方は「ノールールの戦いの勝者こそが最強」というもので、この大会のルールは打撃や投げ技、寝技はもちろんのこと、グローブなしの顔面パンチもOKなばかりか、嚙みつきと目つぶし以外は「何でもあり」、だからノールールと称しており、当時としては恐るべきものだった(何と金的も禁じられていなかった)。

この大会はトーナメント制で、ケン・ウェイン・シャムロックやジェラルド・ゴルドーなど90年代の日本でも名が知れた格闘家が参加したが、倒した相手の顔面に蹴りを見舞ったり、頭を踏みつけたりのストリートファイトさながらの凄惨なものとなった。

そして、この大会で上記名だたる選手を制して優勝したのが、それまでまだ世に知られていなかったグレーシー柔術のホイス・グレーシーだ。

ホイス・グレーシー

ホイス・グレーシーはブラジル出身。

ブラジルでは昔からこのような何でもありであるノールールの試合「バーリトゥード」が開かれており、ホイスの父であるエリオ・グレーシーが興したこのグレーシー柔術はその中で磨かれてきた格闘技である。

そして自身も、それまで道場破り相手にバーリトゥード形式の試合を行っていたため、何でもありの試合の対策を熟知してもいた。

ホイスは、翌年開催されたUFCの第二回大会も、圧倒的な技術で制する。

そして、この「バーリトゥード」は、94年日本にも上陸。

同年と翌年には「バーリトゥードジャパン94」と「バーリトゥードジャパン95」が開かれ、これにはホイスの実兄であるヒクソン・グレーシーが出場して、弟と同じく圧巻の強さで連覇。

ヒクソン・グレーシー

日本人の格闘ファンに「グレーシー柔術強し」という印象を、問答無用で植え付けた。

また、日本のプロレスラーや総合格闘技の団体である修斗の選手などが、このノールールの試合で敗れることが多かったからなおさらである。

ノールールの試合とグレーシー柔術はまさに黒船だったのだ。

一方、実戦格闘術を売りにしている骨法の創始者・堀辺氏は早くからこのノールールの考え方に賛同していたようで、骨法のスタイルをそれに合わせて、元来の打撃技を中心とした立ち技系から寝技系へと変革していた。

格闘技通信も、それを進化として大々的に取り上げ、特集を組んで堀辺氏の持論や試合に臨む骨法の選手が、米国に渡ってブラジリアン柔術(グレーシー柔術から発展したブラジルの柔術の総称)の技術指導を受ける模様を読者に伝えていた。

紙面には、これまで神秘的な最強説が唱えられていた骨法なら何かやってくれるだろうという期待感が作り出されていた。

プロレスも空手も修斗もやられたが、まだ日本には骨法があると。

そして、読者の多くもそれを信じていたことだろう。

当時の私もそう信じていた一人だった。

骨法神話の終焉

そして迎えた8月4日の『ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング2nd』。

骨法は二人のエース級の選手、小柳津弘選手と大原学選手が出場した。

彼らの相手はどちらもブラジル人であったが、グレーシー柔術をはじめとしたブラジリアン柔術ではなくルタ・リーブリというグレコローマンレスリングを発展させた格闘技の選手である。

ルタ・リーブリは、グレーシー柔術と同じくノールールの試合で磨かれてきた技術を有し、ブラジル本国では因縁すら生じているほどのライバル関係で対抗戦も行われるなど、柔術と渡り合ってきた。

そのため、アメリカで骨法の両代表選手は手の内を知るブラジリアン柔術の選手から技術指導を受けてきたのだ。

準備は万端。

これまで日本の他の格闘技の選手はブラジル勢に負け続けていたが骨法は最後の切り札、負けるわけにはいかない。

そして、今まで秘められていた真の実力を見せる時である。

だが、

両選手とも負けてしまった。

まず最初に試合をしたのは小柳津弘選手、骨法内の試合では打撃技を繰り出して相手選手を撃破してきた「骨法の狂気」という異名を冠せられた看板選手だ。

小柳津選手の相手は、カーロス・ダニーロ選手。

前述のとおりルタ・リーブリの選手ということになっていたが、本来はキックボクサーで、ルタ・リーブリは試合が決まった一か月前に始めたばかりだったようである。

試合が開始されるや、小柳津選手は打撃ではなく組みつきに行ったのだが、ダニーロ選手に腕を取られてしまう。

そのままコントロールされて転がされるも、腕を振りほどいて今度は相手を倒したが再び下になった相手から腕を取られた。

そして下からパンチと肘の連打を浴び、三角締めでタップしてしまう。

この間たった1分0秒。

完敗である。

次に登場したのは、小柳津選手と並んで骨法最強と言われた大原学選手。

対戦相手は、ペドロ・オタービオ選手。

オタービオ選手は、ブラジル国内では中堅どころの実力と見られていたが、この年の4月に東京で開催された『ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング』にも出場。

大相撲の元横綱で、ノールールなら日本人最強とも目されたこともあるプロレスラーの北尾光司選手を、1RTKOで破っていた。

そして、このオタービオ選手は身長190cm体重100kgであり、身長170cm体重90kgの大原選手に体格で大いに上回っている。

しかし、小柳津選手は秒殺に等しい完敗だったが、その精神力と寝技の技術で定評のあった大原選手ならば、もう少しいい勝負ができるのでは?という期待はあったようだ。

こうして始まった骨法の第二試合、大原選手は果敢にオタービオ選手に組み付いて、テイクダウンを奪った。

だが、両者とも決定打を欠き膠着状態になったためにレフェリーがブレイクを命じ、再びスタンドでの試合再開となる。

だがその後、大原選手は倒されてしまい完全にマウントポジションを取られて、上からオタービオ選手のパウンドの猛攻を加えられた。

レフェリーもストップせず、セコンドもタオルを投入しなかったので、100発以上のパンチを浴びせられてしまう。

しかし、大原選手は耐え抜いて、マウントポジションから脱出することに成功。

そのまま30分の試合終了まで戦い抜いた。

大原選手は、体格差をものともせず最後まで善戦したと言えるが、マウントパンチを浴びるなど劣勢だったことは否めず、結果は2-0の判定負けであった。

骨法の完全敗北である。

それも、骨法の中でもツートップの選手が負けた。

喧嘩芸だのなんだの言っていても、このほぼ喧嘩であるノールールの試合で、その威力を発揮できなかったのは間違いなかったのだ。

骨法最強幻想は、ブラジルからやってきた現実の前に崩れ去ったと言ってもよかった。

これまで骨法の話題をさんざん取り上げ、日本格闘技界の最後の切り札とばかりの論調だったくだんの『格闘技通信』は、この試合結果を伝える記事において、「負けたとはいえ、大原選手は素晴らしい選手だった」とか、まだまだこれからだというような一見前向きな意見を書きつつも、

結論―。

「これまで骨法に多くのページを割きすぎました」

という一文がその中にはあった。

そして、その一文は紛れもない本音だったことが、後に証明される。

骨法のその後

それまで、あれほどまで骨法を持ち上げてきた『格闘技通信』は、手のひらを返したかのように骨法を話題に取り上げなくなった。

その他のメディアの露出も以前ほどなくなり、多くいた門下生も減ってしまったという。

本格的な他流試合であるブラジル勢相手の試合での敗北は、かなりの痛手となっていたのだ。

一方で、96年に骨法がブラジル勢に敗れて以降、一時期ノールールにおいて日本の格闘技界は、世界において「日本最弱」とまで言われていたが(これはくだんの格闘技通信が言った)、翌年97年から日本の格闘家の逆襲が始まる。

1997年2月7日、UFC 12に出場した日本のプロレスラー・高橋義生選手がブラジリアン柔術の選手から判定で勝ち、日本人のUFC初勝利をあげる。

1997年10月11日には今や伝説となった格闘技イベント『PRIDE』が始まり、第一回大会で当時日本のトップレスラーだった高田延彦選手が、バーリトゥードジャパンを連覇した前記ヒクソン・グレーシー選手に敗れはしたが、同大会では、和術慧舟會の小路晃選手が、同じグレーシー一族の一人であるヘンゾ・グレーシー選手と引き分けに持ち込むなど大健闘。

その後『PRIDE』に桜庭和志選手が登場し、ホイス・グレーシーを含めたグレーシー一族の選手を連覇して「グレーシーハンター」の異名をとるなど大活躍、「日本最弱」の汚名を大いに返上する。

しかし、この一連の逆襲劇の中に骨法の姿はなかった。

もはや、以前ほどの注目を浴びることはなく、汚名を返上できるような選手も結果的に現れなかったのだ。

とはいえ、骨法は創始者の堀辺正史氏の下でその後も存続し続けた。

2015年12月26日に、堀辺氏は心不全でこの世を去ったが、時代が令和になった2022年の現在でも『日本武道傳骨法會』の名で活動している。

ちなみに格闘技だけでなく整体もやっているようだ。

今から思えば、グレーシー柔術をはじめとしたブラジル勢が無敵だった時代もはるか昔だ。

90年代は喧嘩大会だったUFCも今や洗練され、MMAの最高峰の大会となった。

それ以上に、骨法が最強だと信じられていた時代があったことが信じられない感がある。

まだネット社会になる前だった90年代はマスコミに取り上げられたりしようものなら、それだけで真実だと無条件に信じられてしまった時代だった。

その当時、青少年期を過ごした私は、まさにそんな一人だったからこそそう思う。

その時期骨法に入門した人々も、その神秘性に魅かれて入った人も多かったのではないだろうか。

骨法最強神話は、90年代までの若者だけが信じることができたおとぎ話だったのかもしれない。

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2022年 おもしろ ならず者 事件 事件簿 本当のこと

“高校卒業後デビュー” した成人女二人の愚行 ~1995年・足立区小二女児誘拐事件~

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。

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1995年(平成7年)8月7日夕方、足立区の小学二年生の女の子が連れ去られ、身代金が要求される営利誘拐事件が起きた。

事件は翌日夕方、身代金の受け渡し場所に現れた犯人を警視庁の捜査員が取り押さえ、もう一人の犯人も電話の逆探知により居場所が判明して逮捕。

その際に犯人と一緒にいた女の子も無事に解放されて、一件落着となった。

だがこの誘拐犯たるや、若い女二人。

20歳の遠野亜由(仮名)と21歳の船津紀美(仮名)であった。

その身代金の要求額はたった800万円で、犯行計画もずさん。

ばかりか、その後に判明した犯行理由により、当時の日本社会を大いにあきれさせた。

事件の経緯

8月7日午後6時14分。

足立区に住む会社員・山元聖一さん(仮名)の自宅に、一本の電話がかかってきた。

電話に出たのは、中国に単身赴任していた聖一さんに代わって自宅を守っていた妻の由紀(仮名)さん。

由紀さんは、この電話に出る前に心配事があった。

それは、山元家の長女の加奈ちゃん(仮名、7歳)が塾から帰ってこないことだったのだが、その電話で気が動転することになる。

相手の電話の声の主は女であったが、

「お子さんを預かっている。明日の午後5時に、800万円を持って北千住のファーストフード店の森永ラブに来い」

などとはっきりと、娘を誘拐したことを伝えてきたのだ。

びっくり仰天した由紀さんは、すぐさま110番通報。

これを受けた警視庁は、身代金目的誘拐容疑事件対策本部を設置して捜査に乗り出した。

翌8日午後4時41分、夫の聖一さんの勤務先から借りた800万円が入ったショルダーバックを抱えた由紀さんが、身代金の受け渡し場所として指定されたファーストフード店・森永ラブ(現在は存在しない店)に入る。

もちろん、店の周りに警官が張り込み、店内にも客を装った婦人警官が待機しているのは言うまでもない。

森永ラブ

しばらく時間が経過した午後5時2分、一人の若い女が店に現れ、由紀さんに近寄るや、一枚の紙を渡した。

紙には「タクシーで自宅に30分以内に帰れ。子供が帰るまで待て。警察には言うな」と書かれている。

やがて女は口を開いて、読んだら紙を返してくれと要求。

「私はもらうモンもらいに来ただけっスからね」と、自分は連絡役に過ぎないことをさりげなく強調して、身代金を渡すように迫る。

だが、母は強かった。

「子供を返してくれなきゃ、お金は渡せません!」

ときっぱりと唯々諾々と犯罪者の言いなりになることを拒絶したのだ。

「いや、ホント無事だって…」

「じゃあ、まず子供を連れてきてくださいよ!」

犯人の女は母親の思わぬ強硬な姿勢にたじろいだらしい。

「向こうの人が信用するかどうかわかんないけど」

と折れた彼女は午後5時19分、金も持たずに店を出た。

女も冷静ではいられなかったのであろう、ひんぱんに後ろを振り返りながらその場を立ち去ろうとしている。

だが、すでに袋のネズミだった。

周囲を完全に包囲していた捜査陣は、すぐさま確保の判断を下し、ほどなくして犯人の一味と思しき女、遠野亜由は身柄を拘束された。

警察は女児の行方を追求したが、遠野はここでも「新宿のアルタ前で男に金を渡す約束をしている」と、自分は主犯ではないことを強調する。

一方、同じく警官が待機している山元家でも午後6時9分に動きがあった。

もう一人の犯人から電話が来たのである。

「どうなってるんですか?金は?ホント警察に言ったりしてないでしょうね?ちょっと変な動きがあったもんで…」

この声も女のもので、身代金を取りに行った共犯者の遠野が戻ってこないので、しびれを切らしたらしい。

電話には、被害者の母親である由紀さんの妹を装った婦人警官が対応に出て、「まだ姉は帰ってきません。私は頼まれて留守番をしているだけでして」などといいつつ、逆探知を狙って会話を引き延ばす策に出る。

「また連絡します。あ、あと私も頼まれて電話してるだけですから」

「姉が一人で行ったものなんで、私もよく分からなくて」

「とにかくまた30分後にかけます。警察が動いてるんで」

「子供はそこにいるんですか?」

「こっちにはいないから!」

こうしてあわただしく電話は切られたが、これら一連の通話にかかった時間は逆探知するには十分だった。

発信源を突き止めた警察は周辺を捜索し、午後6時43分、加奈ちゃんを連れた船津紀美を発見して逮捕。

加奈ちゃんはケガもなく無事であり、丸一日ぶりに家族のもとに帰ることができて事件は無事解決した。

この事件が円満に解決したのは警察の手腕によるのもあるが、やはり、犯行の稚拙さにも原因があった。

まず、身代金の受け渡し場所にノコノコ犯人が現れるのも、誘拐犯としては大いに問題なのは言うまでもなく、その後は、うかつに電話をかけて逆探知されるなど行動は杜撰。

何より、営利誘拐の身代金要求額としては、かなり低額の800万円を要求しているあたり、この犯罪が愚か者による思い付きの域を出ていないことを物語っていた。

逮捕された遠野と船津は取り調べでも、自分たちは連絡役に過ぎず、主犯は男であり、ほかにも共犯者として自分の女友達の実名まで上げたりしていた。

しかし、供述があいまいで矛盾する点が目立ち、やがて二人だけで行った犯行であることが断定されるのに、時間はかからなかった。

高校卒業後デビュー

逮捕された遠野亜由と船津紀美

遠野亜由(仮名)
船津紀美(仮名)

    

逮捕された遠野亜由(仮名、20歳)と船津紀美(仮名、21歳)は、幼稚園の頃からつるんでいた幼なじみ。

中学時代の同級生によると二人ともテニス部に所属し、いつも共に行動していた。

そして両人とも目立たない印象であり、特に遠野の方は、それが顕著だったという。

中学卒業後は別々の高校に進学したが、船津は卒業後に定職に就くことはなかったようだ。

遠野の方も卒業後に専門学校に入学していたが中退して働くことはなく、事件が起こる二年前から船津の住むアパートの一室に転がり込んで同居するようになった。

そのアパートは船津の祖母が所有しており、家賃の心配はなかったが、二人とも働くことはなく、ボディボードをやったりクラブに行ったり遊び惚けるようになる。

学生時代は地味だった両人の外見も変わり、髪を茶髪に染めて日焼けサロンで真っ黒に日焼けさせていたらしい。

95年当時コギャルなどと呼ばれて、マスコミでもてはやされ始めていた女子高生のファッションだ。

まだ十代のつもりだったのだろうか?

高校卒業後デビューとは情けない奴らだ。

やっていることも未成年の悪ガキそのもので、真夜中に部屋で騒いだり、青空駐車して近所に迷惑をかけ、駐車違反の罰金を請求されても知らん顔。

そして金に困ると、あきれたことにゲームソフトを万引きしては中古ソフト屋に売っていた。

主にそれを行っていたのは遠野の方で、命令するのは船津。

船津は親分気取りで遠野をふだんからアゴで使って万引きで得た稼ぎを巻き上げ、時には暴力をふるってもいた。

もっとも、派手な外見と行動にもかかわらず男っ気が全くなかった二人を“レズカップル”だと、近所のおばちゃんたちには陰口をたたかれていたようだが。

だが遠野も遠野で、無職にも関わらず300万円もするRV車を買うなど分別がついているわけでは決してない。

事件の前には数百万円の借金を抱えてかなり金に困っていた。

そのおかげで、遠野はテレクラで売春したりキャバクラで短期間勤めたり、AVに出演しようと某プロダクションに売り込みをかけたりしていたが、そのパッとしない容貌とスタイルでは、一発逆転にほど遠かったようだ。

現に事件後に取材に応じた当のAVプロダクション関係者には、

「あの程度の子ではいいところ一日三万か四万くらい」

「20歳の体じゃなかった」

などと酷評されている。

遠野のヘアヌード。確かに若さがない。

このようににっちもさっちもいかなくなって、遠野が思いついたのがよりによって、この誘拐事件だったのだ。

しかも、その話を船津に持ちかけると何とあっさり引き受けて、実際に事件に至ってしまったんだから、二人とも頭が悪いにもほどがある。

窮すれば鈍するというが、限度というものがあるだろう。

誘拐した女の子も、その日たまたま出くわしただけで、初めから狙っていたわけでもない。

また、800万円という身代金の要求額からも、普段やっている迷惑駐車や万引き、売春に毛が生えた程度と考えていたフシがあるのではないだろうか?

逮捕後も自分たちの罪を軽くしようと、いるはずのない主犯や他の共犯の存在を騙って、ばれるに決まっているウソをつきとおそうとした点からも終始一貫して思慮に欠け続けていたといえる。

どうやらこの二人は、頭が中学生か高校生のまま大人になってしまった最悪の見本の一つであることは、疑いようがないだろう。

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未成年に踏みにじられた25歳の純情 ―実録・おやじ狩り被害―

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1999年(平成11年)、24歳だった私は某電器メーカーの工場で派遣工をしていた。

大学卒業後に就職した会社を、一年とちょっとで追われたからだ。

時は就職氷河期の真っただ中、職場には私と同世代の者が意外と多かった。

就職できなかったか、私と同じく会社からドロップアウトしてしまった若者たちである。

そんな中にH川という青年がいた。

H川は私と同じラインで働いているから顔見知りだが、話したことはない。

私が職場で口を利くようになった人間の一人にM田という男がいて、そのM田がH川とよく話す仲だった。

奇しくもH川はM田の小中学校の同級生で、昔馴染みだったのだ。

つまりM田と同い年だった私とも学年は同じだった。

M田によるとH川はある専門学校を中退後、また別の専門学校へ入り直して卒業してから就職したが、一か月未満で辞めてからこの工場で働いているという。

H川は大人しそう、というか気弱でネクラそうな感じの青年である。

長めの寝ぐせを整え切れていない不潔そうな髪型、170cmくらいの細身だが運動不足で体脂肪率が高めであろうガリポチャ体型、私服のセンスも悪い。

その外見からも、活舌が悪くモゾモゾと何を言っているかわからないしゃべり方から判断しても女性には絶対にモテそうにない感じの男だった。

私も似たようなもんだったが。

だが10月中旬の金曜日、そのH川が大変身を遂げて職場にやって来た。

長めの髪を金髪に近いような茶髪に染め、耳と鼻にピアス。

上下は作業着に着替えていたのでどんな私服を着て来たのかわからなかったが、首から上だけでも十分インパクト大の変わりっぷりだった。

一体何があった?工場の薬品による労働災害か?

いやいや、女関係に決まってる。

果たしてやっぱりその通りで、今晩女性と会う約束をしているとかで、そのためのイメチェンだった。

「どうしたんだその恰好?」とM田らが聞くと、H川は待ってましたとばかりに喋る喋る。

何でもテレクラ(1999年当時は携帯の出会い系サイトも出始めていたが、テレクラも健在だった)で知り合ったらしく、しかも相手は女子高生だというではないか。

当時女子高生は『コギャル』と呼ばれて世のいい歳こいた男どもにもてはやされ、コギャル文化真っ盛りの時代。

だからH川は普段と違ってもう有頂天という感じで、相手は女子(コギ)高生(ャル)であることを特に強調していた。

M田たちは「援助交際だろう」とか「本当に女子高生か」とからかったら、もうすでに一回だけちょっと会っており、今回は二回目で本格的なデートだという。

たったその程度なのに喋っているうちにH川は相手のことを「俺のオンナ」とか「カノジョ」とか言い始め、もうすっかり交際しているつもりになっている。

それをツッコまれると、「俺のことを気に入ったって向こうは言ってんだ!」とムキになった。

「おいおい、ヤバくねえか?」「おっかない奴出て来るぞ」と、みんな懸念を表明したが、H川は聞く耳を持たない。

それどころか「俺ってマジで何歳に見える?高校生くらいに見えなくね?」とかワケわからんことを言い出している。

「25歳には見えない」と言われたらしく、いい歳こいて喋り方までそれっぽく変えて。

25歳未満ではなく25歳より上に見えるという意味じゃないのか、それは?

私も端から聞いてて、どう見てもヤバいような気がしていた。

だってH川はネクラで地味な青年で、喋りがド下手くそなコミュ障。

年上の男に魅力を感じると相手は言っていたと彼は主張するが、イメチェンしたとはいえ小学生のまま25歳になったような感じのH川に、高校生くらいの女の子が寄ってきそうな大人の魅力があるようにも見えない。

援助交際じゃないとしたら、相手の女子高生とやらには何か危険な目的があるんじゃないか?

第一、彼のイメチェンは私から見ても無理してる感が強く、痛々しい。

今までファッションに全く気を配ってこなかった者が、急にシャレっ気を出した場合特有のズレを感じる。

染めた髪だってムラがあるし、相変わらず寝グセ立ってて変な髪型のままだし、ピアスの位置もおかしい。

それにいい歳こいて、そのガキみたいなファッションは何だ?

などなど心の中でツッコミを入れつつ、実は自分と同じくらいネクラそうな奴がまんまと女性と会うことができたことに対する嫉妬が混じっていたのも事実だ。

もうすでに一回会っているって言ってるし、もしH川の話が本当だったら私もテレクラ行ってみようかな、ともちょっと思ってた。

作業が始まってもH川ははしゃぎっぱなしで、隣の奴にあれこれ話しかけてる。

聞こえてきたのは「どのラブホテルが一番おすすめ?」だ。

さっきから聞いてりゃ気が早すぎだろう、今回も約束どおり相手が来るとも限んないんだぞ。

などと横目で聞き耳を立てていたら、「おい!横見て作業するな!」

現場監督に怒鳴られたのはおしゃべりしていたH川ではなく、なぜかそれを見ていた私の方で、何とも釈然としない。

こうしてその日の作業が終わり、午後5時の終業時間になるや、H川は踊るようにタイムレコーダーに向かって行った。

さぞかし期待で胸と下半身を膨らましていたことだろう。

それが、彼を見た最後だった。

土日が明けて、月曜日。

H川の野郎はどんなこと言ってデートにこぎつけたんだろうか?普段話さないけど聞いてみようか?などと考えながら出勤した。

実は金曜日からずっと気になっていたのだ。

朝礼が行われる従業員休憩室に行くと、私の担当ラインのみんなが揃いも揃ってM田とそのツレのK保を囲んで話をしていた。

H川はその中にはおらず、まだ来ていないようだ。

彼らに近づいてみるとみんな深刻な顔をしており、「それで大丈夫なの?」とか「何で警察に言わなかったの?」とかの言葉が聞こえた。

何だかただ事ではない。

何があったのか気になったので、私もその輪に加わる。

「どうしたの?」

「H川がやられたってよ」

「やられたって?ナニされたの?」

「ボコられたらしい。K保が見たってさ」

K保は私たちと同じラインで働いており、H川とも仲が良い。

やや顔をひきつらせたK保によると、事の顛末は以下のとおりだった。

K保は金曜日の夜9時ごろ、女子高生とデートしているであろうH川に冗談半分でメールしたという。

その内容は「おい、もうどこまでいった?もしかして真っ最中か?」というようなもので、わざわざみんなにその時の携帯のショートメールの送信履歴で見せてくれた。

その後しばらく待っても返事がなかったため、K保はひとまず風呂に入った。

風呂から出て携帯を見ると、何と15分くらいの間に二件の着信履歴と留守録。

すべてH川からだった(これもK保は我々のために再生してくれた)。

一件目の留守録を再生すると、H川の「ああ、あのさ、大至急かけ直して」という短いメッセージ。

二件目は、「おい、頼むよ!大至急かけ直してくれって!」というかなり切迫した感じの声だった。

最初、K保はH川がこっぴどく女子高生に振られでもして、その愚痴を話したいんだろうと思ったらしい。

少々ザマミロとほくそえみながらかけ直したら、ワンコールでH川が出た。

だが、H川が電話に出るなりいきなりまくしたてるように話した内容が異常だった。

いきなり「金を貸してくれ!」と頼んできたのである。

しかもその額が十万円で、10時までに市内のB原中央公園という公園に持って来てくれというものだった。

確かにB原中央公園はK保の家から近いから行けないことはないが、いきなり「十万円貸せ」なんて頼みを当然聞けるわけがないからK保は断った。

だが、H川はなおも理由も言わず懇願し続けるので、二人の間で「何で貸さなきゃいけないんだ」「いいから頼む」という押し問答が続く。

付き合ってられないと思ったK保が電話を切ろうとしたら、「ええから持って来いや、ボケェ!」という怒声が電話から響いた。

その声はH川ではない若い男のものだったが、いかにもこういう脅しに慣れていそうなドスの効いた喋り方だったという。

その若い男の言い分は、H川がナメた真似したので落とし前を付けさせているが、これはツレであるK保の責任でもある、という無茶苦茶なものであった。

「俺には関係がない」とK保が少々ビビりながら突っぱねると、「ツレがどうなってもいいのか?」と電話の向こうでH川を痛めつけ始めた。

受話口から「やめてくださ…ぐふっ」とか「勘弁してく…痛ぁ!」とかのH川の叫び声が聞こえて来る。

ばかりか相手の男はK保の氏名や住所、勤務先などの個人情報を把握していることを告げ、10時までに約束の場所に金を持って来なかったらこちらから行く、と脅してきた。

K保のことはH川が苦しまぎれに教えたんだろう。

そして「警察にチクったら必ず報復する」と凄まれ、電話が切られた。

悪い奴らと何かあったのか?いや、H川は女子高生に美人局をかまされたに違いない。

K保は相手が声の感じから未成年だと確信したが、だからこそ怖くて怖くて仕方がなくなっていた。

この当時の少年法は「犯罪をやるなら未成年のうち」と言っているに等しいほど大甘で、それを盾に取った未成年の悪党たちは、金を持っていそうな成人男性を襲う「オヤジ狩り」などの凶悪犯罪を犯しまくっていたからだ。

そんなK保が取った行動は、相手の要求に従うでも警察に通報するでもなく、黙殺だった。

電話の電源を切り着信が来ないようにして、もし本当にこちらに来たらどうしようと、おびえながら床に就いた。

結局10時を過ぎても連中は来なかったが、不安のあまり朝までほとんど眠れなかった。

K保はこんなことに巻き込んだH川にムカついていたが、やはりどうなったか気になっていたので、昨晩彼らがいたであろうB原中央公園へ親から借りた車で行くことにした。

公園までは車で行けば5分とかからない。

公園に着くと、いつでも逃げられるように周りを車で巡回しながら様子を探る。

まだ連中がいるかもしれないからだ。

様子を探っていると、遊具のある広場の街灯の周りに人だかりができているのが見えた。

「もしや」と思い車を停めてその人垣に近づくと、その中央にいたのは案の定昨日職場で見たばかりのあの明るい茶髪、H川本人だった。

何と、広場の街灯にガムテープでぐるぐる巻きに縛り付けられてぐったりしている。

しかも全裸で!

H川は殺されてはいないようだったが、殴られて顔を腫らし、タバコで根性焼きをされた跡も所々体に残っており、陰毛も剃られていた。

ずいぶん屈辱的なシメられ方をしたものだ。

周りで見ているジョギングや犬の散歩で公園を訪れたと思しき人たちも人たちで、「動かさない方がいい」とか言ってガムテープをほどきもせず、H川を全裸のまま放置していた。

K保もそのまま見ていただけだったようだ。

その間にも近所の住民など野次馬が次々現れ、H川の醜態の目撃者は増えてゆく。

誰か通報はしていたらしく、ほどなくして救急車、そしてパトカーが到着した。

やっとガムテープをほどかれたH川は片手で股間を、もう片方の手で顔を覆い、警察官の質問に何事か答えながら救急隊員に促されて救急車までフラフラ内股で歩いて行ったという。

「だからヤバイって言ったのに。俺らまで巻き込みやがって」

K保と同じく電話で脅迫されたというM田も、犯行グループより自分たちを売ったH川に腹を立てているようだった。

脅された時点で彼らのうちどちらかが警察に通報していれば、H川もあそこまでこっぴどくやられることはなかったはずだが、それについての反省はしていない。

他の連中の中には「テレクラって怖いな」「無茶苦茶やる連中だな」と凍り付いている者もいたが、「バカだな」「恥ずかしいやられ方だぜ」「ちょっと笑える」と冷たいことを言う者の方が多かった。

その後、犯行グループが逮捕されたことを新聞の報道で知った。

何とH川をハメた相手は女子高生を装った女子中学生であり、ボコったのも同じ中学に通う二年生や三年生の悪ガキども8人だったことが分かった。

25歳のH川は中学生たちにハメられ、一晩中いいように痛めつけられていたのだ。

彼らはまず女子中学生がテレクラを使って相手を人気のない公園に呼び出し、いざ相手が来ると人数を頼みに金品を脅し取る、という分かりやすい手口を使っていたという。

H川は二回目に会った時にやられたが、おそらく一回目は相手を見極めていたと思われる。

H川以外にも引っかかった者がいたらしく、警察は余罪を追及しているようだったが、犯罪被害のきっかけがきっかけだけに泣き寝入りしている被害者も多いことだろう。

彼らはそれを見越して相手が大人しく金を出しても、調子に乗ってさんざん暴行を加え、友人知人にも金を持ってこさせようとするほどの向こう見ずな悪事を働いていたのだ。

ただし、今回はH川を公園に放置したためにその犯行が露見してしまったらしい。

ちなみにH川を指しているに違いない被害者についても新聞は触れており、『アルバイトの男性(25歳)は財布とATMから合計6万円を脅し取られて暴行を加えられ、顔と下半身に全治二週間の怪我』と報道されていた。

25歳のくせに全所持金が6万、それと新聞記者も「下半身」の三文字は余計だろうに。

H川はそれ以降職場に姿を現さなくなってしまった。

あれだけ職場で「相手は女子高生だぜ」とか自慢して周ったあげくまんまとハメられてシメられ、報道までされてしまったんだから、みっともなくて顔を出せるわけがない。

と言うより、外出すること自体怖くなってしまったはずだ。

私も中学生の時にカツアゲされた経験があるからわかるが、見ず知らずのおっかない奴らに脅されてドツかれたりして金を巻き上げられる体験は半端じゃない恐怖で、その後しばらく街を安心して歩けなくなるくらいの災難なのだ。

しかもH川の場合相手は中学生で、そんなガキどもに長時間好き放題やられて、マックスの恐怖と屈辱が相乗効果を発揮した人生最悪の体験だったはずだ。

その後はその後で醜態を大勢の人にさらしてしまい、きっと一生忘れられない悪夢となったことだろう。

相手方の中学生たちにとっては面白かったに決まってる。

あんなことするような奴らだから、同級生の女相手に鼻の下伸ばしてやって来たひと回り以上年上の男を痛めつけるのは快感だったに違いない。

使命感すら持って「自分がこれやられたら嫌だな」ということを思う存分やって、少年法で保護される対象年齢ど真ん中だったから、大した罪にも問われなかったはずだ。

いい思い出になったとか、三十代半ばになった現在でも居酒屋とかで笑いながら語ってたりしてるかもしれない。

若気の至りだったから仕方がないとか言って、大して反省もしていないのではないだろうか。

世の中そんなもんだ。

職場の連中も冷たい奴ばかりだった。

仲が良かったはずのM田もK保もあの一件について「あいつは女と付き合ったことが全然なかったからな」とか「せっかく気合い入れてイメチェンしたのに、チン毛まで剃られてかわいそうに」と笑顔で語り、「しかも相手中坊だぜ」とも言って笑ってたけど、その中坊に脅されてお前たちもビビったんじゃなかったか?

職場のみんなもH川ネタでしょっちゅう盛り上がってたんだから彼も浮かばれない、死んではいないはずだけど。

やられた動機も動機だし、しょせん他人事ということか。

世の中そんなもんなんだろう。

私はあれからしばらくして別の就職先が決まったため、派遣工を辞めた。

以来、M田はじめ職場の誰とも連絡を取っていないからH川のその後は知らない。

20年以上経った現在のH川はもうさすがに立ち直っているとは思うが、忘れてはいないだろう。

その気になってスケベ心をときめかせて行ってみたら美人局で、寄ってたかって裸にされて縛られ、ひと回り以上年下のガキどもに一晩中いたぶられながら「やめてください」とか懇願し続けた情けない体験を笑って話せる日など来るわけがない。

本当の話、私はH川にさほど同情していないことを告白する。

私もカツアゲされたことはあるが、中学時代の話で相手も中学生だったし、きっかけもやられ方もあそこまでカッコ悪くはないはずだ。

25歳の男のザーメン臭い純情が中学生に踏みにじられたんだから、滑稽極まりない。

ふざけたことした中学生どもにはもちろん頭に来るが、客観的に見て「犯人への怒り」が四割くらいで「H川の自業自得」が五割ほど、「H川が気の毒」に至っては一割未満というのがこの一件に対する私の正直な感想である。

そう思うのはしょせん私にとっても他人事だからだろう。

世の中そんなもんだ。

違う?

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2020年 娯楽 音楽

米国のハードロックバンド Danger Danger を想う (1)

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米国のハードロックバンドの1つである Danger Danger をご存知でしょうか。

1982年に、チープトリックのライブ会場で、ベースとドラムが知り合い、1987年にユーヨークで結成されたバンドです。

1989年に、アルバム「Danger Danger」でデビューしています。

私の Danger Danger との出会いは、もう 25 年くらい前になります。当時、ジャケット見てたまたま借りてきたのが Danger Dangerのデビューアルバムで、それを聞いて好きになりました。「Rock America」 という曲にシビれました。

Out of the backstreets

I hear my heartbeat

we’re gonna rock America

“Rock America”, Danger Danger

バックストリートに出て

オレの鼓動が聞こえる

オレ達がアメリがを Rock してやるぜ!

すぐに、セカンドアルバムのScrew It! も聞きました。

今度は、「I Still Think About You」という曲に、心が泣きました。

I’ve been walking down the same old road

Tryin’ hard to forget you

But I just can’t let you go

I still think about you

Do you think about me?

“I still think about you”, Screw it!

(あれからのずっと)昔と同じままの道を歩いてる。

君を忘れようと努力してる

でも忘れられないんだ

今も君のことを考えてる

君はどうだい?

ロックのバラードって良いですよね。Guns and Roses の November Rain とかも好きです。Slash のギターが泣いてますね。

アルバムは、現在、7 枚リリースしています。ライブアルバムなども合わせると、12枚になります。

2014年に「Danger Danger」と「Screw It!」のリマスター版をリリースしています。どちらもボーナストラックで数曲追加になっています。

アルバムタイトルリリース時期
Danger Danger1989
Screw It!1991
Dawn1995
Four the Hard Way1997
The Return of the Great Gildersleeves2000
Cockroach2001
Revolve2009

ライブアルバム

  • Dawn and Dirty Live (1990年)
  • Rock America (1990年)
  • Live and Nude (2005年)
  • Down and Dirty Live! (2013年)

コンピレーションアルバム

  • Rare Cuts(2003年)

Rare Cuts」 ですが、CD 版で購入しようかと思ってアマゾンで探してみたら、89万円とかで売られてました。意味が分かりません。

Apple Music とか Prime Music を契約しているなら、そこから聞くことができます。そこから購入しても、このアルバム 1枚で、1500円くらいです。

私は、一番最初の Mike Pant がボーカルのころの音楽は知らないのですが、Ted Poley がボーカルの時から聞いてます。もちろん、ライブアルバム含めて、全部持ってます。

1993年に Cockroach のアルバムを収録終えた後、バンドは、Ted Poley をクビにし、新たに Paul Laine を新にボーカルとして迎え入れてます。

2004年に仲直りし、再びボーカルが Ted Poley に戻り、今でも活動しています。2013年にライブアルバムを出し、2019年に、東京と大阪で来日ライブをやりました。私はライブに行けなくて残念です。

Wiki Danger Danger

そういったボーカルの入れ替わりということがあったため、3枚目のアルバムになるはずだった「Cockroach」は、1993年にリリース予定だったのですが、取り止めになっています。それから2001年になって、Cockroach がリリースされたのですが、2枚組のアルバムです。そして、ディスク 1 とディスク 2 に同じ曲が入っているんです。そう、Ted Poly 版と Paul Laine 版です。曲順が違うんですけどね。最初、ん?と思いました。

私は仕事の関係で、毎年、何度か米国に行っています。到着3時間前くらいになると、機内の朝食の時間になるのですが、毎回、そこからは着陸するまで、Rock America をずっと聞いてます。あの頃、米国に憧れていた自分を思い出し、これからアメリカを Rock しに行ってやるぜと、自分の気分を駆り立てるために。

今回は、Danger Danger について、その中でも特に、私の好きな初期のアルバムについてご紹介しました。

彼らの曲には、いろいろと良い曲があります。シビれる曲もあるし、聞かせる曲もあります。今度は時間を作って、他の曲の紹介でもできたら良いなと思ってます。

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