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1954年・日光参道で修学旅行生同士が乱闘 ~広島県立山陽高校vs.青森市立第一高校~

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戦前か戦後すぐ後くらいに生まれた人々は、今や後期高齢者の爺さん婆さんたちである。

令和の現在ではすっかり好々爺となっているが、彼らにも10代20代だった頃はあった。

まだ日本は貧しかったし、昔ながらの厳しいしつけを受けて育っている人々だから、甘やかされて育って堕落した現代の若者よりも総じてまともだったような気がしないだろうか。

とんでもない。

明らかに血の気が多く、無法を働く輩の比率が今より高かったのだ。

それは当時の新聞の事件欄を見れば明らかで、乱闘や暴行、ついカッとなっての殺人の報道が目白押しなのである。

現代の半グレなど比べものにならないくらいの数のヤカラが街にのさばっており、全国の津々浦々で毎日のようにケンカ沙汰や暴力沙汰が発生していたのだ。

その一端を示すエキサイティングな事件が、今から70年前の栃木市日光市で起きた。

列車内でエキサイトする二高校の修学旅行生たち

1890年(明治23年)に開業して以来、古くより名勝地として知られる日光へ多くの観光客を宇都宮から運んできた日光線。

いつもは、賑やかで観光客たちの笑顔であふれているこの日光線の列車内であったが、1954年(昭和29年)の4月2日の同列車内は、これから観光地へ向かうとは思えないほど険悪な空気が充満していた。

その空気の発生源は、この列車に乗り合わせた二つの高校の修学旅行生たち。

片方は遠く中国地方からやって来た広島県立山陽高校と、もう片方は同じく遠方の青森県から来た青森市立第一高校の生徒たちであり、ガンを飛ばし合って相手をしきりに威嚇している。

実は、この二校の敵対的なファーストコンタクトは、この日光線が初めてではない。

東京から宇都宮までも同じ列車に乗り合わせており、どちらが始めたかは分からないが、東京にいた時点から互いににらみ合っていたのだ。

二校の修学旅行生の内訳は、山陽高校側が約100名、第一高校側が約180名。

ケンカ腰だったのは、当初ほんの一部の威勢のいい生徒だけだったが、このころになると元気のいい生徒たちに触発されたのか、双方の普段はまじめな一般生徒たちも加わって、すでに学校対学校の全面抗争勃発の兆しすら呈し始めている。

「何なら!われらナニガン飛ばしよんじゃ!」

「おめ?やるのが?殺すてけるべが!」

「上等じゃけえ!相手しちゃるぞ!!コラ!」

「なんだばや!かがってごい!弱虫が!」

互いの方言でののしり合い、こうした事態を想定して持ってきていたのか山陽高校側は木刀を出し、第一高校側は登山ナイフをちらつかせるなど、一瞬即発の事態に発展しつつあった。

さすがに、ここまで危険な局面になると双方の引率の教師たちも黙っておらず、生徒たちを制止にかかる。

高校生たちも、このまま列車内で殺し合いになるのは望んでいなかったと見え、教師たちが止めに入ったのを幸いに、お互い矛を収めた形となったようだ。

だが、それは一時休戦に過ぎなかった。

列車が日光駅に到着してからも、双方の生徒たちのアドレナリンは沸騰して高温のままであり、日光市内でほんの些細な原因によりそれが発火、爆発することになる。

日光参道での全面衝突

道路と道路標識

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修学旅行や遠足で遠方に行った威勢のいい中高生が、その先で出くわした他の学校のそれなりの生徒とにらみ合う、というのは珍しくはない。

本ブログの筆者の世代もやっていたし、その前後の世代の者たちも含めて、令和の中高生もやっているだろう。

もっとも、ヤンキー漫画ではないのだから、本当にケンカになることはまれなはずだ。

だが、この時そのまれなことが発生することになる。

それも、漫画以上に。

日光に下車した両校の修学旅行生たちは、互いにメンチを切り合いながらも、それぞれ日光東照宮を見学。

それから、生徒たちは自由行動となって日光参道の散策に入ったのだが、両校の引率の教師たちは、どちらも監督者として致命的な職務怠慢を犯す。

さっきまで刃物や木刀などの凶器まで取り出して相手を威嚇していた元気者たちを、凶器持参のまま野放しにしてしまったのだ。

彼らが日光参道で出くわせばケンカになるのがわかりそうなものだから、現代の教師だったら、凶器を取り上げるか彼らに付き添って見張るなどの措置をとっていただろう。

昭和20年代の教師はのんびりしてた、というか無神経だった者が多かったようだ。

そして、案の定の事態が起こる。

山陽高校の泊智樹(仮名)と一色和明(仮名)ら威勢のいい生徒たちが日光の西参道をぶらついていた時、さっき電車内で揉めた相手の高校の生徒たちと出くわしたのだ。

「田舎もんが!」

こっちがガンを飛ばすと向こうもガンをつけてきたので、またしても街中でにらみ合いになったのだが、今度はにらみ合いだけではすまなかった。

山陽高校側の一人が木刀で第一高校の一人を小突いたとたん、第一高校側のスイッチが入って殴りかかって来たのだ。

「おめ!おだづな!!」

「やっちゃるぞ!田舎もんが!」

完全に頭に血が上った双方は、他の観光客もいる面前で殴り合いを始めた。

彼らは、それぞれ応援を呼んだために乱闘の参加者は増加し、ばかりか、それを見ていた他の生徒たちも呼ばれてもいないのに相手の学校の生徒を見かけると自主的に殴りかかるなど、本物の学校間全面抗争に発展。

乱闘は、通報により飛んできた地元日光署の警官隊によって鎮圧されたが、第一高校側は持参してきた刃物を躊躇なく使っており、山陽高校の泊が下腹部を、一色が肩を刺されて地元の病院に運ばれるという重傷を負ってしまった。

命に別状はなかったとはいえ、彼ら二人の修学旅行は強制終了となったのだ。

刃物を使った生徒は拘束され、双方の引率の教師は日光署で事情徴収を受けたり、ケガをした生徒の看護に病院に詰めたりしたのだが、双方の高校とも他の生徒は修学旅行を続行した。

それにしても、なんて戦闘的なんだ。

令和の現在、いや平成のどんな底辺高校であっても集団でここまで元気を暴発させることはないのではないか。

この当時の日本は、つい九年前まで戦争していたんだから、暴力をふるうことに対する免疫が現在よりぐっと低かったのもあるだろう。

殴られたら殴り返すのが当たり前だった時代だったのだ。

だが、暴力沙汰と言えば無抵抗の相手を一方的に暴行したり、大勢で一人をフクロにするのが主流になってしまった気がする現代より、清々しいように思えるのは筆者だけだろうか?

殴られたら殴り返すケンカには、エネルギーが必要だ。

この時代の若者は礼儀や常識はともかく、エネルギーが総じて現代の若者を凌駕していたのは間違いないだろう。

だからこそ、彼らの力はその後の日本を先進国に発展させる源となり、後期高齢者になった今でもかくしゃくとしていられるのかもしれない。

群衆の前に立っている男性の白黒写真

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出典元―栃木新聞

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人命第一の裏で見捨てられた命 ~2024年羽田空港航空機事故~

航空業界の非情な現実

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2024年は新年早々災いで始まった。

1月1日午後4時過ぎ、能登半島を震源とする震度7の地震が発生。

石川県の能登半島を中心として、北陸地方に大きな被害をもたらした。

そして翌2日夕方には、全国のお茶の間に、東京羽田空港の滑走路で火災が発生している衝撃的な映像が流される。

当初、二か所で火炎が上がっていることだけが報道されて、なぜその火災が起こったかは分からなかったが、ほどなくして新千歳空港発の日本航空(以下JAL)516便のA350-900と海上保安庁羽田航空基地所属の航空機(MA722)が、羽田空港のC滑走路で衝突したことが報じられ、その後、事故の瞬間の映像も公開された。

原因は、本ブログ執筆中の1月6日時点で調査中であるが、この事故で海上保安庁のMA722は大破・炎上して乗員5名が死亡、1名が重傷を負う大惨事となったことが、その日のうちに発表される。

ちなみに同機は、前日に発生した能登半島地震の被災地に救援物資を運ぼうとしていた。

一方のJAL516便は、炎にからみつかれながら滑走路からずれて停止し、駆け付けた消防隊の決死の消火活動むなしく機体がみるみる炎に包まれる模様がテレビ画面に映され、さらに犠牲者が出ているのではと危惧されたが、516便のクルーの適切な処置で、乗員乗客は全員無事脱出に成功。

旅客機の側に死者が出なかったのは、不幸中の幸いであったと全国の視聴者が安堵した。

だが、この516便では人命こそ失われなかったものの、それ以外で失われた命があったことが後に判明する。

貨物室に預けられていた乗客のペットの命だ。

なぜ助けられなかったのか?

516便に徐々に火が回り、全焼していくさまを観ていた視聴者の中には「貨物室に預けられていたペットはいなかったのだろうか?」と懸念した人も少なからずいたようだが、その懸念は翌日的中する。

事故の翌3日にJALが乗客から、預かっていた犬一匹と猫一匹が、そのまま焼け死んだことが発表されたのだ。

彼らは、火が回る機内に取り残されて見捨てられたのである。

この悲劇を受けて、SNS上でタレントなどの著名人を中心に「ペットも客室に入れてあげるべきだ」「生きている命をモノとして扱うことが解せない」という意見が上がった。

例えば、フリーアナウンサーの笠井信輔氏は自身のインスタグラムを更新して、この事故で愛猫を失った乗客の慟哭のコメントを紹介。

自らも猫を飼っている笠井氏は、他人事と思えず落涙したと述べ、ペットを客室に同乗させることができる海外の航空会社を例に出して、限定的な条件を定めた上で日本でも検討できないかと訴え、犬や猫を飼う人々から大いなる賛同を得た。

また、3日以降二日間で“貨物扱い”禁止を求める署名も1.6万人を超えたことから、この問題への関心は高まっているようだ。

だが、もちろん反論もある。

「犬や猫が苦手どころか、アレルギーの人もいる」

「緊急事態になったら、人命第一なのは仕方がない」

「そもそも、飛行機に乗せることは犬や猫にとって大きなストレスになるはずだから、ペットホテルに預けるべき」

上記のような、もっともな意見もあって論争が巻き起こった。

そうは言っても、犬や猫も人間と同じ命。

暗い貨物室に押し込めて、緊急事態となったら見捨てざるを得ないのは、忍びないというのも事実だ。

笠井氏が言うように、客室へペットを持ち込める海外の航空会社も現実に存在し、日本国内でも「スターフライヤー」という中堅航空会社が、今年1月15日から小型の犬や猫を客室内に持ち込めるサービスを国内の全便において開始する予定である。

だが、いざ事故が起きても、一緒に避難できるわけではないようだ。

非情な現状

車, モニター, 座る, フロント が含まれている画像

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そもそも、今回の事故のように乗客が緊急脱出する際、手近にあるからといって手荷物を持って脱出することはできない。

それには理由がある。

手荷物は、通路をふさいだりして他の客の脱出の妨げになる可能性があり、脱出用のスライドを傷つけて空気が抜けた場合に、後から来る客が脱出できなくなりかねないからだ。

これはJALに限ったことではなく、どの航空会社でも規則でそう定めている。

そして、ペットを客室内に持ち込める海外の航空会社も、ペットを「手荷物」に分類している。

つまり、盲導犬などの特例は除くものの、緊急事態においては機内に置き去りにせざるを得ないのが、航空業界の世界的な常識なのだ。

ペットを客室内に持ち込めるサービスを開始する「スターフライヤー」も同様で、「緊急脱出が必要になった場合は、ペットを機内に残して脱出してください」と公式ホームページ内で明記し、サービス利用の際には、ペットの死傷に関して責任を問わない同意書に署名する必要があるという。

たしかに、家族同様のペットを置き去りにして逃げなければならない悲しみは動物を飼っていない人間にも理解できる。

恐怖や苦痛を感じるのはペットも人間と同じだから、「何とかならなかったのか」とも思いたくなるだろう。

しかし、他の大勢の乗客の脱出の支障になりかねないのは事実であって、これを変えることは難しいのが現状となっている。

JALの行ったペットを見捨てさせる緊急避難は、間違ってはいなかったと見るのが正しいのだ。

とは言え、さまざまな意見が交差しているが、前述の笠井氏も述べているとおり、変える努力をしてもいいのではないかと本ブログの著者は思う。

何事も「現状では仕方ないからあきらめる」では、この先の進歩や改善を放棄することになるのでないだろうか。

一寸の虫にも五分の魂。

長いこと連れ添ったペットならなおさらだ。

この悲劇が、航空会社が緊急時のペットの避難について検討をする契機となることを願いたい。

参考文献―Yahoo!Japanニュース、ライブドアニュース

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浜田省吾 – 聖地巡礼 MONEY 神奈川説の旅

最終更新日:2023年07月18日

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今回も、浜友のスィーさんと一緒に、聖地巡礼の旅に出ました。

白楽駅に着いたのは、昼の12時ちょうど。めっちゃ暑いです。

早速、白楽の六角橋商店街に向かいました。ここが、六角橋商店街のメインストリートです。つまり、「この町のメインストリートわずか数百」です!わずか数百メートルですね!!

六角橋商店街メインストリート
六角橋商店街メインストリート
六角橋商店街メインストリート

商店街の一本奥の細い道に入ると、小さめの店がいくつも並んでます。コロナの影響もあるのか、空いてない店も多いです。ここが「バーが5,6軒」でしょうか。

六角橋商店街
六角橋商店街
六角橋商店街

「寂れた映画館」も探してみましたが、現在は、映画館は無くなっているみたいです。昔は、六角橋商店街にも映画館があったそうです。寂れた映画館も見たかった。

あまりにも暑いし、お腹も空いたので、わずか数百メートルのメインストリートで見つけた六角橋ホルモンという店に入って焼き肉ランチしました。ここ、美味しいです。聖地巡礼で訪問する方にお勧めです。

その後は、浜田省吾が通ってた神奈川大学へ移動です。白楽駅から徒歩15分くらいです。

辿り着きました。

肩にセーターとおろしたてのバスケットシューズの大学です!

髪をひるがえし駆け上がる校舎です!!

神奈川大学現正門

神奈川大学って、初めて行きましたが、かなり敷地がデカいんですね。正門はどこだ?と探しながら、かなり歩きました。

ちなみに、浜田省吾が通っていたのは、法学部です。

途中で大学の敷地内を通り抜けられそうな道があり、警備員の方に通って良いか聞いたら、校舎に入らなければ OK とのことでしたので、敷地内も歩いてみました。

たどり着いた反対側が東門。大学の地図を見ると、東門を出て右に曲がり少し進むと正門とありました。

やっと正門に辿り着きました。ここがまさに、「遠くへー1973年・春・20才」とか「キャンパスの冬」の舞台です。

ここでも警備員の方に話しかけてみると、今度はやけに人懐っこい人で、「大好きな歌手がこの大学に通っていて見にきた」と伝えると、昔のことをいろいろ教えてくれました。

神奈川大学旧正門(現東門)

警備員の方に聞いてみると、校内には並木道と言えるところはないとのことでした。ということは、学校の外なのかも知れませんね。門の外のすぐとありには、並木道っぽいところはありました。この辺りを喜び勇んで歩いていたのでしょうか。

並木道っぽいところ 1
並木道っぽいところ 2

先ほどの東門から学校を見ると、どうもこっちが正門っぽいよなと思ってたのですが、やはり昔は、今の東門が正門だったとのことです。なるほど、ここを浜田省吾は歩いたんですね。

神奈川大学旧正門(現東門)

現在、3号館があるところは、昔は校舎がなく空き地になってたとのことです。そして旧正門のそば。ということは、恐らくこのあたりで、

「紺と銀色の盾の前で、空を仰いで祈り続けてた」

のかも知れません。

神奈川大学でも、1973年ごろは、学生運動が盛んだったみたいです。

神奈川大学3号館

浜田省吾が大学時代に下宿していた宿の写真も、インターネットで見つけていたのですが、白楽一帯から探し出すのはちょっと無理かなと思っていました。

入手していた古い写真(大学時代の下宿先)

東白楽駅から帰ろうと思い、今の正門から駅に向かって歩いていたら右手に、あれ?と思える建物を発見。細長い建物ですぐ横にコンクリートの階段。え、これって!と思い写真を見てみたら、正にその下宿先でした。

大学時代の下宿先(2023年7月16日撮影)

壁の色が変わっているので、気づいたのはラッキーでした。

一階に住んでいたのか、二階に住んでいたのか。

このアパートの部屋は、全部で4部屋です。これらのどこに住んでいたのかワクワクしながら、全ての部屋の扉を見てまわりました。

学校にも行かず、アルバイトしていた頃に作ったあの「二人の夏」は、この部屋で作ったのでしょうかね。

浜田省吾もここに立っていたのかなあ

今の正門から10メートルくらいしか離れていないところです。大学から、かなり近いところに住んでいたのですね。

神奈川に出てきてすぐは、お姉さんの家で居候していたそうです。その後、このアパートに住んだとのことです。

場所は変わって、白楽駅から2つ隣の駅、菊名です。

ここは、浜田省吾の奥さんであるカヨコさんと出会った場所です。

愛奴でドラムを叩いていた20歳頃、駅で傘がなくて困っている彼女に「入りませんか」と声を掛けたのがきっかけ。彼女は普段なら断っていたけど、たまたま風邪をひいて会社を早退していたため、「じゃ、お願いします」ってことになった。

浜田省吾辞典
菊名駅東口
菊名駅東口周辺

菊名駅は東口がメインなので、出会ったのも東口だとは思うのですが、念のために西口も見ておきました。

菊名駅西口

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2023年 ホスト 本当のこと 東京

どん底からの這い上がり方 ~勝利の女神に貢がせるホスト・涼風つばき~

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歌舞伎町に「涼風(すずか)つばき」という男がいる。

二次元世界の登場人物のリアル版がごとき美男子であることから分かるとおり、職業はホスト。

涼風つばきという名も当然本名ではなく、源氏名だ。

つばきは、『現代ホスト界の帝王』とも称されるローランドがオーナーを務めるホストクラブ『THE CLUB』所属のホストであり、2023年に入ってから三か月連続、売り上げナンバーワンの座に君臨し、五か月で早くも約1億3千万円を売り上げているほどの売れっ子である(ホスト業界では、通常年間1億売り上げれば売れっ子と呼ばれる)。

持って生まれた容貌と話術を駆使しつつ、チャラチャラしながらヒトがうらやむような成功をたやすく手にしているように見える彼だが、ここに至るまでの道は、決してバラが敷き詰められた赤カーペットではなかった。

その前年まで、どん底をさまよっていたのだ。

『THE CLUB』に来る前

1991年に群馬県で生まれたつばきは少年時代、ジャニーズにあこがれていたらしい。

ルックスに自信があって、そこそこ学校で異性にモテてもいた。

しかし、そんな程度の者は世の中いくらでもいる。

履歴書を何度か送ってみたものの、ことごとく書類選考ではねられてしまう。

高校卒業後に東京都内の大学に進学して上京したつばきだったが、ジャニーズはダメでも、とにかく有名になってちやほやされたいとは思っていた。

そんな若者らしい不純な夢を追いかける彼が選んだのは、ホストの世界だった。

だがその店で、つばきはホスト業界の洗礼を受ける。

その店は未成年だったつばきに酒を飲ませ、先輩は何かといえば暴力をふるうなどのパワハラが横行する店だったのだ。

そして売り上げも上がらず、耐えられなくなった彼は、三か月ほどで店を辞めてしまう。

若者の不埒な純情は、現実の前で木っ端みじんにされてしまったのだ。

一旦、大学生活に戻ってあきらめたかに見えたが、やはり未練が残っていたのだろう。

負けん気が人並外れて強い人間でもあるつばきは、再び在学中にホストの道に舞い戻る。

その店の名は『スーパースター』

結果的に、この選択は大当たりだった。

この店には合ったらしく、持ち前のルックスの良さも手伝って売れっ子になり、五年連続年間同店の売り上げナンバーワンを維持するほどになる。

コンピューターのスクリーンショット

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スーパースター時代

しかし次第に、ホスト業界につきもののドロドロとした人間関係に疲れ始め、絶頂期だった26歳の時にホストを引退。

稼いだ金がかなりあった彼は働くこともなく、海外に行ったり、筋トレをやったりして、悠々自適の生活を送り始めた。

一見好きなことをしてのんびり過ごすことは最高なようだが、つばきは、この生活にも苦痛を感じるようになる。

やはり、何も目標も張り合いもない生活には耐えられないのだ。

金も一生遊んで暮らせるほど持っているわけでもない。

もう一度輝きたい。

そして、自分が輝けるのはホストしかないと思ったつばきは、2021年に三年間の放蕩生活に終止符を打って、ホストに戻ることを決意する。

とは言っても、ホストクラブならば、どこでもいいわけではない。

つばきが選んだのは、ホスト界の帝王と称され、TVでも脚光を浴び、YouTubeでも100万人超の登録者を誇って知名度抜群のローランドの経営する店だった。

それに、ローランドは現役だったころに知り合った友人でもあったのだ。

もっともこのころ、ローランドの経営するホストクラブ『THE CLUB』はコロナ禍で自主閉店し、ローランド自身はホストの世界からは遠ざかっていた。

よって、復帰したつばきが入ったのは、ローランド不在の中でTHE CLUBに所属していたホストらが立ち上げた新しい店『THE CICH』であった。

つばきは、すでにこの時30歳を超えており、ホストとしては年齢的に不利ではあったが、腐っても元レジェンドホスト。

他店舗ならばナンバーワンであってもおかしくないほどの売り上げと実力を有したホストが目白押しのTHE CICHでも、入店早々頭角を現し、売り上げナンバー3にまで入る健闘を見せる。

テレビの画面が表示されたパソコンのスクリーンショット

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三度目のホスト復帰をしたころ

だが、それは長く続かなかった。

非情な現実、そしてどん底=『もう無理。さよなら』

つばきは、その後も THE CICH でホストを続けたが、売り上げは低迷。

全盛期だったころの水準はもちろん、店内の月間売り上げナンバー10 以内に遠く及ばない状態が続いた。

こんなはずではない、とつばきは焦っていたようだが、もはや時代に取り残されて、世代交代を許してしまった感があった。

つばきがホストに復帰した次の年の 2022年6月、ローランドもホスト復帰を宣言。

新たにオーディションまで開催して新人ホストを集め、休業していた THE CLUB を再開する。

THE CICH で売り上げが低迷していたつばきは、環境を変えてやり直そうと思い立ち、移籍を願い出て、ホスト未経験者も多い新生 THE CLUB に加わった。

ローランドもベテランの彼が新人を引っ張ってくれることを期待したであろう。

売り上げが落ち込んで自信を失っていたころ

だが、部屋の引っ越しまでして気持ちを新たに移った THE CLUB でも、売り上げは上がらなかった。

今まで来てくれていた指名客も途絶えるようにまでなり、売り上げが地に落ちた状態で、THE CLUB が再開してから最初の月である7月の締め日を迎える。

つばきの売り上げは、ホスト未経験だった新人にも抜かれるほど惨憺たるものだった。

友人であり現在は雇い主であるローランドは、再開した店の好調な出だしと新人の躍進を喜びつつも、この結果を黙って見過ごしてはいない。

営業が終わった後に、つばきと他の売り上げが低迷するベテランホストを呼び出して叱責した。

コンピューターのスクリーンショット

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叱責されるつばき

「つばきには何度も言ってる。お前、悔しくねえのか?」

ローランドは、つばきとほぼ同時期にホストになっており、現役バリバリだったころは他店舗だったとはいえ、その実力には一目置いていたのだ。

そんな男が、今や月の売り上げのかかった締め日に指名客も呼べず、ホスト未経験の新人にすら負けているふがいない姿を見て、自分がバカにされている気すらしていたし、なにより友人として心配していたのである。

つばきは「確かに…」としか返す言葉がなかった。

そして、この模様はローランドの YouTube チャンネルである『ローランドショー』のクルーに撮影されていた。

かつて、ローランドと肩を並べるほど売れていたホストだったつばきが、復帰してはみたものの、なかなか思うように結果が出せないさまは、視聴者の興味を引くであろうから見逃すはずがないのだ。

ローランドショーは登録者数 100万人を優に超えるから、その影響力は大きい。

約一か月後にそれが YouTube で公開されるや、日本中の少なからぬ人間の心の中に、かつては売れていたが、もはや時代についていけなくなった三十路ホスト・涼風つばきという印象が残った。

おまけに実際に公開された後、みじめな姿を面白がった心ない視聴者から中傷のDMが、わざわざ自身のインスタグラムやツイッターなどに寄せられるようになってしまう。

これは自分に自信を失い、仕事への熱意をも失いつつあったつばきには、追い打ちとなったようだ。

つばきは、THE CLUB に移ってから自分のYouTubeチャンネル『つばきっす』を開設して動画をアップし始めており、自分が叱責されるローランドショーの動画が公開された直後、自身のチャンネルでも動画を出して苦しい胸の内を吐露した。

しかもその動画の題は『もう無理。さよなら』で、いきなりネガティブこの上ない。

動画の内容はそれ以上にネガティブであり、つばきは終始暗い顔をして「すげーつれー」「どうしていいかわからない」「昭和のホストだとかコメントで書かれた」「オレに明日はあんの?ってカンジ」などと、ひとしきり自嘲気味に弱音を吐き続ける。

そして、カメラの前で泣き崩れた。

グラフィカル ユーザー インターフェイス, テキスト, アプリケーション

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語っているうちに、自身のあまりのみじめさに耐えきれなくなってしまったのだ。

ひとしきり男泣きした後、「もう、うまいこと言えねえや、もういいや」と投げやりにつぶやいて、つばきはその回の動画を終了した。

どん底な姿と泣きっ面を自ら世間にさらしたこの男は、もはや立ち直ることはできないだろう。

もう 30歳を過ぎているし、一昔前の平成のイケメンという感じがするつばきの顔は、令和の現代では貧乏神にしか見えない。

視聴者の中には、そう思った者も多かったはずだ。

だが、それは違った。

堕ちるところまで堕ちたこの男は、その後反撃を開始する。

ただいま、ありがとう

もはや再起不能と思われたつばきだったが、ほどなくして『ただいま、ありがとう』と題した動画を上げた。

動画の中のつばきは、まだ暗い顔をしていたが、訥々とこれから立ち直って再びやっていくことを宣言する。

その際の表情からは、未だ落ち込んでいて頼りない感じがしたものの、それからすぐにつばきは行動を開始した。

自分の動画を YouTube に上げる頻度を増やしたのだ。

グラフィカル ユーザー インターフェイス

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コンピューターのスクリーンショット

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コンピューターのスクリーンショット

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動画の内容は単に自分が街を散歩していたり、コンビニの商品を食べ比べしたり、THE CLUB の他のホストと対談したりする様子を撮影するといったたわいもないものだったが、とにかく一日も欠かさず動画を更新。

まずは知名度を上げるためである。

当初、暗い顔をしていたつばきも、だんだんと生気を取り戻し始めた。

どうやら、ユーチューバーは性に合っていたらしい。

さらに、ライブ配信をして投げ銭を集めるようにもなった。

コンピューターの画面が表示されたスマートフォンのスクリーンショット

中程度の精度で自動的に生成された説明

集めた投げ銭を自身の売り上げにしようと考えたのだ。

グラフィカル ユーザー インターフェイス

自動的に生成された説明

これは、同じ THE CLUB で働く同僚ホストの俊が先に行っていた。

俊は、かなり早い段階で YouTube に個人チャンネルを開設し、すでにライブ配信で投げ銭を視聴者から集め、ホストクラブでは超高額オーダーがあった時のみに出現するシャンパンタワーに使っていたのだ。

また、持ち前のホストとしての実力の高さに加え、YouTube によって知名度を上げて集客にも成功。

これら令和的とも言える最先端の手法を駆使して圧倒的な売り上げをたたき出し、THE CLUB 再開以来絶対的ナンバーワンに君臨していた。

しかも俊はつばきと同年齢の 31歳。

ホストとして年齢的に賞味期限を超えているという悪条件をひっくり返していたのである。

そんな成功例が身近にいるのだ。

同じことをしてみない手はない。

一見冷酷そうな外見と言動の俊も、つばきのことを内心では応援していたらしく、自分のライバルを育成していると分かりつつも自身のノウハウを気前よく伝授してくれた。

つばきは、休日を返上して普段の睡眠時間も削り、YouTube の動画作成やライブ配信に取り組み続ける。

立ち直るために、なりふり構わず猪突猛進していたのだ。

元々熱中し始めたら、寝食を忘れて熱中する気質であったようだが、そのホスト業にかける熱量と思いは視聴者にも十分伝わるほど鬼気迫っていた。

そしてその熱は、運命をも動かす神がかり的な力をもたらすことになる。

勝利の女神を従わせた男

『勝利の女神は勇者に微笑む』

古代ローマ人たちが残した言葉である。

『…用意周到であるよりはむしろ果断に進むほうがよいと考えている。なぜなら、運命の神は女神であるから、彼女を征服しようとすれば、うちのめしたり、突きとばしたりすることが必要である。運命は、冷静な生き方をする者より、こんな人たちに従順になるようである』

16世紀のイタリアの政治思想家・マキャベリはその著作『君主論』の中で、女性差別そのもののきわどい名言を残している。

古より伝わる運を味方につけて勝者になるための法則、それはなりふり構わず積極果敢な行動を取る勇者になることなのだ。

圧倒的な男の凄みで女神たちを怯えさせ、有無を言わさず言うことを聞かせるのだ。

つばきがそれらの言葉を知っていたとは思えないが、彼はまさしく勝者になるための行動をしていた。

そして、古人の教えの正しさが数字という結果の上で裏付けられる。

まずは自身のチャンネル『つばきっす』の登録者数が、開設半年にも満たない 10月に一万人を突破。

YouTube を見た視聴者の中から指名客も現れ始める。

肝心の売り上げや指名本数も上がり始め、10月には売り上げナンバー6 にまで上り詰めた。

ここまでだったら単に比較的よくある「日ごろの努力が報われた」程度のことであったであろう。

だが、いずれかの神の存在を感じずにはいられないような奇跡が、翌月11月の締め日に早くも起きる。

その前日の時点で、すでに THE CLUB の不動のナンバーワンと化してトップを独走していた俊の売り上げとつばきの売り上げは、700万ほど差があった。

いくらその月の店でのランキングが決まる締め日には大金が乱れ飛ぶホストの世界であっても、その差は絶望的なビハインドだ。

常識的に考えて一日で挽回できる額ではない。

だがその日の営業時間、11月度も自身のナンバーワンをほぼ確信していた俊の目が驚愕で見開かれる。

どこかの卓で、800万円分のシャンパンタワーが出現したのだ。

誰だ?

まさかまさか…。

そう、それはつばきのいる卓。

何と 800万円もの大金をつぎ込む超極太客が出現し、一挙に圧倒的な差を埋めたばかりか勝ち越したのだ。

完全に神がかっていた。

もはや、この世のものではない何らかの力が働いているとしか思えなかった。

そればかりか、この日だけでつばきは合計一千万円以上を売り上げ、1290万円だった俊の総売り上げを大きく上回る 1600万円で 11月度のナンバーワンを獲得。

全盛期だった 5年前以来の栄冠を勝ち取った。

しかもホスト人生で最高の売り上げだったから、全盛期を上回っている。

翌日、つばきはライブ配信を行い、その中で感情の振幅の大きいこの男は喜びとともに、これまで味わってきた苦難を語りながら感極まって号泣した。

グラフィカル ユーザー インターフェイス, テキスト

自動的に生成された説明
再び泣いたつばき

そして、奇跡はこれだけにとどまらなかったのだ。

翌12月11日、ローランドが経営するもう一店舗のホストクラブである THE CICH との合同イベント『ザ・バトル』が開催された。

これは、一夜のみで両店舗の売り上げを競うイベントであり、当然ホストも売り上げに応じてランキングされる。

11月ナンバーワンになったばかりのつばきだったが、気持ちを新たに切り替えてこの合同イベントに臨んだ。

店舗の規模も大きく、経験豊富な実力派が数多く揃った THE CICH のホストの中には、「普段は顔を合わせない THE CLUB の人たちと楽しく飲めたらいいですね」などと余裕をかましていたが、つばきだけは戦闘的だった。

「THE CICH の奴ら息してる?誰もオレに突っかかってくる奴いねーのか?」などと、開催前からツイッターで激しく挑発していたのだ。

つばきは、いまだ粗暴な勇者だったのである。

そしてその勇気が再び天を動かす。

『ザ・バトル』で、つばきの指名客の一人が 1000万円以上を使うなどし、この日だけで合計 1500万円を売り上げて、堂々『ザ・バトル』初代ナンバーワンの栄冠を勝ち取ったのだ。

この一連の勝利は誰もがひれ伏し、その顔色をうかがう運命の女神と勝利の女神の両方を、その強引ともいえる行動力で従わせた結果としか思えないものだった。

いや、ホストだけに、両女神とも指名客にしたというべきだろう。

それもオラオラ営業で。

この瞬間から、つばきは完全に復活したばかりか第二の、いや、前回の全盛期が下積み時代に見えるほどの本物の全盛期に突入したのである。

中年の男から見たホスト・つばき

現在 48歳の中年男である私が初めてつばきを知ったのは、去年のことである。

おっさんだから、もちろんホストクラブには縁がなかったし、特に興味もなかった。

たまたま YouTube のローランドショーを見て、つばきの存在を知ったのだ。

ベテランなのにふがいない営業成績しか出せず、ローランドから怒られていた場面からである。

最初は、ゲスな野次馬根性からだった。

この情けない奴がどんな男なのか気になって検索したところ、彼が自身の YouTube チャンネル『つばきっす』を持っていることを知ってのぞいてみたのだ。

すると、つばきは早くもローランドショーで情けない自分の姿を取り上げられた件に関するくだんの動画『さよなら、もう無理』をアップしており、泣き言を言い続けた後で本当に泣き始めた場面に出くわした。

「30越えてるくせに泣くなよ。情けねえ野郎だ」

それが、その時の私の率直な感想だ。

30越えていたらもういい歳、ホストをやるには厳しいのは私でもわかる。

そろそろ他の道探せよ。

だが、私もその時ヒトのことを言っていられなかった。

当時従事していた事業の中止が宣告されて所属する部署の解散が決定、私は失業まで秒読みとなっていたからだ。

かと言って新たな仕事を探す気力もなく、宙ぶらりんだったのである。

私も、つばきとかいうホストと似たり寄ったりだ。

だからだろうか。

あの泣き虫三十路ホストのその後が少々気になりはじめた。

数日後に YouTube を見てみたら動画を更新して姿を現し、その中でまだ暗い顔をしながらも、これから立ち直っていくことを報告したのを見た時、少しほっとした気がした。

それからだ。

知らず知らずのうちに、彼が毎日出す動画を見るのが日課になってしまった。

そこで、私を含めた視聴者は三か月にわたってリアルタイムで目撃し続けたのだ。

万年絶不調で、このまま消えていくと思われた男が立ち上がる姿を。

立ち上がるや、何らかの未来を信じて遮二無二走り続ける姿を。

さらに、11月末から起こした一連のシンデレラストーリーを。

たった三か月で、このどん底にいた男は圧巻の復活劇を見せつけたのだ。

それは、同時にどん底にいる者たちへの啓示でもあったと思う。

這い上がるためのなりふり構わぬ行動力と熱量は一見定められたかに見える運命をも動かすことがあるのを教えてくれたのだ。

私も彼に動かされた。

もう 47歳になっていたが、あのつばきが立ち直ったように、私も再就職活動を改めて始めたのだ。

お祈りメールが送られたり、履歴書を送ってもなしのつぶてばかりだったが、彼がなかなか結果も出ずアンチからの嫌がらせにも屈しなかったように私も応募を続けた。

2023年 6月現在、私は某医療機器メーカーに職を得て勤務している。

新しくついたこの仕事だが、覚えることが多すぎて自分より一回り年下の上司にできない奴だと思われて今もてんてこ舞いだ。

だが、私は信じている、そして知っている。

継続は力なりが本当のことであったことを。

食らいつき、前進し続ければ必ず報われる日が来ることを。

つばきが三か月かけて教えてくれた。

自分が高校生の時に生まれた男に導かれると思わなかったが、彼を見つけることができて本当に運が良かった。

どん底から這い上がる姿を目の前で、しかもリアルタイムで見せつけて勇気をくれたことに感謝している。

そんなつばきは三か月連続ナンバーワンを取ったものの、現在は 4月、5月と二か月連続でナンバー2に甘んじてしまっている。

だが、もう心配はいらない。

彼なら、きっとナンバーワンに返り咲いてくれるだろう。

あれほどの奇跡を起こした男なら、またやってくれるに違いないと信じている。

コンピューターのスクリーンショット

自動的に生成された説明

出典元―

『つばきっす(https://www.youtube.com/live/btjhgzrUseE?feature=share)』

つばきっす

『THE ROLAND SHOW(https://youtu.be/Ihm9LBbtS8I)』

THE ROLAND SHOW

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中華料理釜山

記事に登場する氏名、及び店名は、全て仮名です。

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我が日本国には飲食店があふれている。

バブル期に比べれば減少したとはいえ、今でも67万店舗もの飲食店が各地で営業しているらしい。

だがその平均寿命は短く、開店して三年営業を続けられればいい方であり、十周年も迎えることのできない店の方が多いと聞く。

その業界の熾烈な生存競争においては、うまくて評判の良い店が生き残るとは限らない。

だがその反面、まずくて評判が最悪な店がすぐ淘汰されるとも限らない。

私の生まれ育った地方都市О市の国道沿いに店を構えていた「中華料理釜山」は、間違いなく後者に属する店だった。

このО市民の間で悪名高かった中華料理店は1970年代に開店して21世紀を過ぎて少しの間まで、不当にも、その地で30年以上の長きにわたって営業を続けたのだ。

悪に限ってのさばり続けるというこの世の不条理を体現する存在、それがこの「中華料理釜山」だった。

市民に恐れられる店

「中華料理釜山(仮名)」

まず、この店名からしてふざけている。

ある程度の地理学的常識を有した方なら、ツッコミを入れたくなるはずだ。

釜山、どう見ても韓国のあのプサンじゃないか?中華料理店が名乗っていい名前だろうか?

「イタリア料理マルセイユ」や「タイ料理ホーチミン」くらいおかしいだろう?

ひょっとしたら、韓国風中華の店のつもりだったのかもしれないが、そんなスキマを付いた店が、1970年当時の地方都市に出現したとは考えにくい。

もっとも、その当時は中国と韓国の区別もつかないほどО市の市民は低能だったらしい。

誰からもツッコまれることなく「中華料理釜山」と書かれた看板をデカデカと国道にさらし、恥ずかしげもなく堂々営業していた。

オーナーが釜山出身の在日韓国人だったとかなのかもしれないが、真相は今でも謎のままである。

この「釜山」は名前こそふざけてはいるが、店の外装や看板は気合が入っており、1970年代の日本人の頭の中だけにある間違った中国像を具現化したように派手だった。

だが、気合を入れたのは外観だけだったようだ。

まだ小学校低学年だった私も家が比較的近所だったので、その存在を知っており、チャイナ全開の見た目に魅かれて何度も連れて行ってほしいとせがんだが、父が断固拒否。

なぜなら父は「釜山」がひどい店であることを、すでに身を持って知っていたからだ。

父によると、職場の同僚らとそこで歓送迎会を開いたことがあったが、父を含めた参加者ほぼ全員が、この店には二度と行きたくないと腹を立てるほど最低な店だったという。

店内は当時から汚く、店員の態度も横柄で味や量に比べて、不当に高かったらしい。

また、その悪名は、我が家の中だけに限ったことではなかった。

「釜山」は私が通っていた小学校の学区内にあったため、学校の同級生たちは皆「釜山」のことを知っていて実際に食事した者も多かったが、ダメ出しのオンパレード。

ある生徒は作文の宿題で、小学生の視点によりその恐るべき実態を記述していた。

きのう、ぼくはお父さんとお母さんとねえちゃんといっしょに、ちゅうかりょうりプサンという店へ食べに行きました。

ぼくはラーメンを食べましたが、おいしくなかったです。

それと店の中はきたないし、お父さんが店のおじさんとけんかしたりしたので、ぼくはもう行きたくないなあとおもいます」

我が小学校の児童の間でも「釜山」は「まずい・高い・汚い」という飲食店にとっては致命的な三冠王の店として勇名を轟かせていた。

他に「態度が横柄」「出てくるのが遅い」「この店のラーメンはカップ麺」「料理にシャブが入っている」などの講評や噂も混じっていたが、そんな市井の評判が実際の経営状態には反映されることはなかったようだ。

「釜山」の駐車場には常に一定数の車が停まり、いけしゃしゃあと営業を続けていた。

少年時代の私の心に、実際には行っていない「釜山」に対する侮蔑まじりの恐怖が刻まれたのはその頃からだ。

そして、韓国の釜山市民には悪いが、今でも釜山という地名にいい印象がない。

韓国政府もいくら地方都市とはいえ、自国の都市のマイナスイメージを不特定多数の日本人に刻み続ける店に、何らかの行動をするべきだったであろう。

実食する不運

私が「釜山」で食事する機会を得たのは、長じて大学生となった頃だ。

いや、食事する羽目になったと言うべきか。

その日、私は自分の通う大学の同級生である五島賢司と遊びに行き、その帰りは彼の車で家まで送ってもらっていた。

我々の乗った車が私の家目指して国道を走っていた時、五島が「どこかで飯にしよう」と提案。

ちょうど正午で昼食を食べていなかった私も同意し、国道沿いの適当な店を物色したがなかなか決まらず私の家近くまで来てしまった。

「ココ壱番屋にしないか?この先にあるんだが」

「カレーはどうも食う気がしないな…お、ここにしよう!」

そう言って、急にウインカーを出して入ったのが何と「中華料理釜山」だったのだ。

「ここはやめないか?いい噂を聞かないんだ」

私は地元民として忠告したが「俺はここで食いたいんだ」と五島は譲らない。

具体的な評判を伝えて説得してみたが、結局強硬な五島に折れる形で私も店内に入ることになったのは、自分自身が「釜山」に入ったことがなく、実は言われてるほどひどくはないのではないかと甘く見ていたからだ。

だが、なぜもっと強く五島を制止しなかったのかと入ってからすぐに後悔することになる。

「釜山」は評判どおりの店だったのだ。

店内に入ってまず気づいたことは、臭うことである。

「匂い」ではない「臭い」だ。

中華料理店特有の食欲をそそる炒め物の「匂い」ではなく、不衛生な台所の饐えたような「臭い」である。

その悪臭の発生源は紛れもなく厨房なのだが、入口を入ってすぐのところに目につくため、否応なしにさもありなんと思わせる凄まじい惨状が目に入った。

もう、年季の入った便所といい勝負の汚さではないか。

本当は便所も兼ねてるんじゃないかと思うくらいのレベルで、ここで料理が調理されて出てくるなんて考えたくもない

その厨房を囲むようにカウンター席が設置されており、厨房を真正面に見据えざるを得ないそこにだけは座りたくないと思ってテーブル席を目指したが、大柄でブサイクな女性店員が我々の前に立ちはだかりカウンター席を指さした。

「ここへ座る!」

中国人留学生のアルバイトらしい。

我々を強引にカウンター席へ座らせると、目の前にメニューをどさっと置いて「どれ食べる?」とさ。

正直ここで何も食べずに帰りたいが、とりあえずメニューを開いてみる。

メニューも油ベトベトで薄汚く、そして高い。

何で醤油ラーメンが900円(当時平均600円程度)もするのだ。

「お得!」と書かれたランチセットの欄があったが、そのネーミングがカオスだった。

  • 万里の長城セット:1000
  • 毛沢東長征スペシャルセット:1200
  • 中国4000年の歴史セット:1500

この店は、中国と世間を完全にナメてる。

それに、ネーミングは無意味に壮観で痛々しいが「万里の長城セット」は単なる半ラーメン+餃子だし、「毛沢東長征スペシャルセット」は半ラーメン+チャーハン、「中国4000年の歴史セット」なんぞは半ラーメン+チャーハンに餃子。

他に「黄河悠久の流れセット」や「楊貴妃セクシーダイナマイトセット」などセンスが爆裂した名前のセットもあったが、その内容と値段は見ていないし、見る気もなかった。

中国人アルバイトよ、お前は何も言わないのか?ずいぶん安く見られてるぞ、祖国が。

我々は、一番安くて無難そうな「万里の長城セット」を頼んだが、この厨房で調理するんじゃなくて、よその中華料理店から出前を取ってきて欲しいというのが本音だった。

強引に入った五島も責任を感じたのか、バツが悪そうに押し黙っている。

しかし祈りもむなしく、目の前の汚厨房でジャージャー調理が始まり、そこで作られた「万里の長城セット」が我々の前に並ぶ。

見た目は普通で、食べてみたら、おいしくはないが噂ほどまずくもなかったとはいえ、厨房があの有様だっただけに箸をつけるのに決死の覚悟が必要であった。

他にも何人か客はいたが、昼食を楽しんでいる様子はなく、皆修行僧のように無言で食べている。

我々も腹が減ってたはずだったのに、全部食べることはできなかった。

会計の時もひと悶着あり、くだんの巨漢女は堂々と「中国4000年の歴史セット」の値段1500円で請求してきやがった。

まだテーブル上にある残った餃子とラーメンを動かぬ証拠に断固抗議して取り下げさせたが、全部食わなくて本当に正解だった。

店を出た時、「だからやめろって言っただろ」と愚痴る私に、「いや、外から見たら本格的そうに見えたんだけどな」と、五島は言い訳をしていた。

確かにド派手な「中華料理釜山」の看板を遮る建築物が周囲に存在しないため、遠くからでもよく目立つし、店の外観は立派でいかにも中国という錯覚を覚えさせる。

主要幹線道路だけに交通量は多く、見かけにつられて入ってしまうビジターが後を絶たなかったから、O市の住民にあれだけ評判が悪くても営業できたのではないだろうか。

それが証拠に、駐車場に停まっている車は他県のナンバーが多く、県内ナンバーがあったとしても五島のようにO市から遠く離れた市町村の住民と思われる。

私はこの時初めて「釜山」がしぶとく生き残っている理由がわかったような気がした。

車に乗り込む前に「釜山」の駐車場へS県ナンバーの車が一台入ってきた。

五島はその車から降りてくる中年男性に駆け寄り、「この店ひどいですよ」と忠告。

腹いせの営業妨害をしていたが、私は止めなかった。

中華料理店釜山の最後

そんな来る客来る客に、トラウマを植え続けてきたであろう「中華料理釜山」がようやく閉店したのは、ミレニアムの西暦2000年を超えて数年経過した頃だ。

原因はおそらく「釜山」の隣に建てられた某宗教団体のO市支部の建物だろう。

「釜山」に向かって国道を車で走ればわかる。

そのお城のような建築物は、数多のビジターを毒牙にかけてきた「中華料理釜山」の看板を見事に隠していたのだ。

もう片方の対向車線側から見たら見えるが、看板につられて入ってくる客は単純計算で半減することになる。

よく中華料理店はつぶれにくいと聞くが、それは家族経営の場合であって、「釜山」のような比較的大規模の店は当てはまらないのではないだろうか。

それに、地元の人間に嫌われていた「釜山」が、ビジターをひっかけられなくなったら命取りだったはずだ。

相手が宗教団体だけに、まさに神罰と言えなくもない。

だが、「釜山」の悪運が尽きたのが30年以上のさばってきた後なので、さんざん悪事を働いた暴力団組長が96歳でようやく殺されたくらい釈然としないところがある。

それに悪魔を討伐して無辜のビジターを救ったことになるのが、霊感商法などで全国的に悪名高きうさん臭い宗教団体。

のさばり続ける悪に勝てるのは正義ではなく、より大きな悪だったということだろうか。

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2022年 北鎌倉 旅行 浜田省吾 音楽

浜田省吾 – 聖地巡礼・北鎌倉への旅 –

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浜田省吾の「青空の扉」というアルバムを聞いていて、ん?何か「横須賀線」って言ってるな、と思ったのがきっかけです。よく聞いてみると、「北鎌倉」とか「紫陽花」とも言ってます。これが気になり、北鎌倉へ行ってきました。

その歌はそう、「紫陽花のうた」です。

5月末日、まだ紫陽花が咲き始めの頃に、浜友さんの一人であるスィーさんを誘って、早速出発です。

「紫陽花のうた」で我らの省吾が歌っている通り、横須賀線で移動です。

北鎌倉駅に到着したのは、11時半くらい。この日は天気が良く30度になると聞いていただけあり、めちゃくちゃ暑いです。

北鎌倉駅
北鎌倉駅

到着してすぐに撮影したのはこの写真です。北鎌倉駅について、改札を出たすぐのところです。

まずは、この写真です。

会報の写真

北鎌倉駅の裏に行ってみるとありました!

会報に掲載されたのが古いので、少し屋根が違ってますが、正に我らの省吾が歩いた踏切です。

最初の写真を撮ったということで、ランチにします。

鎌倉は野菜が美味しいことで有名ですし、カレーも有名です。鎌倉に来たからには、これを楽しむしかないです。

探してみたら、北鎌倉駅から少し歩いたところに両方楽しめる店がありました!

北鎌倉ぬふ・いち

鎌倉野菜のスープカレー

美味しいスープカレーを食べて、写真の現場探し再開です。

まずは円覚寺です。円覚寺は、北鎌倉駅の裏側すぐそばにあります。ここには、現場がいくつかあることは下調べ済みです。

円覚寺に入って少し歩いて行くと、すぐに見つかりました。我らの省吾の歩いた階段!

会報の写真

この現場を探すのがなかなかの苦労でした。細い階段を上がった、まさかこんなところ?って感じのところに「如意」と書かれた門があるのですが、その前が現場だったのです。

会報の写真

北鎌倉に行く前から、この竹藪がずっと気になってました。特に何も特徴がない竹藪ので、探せるかなと心配でした。

円覚寺を出口方面に向かって歩いていたら、竹藪を発見。この写真は円覚寺内の竹藪でしょう!ということで、ここでも写真。

会報の写真
スィーさん、省吾になりきってキマってます!

次は、極楽寺へ移動です。

北鎌倉駅から、江ノ島電鉄に乗り換えて移動します。

極楽寺駅
極楽寺駅

極楽寺駅を出て数分歩いたところに、五木田商店というのがあります。この現場はそこでした。

会報の写真

これで、会報に掲載されたいた北鎌倉の写真現場は征服です!

会報に載っていた写真と比較すると、こんな感じです。

会報の写真との比較

極楽寺まで行ってとりたい写真が撮れたのは良いのですが、結局、夕方近くになってしまったので、鎌倉で夕食を食べようという話になりました。

鎌倉と言えば、しらすでしょう!

しらすたっぷり丼を食べて、今回の北鎌倉の旅は無事終了です。スィーさん、お疲れ様でした!

鎌倉駅周辺
鎌倉名物しらす丼

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2021年 おもしろ 動物 旅行 福島

フラミンゴを見て思ったこと

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先日、福島県いわき市にあるメヒコというシーフードレストランに行きました。

そのレストラン、何と、テーブルの横にあるガラスの向こうに、フラミンゴがたくさんいるんです。お洒落なレストランです。

フラミンゴを眺めながら、友人と食事をしていたのですが、ふと思いました。

「フラミンゴの足ってさ、歩く時、膝が前にまがってるよね。前に曲がると、歩きにくくないのかな?片脚立ちする時に折り曲げるんなら、後ろに曲げてもいいんじゃない?どうしてだろう?」

気になって、その場でインターネットで調べてみました。

あの脚の曲がるところ、膝ジャなくて、カカトなんです。

マジか、へーと思っていろいろ調べてたら、分かりやすい絵がありました。なるほど。

カカトが長いんです。つまり、足の水かきのついているところが足の指という感じです。つま先立ちしているんですね。

空手でいうところの「猫足立ち」状態というわけです。キャットウォークです。

一つ勉強になりました。

馬とかラクダとかの後ろ足と同じなんですね。人間も鳥も4本足の動物もすべて同じなんです。

ちなみに、フラミンゴが片脚で立つ理由は、水の中にいて体温の定価を避けるためです。

そして、赤の色が鮮やかなほど、異性を引きつけます。モテるのです。

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浜田省吾 – 聖地巡礼情報 –

2022年08月05日更新

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浜田省吾の大ファンです。

浜田省吾の住んでいたところは、どこでも行ってみたいと思い、広島に行く度に聖地巡礼してます。

自分の聖地巡礼のために、いろいろと情報を集めています。

ちなみに、こちらの記事で、私が実際に行ったところを公開しています。広島に行く度に更新してます。

2022年5月に、新たな聖地巡礼で北鎌倉へ行ってきました。「紫陽花のうた」の歌の舞台ですね。北鎌倉への聖地巡礼のブログも追加しました。

浜田省吾

1952年12月29日

広島県竹原市で生まれる

浜田省吾生家: 広島県竹原市港町2丁目7番池2号

3歳から

御調郡向島町岩子島(現尾道市)

佐伯郡廿日市町宮内

五日市町(現広島佐伯区)

広島市元宇品(現南区元宇品)

と広島県内で転校を繰り返す。引越しは、18歳までに20近くとか。

9歳の時

江田島の海沿いの町、鷲部に移居。

♪海辺の田舎町〜10才のころラジオから〜

浜田省吾が昔通っていた小学校は、今は図書館になっています。

13歳の時

呉市汐見町に転居

呉市立二河中学に転校

広島県立呉三津田高校に入学

以降は高校卒業まで呉市で育った。

♪この町のメインストリートわずか数百メートル(れんがどおり)、さびれた映画館(呉シネマ(現ポポロシアター))

♪15の時〜通りのウィンドウに〜飾ってあった〜ギターを見た時〜(楽器店&レコード店の公声堂)

大学受験に失敗後

大竹市に転居。

♪溶けたタールパルプの匂いの

♪丘の上幾つもの〜工業地帯の向こう沈んでいく(2号線沿いに立ち並ぶ石油コンビナート・紙パルプ・化学繊維工場)

そして予備校生活

♪予備校の湿っぽい廊下で〜あの娘を見つけた〜(英数学館(現 並木学園=高校)は、広島老舗の予備校)

♪放課後の図書館のロビーで〜(予備校から一番近い市役所の図書館)

  • 予備校(現 並木学園)広島市中区

予備校に行かずにライブハウスFIVEに通っていた(中央通り)。

今後行ってみたいところ

今まで、浜田省吾の住んでいたいろんなところへ行ってますが、歌の舞台になっているところが中心でした。

それ以外にもいろいろと調べてみると情報がありますので、今後は、是非そちらを訪問してみたいと思います。

私の今後の行きたいところのメモです。新しい情報を見つけては、アップデートしています。自分用のメモとして。

尾道市

〒722-0072 広島県尾道市向島町岩子島1306−1

地図は尾道市岩子島農業構造改善センター(旧岩子島小学校)

尾道に住んでいたことまでは知っていましたが、場所までは分かりませんでした。次回の広島訪問時に時間ができたら、再度、尾道へ行ってみたいと思います。再び、尾道で尾道ラーメンを食べてきます。

小学校2〜3年生の時に通った元宇品小学校

場所は広島の最南端、元宇品(宇品島)

「広島の一番海岸べりにひょっこりひょうたん島みたいな島があって、橋で結ばれてるんですけど、その島の丘の上にある学校で・・・」

元宇品の小学校にも通っていたのだとか。小学校は江田島だけかと思ってました。

浜田省吾が広島でライブをやる時は、プリンスホテルに泊まるらしいのですが、昔住んでたところのすぐそばだったからなのかも知れませんね。今度、広島にいく時は、私もプリンスホテルに泊まってみることにします。

竹原市

「西に歩いて2〜3分行くと、「長建寺」というお寺があります。なんでもここの境内で省吾さんは遊んでいたそうです」とのことです。

竹原には、浜田省吾の生家があるということで行ってきましたが、当時、このお寺の存在は知りませんでした。次回、竹原を訪問の際には、ぜひ行ってみたいと思います。

2階からビートルズの曲を流してもらった同級生のせっちゃん家

浜田省吾の同級生のせっちゃんの家も、見に行ってみたいです。これも、次回の広島訪問時の目標です。

これの場所をずっと探していたのですが見つけました。

江田島の省吾が通っていた小学校(現図書館)のもう少し北側です。次回の江田島には言ってみます。

すぐ近くにあの青木病院もありますね。

喫茶サントス

浜田省吾の同級生がやっている喫茶店です。本人も通っていたらしいです。この喫茶店に行くと、昔のアルバムなどを見せてくれるらしいです。

去年、呉に行った時に寄ってみようと思って、店の前まで行ったのですが、サントスは日曜休みなんですね。開いてませんでした。今度、呉に行く時は、ぜひ行ってみたいです。

2021年12月14日に、サントスを訪問しました。

2021年12月14日サントス
2021年12月14日サントス

浜田省吾ファンということを店員に伝えると、中学の時と高校の時の卒業アルバムや雑誌の記事などを見せてくれます。

左側が中学と高校の卒業アルバム、右側が雑誌の記事

こんなものもありました。裏側には、三津田高校の校歌が記載されています。我らの省吾の卒業した年のものですね。

これがおそらく、当時の省吾が書いたものでは?とされています。そう聞くと省吾っぽさが見える気もします。

サントスでは、このオムカレーが定番です。美味しいのですが、めちゃくちゃ量が多いですので、女性の方は気をつけてください。

サントスのオムカレー

特に何もないのは分かってはいるのですが、省吾の住んでいたところがどんなところか知りたくて、五日市と廿日市にも行ってみました。

佐伯郡廿日市町宮内

昔住んでいたと言われる場所の詳しい住所が分かりません。分かったら、再度訪問してみたいと思います。

五日市町(現広島佐伯区)

五日市駅から佐伯区役所まで、ブラブラと歩いてみました。この辺りに省吾は住んでいたのかなあ。

おまけ

東京で浜田省吾ファンの集い(浜省ナイト)をやってます。丘の上の会という名前です。

コロナの影響で、最近は活動ができていませんが、浜田省吾ファン10名くらいと集まり、食事をしながら浜田省吾の話をし、カラオケで浜田省吾を歌ってます。

イベントをやる時は、Facebook に掲載してますので、興味がありましたら、ご連絡ください。

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浜田省吾ファンからの広島旅行のおすすめ

2022年08月05日更新

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私の父親が浜田省吾のファンで、生まれた頃から浜田省吾の歌を聞いて育ちました。そして今、浜田省吾の大ファンです。

広島空港で飛行機から降りて、広島の地を踏む時や、新幹線で行って、広島駅の出口のゲートを通過する時、Show me your way, J.Boy!!! を毎回必ずやってます。

その時から、私の頭の中では、パラリラパラリラパーパパラ!と J.Boy の演奏が鳴りっぱなしです。

そんな浜田省吾ファンからの広島旅行のおすすめです。

私は毎年一回は、旅行で広島へ行ってます。出張を含めると、年に2、3回の時もあります。そして、私が広島に行ったら、必ず行く店があります。

ひろしま丸かじり 中ちゃん

〒730-0023 広島県広島市中区弥生町 6-8

広島市の繁華街の中にある鉄板焼きの店です。広島駅からは、徒歩15分くらいです。

東京で鉄板焼きというと、海老や肉を目の前で焼いてくれる店のイメージが強いですが、大阪より西は、鉄板焼きと言えば「お好み焼き」がメインですね。

でも、この店で一番のおすすめは、ウニクレソンです。

浜田省吾も、広島に帰ってきた時は、ウニクレソンを食べるそうです。

私も最近は、広島といえばウニクレソン!と言わんばかりに、広島に行くと毎回食べてます。

もちろん、広島お好み焼きや牡蠣や岩国レンコンも、鉄板で焼いてくれとても美味しいです。

ちなみに、中ちゃんにはラーメンもメニューにあり、町支寛二や古村敏比古も、ここのラーメンが好きなんだとか。

昔から、何故かこの店には、音楽関係の人たちがよく来るそうです。ただ、中ちゃんのマスターは、何故だかよく分からないと言ってます。

浜田省吾を含め、いろんなミュージシャンのサイン入りポスターが、店内の壁に飾ってあります。

この前行った時は、カウンターの端に、中島ユキノのライブのチラシが置いてありました。

中ちゃんですが、予約をしてから行くことをお勧めします。いつも満席で、外に10名くらいは並んでます。

ひろしま丸かじり 中ちゃん

唄えるライブなカラオケBAR 星の指輪

〒730-0027 広島県広島市中区薬研堀 4-9

そして、中ちゃんで食欲を満たした後に行くのがここ、星の指輪というバーです。浜田省吾ファンなら、店の名前で分かりますよね。そう、浜田省吾バーです。

浜田省吾ファンが来ているバーなのですが、ファンじゃない人ももたくさんいて楽しめるカラオケバーです。カラオケが止まっている時は、ずっと浜田省吾の DVD が流れてます。

店内はこんな感じです。

このバー、何が良いかというと、音響がとても良いのです。照明もかなり凝ってます。そして、このバーのマスターである省八さんが、手の空いている時はギターを弾いてくれたり、ドラムを叩いてくれたり、浜田省吾ファンの人たちがギターを弾いてくれたりしてくれます。

生演奏で歌ってる気分になれます。気分は正にロックスター!

星の指輪ですが、町支寛二と古村敏比古が、カンフル罪のライブを広島でやった後に、たまに来るそうです。店の中に、写真がたくさん貼ってあります。

また、愛奴時代に浜田省吾と一緒にやってた山崎貴生(現: 劉哲志)も、広島でライブをやる時は、このバーで二次会を楽しんでます。私もこのバーで 3回お会いしてます。

バーのマスターである省八さんから聞きましたが、残念ながら、浜田省吾はまだ一度も来たことはないそうです。

浜田省吾ファンの方も、そうでない方も、カラオケが好きなら楽しめるバーです。ぜひ行ってみて下さい。

星の指輪ですが、スナック菓子くらいしか食べるものはありません。中ちゃんから徒歩 5分くらいの距離ですので、中ちゃんで食べてから行くのがオススメです。

唄えるライブなカラオケBAR 星の指輪

おまけ(聖地巡礼)

おまけと言いながら、本格的に浜田省吾ネタです。ここからはディープに行きます。

広島と言えば、浜田省吾の生まれ故郷。浜田省吾の歌の中には、広島を舞台にした作品がたくさんあります。

広島へ行ったら、その舞台になったところを見てみたいと思うのがファンですよね。当然、私もいろいろ探して行ってっました。歌の舞台になっているところを見てまわることを、私は「聖地巡礼」と呼んでます。

個人的に、浜田省吾の住んでいた所の情報を集めては、そこに巡礼として訪問しています。

浜田省吾の生家(生まれたところを遠く離れて)

2017年11月。広島から尾道に移動し、尾道ラーメンを食べて(尾道ラーメンは尾道で食べなければ尾道ラーメンではないと言われ)から、竹原で泊まりました。

なぜ竹原買って、浜田省吾の生家を見るためです。

翌朝から出発です。

こんな山道を通って行きます。竹原って、広島の中では田舎な方ですが、その中でも、かなり田舎なところに住んでいたのですね。

山道の手前で、住宅がいくつも並んでいるところを通るのですが、すれ違ったおばちゃんに、「また来た」みたいな顔をされました。ファンの人が来るんですね。

振り向けば遠くにあの子の眼差しは見えませんが、海が見えます。海の方にはコンビナートもあります。

到着しました。ここが玄関です。誰も住んでおらず、鍵が閉まってます。

玄関の前に、コンビニの袋が置いてあります。ゴミではないですよ。

ファンの人たちがここにやって来て、いろいろと書き込んたノートが入ってます。「今日で 5回目です!」とか書いてる強者もいました。

この袋ですが、私が最初にかけました。私が最初に行った時には、ノートがそのまま置いてあったのですが、雨に濡れて、そのうち読めなくなってしまうだろうと思い、持っていたコンビニのビニール袋に入れました。

ただ、これだとゴミにしか見えないので、広島に住んでいる浜友にお願いして、まともな袋に変えてもらっていますので、現在は、もう少しまともてなってます。

ちなみに、これが住所です。ファンの我々にとっては、ここは聖地です。ぜひ訪ねて下さい。

生家を横から見ると、こんな感じです。

「生まれたところを遠く離れて」は、ここを思い出して歌ってるんですね。

並木学院高等学校(予備校の湿っぽい廊下)

2016年10月。元々は予備校だったのですが、現在は高校になっています。ここがそう、「あの子を見つけた」予備校です。

私は Edge of the knife バージョンの「19のままさ」が大好きです。この高校にたどり着くちょっと手前から「19のままさ」をヘビロテして、到着した時は涙が出そうなくらい感動しました。ここで、あの子を見つけたのかと感動しまくりです。

さすがに中には入れないですので、横にまわってみました。「湿っぽい廊下」を発見。

浜田省吾ファンの仲間たちに写真を送ったら、みんな口を揃えて「確かに湿っぽい。。。」とのことでした。

初恋(海辺の田舎町)

江田島1回目

江田島といえば、浜田省吾が小学校、中学校時代に住んでいたところです。当然、ここにも聖地巡礼です。

2018年4月。広島市の南にある広島港の宇品からフェリーが出ているので、これに乗って行っちゃおう!と移動しました。

ちなみに元宇品は、浜田省吾が住んでいた所の一つです。

しかーし!フェリーで到着したのは、江田島の一番北の切串港です。

ファリーから降りて、目的地の小学校(江田島警察署のそば)を調べたら、8キロくらい離れてます。しかも途中、山道っぽい。

8キロくらいはら歩けるのですが、山道となるとツライ。。。

「まいったなあ、もう一つの港に向かわないとダメだったんじゃん」と、江田島に上陸してから気づきました。

完全に事前調査不足でした。

バスに乗ろうと思ったのですが、バスは走ってないし、タクシーに乗ろうかとも思ったのですが、タクシーも全く走ってません。正に「海辺の田舎町」です。さすが、初恋の島。

Google マップで調べていたら、切串港から東に向かって行くと別の港があり、そこから呉に渡るフェリーが出ていることを発見しました。

「初恋」を聴きながら「海辺の田舎町〜♪」と歌いながら、江田島には1時間くらいしか滞在せず、呉に向かいました。一回目の江田島は撃沈です。江田島って広いのねということを思い知りました。

それでも「江田島から呉に向かうフェリーなのだから、省吾が中学校に通うために乗っていたフェリーと、途中からは同じ経路だよ。省吾が見ていた景色と同じ景色は見られるじゃん!」と、前向きな私でした。

江田島二回目

2020年11月。広島が緊急自体宣言に入る少し前のちょうどラッキーなタイミングで、再び広島を訪れました。

星の指輪で広島の浜田省吾ファンの友人と飲んで歌っていたら、「明日、車で江田島まで行かない?」という話になり、再度、江田島上陸をしました。

とうとう到着しました。浜田省吾の通っていた小学校です。現在は図書館になっています。

図書館の中に、浜田省吾コーナーが設けられています。さすが、我らの省吾!江田島のヒーロー!

浜田省吾ファンの方は、この写真はご存知ですよね。この木のベンチが、今でも残ってます。

サングラスも用意してあって、このベンチに座って写真が撮れるんです。図書館の人たち、浜田省吾ファンの気持ちをわかってくれてます。当然、私もサングラスをしてベンチに座り、記念写真を撮りました。

図書館の一角にも、浜田省吾の写真の切り抜きや雑誌や本がたくさん置いてあります。もう感動しまくりです。

浜田省吾ファンの間では有名な「初恋のきた島」も置いてあります。

無料で持ち帰ることができる小冊子なのですが、これって、ネットオークションで売られているんですよね。そんなことするのって、浜田省吾ファンとして恥ずかしいです。

「初恋のきた島」は、この聖地である図書館を訪れた浜田省吾ファンだけの勲章のようなものです。

呉(この町のメインストリート、15の時通りのウィンドウに)

15の時、通りのウィンドウに飾ってあったギターを見た時、稲妻が俺の体駆け抜け、全ての夢が走り出す〜♪

2017年10月。呉といえば、まず、「終わりなき疾走」ですよね。

中学生の浜田省吾が、楽器屋の前を通った時に、飾ってあったギターを見て衝撃を受けたというのが、この公声堂です。

この写真は、江田島から移動した二回目の訪問の時のもので夕方だったのですが、一回目の訪問の時は昼間に行きました。残念ながら、今は道から見える形でギターは飾っておらず、店の奥の方に飾ってあります。

店の前で写真を撮っていたら、店のおじちゃん(写真中央の人)に「また来てるよ」って顔で見られました。やはり、ここにも浜田省吾ファンが多く訪れるんですね。

2021年12月14日に、4回目の呉を訪問しました。その際に、「稲妻の走った楽器屋」を見に行きました。店の前に自動販売機が増えてました。

2021年12月14日 4回目の訪問

前に昼間に行った時は気づかなかったのですが、通りのウィンドウにギターが飾ってありました。前からこれってあったかな?

エレキギターっだったもっと良かったのに。

2021年12月14日 4回目訪問

そして、呉と言えば、有名な曲「MONEY」ですよね。

MONEY を歌いながらいきましょう!

この街のメインストリート、わずか数百メートル〜♪

れんがどおり

寂れた映画館と〜♪

バーが 5、6軒〜♪

ハイスクール出たやつらは、次の朝バッグを抱えて出てゆく〜♪ジャジャジャン!

2016年11月 呉1回目訪問
2016年11月 呉1回目訪問
  • 呉のメインストリートは、訂正します。以前、「意外と広くて長いじゃん」と記載しましたが、場所が間違ってました。正しくは「れんがどおり」が Money のあのメインストリートです。確かに数百メートルでした。
2021年14日 呉4回目訪問
  • 寂れた映画館ですが、現在は、ポポロというスーパーになってます。この中にポポロシアターという新しい映画館ができてます。さにれた映画館、見たかったなあ。
2021年14日 呉4回目訪問
  • ポポロの周りには、飲み屋はポツポツとあります。5、6軒以上は軽くありますね。ポポロのすぐ隣にはカフェやレストランなども多くあります。
  • 高校ですが、浜田省吾が通っていたのは、広島県立呉三津田高等学校です。ここで、窓の外見てるだけ(独立記念日)だったのでしょうか。

ちなみにこの高校の前には、こんな看板が立てられています。

2016年11月 呉1回目訪問

きっと、浜田省吾ファンのことでしょう!ファンの方、聖地である三津田高校へ行きたい気持ちは分かりますが、行動には注意してください。通報されるかも知れませんよ。私も学校の周りをウロウロして写真撮って、完全に変な人でしたから。

そして、ここが通っていた中学校です。ただ、名前が変わってしまっています。浜田省吾が通っていた中学は、二河中学です。現在は統合されており、呉中央中学になっています。

2016年11月 呉1回目訪問

大竹(パワーシャベルで削った丘の上いくつもの)

2020年11月。大竹に行ってきました。マイホームタウンや大ディーズタウンの舞台ですね。

2020年11月 大竹1回目訪問

溶けたタール、パルプのにおいの、何もかも閉ざされた My Hometown 〜♪

確かに、焦げたにおいがします。大竹に住んでいる人たちには申し訳ありませんが、確かに何もない町です。

「マイホームタウン」の中で、

パワーシャベルで削った丘の上いくつもの同じような小さな家どこまでも続くハイウェイ〜♪

と歌ってますが、この町にはハイウェイは見当たりませんでした。多少の脚色は入っているんですね。

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2020年鎌倉の旅

うっかりコーヒーをこぼして、図書館で借りた本を汚してしまった。

返却日、その本を図書館の返却箱に黙って入れてシレーっと帰ろうとしたが、職員に見破られて逃走を阻止され、弁償する羽目に。

『大人の遠足BOOK 鎌倉・湘南・三浦ウォーキング』、1650円なり。

ちょっと汚しただけなのに、あんまりだ。

本屋で買うと高くつきそうなのでアマゾンで探したが新品しかなく、結局本屋で購入して図書館に持って行った。

私の手元に汚してしまった『大人の遠足BOOK 鎌倉・湘南・三浦ウォーキング』が残った。

自分が悪いとはいえ、結構シャクである。

この元は断固取らなければならない、せっかくだからこの本をフル活用するべきだ。

そういうわけで、私は汚染された『大人の遠足BOOK』に記載の神奈川県鎌倉市を目指して、自宅の東京都から250㏄のバイクを走らせている。 私は位置情報ゲーム『ケータイ国盗り合戦』のヘビーユーザーだ。

鎌倉には、まだ未制圧の地域が多いからちょうどよい、とも自己暗示をかけて。

鎌倉はご存じ名所旧跡の宝庫だが、あまりじっくり見たことがない。

いい印象がないからだ。

最初に鎌倉を訪れたのは、中学校三年生の修学旅行の第二日目。

中学の修学旅行と言えば、楽しいことだらけの一生の思い出になるはずで、小学校六年生の時から楽しみにしていた。

だが、三年間待ちに待った修学旅行の初日、最初の目的地『東京ディズニーランド』で、他校の不良中学生に因縁を付けられ恐喝された。

それだけでもかなりの悲劇なのに、その日の宿で同じ部屋の奴らにパンツを脱がされてカイボウされるわ、翌日の国会議事堂見学では同じクラスのヤンキーに肩がぶつかっただけでどつかれたのに、担任は知らんぷりするわで、踏んだり蹴ったり。

そんな立て続けの災難のショックによる放心状態で、鎌倉の街を歩き回った記憶があるから、楽しい思い出になるわけがない。

だが、今やもう四半世紀以上も過去の話で「怨念の半減期」は、はるか前に過ぎているから、こうして鎌倉の街に落ち着いて来ることができる。

だが、ちょっと本を汚しただけなのに、冷酷に弁償を請求してきた図書館職員への「逆恨みの半減期」は、まだ先の話なので、道中頭をよぎりっぱなしだった。

私が住む町から鎌倉までは地味に遠く、到着したのは正午過ぎ。

最初の見学地は、13世紀建立の円覚寺だ。

と言っても、あまり綿密に計画も立てずに旅行する私の常で、たまたま最初に目についたのが円覚寺だったということである。

だが、円覚寺はバイクで来る人お断りらしく、駐車場はあっても、バイク駐輪場はない。

よって路肩に駐輪せざるを得なかった。

「駐禁とられたらどうしよう」とか「近所の元気者に壊されてたらどうしよう」とかの不安を抱えながら、競歩のように境内を歩き回っての見学を強いられた。

次の目的地、建長寺は円覚寺からほど近い場所にあり、しかもバイクを停めてもよい駐輪場を備えた懐の広い寺院だ。

やっと落ち着いて見学できる。

建長寺は、臨済宗建長寺派の大本山、1253年)の創建で開山(初代住職)は南宋の禅僧・蘭渓道隆であるため、総門・三門・仏殿・法堂などの主要な建物は大陸的に中軸上に並ぶ伽藍配置をしている。

その中でも三門・仏殿・法堂は重要文化財であり、他に国の史跡及び名勝に指定されている建長寺の方丈庭園は禅宗庭園独特の趣が…。

もう帰ってもいいだろうか?

私は位置情報ゲームにはまっているし旅行も結構好きだが、生来外出するとすぐ帰りたくなる性格で、こうしてはるばるやって来て名所旧跡を前にしても、心は自分の家にある。

寝床から1000メートル以上離れると、ストレスを感じるのだ。

だから遠くの博物館でも遺跡でも到着しただけで満足し、いつもサッと見てサッと出て来てしまう。

そして帰ったら帰ったで「なぜもっとじっくり見なかった?」と、死ぬほど後悔している。

今回も歴史は繰り返した。

異例の早さで建長寺の見学を終わると、次の目的地とした報国寺は一応無理やり行ったが、鎌倉は他にも見どころがあるにもかかわらず、自宅への望郷の念にもう堪えられなくなっていた。

『ケータイ国盗り合戦』のエリアもあまり攻略できなかったが、もういいだろう。

さっさと飯食って帰ろう。

せっかく鎌倉来たんだから鎌倉らしいものを食べるべきだが、鎌倉の飲食店はどれもやや高めなのにひるんで、帰り道で適当に何か食べることにした。

鎌倉から国道1号に入り、その沿線の某ラーメン店に入る。

しかし入った店は「まずい」「出てくるのが遅い」「少ない」「高い」の四冠王で、「店内が汚い」「店員の態度も横柄」というタイトルまで保持した極悪店。

昼飯時を過ぎて客が少なかったのに、何で出てくるのに二十分もかかって、『昔ながらの醤油ラーメン』一杯900円なのだ?値段だけは未来志向か?

後味が悪いモノ食わされて高い金とられ、時間までロス、おまけにその後、道に迷った。

余計イラつきながら帰りを急いでいたら、後ろからサイレンの音。

「はい、そこの多摩ナンバー○○-○○のバイク停まりなさい」

白バイだった。

一時停止違反で点数二点引かれて、罰金6000円なり!

さんざんな日帰り旅行だ。

思えば、コーヒーで汚した本を弁償させられたのがシャクで、どうせならその本を思いっきり活用しようと思って出かけたんだよな。

その挙句、貴重な時間を使って罰金取られて、損害が倍増しだ。

でも一方で、今回は修学旅行の時に見れなかった建長寺や報国寺も見ることができた。

それに、あまりエリアは攻略できなかったが今まで未踏だった神奈川県三浦・湘南地方にも進出できた。

悪いことばかりじゃないじゃないか。

そう冷静になって、よーく考えてみた。

しかし冷静になればなるほど、どう考えてもプラスマイナスで言ったら、明らかなマイナスだったという結論しか導き出せない。

得られたはずのプラスが得られず、避けられたはずのマイナスも余計に被っている。

だからやっぱり、

出かけなきゃよかった!!

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