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壮大にスベった下ネタが招いた騒動 ~2003年・西安留学生寸劇事件

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。

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2003年10月30日、中華人民共和国陝西省西安市にある西北大学外国語学院で、前日の29日に開催された演芸会『第三届外语文化节(第三回外語文化祭)』に出演した日本人留学生三人の寸劇をきっかけとして、同大学の学生たちを中心とした反日デモが発生した。

デモは、西安市内の他の大学の学生たちも合流してより激化。

学生たちは、留学生が暮らす留学生楼を取り囲んだばかりか、内部に乱入して、器物を破壊したり日本人留学生を殴るなど暴徒化し、ついには、西安の中心部で市民まで加わって、日本料理店を襲うなどの反日暴動に発展した。

なぜ、こんなことになってしまったのか?

ここまでの騒動の発端となった日本人留学生の行った寸劇は、何が問題だったんだろう?

イタすぎるパフォーマンス

現在の西北大学

この騒動のきっかけとなった寸劇は、『第三届外语文化节(日本での報道時は『文芸の夕べ』と訳された)』と称する演芸会で行われた。

同演芸会は「第三」となっているように、毎年秋の深まったこの時期に開かれるようになった催しであったらしい。

その主催者は、西北大学の共青団支部。

共青団とは中国共産主義青年団の略で、中国共産党の指導の下で14歳~28歳の団員を擁する組織であり、つまりは、お堅い団体だ。

そんな堅い団体が主催する演芸会であるために、企業もスポンサーについたりして、その演目も堅く、胡弓の演奏などまじめで格調が高いもので出し物は占められていた。

2003年10月29日、西北大学の礼堂で午後7時から始まった同演芸会の観客は、ほとんどが中国人学生であったのは言うまでもないが、日本人留学生ら10人程も混じっていたようである。

そんな演芸会もたけなわとなった午後8時過ぎ、日本人の演目者が現れた。

会場となった西北大学で日本語講師をしている吉田正伸(仮名・26歳)だ。

吉田は、180cmほどもある西洋人のようなマネキンを持って登場。

彼が行ったパフォーマンスは一人二役の腹話術であり、ありていに言えば、可もなく不可もなく反発を買うようなものではなかった。

吉田の演目が終わった後も日本人で、同大学の日本人留学生の菊池宏尚(仮名・26歳)、谷内慎(仮名・22歳)、坂本春仁(仮名・21歳)の三人である。

しかし、この三人こそがいけなかった。

彼らの演目が、後の騒動のきっかけを作ることになるのだ。

まず、出てきて早々、観客たちは「!?」となった。

彼らのいでたちが異様だったからだ。

その場にいた者によると、三人ともTシャツの上に赤いブラジャー、股間に男性器のような紙コップをつけ、ダンボールで作ったロボットの被り物をかぶり、その上には「寿司」、「毛沢東」、「謝謝」、「中日友好」、「看什么?(何見ているの)」とか、何を言いたいのかわからない文字が、つらつら書いてあったという。

想像図

後で、本人である菊池たちが語ったところでは、「西安に現れた、ナーと鳴く異星人」という設定のコスチュームだったらしいが、だったとしても、意味不明すぎるしイタすぎだろう。

そして、壇上において菊池、谷内、坂本扮する三匹の宇宙人は、中国語で寸劇らしきものを始めたのだが、

「你什么名字?(あなたの名前は)」

「什么?(何?)」

「ナー!」

というやり取りが行われた後、手をつないで背中を見せて「ナーナーナー」という効果音だけの節にあわせて、不思議な踊りを始めた。

三人は背中にそれぞれ、「中国」「♡」「日本」と書いた紙を貼っており、踊りの途中でブラジャーの中からお菓子を取り出すと、観客に向かってそれを投げ始めた。

プログラムには、菊池たちの演目は「日本舞踊」とされていたようだが、そうだったとすれば前衛的すぎるし、日本文化に対する極めて重大な挑戦だろう。

会場にいた中国人学生ら観客は、どう反応すればよいかわからず、冷ややかに沈黙。

「日中友好」を表現したかったのと、下ネタに走ってウケを狙っていることは何とか理解できそうだが、会場は誰一人クスリともせず明らかに白けきっていたと、現場に居合わせた日本人留学生の一人は、後に証言した。

唯一伝わっていたのは、この寸劇もどきの芸が、お下劣極まりないということである。

赤いブラジャーと股間の紙コップは決定的すぎた。

ましてや、ここはポルノ規制に厳しい中華人民共和国真っただ中なのだ。

ほら、拾え!とばかりに、菓子を投げつけるのもいただけない。

お堅い主催者側は、これ以上の演出は見るに堪えないと判断し、この恥ずかしい演目が始まって三分後には、大学の職員らが演目の途中で舞台に上がってきて制止し、痛々しいパフォーマンスを強制終了させた。

下ネタでスベったら、目も当てられない。

何より、最初の吉田の腹話術はともかく、菊池たちの芸がふざけすぎだったのは、他のまじめな演目を見れば明らかで、バカにするなと怒られても文句は言えないだろう。

しかしこの時、観客の学生たちは確かにドン引きしてはいたが、怒り出す者が続出して騒動になったということは、なかったようである。

この盛大にズレた芸をやった三人は「ウケないばかりか退場させられた」と落ち込んでいたというが、自分たちによって、後に日本側で『西安留学生寸劇事件』、中国側で『2003年西北大学反日风波』と呼ばれる騒動に発展するとは、予想だにしていなかった。

抗日祭りの始まり

異変は、翌日の朝早々に始まった。

西北大学にやって来た日本人はじめ、各国の留学生の寮となっている留学生楼の周りを西北大学の学生たちが取り囲み、建物にポスターを貼り始めたのだ。

そのポスターに書かれていた文章には「日本猪」「倭猪」「日本杂种滚」などの明らかに日本人を罵倒する文字が混じっており、さらによく読めば、昨晩の演芸会で行われた醜態について文章で説明されている。

さらには「滚出(出ていけ)」などと結んでいたりして、穏やかでないこと極まりない。

当時の大字报(壁新聞)

昨日の菊池たちのパフォーマンスに、怒って抗議しているのだ。

そしてポスターをさらによく読むと、腹話術という無難なパフォーマンスをしただけの日本語講師・吉田も、一味の者どころか首謀者として糾弾されていた。

ちょうどその頃、そうとは知らない吉田は西北大学に出勤しようとしていたが、出くわした教え子の一人に「先生!危険だから外に出ないでください」と、真剣な顔で忠告されたという。

中国の大学は全寮制だ。

寮では昨晩から今朝にかけて、昨日の寸劇が中国をバカにしていると学生たちの間で反日機運が高まっており、抗議行動の準備をしていたらしい。

また、留学生楼だけでなく、西北大学内のあちこちに昨晩の醜態を非難する「大字报(壁新聞)」が貼られ、留学生を除く学生の多くが学内で起きつつあることが、何かを理解していた。

対応が遅かったりして、日ごろから留学生の評判が悪かった西北大学当局も、さすがにこの異常事態を静観するわけにいかず、学生たちにポスターをはがすように指導したが、学生たちは拒否。

自分たちの行動が、愛国心によるものだとうそぶいた。

授業が始まると学生たちは講義に出席したが、昼過ぎや午後の授業が明けると再び留学生楼にやってきて、抗議のシュプレヒコールを上げる。

「给我们出来道歉(出てきて俺たちに謝れ)!」

彼らが要求するのは、昨晩の演芸会に参加した吉田と菊池たちの謝罪だ。

同じ頃、騒動を招いたのは自分たちだと分かって責任を感じていた菊池たちは、「謝りたい」と大学当局に申し出ていたが、当局の答えは「事到如今已经晚了(こうなったらもう遅い)」だった。

そして、この騒動を招いた元凶として、一方的に日本語講師の吉田の解雇と留学生の菊池、谷内、坂本の退学を発表する。

破廉恥なパフォーマンスには全く関わっていなかった吉田は完全なとばっちりだが、大学側は留学生を監督する責任があったとみなし、その不行き届きを問われたのかもしれない。

そんな発表をしても学生たちの数はますます増え、紙で作った日本国旗や日本猪(ブタ)と書かれた人形を燃やしたりと行動は過激化。

午後5時には、ヒートアップした学生の一部が留学生楼に乱入した。

留学生楼には警備員がいたが、数にモノを言わせて押し寄せる学生たちを防ぐことはできず、暴徒と化した学生たちは、「日本人狩り」を開始する。

彼らが7階建ての留学生楼の4階に殺到すると、日本語の文字を染め抜いた「のれん」を下げている部屋を発見。

日本人の部屋に違いないと判断し、ドアを蹴破って侵入すると、案の定室内でオロオロしていたのは、日本人と思しき女だ。

暴徒の一人は、その女の顔面にパンチを見舞う。

「为什么打我(なぜ殴る)?」

殴られた女子留学生は口から血を流し、半泣きになって抗議すると、

「废话!就是因为你丫的是个鬼子(決まってんだろ!てめえが日本人だからだ)!!」と吠えられた。

なだれ込んだ学生たちは、他の部屋でも室内をめちゃくちゃに荒らしまわるなど大暴れしたが、後からやって来た大学の教員たちに説得されて、この時は一旦留学生楼から退出してゆく。

しかし、これで終わりではない。

外では西安大学、西北理工大学、西安交通大学、長安大学など西北大学以外の西安市内の他校生たちが、助太刀とばかりに五星紅旗と自分たちの所属大学を記したプラカードを掲げて集まって来ていた。

「抗日祭り」に加わりに来たのである。

国家公認の敵である日本から来た奴ら相手だから、こんな面白そうなことはないのだ。

ただ単に暴れたいだけなのに、自分たちが崇高なことをしていると思い込んでいるからタチが悪い。

小癪な愛国心に燃える西北大学の学生どもは、他校生の参加を歓声で出迎えて歓迎し、学校の違いを超えた邪悪な一体感が形成されつつあった。

中には「これはやりすぎだ」と理性的な学生もいたが、大多数の威勢の良い連中は「せっかく盛り上がっているのに空気を読め」とばかりに、その者を「国賊」呼ばわりして集団でボコり始める。

そして、21世紀の義和団気取りの無法者たちによる二回目の攻撃が始まろうとしていた。

集まった学生たち

再び襲われる留学生楼

午後9時くらいになると、ようやく公安が動員され始め、時々先走って留学生楼に特攻する腕白な学生をシメて連行したりしていた。

だが、真面目に仕事をしていたとは言い難い。

留学生楼でおびえていた留学生によると、公安たちは座り込んでタバコを吸っていたりする者が目立ち、本気でこの騒動を抑えに来た感じではなかったという。

また、中途半端に中国人学生を連行したりしたので、学生たちの怒りを逆なでする結果になった。

日が変わって31日になった午前0時、再び、留学生楼が襲われた。

今度は、一回目より人数が多い。

先ほどの攻撃で殴られて顔を腫らしたままの留学生楼の警備員たちが、再び立ち向かう。

真面目に仕事をしない公安と違って、彼らは職務に忠実だったのだ。

だが、一回目同様多勢に無勢なばかりか、「中国人なのに日本人の肩を持つ裏切者」と集中攻撃されて倒され、再び建物内への乱入を許す。

この頃には、日本人女子留学生は安全のために複数名がいくつかの部屋に分かれて息をひそめ、その前に男子留学生が盾として居座る配置を取っていた。

そして、日本以外の国の留学生も、この危機を前に動く。

あるアメリカ人留学生は、自分の部屋に日本人留学生を何人もかくまい、ドアの前に立ちはだかった。

中国と同様に、反日国家である韓国からの留学生も日本人留学生を助ける。

母国で兵役を経験していたその青年は、日本人を自分の部屋に入れて、パニックを起こすことなく、ドアにバリケードを築いて防御態勢を取った。

同じ留学生のよしみである。

異国の中国に留学してひとつ屋根の下で暮らす以上、各国留学生たちは、どの国の出身だろうとみな仲間という意識を持っていたのだ。

安全を守るはずの公安が、ようやく学生たちの排除に動いたのは午前一時。

それまで、学生たちは建物内で暴れまわり、壁には穴が開けられて備品はめちゃくちゃにされ、日本人留学生一人が暴行された上に、財布と腕時計を強奪された。

荒らされた留学生楼内部

公安だけでなく、同大学の教職員も学生の排除に協力したが抵抗され、結局、この騒動で日本人留学生一人を含む28人が負傷。

中でも、身を挺して留学生を守ろうとした中国人警備員たちは、顔をボコボコに腫らしていたという。

午前三時、大学側は、安全のために日本人を含む留学生80人を警察の車両などを使って市内のホテルに移動させたが、これに対して学生たちは「何で警察は中国人を捕まえて、日本人を守るんだ」と逆ギレ。

警察車両に投石する者が現れるなど、いわれなき怒りの矛先は、警察にも向いた。

この日、西北大学だけではなく、西安市内の大学も騒動の拡大を恐れて閉鎖されたが、学生たちは、街頭に出て反日デモを開始する。

そのデモには学生だけでなく、悪ノリした一部市民たちも参加して、その数は二千人以上に膨れ上がった。

この頃には、すでに日本人留学生が卑猥な寸劇を行ったことが、市民の間に知れ渡っていたのだ。

それは、29日の夜に西北大学の演芸会で行われたことを批判するビラが、市内にばらまかれていたからである。

ビラには、日本人の芸が中国人を侮辱するものであり、それを先導したのは日本語講師だったと書かれており、作成したのは演芸会の主催者である共青団であることが明記されていた。

どうも、この騒動を煽ったのは、ふざけた芸に怒った共青団だったとみられる。

香港のマスコミもいち早く悪ノリし、三人の留学生は「見ろ、これが中国人だ」という紙を身に着けていたと報道。

インターネットの掲示板や口コミでも尾ひれがついて、日本人留学生の悪行をあげつらうデマや流言飛語がすでに飛び交い始めており、それをダイレクトに伝えたのだ。

大学生以外の市民まで加わったデモ隊は、日系のホテルの前で抗議のシュプレヒコールを上げたり、道中の日本料理店のドアを破壊することまで行った。

完全に、日本憎しの直接行動にすり替わっている。

この2003年当時の西安は、経済発展から取り残されて失業者が多く、学生も将来に希望が見いだせなかったために、イライラしていたようだ。

寸劇事件は、その格好のうっぷん晴らしの形となってしまった。

この騒動は、西北大学が日本人講師の吉田と菊池たち三名の留学生に反省文を書かせてホームページに公開した11月1日の翌日2日になって、ようやく沈静化に向かう。

寸劇に出たわけ

中国人学生たちは、やりすぎだったとはいえ、そもそもきっかけを作ったのは菊池、谷内、坂本の三人が、日本の底辺高校か Fラン大学の学芸会でやったとしても、ブーイングを浴びるであろう醜悪な寸劇をさらしたからだ。

なぜ、こんなセンスのかけらもない連中が、演芸会に出たのか?

どうやら、彼らは自主的に参加したわけではなかったらしい。

この三人は同じ日本人とはいえ、普段からつるんでいるわけではなく、彼らの共通点は日本語と中国語を相互学習する西北大学の学生が同一人物であって、その学生から参加を求められたのだという。

しかも、それは当日の二日前であり、その前に自分たちが参加する演芸会が何をするものなのかということも、三人は知らなかった。

何を演ずるかも前日まで決まらず、困った彼らが、その貧弱な発想力で思いついたのが、前述の寸劇だったのだ。

実は、数年前の留学生と中国人学生合同の飲み会の余興で、日本人男子留学生がブラジャーと網タイツ姿でダンスして中国人にバカウケしたという話を聞いており、何ら考慮することなく、軽い気持ちで同じようなことをすればいいや、と思ったようである。

とはいえ、練習する時間もあまりなく、息も合わない三人に、まともな芸ができるわけはない。

首謀者にされた吉田によると、彼らは、しょっぱなから自信なさそうな様子であったようだ(ちなみに吉田は自主的に参加していた)。

案の定、惨憺たる醜態をさらしてしまい、その後はその後で、大騒動を招いてしまった。

では、出ることを強いられた彼らは、全くの被害者なんだろうか?

いや、彼らにも責任は大いにある。

恥をかくに決まっている演芸会への参加など、最初から断ればよかったのだ。

だが、彼らは中国人学生に促されるまま、出る羽目になった。

中国人の物言いは総じて、日本人に比べたら強圧的に聞こえることが多い。

「演芸会に出ませんか?」ではなく、「演芸会に出てください」と、一方的に要求しているように中国語が未熟だった菊池たちには聞こえたんだろう。

「いや、その…」とか言葉を濁していたら、「なぜ出ないんですか?」とか詰問調でたたみかけられたりして、ビビッて断れなくなってしまったのではあるまいか。

これが欧米人や韓国人だったら「我不干(やらない)!!」とはっきりNOと言ったはずだ。

それができなかった菊池たちは、典型的な日本人留学生だったともいえるが、その日本人らしさが、この騒動につながったのだ。

相手との摩擦を徹底的に避けるあまり、はっきりNOも言えない者が、海外留学などする資格はない。

これから海外留学する者は、彼らを反面教師として、最低限の自己主張をする気概と覚悟を持って赴くべきだ。

その後

この騒動は中国でも報道され、それは、日本人講師と留学生が下品で侮辱的な芸を行ったことに対して、学生たちが抗議活動を行ったというものだったが、留学生楼が荒らされて留学生らが殴られたこと、芸は中国を侮辱するものではなかったことは報道されなかった。

西北大学もこの騒動の戦犯として、吉田の解雇と三人の留学生の退学を早々に決めておきながら、日本人留学生を殴ったのは、抗議活動にまぎれこんだ社会人(中国ではゴロツキを意味する)のしわざと言い張って、学生の処分は行わなかったようだ。

暴れた学生どもはもちろん、都合のいい現地のマスコミも大学も、腹立たしいことこの上ない。

西北大学を追い出された四人は、ほどなくして強制的に帰国させられたが、殴られた女学生を含む日本人女子留学生八人も、自主退学して日本に帰った。

彼女たちは、あの騒動で受けた精神的ダメージが深刻で、これ以上西安に居続けることができなくなってしまっていたのだ。

話は変わるが、本ブログの筆者は、事件の8年前の大学生だった1995年春、この騒動の起こった西安市で、短期留学していたことがある。

だが、日本人という理由で危ない目に遭ったり、文句をつけられることはなかった。

留学していた西安外語学院の学生たちは、我々日本人に対して友好的で、日中戦争について、何らかの文句をつけてくることもなかった。

思うに、1995年時の大学生は小学校や中学校の時分に、愛国主義教育と称した反日教育を受けていない。

反日教育も以前から行われていたが、それが強化されたのは、89年の天安門事件以後だというから、まだ当時の大学生たちはさほど日本人に対して悪い感情を持っていなかったのではないだろうか。

だが、2003年は違う。

義務教育が始まったころから反日教育を受けていた世代が、大学生になっていた。

憎き敵国の奴らが自分たちの国にやってきて、自分たちの住んでいる寮より立派な留学生楼でヌクヌク暮らしているのも、普段から気に食わなかったりしたんだろう。

その考えは断固支持できないが、自分が中国人だったら理解できる気がしないでもない。

その後年になっても、2004年に中国で開かれたサッカーのアジアカップで日本チームに大ブーイングを行ったり、2005年や2010年にも反日デモが行われ、2012年には、日本政府の尖閣諸島3島の国有化をきっかけとして、反日デモ隊が暴徒化し大規模な破壊・略奪行為を行う事件が報道され、国民レベルで日本を敵視していることを、我々日本人はまざまざと見せつけられた

中国政府も中国政府で相変わらず反日教育を行って、国民に日本を敵視させ、尖閣諸島周辺に海警の大型船を送り込む嫌がらせを繰り返している。

この国は官民ともに、今後も日本に危害を加える恐れがある巨大な反日国家と言わざるを得ない。

かような国が隣国で、我が国はこのままでいいのか?

2003年の同事件をリアルタイムで目の当たりにしてから、核兵器を最低100発くらい装備していないと、国民の一人として安心できないと私は考えるようになった。

「非核三原則」なるへっぽこな方針を国是とする我が国において、私は「国賊」なんだろうが、その考えは2023年の現在も、いささか揺らいでいない。

出典元―文芸春秋、週刊新潮、朝日新聞

 

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軟弱日本人大学生に白人至上主義者の洗礼 ~90年・デンバー日本人大学生襲撃事件~

本記事に登場する氏名は、一部を除き、全て仮名です。

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1990年10月7日深夜、アメリカ合衆国コロラド州デンバー市のダートマス公園。

六人の日本人大学生が現地の若者四人に襲撃され、暴行を加えられた上に金品を奪われる事件が起きた。

当時の日本はバブル期真っただ中。

日本経済は最盛期であり、有り余る金と強い円を背景に、人も企業も海外に進出していた時代である。

同時に、安全な日本と同じ感覚でふるまって犯罪者の恰好の餌食になる邦人が後を絶たず、危機管理の意識の低さが指摘されてもいた。

この災難に遭った六人の若者も、その無自覚な日本人の典型例であることは間違いがなく、彼らのケースは「こうなってはならない」という悪い見本として、その後しばらく語られることになってしまった。

日本人ばかりのアメリカの大学

帝京ロレットハイツ大学(現コロラドハイツ大学)

襲われた日本人大学生たちは、同デンバー市のサウス・フェデラル・ブルーバードにある帝京ロレットハイツ大学の学生たちである。

帝京ロレットハイツ大学とは、その名のとおり日本の私立大学である帝京大学の系列であり、もともと経営難で破産したカソリック系の学校を受け継いだリージス大学から、前年の1989年に買収したものであった。

「国際化」が叫ばれ始めた80年代後半から日本の私立大学の米国進出が相次いでおり、帝京大学もその波に乗ったのだ。

同大学はこれ以後、デンバーの同校と合わせてアメリカに系列の大学を五校も開校させることになるのだが、この帝京ロレットハイツ大学は、他の四校とはやや違った点があった。

それは、建物と土地は揃っていたが、肝心の教授や教員、清掃や事務担当の職員などもおらず、何より、元からそこに通っている在学生がいなかったことだ。

そこで、買収の翌1990年に開校して、新入生の受け入れを始めたのだが、何と帝京大学はその新入生を全て日本国内から募集し、その数は374名にものぼった。

そして、この学生たちの多くは、アメリカの大学に来たからと言って、英語力も目的意識も高い者たちではなかった。

帝京大学を受験した受験生の中で、第二志望として、同じ帝京大学系列の同ロレットハイツ大学を希望するかという試験中に回ってきた書類に〇をつけた結果、ここへ入学することになった者がかなりいたのだ。

つまり、そういった新入生は、第一志望がこのロレットハイツ大学というわけではなく、日本国内の帝京大学に落ちた結果、アメリカまで来ることになったということである。

中には、そこしか合格できなかった者もいたようだ。

しかも、同校の教授陣やスタッフはアメリカ人とはいえ学生は日本人ばかりと、まるで日本国内の大学であるかのようであり、彼らも、日本にいるかのようにふるまうようになった。

もちろん、友達はみな日本人で、いつも話しているのは日本語である。

彼らが現地入りしたのは4月で、9月の本入学まで時間があり、それまで他の州へ研修に出かけたりと、みっちり英語のトレーニングを受けさせられていた。

しかし、元々のレベルがたいしたことなく、周りが日本人ばかりの環境では、どの程度向上したか推して知るべしであろう。

事実、本入学から学校での授業は全て英語だったが、学生たちのほとんどは、その内容を理解できなかったという。

どう考えても、アメリカの大学に来た意味がほとんどない。

もっとも、学校の外は完全にアメリカの街であり、ずっと学内や寮に閉じこもっているわけにもいかない学生たちは、最低限街に出る必要はあった。

だがこのデンバー市は、アメリカの中でも治安がかなり良い街であり、開校前にも地元住民たちによる露骨な反対運動なども起きておらず、街に金を落としてくれると、同市は帝京大学の進出を表向きは歓迎していた。

おかげで、彼ら日本人学生も街中で、受験から解き放たれた解放感をたいして危険な思いをすることなく、味わうことはできたようである。

しかし、この1990年は、国内経済が低調だったアメリカの不動産や企業などを日本企業が買いあさっていたこともあって、アメリカ人の間でやっかみ半分の「ジャパンバッシング」が起こっていた時代だった。

グラフィカル ユーザー インターフェイス, テキスト

自動的に生成された説明
ジャパンバッシング

この一見友好的で平穏そうなアメリカ中西部の街にも、金にモノを言わせて大挙してやって来た日本人たちに反感を募らせ、それを行動に移す者たちはいたのだ。

帝京ロレットハイツ大学は、その年の開校早々、学校の敷地内に「ジャップス・ゴーホーム」と書かれたダイナマイトに似せた発煙筒が投げ込まれたり、学生の中には、白人の若者に怒鳴られたり、モノを投げつけられたりの嫌がらせを受ける者も出はじめた。

正式な授業が始まって間もない9月30日には、不用意にも深夜に外出した日本人学生二人が殴られて所持品を奪われる事件が起きているが、これは表沙汰にならなかったこともあって、他の日本人学生たちの危機意識を高めることにはならなかった。

そして翌月の10月7日深夜、これらノー天気な日本人学生たちばかりか、日本本土の日本人まで凍り付かせる事件が起こる。

1990年10月7日、事件発生

その前の日の10月6日は日本人学生の一人、小松善幸の20歳の誕生日。

それを祝って小松の友達の高石健、永田真也らが学校の寮の一室で飲み会を開いていた。

若者たちの飲み会なので、日が変わった夜12時になっても、宴たけなわでお開きになる気配がなかったが、ここは大学の寮である。

寮には「クワイエットタイム」という、騒いではいけない時間帯が規則として設定されており、いつまでもはしゃぎ続けるわけにはいかないのだ。

そこで、まだまだ飲み足りない彼らは、大学のすぐ近くのダートマス公園で飲もうということになり、寮を次々に抜け出した。

もちろん、この行為も寮の規則に違反している。

ダートマス公園(現ロレット・ハイツ・パーク)

彼ら日本人学生たちにとって、誰かの誕生日などは適当な居酒屋もカラオケボックスもないデンバー市では、恰好の憂さ晴らしだったのだろう。

規則を破って公園に集まったのは、30人近くにも上った。

学生たちは、園内の街灯の下に集まって「二次会」を始めた。

バンドをやっている高石の仲間の永田が、持参してきたギターで演奏を始め、酔いが回っていた学生たちも、カラオケ替わりに歌い出す。

デンバー市が、いくらアメリカでも治安の良い街とはいえ、真夜中の公園で飲み会とは無警戒極まりない。

しかし、学生たちは以前にも、他の学生の誕生日を祝って深夜のダートマス公園でこのように騒いだことがあり、今回が初めてではなかった。

しばらく飲んだり歌ったりのどんちゃん騒ぎをしていたが、高原都市デンバーの夜は10月初旬でも冷える。

やがて、大勢いた学生たちも一人二人と寮に引き上げ、残ったのは、今回の飲み会の主役である小松善幸、その友人の高石健、永田真也、矢萩芳樹、前原健吾、久木田恵一の六人のみとなった。

彼らは朝まで騒ぐつもりだったようだが、六人になってほどなくして、自分たちのすぐ近くに人が来ていることに気づく。

寮からの新たな参加者ではない。

現地の白人の若者たちで、全部で四人いる。

そのうち一人の長髪で2m近くの長身の男が口笛を吹くと、彼らは、小松たちを囲むような配置を取った。

その様子から、お友達になりに来たのとは逆であることが明らかであり、おまけに手にバットを持っている。

そのバットの用途は、状況から考えて容易に察しがつく。

相手は自分たちより少人数だったが、どいつもこいつも自分たちより強そうな白人の男たちを前に、肝っ玉の小さい日本人学生たちは震えあがった。

日本の街中で、ヤンキーに絡まれるよりずっと怖い。

「Show me your fukking ID!!」

やがて、そのうち一人の口ひげを生やした男が、IDを見せるように高飛車に命令してきた。

「アイドントハーブアイディー、ビコウズ…えと、えと…」

寮からそのまま出てきたので、IDなど持っているわけがない。

最初、その招かれざる客が公園の警備の人間か何かだと思った学生もいたようだが、続けて白人の一人が金を要求するようなことを言ってきたのを聞くや、誰もがこれはおかしいことに気づく。

彼らの貧弱な英語力でも、これがカツアゲそのものの脅しであることはわかったのだ。

「なあ、これやばいんちゃう?もうずらかろうや…」

六人のうち、矢萩が高石にボソボソとささやいたが、すでに遅い。

もう完全に囲まれてしまっていたのだ。

「Lay down!!」

次に、男たちは腹ばいになれと命令し、永田の持っていたギターを取り上げて破壊した。

呆然と突っ立っていた日本人のうち、前原が長髪の男につかまれて、もう一人の白人に、バットで太ももをはたかれて倒れ込む。

本格的な暴力に震えあがった根性なし六人は、一斉に言いなりになった。

腹ばいになった直後、まず最初に思わず顔をあげた永田がバットで頭を殴られ、それを合図に、他の者たちに対しても仕置きが始まった。

頭を殴り、思わず手で頭を覆うと、すかさずガラ空きの脇腹にバットがジャストミート。

起き上がろうとしようものなら背中に渾身の打撃を加えられ、かと言っておとなしく腹ばいになっていても、連続的にバットの一撃が降ってくるなど、小癪で無慈悲な攻撃が加えられた。

白人の襲撃者たちは、暴行しながら学生たちのポケットを探ったりして、財布やら金目の物を盗ってゆく。

小松は、指にはめていた指輪を先ほど口笛を吹いた長髪の大男に要求されたために、あわてて抜こうとしていたが、まごつき、イラついた長髪野郎に顔を蹴り上げられた。

しかしこの時、四人で六人の相手をしていた襲撃者たちにスキができる。

それを見ていたのか、高石が起き上がるや、公園の外へ向けて走り出す。

さらに、白人たちがそれに気を取られたのに乗じて、矢萩、永田、久木田が逃げ出し、一呼吸遅れて、小松と前原もそれに続いた。

白人たちも追いかけてきたが、てんでバラバラの方向に逃げる日本人学生の誰を優先的に追跡するかまごついたらしく、誰一人捕捉することができない。

逃走中に小松は公園を抜けて通りに出たところ、停車しているパトカーの存在に気づく。

中には警官が乗っており、何か書類を書いている。

助けを求めようと、パトカーのボンネットをたたいたら警官が出てきたが、何と警官は小松を捕まえようとしてきた。

不審者だと思ったようだ。

だが、小松には状況を説明できるような英語力はなく、公園を指さしてとっさに出たのは「向こう!向こう!」という日本語だった。

アメリカで半年間、何をやっていたのだろうか。

その後、小松は一瞬あっけにとられた警官をも振り切って寮に駆け込むことに成功したが、殴られた頭からは流血していた。

他の高石たち五人の学生も、ケガを負いながら逃走に成功していたが、彼らはこの件が表沙汰になることを恐れ、警察に通報することなく部屋に閉じこもる。

アメリカでは、法律で21歳以上でないと酒が飲めず、彼らは皆現役か一浪だったために、その年齢に達している者はいなかったからだ。

また、寮の規則を破って真夜中に公園に行っていたことも具合が悪い。

だが、逃げた小松を追って寮内に入ってきた警官たちに詰問されて、隠し通すことは不可能になる。

ともあれ、全員が負傷していたので、その夜は救急車で病院に運ばれた。

その後

バットまで使った暴行を加えられた彼らだったが、幸いにも頭部裂傷や打撲を負ってはいても命に別状はなく、骨折などの重傷者もなかった。

だが、この事件は被害者の思惑とは裏腹に大いに表沙汰になってしまい、日本国内でも報道されてしまう。

この事件は、当初から日本人に反感を持つアメリカ人によるヘイトクライムではないかと日本国内では予想されており、アメリカの暗部の恐ろしさを、国内の日本人に大いに知らしめた。

同時に、真夜中の公園に出かけて騒いでいた日本人学生の軽率さにも非難の声が上がる。

その声は、特にアメリカ在住の日本人や日系人からのものが大きかった。

さらには学生たちだけでなく、アメリカ国内に開校した学校に日本人だけを受け入れたおかげで反発を招いたとして、帝京大学を批判する人も少なくはなかった。

一方、現地のデンバー市警も、この事件はヘイトクライムである可能性があるとして捜査を開始。

その結果、一か月後の11月にロレットハイツ大学の近所に住むジェームス・クロース(実名・当時18歳)、ハワード・クロース(実名・当時17歳)、デリック・ニース(実名・当時15歳)、トム・スティーブンス(実名・当時20歳)を、事件に関係したとして逮捕した。

新聞の記事のスクリーンショット

自動的に生成された説明

これらの犯人のうち、ハワード・クロースは主犯のジェームスの弟で、同じくこの事件の犯人であるデリック・ニースとともに、直前の9月30日に起こったロレッタハイツ大学の日本人学生の暴行にも関与しており、9月の事件の捜査で容疑者として浮かび上がった結果、この事件にも関わっていたことが判明して、犯人全員が御用となったようだ。

犯人たちは不良少年グループであり、日本人学生を暴行する直前には、駐車していた車を破壊している。

そして、ジェームスとハワードの兄弟は、白人至上主義者との関わりを周囲に吹聴し、普段から公然と日本人のことを「ジャップ」と呼んで嫌悪していた人種差別主義者でもあった。

日本の報道では、彼らが白人至上主義の秘密結社であるKKK(クー・クラックス・クラン)の関係者の可能性を指摘していたが、実際はスキンヘッズなどの団体の名刺をもらってはいても、有色人種襲撃などの目立った武勇伝を持っていないジェームスたちは、当の白人至上主義者から軽んじられていたらしい。

そんなジェームスらが日本人を襲ったきっかけは、全くの偶然だった。

それは、犯人グループ四人に少女二人を加えた六人が、その夜にビールを飲んだ後にドライブに出かけ、途中他のグループに喧嘩を吹っ掛けられたことから始まる。

相手は人数でかなわぬとみたらしく退散したが、彼らのむしゃくしゃは収まらず、家に帰ってバットやこん棒を車に積み込むと、誰でもいいから殴るつもりで、再び出かけたのだ。

事件の舞台となったダートマス公園の近くまで来た時、駐車していた車をうっぷん晴らしに破壊した後、彼らは園内から響く騒ぎ声を耳にした。

「あいつらをやろう」

まだまだ暴れ足りないジェームスたちの次なるターゲットは決まった。

彼らも、よくこの公園で夜中にビールを飲んだりして騒いだことがあり、「誰だか知らねえが、オレらの縄張りで勝手なことしやがって」という気持ちもあったんだろう。

公園内で騒いでいるのが何者か、まだこの時点ではわからなかったが、女たちを車に残して、四人はぶちのめす気満々でバットやこん棒を手に園内に入って行き、同暴行事件が起きることになる。

日ごろから嫌っているジャップが相手だとわかり、相手の中に抵抗してくる気合のある者がいなかったこともあって、ジェームスたちは大張り切りで、やりたい放題やってしまったのだ。

主犯のジェームスは警察の取り調べで、日本人に因縁をつけて暴行したのは、主に弟のハワードとデリックであり、自分は暴行にバットなどを使っていなかったし、自分が暴行に参加したのは、日本人に殴られたためだと主張。

しかし、このジェームスは長髪に195cmの長身という特徴があり、被害者の学生たちの証言で出てきた口笛を吹いて他のメンバーに指図したり、小松の顔を蹴り上げて指輪を奪ったりの大活躍をした、まさにその人物であったことは言い逃れようがなかった。

そして開き直ったのか、警察でのビデオ撮影付きの事情聴取ではふてぶてしい態度を取り、「ジャップ」という差別用語を何度も使い、白人至上主義者との交流をここでもほのめかした。

だが、この態度と供述で、ジェームスは墓穴を掘ったことになる。

アメリカは、人種差別がらみの犯罪には厳しい国だ。

ジェームス・クロースは、くだんのビデオでの供述の結果、翌年1991年5月の裁判において、ヘイトクライムの他、加重強盗、第二級暴行罪などで有罪になり、下された判決は何と懲役75年。

求刑の際には、自分の予想をはるかに超えた刑期だったことに動揺し、195cmという無意味に大きな体をくねらせて慟哭したという。

弟のハワード・クロースも、犯行当時17歳であったが成人と同じように裁かれ、ヘイトクライムで悪質極まりなかった犯行に積極的に加担したこともあって、兄と同じ懲役75年を下された。

デリック・ニースは、犯歴を重ねた本格的な不良少年であり、学生たちにIDを見せろと命令したり、暴行にも大いに参加していたが、15歳という年齢から少年裁判所で裁かれ、刑期はたったの2年だった。

トム・スティーブンスは、最年長の20歳だったが、犯行にはあまり関わっていなかったとみなされ、裁判で証言をすることを条件に司法取引し実刑を免れた。

一方の被害を受けた学生たちのうち、小松、高石、前原、久木田は、その後も大学に通い続けたようだが、永田と矢萩は退学して日本に帰ってしまった。

日本は事件の翌年、バブルがはじけて失われた時代が始まり、もはや我が者顔で日本人が海外をのし歩ける時代ではなくなっていったが、帝京ロレットハイツ大学はコロラドハイツ大学へと校名を変更し、帝京大学グループのうちの一校として、現在も存続している。

そして、この事件は、その後しばらく、これから海外へ出ようとする日本人に対する警鐘を鳴らすものとなった。

しかし、その警鐘は長く響かなかったか、聞こえても耳を素通りしていた者がいたようだ。

翌1991年のパキスタンを舞台に、この帝京ロレットハイツ大学の大学生を、はるかに上回る軽率さと身勝手さで、より大規模な犯罪に巻き込まれる日本人大学生が現れるのである。

続く

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