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友情を食い物にした女 ~中野区中国人留学生殺害事件(江歌案)~

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2016年11月3日深夜、東京都中野区中野のアパートで法政大学の大学院に通う中国人女子留学生・江歌(ジャンガ―・24歳)が、刃物でめった突きにされて刺殺された。

現場には、江歌と同居する同じ中国人女子留学生の劉鑫(リュウシン・24歳)がおり、無事だった彼女が警察に証言したところによると、犯人は見知らぬ男だったという。

当初、この事件は被害者が中国人であったからか、日本では新聞で小さく報道されるにとどまる扱いだった。

その一方の中国では、事件で一人っ子である江歌を殺された母・江秋蓮(ジャンチウィエン)の悲憤が報道されると多くの同情を誘い、駐日中国大使館も警視庁に事件の早期解決を要請するよう動き出す。

そしてその後、事件発生直後に劉鑫が述べた「犯人は見知らぬ男だった」という証言が嘘であって、実際は劉鑫の元カレの中国人留学生・陳世峰(チェンシーフォン・25歳)であったこと、犯行時にとった行動が最初の証言とは全く異なっていたことがわかり、さらには母・江秋蓮に対する冷淡かつ不誠実な対応によって、中国中から怒りの声が上がる事態に発展した。

異国で出会った同じ学校の同級生

劉鑫(リュウシン)

劉鑫は、1992年に中華人民共和国山東省青島市で生まれた。

両親は農民だったが、商品作物の販売に成功した農家であって、結構な金を持っていたために、幼少期から何不自由なく暮らしてきたようだ。

そのせいか、少々わがままなところがあったが、才覚ある両親の血はしっかり受け継いでおり、人に好かれやすく嫌われにくいという、おいしいキャラの持ち主であったらしい。

学校に通っていた頃は、誰もが悩む人間関係でうまく立ち回り、恋愛にもおおらかで、彼氏をとっかえひっかえしたりの華やかな青春も経験した。

2014年に、地元の泰山学院(4年生大学)の日本語学科を卒業した後、お目当ての仕事が見つからずにプラプラしていた劉鑫を心配した両親の勧めで日本に留学。

もともと日本語が専攻ではあったが、より実践的な日本語を習得すべく、当初は他の留学生と同じく、日本語学校に通うようになった。

その日本語学校で、劉鑫は同じ中国人女子留学生と知り合う。

後に命を奪われることになる江歌である。

江歌(ジャンガ―)

中国人の留学生なんてそこら中にいるのだが、江歌は特別だった。

彼女は自分と同じ山東省青島市出身で、それも互いの実家の距離は約10㎞という近さであって、なおかつ実は同じ中学校出身だったのだ。

生徒数が多かったので顔を知らない者がウヨウヨいたし、江歌も地味な子だから全然気づかなかった。

江歌は母一人子一人の家庭で育った苦労人で、母を楽させてあげたいという気概を持って、あこがれていた日本にやって来たらしい。

気ままに育ってきた劉鑫とは境遇が違っていたが、異国の空の下で同国人、それも同郷かつ同じ中学校の同級生という奇跡的なよしみから、二人は問答無用で親友になった。

これは、後に江歌の方にとっては破滅的な出会いとなるのだが、この時点では両人とも知る由もない。

災いのきっかけ

2016年4月、日本語学校を卒業した劉鑫は大東文化大学の大学院生となり、江歌は法政大学大学院に入学。

本格的な留学生活がスタートした。

そして劉鑫は大東文化大学で、江歌にとって第二の破滅的な出会いをする。

後に、江歌を殺害することになる陳世峰との出会いだ。

陳世峰は、自分より一つ上の25歳で陝西省出身(生まれは寧夏回族自治区)。

日本語がうまくて知的であり、研究発表する際などに見せるクールな立ち振る舞いに、入学したばかりの劉鑫の目はくぎ付けになって、たちまち「女」をうずかせた。

陳世峰(チェンシーフォン)

発情した劉鑫のアプローチに、優等生だがウブなところのあった陳世峰は一挙に陥落。

同年6月には、早くも板橋区高島平で同棲生活を始めた。

しかし、劉鑫は恋愛では百戦錬磨で意中の男を落とすことには長けていたかもしれないが、関係を維持することは苦手だったようだ。

また、交際する前に男を見る目も養われていなかった。

学校であれほどかっこよく見えた陳世峰だったが、一緒に暮らし始めてすぐに、彼がクールというより陰キャで、陰険なキモ男であったことに気づいたのだ。

そのくせ、ちょっとでもわがままを言うとすぐにキレる。

同棲生活開始早々、痴話ゲンカが絶えなくなり、こらえ性のない劉鑫は8月後半に別れを一方的に宣言して家出した。

たった三か月弱の交際だったが、嫌いになった男と我慢して付き合う必要はない。

さっさとポイだ。

これまでの恋愛でもそうしてきたから、今回もそうするだけである。

ただ、今回困ったことは、ヘボチン野郎の陳世峰と同棲するために住居を引き払っていたから、住む所がなくなってしまっていたことだ。

だがぬかりはない。

立ちまわるのがうまく、抜け目のない劉鑫は、この時すでに同郷の友達・江歌に連絡をとって事情を話し、彼女の部屋を間借りすることを承諾させていたのだ。

劉鑫は、他人に自分の無理難題を承知させることに長けており、しかも江歌は困っている人間の頼みを断れない性格だったからイチコロだった。

建物の入り口

低い精度で自動的に生成された説明
江歌のアパート

もっとも、この時期は母の江秋蓮が日本に来ていたために、江歌の部屋には入れない。

その間は、自分のバイト先のオーナーに泣きついて、バイト仲間の部屋に住まわせてもらっていたというから、かなりの強者だ。

やがて母親が帰国すると、劉鑫は首尾よく江歌宅に転がり込んで住居問題を解決させた。

しかし、より困った大問題が残っていた。

劉鑫の中ではとっくに元カレとなった陳世峰だったが、陳世峰の方はそう思っていなかったことだ。

さっぱりあきらめるという言葉が辞書にないこの男は、自分が運命の相手と思い込んだ女を、学業そっちのけで追いかけ始める。

毒闺蜜

劉鑫と江歌

中国語には、闺蜜(クイミー)という言葉がある。

この魅惑的な字面が意味するところは「女性の同性の親友」、「(女性にとっての)親密な女友達」だ。

同郷のよしみで、元彼氏から逃げてきた劉鑫をかくまった江歌は、まさに「闺蜜の鏡」と言えよう。

だが、劉鑫の方は紛れもなく悪い闺蜜、「毒闺蜜」だった。

下手したら江歌のことを親友ではなく、自分の都合よく動いてくれる便利なアイテムだと思っていた可能性がある。

居候させてもらっているのに、まるで自分の家のようにふるまうようになり、彼女といると息がつまり始めた江歌の方は、コーヒー屋に行って勉強するようになるなど「庇を貸して母屋を盗られた」状態になっていた。

劉鑫の方は、陳世峰から逃れてまんまと江歌にかくまってもらえたわけだが、大安心というわけではない。

ずっと部屋の中にいるわけにもいかず、外へ出たとたん陳世峰にまとわりつかれるようになっていたのだ。

別れた後も、同じ学校だから顔を合わすに決まっている大学院に劉鑫が通い続けていたのかどうか、報道では明らかにされていないが、江歌と同居しながらバイトには行っており、陳世峰にそのバイト先をつきとめられていたのである。

そして11月2日、江歌の家もストーカー野郎にバレた。

その日の午後、江歌は外にいて劉鑫が一人で部屋にいた時に、陳世峰が押しかけて来たのである。

それまでのストーカー行為で、すっかり精神的に参っていた劉鑫は、迷わず江歌に電話でこちらに来てくれるように頼んだ。

助けを求められた江歌は、当然ながら警察に通報しようと提案したが、劉鑫は何とこれを拒否する。

警察が入ると余計に面倒なことになると考えたようだが、これまで江歌にさんざん面倒をかけているという自分の立場を全く分かっていない。

いくらストーカーと化した元カレにおびえ切っていたとはいえ、都合が良すぎであろう。

親友ならば、どんなに迷惑かけてもよいと考えていたのだろうか。

それでも、義侠心に厚い江歌は親友の求めに応じて部屋に駆け付け、すっかり危険な状態になりつつあった陳世峰と対峙する。

そして、自分一人ではないと安心して部屋から出てきた劉鑫も交えて談判になったが、相手の事情などお構いなしに、よりを戻そうとしか考えていないストーカー野郎と話し合いになるわけがない。

ほぼ押し問答となった話し合いは、劉鑫がバイトへ、江歌が大学院へ行く時間になったことでタイムアップとなって物別れとなり、三人はそれぞれ行くべき場所や帰るべき場所に向かうことになった。

いったん穏便に収まったように見えるが、実はこの時点で陳世峰は、すでに暴発寸前だった可能性がある。

これより以前のことであるが、ストーカー行為に辟易としていた劉鑫が、浅智慧をひねり出して、彼氏ができたと思わせればあきらめてくれるだろうと考え、バイト仲間の男に頼み込んで新しい彼氏のふりをしてもらい、付きまとう陳世峰に見せつけたことがあったようなのだ。

事の真偽は分からないが、もしこれが本当だったとしたら、未練がましくてみみっちい陳世峰のことだから、「他の男のモノになるくらいなら殺してやる」と決意したことは大いに考えられる。

また、後に分かったことだったが、江歌は母親の江秋蓮が日本に来た時に、劉鑫のことを話していた。

その際に、劉鑫が彼氏から逃げてきたことや一緒に住まわせてあげようと考えていることを娘の江歌から聞いた母親は、「そういう人と関わらない方がいいよ」と娘を諭していたというが、結局、この人生経験豊かな母の忠告を、人が良すぎる娘は守らなかった。

結果、母の懸念は最悪の形で的中することになる。

江歌と母の江秋蓮

親友に見殺しにされて絶たれた夢

アルバイトに向かった劉鑫だったが、いったんはあきらめて帰ったと思われた陳世峰が、後をつけてきたことに気づく。

なおかつ劉鑫のスマートフォンに「オレの所に戻らねえなら、お前のヌード写真をネットにばらまくぞ」というメールを送って脅迫までしてきた(劉鑫は、なぜブロックしていなかったのだろう?)。

恐怖のどん底に陥った劉鑫は、ずうずうしくも再び江歌に救援を求め、「バイトが終わってから、21時に東中野駅で待っていて欲しい」と電話。

学校が終わってから自分のバイトに行っていた江歌は了承し、退勤してから律儀にも時間通りに東中野に向かった。

だが、劉鑫の姿は見えない、どころかなかなか現れない。

まだバイトが終わっていなかったのだとしても、自分の都合で呼び出しておいて出てこないとは、とことん厚かましい女だ。

江歌はコーヒーショップに入り、この時間を利用して中国版Lineである「微信(WeChat)」で母親の江秋蓮に電話した。

一時間半ほど話をした中で、江歌は劉鑫の一件のことも話しており、何か嫌な予感がしたらしい江秋蓮は娘に、「気を付けなさいよ」と話したという。

母娘の会話は、何時間も遅刻していた劉鑫がようやく現れたことによって終了するが、これが江秋蓮にとって娘と交わした最後の会話となる。

江歌と劉鑫が中野区のアパートに到着した頃には、すでに日が変わって3日午前0時を回っていたのだが、そこで二人は凍り付いた。

陳世峰の野郎が、アパートの玄関で待ち構えていたのだ。

江歌は、すかさずスマートフォンで「不審者がいる」と警察に通報。

二人は濁った目でこちらを凝視する陳世峰の脇を、そそくさと通り抜けて部屋に向かったが、奴は後からついてくる。

部屋の前まで来た時に、江歌は「嫌がってるのわかんない!?もう警察呼んだんだからね!」と帰るように要求したが、この時の陳世峰は、先ほどとは比べものにならないくらい危険な状態になっていた。

「オメー、戻ってこいっつってんだろ!」と怒鳴って劉鑫の手をつかみ、無理やり連れ去ろうとするのだ。

そればかりではない。

「やめなよ!」と江歌が叫んで間に入るや、何と刃物を持って向かってくるではないか。

これを見た劉鑫がいち早く動く。

驚くべきことに、江歌が立ち向かっているのをいいことに、彼女の部屋の中に入ってしまったのだ。

しかも、江歌を置き去りにしてカギまで閉めた。

「テメー開けろ、おい!鑫!!コラあああああ!」

激高した陳世峰は、狂ったようにノアノブをガチャガチャ言わせ始めたが開くわけがない。その結果、逆上の極みに達した陳世峰が、さらにとんでもない行動に出た。

怒りの矛先が、あろうことか第三者である江歌の方に向き、持っていた刃物で一突きしたのだ。

一突きでは済まない。

失恋で頭がおかしくなっていた陳世峰は「オレの邪魔ばかりするお前が悪い!」とばかりに、部屋から閉め出されてしまった形の江歌を滅多突きにする。

「啊啊啊~!!!」

何か所も刺された江歌は、叫び声を上げてその場に崩れ落ち、陳世峰は逃走。

江歌の部屋に逃げ込んで鍵を閉めた劉鑫はパニックになりながらも、この間に110番を二回もしていたが、警察官が現場に到着するまで部屋の鍵を開けることはついになかった。

陳世峰がまだその場にいたならともかく、江歌を刺して逃走した後もだ。

その間に、江歌は手の施しようがない状態となってゆき、警官が到着後に病院に搬送されたが時すでに遅し。

複数個所を刺されたことにより失血死した。

育ててくれた母親に恩返ししようと、あこがれの日本にやってきて勉学に励んでいた江歌は、親友を助けたばかりに、夢半ばで命を絶たれてしまったのだ。

たった24年の生涯だった。

バスルームの一角

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犯行現場

母の悲憤を逆なでする劉鑫

江歌の悲報は駐日中国大使館によって、その日のうちに中国にいる母親の江秋蓮の元に届けられた。

動顛した母は翌日には来日。

変わり果てた姿となった我が子と悲しみの対面をした。

江秋蓮はシングルマザー。

離婚した後は、たった一人の我が子である江歌を、女手一つで育て上げてきたのだ。

そのかけがえのない唯一の宝を殺された母の悲しみと怒りが、尋常でなかったのは言うまでもない。

犯人は一人しか考えられない。

江秋蓮は、娘とは生前よく話していて知っていた。

親友・劉鑫の元カレの陳世峰である。

娘は劉鑫のせいで死んだという思いを抑えつつ、江秋蓮は事件現場にいて事情を知っている彼女に、犯人の逮捕のための協力と当時の状況を教えてくれるように微信経由で頼んだ。

一人の母親としては、当然の要求である。

だが、自分だけ助かった劉鑫は「事件当時は江歌と一緒にアパートへ戻り、自分はズボンが生理で汚れていたので履き替えようと先に部屋に入り、江歌は郵便物を確認するために外にいたが、外で江歌の叫び声が聞こえた。慌てて扉を開けようとしたが開かず、ドアスコープから覗いてもよく見えなかったから、怖くなって電話で110番に通報した」と返答した。

犯人が陳世峰だと彼女にも分かっているはずなのに、まるで見知らぬ人間にやられたと言っているとしか思えない主張である。

また、彼女を置き去りにして自分だけ部屋に逃げ込んでカギまで閉めたことも、この時点では言っていなかった。

ちなみに、劉鑫が110番通報した時の録音が残っているが、彼女はここでも半泣きになって動顛しながらも、たどたどしい日本語で「そとは誰か、誰か変な人がいて」と陳世峰の名前を出していない。

テキスト

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テキスト

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名前を出したのは、11月7日に陳世峰が恐喝容疑で逮捕された二日後の9日になってからからで、この時初めて江歌を殺したのは陳世峰であることや、自分が部屋に閉じこもってカギをかけてしまったことを、警察や江秋蓮に打ち明けた。

自分のせいで江歌が殺されたことは明らかだったから、あわよくば隠し通そうとしたのである。

劉鑫は徹底的に卑劣な女だった。

たとえ自分が原因で起こったことでも、面倒になりそうだと見れば、責任から徹底的に逃げる性分なのだ。

それは、その後の行動で示される

11月11日に江歌の葬儀が行われたが、前日に出席を約束したにもかかわらず欠席。

誰のせいで死んだと思っているのか?最低限の礼儀であろう。

また江秋蓮は、11月19日に江歌の遺骨を抱いて中国へ帰国するが、それまで一度も会いに来なかったばかりか、娘の最後の状況や事件の詳細を知りたがる江秋蓮の微信にも応答しなかった。

グラフィカル ユーザー インターフェイス, テキスト, チャットまたはテキスト メッセージ

自動的に生成された説明
江秋蓮からの連絡は無視

この態度を取られて、我慢ができるはずがない。

一人娘を殺されて悲嘆にくれる母親は行動に出た。

ネットで、この非情な態度を中国の世論に訴えたのだ。

すると、中国のネット民はいち早く反応した。

中国国内で「友人を見殺しにした」と、劉鑫に対する非難が巻き起こるようになったのである。

この殺人事件は、日本ではあまり取り上げられなかったが、中国では大いに関心を集めていたのだ。

やがて、日本から帰国していた劉鑫はバッシングされるようになり、たまりかねて江秋蓮に連絡をしてきた。

しかし、それは捜査や裁判に協力するという承諾ではなく、「これ以上騒ぎ立てるなら、一切協力しない」という逆ギレの応答だった。

劉鑫の心ない返信

江秋蓮は、自分の娘はこんな奴のために死んだのかと怒りに震えた。

おまけに劉鑫の両親も両親で、彼らは微信の江秋蓮のアカウントをブラックリストに載せて連絡を絶ち、一家そろって転居して雲隠れ。

後に「心ある」ユーザーによって転居先が発見されて通報されるや、江秋蓮に電話をかけて「ウチの娘にからむな!殺した奴を恨めよ!」だの「あんたの娘は短命の運命だったんだ」などと罵倒する始末。

どうりで劉鑫みたいな女が育つわけである。

当残ながら、江秋蓮も泣き寝入りはしない。

これらの微信でのやりとりや通話内容を公開して、徹底的な反撃に出た。

中国人の怒りの炎は、日本人のものより火力が大きく、高温である。

非常識な女とその両親へのバッシングは、より激しくなった。

世間からの猛烈な反発には、さすがの劉鑫も追い込まれたようだ。

某メディアの仲介で、しぶしぶ江秋蓮との面会に同意する。

しかし、2017年8月22日に二人はようやく顔を合わせることになったが、江秋蓮が許すはずもなく、和解には至らなかった。

世に憚る憎まれっ子への制裁

そもそも、一番悪いのは江歌を殺した陳世峰である。

陳世峰は、逮捕後の2016年12月14日に殺人罪で正式に起訴され、翌2017年12月11日に公判が始まったが、江歌殺害の理由を「先に部屋に逃げ込んだ劉鑫が部屋の中から江歌に刃物を渡し、それを持って立ち向かってきた江歌から刃物を取り上げようともみ合っているうちに不意に刺してしまった」とほざいて起訴内容を否認した。

江秋蓮は一人娘を殺害した挙句に、あきれたたわごとを並べる陳世峰の死刑判決を求めて来日、支援者の協力を受けて署名運動を行ったが、日本は犯罪者に甘い。

12月20日に結審した東京地方裁判所による一審判決は脅迫罪と殺人罪による懲役20年であり、陳世峰も控訴しなかったために、この軽い刑が確定した。

新聞の記事

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中国なら間違いなく死刑だったと江秋蓮は判決に不満を表していたが、まだ肝心な奴が罰を受けずに残っている。

娘が殺される原因を作っておきながら、のらりくらりと責任逃れをし続けた劉鑫だ。

劉鑫に対する訴訟も、起こさないわけにはいかない。

許しがたいことに、劉鑫は全く反省していないどころか、面会の後にも偽名を使ってネット上で江秋蓮のことを「クソババア」だの「全部金のためだ」などとののしり、あまつさえ「あたしはアンタの娘の生前の写真いっぱい持ってるよ。アンタにはやらないけどね」などと、直接メールを送ったりして挑発していたのだ。

しかもその後、このクソ女は名前を劉暖曦と変え、SNSで30万人超のフォロワーを持つインフルエンサーとして成功、広告収入やライブ配信の投げ銭などで、のうのうと人生をエンジョイしていることが判明する。

おまけに、時々事件をネタにしているというではないか。

こんなふざけた奴を、罰しないわけにはいかない。

2018年1月12日に中国へ帰国した江秋蓮は、弁護士に協力を要請して訴訟の準備を行い、2019年10月28日、劉鑫に対して生存権に関する民事訴訟を提起する。

裁判が始まったのは2020年4月15日。

この訴訟で、江秋蓮は劉鑫改め劉暖曦に、死亡した娘の死亡賠償金、葬儀費及び精神的苦痛への慰謝料合計207万610元(現在のレートで約4140万円ほど)を要求した。

一審判決は2022年1月10日に下され、裁判所は劉暖曦に対して約70万元の賠償金支払いを命じた。

要求額の三分の一だったが、江秋蓮は2022年1月19日に一審判決を受け入れて控訴しないことを表明した。

しかし、1月24日になって、あきらめの悪い劉暖曦は一審判決を不服として控訴。

青島市中級人民法院(地方裁判所)で、2月16日から審議が始まった。

とはいえ、中国の司法も言われているほど非情ではない。

むしろ許しがたい行いをした者には、きっちりしている。

2022年12月30日、青島市中級人民法院は、劉暖曦の控訴を棄却。

一審判決を維持し、なおかつ裁判にかかった費用10760元を上乗せして支払うことを命じた。

母の戦いは終わった。正義はようやく果たされたのだ。

ちなみに、劉暖曦は払わされることになる莫大な賠償金を得るために、現在の心境を語った文章をSNSで公開して投げ銭を集めており、驚くべきことに、少なからぬ金額が集まったらしい。

人口が多いと、こんな奴をフォローするばかりか、投げ銭までする変わり者が、まとまった数出てくるようだ。

もっとも、その後、劉暖曦のSNSのアカウントは反社会的であることを理由に削除されて、永久追放となってしまった。

いい気味である。

2023年8月12日、江秋蓮は支払われた賠償金を使って「江歌专项助学基金(江歌特別奨学基金)」という基金を設立した。

学生を支援するための基金である。

経済的苦境から勉学を断念せざるを得ないような若者が、江秋蓮の目には、志半ばで命を落とした娘の姿に重なっていたようだ。

江歌を助けられなかった分、彼らを息子や娘と思って助けてあげなければならない。

その思いから立ち上げたのではないだろうか。

同時に、江秋蓮は江歌がこれからも自分の心の中だけでなく、この基金が存続する限り、人々の心の中で生き続けることを願っているのだ。

出典元―小郭历史、現代ビジネス、朝日新聞

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2023年 中国 復讐 河南省

君子報仇(二)十年不晩 ~中学時代の怨師に二十年越しのお礼参り・2018年中国河南省~

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学校に通っていた頃を思い出すと、教えを受けた教師の中には「怨師」と言わざるを得ない者がいる。

恩師ではない、怨師だ。

学生時代の自分を導いてくれて、終生その恩を忘れるべきではないのが恩師だが、怨師はその真逆。

自分を目の敵にしているとしか思えず、感情的になって面罵してきたり、あるいは体罰を加えてきたり、はたまた同級生の前でさらし者にしたりした教師のことだ。

多感な時期に屈辱的な思いをさせられ、何年たっても、あれは個人的な好き嫌いからヒステリーを起しただけだとし考えられないし、今の自分のためにも一切なっていないから思い出しただけで腹が立ち、許すことができない奴のことである。

拙ブログの著者も何人か心当たりがあり、今からでも遅くないから、お礼参りをしてやりたいものだとすら考えたこともある。

そんな筆者が時々夢見るようなことを本当にやってしまった男が、お隣の中国にいた。

実に痛快なことをやってくれたもんだ。

さぞかし爽快な気分になれたことであろう。

だが、そうではなかったようだ。

6.8億回再生された動画

2018年12月中旬、ある一本の動画が中国中を席巻した。

路上で30がらみの男が50代のスクーターに乗った男を呼び止め、何事かなじりながらビンタをくらわせている動画だ。

街中などで発生したもめごとや騒動を、居合わせた通行人が撮影して動画サイトやSNSにアップすることは中国でもよくあることだが、この事件はただの暴行事件ではなかった。

ビンタを食らっている方は張清林という名の中学教師で、ビンタをくらわせている方の30男は、常仁堯という張の元教え子だったのだ。

中国では、日本とは比べものにならないほど教師を尊重する伝統があり、その権威も高い。

その反面で、教師は生徒に遠慮なく体罰をふるう傾向があることが問題視されてきた。

加害者の常仁堯は、中学時代に被害者の張清林に手ひどく体罰を受け、この動画はその報復を20年越しに果たしたところを撮影したものなのだ。

だったとしても、教師に卒業後の教え子が手をあげる動画は中国社会では衝撃的なものであったらしく、6.8億回再生されるほどの注目を浴びた。

のこの行動には賛否両論があったが、上記の中国ならではの社会的背景もあって、学生時代に体罰を受けた者、もしくは現在進行形で受けている学生の共感もあったようだ。

担任だった相手を20年も昔のことで、あまつさえ公衆の面前でビンタまでするか?と思う方もいらっしゃるかもしれない。

だが、以下に記す常仁堯が実際にされたことを本当にわが身に置き換えることができたとしたら、あなたはそう言えるだろうか?

体罰四天王

加害者の常仁堯は1985年、中国河南省洛陽市欒川県で生まれ、早くに両親が離婚して家庭が貧しかったために恵まれない幼少時代を過ごした。

欒川県実験中学

小学校を卒業した後は、家から遠く離れた欒川県実験中学に入学。

家庭環境が良好ではなかったとはいえ、特に問題行動を起こす生徒でもなかった彼は、順当に一年生を修了する。

だが、1998年に二年生に進級したとたん、学校生活は暗闇に包まれることになった。

それは、担任教師が張清林だったからだ。

当時の実験中学の生徒たちの間では、「体罰四天王」という言葉がささやかれていた。

それは、生徒に加えるせっかんが特に激しい四名の教師を指していたのだが、張清林はそのセンター的存在であると恐れられていたのである。

まだ30代で血気盛んだったはトガリまくっており、生徒に圧倒的な威勢をふるうことこそ教師のあるべき姿と勘違いしていたらしく、ちょっとしたことでもキレて、生徒をズタボロにするまで体罰を加えることで有名だった。

何をしに学校に来ているかわからない者は、生徒の側だけでなく、教師の側にもいるようである。

そんな暴力教師に、常は目をつけられてしまった。

彼は素行不良で反抗的な少年では決してなかったのだが、張清林の目には、カンに触る生徒と映ってしまったらしい。

は英語教師で、常が英語を苦手科目としていたできの悪い生徒だったのもあるが、そんな些細なことも含めて、しょっちゅう体罰の餌食にされるようになる。

大声で罵倒されるわ、ビンタは食らうわ、蹴りは入るわ、棒で突かれるわ。

それもクラスのみんなの前だったから、さらし者にされたのメンツはズタズタになった。

また、は暴力的だっただけではなく、陰険な教師でもあった。

の家庭は貧しくて、学費を払うのにも一苦労だったために支払いが遅れることがあったのだが、は「誰だろな、学費も払ってない生徒は?全く、払うモン払わないなら、学校に来るんじゃないってんだ」と、をにらみながらクラスメイト達の前で嫌味を言ったのだ。

家庭環境を公開でなじられたも同然であり、これには我慢を重ねてきたも耐えかねて、この一件を今までのことも含めて校長に直訴した。

どう考えても、担任によるいじめ以外の何者でもないからだ。

さすがのも校長から注意を受けたらしく、その後はあまりあからさまなことはしてこなくなったが、その裏で教師にあるまじき嫌らしい腹いせをしてくるとは思わなかった。

クラスの中で一番ケンカの強そうな生徒に「がふざけたことをしたら殴ってもいい。先生が許す」と、そそのかしていたのである。

幸いその生徒は良識のある男で、お墨付きをもらったのを幸いに常仁堯を殴ることはなく、むしろ張清林に言われたことを、そのまま常に伝えた。

はこの世に神も仏もないのか、という気持ちになったはずだ。

だからと言って、学校で自分が担任からどんな扱いを受けているか家で言うわけにもいかない。

前述のとおり、中国では教師が日本以上に聖職者視されており、それをかさに着て、のように暴走する教師は少なくはないのだが、親も自分の子供が不当な扱いを受けても、苦情を言いにくい風潮がある。

教師をやっているほどの人が間違っているはずはないという思い込みもあるし、学校に苦情を言おうものなら、子供がより不当な目に遭わされることが中国社会の現実として、大いにあり得たからだ。

最悪の中学生活だった一年間が終わって三年に進級すると、クラス担任も変わった。

の体罰に怯える日々から解放されたが、思春期の心に刻まれたトラウマは消えなかった。

そして、それは中学を卒業してからもの心に残り続け、20年後の2018年の夏に爆発することになる。

君子報仇(二)十年不晩

常仁堯は中学を出た後、高校、大学と順当に進学・卒業して社会に出た。

浙江省杭州市に住んで自営業を軌道に乗せ、結婚して子供も生まれていたから、はた目には非の打ちどころがないような人生を歩んでいると言えよう。

だが、彼は夜な夜な悪夢にうなされていた。

それは、中学時代に張清林から体罰を受ける夢である。

中学二年生の時の出来事は、トラウマどころか心的外傷ストレス障害にすらなって、常を苦しめ続けていたのだ。

彼は昔のことを引きずりすぎる性格だったんだろうか?

「昔のことなんだから忘れろ」とか、「気にしすぎないようにした方が良い」などとでも言ってやるべきなんだろうか?

そんなことを軽々しく言う者は、本物の体罰に遭ったことのない奴か、人の気持ちを一切考えようとしない無神経極まりない奴、はたまた、体罰を快感と感じる変態だろう。

過剰な体罰に愛は一切ないのだ。

やった方にあったとすればそれは思い上がりであり、やられた方は、理不尽な暴行を加えられたとしか思わない。

そして、それを忘れることはできないのだ。

後に分かったことだが、張清林の体罰の餌食になった者は、常仁堯以外にも数多く存在した。

同級生の中にもこっぴどく殴られたことがある者が何人かおり、その多くが卒業してからずいぶん経つが、いまだに許せないと口をそろえていたという。

だけが、特別だったわけではないのである。

2018年、そんな中学時代のトラウマをぬぐいさることができぬまま33歳になっただったが、同年、思い出したくもない記憶を植え付けてくれた本人の張清林に再会する日が訪れる。

それは全くの偶然だった。

その日、蒸し暑い2018年7月某日、故郷である河南省洛陽市に帰郷していたは、地元の友達と魚釣りをしようと車を運転していたのだが、途中で釣り道具を忘れたことに気づく。

取りに戻ろうと考え、欒川郷双糖村19号の路上に車を停めて、何気なく路上に目をやった時だった。

常の目が、電動スクーターに乗ってこちらに向かってくる50がらみの男性の姿を何気なくとらえたのだが、その男の顔を見た瞬間に、彼の頭に過去の記憶が一気にフラッシュバックしたのだ。

20年以上前に起こり、今も彼を苦しめる中学時代に受けた体罰の記憶。

その体罰を加えてきた男、張清林の顔だ。

頭が禿げ上がり、年輪を刻んで年相応の顔になっていたが、あの顔は間違いない。

はとっさに一緒にいた友人に、これから自分がやることをスマートフォンで撮影するように頼んでから、何かに憑かれたかのように車を降りて、やって来るそのスクーターの前に立ちはだかった。

は周囲の評判によると決して乱暴者ではなく、紳士的でいつも穏やかであることが多い男である。

だが、この時は様子が明らかに変わっていた。

張清林か?」

常は、突然進行を妨害されて、怪訝な表情をする50がらみの男に尋ねた。

「そうだが」

なおも怪訝な顔をして中年男が答えた瞬間、常の表情が豹変し、普段の彼からは想像できない行動に出る。

你妈的以前咋削我,还记不记得(テメー、むかし俺をどんなふうにぶったか覚えてるか)!?

そう叫ぶや、ビンタをくらわしたのだ。

いきなり顔を張られた張清林は唖然としたが、はなおもビンタを張り続ける。

十几年过去了知不知道(十数年くらい前のこと知ってるか)!?以前咋削我还记不记得(むかし俺をどんなふうにぶったか覚えてるか)!?

なじられながらビンタを何発か食らったは無抵抗であり、それどころか、

对不起(すまない)と謝罪した。

20年前からは考えられない、しおらしい態度である。

だが、はまだ収まらない。

对不起(すまないだ)?早干什么去了(いまごろになってか)!!你妈的咋当的教师(テメー何で教師やってやがったんだ)!?

の表情も言葉遣いも普段の彼からは全く想像もできないほどの剣幕であって、それは20年間溜りに溜まった鬱屈した思いが一気に決壊したかのようだったのだ。

車道上だったために、にスクーターを路肩へ移動させたが、そこでも中学時代に自分が受けた仕打ちについて非難し、のスクーターを蹴り倒した。

この一連の報復劇は、集まって来た野次馬のうちの何人かが、仲裁に入って常が冷静になるまで約9分間続いたという。

その模様は、先ほど常に撮影を頼まれた地元の友達が記録していた。

と言っても、後にが語ったところによると拡散させるためではなくて、20年前に受けたトラウマを吹っ切る一助にするための記録にしようとしたという。

が落ち着いてようやくビンタと罵声から解放されただったが、大勢の前でひどい目に遭わされてしょげかえり、肩を落として帰って行った。

中国には『君子報仇十年不晩』、すなわち『君子たるもの、復讐するのに10年かかっても遅くない』という言葉があるが、は20年かかって復讐したのである。

だが、20年間の鬱屈した思いをはらしたは、すっきりしたわけではなかった。

しばらくしてから、自分がにやった行動は正しかったのか?と思い始めるようになったのだ。

それは徐々に大きくなり、やがて撮影した動画によって、とんでもない騒動が起きることになった。

拡散された動画

ビンタをくらわせた時の張清林は、すっかり丸くなった50過ぎの中年男であり、中学時代の自分に体罰を加えてきた頃のような凶悪さはなくなっていた。

殴られても無抵抗だったし、非を認めて謝罪もしてきた。

何もあそこまでやらなくてもよかったのではないか?

いやいや、この20年間ずっとあいつの顔が頭から離れなかったんだ。

全部あいつのやったことが招いたんじゃないか。

お礼参り以来、常仁堯の心の中に、そのような葛藤が生まれたようである。

確かに思春期のトラウマは消えたが、取り返しがつかないことをしてしまったような気がしてすっきりしない。

その葛藤を振り払おうとしたのだろう。

は本来、自身の思春期時代のトラウマを落ち着けるためだけに撮影してもらった動画を、同じく中学時代にこっぴどくから体罰を受けたことのある同級生の楊某に送信する。

同じトラウマを持っているはずの人間と動画をシェアすることによって、自身のやったことの正しさを確認しようとしたようだ。

だが、これが間違っていた。

動画を送った際に「他の人間には見せないでくれ」とくぎを刺したが、その手の約束は、往々にして破られるものである。

もそういう約束を守らないタイプであって、その動画を同じく同級生の辛某に送信してしまったのだ。

辛は自分の大親友だから、特別だとでも思ったのだろう。

しかし、このはもっとタチが悪かった。

自身のSNSにアップしたりして、のお礼参り動画を拡散させてしまったのだ。

この元教え子が教師を殴るという動画はSNSのユーザーたちに衝撃を持って受け止められ、シェアにシェアが重ねられてみるみる拡散。

さらに、その過程で動画は切り抜かれて一分程度になり、それも一番の見せ場ともいうべきをののしりながらビンタしている場面だけになってゆく。

こうして前述のとおり、中国全土で6.8億回も再生されるほどにまでなってしまったのだが、この動画を目にして激怒した者たちがいた。

の通っていた実験中学の教職員をはじめとした欒川県の教育関係者たちだ。

彼らはすぐに殴られているのが欒川県実験中学の教師・張清林だと分かり、警察に通報した。

ただ、当の本人である張清林は被害を一切訴えておらず、に顔をビンタされてアザを作って帰宅した際は家族に「バイクで転んでしまった」とごまかしていたという。

なおかつ、この一件は彼にとって重大な精神的打撃となっていたようだ。

かつての教え子に公衆の面前で仕返しされること自体恥ずかしいことであるし、何より自分がなぜこんな目に遭ったのか彼にも分かっていたからである。

しかし、欒川県の教育関係者たちはそうはいかない。

いくらひどい体罰を受けていたとはいえ、かつての教師を殴るとは、教育界への許しがたい挑戦だと憤慨していた。

こんなことを許しておけば、自分たちもお礼参りされてもおかしくない。

関係者は常仁堯のことを「ヤクザ、ゴロツキ、社会のゴミ」とまで言って告訴。

年末になって、ここまでの大騒動になってしまっていることに驚いたはネットの掲示板に「自分の行いが良くなかったのは分かっているが、どうしても中学時代のことが許せなかった」という旨の声明を発表したが、すでに警察は動き出していた。

2018年12月20日、常仁堯は逮捕される。

身柄を拘束されたのは彼の住む杭州市の杭州駅、自ら出頭しようと故郷への列車に乗り込む直前だった。

その後

翌2019年8月、常仁堯は寻衅滋事罪(騒動挑発罪)で懲役1年6か月の実刑判決を受けた。

いくら犯罪者に厳しい中国でも、ビンタを張っただけでこれほどの刑が科されることは通常ない。

欒川県の教育委員会の意向が量刑に大きく影響したのだと思われる。

一方で、判決前には主にの故郷の人々を中心に、減刑の歎願が行われていた。

自営業で成功していた常は、高校時代の恩師が病気になった際には気前よく治療費を差し出すなど恩には必ず報いる男で、決して教師そのものを目の敵にしていたわけではなかったし、貧しい故郷の人々の援助を惜しまない人格者だったからだ。

だが結局判決は覆らず、懲役1年6か月が確定。

は刑務所に入れられてしまった。

翌年2020年6月19日、常仁堯は刑期を満了して出獄する。

刑務所の門の前には妻が迎えに来ており、さらには少なからぬ記者まで集まってきていた。

この一件は、それほど社会の注目を浴びていたのだ。

犯歴がついてしまっただが、支持する者は多く、彼は現在でも自営業で生計を立てている。

ただ、彼は2018年に自分が張清林にやったことを悔いているようである。

出所後に受けた記者の取材に対して「過去に何があったとしても、暴力で報復したのは間違っていた」と語っていたのだ。

それは1年半もの間、刑務所で服役させられたからだけではない。

は確かに20年前は手の付けられない暴力教師だったが、長い年月の間に人間的に成熟したらしい。

ビンタ動画が話題になった時期、彼の教え子だった生徒に「って奴は、あんないい先生に何でこんなことするんだ」と言わせるほど温厚で生徒に好かれる教師に変貌していたのである。

いくら昔ひどい体罰を受けたからといって、そんな人物にビンタをくらわしたのは、やりすぎだったとは感じていたのだ。

何よりにも家族がいて、彼らも傷ついたはずなのは、自分にも家族がいるからよく分かる。

「やらずに後悔するよりも、やって後悔する方が良い」という言葉が存在するが、の場合は行動を起こさなかったことの後悔より、行動を起こしてしまったことの後悔の方が大きかったようだ。

長年の恨みを晴らしたら、さぞかし気分が良くなるだろうと、やったことのない人間には思えるが、いざ本当にやってしまった人間に言わせれば、大きなむなしさと悔恨が残るものだということをは身をもって教えてくれたのかもしれない。

出典元―YouTubeチャンネル『英大吉來了』

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2023年 世界平和 中国 化学 科学

ブラックホール爆弾が出現する日は来るか?

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ブラックホールとは、質量の巨大な恒星が超新星爆発後、自身の重力によって極限まで収縮して生成されたり、巨大なガス雲の収縮で生成されるものであり、極めて高い密度と強い重力のために物質のみならず、周囲の時間と空間、光さえ脱出することができない天体であることは皆さんご存じのことであろう。

それほどの力を持つブラックホールであるが、それを何らかのエネルギー源として利用できないかと考えるぶっ飛んだ発想は古くからあった。

数理物理学者のロジャー・ペンローズ氏などは、1969年にブラックホールからエネルギーを取り出す方法として、「ペンローズ過程」と呼ばれる理論を提唱している。

ロジャー・ペンローズ氏

これはゴミを容器に入れて、回転するブラックホールのエルゴ球と事象の地平線の間に投入して、ゴミはブラックホールに捨てて容器のみを回収した場合、質量とエネルギーの等価性により「ゴミの質量+ブラックホールの減少した質量」に相当するエネルギーが容器を加速させることから、発電が可能というものだ。

むろん、こんなものはあくまで仮想的方法であって、現在のテクノロジーでは不可能なのは言うまでもない。

だが、エネルギー源として利用しようと考えるならば、同時に兵器としても利用できると考えてしまうのが人類のようである。

中華人民共和国の検索エンジン・百度のオンライン百科事典である『百度百科』において、そのブラックホールの力を利用した兵器「ブラックホール爆弾」が取り上げられており、しかも将来実現する可能性があるか否かについて、SFではなく大真面目に論じているのだ。

拙ブログでは、その攻めた内容をご紹介させていただく。

ロシア人科学者の予言とその説

まず「ブラックホール爆弾」とは、ブラックホールに投入したエネルギーが増幅されて戻ってくる連鎖反応を利用した物理的効果を指す。

当然、巨大なエネルギーを持っているこの「ブラックホール爆弾」であるが、何と百度百科において50年後には実現可能となり、現代の人類の心胆を寒からしむる原子爆弾をチャチなおもちゃに陳腐化し得るであろうと予言した人物がいることが紹介されている。

その人物の名は、ロシアの科学者アレクサンダー・トロフィメンコ氏。

トロフィメンコ氏によると、人類が反物質であるオトン(otone)の謎を解明した日には、原子力というテクノロジーを手に入れた後のように、この新しいエネルギーを発電に利用し、同時に新型兵器——「ブラックホール爆弾」の開発に用いることになるであろうというのだ。

発電に利用した場合、原子核サイズのブラックホールは、原子力発電所のそれを大きく上回るエネルギーを有するが、兵器に使われた場合、一発の「ブラックホール爆弾」の破壊力は大量の原子爆弾の同時爆発に匹敵し、10億人以上を死に至らしめることができるために瞬時に地球をも破壊できることを意味する。

それに比べたら、核兵器の危険性など取るに足らないものとなるはずだ。

だが、そもそもブラックホールとは、はるか遠くの何光年も先の宇宙空間に存在し、地球には関係のないところにあるものではないだろうか?

ところがどっこい、前述のトロフィメンコ氏の説では、宇宙のブラックホールのミニ版——「マイクロブラックホール」は地球上どこにでも存在し、人類に多くの災難をもたらすというのだ。

また、他のロシアの科学者の中にも、地球上で起きる自然現象のいくつかがマイクロブラックホールと関係があると考えている人物もいる。

例えば火山の噴火だが、火山活動のエネルギー及び熱量は地球上の特定の地点に集中しており、尽きることがないのだが、これは、太陽のエネルギーがブラックホールを通じて地球の深層部に伝わっているからではないかということである。

さらに、太陽には核エネルギーだけでなく、マイクロブラックホールも存在し、他のどの惑星の内部にもマイクロブラックホールはあるのではないかという説まで提唱されているらしい。

そして、ブラックホールは自然界に存在するだけでない。

「人工ブラックホール」を作り出すことは可能だと、トロフィメンコ氏は主張する。

ちなみにこの「人工ブラックホール」という発想は、最初1980年代カナダのブリティッシュコロンビア大学のウィリアム・ウンルー教授によってもたらされた。

教授は、音波が流体において示す動きは、光がブラックホールで見せる動きと非常に似ていると考え、流体の速度が音速を超えたら、その流体において人工ブラックホールとも言うべき現象が成立すると考えたのだ。

そして2001年1月、英国セント・アンドルーズ大学の著名な物理学者ウルフ・レオンハート博士の研究グループが、実験室内でブラックホールを作り出すことに成功したと主張。

しかし、レオンハート博士が作り出そうとした人工ブラックホールは十分な重力に欠けたため、本物のブラックホールのように光線をはじめ、周囲の全てのものを飲み込むことができず、当時はあまり注目を浴びることはなかった。

どうやら、トロフィメンコ氏が全てを飲み込む本物のブラックホールが将来的に実験室で作り出せると考えている根拠は、このレオンハート博士の実験から来たようだ。

こうして氏は、ロシアの新聞「プラウダ」で、ブラックホールは実験室にとどまらず、50年後には膨大なエネルギーを有する「ブラックホール爆弾」が、核兵器とは比べものにならない脅威として出現しているだろうという前述の予言をしたらしい。

だが、それに対して、主に中国の科学者の間から大いに疑問の声が挙げられた。

懐疑論

まず、中国科学院原子核研究所の研究員である沈文慶氏が、上記の説に対して疑問を呈した。

沈氏によると、「人工ブラックホール」を形成するための方法として、二つ以上の粒子を粒子加速器の加速によって衝突させて強大な吸引力を有するブラックホール様の物質を形成することが挙げられるが、このような方法で生成した物質をブラックホールと呼ぶことができるか否かについてのコンセンサスは、まだ得られていないという。

沈文慶氏

しかも、これらブラックホールに近い物質は、いまだに理論上の産物であり、地球上のいかなる実験室においても完成品を作り出すことに成功していない。

沈氏は「たった50年で、人工ブラックホールからブラックホール爆弾を製造できるようになるというのは現実的ではないですね。1%の可能性をもって100%できるはずというのは間違いであり暴論でしょうな」と一笑に付した。

天文学の専門家である南京紫金山天文台の研究者・王思潮氏も、人工ブラックホールはSFの領域を出ていないと主張している。

人工的にブラックホールを作り出そうとするならば、まず解決しなければならないのは、物質の分子や原子の間の間隔を小さくして質量を巨大にすることであり、質量が大きくなれば、万有引力の法則により、その物質の引力も巨大になり、近づく物質を吸収するようになる。

だが、現状では物質の質量を改変する装置は存在せず、できることと言えば、物質の原子核を圧縮して中性子の状態にすることであり、それですら困難であるため、密度が巨大なブラックホールならばなおさらではないかと、王氏は冷静であった。

次に、たとえブラックホールを作り出したとしても、いったいどんなキャリアを使ってブラックホール爆弾にするのか?ブラックホール爆弾を、どのような装置と方法で輸送及び保管するのか?

確かに威力は破滅的だが、現代のテクノロジーでは、持っている方がまず破滅するだろう。

中国科学院高エネルギー物理学研究所の科学者も、具体的な研究の進展はともかく、現時点でのテクノロジーでは、50年かかってもブラックホール爆弾が出現することはないだろうとしている。

上記の反論から見る限り、ブラックホールに対する認識は、ブラックホールがありうる場所があるという程度のものであり、この程度で、50年間以内にブラックホール爆弾が誕生するというのは絵空事であるようなので、ひとまず安心だ。

だが、50年後は無理でも100年後か200年後はわからない。

危険だから研究するなと言っても、研究するのが人類だ。

しかし、どうせやるなら地球上ではやらないでほしい。

頼むから最低でも太陽系外でやってくれ。

出典元——百度百科『黑洞炸弹』

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壮大にスベった下ネタが招いた騒動 ~2003年・西安留学生寸劇事件

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。

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2003年10月30日、中華人民共和国陝西省西安市にある西北大学外国語学院で、前日の29日に開催された演芸会『第三届外语文化节(第三回外語文化祭)』に出演した日本人留学生三人の寸劇をきっかけとして、同大学の学生たちを中心とした反日デモが発生した。

デモは、西安市内の他の大学の学生たちも合流してより激化。

学生たちは、留学生が暮らす留学生楼を取り囲んだばかりか、内部に乱入して、器物を破壊したり日本人留学生を殴るなど暴徒化し、ついには、西安の中心部で市民まで加わって、日本料理店を襲うなどの反日暴動に発展した。

なぜ、こんなことになってしまったのか?

ここまでの騒動の発端となった日本人留学生の行った寸劇は、何が問題だったんだろう?

イタすぎるパフォーマンス

現在の西北大学

この騒動のきっかけとなった寸劇は、『第三届外语文化节(日本での報道時は『文芸の夕べ』と訳された)』と称する演芸会で行われた。

同演芸会は「第三」となっているように、毎年秋の深まったこの時期に開かれるようになった催しであったらしい。

その主催者は、西北大学の共青団支部。

共青団とは中国共産主義青年団の略で、中国共産党の指導の下で14歳~28歳の団員を擁する組織であり、つまりは、お堅い団体だ。

そんな堅い団体が主催する演芸会であるために、企業もスポンサーについたりして、その演目も堅く、胡弓の演奏などまじめで格調が高いもので出し物は占められていた。

2003年10月29日、西北大学の礼堂で午後7時から始まった同演芸会の観客は、ほとんどが中国人学生であったのは言うまでもないが、日本人留学生ら10人程も混じっていたようである。

そんな演芸会もたけなわとなった午後8時過ぎ、日本人の演目者が現れた。

会場となった西北大学で日本語講師をしている吉田正伸(仮名・26歳)だ。

吉田は、180cmほどもある西洋人のようなマネキンを持って登場。

彼が行ったパフォーマンスは一人二役の腹話術であり、ありていに言えば、可もなく不可もなく反発を買うようなものではなかった。

吉田の演目が終わった後も日本人で、同大学の日本人留学生の菊池宏尚(仮名・26歳)、谷内慎(仮名・22歳)、坂本春仁(仮名・21歳)の三人である。

しかし、この三人こそがいけなかった。

彼らの演目が、後の騒動のきっかけを作ることになるのだ。

まず、出てきて早々、観客たちは「!?」となった。

彼らのいでたちが異様だったからだ。

その場にいた者によると、三人ともTシャツの上に赤いブラジャー、股間に男性器のような紙コップをつけ、ダンボールで作ったロボットの被り物をかぶり、その上には「寿司」、「毛沢東」、「謝謝」、「中日友好」、「看什么?(何見ているの)」とか、何を言いたいのかわからない文字が、つらつら書いてあったという。

想像図

後で、本人である菊池たちが語ったところでは、「西安に現れた、ナーと鳴く異星人」という設定のコスチュームだったらしいが、だったとしても、意味不明すぎるしイタすぎだろう。

そして、壇上において菊池、谷内、坂本扮する三匹の宇宙人は、中国語で寸劇らしきものを始めたのだが、

「你什么名字?(あなたの名前は)」

「什么?(何?)」

「ナー!」

というやり取りが行われた後、手をつないで背中を見せて「ナーナーナー」という効果音だけの節にあわせて、不思議な踊りを始めた。

三人は背中にそれぞれ、「中国」「♡」「日本」と書いた紙を貼っており、踊りの途中でブラジャーの中からお菓子を取り出すと、観客に向かってそれを投げ始めた。

プログラムには、菊池たちの演目は「日本舞踊」とされていたようだが、そうだったとすれば前衛的すぎるし、日本文化に対する極めて重大な挑戦だろう。

会場にいた中国人学生ら観客は、どう反応すればよいかわからず、冷ややかに沈黙。

「日中友好」を表現したかったのと、下ネタに走ってウケを狙っていることは何とか理解できそうだが、会場は誰一人クスリともせず明らかに白けきっていたと、現場に居合わせた日本人留学生の一人は、後に証言した。

唯一伝わっていたのは、この寸劇もどきの芸が、お下劣極まりないということである。

赤いブラジャーと股間の紙コップは決定的すぎた。

ましてや、ここはポルノ規制に厳しい中華人民共和国真っただ中なのだ。

ほら、拾え!とばかりに、菓子を投げつけるのもいただけない。

お堅い主催者側は、これ以上の演出は見るに堪えないと判断し、この恥ずかしい演目が始まって三分後には、大学の職員らが演目の途中で舞台に上がってきて制止し、痛々しいパフォーマンスを強制終了させた。

下ネタでスベったら、目も当てられない。

何より、最初の吉田の腹話術はともかく、菊池たちの芸がふざけすぎだったのは、他のまじめな演目を見れば明らかで、バカにするなと怒られても文句は言えないだろう。

しかしこの時、観客の学生たちは確かにドン引きしてはいたが、怒り出す者が続出して騒動になったということは、なかったようである。

この盛大にズレた芸をやった三人は「ウケないばかりか退場させられた」と落ち込んでいたというが、自分たちによって、後に日本側で『西安留学生寸劇事件』、中国側で『2003年西北大学反日风波』と呼ばれる騒動に発展するとは、予想だにしていなかった。

抗日祭りの始まり

異変は、翌日の朝早々に始まった。

西北大学にやって来た日本人はじめ、各国の留学生の寮となっている留学生楼の周りを西北大学の学生たちが取り囲み、建物にポスターを貼り始めたのだ。

そのポスターに書かれていた文章には「日本猪」「倭猪」「日本杂种滚」などの明らかに日本人を罵倒する文字が混じっており、さらによく読めば、昨晩の演芸会で行われた醜態について文章で説明されている。

さらには「滚出(出ていけ)」などと結んでいたりして、穏やかでないこと極まりない。

当時の大字报(壁新聞)

昨日の菊池たちのパフォーマンスに、怒って抗議しているのだ。

そしてポスターをさらによく読むと、腹話術という無難なパフォーマンスをしただけの日本語講師・吉田も、一味の者どころか首謀者として糾弾されていた。

ちょうどその頃、そうとは知らない吉田は西北大学に出勤しようとしていたが、出くわした教え子の一人に「先生!危険だから外に出ないでください」と、真剣な顔で忠告されたという。

中国の大学は全寮制だ。

寮では昨晩から今朝にかけて、昨日の寸劇が中国をバカにしていると学生たちの間で反日機運が高まっており、抗議行動の準備をしていたらしい。

また、留学生楼だけでなく、西北大学内のあちこちに昨晩の醜態を非難する「大字报(壁新聞)」が貼られ、留学生を除く学生の多くが学内で起きつつあることが、何かを理解していた。

対応が遅かったりして、日ごろから留学生の評判が悪かった西北大学当局も、さすがにこの異常事態を静観するわけにいかず、学生たちにポスターをはがすように指導したが、学生たちは拒否。

自分たちの行動が、愛国心によるものだとうそぶいた。

授業が始まると学生たちは講義に出席したが、昼過ぎや午後の授業が明けると再び留学生楼にやってきて、抗議のシュプレヒコールを上げる。

「给我们出来道歉(出てきて俺たちに謝れ)!」

彼らが要求するのは、昨晩の演芸会に参加した吉田と菊池たちの謝罪だ。

同じ頃、騒動を招いたのは自分たちだと分かって責任を感じていた菊池たちは、「謝りたい」と大学当局に申し出ていたが、当局の答えは「事到如今已经晚了(こうなったらもう遅い)」だった。

そして、この騒動を招いた元凶として、一方的に日本語講師の吉田の解雇と留学生の菊池、谷内、坂本の退学を発表する。

破廉恥なパフォーマンスには全く関わっていなかった吉田は完全なとばっちりだが、大学側は留学生を監督する責任があったとみなし、その不行き届きを問われたのかもしれない。

そんな発表をしても学生たちの数はますます増え、紙で作った日本国旗や日本猪(ブタ)と書かれた人形を燃やしたりと行動は過激化。

午後5時には、ヒートアップした学生の一部が留学生楼に乱入した。

留学生楼には警備員がいたが、数にモノを言わせて押し寄せる学生たちを防ぐことはできず、暴徒と化した学生たちは、「日本人狩り」を開始する。

彼らが7階建ての留学生楼の4階に殺到すると、日本語の文字を染め抜いた「のれん」を下げている部屋を発見。

日本人の部屋に違いないと判断し、ドアを蹴破って侵入すると、案の定室内でオロオロしていたのは、日本人と思しき女だ。

暴徒の一人は、その女の顔面にパンチを見舞う。

「为什么打我(なぜ殴る)?」

殴られた女子留学生は口から血を流し、半泣きになって抗議すると、

「废话!就是因为你丫的是个鬼子(決まってんだろ!てめえが日本人だからだ)!!」と吠えられた。

なだれ込んだ学生たちは、他の部屋でも室内をめちゃくちゃに荒らしまわるなど大暴れしたが、後からやって来た大学の教員たちに説得されて、この時は一旦留学生楼から退出してゆく。

しかし、これで終わりではない。

外では西安大学、西北理工大学、西安交通大学、長安大学など西北大学以外の西安市内の他校生たちが、助太刀とばかりに五星紅旗と自分たちの所属大学を記したプラカードを掲げて集まって来ていた。

「抗日祭り」に加わりに来たのである。

国家公認の敵である日本から来た奴ら相手だから、こんな面白そうなことはないのだ。

ただ単に暴れたいだけなのに、自分たちが崇高なことをしていると思い込んでいるからタチが悪い。

小癪な愛国心に燃える西北大学の学生どもは、他校生の参加を歓声で出迎えて歓迎し、学校の違いを超えた邪悪な一体感が形成されつつあった。

中には「これはやりすぎだ」と理性的な学生もいたが、大多数の威勢の良い連中は「せっかく盛り上がっているのに空気を読め」とばかりに、その者を「国賊」呼ばわりして集団でボコり始める。

そして、21世紀の義和団気取りの無法者たちによる二回目の攻撃が始まろうとしていた。

集まった学生たち

再び襲われる留学生楼

午後9時くらいになると、ようやく公安が動員され始め、時々先走って留学生楼に特攻する腕白な学生をシメて連行したりしていた。

だが、真面目に仕事をしていたとは言い難い。

留学生楼でおびえていた留学生によると、公安たちは座り込んでタバコを吸っていたりする者が目立ち、本気でこの騒動を抑えに来た感じではなかったという。

また、中途半端に中国人学生を連行したりしたので、学生たちの怒りを逆なでする結果になった。

日が変わって31日になった午前0時、再び、留学生楼が襲われた。

今度は、一回目より人数が多い。

先ほどの攻撃で殴られて顔を腫らしたままの留学生楼の警備員たちが、再び立ち向かう。

真面目に仕事をしない公安と違って、彼らは職務に忠実だったのだ。

だが、一回目同様多勢に無勢なばかりか、「中国人なのに日本人の肩を持つ裏切者」と集中攻撃されて倒され、再び建物内への乱入を許す。

この頃には、日本人女子留学生は安全のために複数名がいくつかの部屋に分かれて息をひそめ、その前に男子留学生が盾として居座る配置を取っていた。

そして、日本以外の国の留学生も、この危機を前に動く。

あるアメリカ人留学生は、自分の部屋に日本人留学生を何人もかくまい、ドアの前に立ちはだかった。

中国と同様に、反日国家である韓国からの留学生も日本人留学生を助ける。

母国で兵役を経験していたその青年は、日本人を自分の部屋に入れて、パニックを起こすことなく、ドアにバリケードを築いて防御態勢を取った。

同じ留学生のよしみである。

異国の中国に留学してひとつ屋根の下で暮らす以上、各国留学生たちは、どの国の出身だろうとみな仲間という意識を持っていたのだ。

安全を守るはずの公安が、ようやく学生たちの排除に動いたのは午前一時。

それまで、学生たちは建物内で暴れまわり、壁には穴が開けられて備品はめちゃくちゃにされ、日本人留学生一人が暴行された上に、財布と腕時計を強奪された。

荒らされた留学生楼内部

公安だけでなく、同大学の教職員も学生の排除に協力したが抵抗され、結局、この騒動で日本人留学生一人を含む28人が負傷。

中でも、身を挺して留学生を守ろうとした中国人警備員たちは、顔をボコボコに腫らしていたという。

午前三時、大学側は、安全のために日本人を含む留学生80人を警察の車両などを使って市内のホテルに移動させたが、これに対して学生たちは「何で警察は中国人を捕まえて、日本人を守るんだ」と逆ギレ。

警察車両に投石する者が現れるなど、いわれなき怒りの矛先は、警察にも向いた。

この日、西北大学だけではなく、西安市内の大学も騒動の拡大を恐れて閉鎖されたが、学生たちは、街頭に出て反日デモを開始する。

そのデモには学生だけでなく、悪ノリした一部市民たちも参加して、その数は二千人以上に膨れ上がった。

この頃には、すでに日本人留学生が卑猥な寸劇を行ったことが、市民の間に知れ渡っていたのだ。

それは、29日の夜に西北大学の演芸会で行われたことを批判するビラが、市内にばらまかれていたからである。

ビラには、日本人の芸が中国人を侮辱するものであり、それを先導したのは日本語講師だったと書かれており、作成したのは演芸会の主催者である共青団であることが明記されていた。

どうも、この騒動を煽ったのは、ふざけた芸に怒った共青団だったとみられる。

香港のマスコミもいち早く悪ノリし、三人の留学生は「見ろ、これが中国人だ」という紙を身に着けていたと報道。

インターネットの掲示板や口コミでも尾ひれがついて、日本人留学生の悪行をあげつらうデマや流言飛語がすでに飛び交い始めており、それをダイレクトに伝えたのだ。

大学生以外の市民まで加わったデモ隊は、日系のホテルの前で抗議のシュプレヒコールを上げたり、道中の日本料理店のドアを破壊することまで行った。

完全に、日本憎しの直接行動にすり替わっている。

この2003年当時の西安は、経済発展から取り残されて失業者が多く、学生も将来に希望が見いだせなかったために、イライラしていたようだ。

寸劇事件は、その格好のうっぷん晴らしの形となってしまった。

この騒動は、西北大学が日本人講師の吉田と菊池たち三名の留学生に反省文を書かせてホームページに公開した11月1日の翌日2日になって、ようやく沈静化に向かう。

寸劇に出たわけ

中国人学生たちは、やりすぎだったとはいえ、そもそもきっかけを作ったのは菊池、谷内、坂本の三人が、日本の底辺高校か Fラン大学の学芸会でやったとしても、ブーイングを浴びるであろう醜悪な寸劇をさらしたからだ。

なぜ、こんなセンスのかけらもない連中が、演芸会に出たのか?

どうやら、彼らは自主的に参加したわけではなかったらしい。

この三人は同じ日本人とはいえ、普段からつるんでいるわけではなく、彼らの共通点は日本語と中国語を相互学習する西北大学の学生が同一人物であって、その学生から参加を求められたのだという。

しかも、それは当日の二日前であり、その前に自分たちが参加する演芸会が何をするものなのかということも、三人は知らなかった。

何を演ずるかも前日まで決まらず、困った彼らが、その貧弱な発想力で思いついたのが、前述の寸劇だったのだ。

実は、数年前の留学生と中国人学生合同の飲み会の余興で、日本人男子留学生がブラジャーと網タイツ姿でダンスして中国人にバカウケしたという話を聞いており、何ら考慮することなく、軽い気持ちで同じようなことをすればいいや、と思ったようである。

とはいえ、練習する時間もあまりなく、息も合わない三人に、まともな芸ができるわけはない。

首謀者にされた吉田によると、彼らは、しょっぱなから自信なさそうな様子であったようだ(ちなみに吉田は自主的に参加していた)。

案の定、惨憺たる醜態をさらしてしまい、その後はその後で、大騒動を招いてしまった。

では、出ることを強いられた彼らは、全くの被害者なんだろうか?

いや、彼らにも責任は大いにある。

恥をかくに決まっている演芸会への参加など、最初から断ればよかったのだ。

だが、彼らは中国人学生に促されるまま、出る羽目になった。

中国人の物言いは総じて、日本人に比べたら強圧的に聞こえることが多い。

「演芸会に出ませんか?」ではなく、「演芸会に出てください」と、一方的に要求しているように中国語が未熟だった菊池たちには聞こえたんだろう。

「いや、その…」とか言葉を濁していたら、「なぜ出ないんですか?」とか詰問調でたたみかけられたりして、ビビッて断れなくなってしまったのではあるまいか。

これが欧米人や韓国人だったら「我不干(やらない)!!」とはっきりNOと言ったはずだ。

それができなかった菊池たちは、典型的な日本人留学生だったともいえるが、その日本人らしさが、この騒動につながったのだ。

相手との摩擦を徹底的に避けるあまり、はっきりNOも言えない者が、海外留学などする資格はない。

これから海外留学する者は、彼らを反面教師として、最低限の自己主張をする気概と覚悟を持って赴くべきだ。

その後

この騒動は中国でも報道され、それは、日本人講師と留学生が下品で侮辱的な芸を行ったことに対して、学生たちが抗議活動を行ったというものだったが、留学生楼が荒らされて留学生らが殴られたこと、芸は中国を侮辱するものではなかったことは報道されなかった。

西北大学もこの騒動の戦犯として、吉田の解雇と三人の留学生の退学を早々に決めておきながら、日本人留学生を殴ったのは、抗議活動にまぎれこんだ社会人(中国ではゴロツキを意味する)のしわざと言い張って、学生の処分は行わなかったようだ。

暴れた学生どもはもちろん、都合のいい現地のマスコミも大学も、腹立たしいことこの上ない。

西北大学を追い出された四人は、ほどなくして強制的に帰国させられたが、殴られた女学生を含む日本人女子留学生八人も、自主退学して日本に帰った。

彼女たちは、あの騒動で受けた精神的ダメージが深刻で、これ以上西安に居続けることができなくなってしまっていたのだ。

話は変わるが、本ブログの筆者は、事件の8年前の大学生だった1995年春、この騒動の起こった西安市で、短期留学していたことがある。

だが、日本人という理由で危ない目に遭ったり、文句をつけられることはなかった。

留学していた西安外語学院の学生たちは、我々日本人に対して友好的で、日中戦争について、何らかの文句をつけてくることもなかった。

思うに、1995年時の大学生は小学校や中学校の時分に、愛国主義教育と称した反日教育を受けていない。

反日教育も以前から行われていたが、それが強化されたのは、89年の天安門事件以後だというから、まだ当時の大学生たちはさほど日本人に対して悪い感情を持っていなかったのではないだろうか。

だが、2003年は違う。

義務教育が始まったころから反日教育を受けていた世代が、大学生になっていた。

憎き敵国の奴らが自分たちの国にやってきて、自分たちの住んでいる寮より立派な留学生楼でヌクヌク暮らしているのも、普段から気に食わなかったりしたんだろう。

その考えは断固支持できないが、自分が中国人だったら理解できる気がしないでもない。

その後年になっても、2004年に中国で開かれたサッカーのアジアカップで日本チームに大ブーイングを行ったり、2005年や2010年にも反日デモが行われ、2012年には、日本政府の尖閣諸島3島の国有化をきっかけとして、反日デモ隊が暴徒化し大規模な破壊・略奪行為を行う事件が報道され、国民レベルで日本を敵視していることを、我々日本人はまざまざと見せつけられた

中国政府も中国政府で相変わらず反日教育を行って、国民に日本を敵視させ、尖閣諸島周辺に海警の大型船を送り込む嫌がらせを繰り返している。

この国は官民ともに、今後も日本に危害を加える恐れがある巨大な反日国家と言わざるを得ない。

かような国が隣国で、我が国はこのままでいいのか?

2003年の同事件をリアルタイムで目の当たりにしてから、核兵器を最低100発くらい装備していないと、国民の一人として安心できないと私は考えるようになった。

「非核三原則」なるへっぽこな方針を国是とする我が国において、私は「国賊」なんだろうが、その考えは2023年の現在も、いささか揺らいでいない。

出典元―文芸春秋、週刊新潮、朝日新聞

 

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