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2021年 世界史 戦争もの 歴史

ブラジルの第二次世界大戦


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第二次世界大戦において、ブラジルは連合国の一員として枢軸国と戦っている。

1942年半ばから終戦まで海軍と空軍が大西洋での対潜水艦戦に参加した他、ラテンアメリカの国としては唯一、ブラジル遠征軍(FEB)と呼ばれる部隊をヨーロッパのイタリア戦線に派遣しているのだ。

この遠征軍はブラジル陸軍と空軍によって編成された歩兵師団であり、交代要員も含め約25900人の兵員で構成されていた。

ブラジル遠征軍はイタリア戦線で1944年9月から1945年5月までほぼ8ヶ月の間、ドイツ軍がイタリア半島中部に設けた防衛線の一つであるゴシック・ラインで戦い、948人が戦死したが、1945年の最終攻勢でブラジル遠征軍は二人の将官を含む枢軸軍の20573人を捕虜にするなど連合軍の作戦に少なからぬ貢献をした。

対枢軸国宣戦布告前

ブラジルは第一次世界大戦において、1917年から1918年まで連合国側に加わり、主に海軍による対Uボート戦を戦ったが、第二次世界大戦においても連合国側に立って参戦することは当初予定されていなかった。

当時のブラジル連邦共和国大統領ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスは議会を解散させて、ファシズム色の濃い全体主義的な独裁政治を行っていたため、枢軸国と親和性が高かったおかげでもある。

ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス

よって、第一次世界大戦開戦時のように1939年の時点でブラジルは中立の地位を維持し、連合国と枢軸国の両方と通商を行っていた。

しかし、戦争が激しくなるつれて枢軸国との交易はほとんど不可能となる。

アメリカがブラジルの中立を許さず、連合国側に引き込むための圧力を交えた外交的、経済的攻勢を強めたからでもあった。

アメリカは南米への枢軸国の影響を最小限に抑え、大西洋での連合国側の海上輸送に対する脅威に備えようとしていたのだ。

アメリカはブラジルを自らの陣営に引き入れるための見返りも同時に用意していた。

1942年の初め、アメリカはブラジルの鉄鋼産業の形成を援助することを約束(後にブラジル最大の製鉄会社ナシオナル製鉄が誕生するきっかけとなった)。

それによりブラジルは自国内に米軍の航空基地を設置することを認める。

基地はバイーア州、ペルナンブーコ州、リオグランデ・ド・ノルテ州に設けられ、リオグランデ・ド・ノルテ州のナタール市には米海軍の哨戒飛行隊52の一部が駐留。

さらに、対日通商破壊のためのタスクフォースがブラジルで設立されて、ブラジルとアメリカの合同防衛委員会も創設され、両国の軍事関係が強化されるようになる。

この連合国との協力関係の進展により、ブラジル政府は1942年1月28日にリオで開催された汎アメリカ会議で、ドイツ、日本、イタリアとの外交関係を断ち切る決定を発表した。

しかし、手痛いしっぺ返しが待っていた。

枢軸国側に敵対行為とみなされ、1942年1月末から7月にかけてまだ正式に連合国側に加わってもいないにもかかわらず、ドイツ軍のUボートにより自国の商船が攻撃されることになったのだ。

1942年8月には2日間で5隻ものブラジル船がUボートの一隻であるU-507の攻撃で沈没し、600人以上が死亡した。

8月15日、サルバドールからレシフェに向かっていたバエペンジ号が19:12に魚雷を受け、215人の乗客と55人の乗組員が死亡。

21:03に、U-507がアララカラ号に魚雷を発射、乗っていた142人のうち、131人が死亡。

2度目の攻撃から7時間後、U-507はアニバル・ベネヴォロ号を攻撃。

83人の乗客全員が死亡し、71人の乗組員のうちの4人だけが生き残った。

8月17日、ブラジル南東部の港湾都市ヴィトーリア市沖合で、イタギバ号が10時45分に被害を受け、死者数は36人。

その後、サルバドールからサントスに向かうもう一隻のブラジル船アララ号はイタギバ号を救助しようとしたところを攻撃され、同船は20人の死者を出す。

これらの被害を目の当たりにブラジル世論は激高、開戦の機運が国内で高まった。

ヴァルガス政権は戦争を望んでいなかったが、リオデジャネイロなどの都市部では中立政策に抗議する動きがドイツ系ブラジル人への攻撃という形で現れる。

こうして世論の開戦への要求が高まったため、ブラジル政府は1942年8月22日ドイツとイタリアに宣戦布告を行った(日本への宣戦布告は1945年6月)。

翌年の1943年1月28日と29日にはリオグランデ・ド・ノルテ州のナタール市で、ヴァルガス大統領は合衆国大統領フランクリン・D・ルーズベルト大統領と会談。

後にヨーロッパ戦線に派兵されることになるブラジル遠征軍の創設が決定された。

南大西洋での戦い

ブラジル海軍駆逐艦マラニャン

第二次世界大戦に参戦したブラジル海軍の戦場は主に大西洋であった。

ブラジル海軍の主な任務は連合国の一員として、中部大西洋と南大西洋間を航行する船舶の安全を確保することであり、単独で、または連合軍と連携して614の船団を護衛。

ドイツの潜水艦との戦いで、ブラジル艦は爆雷や機雷で攻撃を行った。

ドイツ側の記録によると、ブラジル軍から合計66回の攻撃を受けたという。

ブラジル軍は少なからぬ戦果も挙げており、ブラジル沿岸ではイタリア軍の潜水艦アルキメデ、ドイツ軍のU-128、U-161、U-164、U-199、U-507、U-513、U-590、U-591、U-598、U-604、U-666の合計12隻の潜水艦を破壊。

一方のブラジルは、大戦中に枢軸国の攻撃で36隻の船が沈められて1600人近くが死亡。

その中には商船員470人と海軍兵士570人が含まれ、それ以外には事故で350人が死亡した。

ブラジル海軍自体が失った水上艦艇は三隻であったが、1944年7月20日にU-861によって撃沈された兵員輸送船のバイタル・デ・オリベイラ以外は事故によるものである。

ブラジル海軍駆逐艦マルシリオ・ジアス

ブラジル遠征軍の編成準備

ブラジルが枢軸国に宣戦布告した直後、ヨーロッパへの遠征部隊を編成するための国民動員が始まった。

しかし当時のブラジルは伝統的に孤立主義的な外交政策を取る国であり、農村での文盲率も高く、あらゆるインフラが未整備で、戦争のための物資も人材も欠いていた。

さらに、ブラジルは軍事独裁政権で、1941年まではナチスに同情的ですらあり、軍人の多くはナチスの敗北は国内の民主主義運動に拍車をかけることになると信じていたこともあって、自発的に連合国側に立つことには躊躇していたのが実際のところであった。

この政府の消極的な態度に対して、ブラジルマスコミ界の大物であるアシス・シャトーブリアンは、ラテンアメリカの志願兵で構成される遠征軍師団の創設のために、在ブラジルの合衆国政府関係者と交渉。

この部隊はシャトーブリアンが出資して、訓練はアメリカ軍が担当し、指揮はブラジルの将軍にとらせる計画だった。

しかしこれは、1943年初頭にブラジル政府によって縮小された。

参戦してから約2年後、ブラジルは正式にヨーロッパ戦線に部隊を派遣するが、そこまで派兵が遅れたのは遠征軍の規模や派遣先などの面でアメリカ政府との意見の食い違いもあったからである。

また、ブラジル政府は当初10万人規模での編成を考えていたが、その四分の一の約25000人での派遣となった。

ブラジル遠征軍の司令官はマスカレンハス・デ・モライス将軍(後の元帥)が任命され、その戦闘部隊はゼノビオ・ダ・コスタ将軍が指揮する第6連隊戦闘団に加えて、リオデジャネイロに駐屯する第1連隊戦闘団や、サン・ジョアン・デル・レイからの部隊から編成された。

約5,000人の兵士を有する各連隊戦闘団(現代の旅団に相当する規模)は3つの大隊に分けられ、大隊は4つの中隊からなり、むろんこれには後方支援のための人員や砲兵、工兵なども含まれている。

ブラジル空軍の飛行隊は、地中海方面の連合軍戦術空軍の指揮下に置かれた。

ブラジル遠征軍のイタリア上陸

1944年7月2日、先発隊として第6連隊戦闘団の5000名の兵士が米海軍の艦艇に乗ってブラジルを出発、7月16日にイタリアに到着した。

ナポリに上陸してからブラジル兵たちはアメリカ第45任務部隊に加わるために待機していたが、必要な装備や武器もなく、兵舎すらなかったため、ドックでの待機を強いられてしまう。

7月下旬に後続の部隊が到着し、1944年9月と11月、1945年2月にも増援が到着。

その中にはブラジル陸軍の山岳歩兵部隊も加わっていた。

ブラジル遠征軍はその後、イタリアでの戦場に適した装備を取得してから、アメリカ軍による訓練を受けたが、宣戦布告から2年の間にブラジル国内で行われた準備は意味がなかったことが証明されてしまった。

ブラジル軍人の間では訓練の質ではなく、実戦こそが兵士を十分に鍛えるという意識があったせいか、ブラジル陸軍を構成していたのは即戦力にならない素人同然の兵士だったのである。

しかも、ブラジル遠征軍は当時の標準的なアメリカ歩兵師団を模倣して組織されたが、医療など兵站の面での不足が判明。

後にこれも米軍によって管理されることとなる。

そうした混乱に見舞われながらも8月、ブラジル軍部隊はナポリから北へ350km離れたタルキニアに移動し、11月にはウィリス・D・クリッテンバーガー少将率いるアメリカ第4軍団に加わった。

ちなみにブラジル軍が加わった連合軍であったが、多くの人種や国籍からなる部隊の寄せ集めだった。

アメリカ軍にはアフリカ系アメリカ人の第92歩兵師団と日系アメリカ人の第442歩兵連隊が含まれ、イギリス軍にはパレスチナ人、南アフリカ人、ローデシア人をはじめ、ニュージーランド人、カナダ人、インド人、グルカ人、アフリカ人、ユダヤ人、アラブ人、亡命者の部隊(ポーランド人、ギリシャ人、チェコ人、スロバキア人)、反ファシストのイタリア人。

フランス軍にはセネガル、モロッコ人、アルジェリア人も含まれていた。

これに対し、ドイツは連合軍内部の政治的攪乱を狙ってか、特にブラジル人を標的にビラに加えてベルリンラジオから毎日1時間の毎日ラジオ放送(ポルトガル語)を行うようになった。

イタリア戦線での戦闘

ブラジル軍がアメリカ第370連隊戦闘団と連携して行った最初の任務は偵察だったが、南フランスに上陸するドラグーン作戦のためにイタリアを去ったアメリカ第6軍団とフランス遠征隊の師団が残した空白を部分的に埋めるのに役立つ活躍を見せることになる。

ブラジル軍の第6連隊戦闘団は北イタリアを進軍して9月16日にはマッサローザを、2日後にはカマイオーレや北への進路上の他の小さな町を攻略。

次いで、ブラジル遠征軍は大きな犠牲者を出すことなくセルキオ渓谷を支配下に置く。

しかし、バルガ市周辺で最初の大規模な反撃に遭遇し、10月末にブラジル第1連隊戦闘団が到着した後、ブラジル遠征軍はトスカーナとエミリア・ロマーニャの州境にある北アペニン山脈の基地に向かい、続く数ヶ月は厳冬とドイツ軍の築いた防衛ラインの一つであるゴシック・ラインからの攻撃にさらされた。

連合軍は冬の間に山を突破することができず、特にブラジル遠征軍の左側面のアメリカ第92歩兵師団はドイツとイタリア軍による猛攻で第8インド歩兵師団の支援を必要としていた。

1945年2月末から1945年3月初めにかけての春攻勢の準備期間中、ブラジル軍とアメリカ第10山岳師団は、1944年の秋から効果的な砲撃により連合軍のボローニャへの進撃を阻んできた北アペニン山脈のドイツ軍の砲撃陣地を攻略に成功する。

そして、連合軍によるイタリア戦線での最後の攻勢が4月14日に始まり、約2000発の支援砲撃の後、ブラジル軍を含むアメリカ第4軍団はモンテーゼを奪取。

連合軍の攻勢の初日、ドイツ軍はブラジル軍がM8装甲車とシャーマン戦車を使用し、モンテーゼを奇襲しようとしていると誤解し、連合軍に対して発射した約2800発の砲弾の内1800発でブラジル軍を砲撃していた。

こうして、第4軍団のドイツの防衛線突破は決定的となった。

その後の4月21日、イギリス第8軍のポーランド師団とアメリカ第5軍の第34歩兵師団がボローニャに入城。

4月25日、ブラジル軍がパルマに、アメリカ軍がモデナとジェノヴァに到着すると同時に、イタリアのパルチザンが蜂起する。

イギリス第8軍はヴェネツィアとトリエステに向かって進軍した。

そして4月26日から始まったコッレッキオの戦闘において、ブラジル軍はターロ川流域でアメリカ第92歩兵師団によって解放されたジェノヴァとラ・スペツィアの地域から後退したドイツ・イタリア軍の反撃を待ち構えた。

こうした備えによって枢軸軍はフォルノボ付近で包囲され、戦闘の後に降伏。

4月28日にドイツ軍の第148歩兵師団全員、第90軽アフリカ師団、イタリア軍の第1ベルサリエリ師団の一部を含む13000人以上がブラジル軍の捕虜になった。

これは結果的にブラジル軍の大殊勲となる。

ドイツ軍はアメリカ第5軍に反撃するために、ブラジル軍の捕虜になった第148歩兵師団をリグーリアのドイツ・イタリア軍と合流させようとしていたために思わぬ打撃となったのだ。

ドイツはすでにカゼルタで休戦交渉を行っており、降伏条件を有利に進めるためにも手痛い反撃を連合国軍に与える必要があった。

その中でも第5軍は航空支援もままならず、まとまりを欠いて進撃しており、絶好の攻撃目標であったのだ。

第148歩兵師団が丸ごと降伏したことはこれらの計画がご破算になったことを意味し、続くアドルフ・ヒトラーの死とソ連軍のベルリン攻略の知らせが追い討ちとなってイタリアのドイツ軍は無条件降伏以外の選択肢は残されていなかった。

最後の進撃でブラジル軍はトリノに到着、5月2日にスーザの国境でフランス軍と合流。同じ日、イタリアでの戦闘終結が発表された。

ブラジル空軍の活躍

一方の空軍では、ドイツに宣戦布告した翌年の1943年12月18日にネロ・モウラ中佐を指揮官とする第1戦闘飛行隊(1oGAVCA)が結成されている。

同飛行隊には48人のパイロットを含む350人の人員が所属、赤(A)、黄(B)、青(C)、緑(D)の4つの飛行小隊に分けられていた。

訓練も装備も不十分だったブラジル遠征軍の陸軍部隊とは異なり、第1戦闘飛行隊にはPBY-5A カタリナ飛行艇を指揮してブラジル沖でドイツ軍潜水艦U-199を撃沈したアルベルト・M・トーレスはじめ、ブラジル空軍の精鋭パイロットが所属していた。

飛行隊はパナマの米軍基地で戦闘訓練を受け、1944年5月より、パナマ運河地帯の防空作戦に参加。

6月からは搭乗機をアメリカ製のP-47 Dサンダーボルトに交換した。

1944年9月19日、第1戦闘飛行隊はイタリアに向けて出発し、10月6日にリヴォルノに到着。

パイロットは必要最小限の人員であったため交代の予定はなく、アメリカ陸軍航空隊の第350戦闘機隊に配属された。

ブラジル空軍第1戦闘飛行隊の戦地での初飛行は1944年10月31日だったが、それから二週間も経たない11月11日、乗機としていたFABサンダーボルトの国籍マークをブラジル空軍のものに変え、戦術呼出符号「Jambock」として、

イタリアのタルクイーニアの基地から初めてブラジル軍単独の作戦任務を開始。

その後、第1戦闘飛行隊はアメリカ第5軍の支援として、偵察と航空阻止攻撃の任務を行った。

そして4月22日、第1戦闘飛行隊はこのヨーロッパ戦線において最もめざましい働きをすることになる。

地上攻撃のために飛行隊は午前8時30分から5分間隔で離陸、マントバ南部の武装偵察任務を開始。

その日の終わりまでに44の作戦を遂行し、戦車を含む80台以上のドイツ軍車両を破壊したのだ。

後年、この飛行隊の奮戦をたたえ、ブラジルでは4月22日をブラジル空軍の記念日としたほどである。

第1戦闘飛行隊は1944年11月11日から1945年5月6日まで445の作戦を行い、合計2546回の飛行と5465時間の飛行時間を記録。

1304台の車両、13両の鉄道貨車、8両の装甲車、25箇所の鉄道橋と高速道路橋、31箇所の燃料タンクと弾薬庫を破壊した。

戦術航空軍団の司令部もブラジル第1戦闘飛行隊の戦果を称賛したが、それまでに3人が訓練で、5人が対空砲火で死亡。

8人が撃墜されて死亡するか捕虜になるなど損害も決して少なくはなかった。

戦後

ヨーロッパでの戦役が終わった後、ブラジル軍はピアチェンツァ、ロディ、アレッサンドリアの各州で占領軍として駐留。

1945年6月初旬、ブラジル政府は遠征軍の解散を命じ、1945年半ばに帰国した。

ブラジルの第二次世界大戦への参戦は第一次世界大戦の時よりも大規模であり、連合軍への貢献は主に南大西洋での対潜水艦戦であったが、ヨーロッパ戦線に地上軍を派遣したことで政治的により目覚ましいものとなった。

しかし、こうしてブラジル遠征軍を送り出したヴァルガス政権であったが、この年の10月に軍部のクーデターにより大統領が失脚、崩壊してしまった。

ブラジル遠征軍の戦死者は北イタリアのピストイアに埋葬されていたが、後にリオデジャネイロの霊廟に移送された。

出典元―ウィキペディア英語版

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2021年 おもしろ 悲劇 本当のこと

あわやローン地獄~カーシェアリング投資被害未遂~


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世の中うまい話などそうそうあるわけがない。

知恵も労力も使わず、リスクもなしに金など稼げないのだ。

そう分かっていても、楽して安全に稼げることをうたうスキームは次々出現するし、それを真に受けて地獄を見る者は後を絶たない。

2020年11月20日に東京地裁に破産を申請し、破産手続きの開始決定を受けたSERIAS(セリアス)社によって大きな負債を背負わされて途方に暮れる人々もその類ではないだろうか。

同社とその関連企業は2018年4月より東京で「スカイカーシェア」というサービス名でカーシェア事業を展開。

「高級車はシェアする時代」などと宣伝して、メルセデスベンツ、BMW、アウディ、レクサスなどの高級車を最安24時間6800円とレンタカーより安い料金設定でユーザーを集め、月単位の貸し出しもしていた。

その高級車は今回被害者となった個人投資家に購入させたもので、その投資家が買った高級車を同社が預かって、個人間カーシェアとして貸し出していたのだ。

投資家たちは、

「家を買って賃貸に出す不動産投資の自動車版」、
「レンタカーの『わ』ナンバーではない高級車はシェアの需要がある」

と、車を貸し出して運用に回せば利益を得られるというSERIAS社のうたい文句を信じて出資。

彼らは同社のグループ会社や提携先の中古車販売会社から1台数百万円の高級車を7年ローンで買うことになるが、

毎月のローン代金や保険料、駐車場代などは全て同社から投資家の口座に入金され、

数日後にその代金がローン会社や保険会社へ支払われる(口座やクレジットカードから引き落とし)ため、一切金銭の負担がないという説明を受けていた。

こうして一見するとノーリスクに見える上に、

  • 契約時に車両代金の1割(サービスが始まった当初は一律34万円)が支払われる。
  • 毎月1万円(場合によってシェア利用された料金の5%)の配当。
  • 7年後には期間満了時に100万円(2年契約のケースもあり)が支払われる。

という投資家にとっていいことづくめの条件であり、更には他の投資家を紹介して契約に至ると10万円かそれ以上の紹介料が支払われたため、集まった投資家は600名を超えた。

だが、ローンや維持費を肩代わりしてもらえて、あまつさえ配当が支払われるのはSERIAS社の事業の健全な継続が前提である。

同社は大阪にも進出するなど事業の拡大を順調に見せかけていたが、翌2019年には早くも高金利での1.2億円の資金調達を強いられるなど資金繰りが悪化。

2020年8月にはコロナ禍を理由に「翌9月に2か月分まとめて払う」ことを条件として投資家へのローン代や配当を停止したが、10月には事業そのものを停止。

上述のとおり11月20日に破産が決定した。

SERIAS社の負債は判明分だけで4億円を超えるが、負債を背負ったのは投資家も同じであった。

ローンを肩代わりしてくれるSERIAS社はもう存在しなくなったからだ。

投資家のほとんどは他に自動車ローンがなく、信用情報も真っ白な20代から30代の若者たちであったが、当然年収は年齢に相応して高級車とは無縁の水準に過ぎなかった。

そんな彼らにとっては数百万を超えるローンは荷が重すぎ、自己破産を考えている者も少なくない。

「うまい話を信じる方が悪い」

と世間には彼ら投資家を批判する声が多いが、私はあえてそう思わない、というか思う資格がない。

なぜなら、

私は一歩間違えたらその600名のうちの一人になっていたかもしれないからだ。

2018年6月某日、SERIAS社との遭遇

私が「スカイカーシェア」を知ったのは知人の副業マニアで実業家気取りの会社員K江の紹介だ。

ちょうどSERIAS社が同事業を始めたばかりのころである。

その前年、私は仮想通貨にはまったが、年明けに暴落(これもK江の紹介)。

投入した資金は大したことがなかったので損失もさほどではなかったが、株式以上に暴騰し、黙っていても自分の資産が増えていく仮想通貨取引の快感が忘れられず、「元手ゼロで金が入ってくる話がある」というK江の誘いにホイホイ乗ってしまった。

もっとも、乗り気だったのはK江の方で、今から思えば彼も紹介料がもらえるからだったと思われる。

話を聞いたその日のうちに、彼を通じてLINEでSERIAS社の担当者にアポイントを取り付け、後日池袋で詳しい話を聞くことになった。

そして当日、待ち合わせは池袋駅東口に近い某家電量販店の前。

そこへSERIAS社の担当者と称する人物が見るからに値が張りそうな外車で乗り付けてきた(車に詳しくないので車種はわからない)。

担当者はM田という人物で、SERIAS社破綻後に分かったことだがグループ会社のうちの一つの代表を務めていたようだ。

にこやかな笑みを浮かべ、しゃべり口も柔らかな四十代の人物だったが、何となくまともな仕事をしていたら経験することのないような修羅場もくぐってきたような凄みも感じた。

要するに少々グレーンゾーンの人間っぽい。
実際にもらったM田氏の名刺

私はM田氏の車に乗せてもらって近くの駐車場まで移動し、そこのすぐ近くのコーヒーショップで「スカイカーシェア」のカーシェアリング投資の話を聞いた。

M田氏は一連の説明の中で高級車を自分名義で買うことになるが、ローンはじめ駐車場代や保険料などの費用はSERIAS社持ちだからこちらの負担はゼロであると強調し、毎月の配当も当然保証すると断言した。

怪しい。はっきり言って怪しい。

そんなうまい話などあるものか。

それが本当だとしても、もしSERIAS社が破綻したらローンはこっちに降りかかるだろう。

それにこれって「かぼちゃの馬車」と似てなくないか?

2018年のこの当時、サブリースによる賃料保証をうたい、上京する女性のためのシェアハウス「かぼちゃの馬車」を不動産投資用の商品としてサラリーマン投資家に販売していた株式会社スマートデイズが破綻したばかりだった。

そして、賃料の入金をストップされた多数のサラリーマン不動産投資家が大きな負債を背負わされていたことが問題となっていたことは私も知っていた。

確かに、自分名義で費用はSERIAS社持ちで高級車を購入したら最初に34万+(毎月1万×84か月)+満了時の100万、合計218万円ブラスアルファが手に入るのは魅力だが、

SERIAS社が破綻するんじゃないかと生きた心地がしない状態が7年も続くのはごめんだ。

それにホントに払ってくれるかどうかもわからん。

「まあ、ご検討ください」

M田氏はその場で契約を迫ることはせず「興味が合ったらLINEでご連絡ください」といった感じだったので、

私は「そうします」と答え、そのままM田氏とは別れた。

だが、その時点で実は結構揺れ始めていたことを告白する。
「もし紹介者のK江がやったら自分もやってみようか」

と考えてしまったりもしていたのだ。

K江は翌日早々結果を尋ねてきた。

私は「アンタはやるのか?」と聞いてみたが、彼は不動産に投資するからやるつもりはないとのこと。

そして、何となく危ない部分があって決めかねていることを話すと、「まずはやってみたら?」と無責任なことを言ってきやがった。

バカ野郎。
「まずはやってみた」結果、大損こいたらどうしてくれるんだ!

こいつは自分が損しただけでなく、自分が勧めた案件で他人が損しても「自分にとっても相手にとってもいい経験になったはず」とポジティブにとらえる奴なのだ。

でもな、毎月何もしなくても金が入ってくるのは捨てがたい…。

などと、グダグダ迷っていたら、

一週間もたたないうちに私のLINEの友だち欄からM田氏の名前が消えた。

「脈なし」とあっさり判断されたらしい。

こうして私は何もしないうちにSERIAS社から一方的に縁を切られた。

そして2年後

2020年11月20日、SERIAS社が東京地裁により破産手続きの開始決定を受け、莫大なローンを抱える羽目になった投資家が続出したのは上述のとおりである。

そのニュースを聞いた時、たった2年前のことなのにすっかり忘れていて、「そういや似たような話、身近で聞いたな」と思って調べてみたらまさにそれそのものだったので背筋が凍った。

また、続く報道によりSERIAS社が様々な不正行為を行っていたことも明らかになった。

まず同社のうたうカーシェアリングだが、投資家名義とはいえ事業者が預かって管理している以上、法的にはレンタカーでカーシェアリングの定義からは外れるという。

そして投資家に高級車のローンを組ませるにあたって、年収を水増しして申告させていたこと。

本当は350万円くらいしか年収がない人に600万と偽って記載させたりしていたわけだが、ローン会社も不動産と違って自動車のローンの審査は甘く、そのまままかり通っていた。

この大甘の審査の下、配当が倍になるとSERIAS社にそそのかされて複数台購入して、後により大きな負債を背負うことになった投資家もいたようだ。

更に高級車のオーナーとなっていた投資家たちは自分の車を確認しようと(ローンがある以上、所有者はローン会社となるのですぐ取り戻すことはできない)、SERIAS社の所有していた高級車が停めてある埼玉県の駐車場に向かったのだが、500万だの600万だののローンを組まされた自分の車は査定額が100万から300万円のものが多かった。

投資家たちは法外な値段でボロ車を買わされていたのだ。

もっとも、これは車に詳しい人間だったらローンを組まされる前に気づいていただろう。

投資家たちの多くは車の知識に乏しく、実際に自分名義となった車を見た者も多くはなかったのだ。

私も車のことはよくわからなかったから、だからこそやらなくてよかったのだと本当に思う。

だが自分の車が実は安物だったとしても、まともな状態で見つかった人はまだ幸運だったと言えよう。

車を見つけられても事故で大破していたり、まだ未納で自分の車が存在しない人までいたからだ。

なお、よりヤバいことにSERIAS社が破綻した後も貸し出されている車があり、その利用者を調べて連絡してみると暴力団組員。

車の購入やレンタカーを利用できない「反社」、即ち暴力団員が少なからずこのサービスを利用していたことが判明したのだ。

よって、それらの利用者に返還を求めても当然のらりくらりと逃げられたり、逆にすごまれたりする始末で、しかも彼らが踏み倒した違反料金やコインパーキングの支払いもその車のオーナーとなっている投資家に請求が来る事例があるなど踏んだり蹴ったりだ。

SERIAS社について、その代表は反社会勢力と関係の深い人物であるともされ、ハナッから破綻前提のスキームでこの事業をやっていた可能性もあるなど、まだ明らかになっていない闇の部分も多く、その解明が待たれる。

他の詐欺案件と同じく、被害者となっている投資家に金が戻ってくる可能性はほぼなく、ローンも免除されることもなさそうだ。

危ないところであった。

私もあわやこれら被害者の仲間入りをするところだったじゃないか。

ノーリスクの話は信じちゃいけないし、知識のない分野で勝負してはいけない。

それなりの知識と経験の裏打ちによってリスクに立ち向かう者のみが金を稼ぐ資格があると考えるべきだろう。

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おもしろ 悲劇

「恩の無銭飲食」と「恩の高利貸し」~悪玉人間たち~


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かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め。

他者にかけた恩は水に流して忘れるべきだ。

一方他者から受けた恩は心の石に刻みこんで忘れてはならないのだ。

恩を仇で返すなんて人としてあるまじきことだし、かけた恩の見返りを求めるのはあさましい限りである。

だがそう理解できるのは、「恩」の概念を正しく、少なくとも世間の標準に近いレベルで解釈できる人間だけである。

世の中には「恩」の概念と定義が世間一般とは大きく異なるか、存在しないとしか思えない輩、「恩知らず」が少なからず存在する。

受けた恩を水に流す奴

普通何かをしてもらったら、その相手に感謝して何かを返そうとするもので、

それを仇で返すのはむろんのこと、

間違ってもすかさず次の頼みごとはできないはずだ。

だが確実にそういうことをする奴、受けた恩をきれいに記憶から消す奴がいる

俗に言う頼みごとの多い奴のことを指し、口癖は「頼みがある」

普通ならば頼みを聞いてくれた相手に感謝して、何かの機会にお返ししようと考えるのが常識だが、

こういう奴の場合、頼みを聞いてくれた相手を「便利なアイテム」として記憶するようだ。

一応「ありがとう」とか「このことは忘れない」とか感謝してるようなことは言うが、

それは感謝ではなく「お前は使える」「今後も俺に尽くせ」と解釈すべきだとしか思えない。

そのくせこちらの頼み事はにべもなく却下する!

「恩の無銭飲食」もしくは「恩の万引き」をする百害あって一利なき癌細胞か悪霊のような奴だと言えよう。

もはや同じ価値観を有する人類とは思えない。

かけた恩を取り立てる奴

確かに他人に何かをしてあげて、何も見返りがなかったら「そりゃないだろ」と思いたくもなる。

だが、露骨に見返りを求めたら、それは相手方にとって「恩」ではなくなる。

別の意味において「受けた恩を水に流す奴」の逆で、他人にかけた恩をいつまでも忘れず、あまつさえ取り立てようとする輩も世の中にいる。

分かりやすく言えば恩着せがましい奴のことだ。

こういうタイプに限ってやってくれたことは大したことではないか、こちらが頼んでもいないことで、

それに見合わない過大な恩返しを要求してくるのだ。

自分のかけた恩と相手が感じるべき恩、そして返すべきお礼を勝手に数値化して査定、しかもそれを水増ししており、

「恩」を債権とみなして利子までつけ、なおかつ高利である。
そして、「俺はこれをやってやったんだから、お前はあれをやるべきだ」と“抵当権”まで具体的に設定している場合もある。

だからこちらが完済(恩返し)したと思っても、まだ残債が残っているとみなして延々恩返しを要求してくるのだ。

私はこういう輩のことを「恩の高利貸し」、もしくは「恩の闇金」と呼んでいる。

ひょっとしたら債権ではなく、株式を取得したと考えてそれをたてに取る「恩の総会屋」「恩のクレーマー株主」と呼ぶべきなのかもしれないが、

ダニか寄生虫のような奴であることには変わりはない。

精神の自己免疫力をつけよ

俗にいう「恩知らず」は恩を仇で返す者を指すようだが、

以上二つのタイプもまた恩の概念を正しく理解していない点では「恩知らず」にカテゴライズされるべきだと思う。

人として生きる上で、冒頭の「かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め」を旨にすべきなのはもちろん、

これら「恩の無銭飲食」や「恩の高利貸し」をする「恩知らず」になってはいけないのは言うまでもないだろう。

そして何より、無銭飲食」や「高利貸し」をさせないようにすることも重要なのだ。

人間関係も自然環境と同じ、善玉ばかりではない。

かような悪玉が存在し、それはウイルスや雑菌に似て意外と身近に潜んでいる。

健康的な人間関係を維持して社会生活を送るには身体の健康と同じく、精神の自己免疫力や抗体を持つ必要もあるのだ。

「ウチで無銭飲食か万引きしたら覚悟しておけ」「取り立てられるなら取り立ててみろ」というオーラと気迫こそがその精神の自己免疫力や抗体にあたり、二足歩行するがん細胞や寄生虫を近寄らせないのだ。

そういった人間が「かけた情けを水に流し、受けた恩を石に刻め」ば、彼もしくは彼女はもはや人間関係において何も恐れるものはないであろう。

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地球破壊兵器?=反物質爆弾とは


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反物質兵器とはエネルギーや推進剤又は爆発物にもなり得る、けた外れのパワーあるいは破壊力を有する兵器であって、SFなどのフィクションの世界でたびたび登場する。

しかし現実の世界においてもそれを実現させようという試みがすでに始まっている。

米国は冷戦の時代にはすでにその壊滅的な破壊力に着目し、軍事利用のための反物質関連の研究を助成してきた。

反物質は物質と衝突させると質量が100%エネルギー(高エネルギーのガンマ線)に変換できるため、その軍事的な利用価値は極めて高いからだ。

ちなみに、核融合反応を利用する水素爆弾はおよそ0.7%の質量エネルギー変換をしているに過ぎないことから、反物質を軍事利用した場合の威力がご想像いただけるであろう。

核兵器よりはるかに危険になりうるかもしれないこの兵器、果たして現状ではどれほど研究が進んでいるのだろうか?

反物質とは?

我々の周りの物質はいずれも原子からなるのはご存じのとおりだ。
どの原子も電荷を持たない中性子とプラスの電荷を有する陽子からなる原子核と、その周りでスピンするマイナスの電荷を有する電子から構成される。
水素や炭素、酸素などの種類の違いは原子核を構成している中性子と陽子、それに対応した電子の数の違いによる。
つまり物質とは全て陽子・中性子・電子から成り立っている。

一方の反物質とは、我々の知る物質に対して質量とスピンが全く同じだが、構成する素粒子の電荷などが全く逆の性質を持つ反粒子によって組成される。
例えば、電子はマイナスの電荷を持つが、反電子(陽電子)はプラスの電荷を持つ。
中性子と反中性子は電荷を持たないが、中性子はクォーク、反中性子は反クォークから構成されている。
反物質の原子核は外側を反電子たる陽電子に覆われ、反陽子と反中性子からなる「マイナスの原子核」であり、 こうした反粒子からなる物質が反物質と呼ばれるのだ。

反物質とは、宇宙の主要部分を構成する一般的な物質が「鏡面反転」された、反対の性質を持っている。

それを例えて言うと、鏡に映る自分が現実に目の前に現れたならば、その目の前の鏡の中の自分は左右が逆である以外は自分と同じ「反自分」と呼ぶのと同じなのだ。

この反物質は自然界にはほとんど存在しないが、その存在は1928年に物理学者のポール・ディラックによって予言され、20世紀を通じて研究が進んで、1995年には欧州原子核研究機構(CERN)とドイツの研究チームが反陽子蓄積リングによって陽電子と反陽子からなる9個の「反水素」の生成に成功。

この反水素は一億分の三秒で反陽子と反電子に分かれてしまったが、人類はすでに反物質を作り出すことができるのだ。

対消滅の効果

そして反物質は人類が発見した中で最も強力なエネルギー源であり、爆発物となり得る。

物質と反物質が衝突すると対消滅という現象を起こし、光子又は中間子となって巨大なエネルギーとなって放出されるからだ。

アインシュタインの相対性理論で有名な質量とエネルギーの関係を示す等式E=mc2によると、反物質は微量でも驚くほど大きなエネルギーを生成することができ、 100%の効率で放射状にエネルギーを放出する。

米国のランド研究所による反物質実験の報告書によると、1グラムの反物質と1グラムの物質が衝突して対消滅すると、放出されるエネルギーは5×107キロワット/時(約6メガワット/年)に達するという。

それは同じ質量での中性子とウラン235原子核の核分裂反応の約1054倍であり、セシウム原子核の核融合反応の約266倍のエネルギーに相当する。

したがって、反物質はエネルギー問題を決定的に解決する「エネルギー革命」を実現することができ、亜光速ロケットの推進燃料に利用することも不可能ではない。

だが反面、反物質を兵器として使用した場合には上記のとおり原子爆弾の1064倍、水素爆弾の266倍の超ド級の大量破壊兵器となる。

そして、その軍事利用に向けた研究はすでに始まっているのだ。

軍事利用

反物質の軍事的な利用方法は主に以下四つである。

第一に超高速ミサイルの推進燃料。

第二に宇宙軌道上の軍事ステーション、その他の分野での超小型・超軽量エネルギー発生器。

第三に水素爆弾を起爆するための「核トリガー」。

第四に任意に調整可能な反物質爆弾である。

米国を主とした西側の核保有国は、第四の反物質を弾薬として使用する反物質兵器に関心を持っているらしく1983年より、米国のランド研究所での実現可能性研究を開始しているという。

研究によると、100万分の1グラムの反陽子と陽子が対消滅(爆発)後に放出するエネルギーは37.8キログラムのTNT爆発物に相当する。

1グラムの反物質は約4万トンのTNT爆発物に相当し、これは広島に投下された原子爆弾のエネルギーとほぼ同じである。

また、数マイクログラムの反物質は、熱核反応のトリガーとして、あるいは強力なX線バーストまたはγレーザーを励起することができる。

反物質の量を調整することによって、威力も用途も変えることができるのだ。

米国国防総省は2008年9月、コードネーム「反物質特別攻撃2008」というコンピューターシミュレーション演習を行った。

その内容とは以下のものである。

201X年、一名の工作員が某極東大国の首都に反物質時限爆弾を持って潜入、首都中心部の同国軍参謀本部ビル近くの公衆トイレに反物質時限爆弾を設置する。

撤退後にその爆弾が爆発すると、同国軍参謀本部の建物と関連施設は跡形もなく灰燼に帰すが、その工作員が運んだ反物質はたった5000万分の1グラムである。

その後、反物質パルス爆弾が同国の電力・通信ネットワーク関連施設の上空で爆発、その瞬間から、同国の軍事・社会活動は完全に麻痺する。

演習の後、米国国防省の将軍は「反物質爆弾は数グラムで地球を破壊する」と驚嘆した。

西側ではかような性能を有する反物質兵器を第四世代の核兵器に分類している反面、恐ろしいことに「通常兵器」として通常の戦争や地域紛争で使用可能とみなしているらしいのだ。

反物質兵器の利点は、エネルギー密度が高く、起爆が容易であり、原子爆弾のように核分裂反応に必要な臨界量のために体積を減少させることができないことはなく、水素爆弾のように核融合反応に必要な高温を得るために原子爆弾による起爆もいらないなど数多い。

そして何より反物質爆弾が従来の核爆弾と大きく異なる利点は、水素爆弾と同等の破壊力を持ちながら爆発時に電磁波のみを発生させ、核放射を発生させないことである。

生物や植物を放射能で汚染しないため「きれいな水素爆弾」だからというのが「通常兵器」とみなしている理由だ。

その一方で、プリンストン大学高等研究所の歴史家で科学者のジョージ・ダイソンは、「クリーン」な反物質兵器は「汚い」核兵器より恐ろしいと指摘する。

実戦に投入される可能性がより高いからだ。

もしアメリカが反物質兵器を開発すれば、核兵器のような放射能汚染の心配がない分通常兵器として扱われ、米軍は戦場でより傍若無人になるだろう。

だが、幸いにもそれは今すぐではないようだ。

反物質兵器開発の前に、反物質自体の生成にはまだ越えなければならない技術的障壁があるからだ。

技術的難点

反物質兵器開発への最大の障害は、反物質の生産と貯蔵にある。

天然資源として埋蔵されているわけではなく、実用に十分な量の反物質を安価に生産する方法がまだないのだ。

既存の技術では、高価で大規模な粒子加速器を必要とし、大都市の総電力に相当するエネルギーを投入して、ようやく非常に少量の反物質が得られるか否かである。

現在最大の粒子加速器を使用するCERN(欧州原子核研究機構)でさえ、1グラムの反物質を生産するのに40億年かかる。

現代の科学技術では1000億分の1グラムの反物質を生産するのに60億ドルの費用が必要ともされる。

反物質の保存についても問題がある。

巨大な設備を必要とする強力な電磁界ではなく、ボトルに詰め込むなど小さなスペースに十分な量の反物質を保存する方法がまだないのだ。

また、物質と反物質が衝突することで起こる対消滅のメカニズム自体にも本質的な解明がなされているわけではなく、さらなる研究が待たれる。

仮に開発に成功したとしても、反物質爆弾の備蓄は技術的に難しいものになるだろう。

通常の核兵器であっても保管や安全性の確保が容易ではないのだ。

ましてや反物質は普通の物質ではなく、強力な磁場エネルギーによって閉じ込め続けなければならない。

この強力で断続的な磁場エネルギーは、より高度で信頼性の高い設備だけでなく、維持するための巨大な電気エネルギーも必要となる。

したがって、反物質爆弾の運用は容易ではない。

そして反物質爆弾の安全性の確保も問題となるはずだ。

巨大な技術的リスクがあり、一旦制御不能になると他国を攻撃する前に自国が消滅する。

反物質爆弾はTNT爆薬相当で1kgから1兆トンまで威力を調節することができるが、 地球自体をも破壊できるため、より大きな人類滅亡への脅威が一つ加わることを意味する。

近年の進展

反物質爆弾の開発にはまだほど遠いが、反物質に関する研究は21世紀になってからも着々と成果を挙げている。

2002年 欧州原子核研究機構で日本を含む国際共同研究実験グループが、5万個ほどの反水素の大量生成に成功。

2008年10月、米軍関連の研究者が100万分の1グラムの反物質を生成するコストを10億ドルから1憶ドルに削減する方法を発見。

2010年11月 欧州原子核研究機構で日本を含む国際共同研究実験グループが、反水素原子38個を磁気瓶に閉じ込めることに成功(反水素原子の存続時間は0.2秒間)。

2011年4月、米ブルックヘブン研究所(BNL)の実験により、これまでで最も重い反物質である「反ヘリウム原子核」が合成された。

10億回の金原子核の衝突によって生じた5000億個の荷電粒子の軌跡を調べたところ、その中で18個が、反ヘリウム原子核と思われる軌跡であった。

これ以上重い反原子核は生成確率が非常に低いため、現時点で人類が手にすることの出来る最も重い反物質である。

2011年6月、欧州原子核研究機構で日本の理化学研究所や東京大学含む日米欧などの国際共同研究実験グループが、反水素原子を1000秒以上閉じ込めることに7回成功。

2017年11月には、雷によって空気中で反物質が生成され、対消滅を起こしている事が報道された。
対消滅ガンマ線を検出した事が証拠とされる。

2020年3月、欧州原子核研究機構(CERN)は水素の反物質の双子である「反水素」を従来より長く閉じ込める方法を発見した。

反物質爆弾と我が国

反物質の研究が今後大いに進展して大量生産や備蓄ができるようになれば、有限で環境を汚染する化石燃料や危険な原子力に頼らなくてもより効果的な発電が可能となり、エネルギー問題はほぼ解決されるかもしれない。

亜光速ロケットの燃料とすることも夢ではない。

しかし反物質がエネルギー源として実用化されるようになった未来には、反物質爆弾も必ず開発に成功し、現実にある脅威として存在しているはずだ。

人類とはそういうものだ。

核兵器の恐ろしさを認識しながらも、開発研究を続けたように。

我が国は唯一の被爆国として、核兵器の廃絶を願っている。

しかし、核兵器は決してなくならないし、なくなるはずがない。

かような大量破壊兵器を、どの国も持っていなかったら自国は持とうとするし、

他国が持っていたら、なおさら強力なものをより多く持とうとする。それが人情だ、国際標準の。

その核兵器を廃絶させるのは無理にしても新たに開発するのを断念させ、あわよくば削減せしめるのは、核兵器を陳腐化させるほどのより効率的で破壊的な兵器の出現こそが現実的だと思わざるを得ない。
すなわち、反物質爆弾である。

我が国こそ、反物質爆弾を開発すべきである。

核戦争の悲劇はまず我が国で繰り返させないことから始めよう。

米国による核の抑止力以上の、自前で問答無用の抑止力を保有するのだ。

非核三原則や憲法第九条にはない圧倒的な凄みで仮想敵国ににらみを利かせ、平和を維持するだろう。

日本の国際的な地位も否応なしに上がる。

我が国がやらなくても、きっと他の国が開発する。

その国によっては取り返しのつかないことになるだろう。

他国が持つより我が国が持った方がはるかにましなはずだ。

国家百年の大計のためにも、反物質爆弾の開発と保有にまい進すべきである。

出典元―百度百科及びWikipedia

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知られざるイスラエルマフィア

長年続くパレスチナ紛争によりきな臭いイメージがある反面、近年ではスタートアップ企業が毎年1000社以上も設立されるイノベーション国家として注目されるイスラエル。

そんな頭脳立国にも犯罪組織、イスラエルマフィアは存在する。

本稿で取り上げるイスラエルマフィア(ヘブライ語:מאפיה ישראלית、「イスラエルの組織犯罪」の意)とは主にイスラエルで活動するイスラエル人の犯罪組織であって、アメリカで組織されたユダヤ系アメリカ人のマフィアではない。

イスラエルマフィアの現状

イスラエル国内では主なもので16団体のマフィア組織が活動し、そのうち6団体はマグレブ(北アフリカ諸国)系ユダヤ人の組織で、3団体がアラブ人の組織である。

現在それらの組織のボスや構成員の多くは殺害されたか服役しているとされるが、残党が犯罪行為を続けており、壊滅に至ってはいない。

知られているのはアバージル一家、アバットブル一家、アルペロン一家、ドムラーニ一家、シラジ一家、アミール・モルナールやゼーヴ・ローゼンスタインが率いるシンジケートであり、彼らの裏ビジネスはイスラエル内外での違法カジノ、自動車窃盗、売春、人身売買、資金洗浄、みかじめ料の徴収、ゆすり、殺人 、闇金融、麻薬売買と多岐にわたる。

マフィアに詳しいイスラエルの元警視総監デビッド・コーエン氏によると、イスラエルのマフィア組織は表経済や地方自治体にまで浸透しており、2010年にはリクード党のクネセト(イスラエルの立法府)議員としてマフィアの身内がいる者が選出されたことが問題となった。

マフィアは大量の爆発物や銃器で重武装しており、2000年代初頭に発生したアバージル一家とゼーヴ・ローゼンスタイン一派との抗争では爆弾まで使われて幹部が殺害されただけでなく、無関係の市民も巻き添えになっている。

イスラエル警察はマフィア対策にIakhbalという特別部隊を組織して、これらのマフィア組織を取り締まっている。

2008年、テルアビブで起きた車爆弾爆発事件、アルペロン一家のボスが殺された

イスラエル国内のマフィア

北アフリカおよび中東系ユダヤマフィア

イスラエル建国後、北アフリカや中東各地からもユダヤ人が移住してきたが、同じユダヤ人でありながら同国で主流派を占めるヨーロッパ系ユダヤ人から差別され、彼らの多くは貧民区での暮らしを余儀なくされるようになった。

やがてそこからエジプトやモロッコなどの北アフリカ系ユダヤ人たちによるマフィア組織が台頭する。

これらモロッコ系ユダヤ人のイスラエルマフィアは主に麻薬取引をシノギにしており、ヨーロッパと米国に活動範囲を広げている。

イスラエルではそれらモロッコ系ユダヤ人のマフィア組織としてアバージル一家、アバットブル一家、ドムラーニ一家が特に有名であり、他にエジプト系ユダヤ人のアルペロン一家、イラン系ユダヤ人のシラジ一家が活動している。

中でもモロッコ系のアバージル一家は麻薬から殺人まで犯罪ならば何でもござれで、前述の一般市民をも巻き込んだ抗争や米国への大規模な麻薬密輸で悪名が高く、国内ではアバットブル一家やアルペロン一家、米国ではメキシコマフィアやその他さまざまなギャングと対立するなど武闘派ぶりが際立っている。

彼らはイスラエル警察に指名手配されると先祖が暮らした地であるモロッコに逃亡することが多い。

逮捕されたアバージル一家ボスのイツィク・アバージル(中央)、2011年1月12日

パレスチナマフィア

パレスチナ人(アラブ系イスラエル人)のマフィア組織も存在する。

ハマスやアル・アクサ殉教者旅団のように曲がりなりにも主目的を反イスラエル武力闘争に掲げている組織とは違い、こちらは純粋に闇の経済活動に特化している。

パレスチナ人が大多数を占める都市ではこれらのマフィアが暗躍しており、イスラエル中部の街タイベに拠点を置くアブデルカデル一家はしばしばユダヤ人犯罪者とも結託し、恐喝、麻薬および武器密売、詐欺、マネーロンダリングに関与している。

逮捕されたジャルシ一家のハッサム・ジャルシ

同じくイスラエル中部の街ラムラのパレスチナマフィアのジャルシ一家は、イスラエルで最も恐れられるマフィア組織の一つである。

パレスチナマフィアは米国でも活動が確認されており、ムーサ・アリヤンを中心とする犯罪組織はニューヨークでヘロインの密輸をシノギにしていた。

ロシア系ユダヤマフィア

イスラエルのロシア系ユダヤ人のマフィアは、1989年から始まったロシア系ユダヤ人の大量移民に伴ってやって来た。

ロシア系ユダヤマフィアのボスであるセミオン・モギレヴィッチなどはイスラエル市民権を獲得し、後にマネーロンダリングを主なシノギにするようになる。

彼らが目をつけたのイスラエルの銀行システムであり、同システムはアリーヤー(世界各国のユダヤ人のイスラエルへの移住)とそれに伴う資本の移動を奨励する仕組みになっていたが、それをマネーロンダリングに悪用したのだ。

世界的な金融規制緩和の傾向により、イスラエルもまた資本の移動を緩和することを目的とした法律を制定したが、マネーロンダリング防止のための法律が欠如していたため、不当に得られた利益を易々と洗浄することができた。

2005年のイスラエル警察の推定では、ソ連崩壊から15年間で50億ドルから100億ドルがマネーロンダリングされたとされる。

ロシア系ユダヤマフィアのボス、セミオン・モギレヴィッチ

他にロシアやウクライナ出身のユダヤ人犯罪者たちはニューヨークやマイアミへのロシア系ユダヤ人の大規模移住に伴い米国にも拠点を築き、さらにはベルリンやアントワープなどのヨーロッパの都市にもネットワークを広げた。

マラト・バラグラ(左)とエフセイ・アグロン(右)

アメリカで活動したロシア系ユダヤ人のギャングとしては、マラト・バラグラ、エフセイ・アグロンが有名であり、彼らはゆすり、売春、麻薬密売、強要、ガソリン詐取、殺人に関わっていた。

グルジア系ユダヤマフィア

ロシア系ユダヤ人同様、イスラエルに移住したグルジア系ユダヤ人もマフィア組織を結成しており、アントワープなど西ヨーロッパにも勢力を伸ばしている。

アントワープではグルジア系ユダヤマフィア・メリホフ一家が有名で、この組織は偽造、詐欺、マネーロンダリング、麻薬・武器密売、売春、強盗などの犯罪行為を行っていた。

海外でのイスラエルマフィアの暗躍

米国での犯罪

1980年代、ニューヨークにジョニー・アティアスが率いる「イスラエルマフィア」と呼ばれる犯罪シンジケートが出現、ニューヨーク・マンハッタンの宝飾店街で被害金額400万ドルという史上最大の金強盗をやってのけ、400万ドル以上の金を強奪した。

しかし、ボスのアティアスが1990年1月に殺害されると、この「イスラエルマフィア」は崩壊に向かう。

ロン・ゴネンら数人のメンバーが情報提供者となったため、同年9月には残党が当局に逮捕されて壊滅した。

その後、イスラエル人の犯罪組織はエクスタシー密売で米国を騒がせるようになる。

2000年、米国税関の当局者は議会で「数十億ドル相当のエクスタシー取引が、イスラエルの犯罪組織によって製品製造から国際的な密売の段階になるまで制御されている」と指摘してイスラエルマフィアの猛威に警鐘を鳴らした。

サミー・グラヴァーノ

伝えられるところではニューヨーク・マフィアの五大ファミリーの一つ、ガンビーノ一家の元アンダーボスであるサミー・グラヴァーノが仕切っていたアリゾナ州の麻薬組織にエクスタシーを供給していたのはニューヨークに拠点を置くイスラエル人イラン・ザルガーであり、彼は1999年5月から2000年5月にかけて総額700万ドル相当のエクスタシー100万錠以上を卸していた。

後にイラン・ザルガーはアリゾナ州とニューヨークで3年間にわたり組織的に約400万錠のエクスタシーを密売した容疑で逮捕された。

別のイスラエル人オデッド・トゥイトは最大級のエクスタシー密輸組織のボスと言われており、彼はパリ、ブリュッセル、フランクフルトからニューヨーク、マイアミ、ロサンゼルスに何百万錠ものエクスタシーを密輸した容疑で2001年5月に逮捕された。

悪名を馳せるアバージル一家やゼーヴ・ローゼンスタインのシンジケートなどもイスラエル国内に拠点を置きながら、米国でのエクスタシー密売に関与し続けていたがそれはいつまでも続かなかった。

2006年にローゼンスタインはイスラエルで逮捕され、後に米国に引き渡される。

彼はフロリダ州連邦裁判所でエクスタシー薬を密売した容疑を認め、懲役12年の判決を受けてイスラエルで服役した。

ゼーヴ・ローゼンスタイン

2011年1月にはアバージル一家ボスのイツィク・アバージルとその弟メイル・アバージル、その他3人の容疑者もイスラエル国内で逮捕されて米国に引き渡された。

メイル・アバージル

被告に対する連邦起訴状に申し立てられたのは殺人、巨額の横領、マネーロンダリング、ゆすり、ロサンゼルスでの組織的で大規模なエクスタシー密売であり、同起訴状は計32件、77ページにも及んだ。

メキシコでの犯罪

イスラエルマフィアはメキシコでも犯罪を行っている。

2019年7月24日、メキシコシティのショッピングモールのレストランでイスラエルマフィアの組員が白昼堂々イスラエル市民を殺害。

犯人は後に逮捕されたが、この事件は麻薬戦争真っ只中のメキシコ社会にも衝撃を与えた。

出典元:ウィキペディア英語版“Israeli mafia”

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