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世界最恐幽霊屋敷?捏造?ボーリー牧師館伝説

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英国エセックス州のボーリー村に、かつてボーリー牧師館(英語:Borley Rectory)という建物があった。

同牧師館は1862年に建造され、1939年に火災で焼けた後の1944年に取り壊されて今は存在しないが、その名は今なお世界的に有名である

それは、怪奇現象が立て続けに起きる恐怖の幽霊屋敷であったからだ。

建造

ボーリー牧師館が建造される前にも、このボーリー村には牧師館はあった。

だが、こちらの牧師館は1841年に火災で焼失しているため、この教区の教会の司祭を務める牧師のための住居は、長らく整備されていなかったようだ。

そこで1862年、この地方の地主であり、新たに教会の牧師となったヘンリー・D・E・ブル(Henry Dawson Ellis Bull)が、自らのために新たな牧師館を建造した。

ヘンリー・D・E・ブル

ヘンリー・D・E・ブルは、子供が14人もいる大家族。

そんな子だくさんのヘンリー一家が住めるようにと、新しい牧師館は23部屋もあって、以前のものより大きくなった。

広々とした館に転居することができて、順調に新生活をスタートさせたヘンリー一家であったが、その生活は、引っ越したその年早々から暗雲が立ち込め始める。

何やらおかしな出来事が、この広い家の中で起こり始めたからだ。

怪奇現象

在りし日のボーリー牧師館の外観

実は、ボーリー牧師館が建てられる前から、この地方には不気味な言い伝えがあった。

それは、建造の500年前、1362年に僧侶と修道女が駆け落ちしたが失敗し、僧侶は処刑され、修道女の方は、この地にあった僧院の壁に生き埋めにされたというものだ。

そんな呪われた伝説のある場所の真っただ中に建てられたからだろうか。

ボーリー牧師館での最初の怪奇現象は、建造早々の1863年に起こった。

それは誰もいないはずの牧師館の中から、奇妙な足音や物音が聞こえたり、家族の者以外の人の気配を感じたりという程度のものだったが、ここには得体の知れない何かがいるのではと思わせるのに十分なくらいであったという。

牧師館が建てられてからちょうど30年後の1892年、ヘンリー牧師が死去。

彼の息子であるヘンリー・フォスター・ブル(Henry Foyster Bull)が父の跡を継いで、この牧師館を相続する。

本格的に恐ろしい心霊現象が起こるようになるのは、この子ヘンリーの代になってしばらくしてからである。

1900年7月28日の夕方、牧師の四人の娘が、家の外で空中に修道女のような恰好をした幽霊を目撃したと主張したのだ。

娘たちによると、その幽霊はもっとはっきり見ようと近寄ったところ消えたらしい。

さらに、地元の住民にいたっては、首のない人間が乗った馬車を目撃した。

在りし日のボーリー牧師館の内部

1928年6月9日、ヘンリー・フォスター・ブルが死去。

牧師館は一時期空き家になるが、10月2日新しい牧師となったガイ・エリック・スミス(Guy Eric Smith)の一家が引っ越してきた。

ガイ・エリック・スミス

しかし引っ越して間もなく、スミス牧師夫人がタンスを掃除している際に、何と紙に包まれた女性の頭蓋骨が見つかるなど不吉な出来事があり、その後ほどなくして、ガイ家の人々はスイッチを切ったはずの呼び鈴が鳴ったり、窓に時折光が差し込んだり、どこから響いてくるかわからない足音が聞こえたりの怪奇現象に見舞われることになる。

スミス牧師夫人も例の首無し御者の乗った馬車を目撃するなど、先代の住民の時より心霊現象の不気味さはグレードアップするようになっていた。

不気味に思ったスミス牧師は、これらの現象を英国の日刊タブロイド紙『デイリーミラー』に報告して、超常現象を研究する人物の調査を依頼。

これを受けた『デイリーミラー』は、1929年6月10日に記者を派遣してボーリー牧師館での出来事を報道、さらに当時著名な心霊現象研究家であったハリー・プライスが、6月12日に同牧師館を調査に訪れた。

ハリー・プライス

だが、プライスが牧師館に入ったとたんに、新たな異常現象が起こる。

石や花瓶がひとりでに浮遊し始め、家じゅうの鏡から何かがこちらを見ているような感じがしてきたのだ。そしてプライスが去ると、これらの怪異な現象はぴたりとやんだ。

1929年7月14日、先代よりはるかに我慢が苦手だったスミス牧師一家が牧師館を去り、それからしばらく地域の教会に赴任する新しい牧師が見つからなかったこともあって、牧師館は再び空き家となる。

一年後の1930年10月16日、ヘンリー牧師の親戚でもあるライオネル・A・ホイスター(Lionel Algernon Foyster、1878年ー1945年)が、この教区の牧師に任命されて彼の妻のマリアンヌ・ホイスター(Marianne Emily Rebecca Shaw、1899年ー1992年)、養女のアデレード( Adelaide)らがボーリー牧師館に引っ越してきた。

だが、お約束どおり彼らも心霊現象に悩まされることになる。

ホイスター牧師 ― 女の子の頭がなくなる心霊写真が残っている

それも先代のヘンリー牧師やスミス牧師などより深刻で、呼び鈴が勝手に鳴ったり石や花瓶が浮遊するだけではなく、壁に意味不明の血のように赤い文字が現れたり、自分の部屋にいる時にカギがかかって出られなくなったりとかなり激しいものだった。

牧師のホイスターは、自身で二回ほど悪魔払いの儀式を行ってこれらの悪霊を退散させようとしたが、エクソシストとしての彼は三流だったか、よほど強力な霊魂だったらしく、効果はなかったようだ。

また、その儀式の最中養女のアデレードの肩に祟りとばかりに、こぶし大の石が飛んできて当たったこともあった。

結局、1935年10月に、ホイスター牧師は健康上の問題を理由にこの教区の牧師を辞めて、一家はボーリー牧師館を出て行くことになるが、それまでに2000回近い怪奇現象が起きたという。

一方において『デイリーミラー』で、以前にボーリー牧師館についての報道がなされた後、興味を持って牧師館を調査した研究者の中には、怪奇現象がホイスター夫妻の捏造ではないかという疑いを抱いた者もいた。

そして、疑われた妻のマリアンヌ・ホイスターの方は、異常な現象のうちのいくつかは夫のホイスター牧師や一部の怪奇現象研究者の仕業ではないかと考えてもいたようだが、ほとんどは確かに不可思議で説明のつかないものだという認識であったという。

マリアンヌ・ホイスター

ちなみに、マリアンヌは牧師館に部屋を間借りしていたフランク・ピアレス(Frank Pearless)と浮気をしていたようだ。

ハリー・プライスの調査

ハリー・プライスとホイスター家の人々

ホイスター牧師が去ってから、ボーリー牧師館はまたも空き家になる。

それから1937年5月、ハリー・プライスはアン女王基金会からの金で、一年間この牧師館を借りて調査に乗り出す。

プライスは、さらに5月25日、タイムズ紙で広告を出して週末にボーリー牧師館調査の協力者を募集した結果、48人もの志願者が集まった。

その大多数は怖いもの見たさの学生であったようだ。

1938年3月、プライスの助手S・ J・グランビル(S. J. Glanville)の娘ヘレン・グランビル(Helen Glanville)がロンドン南部のストリーサムで、ボーリー牧師館に出る幽霊を呼び出す交霊会を行い、プライスは、この交霊会で二つの幽霊を呼び出したと報告した。

ヘレンが、その幽霊たちから聞き出したところ、そのうちの一つはマリー・レール(Marie Lairre)という名の修道女の幽霊で、フランス出身だが、後に17世紀にイギリスに来て、この地の名門ウォルデグレーヴ家(Waldegrave Family)出身の領主に嫁いだが謀殺され、遺体は地下室か井戸に捨てられたという。

そして彼女は、時々牧師館の壁に「助けて」という文字を書いており、それは、それまでの目撃証言で語られていることだった。

二つ目は、サネックス・アミュレス(Sunex Amures)という男の幽霊で、火災を起こしてボーリー牧師館を焼き尽くし、牧師館の下に隠されている骸骨を、白日の下にさらすと語った。

その後、ハリー・プライスは、自身の調査結果をまとめて複数の本を出版。

後に、ボーリー牧師館が「最恐幽霊屋敷」として、世界にその名をとどろかせるきっかけを作った。

火災

1939年2月27日、W・H・グレグソン(W. H. Gregso)が新しい主となったボーリー牧師館で火災が発生、牧師館は焼失してしまった。

グレグソンは、このころすっかり幽霊屋敷として有名になったこの館に見物人を招いて一儲けしようとしていたらしいが、その目論見はご破算になる。

燃えてしまったボーリー牧師館

火災の原因はグレグソンの過失ともされるが、保険会社の調査によると、放火の可能性が高いというものだった。

また、ハリー・プライスは火災後に現地の人に取材したところ、火事の時にボーリー牧師館の二階の窓のところに、修道女が立っているのを見たと証言した者がいたという。

1943年8月、プライスは、ボーリー牧師館跡地の地下から二体の人骨を発見、そのうちの一つは、若い女のものと推定された。

それらの骨は当初人骨とはみなされなかったが、後にエセックス州の教区に埋葬された。

火災が起きた後も調査が行われてきたが、その調査中に照明装置が原因不明の故障を起こすなどの不可解な現象が発生したこともあったと伝えられる。

心霊現象研究協会の評価

幽霊屋敷ボーリー牧師館

ハリー・プライスが1948年に死去した後、エリック・ディングウォール(Eric Dingwall)、K・M・ゴールドニー(Kathleen M. Goldney)とトレヴァー・H・ホール(Trevor H. Hall)の三名の心霊現象研究協会メンバーが、生前のプライスによるボーリー牧師館に関する調査をまとめて、1956年に『幽霊屋敷ボーリー牧師館(The Haunting of Borley Rectory)』という著作を発表。

同時に、プライスの報告したボーリー牧師館の怪奇現象に関して、でっちあげがあったことを公表した。

この中では、少なからぬ怪奇現象が人為的であったか思い込みであったことが述べられており、例えば、不審な物音もネズミによるものだったり、建物がきしんだだけであったとされ、ディングウォールらは、調査すればするほど本物の怪奇現象であったかどうかは疑わしくなったとした。

また、神経内科の専門家であるテレンス・ハインズ(Terence Hines)は、ホイスター牧師夫妻が住んでいた1930年から1935年の期間に、夫妻は幽霊話のでっち上げに熱心で、プライス自身も同じようなものだったと主張した。

ホイスターの妻であったマリアンヌも、実際は幽霊を見たことがなく、以前に幽霊の声を聞いたというのもウソであり、夫と共謀して家にやって来た友人に幽霊がいるなどと言って、それらしい仕掛けを使って怖がらせては面白がっていたと告白。

他にも、ホイスターが引っ越してくる前の住人であるブル牧師の子供たちも、怪奇現象に出くわしたことはないと言っていたようだ。

ちなみに、これより前の1938年には、ボーリー牧師館のある地方に伝わる駆け落ちして殺された僧と修道女の言い伝えも、そのころには全く根拠のないでたらめだったと立証されていた。

一方で、プライスのホラを信じている心霊現象研究協会のメンバーもいる。

ロバート・ヘイスティングス(Robert Hastings)やプライスの遺言執行者のポール・タボリ(Paul Tabori)、ピーター・アンピーター・アンダーウッド(Peter Underwood)などであり、彼らは、プライスの報告が正しいとかたくなに信じていたのだ。

もっとも、現代では数々の有力な証拠から、ボーリー牧師館の話はプライスらのでっち上げであったというのが定説で、プライスの属していた心霊現象研究協会自体、プライス支持者の主張は、でっち上げであったことを覆すには足らないと結論付けている。

だが、ボーリー牧師館は、世界でもっとも有名な幽霊屋敷であることは現代でも変わらず、今でも跡地には、観光客がひっきりなしにやってきているようだ。

出典元―百度百科

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ブラックホール爆弾が出現する日は来るか?

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ブラックホールとは、質量の巨大な恒星が超新星爆発後、自身の重力によって極限まで収縮して生成されたり、巨大なガス雲の収縮で生成されるものであり、極めて高い密度と強い重力のために物質のみならず、周囲の時間と空間、光さえ脱出することができない天体であることは皆さんご存じのことであろう。

それほどの力を持つブラックホールであるが、それを何らかのエネルギー源として利用できないかと考えるぶっ飛んだ発想は古くからあった。

数理物理学者のロジャー・ペンローズ氏などは、1969年にブラックホールからエネルギーを取り出す方法として、「ペンローズ過程」と呼ばれる理論を提唱している。

ロジャー・ペンローズ氏

これはゴミを容器に入れて、回転するブラックホールのエルゴ球と事象の地平線の間に投入して、ゴミはブラックホールに捨てて容器のみを回収した場合、質量とエネルギーの等価性により「ゴミの質量+ブラックホールの減少した質量」に相当するエネルギーが容器を加速させることから、発電が可能というものだ。

むろん、こんなものはあくまで仮想的方法であって、現在のテクノロジーでは不可能なのは言うまでもない。

だが、エネルギー源として利用しようと考えるならば、同時に兵器としても利用できると考えてしまうのが人類のようである。

中華人民共和国の検索エンジン・百度のオンライン百科事典である『百度百科』において、そのブラックホールの力を利用した兵器「ブラックホール爆弾」が取り上げられており、しかも将来実現する可能性があるか否かについて、SFではなく大真面目に論じているのだ。

拙ブログでは、その攻めた内容をご紹介させていただく。

ロシア人科学者の予言とその説

まず「ブラックホール爆弾」とは、ブラックホールに投入したエネルギーが増幅されて戻ってくる連鎖反応を利用した物理的効果を指す。

当然、巨大なエネルギーを持っているこの「ブラックホール爆弾」であるが、何と百度百科において50年後には実現可能となり、現代の人類の心胆を寒からしむる原子爆弾をチャチなおもちゃに陳腐化し得るであろうと予言した人物がいることが紹介されている。

その人物の名は、ロシアの科学者アレクサンダー・トロフィメンコ氏。

トロフィメンコ氏によると、人類が反物質であるオトン(otone)の謎を解明した日には、原子力というテクノロジーを手に入れた後のように、この新しいエネルギーを発電に利用し、同時に新型兵器——「ブラックホール爆弾」の開発に用いることになるであろうというのだ。

発電に利用した場合、原子核サイズのブラックホールは、原子力発電所のそれを大きく上回るエネルギーを有するが、兵器に使われた場合、一発の「ブラックホール爆弾」の破壊力は大量の原子爆弾の同時爆発に匹敵し、10億人以上を死に至らしめることができるために瞬時に地球をも破壊できることを意味する。

それに比べたら、核兵器の危険性など取るに足らないものとなるはずだ。

だが、そもそもブラックホールとは、はるか遠くの何光年も先の宇宙空間に存在し、地球には関係のないところにあるものではないだろうか?

ところがどっこい、前述のトロフィメンコ氏の説では、宇宙のブラックホールのミニ版——「マイクロブラックホール」は地球上どこにでも存在し、人類に多くの災難をもたらすというのだ。

また、他のロシアの科学者の中にも、地球上で起きる自然現象のいくつかがマイクロブラックホールと関係があると考えている人物もいる。

例えば火山の噴火だが、火山活動のエネルギー及び熱量は地球上の特定の地点に集中しており、尽きることがないのだが、これは、太陽のエネルギーがブラックホールを通じて地球の深層部に伝わっているからではないかということである。

さらに、太陽には核エネルギーだけでなく、マイクロブラックホールも存在し、他のどの惑星の内部にもマイクロブラックホールはあるのではないかという説まで提唱されているらしい。

そして、ブラックホールは自然界に存在するだけでない。

「人工ブラックホール」を作り出すことは可能だと、トロフィメンコ氏は主張する。

ちなみにこの「人工ブラックホール」という発想は、最初1980年代カナダのブリティッシュコロンビア大学のウィリアム・ウンルー教授によってもたらされた。

教授は、音波が流体において示す動きは、光がブラックホールで見せる動きと非常に似ていると考え、流体の速度が音速を超えたら、その流体において人工ブラックホールとも言うべき現象が成立すると考えたのだ。

そして2001年1月、英国セント・アンドルーズ大学の著名な物理学者ウルフ・レオンハート博士の研究グループが、実験室内でブラックホールを作り出すことに成功したと主張。

しかし、レオンハート博士が作り出そうとした人工ブラックホールは十分な重力に欠けたため、本物のブラックホールのように光線をはじめ、周囲の全てのものを飲み込むことができず、当時はあまり注目を浴びることはなかった。

どうやら、トロフィメンコ氏が全てを飲み込む本物のブラックホールが将来的に実験室で作り出せると考えている根拠は、このレオンハート博士の実験から来たようだ。

こうして氏は、ロシアの新聞「プラウダ」で、ブラックホールは実験室にとどまらず、50年後には膨大なエネルギーを有する「ブラックホール爆弾」が、核兵器とは比べものにならない脅威として出現しているだろうという前述の予言をしたらしい。

だが、それに対して、主に中国の科学者の間から大いに疑問の声が挙げられた。

懐疑論

まず、中国科学院原子核研究所の研究員である沈文慶氏が、上記の説に対して疑問を呈した。

沈氏によると、「人工ブラックホール」を形成するための方法として、二つ以上の粒子を粒子加速器の加速によって衝突させて強大な吸引力を有するブラックホール様の物質を形成することが挙げられるが、このような方法で生成した物質をブラックホールと呼ぶことができるか否かについてのコンセンサスは、まだ得られていないという。

沈文慶氏

しかも、これらブラックホールに近い物質は、いまだに理論上の産物であり、地球上のいかなる実験室においても完成品を作り出すことに成功していない。

沈氏は「たった50年で、人工ブラックホールからブラックホール爆弾を製造できるようになるというのは現実的ではないですね。1%の可能性をもって100%できるはずというのは間違いであり暴論でしょうな」と一笑に付した。

天文学の専門家である南京紫金山天文台の研究者・王思潮氏も、人工ブラックホールはSFの領域を出ていないと主張している。

人工的にブラックホールを作り出そうとするならば、まず解決しなければならないのは、物質の分子や原子の間の間隔を小さくして質量を巨大にすることであり、質量が大きくなれば、万有引力の法則により、その物質の引力も巨大になり、近づく物質を吸収するようになる。

だが、現状では物質の質量を改変する装置は存在せず、できることと言えば、物質の原子核を圧縮して中性子の状態にすることであり、それですら困難であるため、密度が巨大なブラックホールならばなおさらではないかと、王氏は冷静であった。

次に、たとえブラックホールを作り出したとしても、いったいどんなキャリアを使ってブラックホール爆弾にするのか?ブラックホール爆弾を、どのような装置と方法で輸送及び保管するのか?

確かに威力は破滅的だが、現代のテクノロジーでは、持っている方がまず破滅するだろう。

中国科学院高エネルギー物理学研究所の科学者も、具体的な研究の進展はともかく、現時点でのテクノロジーでは、50年かかってもブラックホール爆弾が出現することはないだろうとしている。

上記の反論から見る限り、ブラックホールに対する認識は、ブラックホールがありうる場所があるという程度のものであり、この程度で、50年間以内にブラックホール爆弾が誕生するというのは絵空事であるようなので、ひとまず安心だ。

だが、50年後は無理でも100年後か200年後はわからない。

危険だから研究するなと言っても、研究するのが人類だ。

しかし、どうせやるなら地球上ではやらないでほしい。

頼むから最低でも太陽系外でやってくれ。

出典元——百度百科『黑洞炸弹』

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暴走族に返り討ちにされた毎日新聞論説室顧問 ~1989年片瀬江ノ島駅前暴走注意事件~

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かつて毎日新聞に、吉野正弘という記者がいた。

吉野氏は、1956年(昭和31年)毎日新聞社に入社後、記者としてキャリアを積み重ねて、1964年に連載企画『組織暴力の実態』で新聞協会賞、1976年には、連載企画『宗教を現代に問う』により菊池寛賞、1987年には1980年から担当、執筆していた夕刊コラム『近事片々』で、日本記者クラブ賞を受賞した。

また、同社内でも社会部副部長、特別報道部編集委員、論説委員を歴任して論説室顧問という役職を得るなど、記者として大成功を収めたと言っても過言ではないであろう。

しかしこの人物、論説室顧問を務めていた1989年(平成元年)4月18日、56歳で帰らぬ人となる。

その最後はお世辞にも、その社会的地位にふさわしからぬものであった。

おれは暴走族が嫌いだ

以前の小田急線片瀬江ノ島駅

1980年代後半の神奈川県藤沢市にある小田急線片瀬江ノ島駅周辺の住民は、週末の夜ともなると騒音に悩まされていた。

湘南海岸にほど近いこの場所に、地元のみならず、埼玉や千葉からもバイクや改造車に乗った暴走族の若者が押し寄せてきていたからだ。

当時の暴走族

この地に自宅を構えていた吉野氏もその一人で、何度も電話で警察に取り締まりを求めていたという。

実害があるうえに、新聞記者という職業柄からか正義感の強かった彼は、当然暴走族に良い感情は持っていない。

それは、1989年4月17日に最悪の形で爆発し、翌日が氏の命日となってしまうことになる。

その日吉野氏は、妻と甥の三人で小田急片瀬江ノ島駅近くにある飲食店で食事し、酒も飲んだ。

三人は、午後10時ごろに店を出て帰路についたが、その通り道の片瀬江ノ島駅前まで来たところ、駅前のロータリーには、暴走族風の若者が乗ったバイクや車が集っているのが目に入った。

当時の暴走族

そのうち一台のバイクが、耳障りな音を立てて空ぶかしをし始めるや、日ごろから彼らの出す騒音にイラついていた吉野氏は、意外な行動に出る。

近くにあった長い鉄の棒を拾うやそれを手に取って「オレは暴走族が嫌いだ。懲らしめてやる」と言いつつ近づいて行ったのだ。

年寄りの冷や水どころか、無謀極まりない蛮勇である。

一緒にいた甥の証言によると、氏は酩酊したほど飲んではいなかったらしいが、酒が入っていて気分が大きくなっていたのは間違いない。

だったとしても、天下の毎日新聞の論説室顧問という重職にある56歳の人物のとっていい行動ではないだろう。

とはいえ、空ぶかしをしていたバイクは、鉄パイプを持った氏にビビったのか、それともたまたまなのか、ロータリーから立ち去る。

一番ムカつく奴は消えた。

だが、車に乗っていた者たちの中で、イキった若者らしい素直な反応を文句をつけてきた50男相手に示した者たちがいた。

元暴走族で日産フェアレディーZを運転して、近くの茅ヶ崎市からやって来た工員の山上正(25歳)と石井徳久(24歳)だ。

山上と石井は「貴様ら暴走族が気に入らん」とか言って鉄パイプ片手にやって来た50男のこしゃくな挑戦を、ダイレクトに受けて立ったのである。

吉野氏は正義感が強く、新聞業界において大成した人物ではあったが、荒事には全く慣れていない。

だから自分の力がどの程度であるか全くわかっておらず、鉄パイプを持てば無双だとでも酒が入った頭で考えたんだろう。

そんな吉野氏に、そこそこ修羅場も経験してきたであろう若者たちの過酷な洗礼が待っていた。

若者たちは、あっさりと氏の鉄パイプを取り上げるや拳で殴り、足で腹を蹴る。

「やめて!」

妻と甥が止めに入ったが、甥の方が若者に殴り倒される。

彼らはひとしきり吉野氏を暴行すると、乗って来た白い日産フェアレディーZに乗って逃走した。

公衆の面前での暴行だったために、犯行は短時間であったようだが、打ち所が悪かったらしい。

吉野氏は病院に運び込まれたが、翌日の未明に外傷性ショックにより死亡してしまった。

犯人の逮捕とその後の影響

当時の取り締まり

この傷害致死事件を受けて、神奈川県警は大規模な検問を実施。

さらに目撃証言から、犯人の乗っていた車として、県内の3073台にのぼる白い日産フェアレディーZの捜索が始まった。

事件から約二か月後、茅ヶ崎市内のある駐車場に日産フェアレディーZが停まっていたが、事件直後に姿を消したという証言が入る。

この日産フェアレディーZの持ち主として、山上正の事情聴取が始まり、ほどなくして山上は犯行を自供。

共犯者の石井徳久も、その後に逮捕された。

山上によると、鉄パイプを持った吉野氏が、明らかに酔っぱらっていたように見えたため、何をされるかわからないと思って、ついついやりすぎてしまったようだ。

山上は、事件直後に友人から買ったばかりの愛車である前述のフェアレディーZを証拠隠滅のために転売。

また、両人とも翌日には普段と変わらず、何食わぬ顔で職場に出勤していた。

その後、藤沢市では県警により暴走族の大規模な締め出しが行われ、週末に多くの若者が集まることはなくなった。

また、事件の起こった片瀬江ノ島駅前も、車が入ってこれないように車止めが設置されて現在に至っている。

ところで、殺されてしまった吉野氏だが、当時の報道を見る限り正義感を発揮して命を絶たれた気の毒な人、という扱いがされている。

たしかに、死ぬまで暴行した山上と石井はとんでもない野郎だが、吉野氏も吉野氏ではなかろうか。

大新聞・毎日新聞の重職にある56歳が、酒に酔って鉄パイプを持って若者に挑むのは、褒められた行為ではあるまい。

言っちゃ悪いが、生前の功績を台無しにする最後を迎えた人間の一人と考えるのは、筆者だけではないだろう。

出典元―朝日新聞、毎日新聞

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