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1954年・日光参道で修学旅行生同士が乱闘 ~広島県立山陽高校vs.青森市立第一高校~


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戦前か戦後すぐ後くらいに生まれた人々は、今や後期高齢者の爺さん婆さんたちである。

令和の現在ではすっかり好々爺となっているが、彼らにも10代20代だった頃はあった。

まだ日本は貧しかったし、昔ながらの厳しいしつけを受けて育っている人々だから、甘やかされて育って堕落した現代の若者よりも総じてまともだったような気がしないだろうか。

とんでもない。

明らかに血の気が多く、無法を働く輩の比率が今より高かったのだ。

それは当時の新聞の事件欄を見れば明らかで、乱闘や暴行、ついカッとなっての殺人の報道が目白押しなのである。

現代の半グレなど比べものにならないくらいの数のヤカラが街にのさばっており、全国の津々浦々で毎日のようにケンカ沙汰や暴力沙汰が発生していたのだ。

その一端を示すエキサイティングな事件が、今から70年前の栃木市日光市で起きた。

列車内でエキサイトする二高校の修学旅行生たち

1890年(明治23年)に開業して以来、古くより名勝地として知られる日光へ多くの観光客を宇都宮から運んできた日光線。

いつもは、賑やかで観光客たちの笑顔であふれているこの日光線の列車内であったが、1954年(昭和29年)の4月2日の同列車内は、これから観光地へ向かうとは思えないほど険悪な空気が充満していた。

その空気の発生源は、この列車に乗り合わせた二つの高校の修学旅行生たち。

片方は遠く中国地方からやって来た広島県立山陽高校と、もう片方は同じく遠方の青森県から来た青森市立第一高校の生徒たちであり、ガンを飛ばし合って相手をしきりに威嚇している。

実は、この二校の敵対的なファーストコンタクトは、この日光線が初めてではない。

東京から宇都宮までも同じ列車に乗り合わせており、どちらが始めたかは分からないが、東京にいた時点から互いににらみ合っていたのだ。

二校の修学旅行生の内訳は、山陽高校側が約100名、第一高校側が約180名。

ケンカ腰だったのは、当初ほんの一部の威勢のいい生徒だけだったが、このころになると元気のいい生徒たちに触発されたのか、双方の普段はまじめな一般生徒たちも加わって、すでに学校対学校の全面抗争勃発の兆しすら呈し始めている。

「何なら!われらナニガン飛ばしよんじゃ!」

「おめ?やるのが?殺すてけるべが!」

「上等じゃけえ!相手しちゃるぞ!!コラ!」

「なんだばや!かがってごい!弱虫が!」

互いの方言でののしり合い、こうした事態を想定して持ってきていたのか山陽高校側は木刀を出し、第一高校側は登山ナイフをちらつかせるなど、一瞬即発の事態に発展しつつあった。

さすがに、ここまで危険な局面になると双方の引率の教師たちも黙っておらず、生徒たちを制止にかかる。

高校生たちも、このまま列車内で殺し合いになるのは望んでいなかったと見え、教師たちが止めに入ったのを幸いに、お互い矛を収めた形となったようだ。

だが、それは一時休戦に過ぎなかった。

列車が日光駅に到着してからも、双方の生徒たちのアドレナリンは沸騰して高温のままであり、日光市内でほんの些細な原因によりそれが発火、爆発することになる。

日光参道での全面衝突

修学旅行や遠足で遠方に行った威勢のいい中高生が、その先で出くわした他の学校のそれなりの生徒とにらみ合う、というのは珍しくはない。

本ブログの筆者の世代もやっていたし、その前後の世代の者たちも含めて、令和の中高生もやっているだろう。

もっとも、ヤンキー漫画ではないのだから、本当にケンカになることはまれなはずだ。

だが、この時そのまれなことが発生することになる。

それも、漫画以上に。

日光に下車した両校の修学旅行生たちは、互いにメンチを切り合いながらも、それぞれ日光東照宮を見学。

それから、生徒たちは自由行動となって日光参道の散策に入ったのだが、両校の引率の教師たちは、どちらも監督者として致命的な職務怠慢を犯す。

さっきまで刃物や木刀などの凶器まで取り出して相手を威嚇していた元気者たちを、凶器持参のまま野放しにしてしまったのだ。

彼らが日光参道で出くわせばケンカになるのがわかりそうなものだから、現代の教師だったら、凶器を取り上げるか彼らに付き添って見張るなどの措置をとっていただろう。

昭和20年代の教師はのんびりしてた、というか無神経だった者が多かったようだ。

そして、案の定の事態が起こる。

山陽高校の泊智樹(仮名)と一色和明(仮名)ら威勢のいい生徒たちが日光の西参道をぶらついていた時、さっき電車内で揉めた相手の高校の生徒たちと出くわしたのだ。

「田舎もんが!」

こっちがガンを飛ばすと向こうもガンをつけてきたので、またしても街中でにらみ合いになったのだが、今度はにらみ合いだけではすまなかった。

山陽高校側の一人が木刀で第一高校の一人を小突いたとたん、第一高校側のスイッチが入って殴りかかって来たのだ。

「おめ!おだづな!!」

「やっちゃるぞ!田舎もんが!」

完全に頭に血が上った双方は、他の観光客もいる面前で殴り合いを始めた。

彼らは、それぞれ応援を呼んだために乱闘の参加者は増加し、ばかりか、それを見ていた他の生徒たちも呼ばれてもいないのに相手の学校の生徒を見かけると自主的に殴りかかるなど、本物の学校間全面抗争に発展。

乱闘は、通報により飛んできた地元日光署の警官隊によって鎮圧されたが、第一高校側は持参してきた刃物を躊躇なく使っており、山陽高校の泊が下腹部を、一色が肩を刺されて地元の病院に運ばれるという重傷を負ってしまった。

命に別状はなかったとはいえ、彼ら二人の修学旅行は強制終了となったのだ。

刃物を使った生徒は拘束され、双方の引率の教師は日光署で事情徴収を受けたり、ケガをした生徒の看護に病院に詰めたりしたのだが、双方の高校とも他の生徒は修学旅行を続行した。

それにしても、なんて戦闘的なんだ。

令和の現在、いや平成のどんな底辺高校であっても集団でここまで元気を暴発させることはないのではないか。

この当時の日本は、つい九年前まで戦争していたんだから、暴力をふるうことに対する免疫が現在よりぐっと低かったのもあるだろう。

殴られたら殴り返すのが当たり前だった時代だったのだ。

だが、暴力沙汰と言えば無抵抗の相手を一方的に暴行したり、大勢で一人をフクロにするのが主流になってしまった気がする現代より、清々しいように思えるのは筆者だけだろうか?

殴られたら殴り返すケンカには、エネルギーが必要だ。

この時代の若者は礼儀や常識はともかく、エネルギーが総じて現代の若者を凌駕していたのは間違いないだろう。

だからこそ、彼らの力はその後の日本を先進国に発展させる源となり、後期高齢者になった今でもかくしゃくとしていられるのかもしれない。

出典元―栃木新聞

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高校野球で暴動 ~1969年長野-丸子実業戦~


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1915年(大正15年)に始まり、すでに100年を超える歴史を有する高校野球。

それを統括する高野連(日本高等学校野球連盟)は、一貫して日常のちょっとした不祥事でも厳重に処分するという姿勢でもって運営してきたため、各校野球部内で体罰やしごきが横行していても、これまでどの試合も表向きは健全に行われてきたといえよう。

だが、その長い歴史の中でも最悪と言ってもいい騒動が起きた試合がある。

それは、1969年7月夏の全国高校野球長野大会で起こった。

1969年長野-丸子実業戦

1969年(昭和44年)7月25日、上田市営球場で行われた夏の全国高校野球長野大会の一回戦第二試合の長野高校-丸子実業高校戦は、前半から不穏な空気に包まれていた。

同日午後2時15分から始まったこの試合、四回裏の丸子実業の攻撃中に審判の判定を巡って、丸子実業を応援する三塁側スタンドの観客席から空き瓶が投げ込まれるなどの騒ぎがあり、一時試合が二十分間中断。

およそ高校野球に似つかわしくない危険なムードの中で試合は再開されたが、双方決め手を欠いて延長戦となった。

日も傾き始めた午後6時半ごろ、4-4の同点で迎えた十一回表の長野高校の攻撃で、すでに2アウトとなっていた長野高校の選手の打った球が三塁ベースをギリギリで抜いてファウルグランドに転がる。

きわどい当たりであったが、審判は「フェア」と判定。

長野高校に1点が入って、さらに2点目も追加して勝ち越した。

丸子実業側は「ファウル」だと抗議したのだが、判定が覆るはずはない。

合点のいかない判定によって勝ち越された丸子実業は納得できない様子だったが、選手や監督以上に納得していない者たちがいた。

またしても、丸子実業側スタンドに陣取る観客たちだ。

再びグランドにモノが投げ込まれ、数名がグランドに乱入する事態となって、この試合二回目の一時中断となった。

そして、丸子実業の選手たちも行動に出る。

試合再開後、再三けん制をしたり、選手がタイムをとってわざとらしく靴ひもを結びなおしたり、不自然な選手交代を行うようになったのだ。

どう見ても、試合の引き延ばしをしているとしか思えない行動である。

その狙いは、日没引き分けだろう。

試合は事実上の三度目の中断となった。

だが、この腹いせの姑息な作戦は大いに裏目に出る。

そして、空前絶後の大騒動をも招く。

没収試合、そして爆発

ゲ-ムが遅々として進まなくなった事態を前に、審判団と長野県高野連は協議を始めた。

露骨な遅延行為であり、このような行為を許すわけにはいかない。

午後6時45分、審判団はきつい判定を下した。

それは没収試合。

没収試合とは、試合において一方のチ-ムの行為が原因で試合の開始又は続行が困難となった場合に、原因となった側のチ-ムを強制的に敗戦扱いとする判定である。

ここで原因となったチ-ムとは、もちろん丸子実業だ。

試合は9-0で長野高校の勝ちとされた。

だが、この毅然とした判定はすでに一万人になっていた観客、特に丸子実業を応援していた数千人もの観客たちに対してはあまりにも危険なものとなる。

彼らの一部は、すでに二度にわたってモノを投げ込むなどエキサイトしていたのだ。

判定がアナウンスされるや、これらの観客は総立ちとなって口々に怒りの声を上げ始め、例のごとく、グラウンドにモノを投げ始めたのだが、今度のはそれではすまない。

投げる標的は審判団であり、先ほどより多くの観客がグランドになだれ込み始め、球場内に引かれている電話線を引きちぎり始めた。

さらには誰かが放火したらしく、丸子実業側の観客席に火の手が上がる。

ちなみに暴れているのは丸子実業の生徒ではなく、大人の一般人だから始末が悪い。

まだ娯楽の少ないこの時代、プロ野球を生で見る機会のめったにないこの地方の大人たちは、高校野球でも見ごたえのあるものだったらしく、それぞれ在校生でもないのに、ひいきのチームを応援しに来ていたようだ。

そして、選手や応援する生徒よりエキサイトしてしまったのである。

なだれこんだ観客がグランド内の設備を壊し、観客席まで燃え始めた上田市営球場は、高校野球の試合会場とは思えない修羅場となってしまった。

完全無欠の暴動である。

通報を受けて、鎮圧のために上田署から警官約100人が出動。

暴れた観客2名が逮捕されるなどして沈静化させ、8時半には、ようやく騒動はおさまった。

その後

高校野球の試合において現代までグランドに観客が乱入したり、モノが投げ込まれる事態はあったようだが、この規模のものはさすがにない。

勝ったとはいえ、試合をめちゃくちゃにされた長野高校の監督は、「ウチの選手も丸子実業の選手もかわいそうだ。これは大人の横暴だし、そもそも大会の運営にも問題があるだろう」と話していた。

一方の丸子実業の監督は、「没収試合にされたのは実に乱暴だ」と没収試合にされたことに納得していなかった。

主催者である県高野連の運営のまずさを非難する声も世間では多かったようだが、こんな騒動を起こした責任は取らせなければならない。

その矛先は丸子実業に向かった。

同校の野球部は暴動の一因を作ったとして謹慎していたが、高野連は対外試合を2年間停止するという重い処分を下す。

もっとも、11か月後にはこの処分は解除されている。

そして、試合当日に応援に繰り出していた丸子実業野球部の後援会は、責任を取って自主的に解散した。

暴れたのは大部分が大人であって高校生たちではなかったのだが、やはり原因を作ったことには変わりがないとみなされていたようだ。

いずれにせよ、令和の現代では考えられない事件である。

しかし、この時代は学生運動なども盛り上がりを見せて、機動隊が出動する事態に発展することも珍しくはなかったのだから、当時の日本人は令和のすっかり軟弱になった我々より、総じて血の気が多かったことは間違いない。

出典元―信濃毎日新聞、朝日新聞、毎日新聞

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1963年・森岳温泉の戦い ~日雇い労働者ご一行様 vs. パチンコ店ご一行様~


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昭和30年代は60年以上続いた昭和年間の中でも、特に芳しき芳香を放つ。

この時代に、憧憬の念を抱く日本人は実に多い。

その時代をリアルに知っている人はもちろん、まだ生まれていなかった人の中でも、古き良き時代だと認識されているようだ。

時はまさに高度成長期の時代。

オリンピックが開かれようとしていたし、いろいろな家電製品が出回り始めて、生活もどんどん便利になるのが目に見えて実感できていたから、その時代から見た将来は、令和の我々が見る将来より明るかったのは間違いない。

希望にあふれ、活気みなぎるさまが今に残る写真や映像からも、自ずと伝わってくるものだ。

そして同時に、映画『オールウェイズ3丁目の夕日』で描かれているがごとき、人情味にもあふれていたとされている。

なんてすばらしい時代だったんだろう!

でも、本当にそうか?

確かに人間味にも活気にもあふれ、発する熱量の高い時代であったのは事実だが、それは時として暴発することもあったようである。

秋田県・森岳温泉乱闘事件

当時の新聞

時は1963年(昭和38年)5月15日午後4時ごろ。

秋田県山本町森岳木戸沢の森岳温泉の某観光ホテルで、宿泊客同士の乱闘事件が発生した。

事件を起こしたのは、慰安旅行で同ホテルに宿泊していた秋田県能代市の土木会社の日雇い労務者たち約30人と、同じく慰安旅行で来ていた同市のパチンコ店従業員たち約20人。

双方とも同ホテルの広間で宴会を開いており、事件の発生した時間帯から推測して昼間から飲み続けていたものと思われ、いい感じで危険な状態にできあがっていたようだ。

きっかけはパチンコ店側が労務者をバカにしたからとも、労務者側がいちゃもんをつけたからだともされ、報道していた新聞社によって異なる。

きっと、どっちもどっちだったんだろう。

そしてこの乱闘、双方のうちごく一部がやっていたわけではない。

全員参加の総力戦だったのだ。

労務者側もパチンコ店側も女房や子供ら家族を同伴していたのだが、それら女性や子供までもが夫や父親の側に加わって相手側を攻撃。

宴会が行われていた大広間やホテルの中庭を舞台に怒声や金切りを響かせ、膳や食器が乱れ飛び、ビール瓶やどこからか見つけてきた棒で殴り合う。

障子やふすまはビリビリに破け、ガラスは粉々になった。

結局、ホテルの通報で警官40名以上が駆け付けて騒ぎを鎮圧したが、パチンコ店側から重傷者が二名出て、双方のほぼ全員が負傷していたんだからフルスケールの乱闘だったのは間違いない。

なんて気の荒さなんだろう。

現代だったら酒が入っていたとはいえ、暴力団か半グレでもない限り、こんな全員参加の団体抗争は起こりえないだろう。

昭和の人々は、右の頬を張ったら右ストレートを返してくる人々だった。

事実、昭和の日本の暴力犯罪発生率は平成や令和の現代より高かったという記録もあるし、安保闘争やドヤ街での暴動など機動隊が出動するような騒ぎだって、頻発していたからきっとそうであろう。

昭和30年代は悪い意味での人間味や活力にもあふれていたのだ。

こんな怖い時代に生まれなくてよかった。

令和の現代で本当に良かった。

でも、私は同時にこうも思うのだ。

こういう人たちだからこそ、日本を発展させることができたのではないかと。

暴力に訴える行為は一見害でしかなさそうだが、暴力をふるうにはエネルギーが必要なのだ。

そのエネルギーは負の方面だけでなく、正の方面にも発揮できる。

昭和30年代や40年代に、こういった事件や大規模なデモ隊と警官隊との衝突が起きていたのは、社会全体に活力がみなぎっていた証拠じゃないだろうか?

大地震や津波に襲われても騒動一つ起こさなかった平成の、そして令和の日本人とは、いい意味でも悪い意味でも違ったようだ。

日の出の勢いの国の国民は暴力的であるが、日が没する国の国民は紳士的なのではないかと、現代の日本を見てそう感じたのは私だけだろうか。

乱闘や暴動が起きるが未来が明るい社会と、ケンカも騒動も起きないが未来が暗い社会。

あなたならどっちを選ぶ?

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