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1954年・日光参道で修学旅行生同士が乱闘 ~広島県立山陽高校vs.青森市立第一高校~


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戦前か戦後すぐ後くらいに生まれた人々は、今や後期高齢者の爺さん婆さんたちである。

令和の現在ではすっかり好々爺となっているが、彼らにも10代20代だった頃はあった。

まだ日本は貧しかったし、昔ながらの厳しいしつけを受けて育っている人々だから、甘やかされて育って堕落した現代の若者よりも総じてまともだったような気がしないだろうか。

とんでもない。

明らかに血の気が多く、無法を働く輩の比率が今より高かったのだ。

それは当時の新聞の事件欄を見れば明らかで、乱闘や暴行、ついカッとなっての殺人の報道が目白押しなのである。

現代の半グレなど比べものにならないくらいの数のヤカラが街にのさばっており、全国の津々浦々で毎日のようにケンカ沙汰や暴力沙汰が発生していたのだ。

その一端を示すエキサイティングな事件が、今から70年前の栃木市日光市で起きた。

列車内でエキサイトする二高校の修学旅行生たち

1890年(明治23年)に開業して以来、古くより名勝地として知られる日光へ多くの観光客を宇都宮から運んできた日光線。

いつもは、賑やかで観光客たちの笑顔であふれているこの日光線の列車内であったが、1954年(昭和29年)の4月2日の同列車内は、これから観光地へ向かうとは思えないほど険悪な空気が充満していた。

その空気の発生源は、この列車に乗り合わせた二つの高校の修学旅行生たち。

片方は遠く中国地方からやって来た広島県立山陽高校と、もう片方は同じく遠方の青森県から来た青森市立第一高校の生徒たちであり、ガンを飛ばし合って相手をしきりに威嚇している。

実は、この二校の敵対的なファーストコンタクトは、この日光線が初めてではない。

東京から宇都宮までも同じ列車に乗り合わせており、どちらが始めたかは分からないが、東京にいた時点から互いににらみ合っていたのだ。

二校の修学旅行生の内訳は、山陽高校側が約100名、第一高校側が約180名。

ケンカ腰だったのは、当初ほんの一部の威勢のいい生徒だけだったが、このころになると元気のいい生徒たちに触発されたのか、双方の普段はまじめな一般生徒たちも加わって、すでに学校対学校の全面抗争勃発の兆しすら呈し始めている。

「何なら!われらナニガン飛ばしよんじゃ!」

「おめ?やるのが?殺すてけるべが!」

「上等じゃけえ!相手しちゃるぞ!!コラ!」

「なんだばや!かがってごい!弱虫が!」

互いの方言でののしり合い、こうした事態を想定して持ってきていたのか山陽高校側は木刀を出し、第一高校側は登山ナイフをちらつかせるなど、一瞬即発の事態に発展しつつあった。

さすがに、ここまで危険な局面になると双方の引率の教師たちも黙っておらず、生徒たちを制止にかかる。

高校生たちも、このまま列車内で殺し合いになるのは望んでいなかったと見え、教師たちが止めに入ったのを幸いに、お互い矛を収めた形となったようだ。

だが、それは一時休戦に過ぎなかった。

列車が日光駅に到着してからも、双方の生徒たちのアドレナリンは沸騰して高温のままであり、日光市内でほんの些細な原因によりそれが発火、爆発することになる。

日光参道での全面衝突

修学旅行や遠足で遠方に行った威勢のいい中高生が、その先で出くわした他の学校のそれなりの生徒とにらみ合う、というのは珍しくはない。

本ブログの筆者の世代もやっていたし、その前後の世代の者たちも含めて、令和の中高生もやっているだろう。

もっとも、ヤンキー漫画ではないのだから、本当にケンカになることはまれなはずだ。

だが、この時そのまれなことが発生することになる。

それも、漫画以上に。

日光に下車した両校の修学旅行生たちは、互いにメンチを切り合いながらも、それぞれ日光東照宮を見学。

それから、生徒たちは自由行動となって日光参道の散策に入ったのだが、両校の引率の教師たちは、どちらも監督者として致命的な職務怠慢を犯す。

さっきまで刃物や木刀などの凶器まで取り出して相手を威嚇していた元気者たちを、凶器持参のまま野放しにしてしまったのだ。

彼らが日光参道で出くわせばケンカになるのがわかりそうなものだから、現代の教師だったら、凶器を取り上げるか彼らに付き添って見張るなどの措置をとっていただろう。

昭和20年代の教師はのんびりしてた、というか無神経だった者が多かったようだ。

そして、案の定の事態が起こる。

山陽高校の泊智樹(仮名)と一色和明(仮名)ら威勢のいい生徒たちが日光の西参道をぶらついていた時、さっき電車内で揉めた相手の高校の生徒たちと出くわしたのだ。

「田舎もんが!」

こっちがガンを飛ばすと向こうもガンをつけてきたので、またしても街中でにらみ合いになったのだが、今度はにらみ合いだけではすまなかった。

山陽高校側の一人が木刀で第一高校の一人を小突いたとたん、第一高校側のスイッチが入って殴りかかって来たのだ。

「おめ!おだづな!!」

「やっちゃるぞ!田舎もんが!」

完全に頭に血が上った双方は、他の観光客もいる面前で殴り合いを始めた。

彼らは、それぞれ応援を呼んだために乱闘の参加者は増加し、ばかりか、それを見ていた他の生徒たちも呼ばれてもいないのに相手の学校の生徒を見かけると自主的に殴りかかるなど、本物の学校間全面抗争に発展。

乱闘は、通報により飛んできた地元日光署の警官隊によって鎮圧されたが、第一高校側は持参してきた刃物を躊躇なく使っており、山陽高校の泊が下腹部を、一色が肩を刺されて地元の病院に運ばれるという重傷を負ってしまった。

命に別状はなかったとはいえ、彼ら二人の修学旅行は強制終了となったのだ。

刃物を使った生徒は拘束され、双方の引率の教師は日光署で事情徴収を受けたり、ケガをした生徒の看護に病院に詰めたりしたのだが、双方の高校とも他の生徒は修学旅行を続行した。

それにしても、なんて戦闘的なんだ。

令和の現在、いや平成のどんな底辺高校であっても集団でここまで元気を暴発させることはないのではないか。

この当時の日本は、つい九年前まで戦争していたんだから、暴力をふるうことに対する免疫が現在よりぐっと低かったのもあるだろう。

殴られたら殴り返すのが当たり前だった時代だったのだ。

だが、暴力沙汰と言えば無抵抗の相手を一方的に暴行したり、大勢で一人をフクロにするのが主流になってしまった気がする現代より、清々しいように思えるのは筆者だけだろうか?

殴られたら殴り返すケンカには、エネルギーが必要だ。

この時代の若者は礼儀や常識はともかく、エネルギーが総じて現代の若者を凌駕していたのは間違いないだろう。

だからこそ、彼らの力はその後の日本を先進国に発展させる源となり、後期高齢者になった今でもかくしゃくとしていられるのかもしれない。

出典元―栃木新聞

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浜田省吾 – 聖地巡礼情報 –

2022年08月05日更新


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浜田省吾の大ファンです。

浜田省吾の住んでいたところは、どこでも行ってみたいと思い、広島に行く度に聖地巡礼してます。

自分の聖地巡礼のために、いろいろと情報を集めています。

ちなみに、こちらの記事で、私が実際に行ったところを公開しています。広島に行く度に更新してます。

2022年5月に、新たな聖地巡礼で北鎌倉へ行ってきました。「紫陽花のうた」の歌の舞台ですね。北鎌倉への聖地巡礼のブログも追加しました。

浜田省吾

1952年12月29日

広島県竹原市で生まれる

浜田省吾生家: 広島県竹原市港町2丁目7番池2号

3歳から

御調郡向島町岩子島(現尾道市)

佐伯郡廿日市町宮内

五日市町(現広島佐伯区)

広島市元宇品(現南区元宇品)

と広島県内で転校を繰り返す。引越しは、18歳までに20近くとか。

9歳の時

江田島の海沿いの町、鷲部に移居。

♪海辺の田舎町〜10才のころラジオから〜

浜田省吾が昔通っていた小学校は、今は図書館になっています。

13歳の時

呉市汐見町に転居

呉市立二河中学に転校

広島県立呉三津田高校に入学

以降は高校卒業まで呉市で育った。

♪この町のメインストリートわずか数百メートル(れんがどおり)、さびれた映画館(呉シネマ(現ポポロシアター))

♪15の時〜通りのウィンドウに〜飾ってあった〜ギターを見た時〜(楽器店&レコード店の公声堂)

大学受験に失敗後

大竹市に転居。

♪溶けたタールパルプの匂いの

♪丘の上幾つもの〜工業地帯の向こう沈んでいく(2号線沿いに立ち並ぶ石油コンビナート・紙パルプ・化学繊維工場)

そして予備校生活

♪予備校の湿っぽい廊下で〜あの娘を見つけた〜(英数学館(現 並木学園=高校)は、広島老舗の予備校)

♪放課後の図書館のロビーで〜(予備校から一番近い市役所の図書館)

  • 予備校(現 並木学園)広島市中区

予備校に行かずにライブハウスFIVEに通っていた(中央通り)。

今後行ってみたいところ

今まで、浜田省吾の住んでいたいろんなところへ行ってますが、歌の舞台になっているところが中心でした。

それ以外にもいろいろと調べてみると情報がありますので、今後は、是非そちらを訪問してみたいと思います。

私の今後の行きたいところのメモです。新しい情報を見つけては、アップデートしています。自分用のメモとして。

尾道市

〒722-0072 広島県尾道市向島町岩子島1306−1

地図は尾道市岩子島農業構造改善センター(旧岩子島小学校)

尾道に住んでいたことまでは知っていましたが、場所までは分かりませんでした。次回の広島訪問時に時間ができたら、再度、尾道へ行ってみたいと思います。再び、尾道で尾道ラーメンを食べてきます。

小学校2〜3年生の時に通った元宇品小学校

場所は広島の最南端、元宇品(宇品島)

「広島の一番海岸べりにひょっこりひょうたん島みたいな島があって、橋で結ばれてるんですけど、その島の丘の上にある学校で・・・」

元宇品の小学校にも通っていたのだとか。小学校は江田島だけかと思ってました。

浜田省吾が広島でライブをやる時は、プリンスホテルに泊まるらしいのですが、昔住んでたところのすぐそばだったからなのかも知れませんね。今度、広島にいく時は、私もプリンスホテルに泊まってみることにします。

竹原市

「西に歩いて2〜3分行くと、「長建寺」というお寺があります。なんでもここの境内で省吾さんは遊んでいたそうです」とのことです。

竹原には、浜田省吾の生家があるということで行ってきましたが、当時、このお寺の存在は知りませんでした。次回、竹原を訪問の際には、ぜひ行ってみたいと思います。

2階からビートルズの曲を流してもらった同級生のせっちゃん家

浜田省吾の同級生のせっちゃんの家も、見に行ってみたいです。これも、次回の広島訪問時の目標です。

これの場所をずっと探していたのですが見つけました。

江田島の省吾が通っていた小学校(現図書館)のもう少し北側です。次回の江田島には言ってみます。

すぐ近くにあの青木病院もありますね。

喫茶サントス

浜田省吾の同級生がやっている喫茶店です。本人も通っていたらしいです。この喫茶店に行くと、昔のアルバムなどを見せてくれるらしいです。

去年、呉に行った時に寄ってみようと思って、店の前まで行ったのですが、サントスは日曜休みなんですね。開いてませんでした。今度、呉に行く時は、ぜひ行ってみたいです。

2021年12月14日に、サントスを訪問しました。

2021年12月14日サントス
2021年12月14日サントス

浜田省吾ファンということを店員に伝えると、中学の時と高校の時の卒業アルバムや雑誌の記事などを見せてくれます。

左側が中学と高校の卒業アルバム、右側が雑誌の記事

こんなものもありました。裏側には、三津田高校の校歌が記載されています。我らの省吾の卒業した年のものですね。

これがおそらく、当時の省吾が書いたものでは?とされています。そう聞くと省吾っぽさが見える気もします。

サントスでは、このオムカレーが定番です。美味しいのですが、めちゃくちゃ量が多いですので、女性の方は気をつけてください。

サントスのオムカレー

特に何もないのは分かってはいるのですが、省吾の住んでいたところがどんなところか知りたくて、五日市と廿日市にも行ってみました。

佐伯郡廿日市町宮内

昔住んでいたと言われる場所の詳しい住所が分かりません。分かったら、再度訪問してみたいと思います。

五日市町(現広島佐伯区)

五日市駅から佐伯区役所まで、ブラブラと歩いてみました。この辺りに省吾は住んでいたのかなあ。

おまけ

東京で浜田省吾ファンの集い(浜省ナイト)をやってます。丘の上の会という名前です。

コロナの影響で、最近は活動ができていませんが、浜田省吾ファン10名くらいと集まり、食事をしながら浜田省吾の話をし、カラオケで浜田省吾を歌ってます。

イベントをやる時は、Facebook に掲載してますので、興味がありましたら、ご連絡ください。

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浜田省吾ファンからの広島旅行のおすすめ

2022年08月05日更新


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私の父親が浜田省吾のファンで、生まれた頃から浜田省吾の歌を聞いて育ちました。そして今、浜田省吾の大ファンです。

広島空港で飛行機から降りて、広島の地を踏む時や、新幹線で行って、広島駅の出口のゲートを通過する時、Show me your way, J.Boy!!! を毎回必ずやってます。

その時から、私の頭の中では、パラリラパラリラパーパパラ!と J.Boy の演奏が鳴りっぱなしです。

そんな浜田省吾ファンからの広島旅行のおすすめです。

私は毎年一回は、旅行で広島へ行ってます。出張を含めると、年に2、3回の時もあります。そして、私が広島に行ったら、必ず行く店があります。

ひろしま丸かじり 中ちゃん

〒730-0023 広島県広島市中区弥生町 6-8

広島市の繁華街の中にある鉄板焼きの店です。広島駅からは、徒歩15分くらいです。

東京で鉄板焼きというと、海老や肉を目の前で焼いてくれる店のイメージが強いですが、大阪より西は、鉄板焼きと言えば「お好み焼き」がメインですね。

でも、この店で一番のおすすめは、ウニクレソンです。

浜田省吾も、広島に帰ってきた時は、ウニクレソンを食べるそうです。

私も最近は、広島といえばウニクレソン!と言わんばかりに、広島に行くと毎回食べてます。

もちろん、広島お好み焼きや牡蠣や岩国レンコンも、鉄板で焼いてくれとても美味しいです。

ちなみに、中ちゃんにはラーメンもメニューにあり、町支寛二や古村敏比古も、ここのラーメンが好きなんだとか。

昔から、何故かこの店には、音楽関係の人たちがよく来るそうです。ただ、中ちゃんのマスターは、何故だかよく分からないと言ってます。

浜田省吾を含め、いろんなミュージシャンのサイン入りポスターが、店内の壁に飾ってあります。

この前行った時は、カウンターの端に、中島ユキノのライブのチラシが置いてありました。

中ちゃんですが、予約をしてから行くことをお勧めします。いつも満席で、外に10名くらいは並んでます。

ひろしま丸かじり 中ちゃん

唄えるライブなカラオケBAR 星の指輪

〒730-0027 広島県広島市中区薬研堀 4-9

そして、中ちゃんで食欲を満たした後に行くのがここ、星の指輪というバーです。浜田省吾ファンなら、店の名前で分かりますよね。そう、浜田省吾バーです。

浜田省吾ファンが来ているバーなのですが、ファンじゃない人ももたくさんいて楽しめるカラオケバーです。カラオケが止まっている時は、ずっと浜田省吾の DVD が流れてます。

店内はこんな感じです。

このバー、何が良いかというと、音響がとても良いのです。照明もかなり凝ってます。そして、このバーのマスターである省八さんが、手の空いている時はギターを弾いてくれたり、ドラムを叩いてくれたり、浜田省吾ファンの人たちがギターを弾いてくれたりしてくれます。

生演奏で歌ってる気分になれます。気分は正にロックスター!

星の指輪ですが、町支寛二と古村敏比古が、カンフル罪のライブを広島でやった後に、たまに来るそうです。店の中に、写真がたくさん貼ってあります。

また、愛奴時代に浜田省吾と一緒にやってた山崎貴生(現: 劉哲志)も、広島でライブをやる時は、このバーで二次会を楽しんでます。私もこのバーで 3回お会いしてます。

バーのマスターである省八さんから聞きましたが、残念ながら、浜田省吾はまだ一度も来たことはないそうです。

浜田省吾ファンの方も、そうでない方も、カラオケが好きなら楽しめるバーです。ぜひ行ってみて下さい。

星の指輪ですが、スナック菓子くらいしか食べるものはありません。中ちゃんから徒歩 5分くらいの距離ですので、中ちゃんで食べてから行くのがオススメです。

唄えるライブなカラオケBAR 星の指輪

おまけ(聖地巡礼)

おまけと言いながら、本格的に浜田省吾ネタです。ここからはディープに行きます。

広島と言えば、浜田省吾の生まれ故郷。浜田省吾の歌の中には、広島を舞台にした作品がたくさんあります。

広島へ行ったら、その舞台になったところを見てみたいと思うのがファンですよね。当然、私もいろいろ探して行ってっました。歌の舞台になっているところを見てまわることを、私は「聖地巡礼」と呼んでます。

個人的に、浜田省吾の住んでいた所の情報を集めては、そこに巡礼として訪問しています。

浜田省吾の生家(生まれたところを遠く離れて)

2017年11月。広島から尾道に移動し、尾道ラーメンを食べて(尾道ラーメンは尾道で食べなければ尾道ラーメンではないと言われ)から、竹原で泊まりました。

なぜ竹原買って、浜田省吾の生家を見るためです。

翌朝から出発です。

こんな山道を通って行きます。竹原って、広島の中では田舎な方ですが、その中でも、かなり田舎なところに住んでいたのですね。

山道の手前で、住宅がいくつも並んでいるところを通るのですが、すれ違ったおばちゃんに、「また来た」みたいな顔をされました。ファンの人が来るんですね。

振り向けば遠くにあの子の眼差しは見えませんが、海が見えます。海の方にはコンビナートもあります。

到着しました。ここが玄関です。誰も住んでおらず、鍵が閉まってます。

玄関の前に、コンビニの袋が置いてあります。ゴミではないですよ。

ファンの人たちがここにやって来て、いろいろと書き込んたノートが入ってます。「今日で 5回目です!」とか書いてる強者もいました。

この袋ですが、私が最初にかけました。私が最初に行った時には、ノートがそのまま置いてあったのですが、雨に濡れて、そのうち読めなくなってしまうだろうと思い、持っていたコンビニのビニール袋に入れました。

ただ、これだとゴミにしか見えないので、広島に住んでいる浜友にお願いして、まともな袋に変えてもらっていますので、現在は、もう少しまともてなってます。

ちなみに、これが住所です。ファンの我々にとっては、ここは聖地です。ぜひ訪ねて下さい。

生家を横から見ると、こんな感じです。

「生まれたところを遠く離れて」は、ここを思い出して歌ってるんですね。

並木学院高等学校(予備校の湿っぽい廊下)

2016年10月。元々は予備校だったのですが、現在は高校になっています。ここがそう、「あの子を見つけた」予備校です。

私は Edge of the knife バージョンの「19のままさ」が大好きです。この高校にたどり着くちょっと手前から「19のままさ」をヘビロテして、到着した時は涙が出そうなくらい感動しました。ここで、あの子を見つけたのかと感動しまくりです。

さすがに中には入れないですので、横にまわってみました。「湿っぽい廊下」を発見。

浜田省吾ファンの仲間たちに写真を送ったら、みんな口を揃えて「確かに湿っぽい。。。」とのことでした。

初恋(海辺の田舎町)

江田島1回目

江田島といえば、浜田省吾が小学校、中学校時代に住んでいたところです。当然、ここにも聖地巡礼です。

2018年4月。広島市の南にある広島港の宇品からフェリーが出ているので、これに乗って行っちゃおう!と移動しました。

ちなみに元宇品は、浜田省吾が住んでいた所の一つです。

しかーし!フェリーで到着したのは、江田島の一番北の切串港です。

ファリーから降りて、目的地の小学校(江田島警察署のそば)を調べたら、8キロくらい離れてます。しかも途中、山道っぽい。

8キロくらいはら歩けるのですが、山道となるとツライ。。。

「まいったなあ、もう一つの港に向かわないとダメだったんじゃん」と、江田島に上陸してから気づきました。

完全に事前調査不足でした。

バスに乗ろうと思ったのですが、バスは走ってないし、タクシーに乗ろうかとも思ったのですが、タクシーも全く走ってません。正に「海辺の田舎町」です。さすが、初恋の島。

Google マップで調べていたら、切串港から東に向かって行くと別の港があり、そこから呉に渡るフェリーが出ていることを発見しました。

「初恋」を聴きながら「海辺の田舎町〜♪」と歌いながら、江田島には1時間くらいしか滞在せず、呉に向かいました。一回目の江田島は撃沈です。江田島って広いのねということを思い知りました。

それでも「江田島から呉に向かうフェリーなのだから、省吾が中学校に通うために乗っていたフェリーと、途中からは同じ経路だよ。省吾が見ていた景色と同じ景色は見られるじゃん!」と、前向きな私でした。

江田島二回目

2020年11月。広島が緊急自体宣言に入る少し前のちょうどラッキーなタイミングで、再び広島を訪れました。

星の指輪で広島の浜田省吾ファンの友人と飲んで歌っていたら、「明日、車で江田島まで行かない?」という話になり、再度、江田島上陸をしました。

とうとう到着しました。浜田省吾の通っていた小学校です。現在は図書館になっています。

図書館の中に、浜田省吾コーナーが設けられています。さすが、我らの省吾!江田島のヒーロー!

浜田省吾ファンの方は、この写真はご存知ですよね。この木のベンチが、今でも残ってます。

サングラスも用意してあって、このベンチに座って写真が撮れるんです。図書館の人たち、浜田省吾ファンの気持ちをわかってくれてます。当然、私もサングラスをしてベンチに座り、記念写真を撮りました。

図書館の一角にも、浜田省吾の写真の切り抜きや雑誌や本がたくさん置いてあります。もう感動しまくりです。

浜田省吾ファンの間では有名な「初恋のきた島」も置いてあります。

無料で持ち帰ることができる小冊子なのですが、これって、ネットオークションで売られているんですよね。そんなことするのって、浜田省吾ファンとして恥ずかしいです。

「初恋のきた島」は、この聖地である図書館を訪れた浜田省吾ファンだけの勲章のようなものです。

呉(この町のメインストリート、15の時通りのウィンドウに)

15の時、通りのウィンドウに飾ってあったギターを見た時、稲妻が俺の体駆け抜け、全ての夢が走り出す〜♪

2017年10月。呉といえば、まず、「終わりなき疾走」ですよね。

中学生の浜田省吾が、楽器屋の前を通った時に、飾ってあったギターを見て衝撃を受けたというのが、この公声堂です。

この写真は、江田島から移動した二回目の訪問の時のもので夕方だったのですが、一回目の訪問の時は昼間に行きました。残念ながら、今は道から見える形でギターは飾っておらず、店の奥の方に飾ってあります。

店の前で写真を撮っていたら、店のおじちゃん(写真中央の人)に「また来てるよ」って顔で見られました。やはり、ここにも浜田省吾ファンが多く訪れるんですね。

2021年12月14日に、4回目の呉を訪問しました。その際に、「稲妻の走った楽器屋」を見に行きました。店の前に自動販売機が増えてました。

2021年12月14日 4回目の訪問

前に昼間に行った時は気づかなかったのですが、通りのウィンドウにギターが飾ってありました。前からこれってあったかな?

エレキギターっだったもっと良かったのに。

2021年12月14日 4回目訪問

そして、呉と言えば、有名な曲「MONEY」ですよね。

MONEY を歌いながらいきましょう!

この街のメインストリート、わずか数百メートル〜♪

れんがどおり

寂れた映画館と〜♪

バーが 5、6軒〜♪

ハイスクール出たやつらは、次の朝バッグを抱えて出てゆく〜♪ジャジャジャン!

2016年11月 呉1回目訪問
2016年11月 呉1回目訪問
  • 呉のメインストリートは、訂正します。以前、「意外と広くて長いじゃん」と記載しましたが、場所が間違ってました。正しくは「れんがどおり」が Money のあのメインストリートです。確かに数百メートルでした。
2021年14日 呉4回目訪問
  • 寂れた映画館ですが、現在は、ポポロというスーパーになってます。この中にポポロシアターという新しい映画館ができてます。さにれた映画館、見たかったなあ。
2021年14日 呉4回目訪問
  • ポポロの周りには、飲み屋はポツポツとあります。5、6軒以上は軽くありますね。ポポロのすぐ隣にはカフェやレストランなども多くあります。
  • 高校ですが、浜田省吾が通っていたのは、広島県立呉三津田高等学校です。ここで、窓の外見てるだけ(独立記念日)だったのでしょうか。

ちなみにこの高校の前には、こんな看板が立てられています。

2016年11月 呉1回目訪問

きっと、浜田省吾ファンのことでしょう!ファンの方、聖地である三津田高校へ行きたい気持ちは分かりますが、行動には注意してください。通報されるかも知れませんよ。私も学校の周りをウロウロして写真撮って、完全に変な人でしたから。

そして、ここが通っていた中学校です。ただ、名前が変わってしまっています。浜田省吾が通っていた中学は、二河中学です。現在は統合されており、呉中央中学になっています。

2016年11月 呉1回目訪問

大竹(パワーシャベルで削った丘の上いくつもの)

2020年11月。大竹に行ってきました。マイホームタウンや大ディーズタウンの舞台ですね。

2020年11月 大竹1回目訪問

溶けたタール、パルプのにおいの、何もかも閉ざされた My Hometown 〜♪

確かに、焦げたにおいがします。大竹に住んでいる人たちには申し訳ありませんが、確かに何もない町です。

「マイホームタウン」の中で、

パワーシャベルで削った丘の上いくつもの同じような小さな家どこまでも続くハイウェイ〜♪

と歌ってますが、この町にはハイウェイは見当たりませんでした。多少の脚色は入っているんですね。

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