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2022年 ならず者 昭和 歴史 海賊

戦後の瀬戸内海賊(パイレーツ・オブ・セトウチアン)


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瀬戸内海には、かつて海賊が出没していた。

といっても、歴史に詳しい人ならばご存じであろう平安時代に反乱を起こした藤原純友の一党や安土桃山時代まで活躍していた村上水軍のことではない。

現代にほど近い、戦後間もない1940年代後半の話である。

それは、『海賊と呼ばれた男』みたいな大げさな比喩とか形容ではない。

航行する船舶や陸上の倉庫などを武装して襲い略奪するという、海賊行為以外の何者でもない犯行を行う、ガチなホンモノたちのことだ。

無法状態だった戦後の瀬戸内海

終戦から三年余り、昭和23年ごろの日本はまだ食糧難にあえいでおり、日用品などの生活物資の欠乏も深刻だった。

当然治安は乱れ、日本各地では武装して公然と公権力に立ち向かい、違法行為を繰り返す第三国人の集団や愚連隊の類が跳梁跋扈している有様であったことはよく知られている。

戦前より国立公園に指定され、風光明媚なことで知られる瀬戸内海一帯でも例外ではなく、陸の上に勝るとも劣らぬ無警察地帯と化していた。

この年、警察制度の改革により海の安全を守るべく海上保安庁が発足していたが、その整備が整っていなかったのも大きい。

広い瀬戸内海全体の保安を担当する職員も監視船も絶望的に足りず、なけなしの船を使った海上巡視も形ばかりという有様では取り締まれ、と言う方が無理だったのだ。

おかげで、瀬戸内海では朝鮮半島との密輸やダイナマイトを使った密漁などの違法行為が横行、法秩序が崩壊していた。

だが、その程度の連中は、まだ安全な部類であったといえよう。

戦後の瀬戸内海で形成された悪の生態系の中では末端か、それより少し上の方に過ぎなかったからである。

その生態系の頂上には、彼ら密輸業者や密漁者すら捕食する本当に危険な存在がいた。

それは海賊だ。

海賊の被害

当時の新聞報道によると、海賊による被害は昭和23年(1948年)の12月ごろから目立ち始めた。

同年12月19日に香川県仲多度郡の高見島、岡山県児島市味野町の専売局出張所が襲撃を受けて大量のタバコが強奪され、翌昭和24年(1949年)1月20日には香川県香川郡の喜兵衛島、1月29日に香川県三豊郡粟島、2月1日には岡山県児島郡の石島と、矢継ぎ早に海賊団による強盗被害が報告された。

陸上の倉庫などの施設が狙われ、深夜に発動機付き漁船で乗り付けてきた賊は4、5人ほどで日本刀やピストル、ダイナマイトで武装しており、金品の他にも衣類や食料品、日用品一切合切を奪い去っていくという。

もちろん洋上を航行する船も主なターゲットである。

2月4日、岡山県邑久群牛窓町沖で石炭輸送船の第十和喜丸(300トン)が海賊船に襲われ、積み荷をはじめ船内の物品が強奪された。

船長以下乗組員7人を縛り上げると引き上げる際に船の機関を破壊、おかげで同船は三日間も洋上を漂う羽目になる。

被害にあった船員たちの証言によると、賊は総勢8人で全員30歳前後、ボスと思しき者だけが上等な洋服に身を包んでいたが、残りは漁師風の風体であり、引き揚げる前に人員の点呼を行って残留者がいないことを確かめた後に

「わしらは国際海賊団じゃ。30人くらい若いモンがおるけえのう」

などと自慢げに捨て台詞を吐いていた。

その言葉どおり、2人ほど朝鮮人と思しき賊も交じっていたようだ。

ちなみにこの第十和喜丸は三日後、今度は淡路島近辺で別の海賊に再度襲撃されている。

この際は白塗りの怪漁船に横付けされて3人の海賊が乗り込んできたが、積み荷の石炭に石灰をふりかけていたために、賊は商品価値の低い石灰と誤認。

何も奪うことなく逃走した。

海賊の正体

まだ陣容の整わなかった海上保安庁はこれらの事件の犯人をすぐに検挙することはできなかったが、これらの襲撃地点から考えて、海賊が塩飽諸島を中心とした海上東西約60キロ、南北約10キロを行動圏とし、その圏内に根拠地があると推測。

塩飽諸島

事実、推測された圏内にある香川県の綾歌郡や塩飽諸島の村々では、海賊行為が頻発した時期に見かけない顔の荒くれ者たちが現れたという情報が寄せられていた。

彼らはガラが悪く、なおかつピストルや短刀をこれ見よがしに持っていたり、船に乗って出かけて帰ってきた際には多くの物品を積み荷にしていたという。

また、塩飽諸島ではそれらの者たちが島内の青年に「一仕事で4万か5万は儲かるけえ」などとなんらかの勧誘をしていたのが目撃されていた。

これらの情報をもとにして、陸上での捜査を開始した警察は3月3日、一味の幹部クラスらしき男らを逮捕。

逮捕されたのは丸山某をはじめ9人で、丸山は表向き青果物の商売をしていたが、海賊十人ほどを率いる小ボスであり暴力団関係者。

そして彼らの供述から、海賊団の組織力と恐るべき実態が明らかになった。

丸山の属する海賊の本拠地は大阪にあったが、総元締めの1人は香川県仏生町に住み、高松・丸亀・観音寺に支部を置いて5人の貸元と呼ばれる頭目が指揮を執っている。

そしてその子分たるや総勢2000人余りもいたのだ。

構成員は、ばくち打ちなどの遊び人やならず者の他に、副業感覚で参加する会社員・百姓・大工・漁師など正業に就いている者も大勢いた。

つい数年前までは戦争中で、兵隊にとられて各地で戦場を経験した男たちもこの当時は、まだ二十代か三十代で血気盛ん。

人を殺したことがある者も多かったはずだ。

そんな度胸も据わった若き猛者が掃いて捨てるほどいて、なおかつ多くが生活に困っていたんだから人材にはこと欠かない。

彼らは命令があると出動する態勢をとっており、仕事のたびにお互い顔も名前も知らない者と組まされることが多かったらしい。

ターゲットとなる標的を探知する情報網は強大で、いつどの船が何を積んでどこへ行くか、どこのどの倉庫に何がどれだけあるか、また荷主がどのような人間かも総元締めや貸元に逐一情報が入っていた。

それまでの被害総額は当時の金額で3000万円以上だったらしいが、やましい方法や目的で入手した物品を奪われた荷主も多かったはずなので、これをはるかに上回っていたことは間違いない。

また、奪った物品をさばくルートも確立しており、運送会社の社員まで抱き込んで盗品を輸送していたようだ。

一方、岡山県側にも総元締めとされる者がおり、これも別件で逮捕されていた。

逮捕されたのはミシン加工業を営む山本某で、それまで違法な方法で財をなしてきた男である。

山本は盗品の中に衣類があると、自身の工場で加工して売りさばいてもいた。

どうやら海賊団は、このような財力を持った「ヤミ成金」が資金力にモノを言わせて組織したらしいことが判明する。

彼らはそれぞれ小規模な実行部隊に分かれて海賊行為を行い、それらの部隊は戦果の一割を上部に上納して残りを山分けするシステムだったのだ。

そしてこの海賊団は事実上の暴力団であり、しかも武闘派。

一度逮捕された仲間を警察から力ずくで奪回したこともあった。

規律も厳格で、密告しようものなら海に放り込まれて魚の餌だったし、ヘマをすれば指詰めを強いられいたために指のない者が多かったという。

よって、当時の報道によると逮捕されて洗いざらいしゃべってしまった丸山は「シャバに出たら腕の一本は落とされるだろう」と警察でおびえていたことも報道されている。

瀬戸内の海賊はその後、海上保安庁の整備が進んで取り締まりが強化されると同時に巷で物資が出回るようになってから消えていった。

戦後の数年間は、生きるのに精いっぱいなあまりサバイバル力を暴走させて一線を大きく超える者がハバを利かせた時代だったのだ。

出典元―中国新聞、毎日新聞

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同級生の顔面を硫酸で溶かした思春期の狂気 ~古き悪しき昭和の事件~

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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昭和36年(1961年)9月14日、静岡県三島市で中学三年生の高野薫子さん(仮名、14歳)が顔面に茶碗一杯分の希硫酸をかけられて重傷を負うという恐ろしい事件が起きた。

犯人は同じ中学に通う同級生の安田真緒(仮名、14歳)。

60年前の教育関係者にも衝撃を与えたというこの事件、いったい二人の女子中学生の間に何があったのだろうか?

加害者と被害者

この鬼の所業をしでかした安田だが、事件後に行われた学校側の説明によると、決して粗暴で悪辣な生徒ではなかった。

素行に問題はないどころか、学業成績もクラスでトップクラス。

家庭環境は極めて良好で、祖父は市議会議員を務めたこともあり、両親とも教育者という非の打ちどころもないものだったのだ。

一方の被害者である高野さんも学業成績は優秀、安田とは一、二を争うほどの優等生。

それだけではない。

彼女は、性格も活発で男女問わず他人を引き付ける魅力を有し、クラス内でもよく目立つセンター的存在という一面を持っていた。

かなりの怨みがなければ到底犯すことのできないような犯行であったが、同じく学校側によると、この安田と高野さんは犬猿の仲ではなかった。

むしろ二人は普段から非常に仲が良く、同じ部に所属して部長と副部長をそれぞれ務めており、事件当日も一緒に下校している。

つまり親友同士だったのだ。

そんな優等生の二人の関係は、一見するとお互いを認め合うさわやかで、模範的なものに見える。

しかしその後の三島署の調べで、安田は高野さんに対して密かに、一方的で敵対的なライバル心を胸に持ち続けていたことを供述した。

表向きは友達としての付き合いを続けていたが、以前から自分にはない人を引き付けるという高野さんの長所を妬ましく思っていたようなのだ。

そんな表面上と相反する感情を抱きつつ平穏に保たれていた安田の心の均衡は、やがて崩れることになる。

それは、ほんの些細なことだった。

安田の凶行

ある時期から、高野さんの身長が安田を抜いた。

両人とも成長期真っ只中の中学生だったが、拮抗して伸びるとは限らない。

安田を取り残して、高野さんの方がぐんぐん伸びたのだ。

これは安田にとっては大問題だった。

容姿で差を広げられたとでも考えたようである。

おまけに伝え聞いたところでは、高野さんに対抗可能だった学業成績でも自分の上を行ったらしいというではないか。

これらの事実は取るに足らないことだと成人の視点では考えるだろうが、多感で複雑な思春期の子供にとっては衝撃的なことであったであろう。

とは言え、思春期だったとしても、自身で自重して受け入れるべきことであったはずだ。

しかし、安田という狂った少女は違った。

彼女は自意識過剰な思春期の子供の中でもより危険な部類に属していたのである。

偏執的で異常なほど嫉妬深く、劣等感を怨念と同期して一方的に増大させ、勝手に精神を自壊させてしまったのだ。

普段おとなしいぶん発散できないため、余計タチが悪い。

やがて安田の心の中で高野さんは許容可能な敵対的ライバルから一気に許しがたい仇敵に変わり、惨劇へと突っ走ることになる。

事件が起こるその日、安田は高野さんと放課後に、文化祭の後片付けをした。

片付けが終わると、二人で一緒に下校。

これはいつものことだったが、それからが違った。

自宅に帰った後、再び外出して高野さん宅に向かい、その途中の薬局で希硫酸を購入する。

午後8時に高野さん宅を訪れて、何気なさを装って高野さんを外へ呼び出した。

そして、何の疑いもなく外に出て一緒に近所を歩き始めた彼女の顔に、隠し持っていた硫酸を浴びせた(玄関で浴びせたという報道もある)。

硫酸をまともに顔に浴びた高野さんは、半狂乱になった家族の者によって外科病院に運び込まれたが、全治三か月の重傷。

しかも、両眼失明という重大な障害を負わされてしまった。

「思春期の過ち」などとお茶を濁すわけにはいかない、何ら情状酌量の余地のない身勝手で許しがたい凶行である。

高野さんは14歳という若さで、視覚ばかりか、女性にとって命より大事な顔を台無しにされたのだから殺人より悪質であろう。

だが、その後の報道を見る限り安田への法的裁きは家裁送致止まりであり、この事件が報道された約一か月後の時点で逮捕もされず、自宅で謹慎していたというから驚きである。

日本はこの時代から被害者を放置して未成年の犯罪者を守る国だったのだ。

この事件は60年以上も過去のものであるから、高野さんと安田がその後どのような人生を送ったかは知るすべがない。

だが、同じ目に遭わせるのは無理にしても、せめて安田本人にも一生極貧を余儀なくされるほどの賠償金を課すくらいの報いは受けさせるべきだったと思うのは、筆者だけではないはずだ。

無神経な当時の新聞報道

どうしても言いたいことが最後にある。

本稿は当時の新聞をもとにして作成したが、その紙面から感じたことだ。

それは、被害者への配慮のなさだ。

現代の基準に照らせば、この時代は良く言えばおおらか、悪く言えば無神経極まりなかったと言わざるを得ない。

被害者の高野さんは保護者の氏名と住所つきで実名報道されている一方、加害者の安田はA子と仮名が付されている点は現代でも同じだが、掲載された学校関係者や有識者による思慮の欠如した意見やコメントは非難に値する。

二人の通っていた中学校の校長は、

深く責任を感じている。A子の転校の方法などを考え将来しこりが残らないよう解決策を考えたい」と、寝ぼけたことをほざいていた。

また、社会心理学が専門の某大学教授などは、

加害者が異常心理状態で立ったことはたしかだろう。加害者と被害者との仲は純粋に競争相手としてのものか、同性愛的な要素もあったのかどうか。また加害者は、親の愛情に恵まれていたかどうかも犯行動機をとくカギとなろう。…」とのたまっていた。

ワザと言っているのか、それともバカなんだろうか。

「…将来しこりが残らないよう解決策を考えたい」だと?

残るに決まっているだろう!

目をつぶされて人前に出れない顔にされて、それでもなかったことにできる者が、この世にいると思うか!

「…同性愛的な要素もあったのかどうか」って?

変態野郎!!

大学で何を研究してるんだ?お前の妄想を新聞でほざいて、何の役に立つんだ!!

被害者感情を逆なでするもの以外の何者でもないのではないか!?

「そういう時代だったから」と受け入れる気はない。

私が高野さんかその身内だったら、安田の次に許せなかったであろう。

参考文献―読売新聞、朝日新聞

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中学生にいじめられた29歳の男の復讐


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2001年6月8日、大阪教育大学付属池田小で起きた児童殺傷事件は犠牲になった児童の数もさることながら、学校に凶器を持った不審者が乱入する学校襲撃事件としても、社会に衝撃を与えた。

この事件以後、全国の学校で部外者の学校施設内への立ち入りを規制したり、警備員を置くなどの安全対策が取られるようになり、もはや、学校は無条件に安全な場所ではないという考えが国民の間で広まった。

しかし、不審者が学校に侵入して生徒を無差別に襲うという事件は、この池田小事件が日本初ではない。

それより13年前の1988年7月15日、神奈川県平塚市のY中学校で、同様の学校襲撃事件が起きていたのをご存じだろうか?

この事件では死者こそ出なかったものの、鎌や斧を持った男が中学校に乗り込み生徒たちを無差別に攻撃して、8人を負傷させた。

犯人の男は教職員らに取り押さえられて逮捕されたが、その犯行動機たるや、あまりにもあきれたものだった。

ボブ

橋本健一(仮名)

犯人の橋本健一(仮名)は、事件のあった平塚市立Y中学校から、200メートルほど離れた団地で、両親や妹と同居していた29歳の無職。

子供のころから自閉症気味で家に閉じこもりがちだった橋本は、中学卒業後に就職したものの、一年とたたず辞めており、以降、働くこともなく実家に寄生して、ニート生活を送ってきた。

ニートとはいえ、ずっと家に閉じこもりっぱなしの引きこもりではない。

働いていない彼は毎日ヒマにまかせて、家のママチャリに乗って近所を徘徊しており、よく向かっていた先がY中学校であった。

中卒の橋本には中学校に特別な思い入れがあったと思われる。

付近をうろつくだけではなく、校内に入っていくこともあった。

そして、女子生徒がグラウンドで体育の授業を受けていようものなら、それを凝視してニヤニヤしていることもあったし、下校途中の女子生徒をつけまわしたりもした。

完全に不審者そのものである。

行動だけでなく外見も相当怪しい。

ひょろっとした150cmほどの小男で、うつろな目をしたおかっぱ頭の橋本は、見る者に異様な印象を与えた。

そんな妖怪のような成人の男を、生意気盛りの中学生たちが放っておくわけがない。

事件が起こる5年ほど前からY中学校の生徒たちは橋本をからかうようになってきた。

中学生たちが橋本に付けたあだ名は「ボブ」。

それは、彼のおかっぱ頭がボブカットのようであったことに由来する。

そして身なりも行動も怪しく、何より弱そうな見かけだった橋本へのちょっかいが「いじめ」へとエスカレートするのに、時間はかからなかった。

中学校に近づくと大声で罵声を浴びせられたり、唾を吐きかけられたり、石を投げられたり、傘で付かれたり、足蹴にされたり。

橋本は基本無抵抗だったが、時々怒って抵抗することもあった。

しかし「それはそれで面白い」と嫌がらせがグレードアップする始末で、中学生も一人ではない場合が多かったため、よってたかって殴るけるの返り討ちにされたこともあったらしい。

ならば近づかなければいいのだが、橋本はY中学校に出没することをやめなかった。

事件の前年には、中学校の運動会の最中に校内に入ってきた橋本を生徒たちが競技そっちのけで迫害、玉入れに使う玉を、数十人が一斉にぶつけた。

この時は、さすがに教師も止めに入ったようだが、悪ガキどもにとっては、きっと運動会の競技より楽しかったことだろう。

また男子だけでなく女子も面白がっていじめに参入することもあったし、小学生までもが、橋本の自転車を囲んで荷台を引っ張ったりしてからかうようになってきた。

家にいても安全ではない。

どうやって知ったか、中学生たちは橋本の住所や電話番号を知っており、自宅に石を投げ込まれたり、いたずら電話をかけられたりもした。

はたから見て自業自得の気が大いにするし、どう見ても、いじめられに行っているとしか思えない橋本だが、なぜこういう目に遭うのか理解できず、我慢ができなかったようだ。

一度Y中学校に、以下のような手紙を書いて抗議したことがあった。

「先生一同、日ごろ子供たちに嫌がらせをされ、つばを吐かれたり悪口を言われたりして困る。しっかり指導してほしい。弱い者は、いつもいじめられても黙ってがまんしていなければならないのか」

この抗議を受けて、学校側も生徒たちにある程度の指導はしたようだが、そんなことで思春期のガキどもが改心するなら、中学教師は苦労しない。

この時代のY中学校の生徒たちも同じで、いじめは相変わらず続く。

1988年(昭和63年)4月、Y中学校は新年度を迎えた。

橋本は学校に抗議した上に、旧三年生が去って新一年生が入ってきたことで、自分へのいじめはなくなると考えていたようだが、中学生を甘く見てはいけない。

在校生たちは、それまでと同じく橋本を見かけると嫌がらせをしてきたし、その悪しき伝統は、ほどなくして入学したばかりの新一年生にも、順調に受け継がれた。

そしてこの年、それまで橋本の心に蓄積されてきた怨念が飽和状態を超えて臨界点を迎えて爆発、事件に至ることになる。

臨界点

抗議したのに、自分へのいじめはなくならない。

橋本の中では、生徒たちばかりではなく、学校全体が敵に思えてきた。

溜め込める怨念には許容量というものがある。

もう我慢できない。

彼は平塚市内のスーパーなどで刃物類を買い集め始め、7月になったころには、鎌2丁、斧1丁、文化包丁や果物ナイフ6丁を揃えていた。

自分を虐げてきたY中学校の生徒たちを、片っ端から血祭りにあげる気になっていたのだ。

やるなら夏休みが始まる7月20日前にやろうと心に決めながらも、普段通りY中学校校内に入った7月13日。

「おい、ボブが来やがったぜ」

「ナニまた入ってきてんだよボブ!消えろ!!」

「またやられてえのか?コラ!」

「ボールぶつけっぞ!オイ!!」

この日グラウンドで練習をしていた野球部の部員たちだ。

卓越した運動能力を有する彼らは、同時に最も元気の良い一群でもある。

橋本の姿を認めるや、迫力満点の罵声を浴びせてきた。

野球部員たちにとっては、いつもどおりのことだし、皆もやっているから、特に大したことだとは考えていなかったであろう。

だがこの行為が、橋本に凶行の実行を決意させるトリガーとなったことを、彼らは知る由もなかった。

暴走

二日後の7月15日金曜日午前10時40分ごろ。

授業が行われているY中学校に、橋本が現れた。

いつもと違うのは、校舎にまで入り込んだことと、その手に紙袋を持っていたことである。

紙袋の中には二、三か月かけて買い集めた斧や鎌、刃物。

一昨日の決意を実行に移すためだ。

橋本が校舎に入って最初に向かったのは、校舎三階の音楽室。

歌声に交じって聞こえる声から、授業をしているのが女性教師であり、やりやすいと考えたからである。

その音楽室では、一年五組の生徒41人が合唱の練習中だったが、橋本が袋から出した鎌を片手に突然ドアを開けて入ってくると、歌うのを止めて静まり返った。

一瞬あっ気にとられていた一同だったが、橋本が無言のまま一番近くにいた男子生徒に鎌を振り下したとたん血が飛び散るや悲鳴が上がり、室内は大パニックとなった。

橋本は斧も取り出して、椅子や机を倒しながら、逃げ回る生徒に次々襲い掛かかる。

自分をいじめたことのある生徒だったかどうかは関係がない。

橋本にとって、このY中学校の生徒であるというだけで罪なのだ。

退屈だが平穏だった学校での日常は、最悪の非日常へと急変した。

この教室では、合計3人が頭や腕を切られて負傷する。

教室から逃げた生徒を追いかけて、廊下に出た橋本が次に向かったのは、一教室おいて隣接する一年四組の教室。

ここでは、最前列の入り口付近に座って国語の授業を受けていた生徒を真っ先に切りつけた。

蜂の巣をつついたような騒ぎとなった教室内部に、すかさず乱入し、無言で右手に鎌左手に斧を振り回して、生徒たちを追いかけ回す。

音楽室同様、教室は生徒たちの悲鳴に交じって、女性教師の「みんな逃げて!逃げて!!」という叫び声が、こだまする修羅場と化した。

橋本は四組で生徒3人を血祭りにあげると、より多くの生贄を求めて、上の四階に向かった。

四階でも二年生が授業を受けていたのだが、下の階から尋常ではない大声が聞こえてきたため、生徒たちが何ごとかと廊下に出てきていた。

そこへ下の階から上がってきた橋本が襲いかかり、生徒が2人やられた。

その勢いで、別の教室にも向かおうとした橋本だったが、その前に立ちはだかる者たちがようやく現れた。

Y中学校の教職員だ。

椅子を持って橋本を取り囲み、じりじりと近寄ってくる。

鎌や斧で武装しているとはいえ、複数の成人男性相手には分が悪かった。

壁の一角に追い詰められ、ナイフを出して抵抗しようとしたが、教職員の一人に組み付かれて取り押さえられた橋本は、観念して凶器を捨てた。

逮捕後

この凶行では死者こそ出なかったものの、生徒8人が負傷し、うち一人は、全治一か月の重傷であった。

負傷した生徒

教師たちに取り押さえられた橋本は、その後通報により駆け付けた平塚署の警察官に連行された。

平塚署では、刑事たちに動機などを厳しく追及されたが、橋本は犯行時と同じく無言だった。

黙秘していたのではない、しゃべれなかったのだ。

小さいころから、人と話すことが極端に少なかったために声帯が発達せず、大きな声で話すことができなかったのである。

そのため取り調べは、橋本に供述を紙に書かせるという異例の形になった。

「復しゅうした。今年と去年、一昨年にY中学の生徒に悪口を言われたり、石をぶつけられたりした…」

「冬には雪だまを投げられたり、家に石を投げられたりした。学校に『何とかしてくれ』と言ったが、何もしてくれず、無視された」

「この学校の生徒ならば誰でもよかった。殺すつもりはなく何人かやれば気が済むと思った」

橋本は筆談でそう供述した。

さらに凶器を入れていた紙袋から、Y中学校への恨み言や襲撃したことの動機などが丁寧な字で書きこまれた大学ノートも見つかる。

そこにはこう書かれていた。

「ボブ、バカなどと一日多いときで四、五十回も悪口を言われる。本当にムシャクシャする。皆殺しあるのみ」

事件後、新聞記者の取材に答えた生徒の一人は「いじめているという気持ちはなくて、遊んでいるつもりだった」と殺人犯による「殺すつもりじゃなかった」と同じような無責任な言い訳を吐いていた。

また「僕らも悪かったかもしれない」と殊勝な答えをした生徒もいた。

いずれにせよ、襲われたY中学校の生徒たちにとっては、身も凍る衝撃的な事件となったようである。

弱い者いじめによって自分に返ってくるかもしれない結果を、全校生徒が思い知らされたのだ。

事件後の現場検証

筆者の私見

私事ではあるが、Y中学校での事件が起きた当時、1975年生まれの筆者は中学二年生。

つまり、被害に遭った生徒たちと同年代であったから、この時の報道をよく覚えている。

もうおっさんに近い年齢の大人の男が、自分たちと同世代の中学生にいじめられたこと自体カッコ悪いのに、その報復に凶器を持って学校に乱入したんだから「みっともないったらありゃしない」とあきれ返ったものだ。

そして、私が通っていた中学にも、橋本のような部外者がよく校内に入り込んでいた。

「キチ」と皆に呼ばれていた知的障害のある二十代後半の男だ。

だが、「キチ」は「ボブ」のようにいじめられることはなく、わが校の生徒たちは、キチと一緒に遊ぶなど、一見友好的な関係を保っていた。

これはY中学校の生徒たちと違って、わが母校の生徒たちが善良だったからではない。

キチは怒らせると本当に危険なことで有名で、生徒たちも怖くて嫌がらせできなかっただけだからだ。

ボブがキチのように危険な側面を持っていたら、Y中学校の生徒も手を出さなかったはずである。

当時のだろうが今のだろうが、この世代のガキは変わらない。

弱い者いじめは、娯楽だと考えている。

相手がこちらにとって危険でなかったら、いつまでもやり続けるし、たいして深刻に考えることもない。

一方のやられる側は、それに慣れることはなく、怨念が積もり積もっていく。

それが限界を超えたら、あるものは自殺という「消極的な」手段をとるし、ボブのように「積極的な」手段に訴える者もいる。

起こりうるどちらか一方が起きたのだから、Y中学校の事件は、必然的に発生したものではないだろうか?

また、消極的より積極的な手段を採用した方がましだと思うが、ボブの良くないところは、いじめられる原因を自分で作った以外に、無関係の生徒に積極的な手段を行使してしまったことである。

せめて自分に嫌がらせをした張本人に向けていれば、多少は肯定的にとらえることができたかもしれないと思うのは、私だけだろうか?

出典元―読売新聞、毎日新聞、毎日新聞社『昭和史全記録』

まんがでわかる ヒトは「いじめ」をやめられない

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口を糸で縫われた男 ~芳しき昭和の香ばしき事件簿~


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「うるさいと口を糸で縫うぞ!」

幼い時分、騒いでいると、よく親にそう脅されたものである。

私以外にも、言われことのある方は多いのではないだろうか?

最近では「ホチキスでとめる」の方がメジャーかな。

子供のころから、もし本当に口を糸で縫われたら、シャレにならないと思ったものだ。

しゃべれなくなる以前に、その痛みは半端でないであろうことぐらい、子供でも想像できる。

だから、本当にやられることはないだろうし、実際やられた人もいないだろう。

そう思っていた。

だが、世の中は広い。そして恐ろしい。

いたのである。この日本で、リアルに口を糸で縫われた人が!

それも、安土桃山時代や江戸時代の話ではない。

その事件が起きたのは、限りなく現代に近い昭和48年(1973年)12月18日の大阪府門真市だ。

おしゃべり大工

この口を糸で縫われてしまった気の毒な人は、大阪府茨木市に住むAさん(当時34歳)。

彼がそんな目に遭った原因は、そのままズバリ「口」だった。

このAさんは職業が大工であり、職人気質で口数の少ない人と思いきやその逆。

結構なお調子者で、あることないこと周囲に吹いて回る人物であったらしい。

そんな彼は、大阪府内の門真市にある一軒の洋酒喫茶に通い詰めていた。

目的は、その喫茶店のママ。

ママが美人であったか否かは別にして、少なくとも、Aさんはぞっこんであったようだ。

だからであろうか。

ある日、仲間と談笑していた時に、Aさんは、彼女についてこんなことを口にした。

「ワイ、あそこの喫茶店のママと寝たで!ヒーヒー言わしたったわ!」

嘘である。

「そうしたいな」と思うがあまり、口から出まかせを吐いたのだ。

だが、その場で皆の注目を浴びて調子に乗ったのか、それからも、彼はさも濃厚な肉体関係になっているようなことをペラペラ語った。

ばかりか、Aさんは後日、他の人間にもそのハッタリを自慢げに吹いて回るようになった。

それが大きな災難を招くことになる。

あまりにも多くの人間に言いふらしたからだろう。

Aさんのホラは、やがて巡り巡って喫茶店のママの周辺、それもよりによって彼女の旦那の耳に達してしまったのだ。

しかも、より厄介だったのは、その旦那の職業である。

暴力団幹部だったのだ。

昭和48年12月18日大阪府門真市

喫茶店のママの夫である福井某(当時41歳)は、泣く子も黙る巨大組織山口組の三次団体幹部で、殺人未遂など前科七犯の猛者。

話を耳にした福井は当然激怒し、12月18日の夜8時に、Aさんを門真市の自宅に呼び出すと、子分二人と共に、二階の部屋へ引きずり込んだ。

そして、その部屋で、余計なことを吹いて回ったおしゃべりへの過酷な制裁が始まった。

「こんガキぁ!ナメたマネさらしよってからに!覚悟せえ!!」と、ゴルフクラブでAさんを乱打したのだ。

「すんまへん!堪忍してください!アレはちゃーうんです!ホンマはやっとらんのですぅぅう!!」

Aさんは必死に弁明したが、それで済むならヤクザはいらない。

やっているいないにかかわらず、ここまで公言している以上ナメていることに変わりはないからだ。

福井らはAさんを裸にして縛り上げると、

「リンチはワイの専売特許や!もう余計なことしゃべれへんようにしたらぁ!!」

と言って、何と木綿針と糸でAさんの口を四針も縫った。

まさに口が招いた災いだが、その災いは口だけにとどまらなかった。

福井らは熱した鉄片をAさんの上半身に押し付けるというリンチまで行ったのだ。

「~~~~~!!!!」

口を縫われたままのAさんは叫び声をあげることすらできない。

そんな地獄のような暴行は翌日午前2時まで続いた。

幸いなことに、Aさんは命まではとられず解放されて、その足で近くの病院に駆け込んだ。

だが、その病院で縫い合わされた糸を抜いてもらうなどの治療を受けたものの、一か月の入院を余儀なくされる重傷であった。

自分の女房と関係を持ったと吹き回ったお調子者相手とはいえ、この仕置きはやりすぎだ。

暴力団員というのは本当に恐ろしい。

福井はその後、大阪府警の取り締まりにより、他の傷害罪や覚せい剤取締法違反で逮捕されて大阪拘置所に入れられていたが、三か月後の翌年昭和49年(1974年)2月14日に、この件が明るみに出たことで、再び警察署に移送されて取り調べを受けた。

ちなみに、Aさんの口を縫ったことへの法的裁きはいかほどであったかまでは、報道されていない。

しかし、昭和40年代の末期はまだ暴対法もなく、現在からみれば反社会勢力の暴力団が「保護」されていたも同然で、街の中に堂々事務所を構えて悪さをしていたんだから、すごい時代だった。

身から出たサビとはいえ、あまりにもひどい仕打ちを受けたAさんだが、もし2021年現在ご存命なら、82歳くらいだろう。

しかし、当時の恐怖と痛みは、半世紀近くたった今も忘れていないはずである。

口に縫われたような傷跡と、上半身の胸や腹に火傷の跡がある高齢者の男性を銭湯かどこかで見かけたとしても、「福井のこと覚えてますか?」とか話しかけるのは、人としてあるまじき行いだ。

それより、もっと心配なのは福井も存命で、この文章を目にしたら筆者はどうなるのか?ということだ。

もし生きてたら、福井の方は90近い年齢になっているはずだから筆者でも秒殺できるが、彼の舎弟や子分のまたその子分が私のところに押しかけてくるかもしれない。

口を糸で縫うのだけは、勘弁してほしいものである。

出典元―毎日新聞、朝日新聞、毎日新聞社『昭和史全記録』

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チャイニーズマフィアの首領:四川の闇を牛耳った劉漢


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皆さんはこの表紙の写真の人物を見て、どのような印象を持たれるだろうか。

優しそうな人?ご冗談を。

どう見ても、酷薄そうな凄みのある面構えの悪人相であろう。

そう、悪人だ。それも見かけ以上に。

この男の名は劉漢、中華人民共和国四川省出身。

400億元(6800億円相当)以上の資産を有し、30社を超える企業を束ねる四川漢龍(集団)有限公司の実質的な会長にして、その実の顔は、己の利益のために殺人すら辞さず、人口約8千万人の地元四川省の表裏両面に睨みを効かせた黒社会の老大(ボス)である。

四川省のトップとも結託し、一時期は黒社会の人間ながら、省内の治安をつかさどる公安の人事にまで、口を出すほどの力を持っていた。

若年期の劉漢

若い頃の劉漢

劉漢は1965年10月25日、四川省広漢市で五人兄弟の三男に生まれた。

子供の頃の彼は、学校での成績が抜群であったとも平凡であったとも諸説あるが、次第に勉学にそっぽを向いて商売に傾倒していくようになる。

早くからビジネスのセンスを有していたのは確からしく、1980年代中期の20歳になるかならないかの若さで、木材や建材などの転売を開始して、そこそこの小金を貯めるようになった。

そして、長けていたのはビジネスだけではなかった。

改革開放が板について経済成長が始まった80年代後半から90年代にかけての中国社会は、「儲けた者勝ち」とばかりに、成功するためには手段を選ばない無法者が各地で跋扈し始めていた時期でもある。

よって、ビジネスで成功を収めるには、商才以外の能力も発揮しなければならない場合もあったのだが、劉漢は、その能力の使い手でもあった。

それはすなわち暴力だ。

1990年代初頭、彼は実弟の劉維と共に地元の広漢市で賭博性の高いゲームセンターを開いたが、そのような違法な商売ならばなおさら必要である。

劉兄弟もご多分に漏れずそれを完備、いやむしろ充実させていた。

地元のゴロツキを手下にして店内で暴れる客を叩きのめし、負けが込んだ客からは借金を取り立てるなど、店の「正常な」運営を維持。

のみならず、商売敵が現れると手下にこん棒やナイフ持参で向かわせて問題を実力で解決して事業を拡大していったため、劉兄弟の経営するゲームセンターは、日本で言うところの博徒系暴力団そのものだった。

さらに、彼らは公権力に対してもひるまなかった。

1993年には、押収された物品を裁判所に押しかけて奪還、銃を振りかざして公安にも敢然と立ち向かったことから、裏社会の間でも勇名をとどろかせる。

怖いものなしとなった劉漢は、ゲームセンター経営を成功させてまとまった額の利益を得るようになると、今度は、ゲームセンター事業を弟の劉維に任せて、自分は本来の事業である建材のビジネスで勝負をかける。

より大きく稼ぐには、ゲームセンターだけでは足りないと考えたからだ。

劉漢が目を付けたのは、鋼材の先物取引である。

90年代当時中国は建設ラッシュ真っ只中で、鋼材の需要は高まっていたが、先物市場では価格が低迷しており、それに目を付けていた人間は、意外にも少なかった。

彼は、それまで違法行為で蓄えた資金と借り入れた金(これも所得や担保を水増ししてローンを組んだと言われる)で、四川省の鋼材を買いあさり、省内の大手鋼材メーカーの在庫を空にすることによって、市場での鋼材の価格を暴騰させることに成功。

手持ちの鋼材を売って、莫大な利益を得た。

そして1997年3月、先物取引で稼いだ金を元手として、後に巨大企業となる四川漢龍(集団)有限公司を設立した。

闇の力により事業を拡大

最盛期の劉漢―貫禄に満ち満ちている

劉漢は正式な会社を設立したからといって、完全なカタギに転向したわけではなかった。

代表取締役として別の人物を置いて自らは黒幕に徹すると、弟の劉維に命じて、保安部要員募集の面目で荒事に慣れたヤクザ者はもちろん、元軍人、武術学校出身者を集め、障害を排除するための暴力装置を、さらに充実させたのだ。

それは刃物ばかりか、56式突撃銃やブローニング拳銃まで保有した本格的な武装集団だった。

そして劉維率いる保安部は、その暴力を会社設立翌年から最大限行使する。

1998年、四川省錦陽市遊仙区小島村の開発プロジェクトに食い込んだ漢龍有限公司は、立ち退きに抗議する地元住民と衝突していたが、後日、相手側住民の一人である熊偉を街中で闇討ちして、殺害したのだ。

誰がやったか限りなく分かりやすい殺人にもかかわらず、証拠が乏しくて立件されることもなかったため、これにより、住民側は沈黙。

プロジェクトを順調に進めた漢龍有限公司は以降、より大規模な公共プロジェクトを受注するようになった。

劉維―こいつも見るからに悪そうだ

熊偉殺害のわずか五日後、今度は、劉維が保安部の手下を使って、広漢市のゲームセンター事業で商売敵となっていた周政を射殺した。

周政の一派は、劉兄弟と同じく黒社会の組織であり最強の対抗勢力であったため、これ以降、広漢市のゲームセンター及び闇金事業は劉一派が壟断。

のみならず、周辺地域の建築、建材市場にも進出して勢力を拡大していった。

1999年2月には、錦陽市のヤクザである王永成をバーの入り口で射殺。

王が「漢龍有限公司をつぶす」と大言壮語していたのが、原因らしい。

2000年に漢龍有限公司は成都に本社を移すが、早くもこの頃には、四川省の業界において向かうところ敵なしの状態であり、同業者はプロジェクトの入札では、漢龍有限公司との競合を避けて譲るほどであった。

同社の正体が何であるか公然の秘密だったし、敢えて競合しようものなら、すかさず手を引くよう脅迫されたからだ。

そして、劉漢一派が手にかけるのは、自分たちの事業をジャマする人間だけではなかった。

2000年9月、ブリーダーの梁世斉が、劉維の手下に刺殺される。

犬を飼う趣味があった劉漢は、知り合いでもあり著名なブリーダーでもある梁に犬の飼育をさせていたのだが、飼育のために渡していた3万元を着服していたのではないかと劉維が疑ったためだ。

この当時、誰がやったか遺族や周辺の人間は薄々感づいてはいたが、すでに地元の黒社会の顔役であり、公安関係者の中にも賄賂でシンパを作っていた劉兄弟を訴えることはできず、泣き寝入りを余儀なくされたという。

手下たちも、やりたい放題だった。

2002年5月、劉漢の用心棒であり保安部所属の仇徳峰らが、成都のクラブで、些細なことからケンカになった相手を刃物で殺傷。

逮捕された仇だったが、劉漢が手を回したこともあって、たった四年の懲役であった。

これらすべてを含めて、劉一派は分かっているだけで九件の殺人を犯しており、他に傷害、逮捕監禁、収賄、不正蓄財、銃刀法違反など、様々な違法行為に関わっていることが後に判明しているが、これほどの悪事を働きながら、長らく訴追されることはなかった。

どころか、漢龍有限公司はヤクザならではの手法で競合相手を黙らせて水力発電所、観光地の整備、高速道路の建設など大規模でうまみのあるプロジェクトを次々請け負い、ゲームセンターや建設業以外にも金融、不動産、電力事業、化学工業など様々な分野に手を広げる大躍進。

2009年からは、鉱山開発の分野で海外に進出し、傘下の企業をアメリカやオーストラリアにも上場させた。

劉漢自身の資産も莫大なものとなり、中国の長者番付に2003年の時点で早くもランクイン。

そして、劉漢はあくどく稼ぐ一方で慈善家としての顔も持っていた。

2008年に発生した四川大地震の復興に5000万元を寄付するなど、中国の寄付額番付にもランクインしているほど慈善事業に積極的だったのだ。

どうも悪党というのは大物になると、本業の悪いことだけでなく良いこともしたくなるものらしい。

それも悪事同様豪快に行う傾向がある。

ちなみに、この地震で四川省内の多くの小学校が欠陥工事により全壊して多数の児童が犠牲になっていたが、劉漢が寄贈した小学校はびくともせず教師も児童も無事だったことから首善(筆頭慈善家)と中国国内で脚光を浴びた。

四川地震でも倒壊しなかった劉漢希望小学校

しかし、彼自身はあまり表舞台に立つことはせず、漢龍有限公司内部でも限られた人間としか接触しようとしないなど、ベールに包まれた存在を保っていたという。

劉漢の後ろ盾

劉漢が違法行為を重ねながら訴追されなかったのは、省政府関係者や公安関係者に賄賂をばらまいていただけではなく、それ以上に強力な後ろ盾がいたことが大きい。

それは後に、中央政治局常務委員と中央政法委員会書記の職につき、中国共産党の党内序列第九位にまでなった周永康だ。

周永康―この人もかなりのコワモテだ

劉漢との関係は、周永康が四川省のトップである中国共産党四川省委員会書記として、同省に赴任して一年目の2001年から深まったとみられる。

その関係は、周永康の息子である周濱と電力や観光などのビジネスで協力し合うほど親密であった。

共産党委員会書記の神通力は、霊験あらたかだ。

省内の公安も司法も黙らせる権力を有するからである。

劉漢も司法に全く目を付けられていなかったわけではなく、2001年に不正行為で拘束されそうになったことがあるが、周永康の一声で沙汰止となったことすらあったから、省内はもうほぼ劉一派の治外法権となったといっても、過言ではなかった。

そして、周が2002年に党中央政治局委員に選出されて四川省を離れてた後も、その関係は続いた。

劉漢は周の権力を維持する利権集団の一つ「四川閥」において欠かすべからざる存在であり、使える男だったからだ。

後に周は2002年に公安部長兼党委員会書記に就任し、続いて、総警監、武装警察部隊第一政治委員、国務委員(副首相級。政法担当)など要職を兼任。

公安・司法部門でのトップになって、党内での地位も上がり後ろ盾としても、ますます強大になっていった。

劉漢も、いつまでも実業家だけに甘んじてはいない。

三期連続で四川省政治協商会議委員と常務委員にも選出されて、企業経営以外にも、省政府の政治に関わるようになる。

しかも、自分の事業に便宜を図ってくれるような政府の役人をより高い位に推薦したり、逆に邪魔をするような役人を更迭に追い込んだりするほど、影響力を増していた。

黒社会の大親分でありながら、中央に強力なパトロンを有して、省の政治にまで口を出すようにまでなったのだ。

もはや、地元四川省で彼を止めることのできる者は、いなくなりかけていた。

しかし、そんなこの世の春はいつまでも続かない。

夏と秋をショートカットして厳冬になり、そのまま一気に破滅へと向かう日が来ることになる。

それは、2012年11月15日、中国共産党の新たな総書記にある人物が就任したことから始まった。

そう、皆さんご存じ習近平だ。

逮捕、そして死刑

習近平は、総書記就任早々「反腐敗キャンペーン」を打ち出し、すぐさま、四川省の汚職撲滅に着手した。

真っ先にやり玉に挙がったのは、劉一派であることは言うまでもない。

これには、さしもの劉漢もひとたまりもなかった。

四川省内では無双でも、中国は広い。上には上がいる。

今回は、はるか頂上の存在である総書記直々のお達しによる、中国共産党中央の直接指揮下での捜査なのだ。

頼みの綱の周永康は、もうすでに中央政治局常務委員と中央政法委員会書記の職を解かれて力を失っており、アテにはできなかった。

それに、この汚職撲滅の行動は、習近平による政敵つぶしも兼ねていたはずだから、一切の手抜きもない。

ちなみに周はその後、「重大な規律違反」で立件された上に党籍をはく奪されて逮捕、無期懲役となる。

法廷での周永康―元々白髪だったようだ

2013年3月13日、叩けば埃だらけの劉漢は、自身の片腕として数々の荒事をこなしてきた弟の劉維と相前後して拘束されてしまった。

捜査は徹底しており、兄弟だけではなく、部下はもちろんのこと現在の妻や前妻、家政婦までもが事情聴取される。

また、四川省だけでなく、北京市や広東省など10の市と省に存在する漢龍有限公司の関連施設へも捜査の手が及び、その結果、20丁の自動小銃や拳銃、3個の手りゅう弾、677発の銃弾が押収された。

むろん、合法的所持であるはずがない。

押収された武器

2014年2月14日、動かぬ証拠を基に、故意殺人、犯人隠避、汚職などの罪で、劉漢ら36人が提訴される。

ここまで来たら、もはや言い逃れも、後ろ盾や省内に賄賂で囲っていた役人の助けも期待できない。

同年5月23日、一審で劉漢と劉維兄弟を含む5人に言い渡された判決は死刑。

劉漢は、この判決を受けた時、見苦しくも大泣きしてこう叫んだ。

「私は省の貴人に奉仕しただけだ!はめられた!私は無罪だ!」

劉漢は上告したが、8月7日の二審でも一審の判決は覆らず、死刑が確定。

そして、2015年2月9日、死刑執行。

享年49歳、何もかも思い通りにしてきたがばかりに、運が尽きて迎えた早めの死であった。

死刑執行直前の劉漢

出典元―百度百科、ウィキペディア中国語版

習近平「文革2.0」の恐怖支配が始まった ラストエンペラー習近平 (文春新書 1320) 中国「黒社会」の掟 チャイナマフィア (講談社+α文庫)

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犬鳴峠リンチ焼殺事件 ~超凶悪少年犯罪~


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1988年(昭和63年)12月7日、福岡県粕屋郡久山町の旧犬鳴トンネル近くの路上で未成年による、世にもおぞましい殺人事件が起きた。

4人の少年が車欲しさに、持ち主の20歳の青年を車ごと拉致、凄まじい暴行を加えたあげく、ガソリンで焼き殺した犬鳴峠焼殺事件である。

時代が昭和から平成に移りつつあった80年代末期は、未成年による犯罪が一挙に凶悪化した時期でもあり、同年2月には、名古屋市で未成年らによるアベック殺人事件が起き、東京都綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人は、この年11月から翌年1月にかけて行われた犯行であった。

だが本稿の犬鳴峠焼殺事件は、今なお悪名高き上記二件の犯罪と比べても、何の落ち度もない弱者を身勝手な理由で狙った点では共通しているし、殺害に至る過程の残忍さにおいて、勝るとも劣らない悪質さだったと断言できる。

ネット界隈では知る人ぞ知る事件であるが、本稿では当時の報道を基にして、できる限り忠実かつ詳細にこの許しがたき凶行を取り上げる。

なお、地名などの固有名詞を除き、被害者名・加害者名共に仮名とし(実名を推測できてしまうかもしれないが)、実際にはなかったかもしれないがあったと考えられる会話や挙動、犯人や被害者たちの行動に関する筆者の主観的意見も、一部含まれている点はご容赦願いたい。

死体発見

死体発見時の現場検証(当時の新聞より)

1988年12月7日正午、福岡県粕屋郡久山町の県道福岡-直方線の新犬鳴トンネル入り口から旧県道を1kmほど奥に入った路上で、通行人が焼死体を発見し、福岡東署に通報。

焼死体は二十歳くらいの男性で、身長170cmほどのやせ型で長髪、焼け残った衣類から、緑色のジャンパーを着ていたとみられ、下はジーパンに紺色のズックを履き、靴下は白色。

火に包まれながら倒れていた場所まで走った形跡があるため、現場で焼死したものとみられ、死後数時間程度と推定された。

自殺と他殺の両面で捜査を開始した福岡東署と福岡県警捜査一課だったが、自殺とするには、あまりにも不可解な点が目立った。

まず、男性の頭頂部には石のようなものにぶつかったと思われる五か所の傷(最大で長さ約8cm)があり、倒れていた男性の頭からは大量の血が路上に流れ、ガードレールの一部にも、その血しぶきと思われる血痕が付着していたが、その傷がいつどのようにしてできたかが分からないこと。

そして路上を転げ回った跡がある上に、司法解剖で気管支内からススが検出されたことから現場で焼死したのは間違いないが、右足の靴が見当たらず、その右足の靴下が、歩き回ったように汚れて破れていたこと。

何よりも、死体から漂う臭いからガソリンをかぶって火をつけたはずだが、焼身自殺ならば死体の近くに容器やライター、マッチが見当たらないのはいかにも不自然であり、なおかつ、財布や免許証なども見つからなかった。

〇捜査と犯人の逮捕

翌12月8日午後、焼死体の身元は、福岡県田川郡方城町の工員・梅川光さん(20歳、仮名)と判明する。

被害者の梅川光さん(当時の新聞より)

梅川さんは、母親(45歳)と祖母(72歳)との3人暮らし。

6日朝に、母親をマイカーの軽乗用車で通勤先まで送ってから、そのまま自身の勤務する同県田川市内のスチール製造工場に出勤、同日午後5時半ごろ、その車で退社してから、行方を絶っていた。

翌7日夜、一向に帰ってこない息子を案ずる母親がテレビで焼死体発見のニュースを知って、「ウチの息子では」と警察に届け出たため、鑑識が死体の指紋を鑑定した結果、梅川さんのものと一致したのだ。

そして、8日の夕方には、死体発見現場から約22km離れた田川市後藤寺の路上で、梅川さんの乗っていた軽乗用車が見つかると、いよいよ他殺の線が濃厚になってきた。

現場で容器やライター、マッチが見当たらない以外にも、

  1. 梅川さんの車が発見されたのは自宅とは反対方向。
  2. 梅川さんはいつも寄り道せずにまっすぐ自宅に帰る。
  3. そもそも自殺の動機がない。

などの新たな疑問点が、浮上したからである。

また、発見された車の助手席と後部のトランクからは、梅川さんのものと思われる血痕があり、さらには、別の人物のものとみられる赤みがかった髪の毛、たばこの吸い殻二種類と複数の指紋を検出。

発見された車(当時の新聞より)

死体発見現場付近の聞き込みでも重要な証言があった。

焼死体が見つかった現場近くで7日の午前中、若い男3人が梅川さんのものと同じような軽乗用車に乗っているのを農作業中の主婦らが目撃していたのだ。

これらの物証や証言などから、福岡県警捜査一課と福岡東、田川両署は、12月9日午前、殺人事件と断定。

福岡東、田川両署に合同捜査本部を設置して、本格的な捜査に乗り出した。

しかし、被害者の車が発見され、車内に指紋という決定的な証拠が残っている以上、犯人の逮捕に時間はかからなかった。

その指紋の持ち主と思われる者を1人ずつ任意同行により事情聴取した結果、その日のうちに、梅川さんを拉致して殺害したとあっさりと認めたのだ。

犯行に関わったのは5人で、全て未成年。

うち主犯格とみられる犯人は、被害者の梅川さんと顔見知りだった。

そして、調べを進めるうちに判明した犯行の動機と詳細たるや、あまりの身勝手さと残虐ぶりに、捜査員をあ然とさせるものであった。

犯行の経緯

逮捕されたのは、行商手伝い(おそらく暴力団関連)の大隅雅司(19歳、仮名)を中心として、窃盗や恐喝を繰り返す16歳から19歳までの不良少年グループの5人。

多子貧困の荒廃した家庭で育った大隅は、中学時代から非行を重ねて14回の補導歴と逮捕歴を持ち、強盗致傷や恐喝で、三回も少年院に入れられたことがある筋金入りだった。

今回の事件が発覚した際も田川署で、「まさかあいつでは」と名前が浮かんだほど、署員の間では悪名がとどろいていたくらいである。

そんな大隅が、この事件を起こすきっかけとなったのは車だった。

彼は車を持っていなかったが、車を買う必要は感じていなかったらしい。

なぜなら身近で車を持っている人間がいると、脅しては奪い取ること(“シャクる”などと称していた)を常習としており、次々と乗り換えていたからだ。

被害者も報復を恐れて通報しなかったっため、そのままま、かり通っていた。

梅川さんが彼らに連れ去られることになる6日夕方も、前日知り合いの少年を脅して奪った車を乗り回していた。

同乗していたのは、後に事件の共犯の1人となり、大隅とつるんで悪さを重ねてきた安藤薫(19歳、仮名)である。

まんまと車をせしめることに成功した2人だが、今乗っている車には不満だった。

彼らは、その日の夜、ある女子中学生とデートする約束をしていたのだが(19歳にもなって恥ずかしい奴らだ)、その車は軽トラで、デートには不向きなことこの上なかったからである。

そんな彼らの視界に入ったのは、勤務先から帰宅する梅川さんの乗るダイハツの「ミラ」だった。

当時の若者に人気があった軽乗用車である。

「あの車やったら、格好つくっちゃけどね」

と考えた大隅だが、赤信号で止まったその「ミラ」の運転席に座っているのが、幼い時から顔見知りの梅川さんだと分かると、途端に一計を案じた。

「あいつのば使うったい」

大隅は安藤を促して、軽トラを路肩に停車させて降り、信号待ちしている梅川さんの乗る「ミラ」に近寄った。

返す気があったか否かは別として、そんな場所でいきなり車を借りようとする神経もなかなかのものだが、欲しいものがあれば、脅して奪うことを繰り返している彼らに躊躇はない。

それに、大隅は梅川さんのことをよく知っていた。

子供のころから年上とはいえ極端に気が弱く、嫌とは絶対言えない性格をしていたのだ。

「よー、光やない。ちょっとドアば開けんか」

などと言って強引に車に乗り込むと、臆面もなく凄みすら効かせて、要件を切り出した。

「俺らこれから女(おなご)と会うことになっとーとたい。ばってん軽トラしかなかけん、格好つかんっちゃん。だけん、オメーの車(俺らに)貸しちゃらんや」

「断るわけはない」と踏んでいた大隅だったが、梅川さんの反応は予想外なもので、逮捕後以下のようなことを繰り返し言っていたと供述した。

「ばあちゃんに叱られるけん」

梅川さんは母親と祖母の3人暮らし。

ビルマ戦線で夫を亡くした祖母は、女手一つで行商をしながら、梅川さんの母となる娘を育て上げたが、その母は、梅川さんをもうけた後離婚。

しかし、彼女も祖母譲りのしっかり者で、梅川さんを同じく女手一つで立派に育てた。

そんなつつましく懸命に生きてきた一家の一粒種である梅川さんは、軽度の知的障害があったらしく、極度に内向的で人見知りであったため、少々将来を心配されていた。

だが、彼は工業高校を卒業後に、スチール製造工場に無事就職。

行く末を案じていた孫の就職を祖母は非常に喜び、母と共に決して多くはない貯えを大幅に切り崩して、就職祝いとして軽自動車「ミラ」を買い与えた。

そんな祖母と母の思いを梅川さんも、十分知っていたのであろう。

その車を、小さなころから悪ガキで、今は輪をかけて悪くなった大隅に、おいそれと貸すわけにいかない。

返してくれない可能性が高いからだ。

その思いがあったからこそ、出た言葉だった。

あるいは、梅川さんなりの遠回しの拒絶だったのかもしれない。

だが、札付きの不良である大隅たちに、その思いが通じるわけがなかった。

「あ?貸すとか貸さんとか?どっちや、ああ?!」

「えと、えと、ばあちゃんに…」

「ナメとうとか!バカ!」

短絡的な大隅は、中途半端な返答にイラつくあまり、梅川さんを殴りつけた。

「よか歳ばして、ばあちゃんばあちゃんて、ガキみたいなことばっか言いくさりやがって!」

一度キレたら、もう止まらない。

さっさと車を手に入れて女に会いに行きたいがばかりに完全に頭に血が上っていた。

安藤も加わって、助手席に移らせた梅川さんを殴る殴る。

暴行はかなり激しく、梅川さんは流血。

助手席の血痕はこの時に付着したようだ。

それまで乗っていた軽トラを放置したまま、新たな車を乗っ取った大隅たちは、持ち主の梅川さんを車内で乱暴しながら、向かった先は、田川市に住む配下の1人である沢村誠一(16歳、仮名)の家。

これから始まるデートの間、邪魔な梅川さんを監禁しておくためだ。

監禁した後、どうするつもりだったのか?

その場の思い付きだけで行動する彼らに大した考えはなかったのであろう。

同じく配下の坂本剛史(16歳、仮名)も呼びつけて沢村とともに見張りをさせ、その間に、自分たちは梅川さんから奪った車で、のうのうとデートに向かった。

おっかない先輩の大隅の命令だ。

断るわけにいかない沢村と坂本は、当初、おびえる梅川さんをいびるなど忠実に勤めを果たしていたが、大きな失態を犯してしまう。

夜中になっても帰ってこない先輩たちを待ち呆けるあまり眠ってしまったのだ。

手ひどい暴力を振るわれた上に、新たに加わった見るからに悪そうな2人に睨まれ続けて、縮み上がっていた梅川さんだが、夜中の午前二時、見張りが完全に寝入ったのを見て、思い切った行動に出る。

逃走を図ったのだ。

しかし、運が悪かった。

ほどなくしてデートを終えた大隅と安藤が、梅川さんの車に乗って帰ってきたのだ。

大隅は激怒した。

梅川さんを逃がしてしまったマヌケ2人に雷を落とし、帰ってきた際に車に同乗していたもう1人の配下の小島幹太(17歳、仮名)も加えて、追跡を開始する。

どこへ逃げたか、全く見当がつかないわけではなかった。

大隅は梅川さんの家を知っていたし、梅川さんが性格上見知らぬ他人の民家に駆け込んだり、通りがかりの車に助けを求めないであろうことも、見つからないように暗い場所を選んで逃げることをしないであろうことも、予測していた。

果たして大隅の読み通り、監禁場所から2km先の通りを、自分の家に向かって逃走する梅川さんを発見。

執拗に追い掛け回して捕らえた。

せっかくのいい気分だったのに、手を煩わされたと逆ギレしていたのか、それとも女子中学生とのデートの首尾が思わしくなくて、イラついていたのか。

大隅たちの身勝手な怒りは相当なものだった。

「ナメたマネしくさりやがって!オラ!オラ!オラア!!」

梅川さんへの暴力は拉致した当初よりさらに凄惨なものになり、顔面パンチが止まらない。

顔が完全に変形し、血だらけになっても手は緩めなかった。

キレたらヤバイことは不良にとって美徳である。

皆も残虐さをアピールするのはここぞとばかりにこぞって無抵抗の弱者を痛めつけた。

そして、どこまでも感情のおもむくまま場当たり的に行動する大隅は、腫れあがった顔からとめどなく血を流してうめく梅川さんを見てとんでもないことを言い出した。

「警察にチクられんごと、殺しんしゃい!」

犯歴を重ねて少年院に何度も入っている大隅は、警察で手荒な取り調べを受けたり、少年院で不自由な生活を強いられることの不快感が、骨身にしみていた。

ここまでやったら逮捕されて、四度目の少年院へ送られるのは間違いがなく、そんなことにならないよう、口を封じておこうというのだ。

だからと言って、傷害罪で訴えられるのを避けるために被害者を殺してバレれば、より重い刑が科されるに決まっているのだが、そこまで考える気はなかったらしい。

大隅は激情的で悪辣な上に人並外れて低能だったからだ。

他の者たちも同じで、誰も止めようとはしなかった。

ボロボロになった梅川さんを、彼から奪った車のトランクに押し込み、安藤はじめ配下の小島と坂本を同乗させて、まだ暗い12月の早朝、福岡県京都郡苅田町の岸壁へ向かった。

海に突き落とすつもりである。

苅田港の岸壁(イメージ)

大隅たちは岸壁への道中の車内でも、着いてからも、梅川さんをさんざん殴った。

それにも飽き足らず、口に火のついたタバコを放り込み、殴りすぎて手が痛くなるとクランクやナット回しを使って殴り、スペアタイアを投げつけるなど滅多打ちにし、岸壁から海中に落とそうとした。

「もうやめんね!!勘弁しちゃらんねえええ!!!」

だが、梅川さんは腫れあがった顔を、血と涙でぐちゃぐちゃにして泣き叫び、岸壁のへりにしがみついて、必死に落とされまいと抵抗。

すると今度はその手に向けてバールが打ち下ろされる。

肉がえぐれ、骨が露出して血が流れ出し、痛みのあまり意識を失ったらしく、ぐったりしたが手は離さない。

そんな、生への凄まじいばかりの執念を目の当たりにして、たじろいだ者もいた。

「もうやめにせんね?なんかかわいそうやん」

だが大隅は冷静だった。最悪な意味で。

「ばーか!オメーらも殺人未遂の共犯やけんね。捕まったらしばらく出て来(こ)れんとばい。何が何でも殺すしかなかろうもん!」

その時、海の向こうから一艘の船が、こちらの岸壁に近づいてきたのが見えた。

まずい、これを見られたら面倒なことになる。

彼らはここでの殺害を中止、ヘリにしがみついていた梅川さんを引きずり上げて車のトランクに入れ、その場を離れることにした。

だが殺害自体を断念したわけではなかった。

もはや誰もやめようと言い出す者もなく、集団はそのまま最悪の結末へと突き進む。

安藤がハンドルを握る車の中では、具体的な殺害方法と場所の検討が始まった。

「港は船とか車の来(く)っけん、いかんばい。ダムに沈むっとはどげんかいな。ここらでダムとかあったかいな?」

「力丸(りきまる)ダムとか、いいっちゃないと?」

「よか。オイ安藤、力丸ダムやけんね。」

一行は今度こそ確実に殺そうと、福岡県宮若市にある力丸ダムに向かったが、途中で中止した。

「ダムやったら死体が浮いてくるっちゃないと?」と、死体が浮いてくる可能性があると考えたためだ。

「そいなら、どげんすっと?埋(う)むっとは?あ、そうだ顔のわからんごと燃やしちゃろう」

「ガソリンやったら、バリバリ燃えるやん」

力丸ダム

逮捕後の取り調べで明らかにされたが、これらの会話はトランクに押し込められている梅川さんにも当然聞こえていた、というか聞かせていた。

後ろから、恐怖と苦痛のあまりうめきながらすすり泣く梅川さんにさらに追い打ちをかけるように、大隅は笑いながらこう言ったという。

「光、もうすぐ楽にしちゃる!」

7日朝8時、大隅らは途中で犯行に使うガソリンを購入するために、ガソリンスタンドに立ち寄る。

「バイクがガス欠になったけん、これに入れちゃらん」

そう言って、1リットルの瓶を差し出した彼らのことならよく覚えていると、従業員は後に語った。

一目で不良と分かる連中だったが、女性従業員に卑猥な言葉をかけて笑い合うなど、この時に買ったそのガソリンを使って殺人を起こすつもりである様子は、一切感じなかったらしい。

ガソリンを購入した後、車内で大隅は、殺害の役割分担を決めようと言い出した。

自分だけが罪をかぶる気はなかったし、全員をそれぞれ殺人に加担させれば、誰もおいそれと口外したりはしないだろうからだ。

「ガソリンかくる役やら、火ィ付くる役とかジャイケン(ジャンケン)で決めるけん」

「じゃあ俺、ガソリンばかくる役ばやりますけん」

ジャンケンの前に自ら志願したのは17歳の小島で、これは実際に火を付ける役を嫌ったかららしい。

「俺はティッシュに火ば…」ともう1人の配下の坂本も直接手を下す役を避ける。

結局、殺害場所の選定は運転する安藤が行い、火を付ける役は大隅自身に決まった。

死の恐怖を梅川さんにたっぷり味わわせながら、人気のない場所を探して車で走り回ること2時間。

殺す場所として選んだのは粕屋郡久山町の旧犬鳴トンネルで、そこは人通りがほとんどない山の中の旧県道であり、当時から心霊スポットとされるくらいの不気味な雰囲気を漂わせていた。

旧県道の入り口(現在は閉鎖されている)

午前10時ごろ、一行はトランクを開けて梅川さんを引きずり出すと、手はずどおり小島がガソリンを浴びせる。

「ああああああああ!!!」

その時、今まで弱々しくうめいていただけの梅川さんがとんでもない大声を上げたために小島は思わずひるんでしまった。

全身を鈍器まで使って滅多打ちにされた体のどこにそんな力があったのか、脱兎のごとく走り出して山の斜面を登って逃走。

「何逃(の)がしようとか、バカが!!捕まえんか!」

大隅たちも慌てて跡を追ったが、山の中に逃げ込んだ梅川さんの姿は完全に消えてしまった。

このまま逃げ続けていれば彼も20年というあまりにも短い生涯を無残に絶たれることなく、さらわれてさんざん暴行されたことによる肉体的精神的な後遺症は残ったとしても、2021年の現在まで生きていたかもしれない。

しかし神から与えられた絶体絶命の危機を脱する機会を一度ならず二度までも無駄にしてしまい、命運が尽きる。

「おーい光!(俺らが)悪かったけん出てこんね。もう何もせんけん、家にも帰しちゃーけん!」

この見え透いた大隅の呼びかけに対して、愚かにも山の中から姿を現し、おとなしく出てきてしまったのだ。

あるいは、この場は逃げおおせたとしても、自分の住所を知っている犯人たちに後日再び襲撃されて、よりひどい目に遭わされることを恐れていた可能性もあるが。

「バカか貴様(キサン)!終わったバイ」

大隅たち悪魔の方は、この機会を逃さなかった。

再び捕らえると、今度は逃がさないよう4人がかりで両手両足をビニールテープで縛り、口には仲間の1人から差し出させたシャツを破いて押し込む。

縛られて、さるぐつわをされた口から、必死に命乞いの言葉を発する梅川さんを道路に正座させ、残ったガソリンをかけて火のついたティッシュを投げ込んだ。

瞬間的に発火して火だるまとなった彼はのたうち回り、火で溶けた衣類やビニールテープを路上やガードレールにこびりつかせながら走り回った後に崩れ落ち、やがて動かなくなった。

焼殺現場(当時の新聞より)

愚劣極まりない犯行後の犯人たち

梅川さんが息絶えた後、犯人たちは、とどめとばかりに石か鈍器のようなものを頭に叩きつけており、頭の傷はこの時できたものと判明した。

ネットでは、この傷からの失血死という情報もあるが、当時の報道を見る限り死因は焼死である。

大隅たちは梅川さんを焼き殺した後、すぐに車で現場を離れたようだが、また五分後に戻ってきて車内から動かなくなっているか否かを確認。

それを三回も繰り返していた。

犯人たちは、さらなる証拠隠滅のため、奪った財布から免許証を取り出して焼き、同じく梅川さんの時計も投棄。

かように用心に用心を重ねたつもりの大隅たちだが、その後の行動が、あまりにもずさんだった。

一旦、監禁場所の家に戻ると、殺人には加わらずそのまま家にいた沢村も加えて、5人で隣町の飯塚市へ梅山さんの車で飲みに出かけ、戻ってくると、自分たちの指紋や被害者の血痕などの物証だらけの車にカギをかけ、田川市後藤寺の路上に駐車していたのだ。

逮捕後の供述によるとまた使うつもりだったらしい。

押収された梅川さんの車(当時の新聞より)

後に、その物的証拠が決め手となって逮捕に至るわけだから、犯罪者としても三流だったとしか言いようがない。

おまけに、大隅は生活保護を受ける母親と暮らす自宅に戻った際、近所の人に「警察来(き)とらんよね?人ば焼き殺してしもうたけんくさ」と、にわかには信じがたい言葉を吐いている。

被害者遺族たちの悲憤

被害者の葬儀(当時の新聞より)

生前の梅川さんは、その内向的でおとなしすぎる性格から、友達付き合いもあまりなく、仕事が終わるとまっすぐ家に帰っていた。

また、給料の10万円のうち7万円を家に入れ、よく車で祖母や母を買い物に連れて行く、近所でも評判の孝行息子だったという。

親子三代でつつましく暮らす梅川家における、かけがえのない宝だった。

その宝、たった1人の子供をあり得ないほどむごたらしい方法で奪われた遺族の悲しみが、尋常ではなかったのは言うまでもない。

9日に密葬が行われた後の自宅では、母の裕美さん(45歳、仮名)と祖母の房江さん(75歳、仮名)が奥の部屋にこもったままで、涙で目を真っ赤にはらし、親族の慰めにも無言でうなずくだけだったという。

叔父の健さん(50歳、仮名)は怒りをこらえながらマスコミの取材に答えてこう言った。

「ただ悔しいとしか言いようがない。犯人に対して何もできないし、耐えるしかないのか。許されるなら、同じことを犯人に対してしてやりたい」

反省なき鬼畜たちのその後

主犯の大隅は、姉に付き添われて田川署に出頭してきた時はぶるぶる震えており、9日の夕食、10日の朝食とも一口しか手を付けず「光のことを思うと食欲が出らん」などと言った。

他の少年たちも「かわいそうなことをした」と後悔の言葉を漏らすようになっていた。

しかしそれは最初だけだったようだ。

犯人たちは開き直ったのか、これが素だったのか次第に何の反省もない態度を取り始める。

朝昼晩の食事は全て平らげ、外部から差し入れられたカップラーメンも完食。

取り調べでもあっけらかんと笑みすら浮かべて犯行についての供述をした。

殺害には加わっていないことを理由に「俺は見張りしてただけやろうもん。なして捕まらんといかんと」と言い張る沢村も問題だったが、焼殺の実行犯たちの中には「あいつが車ば貸さんかったけん、やったったい」とすら口にした者もいた。

主犯格の大隅である。

大隅はさらに「俺は何年の刑になると?」と、自分が未成年であることを理由に大した刑にはならないとタカをくくってすらいた。

だが、甘かった。

その後の一審判決で無期懲役が下されるや「重すぎる」と控訴。

1991年3月8日、福岡地裁で開かれた裁判では控訴を棄却されて二審でも無期懲役が確定した。

成育歴が劣悪だっただのの言い訳や、拘置所で被害者の冥福を祈って読経をしたりのこれ見よがしの行為では、情状酌量は認められず、

『犯行は他に類例を見ないほど残虐。被告はその中心的な役割を果たしており責任は重い』

と判断されたのだ。

しかし、事実上の副主犯格の安藤薫には、5年以上10年以下、その他の従犯の小島幹太と坂本剛史には、4年以上8年以下の懲役であったのは果たして妥当であったのか?

あれほどの凶悪犯罪を行った大隅は、2021年の現在でも服役していると思われる一方、他の3人のうち出所後、地元の広域暴力団に加入して幹部にまでなった者がおり、今でも「あの時の犯人は俺だ」と犯行を自慢しているという、ウソか誠か知れぬ情報がネットでは出回っている。

しかし、あながちウソとも思えない。

あんなことをしでかした奴らだから暴力団に加入してもおかしくないし、そこしか行き場はなかっただろうからだ。

凶悪犯罪を平気で犯すような奴らは、基本的に反省することがないと考えるべきである。

必ず「あれは仕方なくやったんだ」とか「もう償いは十分したはずだ」とかの言い訳を、自分の中で確立するものだし、逆に武勇伝として誇らしく吹聴したりして、再び犯罪に手を染める輩が多いことは女子高生コンクリ殺人の犯人たちのその後が、証明している。

凶悪犯を反省させる必要はない。

だが一線を踏み越えたことへの後悔だけは、十分にさせる必要がある。

司法は更生よりも、危険極まりない人物を、社会から隔離するか無力化することに重点を置くべきだと思うのは、筆者だけではないはずだ。

死体発見現場にたむけられた花(当時の新聞より)

出典元―西日本新聞・朝日新聞西部版・『うちの子が、なぜ!―女子高生コンクリート詰め殺人事件』(草思社)

かげろうの家 女子高生監禁殺人事件 (追跡ルポルタージュ シリーズ「少年たちの未来」2) 犯人直撃「1988名古屋アベック殺人」少年少女たちのそれから―新潮45eBooklet 事件編10 うちの子が、なぜ!―女子高生コンクリート詰め殺人事件

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エチオピア軍の朝鮮戦争 ~エチオピア最強部隊・カグニュー大隊~


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1950年6月25日、朝鮮半島の南北統一をもくろむ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が事実上の国境となっていた38度線を超えて南の大韓民国(韓国)に侵攻。

1953年7月27日まで丸々三年続くことになる朝鮮戦争が始まった。

6月27日に開催された国連安保理では、この北朝鮮の南侵を侵略と認定。

7月7日、北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国防衛のため、加盟国にその軍事力と支援を提供するよう求め、アメリカを中心とする国連軍の出動が決定された。

この国連軍には、北朝鮮の後ろ盾であり言わずと知れた黒幕のソ連や中国(この当時は国連に加盟していなかった)はもちろん参加しておらず、アメリカをはじめとする西側陣営の諸国が中心となった16か国で構成されていたが、その中には、遠くアフリカ大陸から参戦したエチオピア軍も加わっていた。

規模ではアメリカ軍32万人に遠く及ばない1200人程度の大隊の派遣であり、アメリカ軍の指揮下での戦闘参加である。

しかし、ただ国連軍に名を連ねていただけの影の薄い存在では、決してなかった。

なぜならその“カグニュー大隊”と呼ばれたエチオピア軍は、北朝鮮軍や中国軍(抗美援朝義勇軍)と戦闘で、対等以上に渡り合ったからである。

カグニュー大隊の派遣

当時エチオピアを統治していたエチオピア帝国皇帝のハイレ・セラシエは、国連の要請を受けると部隊の派兵を快諾した。

第二次大戦中イタリア軍に自国を侵略されたハイレ・セラシエは、集団安全保障という考え方の信奉者であったからである。

そして、派遣される部隊は主に皇帝直属の親衛隊から選ばれた大隊規模で、指揮官や将校も第二次世界大戦を経験した筋金入りで組織された。

その大隊は、ハイレ・セラシエ皇帝の父で19世紀末に起きた第一次エチオピア戦争の英雄でもあるラス・マコネンの乗馬の名にちなんで、“カグニュー”大隊と呼ばれるようになる。

カグニュー大隊は、派遣前に朝鮮半島の地形に似た山岳地帯で八か月の訓練を受けると、買開戦翌年の1951年4月12日に、当時フランスの植民地だった隣国のジプチから、第一陣1122名が海路極東に向けて出発。

5月6日、釜山に到着すると米国製の装備を受け取って、さらに六週間にわたる訓練を受けてから米軍第7歩兵師団の指揮下に加わり、共産軍との一進一退の攻防が続く38度線近くの最前線に配置された。

カグニュー大隊の戦闘

カグニュー大隊は1951年8月12日、現在の韓国江原道華川群の赤根山での作戦を皮切りに、米軍の下で共産軍相手の戦闘を開始した。

それから間もない10月の三角丘の戦い(鐵原郡)において、夜間戦闘で目覚ましい働きにより頭角を現し、米軍将兵を瞠目させるようになる。

それもそのはず、彼らはエチオピア軍の最精鋭部隊である皇帝の親衛隊隊員。

エチオピア国内において卓越した頭脳、精神力、肉体を有した者の中から選抜された本物の戦士たちだったからだ。

そんな“男の中の男”たちで構成されたカグニュー大隊の戦場でのモットーは“勝利か死か”。

米軍から貸与されたM1ガーランドやM1カービンを使いこなし、500メートル以内での命中率は抜群で、迫りくる共産軍の兵士を片っ端から射殺。

白兵戦も上等で、人数にモノを言わせて雲霞のごとく押し寄せてくる中国軍にも銃剣で立ち向かって返り討ちにしたのだ。

朝鮮戦争の休戦まで同大隊は三回入れ替わったが、その間 “鉄の三角地”での戦いや1953年の“ポークチョップヒル”の戦いまで激戦を戦い抜き、どの戦闘でも共産軍相手に後退することはなかった。

1953年5月の戦いでは、共産軍の一個大隊を壊滅させ、大韓民国政府から勲章を授与される栄誉に浴する。

そして、1953年の7月27日に休戦協定が結ばれるまで、戦場に留まり続けた。

カグニュー大隊は、この戦争で延べ6037人が派遣され121人の戦死者と536人の戦傷者を出したが、特筆すべきは、共産軍の捕虜になった者が一人もいなかったことである。

また、戦死者の死体を戦場に置き去りには、決してしなかったという。

この勇敢さと戦闘力を、指揮下に置いていた米軍も、大いに認めていた。

米国はこの戦争で「敵対する武装勢力との交戦において勇敢さを示した」兵士に対して授与される最高の勲章、シルバースターを9個、それに次ぐ「作戦において英雄的、かつ名誉ある奉仕を行い、成果を挙げた」兵士に授与されるブロンズスターメダルを18個、エチオピアの戦士たちに贈ったのだ。

シルバースターは、本来自国の兵隊である米兵にしか授与されないものなので、いかに彼らの評価が高かったかが分かるであろう。

戦後

休戦後もエチオピアからの派兵は続き、国連軍の一部として第4、第5カグニュー大隊が入れ替わりで韓国内に駐留した。

余談ではあるが、ローマと東京オリンピックのマラソンで二大会連続金メダルを獲得したアベベ・ビキラは、皇帝親衛隊出身でカグニュー大隊の一員として朝鮮に派遣されおり、釜山到着後休戦になったため、駐留軍に加わることもなく帰国している。

このように、朝鮮半島で命をかけて戦った彼らだが、その功労に報いるべきエチオピア帝国は、長く続かなかった。

皇帝のハイレ・セラシエは外交では、活躍したが内政では失政が続いたために国内では不満が溜まり、1974年のエチオピア革命で廃位された上に翌年殺害されてしまい、帝国が滅んだからだ。

エチオピアの新たな支配者となったメンギスツ率いる社会主義軍事政権は当然、前政権で特権的地位にあった皇帝の親衛隊隊員たちを快く思うはずがない。

その後の人生を手厚く保証されるはずだった元隊員たちの多くが殺されないまでも冷遇され、みじめな境遇に落ちぶれることになってしまった。

だが、その一方で韓国は彼らへの感謝の念を忘れていなかった。

第二次大戦前における日本の所業を捏造してまで追求し、ベトナム戦争時での自国軍の戦争犯罪には知らんぷりするが、国家存亡の危機にアフリカからはるばる救いの手を差し伸べたエチオピアに対しては違ったのだ。

カグニュー大隊の記念碑や記念館を建立し、1996年にはカグニュー大隊の生き残りの兵士たちへの給付金の支給を決定。

多くが貧困に落ちぶれた元隊員の子弟たちの中でも成績の優秀な青年を学費免除で韓国に留学させたりするなど、目に見える形で報いようとしているのだ。

朝鮮戦争が休戦になってから、60数年となった現代。

かつてはるか遠くの朝鮮半島で戦ったカグニュー大隊の隊員たちは老境に達し、200人余りとなった彼らは時々戦友たちと旧交を温めながら故国で余生を送っている。

そのうちの一人はこう語った。

「皇帝陛下の御命令は、“韓国の自由と平和を守れ”だった。しかし一つ目の“自由”は守ったが、二つ目の“平和”は守れなかった。あの戦争は休戦したのであって終戦ではなく、未だに韓国と北朝鮮に分かれて緊張状態が続いているからだ。せめて死ぬ前に統一された朝鮮を見たい」

出典元-百度百科、ウィキペディア英語版

わかりやすい朝鮮戦争 民族を分断させた悲劇の構図 (光人社NF文庫)

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ゴア併合 ~1961年・印ポ小戦争~


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1961年12月18日、1510年以来ポルトガル領となっていたインド西海岸のゴアにインド軍が侵攻。

陸海空3万人以上による攻撃で駐留するポルトガル植民地軍を圧倒して降伏させ、力づくで451年続いたポルトガル統治にピリオドを打ち自国の領土に編入した。

当事国であるインドはこの軍事行動をヴィジャエ(勝利)作戦と称して自国の領土を奪還した正当な措置と主張し、もう一方のポルトガルはゴア侵略(Invasão de Goa)と呼んで反発。

このインドの武力行使については国際的に賛否両論が巻き起こり、両国はそれ以来1974年まで断交状態が続いた。

前史

ゴアは1510年、ポルトガル人アフォンソ・デ・アルブケルケに占領されて以来、400年以上にわたってポルトガルに支配され、他にもダマン(正式併合1539年)、ディーウ(1535年併合)が英国から独立した1947年の時点でもポルトガル領インドとして存在していた。

当時のこの三か所のポルトガル領インドの総面積は約4000平方キロ、総人口は637591人。

そのうち61%がヒンズー教徒で、ポルトガルの植民地であった影響で36.7%がキリスト教徒(もちろんカトリック)、イスラム教徒は2.2%のみであった。

すでに大航海時代の黄金期ははるか昔の話となり、主要な産業は農業であったが、1940年代から鉄やマンガンが採掘されるようになって砿業が盛んになりつつあった。

しかし第二次世界大戦前、英国の植民地であったインド本土が独立運動を展開していたのと同様に、ゴアにおいてもポルトガルの統治に反対する動きが起こっていた。

T.B.クーニャ

その先駆者となったのはフランスで教育を受けたゴアのエンジニア、T.B.クーニャであり、1928年ゴア会議派委員会を創設し、ゴアのポルトガルからの解放を呼びかけた。

同時期、英国に対して独立運動を行っていた本土のインド人の指導者たちラージェーンドラ・プラサードやジャワハルラール・ネルー、スバス・チャンドラ・ボースなどもこのゴア会議派委員会に賛同する意思を表明。

1938年にはクーニャらは当時インド国民会議派議長だったスバス・チャンドラ・ボースと会見し、ボースの提案の下、ムンバイにゴア会議派委員会の支部が設けられてクーニャが議長となった。

そして第二次世界大戦を経た1947年、英国から独立したインドはポルトガルにも自国の領土の返還を要求する。

だが、当時独裁政治を行っていたアントニオ・サラザール率いるポルトガル政府は植民地帝国としての権威にしがみつき、これを拒否した。

植民地を有することによってかろうじて大国としてのメンツを守っていたポルトガルは、ゴアの独立が他の植民地での独立闘争に波及することで植民地帝国が崩壊することを恐れていたのだ。

アントニオ・サラザール

そしてゴアの植民地当局は公共の場所での集会を禁止し、解放運動の参加者を逮捕するなど力で抑え込む措置に出た。

これに対し、ゴア人たちの植民地政府への抗議行動は主にガンジー式の非暴力によるものであったが、ゴア自由党やゴア統一戦線のように武装蜂起する集団も出現するようになる。

これらの武装集団の構成員はゴア以外のインド人が大部分で、第二次大戦中は英印軍に参加して実戦を経験していた者が多かったため、大戦中は中立を守っていたポルトガルの植民地軍を大いに苦しめた。

インド政府もゴア自由党などの武装抵抗組織に武器を援助したり、インド領内での活動を認めたばかりか、ゴアへの道路や水道、電話線を封鎖。

ポルトガル植民地政府に圧力を加え始めた。

ゴアをめぐるインド-ポルトガルの外交交渉

1950年2月27日、インド政府は改めてポルトガル政府にゴアを含めた他のポルトガル領インドの今後についての話し合いを要求したが、ポルトガルはインド亜大陸における領土は植民地ではなくポルトガル本土であるという姿勢を崩さず、話し合いを拒否。

同時に、それらの地がポルトガル領に編入された時にインド共和国は存在しなかったことを理由に、インドに帰属すべき歴史的な根拠がないと主張した。

ポルトガルは1949年に北大西洋条約機構(NATO)に加盟しており、これも強気の背景となっていた。

この政府間軍事同盟は加盟国の域内が攻撃された場合に、集団的自衛権を行使し共同で対処することができるからだ。

ポルトガルの強硬な態度にインドも対抗措置として1953年6月11日リスボンから外交使節を引き上げさせた。

1954年になるとインドはポルトガルへの嫌がらせをよりグレードアップさせる。

ゴアの住民のインド本土入境にビザの申請を義務付けたのだ。

これによりゴア以外のポルトガル領であるダマンやディーウとの相互の往来にも支障をきたすようになった。

同年7月22日から8月2日の間には武装集団がゴアとは別のポルトガル領インドであるダドラとナガル・ハヴェーリーのポルトガル軍守備隊を攻撃するなどゲリラ攻撃も続く。

そして翌年の1955年8月15日、事件が勃発する。

この日非武装のインド人活動家3000から5000人が抗議活動のため六ケ所からゴアに侵入しようとしていたのだが、それをポルトガル当局が武力で制圧したため30人ほどの死者を出す大惨事となったのだ。

この事態は本土のインド人の反ポルトガル感情を激化させ、同年9月1日にインド政府はゴアの領事館を閉鎖、武装抵抗組織を支援するだけでなく軍による武力行使をもちらつかせるようになった。

一方のポルトガル政府内ではゴアの帰趨を現地の住民投票により決める案も検討されたが同国の国防相や外相の反対により立ち消えとなる。

また、英国による調停や国連の介入を要請するなど外交チャンネルを通じた解決を模索。

その結果駐インド米国大使がインド政府に平和的な解決を要求するなど国際的にも関心が高まってきてはいたが、当時インドとは友好的な関係だった中華人民共和国などは当然のごとくインドを支持する声明を発表。

インドの国防相と国連大使は「武力解決も辞さじ」ともとれるような声明を出し、強硬な態度をエスカレートさせていた。

そして1961年11月24日、決定的な事態が発生する。

インドの客船サバルマティ号がポルトガル領アンジェディバ島の付近でポルトガル軍から銃撃を受けて2名の死傷者を出したのだ。

ポルトガル側は同船が自国領であるアンジェディバ島を攻撃するための武装集団を乗せていると疑ったためだったが、完全にインド側に軍事行動を起こさせる口実を与えてしまった。

インド首相ジャワハルラール・ネルー

12月10日、ポルトガルへの軍事行動を支持する世論に背を押されたインド首相のネルーはメディアに「ゴアがこれからもポルトガルの統治下に置かれ続けることはあり得ない」と最後通告ともとれる発言を行う。

米国はこれが国連安保理に侵略行為として提出されたら今後いかなる支援もしないとインドに警告したが、武力衝突は秒読みとなっていった。

インド軍の侵攻準備

ゴア奪還のためにインド政府は陸海空3万人以上の部隊を編成していた。

むろんサバルマティ号が銃撃されるずっと以前からであったことは言うまでもない。

まず陸軍が南部軍管区の歩兵第17師団と第50空挺旅団が中心となり、飛び地のダマン攻撃にはマラーティー軽歩兵大隊、ディーウ攻撃にはラージプート第20大隊とマドラス第4大隊が割り当てられていた。

空軍も航空支援に当たることになり、インド西部軍管区空軍司令官の指揮の下、20機のキャンベラ爆撃機や6機のバンパイア戦闘機をはじめとした計42機がポルトガル側の空軍基地攻撃を行う。

インド海軍はラージプート級駆逐艦のラージプート、ククリ級フリゲート艦のキンパルをはじめ巡洋艦2隻、駆逐艦1隻、フリゲート艦8隻、掃海艇4隻の堂々たる陣容で、これに加えて介入を試みる第三国ににらみを利かせる目的も兼ねて軽空母のヴィクラント(初代。現在同名のインド軍空母は二代目)までが参加することになった。

ちなみにこのヴィクラントは後の第三次印パ戦争でパキスタン軍相手に機動戦を行うなどの大暴れをすることになる。

インド海軍軽空母ヴィクラント

ポルトガル軍の迎撃準備

12月14日、インド軍の侵攻を予期していたポルトガルの独裁者サラザール首相はゴアの総督兼現地ポルトガル軍の最高司令官マヌエル・アントニオ・ヴァッサロ・エ・シルバに断固死守を厳命する。

ゴア総督マヌエル・アントニオ・ヴァッサロ・エ・シルバ

そうは言っても、陸海空至れり尽くせりで準備万端のインド軍に対し現地のポルトガル軍は兵力でも装備でも劣り、約3300人のヨーロッパ系の兵士と900人の現地人兵、他に約2000人の警官が動員できる全てであり、なおかつ訓練が不足していた。

艦艇もフリゲート艦1隻と巡視艇3隻、その他徴用した商船しかなく、それをゴア、ダマン及びディーウの防衛に振り分けなければならないなど明らかな劣勢であった。

そしてポルトガル軍の戦術はモーミューガオ港を死守することで、インド軍の侵攻を遅らせるために開戦と同時に橋梁を爆破し、幹線道路に地雷を埋設する手はずだったが、必要な地雷も爆薬も不足していた。

インド軍は事前にポルトガル軍がF86セイバー戦闘機を有した飛行中隊を有していると考えていたが、実際には輸送機が2機と2個高射砲中隊を保有するに過ぎず、彼我の戦力差は陸海空いずれも絶望的ですらあった。

増援をしようにも軍需物資を積んだ輸送機の領空通過を周辺国に拒否されたばかりか、同じ北大西洋条約機構加盟国であり身内であるはずの英国にまで支援を断られ、事実上ゴアは孤立無援となっていた。

開戦前の時点でポルトガルは敗北していたのだ。

12月9日、ゴアに立ち寄ったポルトガルのリスボン行きの船によるポルトガル系の民間人の本国への退避が始まったが、これはゴア総督ヴァッサロ・エ・シルバの独断での退避許可であって、何とポルトガル本国の政府は民間人の退避を認めないように総督に命令していた。

この民間人の避難は一回で終えることはできず、インド軍の空襲が始まるまで続けられることになる。

ヴィジャエ(勝利)作戦の開始

12月1日からインドはゴアへの小規模な偵察を行い、12月18日、海上でゴア攻撃の火ぶたが切られた。

同日午前4時、ポルトガル海軍の巡視艇ベガがディーウ付近の海域でインド海軍の巡洋艦ニューデリーに遭遇、攻撃を受けて基地に撤退。

これが事実上のインド軍によるゴア武力奪還作戦・ヴィジャエ(勝利)作戦の始まりだったが、この期に及んでもポルトガル側には開戦したという認識はなかったようだ。

インド軍の空襲

キャンベラ爆撃機

ポルトガル海軍の巡視艇が攻撃された同日の12月18日、インド軍空軍の爆撃が始まり、本格的な武力衝突の火ぶたが切って落とされた。

12機のインド空軍の英国製キャンベラ爆撃機がまず攻撃したのはゴアの空の玄関口ダボリム飛行場。

爆撃で滑走路を破壊すると、その1時間後には8機のキャンベラ爆撃機が再度空襲を行ってポルトガル空軍の輸送機を1機破壊した。

インド空軍は無線局にも攻撃を行い、この時ようやくポルトガル軍の高射砲が迎撃を始めたがもはや効果的な反撃はできそうになく、数時間後にはダマンやディーウも航空攻撃を受けることになる。

海上での戦い

インド海軍軽巡洋艦マイソール

18日14時25分には飛び地のアンジェディバ島にインド海軍の陸戦隊が上陸してポルトガルの守備隊と交戦。

一旦インド軍は撃退されたが、その後海軍の軽巡洋艦マイソールやフリゲート艦トリシュルによる艦砲射撃が島に加えられ、翌19日の14時にポルトガル軍は降伏した。

この地での戦闘ではインド側に7人の戦死者と19人の負傷者が出た。

ゴア本土のモーミューガオ港では小規模な海戦も起こる。

同港に立ちはだかるポルトガルのフリゲート艦アフォンソは、フリゲート艦ベトワをはじめとした3隻のインド艦艇相手に400発近くの砲弾を発射するなど奮戦。

しかし衆寡敵せず、艦橋を破壊されるなどの深刻なダメージを受けたために艦の放棄の命令が下され、乗組員によって座礁させられた。

フリゲート艦アフォンソ

ゴアでの地上作戦

18日早朝、インド軍第50空挺旅団が三つに分かれて侵攻を開始した。

東を進むのは第2マラーティ空挺連隊でポーンダーからゴアの中心に侵入。

中央は第1パンジャブ空挺連隊であり、バナスタリムに向けて進撃。

西へは第2シーク軽歩兵連隊が進み、朝6時30分インドとゴアの境界線を越えて侵入。

抵抗らしい抵抗も受けずにポルトガル領ゴアの中心地パナジに迫ったが、次の命令を待つために手前500メートルで停止する。

翌19日7時30分、改めて攻撃の命令を受けて二個中隊がパナジに侵攻したがまたも抵抗を受けることなく占領に成功、現地の住民から解放軍として迎えられた。

北部と東北方面戦線

18日、北部ではインド第63歩兵旅団が左右二つの縦隊に分かれてゴアに侵攻、右の縦隊は第2ビハール連隊、左の縦隊は第3シーク連隊で構成されていた。

両連隊とも抵抗を受けることなく進撃したが、河川に架かる橋をポルトガル軍に破壊されていたので遅滞を余儀なくされる。

しかし翌日、胸まで水につかりながら第3シーク連隊は河川を強行突破して同日正午にはゴアの行政の中心であるマーガオに到達。

そこからゴアの主要港のモーミューガオ港に向かったが、途中でポルトガル軍の強烈な反撃に遭遇する。

しかしこの頑強なポルトガル軍(約500名)も後から加わったインド軍の第2ビハール連隊の火力に押されて劣勢となり、最終的には降伏した。

そのマーガオ以南の地域ではインド軍の第4ラージプート中隊のように地雷原に誘い込まれた部隊もあったが、最重要防御地域であるために激戦が予想されたモーミューガオ港への進撃は同港を守るポルトガル軍が一発も発砲することなく降伏したことで幕を閉じる。

19日20時30分、ゴアでの戦闘は終わった。

ダマン攻撃

18日払暁、ゴアよりはるか北方のアラビア海に面した飛び地であるダマンを攻撃したのはインド軍のマラーティ第1軽歩兵連隊である。

17時までにマラーティ第1軽歩兵連隊はほぼ無血でダマンの大部分を占拠。

600名のポルトガル軍守備隊は戦意を喪失して飛行場に逃げ込んだが、翌日そこを包囲されると投降した。

ディーウ攻撃

同じく18日の早朝ダマン西方のディーウにインド軍第20ラージプート大隊の二個中隊が西北方向から侵入した。

しかしダマンと異なり、この地を守るポルトガル軍は戦意旺盛で死に物狂いの抵抗を見せたために進撃が阻まれる。

インド軍も航空機による支援爆撃などで対抗したが戦闘は続いた。

翌日まで徹底抗戦を続けたポルトガル軍だったが弾薬が底をついたため、降伏を余儀なくされた。

このディーウでの戦闘でインド軍は4人が戦死して14人が負傷、ポルトガル軍は10人が戦死して2人が負傷していた。

19日午後にはディーウ近くの沖に浮かぶ島パニー・コータもインド軍マドラス大隊に占拠された。

ポルトガルの降伏

19日の夜までにゴアの大部分はインド軍に占領され、残りはゴア西海岸の都市ヴァスコ・ダ・ガマに2000人余りのポルトガル軍兵士が立てこもっているに過ぎなかった。

だが、この期に及んでもポルトガル本国の命令は強気かつ非情で、それは「ゴアを破壊しつくせ」という焦土作戦の実行だった。

ポルトガル総督ヴァッサロ・エ・シルバが「インド軍は自軍の数倍以上で弾薬も食料も欠乏している」と本国に実情を報告したにもかかわらずである。

22時30分、万策尽きたと判断した総督は本国の指令に反して降伏を選択。

総督自らが降伏文書に署名してポルトガルの451年にわたるゴア統治は幕を下ろした。

この軍事行動でのインド側の戦死者は22人、ポルトガル側は30人であったが、もし総督が本国の命令に忠実であったならばより多くの犠牲が出ていたことは間違いない。

降伏後ゴアを離れるアフリカ系ポルトガル軍兵士

その後

降伏した4668名のポルトガル兵は捕虜となったが、翌1962年5月にその大部分は釈放された。

だが、独断で降伏を選んだゴア総督ヴァッサロ・エ・シルバは帰国後に軍法会議にかけられ、マデイラ諸島に流されてしまった。

まごうことなき敗戦であり、この事実はポルトガル国民を打ちのめした。

その年のクリスマスは異様に沈んだムードの下迎えられ、あたかも国中が喪に服しているようだったという。

ポルトガル政府はこのインド軍によるゴア併合を侵略と非難、インドとの外交関係を断交したばかりか、その後ラジオ放送を通じてゴア市民にインドへの抵抗を呼び掛けることすらした。

何ら支援しなかったとはいえポルトガルを支持する米国、英国も国連で非難決議案を出したが、ソ連に拒否権を発動されてしまった。

開戦前からインド寄りだった中華人民共和国(この当時は台湾の中華民国が常任理事国だった)もこの軍事行動を支持したが、この翌年にインドと国境紛争を起こすことになる。

ポルトガルがインドとの外交関係を復活させたのは、1974年に起きたカーネーション革命以後のことである。

サラザール亡き後の独裁政権を倒したポルトガル新政権は侵略されたとしてきたゴアをはじめとした旧自国領のインドの主権を認め、外交関係を修復させたのだ。

ちなみに犠牲を最小限に抑えたが、前政権に背いた決断をしたために流刑に処された元ゴア総督のヴァッサロ・エ・シルバも名誉を回復、1985年に天寿を全うした。

現在のゴアはパナジを首府とするゴア州となり、観光業を主産業に鉱業も盛んなインドでも裕福な州の一つとなった。

インドに復帰してすでに半世紀となったが、ポルトガル時代のキリスト教建築とわずかになったポルトガル語話者が植民地時代をしのばせている。

出典元―ウィキペディア&百度百科

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2021年 おもしろ 歴史

磯田道史と『英雄たちの選択』の魅力

教養番組『英雄たちの選択』で見る磯田道史の凄味


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磯田道史という歴史学者がいる。

岡山県出身の1970年生まれ、

東京歯科大学客員准教授、静岡文化芸術大学文化政策学部准教授などを歴任し、現在、国際日本文化研究センター准教授。

著作は『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』『天災から日本史を読みなおす』『感染症の日本史』など多数あり、

『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』は第2回新潮ドキュメント賞を受賞し、2010年には『武士の家計簿』のタイトルで映画化までされている。

2018年(平成30年)3月16日には「明治150年」を記念して平成天皇・皇后へ進講。

歴史関連のテレビ番組にもコメンテーターや司会として多数出演しており、NHK BSプレミアムで放送されている教養番組『英雄たちの選択』では司会を務めている。

このように歴史学者として華麗な経歴と実績を有し、各方面で大活躍している磯田氏だが、学者となる前の経歴を見るとまさに歴史家になるために生きてきたような人物だということが分かる。

磯田氏の家系は備前岡山藩の支藩である備中鴨方藩重臣に連なり、古文書が数多く残されていたという家庭環境だったために幼少の頃から歴史好きになった。

氏と同じく幼少の時から歴史好きになった者は私を含め少なくないが、氏の研究方法はそのころから他の未来の歴史好きとは一線を画していた。

何と小学生時代、近隣市町村の石仏から拓本を取って回るのが趣味だったのだ。

小学生とは思えない渋すぎる趣味である。

「子供のまま大人になった人」という言い方があるが、氏の場合は「子供の頃からオッサンだった人」も兼ねていると言った方が正しいであろう。

だが、そのおかげで同級生の女子に「オジン」の烙印を押されてしまい、それがトラウマになったようだが。

中学生になると古文書に興味を持つようになり、高校時代には『近世古文書解読辞典』を使って古文書の解読を始める。

私をはじめ幼少より歴史オタクになった者の多くは、大河ドラマか『学習まんが日本の歴史』などのマンガから歴史研究を始めており、中学や高校からようやく活字の歴史書を読み始めることが多いが、氏はこの時点で筋金入りだったのだ。

大学は当然のことながら史学を選択し、京都府立大学文学部史学科に入る。

史跡や古文書の多い京都ならば研究を行いやすいとも考えたようだが、同大に大学院がなかったことから大学の授業を受けながら受験勉強、翌年慶應義塾大学文学部史学科に入学した。

慶應義塾大学では、学内の図書館の膨大な文書の閲覧に熱中するあまり卒倒して救急車で運ばれたことがあるほど研究に専念。

同大学を卒業し、2002年(平成14年)同大学院文学研究科博士課程を修了、論文「近世大名家臣団の社会構造」で博士となった。

そんなバックボーンを持っている磯田氏であるから、自らが司会を務める教養番組『英雄たちの選択』で見せる歴史分野に関しての博覧強記ぶりは目を見張る。

日本史におけるどの時代のどの人物、どの事件や時代背景に対してもそれなりの知識と見解を持っているからだが、磯田氏に限らず博士号を有するような学者ならばそうであっても不思議ではないのかもしれない。

だが、氏の瞠目すべき点はそういった碩学ぶりだけでは決してない。

各時代の様々な事柄や現象を、現代的に分かり易く且つ絶妙な表現で視聴者に伝えることこそが真骨頂なのだ。

例えば、以下のごとくである。

武士はハイコスト。一回雇ったら終身雇用どころか子々孫々までの永代雇用となる。
幕末、松下村塾の塾生たちは塾長である松陰の死の作品化を大いに行い、維新につなげた。
(御三家の一つの)尾張藩は徳川内野党。

何という分かり易さだろう。

そして歴史的事実や事物、そして歴史的人物とその業績や行動をマクロ・ミクロ両方の視点で分析して、その意義や後世への影響について自らの見解を語る時などはよりトークが冴えわたる。

徳川家康は人生訓の見本市のような人。彼を見ていたら人生における逆境をどう乗り越えてゆくべきか大いに学べる。
鑑真の開いた唐招提寺は唐の文化や生活を見せるショールーム、中国へのあこがれを日本人に伝えた。思想面では「自分たちも救われてよい権利」を民に根付かせた。
鹿鳴館は西洋を恐れからあこがれの対象に変えた。
(大阪冬・夏の陣で活躍した)真田信繁(幸村)を見てみれば分かるように、有能な人を不遇に置くと恐ろしい結果が待っているというのが私の歴史観だ。
豊臣秀吉を漢字一文字で表すならば「尽」。自分の権威を日本全国津々浦々まで及ぼし尽くし、贅を尽くし、反抗する者は殺し尽くす。

氏は番組の中では常に笑っているような顔で朗らかな口調だが、時として史実を交えながら語るこれまでの通説とは違った独自の視点や仮説は確かな合理性と説得力に裏打ちされた衝撃性を有しており、年季の入った歴史好きでも自らの歴史観をひっくり返される。

明治の外交はなぜ強力だったか?
それは幕末まで続いていた幕藩体制の下、国内外交で鍛えられていたからだ。
徳川家康は戦乱の予防制度として、世が乱れないための安全装置を幾十も施した。結果それは今日に至るまで長く機能したが、変化を求められる現代においてはそれが足かせとなっているのではないか。
天草四郎は(島原の乱に)勝っている可能性がある。
乱以後もキリシタン禁制は続いたが隠れキリシタンは多く存続し、たとえ発覚しても「宗門心得違い」と判断されて役人に見て見ぬふりをされるなど、乱以前のような大規模な弾圧はなくなった。
また百姓一揆が起こっても火縄銃をいきなり水平射撃しないなどの自主規制がなされるようになった。
つまり、キリシタン及び百姓・幕府及び大名双方にやりすぎて相手を怒らせたら大変なことになるという暗黙の了解ができ、目に見えない平和憲法が形成された。

特に天草四郎について、これまで島原の乱といえば幕府軍による一方的な殺戮戦となり、一揆の完全鎮圧で終わったという見解しかなかった私は、氏の仮説を聞いて電撃に撃たれたような感覚がした

新しい視点から質感を有した面で歴史をとらえ、それを的確に伝えることができる磯田氏の見解の突出ぶりを感じたのだ。

歴史はデータの羅列ではない。

西暦何年にどの戦いが起こったか、誰が何を行ったかなどを断片的に知識で知っているだけなのは点でしかない。

それを過去何千年前から現代までをほぼ暗記したとしても、それは線でしかないのだ。

歴史的事件の発生の前にはそれに至る政治的、文化的又は環境的な時代背景や前史があり、

同様にその事件による後の世への影響もあり、それにより新しい社会ができ、

また新たな事件発生のきっかけともなり、その繰り返しによって現代の社会が形成されている。

それを理解してこそ、初めて歴史を面でとらえることができる。

それこそが歴史研究なのだ。

各時代の出来事や事象は有機的に現代へとつながり、今日がある。

島原の乱も、関ケ原の戦いも、応仁の乱も、鎌倉幕府成立も、平安京遷都も、大化の改新も、どれが欠けても今日の日本社会はない。

歴史を研究するということはなぜ今日があるのかを解き明かすことである。

同時に、未来を探求する学問でもある。

先人たちはぎりぎりの選択を行い、ある者は勝利して栄え、ある者は敗れて消え去った。

その原因と背景、その後時代へ与えたプラスマイナスの効果を探れば、将来へ向けてどの方向へ舵を切るべきか極限の選択を迫られた時のケーススタディとすることもできるのだ。

その歴史学の面白さを、氏が司会を務める『英雄たちの選択』は存分に視聴者に伝えていると思う。

同番組では歴史的事件やその当事者たちが決断を下すに及んだ背景や心理状態を、氏をはじめとした歴史学の専門家以外にも、脳科学、政治学、哲学、経済学、交渉術のエキスパートたちがそれぞれの分野の専門的見地から分析して多角的な意見を述べている。

そしてそれらの意見をまとめて、あまり一般的ではない歴史的事実やユーモアを交え、かつ将来我々が取るべき進路をも見据えた磯田氏の解説や意見はやはり確かな説得力を有した斬新性が際立っており、教科書や大河ドラマでは決して味わえない歴史学の醍醐味が実感できるだろう。

この番組での氏の主張には歴史マニア歴三十数年の私も脱帽し、改めて歴史研究の楽しさに気づかされた。

歴史をあまり知らない方にも歴史をある程度好きな方にも、私は自信を持って教養番組『英雄たちの選択』と、司会を務める磯田道史という傑出した歴史家の著作をお勧めしたい。

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2021年 世界史 戦争もの 歴史

ラテンアメリカ諸国の第二次世界大戦


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人類史上最大の戦争、第二次世界大戦。

当時の独立国の61か国のほとんどが参戦し、主に米国、ソ連、イギリス、フランス、オランダ、中華民国などの連合国側と、ドイツ、日本、イタリアなどの枢軸国側が1939年から1945年まで世界中で総力戦を戦った。

主な戦場となったのは欧州や北アフリカ、太平洋やアジア全域であったが、インド洋や中東も戦場となり、さらには大西洋、カリブ海でも連合国と枢軸国の戦闘が行われた。

むろんカリブ海真っ只中や南太西洋に面して位置するラテンアメリカ諸国も好むと好まざるとにかかわらず、それぞれの思惑を抱えながらも戦争に関わり、結果として大部分の地域で経済的、政治的、軍事的に多大な影響を受けた一大転換点となった。

米国の対ラテンアメリカ諸国政策

当初ラテンアメリカ諸国は中立を保とうとしていたが、参戦国、特にその地域を自国の裏庭とみなしていた連合国側の米国はそれを許さず、硬軟織り交ぜて自らの陣営に引き込む政策をとった。

それはまずメディアを使ったプロパガンダ戦略による干渉から始まる。

1940年、米国の名門ロックフェラー一族出身で、のちに副大統領となるネルソン・ロックフェラーはフランクリン・D・ルーズベルト大統領にラテンアメリカにおけるナチスの影響力に対する懸念を表明する。

開戦初頭は枢軸国優勢で、ラテンアメリカ諸国の独裁者や政治団体の中にはファシズムを支持する風潮が存在したためだ。

米州問題調整官時代のネルソン・ロックフェラー

それを受けてルーズベルト大統領はロックフェラーを米州問題調整局(OCIAA)の新しい米州問題調整官(CIAA)に任命。
彼はCBSラジオネットワークのエドモンド・A・チェスターと協力して、マスメディアを使って西半球の国々との間の関係を強化し、ナチスの影響力の排除を図るようになる。

ロックフェラーは当時最新鋭のメディアであったラジオ放送や映画を使い、反ファシストのプロパガンダをラテンアメリカ全土で行った。

このプロパガンダ戦は結果的に連合国側の圧勝となる。

こうしたプロパガンダは米国の圧力を伴った影響を直接受けていたメキシコなどでは反発を招いたが、メキシコは戦争において貴重な味方となり、米国在住の25万人のメキシコ人が米国軍に入隊。
また、アステカ・イーグルス(アギラス・アステカ)として知られる志願兵300人からなる飛行隊を太平洋の対日戦線に派遣した。

アステカ・イーグルス

こうしたラテンアメリカ諸国を連合国陣営に引き入れる政策は、ドイツの影響力を容認するアルゼンチンを除いて政治的に大成功となったのだ。

プロパガンダ以外にも、経済支援と開発のために多額の金額も割り当てられた。

更に1941年3月22日、米国政府はラテンアメリカ諸国を含めた連合国に対して軍事基地と西半球防衛への参加と引き換えに、軍需品やその他の援助を行うためのレンドリース法を制定。

当然、戦争の混乱真っただ中のイギリスやヨーロッパ諸国とその植民地が援助の大半を受け取ったが、ラテンアメリカ諸国も約4億ドルの軍需物資を得た。

ラテンアメリカ諸国の中でもブラジルは南米大陸の北東に国土を有し、主戦場の一つの北アフリカから近いという戦略的に重要な地点であった地理的関係から、米国との間で融資と軍事援助を提供するという条約が締結され、軍需物資を送るための拠点を米国に提供し、同時に枢軸国からの通商破壊の脅威を受けやすいことが予想されたためラテンアメリカ諸国への支援の四分の三を受け取る。

その後、ブラジルはヨーロッパ戦線に部隊を派遣した唯一のラテンアメリカの国となり、同国の海軍は大西洋の対潜水艦作戦でも重要な役割を果たすことになる。

イタリア戦線でのブラジル軍

キューバもカリブ海や南大西洋でドイツのUボートや巡洋艦との小規模な戦闘を行うなど米国に協力。

他にエクアドルはガラパゴスの空軍基地の建設と引き換えに、コロンビアとドミニカ共和国の両国はパナマ運河とカリブ海のシーレーン防衛への参加と引き換えに軍隊を近代化するためのレンドリースの恩恵を受けた。

一方、レンドリースはラテンアメリカ諸国間のパワーバランスを変え、「古いライバル関係を再燃させた」面もあったようだ。

ペルーとエクアドルのように世界大戦真っただ中の1941年に世界情勢そっちのけで戦争を行うなど、ラテンアメリカ諸国は一枚岩ではなかったのだ。

他にも、チリは枢軸国軍の攻撃ではなくボリビアとペルーがレンドリースによって得た兵器を使って、自国が19世紀の戦争で両国から勝ち取った領土を取り戻そうとすることを懸念していたし、アルゼンチンは以前からのライバル国ブラジルが米国の兵器をレンドリースによって得ていたために脅威を感じていた。

また、米国は戦争継続のための軍需物資獲得のためにも手を打った。

ラテンアメリカ諸国は特定の製品や資源を高めの価格で輸出することができるようにはなったが、1941年12月7日の日本の真珠湾攻撃の後、ラテンアメリカの大部分の国は枢軸国との国交を断絶あるいは宣戦布告したため、多くの国(ドミニカ共和国、メキシコ、チリ、ペルー、アルゼンチン、ベネズエラなど)は貿易を米国一国に依存する結果となる。

この戦時需要によってラテンアメリカでは消費財などが不足する問題が発生。

物資もそれを運ぶ船舶も軍需品を米国に供給することが優先されたため、燃料も食料も価格が高騰するなどのインフレも起こった。

とはいえラテンアメリカ諸国のほとんどは米国の側に立つことで援助を受けるなど、戦争を有利に利用した側面もあったようだ。

米国に戦略的に重要とみなされなかったペルーのようにさほど恩恵を受けなかった国もあったが、パナマは船の交通量の増大によって経済が活性化、プエルトリコではアルコール産業が活況を呈し、石油資源が豊富なメキシコとベネズエラは石油価格上昇の恩恵を受けた。

メキシコはこの機に乗じて、米国やヨーロッパの石油会社と有利な条件での契約を迫ったりもした。

第二次世界大戦は良しくも悪しくも大規模な近代化と大きな経済的後押しを参加したラテンアメリカ諸国にもたらしたのだ。

ラテンアメリカ諸国での枢軸側の活動

戦前のナチスは様々なラテンアメリカ諸国との経済関係が平等であることを保証するため、厳格な二国間貿易協定を通じて経済的浸透を拡大。

ブラジル、メキシコ、グアテマラ、コスタリカ、ドミニカ共和国はいずれもドイツと貿易協定を結んでいた。

例えばブラジルのドイツとの貿易は、ヒトラーが政権を握った1933年から戦争が始まる前年の1938年の間に倍増。
しかし、1939年9月の開戦によって枢軸国の船舶は商業目的で大西洋を横断することができなくなり、ラテンアメリカとドイツ・イタリア間の貿易は停止してしまう。

一部のラテンアメリカの国は打撃を受け、その代替の貿易相手国は米国のみとなった。

第二次世界大戦の初頭、ドイツ系やイタリア系移民が多く、その影響力も大きかったために枢軸国寄りだったアルゼンチンやチリはもちろん、ラテンアメリカ諸国には強力な一体感と目的感を国民にもたらすファシズムに感銘を受けた独裁者や政治団体も存在した。

例えばドミニカ共和国のラファエル・トルヒーヨ大統領はヒトラーのスタイルと軍国主義的な集会を賞賛し、グアテマラとエルサルバドルの独裁者も同様の見解を持っていたようだ。

ブラジルの政治団体であったブラジル統合主義運動はムッソリーニの崇拝者だった。

ブラジル統合主義運動

それを最大限活用しようと枢軸国のスパイ活動やプロパガンダ活動が行われるようになる。

枢軸国の移民も多かったことから、スパイ活動はさほど困難ではなかった。

例えばコロンビアには1941年の時点で約4,000人のドイツ人移民がおり、多くは航空輸送業界に関わっていたため、米国は彼らがスパイ活動に従事しているか、パナマ運河に対する攻撃のために民間航空機を爆撃機に改装する計画を立てていることを懸念していた。その結果、米国政府はコロンビアに移民の監視と抑留を迫ったり、場合によっては米国に引き渡すよう圧力をかけた。

他のラテンアメリカ諸国でも同様だったが、メキシコとブラジルは枢軸国のスパイ活動の封じ込めについて米国に協力的だった。

一方、チリとアルゼンチンは枢軸国のエージェントの活動を許していたため、米国との不和の原因となった。

ドイツはラテンアメリカの主要国のすべてでスパイネットワークを運営しており、アルゼンチンを舞台にコードネーム『ボリバル作戦』と称し、中立国のスペインの船まで使った諜報活動を行っていた。

アルゼンチンやチリは1944年初頭にようやく自国で活動する枢軸側のエージェントを取り締まったが、ドイツ側の活動の一部は1945年5月の欧州戦線の終結まで続いた。

ソ連との関係

ドイツのソ連侵攻後、ラテンアメリカ諸国は労働組合などを通じてソ連への支援と援助を行った。

キューバは赤軍に40,000本の葉巻を送り、1942年10月に南米初の外交関係を持った。

戦争は結果的にソ連との外交的雪解けとなり、1945年までにコロンビア、チリ、アルゼンチンを含む11のラテンアメリカ諸国がモスクワとの関係を正常化した。

ユダヤ人を救ったエルサルバドル総領事

駐スイスのエルサルバドル総領事ホセ・カステラノス・コントレラスは、迫害から逃れようとしているユダヤ人にエルサルバドルのパスポートを提供して25000人を救ったが、この事実はあまり知られていない。

ホセ・カステラノス・コントレラス

出典元―ウィキペディア英語版

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