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通勤ラッシュを迎える平日午前七時半頃の小田急線。
私は狛江駅から各駅停車に乗って二駅目、成城学園前駅で降りて通勤快速新宿行きに乗り換えている。
成城学園前駅に列車がやってくると、今朝もすでに客で立錐の余地もないほどの車内に、後ろの客にも押されながらなだれ込む。
成城学園前駅で通勤快速の乗車率がマックスを迎えるらしく、車内はギュウギュウ詰めとなる。
車内でマンガを読む男
そんな満員電車の中でも前の客との空間を利用してスマートフォンを見たり、本を読む乗客がいるものだ。
とある通勤ラッシュ時、私の前に立っていた男もその一人であった。
彼が読んでいたのはマンガだ。
私はその男の斜め背後に立っていたために、その肩越しにそのマンガの内容が否応なしに視界に入ってきた。
別に盗み見るつもりは全くなかったのだが、ついついそのマンガを読み始めてしまう。
何やら中世のヨーロッパを舞台にした作品のようだが、結構面白い。
逃亡中の高貴な身分の姫と護衛の騎士が、ある関所を通り抜けようとしている。
その関所の代官は優しい顔をしているが根は極悪非道で、ちょっとでも怪しいと思った者を徹底的に拷問したあげく処刑してしまう。
護衛の騎士は何とか姫の身分を隠し通して関所を抜けようと知恵を絞るが、疑り深い代官に怪しまれ…。
読んでいるうちにハマってしまい、いつもトロトロなかなか進まないように思える通勤快速が、本当に快速に思えてきた。
もう電車は次の降車駅とのほぼ中間、経堂駅を通過。
しかし、イラつく読み方をする奴だった。
まだこっちが読み終わってもいないのに次のページに進んだり、
そうかと思えば、
こっちがとっくに読み終わったのになかなか次のページに進まなかったりする。
その止まっているページでは護衛の騎士がすでに殺されており、正体がばれてしまった姫は代官の兵隊たちに捕まっている。
早く次のページめくれ!
だが、そいつは次のページに行くどころか、
あろうことか何ページか前に戻ってじっくり読み直しを始めた。
この野郎!
もう電車は梅が丘駅を超えて停車駅である下北沢に近づきつつある。
そいつの本だし、のぞき見してる立場上「早く次のページ読ませろ!」と怒るわけにもいかず、私はやきもきしながら元のページに戻るのを待った。
騎士が代官の命令で部下とサシで決闘させられるページ、ハイ!そこはもう読んだ。
次は代官の部下を騎士は負傷させるが返り討ちに遭って殺されるんだよな、早く次!
姫が叫び声をあげて正体がばれる場面、よし!元のページに戻った!
そうこうしているうちに電車は下北沢駅に到着、男はまだマンガを見ている。
よかった、下北沢駅では降りないようだ。
さあ、お待ちかねの次のページだ!
これから姫はどんな目に遭わされるんだ?
しかーし!
男は駅に着いたことに急に気づいたらしくハッとして、マンガを閉じ、カバンにしまいやがった!
「おい、ちょ…」
思わず声を出しそうになった私を男はチラっと見たが、そのまま電車を降りて何事もなかったかのように降車する客たちの中に消えていった。
せっかく面白いところだったのにそりゃないだろ!
事実上ののぞき見なので責めるわけにはいかないが、それでもいたぶられたような感じがして釈然とせず、その日はあのページから先が気になって午前中いっぱい仕事にならなかった。(一か月後に作品名が『狼の口 〜ヴォルフスムント〜』だと知ったが)
ちなみに、視界に入ってそのまま読みふけってしまうのはマンガとは限らない。
ニュースだったり、問題集だったり、メールの内容だったりもする。
LINEをやる男
別の日に私の目に留まったのは、マンガ男と同じように私の前に背を向けて立っていた初老の男が持つスマートフォンで、そこに表示されたLINEのトーク画面だ。
マンガと違って個人情報ののぞき見だから許されざる行為だが、私の視界正面にあるんだから仕方ない。
悪いと知りながら、どんなやり取りをしているのか目を凝らして見るが読めない。
それもそのはず、トーク内容はすべてアルファベットだったからだ。
すげえ!英語でトークしている。
目に映る初老の男の背中が、知的なオーラで包まれて心なしか威厳に満ちていた。
このご老体がどんなやり取りをされておられるかますます気になったので、その英文を目で追うがピクリとも解読できない。
どうやら英語ではないらしい。フランス語?ドイツ語?
ますますご老体の背中から発っせられる後光の輝度がまばゆいばかりになった気がする。
お、ご老体が返信をしておられる!
私に読めるはずもないのだが、ゆっくりと入力される文字を思わず目で追った。
どれどれ「Sore」、次が「deha,mata」、そして「kaishade」か。
Soredeha,matakaishade…。
ソレデハ、マタカイシャデ…。
「ローマ字じゃねえか」
とたんに、初老の男の背中が放つ後光が消灯し、強烈なみすぼらしい加齢臭がしてきた。
さっきまで注いでしまった尊敬の念を返せ、と言いたい。
小声で「ローマ字…」と不用意に口を突いて出た言葉が耳に入ったらしく、ジジイはムッとした顔で振り返り、スマートフォンを隠した。
はいはいのぞいて悪かったね、もう見ないよ。
もう興味もなくなったし。
のぞいた私が言うのも何だが、満員電車内で本やスマートフォンを見る際は、背後の人間の目に入るというリスクも考慮すべきではないだろうか。
自分だけの世界に没頭して無防備でいると知らない間に私のように背後に位置する人間に自分の世界へ侵入され、勝手に暇つぶしに利用されたり評論されたり、あまつさえ非難されたり見下されたりすることもあるのだから。
YouTubeを見る男
そうは言っても、やはり満員電車で長いこと立っているだけは確かに退屈だ。
やはり本かスマートフォンを見て時間をつぶしたい。
私はそんな時、よくスマートフォンでYouTubeを見ている。
私が今回見ているのは、自然界や動物園で偶然撮影された動物異種格闘技戦。
ライオン対トラ、クマ対トラなどの食物連鎖の頂点に君臨する大型猛獣同士のガチンコ対決はやっぱり血が騒ぐ。
今回発見したのはゾウ以外では最強と個人的に信じていたサイと、見かけによらずかなり危険な猛獣であるカバのスーパーヘビー級ドリームマッチだ。
サイ派の私は、サイの圧勝を期待していた。
手に汗握りながら見始めたが、大きく口を開けて威嚇するカバにサイがあっという間に屈服、背を向けて逃げ始めたところをカバに追い打ちをかけられている。
くそ!サイの負けかよ!
「よし!カバの勝ちだぜ!」
突然そんな声が耳元で聞こえたので後ろを振り向くと、そこにいたのは全く見知らぬ中年の男。
カバ派らしく、心なしか勝ち誇った顔をしている。
しょっちゅう人様のプライバシーをのぞいていた私がのぞかれていた!
相手がカバ派だけに、二重の意味で負けた気がした。
やっぱり私も背後に気をつけねばならんようだ。
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