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90年代 MMA ファイターのベンチマーク? ポール・ヴァレランス

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90年代に総合格闘技、それも始まったばかりだった UFC やバーリトゥードルールの試合が好きだった方ならば、ポール・ヴァレランス(Paul Varelans)というファイターを覚えておられる方も多いのではないだろうか。

ポール・ヴァレランスは、1969年アメリカ合衆国カリフォルニア州サニーベール生まれ。高校時代にレスリング、大学時代はフットボールの選手として鳴らした身長 203cm 体重 140kg という恵まれ過ぎなほどの体格の持ち主であり、中国武術をベースに、レスリングやムエタイを組み合わせた「トラップファイティング」という格闘技をバックボーンとするファイターとして 1995年の UFC6 でデビューし、その後の UFC 7、8 、Ultimate Ultimate ’96 にも出場して、UFC7 では準優勝したこともある MMA 創世記のファイターだ。

1996年に有明コロシアムで開かれた『THE U-JAPAN』にも来日し、日本の総合格闘家・片瀬慎治を 30秒余りで秒殺している。

片瀬慎治を秒殺するヴァレランス

その巨体から「ポーラーベア(北極熊)」とも呼ばれていたが、そのファイトスタイルも北極熊そのもので、テクニックよりも体格にモノをいわせて、相手を力技でねじ伏せる試合運びが多かった。

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二流選手は体格で圧倒
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二流選手は体格で圧倒

MMA での対戦成績は 18戦9勝9敗と微妙で、負けた相手としては、タンク・アボット、マルコ・ファス、ダン・スバーン、イゴール・ボブチャンチン、キモ・レオポルド、マーク・ケアー、カーロス・バヘットなどが含まれる。

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タンク・アボット、イゴール・ボブチャンチンに敗れるヴァレランス
屋内, 座る, スポーツゲーム, 男 が含まれている画像

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タンク・アボット、イゴール・ボブチャンチンに敗れるヴァレランス

彼らは 90年代 MMA におけるトップファイターであり、200cm オーバーの巨体から繰り出されるパワーも、これら一流どころ相手には通用しなかったようだ。

返り討ちにされてリングに崩れ落ち、小よく大を制した形となった対戦相手を引き立ててしまう姿がよく目立った。

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ポール・ヴァレランスに勝てるか否かが、一流かそうでないかの指標と言えたのかもしれない。

あるいは、この巨人とどう勝負したかもファイターとしての資質を問う基準となっていた面もあるようだ。

UFC6 一回戦でヴァレランスと対戦したカル・ウォーシャムは敗れたとはいえ、178cm 105kg と体格では圧倒的に劣りながら堂々殴り合いを挑んで、途中まで対等に戦ってヴァレランスを流血させるなど健闘。

カル・ウォーシャム
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カル・ウォーシャム

そのためか UFC からすぐさまリリースされることなく UFC9、Ultimate Ultimate ’96 に出場し、MMA ファイターとしての通算対戦成績も16戦10勝6敗と、そこそこの活躍をしているのだ。

そういったベンチマークという意味でヴァレランスは存在感のある選手であったと言えよう。

ポール・ヴァレランスは UFC の他に、キエフで開かれた『IFC COMBAT』、ブラジルの『W.V.C.3』などの MMA の大会にも出場し、日本においては『THE U-JAPAN』以外にも、パンクラスやキングダムといった団体でも試合を行い、1998年2月にオランダで開かれた『リングス・オランダ大会』でリングスの名選手だったディック・フライを KO してから、公の試合に出ることはなくなった。

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ディック・フライを KO

試合に出場しなくなった彼は、その圧倒的な体格を生かしてクラブなどのバウンサー(警備員)を主に務めながら、MMA の大会の役員として働いていたという。

だが 2020年12月、ヴァレランスは再び戦いの場に引き戻されることになる。

相手は、彼の人生において最強最悪の敵、新型コロナウイルスだ。

ヴァレランスはフェイスブックをやっていたのだが、同年 12月10日に体調を悪化させて「人生で、こんなに気分が悪くなったのは初めてだ。今日は検査を受ける」と投稿。

12月12日に陽性と判断されて、アトランタのミッドタウンにあるエモリー大学病院に入院。

「地獄のような気分だ」と述べた翌 13日には「新型コロナの感覚をたとえるなら、腎臓へのパンチを得意技とする相手と戦っているようなものだ」と投稿したのを最後に、フェイスブックで彼のコメントは見られなくなる。

それから、症状は人工呼吸器をつけなければならないほど悪化し、昏睡状態にまでなってしまったヴァレランスは、一か月の闘病生活を経た翌年 2021年1月16日、帰らぬ人となった。

享年 51歳。

彼の人並外れたパワーをもってしても、新型コロナウイルスには勝てなかったのだ。

ヴァレランスは、並外れた体格に現役時代の荒々しい面構えと力任せのファイトスタイルから、気性の激しい荒くれ者と思われがちだったが、実際は体の大きさと同じく心が広くて温厚な人物であり、彼と接した人物は皆、その誠実な人柄に好感を持っていた。

そんなヴァレランスの早すぎる死を身近な者たちはもちろん、UFC で彼と親交のあった関係者誰もが悲しみ、その死を悼んだという。

出典元―ESPN、MMA Junkie、Wikipedia

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軟弱日本人大学生に白人至上主義者の洗礼 ~90年・デンバー日本人大学生襲撃事件~

本記事に登場する氏名は、一部を除き、全て仮名です。

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1990年10月7日深夜、アメリカ合衆国コロラド州デンバー市のダートマス公園。

六人の日本人大学生が現地の若者四人に襲撃され、暴行を加えられた上に金品を奪われる事件が起きた。

当時の日本はバブル期真っただ中。

日本経済は最盛期であり、有り余る金と強い円を背景に、人も企業も海外に進出していた時代である。

同時に、安全な日本と同じ感覚でふるまって犯罪者の恰好の餌食になる邦人が後を絶たず、危機管理の意識の低さが指摘されてもいた。

この災難に遭った六人の若者も、その無自覚な日本人の典型例であることは間違いがなく、彼らのケースは「こうなってはならない」という悪い見本として、その後しばらく語られることになってしまった。

日本人ばかりのアメリカの大学

帝京ロレットハイツ大学(現コロラドハイツ大学)

襲われた日本人大学生たちは、同デンバー市のサウス・フェデラル・ブルーバードにある帝京ロレットハイツ大学の学生たちである。

帝京ロレットハイツ大学とは、その名のとおり日本の私立大学である帝京大学の系列であり、もともと経営難で破産したカソリック系の学校を受け継いだリージス大学から、前年の1989年に買収したものであった。

「国際化」が叫ばれ始めた80年代後半から日本の私立大学の米国進出が相次いでおり、帝京大学もその波に乗ったのだ。

同大学はこれ以後、デンバーの同校と合わせてアメリカに系列の大学を五校も開校させることになるのだが、この帝京ロレットハイツ大学は、他の四校とはやや違った点があった。

それは、建物と土地は揃っていたが、肝心の教授や教員、清掃や事務担当の職員などもおらず、何より、元からそこに通っている在学生がいなかったことだ。

そこで、買収の翌1990年に開校して、新入生の受け入れを始めたのだが、何と帝京大学はその新入生を全て日本国内から募集し、その数は374名にものぼった。

そして、この学生たちの多くは、アメリカの大学に来たからと言って、英語力も目的意識も高い者たちではなかった。

帝京大学を受験した受験生の中で、第二志望として、同じ帝京大学系列の同ロレットハイツ大学を希望するかという試験中に回ってきた書類に〇をつけた結果、ここへ入学することになった者がかなりいたのだ。

つまり、そういった新入生は、第一志望がこのロレットハイツ大学というわけではなく、日本国内の帝京大学に落ちた結果、アメリカまで来ることになったということである。

中には、そこしか合格できなかった者もいたようだ。

しかも、同校の教授陣やスタッフはアメリカ人とはいえ学生は日本人ばかりと、まるで日本国内の大学であるかのようであり、彼らも、日本にいるかのようにふるまうようになった。

もちろん、友達はみな日本人で、いつも話しているのは日本語である。

彼らが現地入りしたのは4月で、9月の本入学まで時間があり、それまで他の州へ研修に出かけたりと、みっちり英語のトレーニングを受けさせられていた。

しかし、元々のレベルがたいしたことなく、周りが日本人ばかりの環境では、どの程度向上したか推して知るべしであろう。

事実、本入学から学校での授業は全て英語だったが、学生たちのほとんどは、その内容を理解できなかったという。

どう考えても、アメリカの大学に来た意味がほとんどない。

もっとも、学校の外は完全にアメリカの街であり、ずっと学内や寮に閉じこもっているわけにもいかない学生たちは、最低限街に出る必要はあった。

だがこのデンバー市は、アメリカの中でも治安がかなり良い街であり、開校前にも地元住民たちによる露骨な反対運動なども起きておらず、街に金を落としてくれると、同市は帝京大学の進出を表向きは歓迎していた。

おかげで、彼ら日本人学生も街中で、受験から解き放たれた解放感をたいして危険な思いをすることなく、味わうことはできたようである。

しかし、この1990年は、国内経済が低調だったアメリカの不動産や企業などを日本企業が買いあさっていたこともあって、アメリカ人の間でやっかみ半分の「ジャパンバッシング」が起こっていた時代だった。

グラフィカル ユーザー インターフェイス, テキスト

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ジャパンバッシング

この一見友好的で平穏そうなアメリカ中西部の街にも、金にモノを言わせて大挙してやって来た日本人たちに反感を募らせ、それを行動に移す者たちはいたのだ。

帝京ロレットハイツ大学は、その年の開校早々、学校の敷地内に「ジャップス・ゴーホーム」と書かれたダイナマイトに似せた発煙筒が投げ込まれたり、学生の中には、白人の若者に怒鳴られたり、モノを投げつけられたりの嫌がらせを受ける者も出はじめた。

正式な授業が始まって間もない9月30日には、不用意にも深夜に外出した日本人学生二人が殴られて所持品を奪われる事件が起きているが、これは表沙汰にならなかったこともあって、他の日本人学生たちの危機意識を高めることにはならなかった。

そして翌月の10月7日深夜、これらノー天気な日本人学生たちばかりか、日本本土の日本人まで凍り付かせる事件が起こる。

1990年10月7日、事件発生

その前の日の10月6日は日本人学生の一人、小松善幸の20歳の誕生日。

それを祝って小松の友達の高石健、永田真也らが学校の寮の一室で飲み会を開いていた。

若者たちの飲み会なので、日が変わった夜12時になっても、宴たけなわでお開きになる気配がなかったが、ここは大学の寮である。

寮には「クワイエットタイム」という、騒いではいけない時間帯が規則として設定されており、いつまでもはしゃぎ続けるわけにはいかないのだ。

そこで、まだまだ飲み足りない彼らは、大学のすぐ近くのダートマス公園で飲もうということになり、寮を次々に抜け出した。

もちろん、この行為も寮の規則に違反している。

ダートマス公園(現ロレット・ハイツ・パーク)

彼ら日本人学生たちにとって、誰かの誕生日などは適当な居酒屋もカラオケボックスもないデンバー市では、恰好の憂さ晴らしだったのだろう。

規則を破って公園に集まったのは、30人近くにも上った。

学生たちは、園内の街灯の下に集まって「二次会」を始めた。

バンドをやっている高石の仲間の永田が、持参してきたギターで演奏を始め、酔いが回っていた学生たちも、カラオケ替わりに歌い出す。

デンバー市が、いくらアメリカでも治安の良い街とはいえ、真夜中の公園で飲み会とは無警戒極まりない。

しかし、学生たちは以前にも、他の学生の誕生日を祝って深夜のダートマス公園でこのように騒いだことがあり、今回が初めてではなかった。

しばらく飲んだり歌ったりのどんちゃん騒ぎをしていたが、高原都市デンバーの夜は10月初旬でも冷える。

やがて、大勢いた学生たちも一人二人と寮に引き上げ、残ったのは、今回の飲み会の主役である小松善幸、その友人の高石健、永田真也、矢萩芳樹、前原健吾、久木田恵一の六人のみとなった。

彼らは朝まで騒ぐつもりだったようだが、六人になってほどなくして、自分たちのすぐ近くに人が来ていることに気づく。

寮からの新たな参加者ではない。

現地の白人の若者たちで、全部で四人いる。

そのうち一人の長髪で2m近くの長身の男が口笛を吹くと、彼らは、小松たちを囲むような配置を取った。

その様子から、お友達になりに来たのとは逆であることが明らかであり、おまけに手にバットを持っている。

そのバットの用途は、状況から考えて容易に察しがつく。

相手は自分たちより少人数だったが、どいつもこいつも自分たちより強そうな白人の男たちを前に、肝っ玉の小さい日本人学生たちは震えあがった。

日本の街中で、ヤンキーに絡まれるよりずっと怖い。

「Show me your fukking ID!!」

やがて、そのうち一人の口ひげを生やした男が、IDを見せるように高飛車に命令してきた。

「アイドントハーブアイディー、ビコウズ…えと、えと…」

寮からそのまま出てきたので、IDなど持っているわけがない。

最初、その招かれざる客が公園の警備の人間か何かだと思った学生もいたようだが、続けて白人の一人が金を要求するようなことを言ってきたのを聞くや、誰もがこれはおかしいことに気づく。

彼らの貧弱な英語力でも、これがカツアゲそのものの脅しであることはわかったのだ。

「なあ、これやばいんちゃう?もうずらかろうや…」

六人のうち、矢萩が高石にボソボソとささやいたが、すでに遅い。

もう完全に囲まれてしまっていたのだ。

「Lay down!!」

次に、男たちは腹ばいになれと命令し、永田の持っていたギターを取り上げて破壊した。

呆然と突っ立っていた日本人のうち、前原が長髪の男につかまれて、もう一人の白人に、バットで太ももをはたかれて倒れ込む。

本格的な暴力に震えあがった根性なし六人は、一斉に言いなりになった。

腹ばいになった直後、まず最初に思わず顔をあげた永田がバットで頭を殴られ、それを合図に、他の者たちに対しても仕置きが始まった。

頭を殴り、思わず手で頭を覆うと、すかさずガラ空きの脇腹にバットがジャストミート。

起き上がろうとしようものなら背中に渾身の打撃を加えられ、かと言っておとなしく腹ばいになっていても、連続的にバットの一撃が降ってくるなど、小癪で無慈悲な攻撃が加えられた。

白人の襲撃者たちは、暴行しながら学生たちのポケットを探ったりして、財布やら金目の物を盗ってゆく。

小松は、指にはめていた指輪を先ほど口笛を吹いた長髪の大男に要求されたために、あわてて抜こうとしていたが、まごつき、イラついた長髪野郎に顔を蹴り上げられた。

しかしこの時、四人で六人の相手をしていた襲撃者たちにスキができる。

それを見ていたのか、高石が起き上がるや、公園の外へ向けて走り出す。

さらに、白人たちがそれに気を取られたのに乗じて、矢萩、永田、久木田が逃げ出し、一呼吸遅れて、小松と前原もそれに続いた。

白人たちも追いかけてきたが、てんでバラバラの方向に逃げる日本人学生の誰を優先的に追跡するかまごついたらしく、誰一人捕捉することができない。

逃走中に小松は公園を抜けて通りに出たところ、停車しているパトカーの存在に気づく。

中には警官が乗っており、何か書類を書いている。

助けを求めようと、パトカーのボンネットをたたいたら警官が出てきたが、何と警官は小松を捕まえようとしてきた。

不審者だと思ったようだ。

だが、小松には状況を説明できるような英語力はなく、公園を指さしてとっさに出たのは「向こう!向こう!」という日本語だった。

アメリカで半年間、何をやっていたのだろうか。

その後、小松は一瞬あっけにとられた警官をも振り切って寮に駆け込むことに成功したが、殴られた頭からは流血していた。

他の高石たち五人の学生も、ケガを負いながら逃走に成功していたが、彼らはこの件が表沙汰になることを恐れ、警察に通報することなく部屋に閉じこもる。

アメリカでは、法律で21歳以上でないと酒が飲めず、彼らは皆現役か一浪だったために、その年齢に達している者はいなかったからだ。

また、寮の規則を破って真夜中に公園に行っていたことも具合が悪い。

だが、逃げた小松を追って寮内に入ってきた警官たちに詰問されて、隠し通すことは不可能になる。

ともあれ、全員が負傷していたので、その夜は救急車で病院に運ばれた。

その後

バットまで使った暴行を加えられた彼らだったが、幸いにも頭部裂傷や打撲を負ってはいても命に別状はなく、骨折などの重傷者もなかった。

だが、この事件は被害者の思惑とは裏腹に大いに表沙汰になってしまい、日本国内でも報道されてしまう。

この事件は、当初から日本人に反感を持つアメリカ人によるヘイトクライムではないかと日本国内では予想されており、アメリカの暗部の恐ろしさを、国内の日本人に大いに知らしめた。

同時に、真夜中の公園に出かけて騒いでいた日本人学生の軽率さにも非難の声が上がる。

その声は、特にアメリカ在住の日本人や日系人からのものが大きかった。

さらには学生たちだけでなく、アメリカ国内に開校した学校に日本人だけを受け入れたおかげで反発を招いたとして、帝京大学を批判する人も少なくはなかった。

一方、現地のデンバー市警も、この事件はヘイトクライムである可能性があるとして捜査を開始。

その結果、一か月後の11月にロレットハイツ大学の近所に住むジェームス・クロース(実名・当時18歳)、ハワード・クロース(実名・当時17歳)、デリック・ニース(実名・当時15歳)、トム・スティーブンス(実名・当時20歳)を、事件に関係したとして逮捕した。

新聞の記事のスクリーンショット

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これらの犯人のうち、ハワード・クロースは主犯のジェームスの弟で、同じくこの事件の犯人であるデリック・ニースとともに、直前の9月30日に起こったロレッタハイツ大学の日本人学生の暴行にも関与しており、9月の事件の捜査で容疑者として浮かび上がった結果、この事件にも関わっていたことが判明して、犯人全員が御用となったようだ。

犯人たちは不良少年グループであり、日本人学生を暴行する直前には、駐車していた車を破壊している。

そして、ジェームスとハワードの兄弟は、白人至上主義者との関わりを周囲に吹聴し、普段から公然と日本人のことを「ジャップ」と呼んで嫌悪していた人種差別主義者でもあった。

日本の報道では、彼らが白人至上主義の秘密結社であるKKK(クー・クラックス・クラン)の関係者の可能性を指摘していたが、実際はスキンヘッズなどの団体の名刺をもらってはいても、有色人種襲撃などの目立った武勇伝を持っていないジェームスたちは、当の白人至上主義者から軽んじられていたらしい。

そんなジェームスらが日本人を襲ったきっかけは、全くの偶然だった。

それは、犯人グループ四人に少女二人を加えた六人が、その夜にビールを飲んだ後にドライブに出かけ、途中他のグループに喧嘩を吹っ掛けられたことから始まる。

相手は人数でかなわぬとみたらしく退散したが、彼らのむしゃくしゃは収まらず、家に帰ってバットやこん棒を車に積み込むと、誰でもいいから殴るつもりで、再び出かけたのだ。

事件の舞台となったダートマス公園の近くまで来た時、駐車していた車をうっぷん晴らしに破壊した後、彼らは園内から響く騒ぎ声を耳にした。

「あいつらをやろう」

まだまだ暴れ足りないジェームスたちの次なるターゲットは決まった。

彼らも、よくこの公園で夜中にビールを飲んだりして騒いだことがあり、「誰だか知らねえが、オレらの縄張りで勝手なことしやがって」という気持ちもあったんだろう。

公園内で騒いでいるのが何者か、まだこの時点ではわからなかったが、女たちを車に残して、四人はぶちのめす気満々でバットやこん棒を手に園内に入って行き、同暴行事件が起きることになる。

日ごろから嫌っているジャップが相手だとわかり、相手の中に抵抗してくる気合のある者がいなかったこともあって、ジェームスたちは大張り切りで、やりたい放題やってしまったのだ。

主犯のジェームスは警察の取り調べで、日本人に因縁をつけて暴行したのは、主に弟のハワードとデリックであり、自分は暴行にバットなどを使っていなかったし、自分が暴行に参加したのは、日本人に殴られたためだと主張。

しかし、このジェームスは長髪に195cmの長身という特徴があり、被害者の学生たちの証言で出てきた口笛を吹いて他のメンバーに指図したり、小松の顔を蹴り上げて指輪を奪ったりの大活躍をした、まさにその人物であったことは言い逃れようがなかった。

そして開き直ったのか、警察でのビデオ撮影付きの事情聴取ではふてぶてしい態度を取り、「ジャップ」という差別用語を何度も使い、白人至上主義者との交流をここでもほのめかした。

だが、この態度と供述で、ジェームスは墓穴を掘ったことになる。

アメリカは、人種差別がらみの犯罪には厳しい国だ。

ジェームス・クロースは、くだんのビデオでの供述の結果、翌年1991年5月の裁判において、ヘイトクライムの他、加重強盗、第二級暴行罪などで有罪になり、下された判決は何と懲役75年。

求刑の際には、自分の予想をはるかに超えた刑期だったことに動揺し、195cmという無意味に大きな体をくねらせて慟哭したという。

弟のハワード・クロースも、犯行当時17歳であったが成人と同じように裁かれ、ヘイトクライムで悪質極まりなかった犯行に積極的に加担したこともあって、兄と同じ懲役75年を下された。

デリック・ニースは、犯歴を重ねた本格的な不良少年であり、学生たちにIDを見せろと命令したり、暴行にも大いに参加していたが、15歳という年齢から少年裁判所で裁かれ、刑期はたったの2年だった。

トム・スティーブンスは、最年長の20歳だったが、犯行にはあまり関わっていなかったとみなされ、裁判で証言をすることを条件に司法取引し実刑を免れた。

一方の被害を受けた学生たちのうち、小松、高石、前原、久木田は、その後も大学に通い続けたようだが、永田と矢萩は退学して日本に帰ってしまった。

日本は事件の翌年、バブルがはじけて失われた時代が始まり、もはや我が者顔で日本人が海外をのし歩ける時代ではなくなっていったが、帝京ロレットハイツ大学はコロラドハイツ大学へと校名を変更し、帝京大学グループのうちの一校として、現在も存続している。

そして、この事件は、その後しばらく、これから海外へ出ようとする日本人に対する警鐘を鳴らすものとなった。

しかし、その警鐘は長く響かなかったか、聞こえても耳を素通りしていた者がいたようだ。

翌1991年のパキスタンを舞台に、この帝京ロレットハイツ大学の大学生を、はるかに上回る軽率さと身勝手さで、より大規模な犯罪に巻き込まれる日本人大学生が現れるのである。

続く

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ノースハリウッド銀行強盗事件(North Hollywood shootout)~合衆国犯罪史上最大級、発射弾数約2000発の大規模銃撃戦~

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1997年2月28日、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市ノース・ハリウッドが戦場と化した。

この地のバンク・オブ・アメリカ・ノースハリウッド支店に押し入った二人組の銀行強盗と駆け付けた警官隊との間で、大規模な銃撃戦が発生したのだ。

犯罪者と警官との銃撃戦は、銃犯罪が横行する合衆国において珍しくないのは知られているところだが、この銀行強盗はただ者ではなかった。

犯歴を重ねたプロの強盗であるだけでなく、全身を自家製防弾着で包み、違法に改造された複数の自動火器と豊富な弾薬で重武装していたからだ。

犯人たちは全自動で銃を乱射し、拳銃やショットガンで応戦する警官隊を圧倒。

この模様は、テレビによって全米にも大々的に生中継され、約44分間続いたこの銃撃戦は犯人二人が死亡して幕を閉じたが、警官12人と市民8人が負傷。

発射された弾丸は、双方合わせて約2000発という合衆国の犯罪史上でも最大級の銃撃戦となった。

犯人と事件に至るまでの経緯

この事件の犯人は、ラリー・ユージン・フィリップスJr.とエミール・デクバル・マタサレヌである。

ラリー・ユージン・フィリップスJr.(以下、フィリップス)は1970年9月20日生まれ、既婚者で二児の父。

幼少時より母親に射撃場に連れていかれたために銃に親しんで育ち、成人してからは不動産のセールスマンをしていたが、1989年ころから不動産詐欺や窃盗などの犯罪行為に手を染めていた。

ラリー・ユージン・フィリップスJr.

エミール・デクバル・マタサレヌ(以下、マタサレヌ)は、1966年7月19日にルーマニアで生まれた。

母親は精神病院を経営していたが、幼少時に入院している患者に襲われて負傷。

それが原因かは不明だが、粗暴な性格になっていったらしい。

しかし成長後は、電気技師の資格を取って自営業を営むなどまっとうな道を歩んではいたが、その事業はあまりうまくいかなかったようだ。

エミール・デクバル・マタサレヌ

そんな二人が出会ったのは1989年、ロサンゼルスのゴールドジム。

両人とも体を鍛えるのが趣味で、銃器が好きだったこともあって意気投合したらしい。

だが、この出会いは両人以外にとっては、あまり好ましいものではなかった。

むしろ最悪、後につるんで武装強盗を重ねるようになっていったからである。

1993年7月20日、フィリップスとマタサレヌは、コロラド州リトルトンで現金輸送車を強奪。

同年10月29日、スピード違反で検挙された際に車内から、銃器と大量の実弾などが見つかったことで逮捕されるが、100日間の服役と3年間の保護観察で済んだ。

逮捕されても全く反省する気のない二人は、1995年6月14日、ロサンゼルスのウィネトカで再び現金輸送車を襲撃、この際は警備員1名を殺害し、もう1名に重傷を負わせる。

1996年5月には同じくロサンゼルスで二回にわたり銀行強盗を行い、150万ドルを強奪した。

実際の犯行の模様

これらの犯行により、ノースハリウッドの事件前までには、二人とも危険極まりない凶悪犯として警察にマークされるようになる。

そして、これほどの犯行を行って大金をせしめたにも関わらず、彼らは満足しなかった。

さらなるあぶく銭を得ようと、次なる悪事の準備を開始する。

犯行に向けた準備

次なるターゲットとしたのは、ロサンゼルス市のバンク・オブ・アメリカノースハリウッド支店だ。

この銀行はハイウェイにも近く、逃走しやすい場所にあった。

二人は数か月にわたる入念な下見と偵察と並行して、稼いだ金を元手に、犯行に使う武器弾薬や装備の調達に動く。

そして、用意した武装はハンパではない。

中国北方工業公司(ノリンコ)製の56式自動小銃S型(AK-47III型のコピー)が二丁に、同じく中国製の56式自動小銃S-1型、ブッシュマスターXM15、HK91といずれも自動火器であり、56式自動小銃S-1型とXM15は違法改造を施して、全自動射撃が可能になっていた。

56式自動小銃
ブッシュマスターXM15
HK91
ベレッタ92FS

フィリップスは、それ以外にもベレッタ92FSピストルを装備する。

彼らには犯歴があったため、いくらアメリカでも、こんなシロモノを銃砲店で堂々購入できないが、どっぷり裏社会の住人である二人ならば、闇市場で手に入れるのはたやすいことだった。

買い集めた弾薬も膨大で約3300発、それもパトカーも貫通する被覆鋼弾(フルメタルジャケット)だ。

しかも弾丸を装填するマガジンとして、56式自動小銃用に75発入りドラムマガジンを、XM15用には100発入りドラムマガジンを準備した。

攻撃だけではなく防御にも凝っている。

銃撃されることも想定して、ケプラー製の防弾性能IIIAの防弾チョッキを縫い合わせて胴体だけでなく、肩や手足をも防護できる手製の全身防弾着を作り上げていた。

ちなみに、IIIAの防弾チョッキは9ミリ弾だけでなく、44マグナム弾をも防ぐことができる。

両人が付けていた自家製防弾着
両人が付けていた自家製防弾着

行き先が戦場だったとしても、この装備はやりすぎなくらいであったが、実際の現場では大いに威力を発揮することになる。

もちろん、犯行に使った車や武器を焼却して証拠を隠滅するために、ガソリンを準備することも忘れない。

そして、決行日は2月28日とした。

この日は給料日が近いために客で混雑し、銀行側のセキュリティーにも余裕がないと踏んでいたからだ。

こうして、プロの犯罪者だったとしても入念すぎるほどの準備をした彼らは、その決行の日を迎えた。

同時に、それは彼らの命日にもなるのだが。

銀行襲撃

バンク・オブ・アメリカノースハリウッド支店

1997年2月28日、午前9時17分。

全身防弾着に身を包んで重武装したフィリップスとマタサレヌが白いシボレーに乗って、営業時間になったばかりのバンク・オブ・アメリカノースハリウッド支店に現れた。

決行の前に二人は、精神を落ち着かせるために鎮痛剤を服用。

手袋に縫い付けた腕時計を8分間が経過したら、アラームが鳴るように設定した。

これは、犯行を8分以内に終わらせるためである。

彼らは事前に警察無線を盗聴し、通報により警察が駆け付けるまでに、最低でも8分かかることを突き止めていたのだ。

準備は万端、あとは決行あるのみ。

フィリップスとマタサレヌは、覆面をかぶり56式自動小銃を構えて、正面玄関から堂々行内に侵入する。

だが、外では彼らにとって、極めて不運なことが起こっていた。

偶然にもパトロール中のパトカーが近くを通りかかり、車内の警官が、銀行に入っていく彼らを目撃していたのである。

覆面をかぶって自動小銃を持った二人が、融資の相談や預金の引き出しに訪れた客であるはずはない。

警官は、無線で大至急の応援を要請する。

一方、そうとは気づかない二人は、銀行内で手際よく犯行を行っていた。

マタサレヌは56式を全自動で天井に向けてぶっぱなし、フィリップスは、”This is a fucking hold up!”と吠え、客や行員に銃を向けて脅し上げる。

フィリップスはさらに、ロビーと出納係のいるスペースとの防弾通用門を56式の一連射で破壊すると中に侵入、アシスタントマネージャーを脅して、金庫の扉を開けさせるのに成功した。

犯行の模様

しかし、実際にあった金は、予想していた75万ドルに遠く及ばない303305ドル。

現金の配送スケジュールが変更されて、まだ届いていなかったのだ。

フィリップスは、腹立ちまぎれに金庫に向けて56式を連射して蜂の巣にする。

埋め合わせにATMから金を奪おうとしたが、これもうまくいかない。

だが、たった303305ドルでも、ないよりはマシだ。

アシスタントマネージャーに現金を持参してきたバッグに詰めさせると、人質となっていた客や行員約40名を金庫室に閉じ込めて撤収を開始する。

セットしていたアラームが鳴った午前9時25分ごろ、フィリップスがノースハリウッド支店の北側から、マタサレヌはが南側出入口を出た。

しかし、そこで彼らは唖然とすることになる。

最初に発見した警官の応援要請によりパトカーがすでに十数台到着し、50名余りの警官がこちらに銃を構えていたからだ。

並みの強盗だったら、ここで「万事休す」であったことだろう。

だが彼らは違った。

大銃撃戦

こちらに銃を向ける警官たちに向けて、フィリップスの56式が火を吹いた。

発砲するフィリップス

弾は被覆鋼弾で、パトカーを貫通して警官たちを負傷させる。

警官隊も応戦したが、こちらはベレッタ92Fやスミス&ウェッソン等の拳銃やイサカ37といった散弾銃。

いくら大勢いても軍用の突撃銃である56式の敵ではなく、弾幕を張られて、顔を出すこともできない。

75発入りのドラムマガジンなので、銃撃はなかなか途切れないのだ。

フィリップスはこの時、地上の警官だけではなく上空を旋回する警察のヘリコプターをも銃撃した。

この銃撃で警官7人と、巻き添えで民間人が3人負傷する。

死者が出なかったのは、弾丸が被覆鋼弾なので、通常の弾丸のように人体内で変形して止まることはなく貫通したからだと言われる。

パトカーや警官の配置及び銃撃戦の見取り図

フィリップスは一旦銀行内に戻った後、マタサレヌと合流。

金を持って退散しようとしたが、札束の中に特殊なインクを飛散させて紙幣を証拠品化する防犯装置が密かに仕込まれており、金が台無しになっていたのに気づく。

せっかく苦労して手に入れたのに!

これで癇癪を起したのだろうか、金を放棄して外へ出た二人は、立ちはだかるパトカーに向けて56式をぶっ放した。

フィリップスとマタサレヌ

警官隊も発砲したが、拳銃や散弾銃は遠距離射撃での精度が低かった上に、二人とも全身防弾着を着用しているので、いくら命中させても倒れやしない。

防弾性能IIIAだと、9ミリ弾や散弾を十分防ぐことができるからだ。

警官が数発撃つと、彼らはその数倍以上撃ち返してくる有様で、完全に火力で圧倒されていた。

武装での不利を悟った警官隊のうち数名が、劣勢を挽回すべく、近所の銃砲店から軍用火器の調達に走ったが、これは結果的に事件の解決に間に合うことはなかった。

次々応援に駆け付ける警察を見たマタサレヌは、逃走に移ろうと、駐車場に停めた自分たちの車に向かう。

銃撃を続けていたフィリップスだったが、この時警官の放った弾丸が、56式の機関部に命中して壊れてしまった。

 

その直後、頃合いよくマタサレヌの乗る車が近くに来たので、車のトランクから予備に持ってきたHK91に換えて銃撃を再開するが、これも被弾により破壊されたため、もう一丁の56式を取り出す。

フィリップスはマタサレヌに車をゆっくり運転させ、それを遮蔽物にして銃撃を始めた。

この頃には、現場にはテレビ局のレポーターやスタッフも駆け付けてきて、アメリカでも前代未聞のこの銃撃戦をレポートし始めており、上空のへリは犯人から銃撃を加えられながらも、その模様を撮影している。

二人は、そのまま一緒に逃走するのは危険と判断したのだろうか、やがてフィリップスは徒歩で、マタサレヌは車で、それぞれ分かれて逃走を図り始めた。

犯人の最後

銃撃しながら逃げるフィリップス

徒歩のフィリップスは56式を乱射しながら逃走を続け、追撃する警官隊も銃撃を浴びせる。

彼は全身を覆う特製防弾着を着てきたが、全くダメージがなかったわけではない。

テレビ中継された映像から、たびたび被弾したと思われる際に、痛みを感じているようなそぶりを見せているのが分かるからだ。

また、完全に弾丸を防ぐわけでもなかった。

この時警官の撃った9ミリ弾が右肩の防弾着と防弾着を縫い合わせた部分に命中して負傷、左手首にも弾丸を食らう。

悪いことに、56式も弾詰まりを起こして作動しなくなった。

フィリップスは56式を捨てて、予備に持ってきたベレッタを取り出して反撃を試みるが、これでは威力が弱すぎる。

弾も次から次へと命中するし、ベレッタの残りの弾数もあとわずかとなってきた。

今度こそ終わりである。

だが、彼は降伏を選ばなかった。

右手を撃たれて一旦落とした拳銃を拾うと、それをあごの下に当てるや引き金を引いて自分の頭を撃ち抜き、崩れ落ちた。

逮捕されるより死を選んだのだ。

一方のマタサレヌは乗っている車のタイヤを撃ち抜かれており、ちょうど対面からやってきたピックアップトラックを奪おうとしていた。

うまいことに、ピックアップトラックの運転手は逃げ出したので、マタサレヌはそこへ武器と弾薬を移し替える。

しかし、運転席に座って発車しようとしたが、エンジンがかからない。

トラックの運転手は逃げる際に、エンジンが動かなくなるキルスイッチを作動させていたからだ。

さらに、そこへパトカーがやってきた。

今度は一般の警官ではなく、特殊部隊のSWAT隊員が乗っている。

装備もAR-15なので火力で負けはしない。

SWATから銃撃されたマタサレヌは、急いでピックアップトラックを降りると、それまで乗っていたシボレーのフロント部分に回って、ブッシュマスターXM15で反撃。

フロントガラス越しに全自動でXM15をぶっ放し、至近距離での自動火器同士の銃撃戦となる。

SWATとマタサレヌの銃撃戦
SWATとマタサレヌの銃撃戦

しかし、SWAT隊員の一人が車の下からマタサレヌの足めがけてAR-15を撃ち、これが防弾チョッキで保護されていない足に複数発命中。

これには、さすがのマタサレヌも戦意を喪失し、銃を捨てて手を挙げた。

拘束されたマタサレヌ

こうして、約44分間続いた銃撃戦はようやく幕を閉じたが、救急車の到着が遅れたためにマタサレヌは足の銃創からの出血多量で死亡してしまった。

その後

この事件では、犯人以外に死者こそ出なかったものの、警官12人と市民8人も負傷。

犯人側が1100発以上、警官側が650発以上発砲するという戦場のような規模の銃撃戦となった。

合衆国の犯罪史上でも他に類を見ないほどのすさまじさであったため、社会にかなりのインパクトを与えたようだ。

その後、事件を元にした映画も何本か作られている。

ちなみに、事件が起こる二年前にロバート・デニーロ、アル・パチーノが共演した映画『ヒート』において、自動火器で武装した銀行強盗が拳銃やショットガンを装備した警官隊を圧倒するシーンがあったが、まさにそれのリアル版となってしまった感がある。

事実、後の捜索で彼らのアジトから『ヒート』のビデオテープが見つかったというから、ある程度参考にしていた可能性は高い。

もちろん合衆国各地の警察にも影響を与えた。

ノースハリウッドの事件で火力が不足したばかりに、ここまでの規模になってしまった教訓から、警官の装備の見直しが図られたのだ。

以降、各パトロール隊にはAR-15セミオートマチックライフルを装備した隊員、パトロールライフルオフィサー(PRO)が加わるようになった。

そして現在、カリフォルニア州ロサンゼルスのハイランドパークにあるロサンゼルス警察博物館には、二人の犯人の等身大のマネキンに実際に付けていた防弾着を着せ、同じく装備していた武器や乗ってきたシボレー、弾痕の残るパトカーなどが展示されて、事件の詳細を生々しく今に伝えている。

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