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2023年 イラク 戦争もの 本当のこと 歴史

ダニーボーイの戦い:2004年イラク戦争の銃剣突撃


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白兵戦とは本来、敵味方の兵士が入り乱れての白刃による近接戦闘を指す。

白兵戦は古代や中世は言うにおよばず、遠距離からの攻撃が可能な火器が登場してからも行われ、近世に至ってほぼすべての兵士に火器が行き渡ると、それに銃剣を着剣しての白兵戦が主流となり、第一次世界大戦まで重要な戦法であり続けた。

自動火器が発達してからも完全に消滅することはなく、第二次世界大戦はもちろん、その後の朝鮮戦争やベトナム戦争でも敵味方が近距離で遭遇した際には、白兵戦が発生していたという。

それ以後、より兵器が高度になった1982年のフォークランド紛争や精密誘導爆弾やステルス戦闘機などのハイテク兵器の独壇場になった1991年の湾岸戦争においても、銃剣を使った白兵戦が完全に消滅したわけではなかった。

だが、ステルス機や精密誘導爆弾などのハイテク兵器が登場して久しく、IT化も進んですでに敵の姿すら見ることがなくなったと言われるようになっていた21世紀の戦場ではどうだろうか?

さすがに、もう発生することはないだろう。

いや、実はそうではなかった。

2004年、中東・イラクのバスラでそれは起こった。

しかも、古式ゆかしき銃剣を着剣しての突撃で、それを行ったのは世界屈指の軍事大国・英国の部隊なのだ。

待ち伏せに遭った英軍

2003年3月20日に米英を中心とする有志連合によって、イラクによる大量破壊兵器保持における武装解除進展義務違反を理由とした『イラクの自由作戦』の名の下で行われたイラク戦争。

イラク正規軍との戦闘は、ほぼ一方的な展開となってイラクの独裁者サダム・フセイン率いるバアス党政権は崩壊、2003年5月1日に戦争に踏み切ったジョージ・W・ブッシュ米大統領によって「大規模戦闘終結宣言」が出たが、米国が指摘した大量破壊兵器の発見には至らず、さらにイラク国内の治安が悪化して戦闘は続行していた。

そんなイラク戦争二年目の2004年5月21日、有志連合の一角であった英軍の第16空中強襲旅団戦闘団(当時はアーガイル・アンド・サザーランド・ハイランダーズ)所属の兵士20名は、任務交代の命令を受けて、ダニーボーイと呼ばれた検問所へ向かっていた。

ダニーボーイは、イラク南部で最大の都市であるバスラに近い地点にある。

このころイラク北部では、米英軍に対する抵抗が活発化して極端に危険になっていた時期であったが、北部は前政権のバアス党に優遇されていたスンニ派の地域だ。

バスラを含めた南部はバアス党に虐げられてきたシーア派住民居住区であり、駐留する米英軍に攻撃を加えてくることはあっても大規模な衝突となったことはなかった。

また、この時点のイラク南部では後に米英軍相手に猛威を振るうことになるIED(路肩爆弾)による被害が発生しておらず、英軍兵士は危険な任務ととらえてもいなかったようである。

よって、英軍はあえて重装備の部隊を派遣せず、非装甲の軍用トラックで兵員を派遣していた。

だが、分隊がバスラまで約55マイルの地点まで来た時に、それが間違いであったことを思い知ることになる。

その場所は郊外の集落で、道路沿いには、まばらなに建物があったのだが、その後ろから人影が見えたかと思うと突然激しい銃撃を加えてきたのだ。

イラクに駐留している全ての外国軍の排除を目的としたシーア派武装組織マフディ軍である。

マフディ軍は、これまでも攻撃を加えてきたことはあったが、今回ほど激しいものは初めてであり、人数も優勢だ。

マフディ軍

英軍にとって完全な不意打ちとなったが、彼らは世界に冠たる英軍の第16空中強襲旅団戦闘団の精鋭たち。

指揮官の的確な支持の下、瞬時に反応する。

車両は銃撃を加えられながらも路肩に停止し、兵士たちは次々に下車して、路肩の縁石などを遮蔽物に反撃を開始した。

マフディ軍には数的優位があったが、指揮官や個々の民兵の練度は、英軍に遠く及ばなかったようである。

多数の敵から先制攻撃を受けたにもかかわらず、この時点で英軍側に死傷者は出ていなかったのだ。

もし、この時マフディ軍の中に有能な指揮官がいたら、手際よく英軍を包囲して殲滅に成功していたことだろう。

 2003年のイラク戦争の戦闘終結宣言以来、英軍はバスラに駐留。

誤射による死傷者を減らし、地元のシーア派イスラム教徒の支持と好感を勝ち取るために、イラクの英軍は厳格な交戦規則を設定、直接攻撃を受けた場合のみ反撃を許可していた。現在のこの状況は、明らかに反撃が許されるものである。

英軍指揮官は保有する全ての火器の使用を許可し、射撃の精度の高さもあって、交戦開始から十数分後には一時的にマフディ軍を圧倒し始めた。

数的優位があるにも関わらず、劣勢に立ったマフディ軍は態勢を立て直そうと銃撃を止め、街中へ向けて加勢を求める呼びかけを始める。

だが、これは著しく軍事リテラシーを欠いた行動であった。

なぜなら、その呼びかけは英軍にも聞こえており、自軍の状況を敵軍に知らせているに等しい行為だからだ。

しかも、英軍は現地語のわかるガイドを同行させていたために、マフディ軍の状況は筒抜けだった。

もっとも、英軍にとって不利な状況がさらに悪化しつつあることに変わりはなく、守りを固めながら一番近い友軍に無線で救援を呼びかける。

膠着状態が続いていたが、時間の経過によって事態はより悪化した。

弾薬が底を突き始めていたうえに、マフディ軍側に新手のシーア派民兵数十人が加わり、道路に沿って展開、総兵力が100人を超えたのだ。

一方の英軍は20名のままであり、敵軍の助っ人が到着するまでの間に、簡単な塹壕を掘っていたものの、数的劣勢はより深刻になって孤立した形となっていた。

道路を挟んで対峙するマフディ軍は、じりじりと包囲網を形成。

しかも、今度はRPGロケット砲や迫撃砲まで持って来ており、その増強した火力で英軍を殲滅しようとしているのは明らかであった。

危機的な状況に陥った英軍だったが、指揮官は分隊を二手に分け、一方に現在の拠点を死守させ、もう一方に相手側に攻撃を加えさせてかく乱する戦法に打って出る。

そして、救援要請に一番近くをパトロールしていたブライアン・ウッド軍曹指揮下の英軍プリンセス・オブ・ウェールズ・ロイヤル連隊の一個分隊が応えて到着。

彼我の戦力差は4対1に縮まったが、劣勢なのは変わらない。

ブライアン・ウッド軍曹

双方とも銃撃戦を展開しつつも、マフディ軍は練度の高い英軍を警戒し、英軍はマフディ軍の数的優勢を警戒して、積極的な攻勢に打って出ることはしなかったために再び膠着状態になったが、英軍側の弾薬は確実に欠乏し始めていった。

着剣!突撃!!

プリンセス・オブ・ウェールズ・ロイヤル連隊

30分間銃撃戦が続いた頃には英軍の弾薬はほぼ枯渇、時間の経過とともに、形勢は絶望的になりつつあった。

こののっぴきならぬ状況の前に、救援に駆け付けて孤立した英軍部隊を指揮することになったブライアン・ウッド軍曹は、捨て身の戦法を決断する。

それは、残りの銃弾を発砲しながら、銃剣を使った突撃を行うことだ。

だが、いくら弾薬がなくなったからとはいえ、これは危険というより自殺行為に等しい決定だった。

なぜなら、自軍の今いる拠点からマフディ―軍が陣取る場所まで180メートルほどしかなく、その間に遮蔽物はなかったために、恰好の標的になる危険があったのだ。

しかも相手の兵力は四倍である。

下手すれば、日本軍の米軍相手のバンザイ突撃のような結果になることは必至だったのだ。

しかしこの捨て鉢とも思えた戦法は、予期せぬ効果があった。

英軍の精鋭が発砲を続けるマフディ軍側に殺到すると、シーア派民兵たちは意表を突かれて浮足立ち始めたのだ。

マフディ―軍のシーア派民兵は、数も多くて火力に勝ってはいたが、しょせんは素人の烏合の衆。

やたらめったら撃つだけで効果的な火力網を敷くことができずに、英兵の突破を許して至近距離まで接近されるや、鬼気迫る気迫で突進してくる英軍を前に、戦意を喪失して算を乱して逃亡し始めたのである。

後方の民兵は、次から次へこちらに逃げてくる味方に当たるかもしれないので、発砲し続けるわけにもいかない。

しかも、英兵は心技体共に鍛え抜かれた練兵ぞろいで、徒手格闘や銃剣術にも長けていた。

よしんば立ち向かってくる民兵がいても、格闘術を知らない相手だから、赤子の手をひねるように確実に仕留めてゆく。

後の英軍の作戦報告書によると、多くのシーア派民兵は米英軍の兵士は、ハイテク兵器と火力に依存して白兵戦を行う勇気はないと思い込まされていた可能性があり、弾薬が尽きて降伏すると思っていたら、まさか銃剣突撃をしてくるとは思っていなかったらしいと分析されている。

おまけに、民兵たちは訓練も実戦経験も欠いていたアマチュアで、いざ世界に冠たる英軍精鋭の気迫あふれる突進を前に、戦意を喪失してしまったらしい。

 この戦闘で英軍は3名が負傷しただけで戦死者はなく、マフディ軍は20名が死亡して28~35名が負傷。

劣勢を見事に挽回した英軍の圧勝であった。

その後、この戦闘を指揮したブライアン・ウッド軍曹は、戦功十字章を授与されている。

英軍にとって、白兵戦は1982年のフォークランド戦争以来のものであったが、現在でも軍に制式採用されているアサルトライフルであるL85には銃剣を取り付けることができるし、銃剣での訓練も欠かしていなかったのだ。

L85

ちなみに、それから十数年後の2017年7月1日にも、英軍は白兵戦を展開している。

イラク北部のモスルで情報収集活動から帰還していた英陸軍特殊部隊SASが、イスラム国(IS)の武装集団50名に襲撃され、弾薬が尽きるまで抵抗した後に白兵戦を挑んだのだ。

世界最高レベルの戦闘集団であるSASの精鋭たちであるから格闘術も一流で、イスラム国の戦闘員を30名以上殺害して蹴散らすことに成功している。

いくら兵器のハイテク化、IT化、無人化が進んでも、最後にモノをいうのは、個々の兵士の訓練と戦意だったと言えるだろう。

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ドロボー少女に緊縛制裁 ~戦後無法~

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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戦争末期と戦後の昭和二十年代前半の日本は、食糧難の時代だった。

いくら昭和は芳しく見えても、この時代は誰だって嫌だろう。

一応戦後も配給制は存続していたが、そんなもので足りるはずもなく、全国各地の焼け跡に闇市が出現し、都市部の住民は着物などの持ち物を農村に持ち込んで作物と交換していたし、東京では不忍池や国会議事堂前にまで畑が作られていた。

そして、その畑から作物を盗む者も現れるようになる。

だが、そんな食糧危機の時代に食べ物を盗んだら、ただじゃすまない。

捕まったら最低数百発は殴られる。グーどころか棒で。

冗談抜きに殺された例もある。

人心は荒廃していて、食べ物の恨みは現代とは比べものにならないほど深かった。

現代みたく怒られて終わりだったり、「腹が減ってたのか。かわいそうに」なんて同情されるような甘っちょろい時代じゃない。

何より畑の主も次から次に現れる畑荒らしに、神経をとがらせていた。

1946年、栃木県宇都宮市西原で馬鈴薯を栽培していた農民の菊池太平(当時46歳)もその一人だ。

馬鈴薯は闇市の人気商品で、高値で取引されていたために、畑荒らしにも人気の作物。

腹も満たせるし、懐も温めることができるために、よく狙われていた。

菊池の馬鈴薯畑もご多分にもれず被害に遭っており、これまで丹精込めて作った作物を畑荒らしにしょっちゅう盗まれて、気が立っていたらしい。

同年5月、そんな男の畑から馬鈴薯を失敬しようと忍び込んでしまった者がいた。

木村千枝子という、何と20歳の女である。

しかも木村は、この一週間後に婚礼を控えていた。

そんな身の上の女がこんなことに手を染めるんだから、いかにこの時期の日本が食糧難にあえいでいたか、わかるであろう。

とはいえ、彼女が盗もうとした馬鈴薯は20キロ近くの量であり、なかなか大胆である。

だが、彼女は盗みに入る畑を間違えた。

この畑は立て続けの被害に怒り狂い、危険な状態となっていた菊池の畑だったのだ。

そして、より不幸なことに菊池に犯行を目撃されて、捕まってしまった。

「このデレ助が!!」

女だろうが容赦はしない。

これが初めてだったとかも関係がない。

誰の畑を荒らしたかわからせてやる。

菊池のこれまでの積もり積もった怒りが、すべて20歳の女ドロボーに向く。

木村は家に連れ込まれ、その夜、拷問に近い仕置きを受けた。

翌日になっても許してもらえない。

縄で縛り上げられた木村は、電信柱に括り付けられた。

近くには立札が立てられ、そこには『社会の害虫、野荒し常習犯』と書かれている。

痛めつけられただけではなく、さらし者にされたのだ。

だが、これはさすがにやりすぎだった。

見物人の中に通報した者がいて、菊池は過剰防衛で逮捕されてしまった。当たり前だ。

もっとも、ボコられて生き恥をさらされた木村も窃盗罪で捕まったが。

怖い時代だ。

昭和30年代の日本も貧しかったが、餓死者出るほどじゃなかったはずだからまだ人情味が入り込む余地があったが、戦後くらい貧しいと人間は、ここまで心がささくれ立つということだ。

「現代に生まれてよかった」と思うかもしれないが、日本でこのような食糧危機は、もう起こらないとは限らないのではないだろうか。

少なくともこの時代は農民も多かったし、食糧自給率は輸入に多くを頼っている現代の日本より、ずっと高かったのだ。

日本の経済力がさらに低下して、外国から安い食料が買えなくなったら…。

全く考えられない悪夢ではないはずだ。

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エチオピア軍の朝鮮戦争 ~エチオピア最強部隊・カグニュー大隊~


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1950年6月25日、朝鮮半島の南北統一をもくろむ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が事実上の国境となっていた38度線を超えて南の大韓民国(韓国)に侵攻。

1953年7月27日まで丸々三年続くことになる朝鮮戦争が始まった。

6月27日に開催された国連安保理では、この北朝鮮の南侵を侵略と認定。

7月7日、北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国防衛のため、加盟国にその軍事力と支援を提供するよう求め、アメリカを中心とする国連軍の出動が決定された。

この国連軍には、北朝鮮の後ろ盾であり言わずと知れた黒幕のソ連や中国(この当時は国連に加盟していなかった)はもちろん参加しておらず、アメリカをはじめとする西側陣営の諸国が中心となった16か国で構成されていたが、その中には、遠くアフリカ大陸から参戦したエチオピア軍も加わっていた。

規模ではアメリカ軍32万人に遠く及ばない1200人程度の大隊の派遣であり、アメリカ軍の指揮下での戦闘参加である。

しかし、ただ国連軍に名を連ねていただけの影の薄い存在では、決してなかった。

なぜならその“カグニュー大隊”と呼ばれたエチオピア軍は、北朝鮮軍や中国軍(抗美援朝義勇軍)と戦闘で、対等以上に渡り合ったからである。

カグニュー大隊の派遣

当時エチオピアを統治していたエチオピア帝国皇帝のハイレ・セラシエは、国連の要請を受けると部隊の派兵を快諾した。

第二次大戦中イタリア軍に自国を侵略されたハイレ・セラシエは、集団安全保障という考え方の信奉者であったからである。

そして、派遣される部隊は主に皇帝直属の親衛隊から選ばれた大隊規模で、指揮官や将校も第二次世界大戦を経験した筋金入りで組織された。

その大隊は、ハイレ・セラシエ皇帝の父で19世紀末に起きた第一次エチオピア戦争の英雄でもあるラス・マコネンの乗馬の名にちなんで、“カグニュー”大隊と呼ばれるようになる。

カグニュー大隊は、派遣前に朝鮮半島の地形に似た山岳地帯で八か月の訓練を受けると、買開戦翌年の1951年4月12日に、当時フランスの植民地だった隣国のジプチから、第一陣1122名が海路極東に向けて出発。

5月6日、釜山に到着すると米国製の装備を受け取って、さらに六週間にわたる訓練を受けてから米軍第7歩兵師団の指揮下に加わり、共産軍との一進一退の攻防が続く38度線近くの最前線に配置された。

カグニュー大隊の戦闘

カグニュー大隊は1951年8月12日、現在の韓国江原道華川群の赤根山での作戦を皮切りに、米軍の下で共産軍相手の戦闘を開始した。

それから間もない10月の三角丘の戦い(鐵原郡)において、夜間戦闘で目覚ましい働きにより頭角を現し、米軍将兵を瞠目させるようになる。

それもそのはず、彼らはエチオピア軍の最精鋭部隊である皇帝の親衛隊隊員。

エチオピア国内において卓越した頭脳、精神力、肉体を有した者の中から選抜された本物の戦士たちだったからだ。

そんな“男の中の男”たちで構成されたカグニュー大隊の戦場でのモットーは“勝利か死か”。

米軍から貸与されたM1ガーランドやM1カービンを使いこなし、500メートル以内での命中率は抜群で、迫りくる共産軍の兵士を片っ端から射殺。

白兵戦も上等で、人数にモノを言わせて雲霞のごとく押し寄せてくる中国軍にも銃剣で立ち向かって返り討ちにしたのだ。

朝鮮戦争の休戦まで同大隊は三回入れ替わったが、その間 “鉄の三角地”での戦いや1953年の“ポークチョップヒル”の戦いまで激戦を戦い抜き、どの戦闘でも共産軍相手に後退することはなかった。

1953年5月の戦いでは、共産軍の一個大隊を壊滅させ、大韓民国政府から勲章を授与される栄誉に浴する。

そして、1953年の7月27日に休戦協定が結ばれるまで、戦場に留まり続けた。

カグニュー大隊は、この戦争で延べ6037人が派遣され121人の戦死者と536人の戦傷者を出したが、特筆すべきは、共産軍の捕虜になった者が一人もいなかったことである。

また、戦死者の死体を戦場に置き去りには、決してしなかったという。

この勇敢さと戦闘力を、指揮下に置いていた米軍も、大いに認めていた。

米国はこの戦争で「敵対する武装勢力との交戦において勇敢さを示した」兵士に対して授与される最高の勲章、シルバースターを9個、それに次ぐ「作戦において英雄的、かつ名誉ある奉仕を行い、成果を挙げた」兵士に授与されるブロンズスターメダルを18個、エチオピアの戦士たちに贈ったのだ。

シルバースターは、本来自国の兵隊である米兵にしか授与されないものなので、いかに彼らの評価が高かったかが分かるであろう。

戦後

休戦後もエチオピアからの派兵は続き、国連軍の一部として第4、第5カグニュー大隊が入れ替わりで韓国内に駐留した。

余談ではあるが、ローマと東京オリンピックのマラソンで二大会連続金メダルを獲得したアベベ・ビキラは、皇帝親衛隊出身でカグニュー大隊の一員として朝鮮に派遣されおり、釜山到着後休戦になったため、駐留軍に加わることもなく帰国している。

このように、朝鮮半島で命をかけて戦った彼らだが、その功労に報いるべきエチオピア帝国は、長く続かなかった。

皇帝のハイレ・セラシエは外交では、活躍したが内政では失政が続いたために国内では不満が溜まり、1974年のエチオピア革命で廃位された上に翌年殺害されてしまい、帝国が滅んだからだ。

エチオピアの新たな支配者となったメンギスツ率いる社会主義軍事政権は当然、前政権で特権的地位にあった皇帝の親衛隊隊員たちを快く思うはずがない。

その後の人生を手厚く保証されるはずだった元隊員たちの多くが殺されないまでも冷遇され、みじめな境遇に落ちぶれることになってしまった。

だが、その一方で韓国は彼らへの感謝の念を忘れていなかった。

第二次大戦前における日本の所業を捏造してまで追求し、ベトナム戦争時での自国軍の戦争犯罪には知らんぷりするが、国家存亡の危機にアフリカからはるばる救いの手を差し伸べたエチオピアに対しては違ったのだ。

カグニュー大隊の記念碑や記念館を建立し、1996年にはカグニュー大隊の生き残りの兵士たちへの給付金の支給を決定。

多くが貧困に落ちぶれた元隊員の子弟たちの中でも成績の優秀な青年を学費免除で韓国に留学させたりするなど、目に見える形で報いようとしているのだ。

朝鮮戦争が休戦になってから、60数年となった現代。

かつてはるか遠くの朝鮮半島で戦ったカグニュー大隊の隊員たちは老境に達し、200人余りとなった彼らは時々戦友たちと旧交を温めながら故国で余生を送っている。

そのうちの一人はこう語った。

「皇帝陛下の御命令は、“韓国の自由と平和を守れ”だった。しかし一つ目の“自由”は守ったが、二つ目の“平和”は守れなかった。あの戦争は休戦したのであって終戦ではなく、未だに韓国と北朝鮮に分かれて緊張状態が続いているからだ。せめて死ぬ前に統一された朝鮮を見たい」

出典元-百度百科、ウィキペディア英語版

わかりやすい朝鮮戦争 民族を分断させた悲劇の構図 (光人社NF文庫)

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ゴア併合 ~1961年・印ポ小戦争~


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1961年12月18日、1510年以来ポルトガル領となっていたインド西海岸のゴアにインド軍が侵攻。

陸海空3万人以上による攻撃で駐留するポルトガル植民地軍を圧倒して降伏させ、力づくで451年続いたポルトガル統治にピリオドを打ち自国の領土に編入した。

当事国であるインドはこの軍事行動をヴィジャエ(勝利)作戦と称して自国の領土を奪還した正当な措置と主張し、もう一方のポルトガルはゴア侵略(Invasão de Goa)と呼んで反発。

このインドの武力行使については国際的に賛否両論が巻き起こり、両国はそれ以来1974年まで断交状態が続いた。

前史

ゴアは1510年、ポルトガル人アフォンソ・デ・アルブケルケに占領されて以来、400年以上にわたってポルトガルに支配され、他にもダマン(正式併合1539年)、ディーウ(1535年併合)が英国から独立した1947年の時点でもポルトガル領インドとして存在していた。

当時のこの三か所のポルトガル領インドの総面積は約4000平方キロ、総人口は637591人。

そのうち61%がヒンズー教徒で、ポルトガルの植民地であった影響で36.7%がキリスト教徒(もちろんカトリック)、イスラム教徒は2.2%のみであった。

すでに大航海時代の黄金期ははるか昔の話となり、主要な産業は農業であったが、1940年代から鉄やマンガンが採掘されるようになって砿業が盛んになりつつあった。

しかし第二次世界大戦前、英国の植民地であったインド本土が独立運動を展開していたのと同様に、ゴアにおいてもポルトガルの統治に反対する動きが起こっていた。

T.B.クーニャ

その先駆者となったのはフランスで教育を受けたゴアのエンジニア、T.B.クーニャであり、1928年ゴア会議派委員会を創設し、ゴアのポルトガルからの解放を呼びかけた。

同時期、英国に対して独立運動を行っていた本土のインド人の指導者たちラージェーンドラ・プラサードやジャワハルラール・ネルー、スバス・チャンドラ・ボースなどもこのゴア会議派委員会に賛同する意思を表明。

1938年にはクーニャらは当時インド国民会議派議長だったスバス・チャンドラ・ボースと会見し、ボースの提案の下、ムンバイにゴア会議派委員会の支部が設けられてクーニャが議長となった。

そして第二次世界大戦を経た1947年、英国から独立したインドはポルトガルにも自国の領土の返還を要求する。

だが、当時独裁政治を行っていたアントニオ・サラザール率いるポルトガル政府は植民地帝国としての権威にしがみつき、これを拒否した。

植民地を有することによってかろうじて大国としてのメンツを守っていたポルトガルは、ゴアの独立が他の植民地での独立闘争に波及することで植民地帝国が崩壊することを恐れていたのだ。

アントニオ・サラザール

そしてゴアの植民地当局は公共の場所での集会を禁止し、解放運動の参加者を逮捕するなど力で抑え込む措置に出た。

これに対し、ゴア人たちの植民地政府への抗議行動は主にガンジー式の非暴力によるものであったが、ゴア自由党やゴア統一戦線のように武装蜂起する集団も出現するようになる。

これらの武装集団の構成員はゴア以外のインド人が大部分で、第二次大戦中は英印軍に参加して実戦を経験していた者が多かったため、大戦中は中立を守っていたポルトガルの植民地軍を大いに苦しめた。

インド政府もゴア自由党などの武装抵抗組織に武器を援助したり、インド領内での活動を認めたばかりか、ゴアへの道路や水道、電話線を封鎖。

ポルトガル植民地政府に圧力を加え始めた。

ゴアをめぐるインド-ポルトガルの外交交渉

1950年2月27日、インド政府は改めてポルトガル政府にゴアを含めた他のポルトガル領インドの今後についての話し合いを要求したが、ポルトガルはインド亜大陸における領土は植民地ではなくポルトガル本土であるという姿勢を崩さず、話し合いを拒否。

同時に、それらの地がポルトガル領に編入された時にインド共和国は存在しなかったことを理由に、インドに帰属すべき歴史的な根拠がないと主張した。

ポルトガルは1949年に北大西洋条約機構(NATO)に加盟しており、これも強気の背景となっていた。

この政府間軍事同盟は加盟国の域内が攻撃された場合に、集団的自衛権を行使し共同で対処することができるからだ。

ポルトガルの強硬な態度にインドも対抗措置として1953年6月11日リスボンから外交使節を引き上げさせた。

1954年になるとインドはポルトガルへの嫌がらせをよりグレードアップさせる。

ゴアの住民のインド本土入境にビザの申請を義務付けたのだ。

これによりゴア以外のポルトガル領であるダマンやディーウとの相互の往来にも支障をきたすようになった。

同年7月22日から8月2日の間には武装集団がゴアとは別のポルトガル領インドであるダドラとナガル・ハヴェーリーのポルトガル軍守備隊を攻撃するなどゲリラ攻撃も続く。

そして翌年の1955年8月15日、事件が勃発する。

この日非武装のインド人活動家3000から5000人が抗議活動のため六ケ所からゴアに侵入しようとしていたのだが、それをポルトガル当局が武力で制圧したため30人ほどの死者を出す大惨事となったのだ。

この事態は本土のインド人の反ポルトガル感情を激化させ、同年9月1日にインド政府はゴアの領事館を閉鎖、武装抵抗組織を支援するだけでなく軍による武力行使をもちらつかせるようになった。

一方のポルトガル政府内ではゴアの帰趨を現地の住民投票により決める案も検討されたが同国の国防相や外相の反対により立ち消えとなる。

また、英国による調停や国連の介入を要請するなど外交チャンネルを通じた解決を模索。

その結果駐インド米国大使がインド政府に平和的な解決を要求するなど国際的にも関心が高まってきてはいたが、当時インドとは友好的な関係だった中華人民共和国などは当然のごとくインドを支持する声明を発表。

インドの国防相と国連大使は「武力解決も辞さじ」ともとれるような声明を出し、強硬な態度をエスカレートさせていた。

そして1961年11月24日、決定的な事態が発生する。

インドの客船サバルマティ号がポルトガル領アンジェディバ島の付近でポルトガル軍から銃撃を受けて2名の死傷者を出したのだ。

ポルトガル側は同船が自国領であるアンジェディバ島を攻撃するための武装集団を乗せていると疑ったためだったが、完全にインド側に軍事行動を起こさせる口実を与えてしまった。

インド首相ジャワハルラール・ネルー

12月10日、ポルトガルへの軍事行動を支持する世論に背を押されたインド首相のネルーはメディアに「ゴアがこれからもポルトガルの統治下に置かれ続けることはあり得ない」と最後通告ともとれる発言を行う。

米国はこれが国連安保理に侵略行為として提出されたら今後いかなる支援もしないとインドに警告したが、武力衝突は秒読みとなっていった。

インド軍の侵攻準備

ゴア奪還のためにインド政府は陸海空3万人以上の部隊を編成していた。

むろんサバルマティ号が銃撃されるずっと以前からであったことは言うまでもない。

まず陸軍が南部軍管区の歩兵第17師団と第50空挺旅団が中心となり、飛び地のダマン攻撃にはマラーティー軽歩兵大隊、ディーウ攻撃にはラージプート第20大隊とマドラス第4大隊が割り当てられていた。

空軍も航空支援に当たることになり、インド西部軍管区空軍司令官の指揮の下、20機のキャンベラ爆撃機や6機のバンパイア戦闘機をはじめとした計42機がポルトガル側の空軍基地攻撃を行う。

インド海軍はラージプート級駆逐艦のラージプート、ククリ級フリゲート艦のキンパルをはじめ巡洋艦2隻、駆逐艦1隻、フリゲート艦8隻、掃海艇4隻の堂々たる陣容で、これに加えて介入を試みる第三国ににらみを利かせる目的も兼ねて軽空母のヴィクラント(初代。現在同名のインド軍空母は二代目)までが参加することになった。

ちなみにこのヴィクラントは後の第三次印パ戦争でパキスタン軍相手に機動戦を行うなどの大暴れをすることになる。

インド海軍軽空母ヴィクラント

ポルトガル軍の迎撃準備

12月14日、インド軍の侵攻を予期していたポルトガルの独裁者サラザール首相はゴアの総督兼現地ポルトガル軍の最高司令官マヌエル・アントニオ・ヴァッサロ・エ・シルバに断固死守を厳命する。

ゴア総督マヌエル・アントニオ・ヴァッサロ・エ・シルバ

そうは言っても、陸海空至れり尽くせりで準備万端のインド軍に対し現地のポルトガル軍は兵力でも装備でも劣り、約3300人のヨーロッパ系の兵士と900人の現地人兵、他に約2000人の警官が動員できる全てであり、なおかつ訓練が不足していた。

艦艇もフリゲート艦1隻と巡視艇3隻、その他徴用した商船しかなく、それをゴア、ダマン及びディーウの防衛に振り分けなければならないなど明らかな劣勢であった。

そしてポルトガル軍の戦術はモーミューガオ港を死守することで、インド軍の侵攻を遅らせるために開戦と同時に橋梁を爆破し、幹線道路に地雷を埋設する手はずだったが、必要な地雷も爆薬も不足していた。

インド軍は事前にポルトガル軍がF86セイバー戦闘機を有した飛行中隊を有していると考えていたが、実際には輸送機が2機と2個高射砲中隊を保有するに過ぎず、彼我の戦力差は陸海空いずれも絶望的ですらあった。

増援をしようにも軍需物資を積んだ輸送機の領空通過を周辺国に拒否されたばかりか、同じ北大西洋条約機構加盟国であり身内であるはずの英国にまで支援を断られ、事実上ゴアは孤立無援となっていた。

開戦前の時点でポルトガルは敗北していたのだ。

12月9日、ゴアに立ち寄ったポルトガルのリスボン行きの船によるポルトガル系の民間人の本国への退避が始まったが、これはゴア総督ヴァッサロ・エ・シルバの独断での退避許可であって、何とポルトガル本国の政府は民間人の退避を認めないように総督に命令していた。

この民間人の避難は一回で終えることはできず、インド軍の空襲が始まるまで続けられることになる。

ヴィジャエ(勝利)作戦の開始

12月1日からインドはゴアへの小規模な偵察を行い、12月18日、海上でゴア攻撃の火ぶたが切られた。

同日午前4時、ポルトガル海軍の巡視艇ベガがディーウ付近の海域でインド海軍の巡洋艦ニューデリーに遭遇、攻撃を受けて基地に撤退。

これが事実上のインド軍によるゴア武力奪還作戦・ヴィジャエ(勝利)作戦の始まりだったが、この期に及んでもポルトガル側には開戦したという認識はなかったようだ。

インド軍の空襲

キャンベラ爆撃機

ポルトガル海軍の巡視艇が攻撃された同日の12月18日、インド軍空軍の爆撃が始まり、本格的な武力衝突の火ぶたが切って落とされた。

12機のインド空軍の英国製キャンベラ爆撃機がまず攻撃したのはゴアの空の玄関口ダボリム飛行場。

爆撃で滑走路を破壊すると、その1時間後には8機のキャンベラ爆撃機が再度空襲を行ってポルトガル空軍の輸送機を1機破壊した。

インド空軍は無線局にも攻撃を行い、この時ようやくポルトガル軍の高射砲が迎撃を始めたがもはや効果的な反撃はできそうになく、数時間後にはダマンやディーウも航空攻撃を受けることになる。

海上での戦い

インド海軍軽巡洋艦マイソール

18日14時25分には飛び地のアンジェディバ島にインド海軍の陸戦隊が上陸してポルトガルの守備隊と交戦。

一旦インド軍は撃退されたが、その後海軍の軽巡洋艦マイソールやフリゲート艦トリシュルによる艦砲射撃が島に加えられ、翌19日の14時にポルトガル軍は降伏した。

この地での戦闘ではインド側に7人の戦死者と19人の負傷者が出た。

ゴア本土のモーミューガオ港では小規模な海戦も起こる。

同港に立ちはだかるポルトガルのフリゲート艦アフォンソは、フリゲート艦ベトワをはじめとした3隻のインド艦艇相手に400発近くの砲弾を発射するなど奮戦。

しかし衆寡敵せず、艦橋を破壊されるなどの深刻なダメージを受けたために艦の放棄の命令が下され、乗組員によって座礁させられた。

フリゲート艦アフォンソ

ゴアでの地上作戦

18日早朝、インド軍第50空挺旅団が三つに分かれて侵攻を開始した。

東を進むのは第2マラーティ空挺連隊でポーンダーからゴアの中心に侵入。

中央は第1パンジャブ空挺連隊であり、バナスタリムに向けて進撃。

西へは第2シーク軽歩兵連隊が進み、朝6時30分インドとゴアの境界線を越えて侵入。

抵抗らしい抵抗も受けずにポルトガル領ゴアの中心地パナジに迫ったが、次の命令を待つために手前500メートルで停止する。

翌19日7時30分、改めて攻撃の命令を受けて二個中隊がパナジに侵攻したがまたも抵抗を受けることなく占領に成功、現地の住民から解放軍として迎えられた。

北部と東北方面戦線

18日、北部ではインド第63歩兵旅団が左右二つの縦隊に分かれてゴアに侵攻、右の縦隊は第2ビハール連隊、左の縦隊は第3シーク連隊で構成されていた。

両連隊とも抵抗を受けることなく進撃したが、河川に架かる橋をポルトガル軍に破壊されていたので遅滞を余儀なくされる。

しかし翌日、胸まで水につかりながら第3シーク連隊は河川を強行突破して同日正午にはゴアの行政の中心であるマーガオに到達。

そこからゴアの主要港のモーミューガオ港に向かったが、途中でポルトガル軍の強烈な反撃に遭遇する。

しかしこの頑強なポルトガル軍(約500名)も後から加わったインド軍の第2ビハール連隊の火力に押されて劣勢となり、最終的には降伏した。

そのマーガオ以南の地域ではインド軍の第4ラージプート中隊のように地雷原に誘い込まれた部隊もあったが、最重要防御地域であるために激戦が予想されたモーミューガオ港への進撃は同港を守るポルトガル軍が一発も発砲することなく降伏したことで幕を閉じる。

19日20時30分、ゴアでの戦闘は終わった。

ダマン攻撃

18日払暁、ゴアよりはるか北方のアラビア海に面した飛び地であるダマンを攻撃したのはインド軍のマラーティ第1軽歩兵連隊である。

17時までにマラーティ第1軽歩兵連隊はほぼ無血でダマンの大部分を占拠。

600名のポルトガル軍守備隊は戦意を喪失して飛行場に逃げ込んだが、翌日そこを包囲されると投降した。

ディーウ攻撃

同じく18日の早朝ダマン西方のディーウにインド軍第20ラージプート大隊の二個中隊が西北方向から侵入した。

しかしダマンと異なり、この地を守るポルトガル軍は戦意旺盛で死に物狂いの抵抗を見せたために進撃が阻まれる。

インド軍も航空機による支援爆撃などで対抗したが戦闘は続いた。

翌日まで徹底抗戦を続けたポルトガル軍だったが弾薬が底をついたため、降伏を余儀なくされた。

このディーウでの戦闘でインド軍は4人が戦死して14人が負傷、ポルトガル軍は10人が戦死して2人が負傷していた。

19日午後にはディーウ近くの沖に浮かぶ島パニー・コータもインド軍マドラス大隊に占拠された。

ポルトガルの降伏

19日の夜までにゴアの大部分はインド軍に占領され、残りはゴア西海岸の都市ヴァスコ・ダ・ガマに2000人余りのポルトガル軍兵士が立てこもっているに過ぎなかった。

だが、この期に及んでもポルトガル本国の命令は強気かつ非情で、それは「ゴアを破壊しつくせ」という焦土作戦の実行だった。

ポルトガル総督ヴァッサロ・エ・シルバが「インド軍は自軍の数倍以上で弾薬も食料も欠乏している」と本国に実情を報告したにもかかわらずである。

22時30分、万策尽きたと判断した総督は本国の指令に反して降伏を選択。

総督自らが降伏文書に署名してポルトガルの451年にわたるゴア統治は幕を下ろした。

この軍事行動でのインド側の戦死者は22人、ポルトガル側は30人であったが、もし総督が本国の命令に忠実であったならばより多くの犠牲が出ていたことは間違いない。

降伏後ゴアを離れるアフリカ系ポルトガル軍兵士

その後

降伏した4668名のポルトガル兵は捕虜となったが、翌1962年5月にその大部分は釈放された。

だが、独断で降伏を選んだゴア総督ヴァッサロ・エ・シルバは帰国後に軍法会議にかけられ、マデイラ諸島に流されてしまった。

まごうことなき敗戦であり、この事実はポルトガル国民を打ちのめした。

その年のクリスマスは異様に沈んだムードの下迎えられ、あたかも国中が喪に服しているようだったという。

ポルトガル政府はこのインド軍によるゴア併合を侵略と非難、インドとの外交関係を断交したばかりか、その後ラジオ放送を通じてゴア市民にインドへの抵抗を呼び掛けることすらした。

何ら支援しなかったとはいえポルトガルを支持する米国、英国も国連で非難決議案を出したが、ソ連に拒否権を発動されてしまった。

開戦前からインド寄りだった中華人民共和国(この当時は台湾の中華民国が常任理事国だった)もこの軍事行動を支持したが、この翌年にインドと国境紛争を起こすことになる。

ポルトガルがインドとの外交関係を復活させたのは、1974年に起きたカーネーション革命以後のことである。

サラザール亡き後の独裁政権を倒したポルトガル新政権は侵略されたとしてきたゴアをはじめとした旧自国領のインドの主権を認め、外交関係を修復させたのだ。

ちなみに犠牲を最小限に抑えたが、前政権に背いた決断をしたために流刑に処された元ゴア総督のヴァッサロ・エ・シルバも名誉を回復、1985年に天寿を全うした。

現在のゴアはパナジを首府とするゴア州となり、観光業を主産業に鉱業も盛んなインドでも裕福な州の一つとなった。

インドに復帰してすでに半世紀となったが、ポルトガル時代のキリスト教建築とわずかになったポルトガル語話者が植民地時代をしのばせている。

出典元―ウィキペディア&百度百科

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ラテンアメリカ諸国の第二次世界大戦


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人類史上最大の戦争、第二次世界大戦。

当時の独立国の61か国のほとんどが参戦し、主に米国、ソ連、イギリス、フランス、オランダ、中華民国などの連合国側と、ドイツ、日本、イタリアなどの枢軸国側が1939年から1945年まで世界中で総力戦を戦った。

主な戦場となったのは欧州や北アフリカ、太平洋やアジア全域であったが、インド洋や中東も戦場となり、さらには大西洋、カリブ海でも連合国と枢軸国の戦闘が行われた。

むろんカリブ海真っ只中や南太西洋に面して位置するラテンアメリカ諸国も好むと好まざるとにかかわらず、それぞれの思惑を抱えながらも戦争に関わり、結果として大部分の地域で経済的、政治的、軍事的に多大な影響を受けた一大転換点となった。

米国の対ラテンアメリカ諸国政策

当初ラテンアメリカ諸国は中立を保とうとしていたが、参戦国、特にその地域を自国の裏庭とみなしていた連合国側の米国はそれを許さず、硬軟織り交ぜて自らの陣営に引き込む政策をとった。

それはまずメディアを使ったプロパガンダ戦略による干渉から始まる。

1940年、米国の名門ロックフェラー一族出身で、のちに副大統領となるネルソン・ロックフェラーはフランクリン・D・ルーズベルト大統領にラテンアメリカにおけるナチスの影響力に対する懸念を表明する。

開戦初頭は枢軸国優勢で、ラテンアメリカ諸国の独裁者や政治団体の中にはファシズムを支持する風潮が存在したためだ。

米州問題調整官時代のネルソン・ロックフェラー

それを受けてルーズベルト大統領はロックフェラーを米州問題調整局(OCIAA)の新しい米州問題調整官(CIAA)に任命。
彼はCBSラジオネットワークのエドモンド・A・チェスターと協力して、マスメディアを使って西半球の国々との間の関係を強化し、ナチスの影響力の排除を図るようになる。

ロックフェラーは当時最新鋭のメディアであったラジオ放送や映画を使い、反ファシストのプロパガンダをラテンアメリカ全土で行った。

このプロパガンダ戦は結果的に連合国側の圧勝となる。

こうしたプロパガンダは米国の圧力を伴った影響を直接受けていたメキシコなどでは反発を招いたが、メキシコは戦争において貴重な味方となり、米国在住の25万人のメキシコ人が米国軍に入隊。
また、アステカ・イーグルス(アギラス・アステカ)として知られる志願兵300人からなる飛行隊を太平洋の対日戦線に派遣した。

アステカ・イーグルス

こうしたラテンアメリカ諸国を連合国陣営に引き入れる政策は、ドイツの影響力を容認するアルゼンチンを除いて政治的に大成功となったのだ。

プロパガンダ以外にも、経済支援と開発のために多額の金額も割り当てられた。

更に1941年3月22日、米国政府はラテンアメリカ諸国を含めた連合国に対して軍事基地と西半球防衛への参加と引き換えに、軍需品やその他の援助を行うためのレンドリース法を制定。

当然、戦争の混乱真っただ中のイギリスやヨーロッパ諸国とその植民地が援助の大半を受け取ったが、ラテンアメリカ諸国も約4億ドルの軍需物資を得た。

ラテンアメリカ諸国の中でもブラジルは南米大陸の北東に国土を有し、主戦場の一つの北アフリカから近いという戦略的に重要な地点であった地理的関係から、米国との間で融資と軍事援助を提供するという条約が締結され、軍需物資を送るための拠点を米国に提供し、同時に枢軸国からの通商破壊の脅威を受けやすいことが予想されたためラテンアメリカ諸国への支援の四分の三を受け取る。

その後、ブラジルはヨーロッパ戦線に部隊を派遣した唯一のラテンアメリカの国となり、同国の海軍は大西洋の対潜水艦作戦でも重要な役割を果たすことになる。

イタリア戦線でのブラジル軍

キューバもカリブ海や南大西洋でドイツのUボートや巡洋艦との小規模な戦闘を行うなど米国に協力。

他にエクアドルはガラパゴスの空軍基地の建設と引き換えに、コロンビアとドミニカ共和国の両国はパナマ運河とカリブ海のシーレーン防衛への参加と引き換えに軍隊を近代化するためのレンドリースの恩恵を受けた。

一方、レンドリースはラテンアメリカ諸国間のパワーバランスを変え、「古いライバル関係を再燃させた」面もあったようだ。

ペルーとエクアドルのように世界大戦真っただ中の1941年に世界情勢そっちのけで戦争を行うなど、ラテンアメリカ諸国は一枚岩ではなかったのだ。

他にも、チリは枢軸国軍の攻撃ではなくボリビアとペルーがレンドリースによって得た兵器を使って、自国が19世紀の戦争で両国から勝ち取った領土を取り戻そうとすることを懸念していたし、アルゼンチンは以前からのライバル国ブラジルが米国の兵器をレンドリースによって得ていたために脅威を感じていた。

また、米国は戦争継続のための軍需物資獲得のためにも手を打った。

ラテンアメリカ諸国は特定の製品や資源を高めの価格で輸出することができるようにはなったが、1941年12月7日の日本の真珠湾攻撃の後、ラテンアメリカの大部分の国は枢軸国との国交を断絶あるいは宣戦布告したため、多くの国(ドミニカ共和国、メキシコ、チリ、ペルー、アルゼンチン、ベネズエラなど)は貿易を米国一国に依存する結果となる。

この戦時需要によってラテンアメリカでは消費財などが不足する問題が発生。

物資もそれを運ぶ船舶も軍需品を米国に供給することが優先されたため、燃料も食料も価格が高騰するなどのインフレも起こった。

とはいえラテンアメリカ諸国のほとんどは米国の側に立つことで援助を受けるなど、戦争を有利に利用した側面もあったようだ。

米国に戦略的に重要とみなされなかったペルーのようにさほど恩恵を受けなかった国もあったが、パナマは船の交通量の増大によって経済が活性化、プエルトリコではアルコール産業が活況を呈し、石油資源が豊富なメキシコとベネズエラは石油価格上昇の恩恵を受けた。

メキシコはこの機に乗じて、米国やヨーロッパの石油会社と有利な条件での契約を迫ったりもした。

第二次世界大戦は良しくも悪しくも大規模な近代化と大きな経済的後押しを参加したラテンアメリカ諸国にもたらしたのだ。

ラテンアメリカ諸国での枢軸側の活動

戦前のナチスは様々なラテンアメリカ諸国との経済関係が平等であることを保証するため、厳格な二国間貿易協定を通じて経済的浸透を拡大。

ブラジル、メキシコ、グアテマラ、コスタリカ、ドミニカ共和国はいずれもドイツと貿易協定を結んでいた。

例えばブラジルのドイツとの貿易は、ヒトラーが政権を握った1933年から戦争が始まる前年の1938年の間に倍増。
しかし、1939年9月の開戦によって枢軸国の船舶は商業目的で大西洋を横断することができなくなり、ラテンアメリカとドイツ・イタリア間の貿易は停止してしまう。

一部のラテンアメリカの国は打撃を受け、その代替の貿易相手国は米国のみとなった。

第二次世界大戦の初頭、ドイツ系やイタリア系移民が多く、その影響力も大きかったために枢軸国寄りだったアルゼンチンやチリはもちろん、ラテンアメリカ諸国には強力な一体感と目的感を国民にもたらすファシズムに感銘を受けた独裁者や政治団体も存在した。

例えばドミニカ共和国のラファエル・トルヒーヨ大統領はヒトラーのスタイルと軍国主義的な集会を賞賛し、グアテマラとエルサルバドルの独裁者も同様の見解を持っていたようだ。

ブラジルの政治団体であったブラジル統合主義運動はムッソリーニの崇拝者だった。

ブラジル統合主義運動

それを最大限活用しようと枢軸国のスパイ活動やプロパガンダ活動が行われるようになる。

枢軸国の移民も多かったことから、スパイ活動はさほど困難ではなかった。

例えばコロンビアには1941年の時点で約4,000人のドイツ人移民がおり、多くは航空輸送業界に関わっていたため、米国は彼らがスパイ活動に従事しているか、パナマ運河に対する攻撃のために民間航空機を爆撃機に改装する計画を立てていることを懸念していた。その結果、米国政府はコロンビアに移民の監視と抑留を迫ったり、場合によっては米国に引き渡すよう圧力をかけた。

他のラテンアメリカ諸国でも同様だったが、メキシコとブラジルは枢軸国のスパイ活動の封じ込めについて米国に協力的だった。

一方、チリとアルゼンチンは枢軸国のエージェントの活動を許していたため、米国との不和の原因となった。

ドイツはラテンアメリカの主要国のすべてでスパイネットワークを運営しており、アルゼンチンを舞台にコードネーム『ボリバル作戦』と称し、中立国のスペインの船まで使った諜報活動を行っていた。

アルゼンチンやチリは1944年初頭にようやく自国で活動する枢軸側のエージェントを取り締まったが、ドイツ側の活動の一部は1945年5月の欧州戦線の終結まで続いた。

ソ連との関係

ドイツのソ連侵攻後、ラテンアメリカ諸国は労働組合などを通じてソ連への支援と援助を行った。

キューバは赤軍に40,000本の葉巻を送り、1942年10月に南米初の外交関係を持った。

戦争は結果的にソ連との外交的雪解けとなり、1945年までにコロンビア、チリ、アルゼンチンを含む11のラテンアメリカ諸国がモスクワとの関係を正常化した。

ユダヤ人を救ったエルサルバドル総領事

駐スイスのエルサルバドル総領事ホセ・カステラノス・コントレラスは、迫害から逃れようとしているユダヤ人にエルサルバドルのパスポートを提供して25000人を救ったが、この事実はあまり知られていない。

ホセ・カステラノス・コントレラス

出典元―ウィキペディア英語版

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ブラジルの第二次世界大戦 – ブラジルと第二次世界大戦の重要な役割


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第二次世界大戦において、ブラジルは連合国の一員として枢軸国と戦っている。

1942年半ばから終戦まで海軍と空軍が大西洋での対潜水艦戦に参加した他、ラテンアメリカの国としては唯一、ブラジル遠征軍(FEB)と呼ばれる部隊をヨーロッパのイタリア戦線に派遣しているのだ。

この遠征軍はブラジル陸軍と空軍によって編成された歩兵師団であり、交代要員も含め約25900人の兵員で構成されていた。

ブラジル遠征軍はイタリア戦線で1944年9月から1945年5月までほぼ8ヶ月の間、ドイツ軍がイタリア半島中部に設けた防衛線の一つであるゴシック・ラインで戦い、948人が戦死したが、1945年の最終攻勢でブラジル遠征軍は二人の将官を含む枢軸軍の20573人を捕虜にするなど連合軍の作戦に少なからぬ貢献をした。

対枢軸国宣戦布告前

ブラジルは第一次世界大戦において、1917年から1918年まで連合国側に加わり、主に海軍による対Uボート戦を戦ったが、第二次世界大戦においても連合国側に立って参戦することは当初予定されていなかった。

当時のブラジル連邦共和国大統領ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスは議会を解散させて、ファシズム色の濃い全体主義的な独裁政治を行っていたため、枢軸国と親和性が高かったおかげでもある。

ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス

よって、第一次世界大戦開戦時のように1939年の時点でブラジルは中立の地位を維持し、連合国と枢軸国の両方と通商を行っていた。

しかし、戦争が激しくなるつれて枢軸国との交易はほとんど不可能となる。

アメリカがブラジルの中立を許さず、連合国側に引き込むための圧力を交えた外交的、経済的攻勢を強めたからでもあった。

アメリカは南米への枢軸国の影響を最小限に抑え、大西洋での連合国側の海上輸送に対する脅威に備えようとしていたのだ。

アメリカはブラジルを自らの陣営に引き入れるための見返りも同時に用意していた。

1942年の初め、アメリカはブラジルの鉄鋼産業の形成を援助することを約束(後にブラジル最大の製鉄会社ナシオナル製鉄が誕生するきっかけとなった)。

それによりブラジルは自国内に米軍の航空基地を設置することを認める。

基地はバイーア州、ペルナンブーコ州、リオグランデ・ド・ノルテ州に設けられ、リオグランデ・ド・ノルテ州のナタール市には米海軍の哨戒飛行隊52の一部が駐留。

さらに、対日通商破壊のためのタスクフォースがブラジルで設立されて、ブラジルとアメリカの合同防衛委員会も創設され、両国の軍事関係が強化されるようになる。

この連合国との協力関係の進展により、ブラジル政府は1942年1月28日にリオで開催された汎アメリカ会議で、ドイツ、日本、イタリアとの外交関係を断ち切る決定を発表した。

しかし、手痛いしっぺ返しが待っていた。

枢軸国側に敵対行為とみなされ、1942年1月末から7月にかけてまだ正式に連合国側に加わってもいないにもかかわらず、ドイツ軍のUボートにより自国の商船が攻撃されることになったのだ。

1942年8月には2日間で5隻ものブラジル船がUボートの一隻であるU-507の攻撃で沈没し、600人以上が死亡した。

8月15日、サルバドールからレシフェに向かっていたバエペンジ号が19:12に魚雷を受け、215人の乗客と55人の乗組員が死亡。

21:03に、U-507がアララカラ号に魚雷を発射、乗っていた142人のうち、131人が死亡。

2度目の攻撃から7時間後、U-507はアニバル・ベネヴォロ号を攻撃。

83人の乗客全員が死亡し、71人の乗組員のうちの4人だけが生き残った。

8月17日、ブラジル南東部の港湾都市ヴィトーリア市沖合で、イタギバ号が10時45分に被害を受け、死者数は36人。

その後、サルバドールからサントスに向かうもう一隻のブラジル船アララ号はイタギバ号を救助しようとしたところを攻撃され、同船は20人の死者を出す。

これらの被害を目の当たりにブラジル世論は激高、開戦の機運が国内で高まった。

ヴァルガス政権は戦争を望んでいなかったが、リオデジャネイロなどの都市部では中立政策に抗議する動きがドイツ系ブラジル人への攻撃という形で現れる。

こうして世論の開戦への要求が高まったため、ブラジル政府は1942年8月22日ドイツとイタリアに宣戦布告を行った(日本への宣戦布告は1945年6月)。

翌年の1943年1月28日と29日にはリオグランデ・ド・ノルテ州のナタール市で、ヴァルガス大統領は合衆国大統領フランクリン・D・ルーズベルト大統領と会談。

後にヨーロッパ戦線に派兵されることになるブラジル遠征軍の創設が決定された。

南大西洋での戦い

ブラジル海軍駆逐艦マラニャン

第二次世界大戦に参戦したブラジル海軍の戦場は主に大西洋であった。

ブラジル海軍の主な任務は連合国の一員として、中部大西洋と南大西洋間を航行する船舶の安全を確保することであり、単独で、または連合軍と連携して614の船団を護衛。

ドイツの潜水艦との戦いで、ブラジル艦は爆雷や機雷で攻撃を行った。

ドイツ側の記録によると、ブラジル軍から合計66回の攻撃を受けたという。

ブラジル軍は少なからぬ戦果も挙げており、ブラジル沿岸ではイタリア軍の潜水艦アルキメデ、ドイツ軍のU-128、U-161、U-164、U-199、U-507、U-513、U-590、U-591、U-598、U-604、U-666の合計12隻の潜水艦を破壊。

一方のブラジルは、大戦中に枢軸国の攻撃で36隻の船が沈められて1600人近くが死亡。

その中には商船員470人と海軍兵士570人が含まれ、それ以外には事故で350人が死亡した。

ブラジル海軍自体が失った水上艦艇は三隻であったが、1944年7月20日にU-861によって撃沈された兵員輸送船のバイタル・デ・オリベイラ以外は事故によるものである。

ブラジル海軍駆逐艦マルシリオ・ジアス

ブラジル遠征軍の編成準備

ブラジルが枢軸国に宣戦布告した直後、ヨーロッパへの遠征部隊を編成するための国民動員が始まった。

しかし当時のブラジルは伝統的に孤立主義的な外交政策を取る国であり、農村での文盲率も高く、あらゆるインフラが未整備で、戦争のための物資も人材も欠いていた。

さらに、ブラジルは軍事独裁政権で、1941年まではナチスに同情的ですらあり、軍人の多くはナチスの敗北は国内の民主主義運動に拍車をかけることになると信じていたこともあって、自発的に連合国側に立つことには躊躇していたのが実際のところであった。

この政府の消極的な態度に対して、ブラジルマスコミ界の大物であるアシス・シャトーブリアンは、ラテンアメリカの志願兵で構成される遠征軍師団の創設のために、在ブラジルの合衆国政府関係者と交渉。

この部隊はシャトーブリアンが出資して、訓練はアメリカ軍が担当し、指揮はブラジルの将軍にとらせる計画だった。

しかしこれは、1943年初頭にブラジル政府によって縮小された。

参戦してから約2年後、ブラジルは正式にヨーロッパ戦線に部隊を派遣するが、そこまで派兵が遅れたのは遠征軍の規模や派遣先などの面でアメリカ政府との意見の食い違いもあったからである。

また、ブラジル政府は当初10万人規模での編成を考えていたが、その四分の一の約25000人での派遣となった。

ブラジル遠征軍の司令官はマスカレンハス・デ・モライス将軍(後の元帥)が任命され、その戦闘部隊はゼノビオ・ダ・コスタ将軍が指揮する第6連隊戦闘団に加えて、リオデジャネイロに駐屯する第1連隊戦闘団や、サン・ジョアン・デル・レイからの部隊から編成された。

約5,000人の兵士を有する各連隊戦闘団(現代の旅団に相当する規模)は3つの大隊に分けられ、大隊は4つの中隊からなり、むろんこれには後方支援のための人員や砲兵、工兵なども含まれている。

ブラジル空軍の飛行隊は、地中海方面の連合軍戦術空軍の指揮下に置かれた。

ブラジル遠征軍のイタリア上陸

1944年7月2日、先発隊として第6連隊戦闘団の5000名の兵士が米海軍の艦艇に乗ってブラジルを出発、7月16日にイタリアに到着した。

ナポリに上陸してからブラジル兵たちはアメリカ第45任務部隊に加わるために待機していたが、必要な装備や武器もなく、兵舎すらなかったため、ドックでの待機を強いられてしまう。

7月下旬に後続の部隊が到着し、1944年9月と11月、1945年2月にも増援が到着。

その中にはブラジル陸軍の山岳歩兵部隊も加わっていた。

ブラジル遠征軍はその後、イタリアでの戦場に適した装備を取得してから、アメリカ軍による訓練を受けたが、宣戦布告から2年の間にブラジル国内で行われた準備は意味がなかったことが証明されてしまった。

ブラジル軍人の間では訓練の質ではなく、実戦こそが兵士を十分に鍛えるという意識があったせいか、ブラジル陸軍を構成していたのは即戦力にならない素人同然の兵士だったのである。

しかも、ブラジル遠征軍は当時の標準的なアメリカ歩兵師団を模倣して組織されたが、医療など兵站の面での不足が判明。

後にこれも米軍によって管理されることとなる。

そうした混乱に見舞われながらも8月、ブラジル軍部隊はナポリから北へ350km離れたタルキニアに移動し、11月にはウィリス・D・クリッテンバーガー少将率いるアメリカ第4軍団に加わった。

ちなみにブラジル軍が加わった連合軍であったが、多くの人種や国籍からなる部隊の寄せ集めだった。

アメリカ軍にはアフリカ系アメリカ人の第92歩兵師団と日系アメリカ人の第442歩兵連隊が含まれ、イギリス軍にはパレスチナ人、南アフリカ人、ローデシア人をはじめ、ニュージーランド人、カナダ人、インド人、グルカ人、アフリカ人、ユダヤ人、アラブ人、亡命者の部隊(ポーランド人、ギリシャ人、チェコ人、スロバキア人)、反ファシストのイタリア人。

フランス軍にはセネガル、モロッコ人、アルジェリア人も含まれていた。

これに対し、ドイツは連合軍内部の政治的攪乱を狙ってか、特にブラジル人を標的にビラに加えてベルリンラジオから毎日1時間の毎日ラジオ放送(ポルトガル語)を行うようになった。

イタリア戦線での戦闘

ブラジル軍がアメリカ第370連隊戦闘団と連携して行った最初の任務は偵察だったが、南フランスに上陸するドラグーン作戦のためにイタリアを去ったアメリカ第6軍団とフランス遠征隊の師団が残した空白を部分的に埋めるのに役立つ活躍を見せることになる。

ブラジル軍の第6連隊戦闘団は北イタリアを進軍して9月16日にはマッサローザを、2日後にはカマイオーレや北への進路上の他の小さな町を攻略。

次いで、ブラジル遠征軍は大きな犠牲者を出すことなくセルキオ渓谷を支配下に置く。

しかし、バルガ市周辺で最初の大規模な反撃に遭遇し、10月末にブラジル第1連隊戦闘団が到着した後、ブラジル遠征軍はトスカーナとエミリア・ロマーニャの州境にある北アペニン山脈の基地に向かい、続く数ヶ月は厳冬とドイツ軍の築いた防衛ラインの一つであるゴシック・ラインからの攻撃にさらされた。

連合軍は冬の間に山を突破することができず、特にブラジル遠征軍の左側面のアメリカ第92歩兵師団はドイツとイタリア軍による猛攻で第8インド歩兵師団の支援を必要としていた。

1945年2月末から1945年3月初めにかけての春攻勢の準備期間中、ブラジル軍とアメリカ第10山岳師団は、1944年の秋から効果的な砲撃により連合軍のボローニャへの進撃を阻んできた北アペニン山脈のドイツ軍の砲撃陣地を攻略に成功する。

そして、連合軍によるイタリア戦線での最後の攻勢が4月14日に始まり、約2000発の支援砲撃の後、ブラジル軍を含むアメリカ第4軍団はモンテーゼを奪取。

連合軍の攻勢の初日、ドイツ軍はブラジル軍がM8装甲車とシャーマン戦車を使用し、モンテーゼを奇襲しようとしていると誤解し、連合軍に対して発射した約2800発の砲弾の内1800発でブラジル軍を砲撃していた。

こうして、第4軍団のドイツの防衛線突破は決定的となった。

その後の4月21日、イギリス第8軍のポーランド師団とアメリカ第5軍の第34歩兵師団がボローニャに入城。

4月25日、ブラジル軍がパルマに、アメリカ軍がモデナとジェノヴァに到着すると同時に、イタリアのパルチザンが蜂起する。

イギリス第8軍はヴェネツィアとトリエステに向かって進軍した。

そして4月26日から始まったコッレッキオの戦闘において、ブラジル軍はターロ川流域でアメリカ第92歩兵師団によって解放されたジェノヴァとラ・スペツィアの地域から後退したドイツ・イタリア軍の反撃を待ち構えた。

こうした備えによって枢軸軍はフォルノボ付近で包囲され、戦闘の後に降伏。

4月28日にドイツ軍の第148歩兵師団全員、第90軽アフリカ師団、イタリア軍の第1ベルサリエリ師団の一部を含む13000人以上がブラジル軍の捕虜になった。

これは結果的にブラジル軍の大殊勲となる。

ドイツ軍はアメリカ第5軍に反撃するために、ブラジル軍の捕虜になった第148歩兵師団をリグーリアのドイツ・イタリア軍と合流させようとしていたために思わぬ打撃となったのだ。

ドイツはすでにカゼルタで休戦交渉を行っており、降伏条件を有利に進めるためにも手痛い反撃を連合国軍に与える必要があった。

その中でも第5軍は航空支援もままならず、まとまりを欠いて進撃しており、絶好の攻撃目標であったのだ。

第148歩兵師団が丸ごと降伏したことはこれらの計画がご破算になったことを意味し、続くアドルフ・ヒトラーの死とソ連軍のベルリン攻略の知らせが追い討ちとなってイタリアのドイツ軍は無条件降伏以外の選択肢は残されていなかった。

最後の進撃でブラジル軍はトリノに到着、5月2日にスーザの国境でフランス軍と合流。同じ日、イタリアでの戦闘終結が発表された。

ブラジル空軍の活躍

一方の空軍では、ドイツに宣戦布告した翌年の1943年12月18日にネロ・モウラ中佐を指揮官とする第1戦闘飛行隊(1oGAVCA)が結成されている。

同飛行隊には48人のパイロットを含む350人の人員が所属、赤(A)、黄(B)、青(C)、緑(D)の4つの飛行小隊に分けられていた。

訓練も装備も不十分だったブラジル遠征軍の陸軍部隊とは異なり、第1戦闘飛行隊にはPBY-5A カタリナ飛行艇を指揮してブラジル沖でドイツ軍潜水艦U-199を撃沈したアルベルト・M・トーレスはじめ、ブラジル空軍の精鋭パイロットが所属していた。

飛行隊はパナマの米軍基地で戦闘訓練を受け、1944年5月より、パナマ運河地帯の防空作戦に参加。

6月からは搭乗機をアメリカ製のP-47 Dサンダーボルトに交換した。

1944年9月19日、第1戦闘飛行隊はイタリアに向けて出発し、10月6日にリヴォルノに到着。

パイロットは必要最小限の人員であったため交代の予定はなく、アメリカ陸軍航空隊の第350戦闘機隊に配属された。

ブラジル空軍第1戦闘飛行隊の戦地での初飛行は1944年10月31日だったが、それから二週間も経たない11月11日、乗機としていたFABサンダーボルトの国籍マークをブラジル空軍のものに変え、戦術呼出符号「Jambock」として、

イタリアのタルクイーニアの基地から初めてブラジル軍単独の作戦任務を開始。

その後、第1戦闘飛行隊はアメリカ第5軍の支援として、偵察と航空阻止攻撃の任務を行った。

そして4月22日、第1戦闘飛行隊はこのヨーロッパ戦線において最もめざましい働きをすることになる。

地上攻撃のために飛行隊は午前8時30分から5分間隔で離陸、マントバ南部の武装偵察任務を開始。

その日の終わりまでに44の作戦を遂行し、戦車を含む80台以上のドイツ軍車両を破壊したのだ。

後年、この飛行隊の奮戦をたたえ、ブラジルでは4月22日をブラジル空軍の記念日としたほどである。

第1戦闘飛行隊は1944年11月11日から1945年5月6日まで445の作戦を行い、合計2546回の飛行と5465時間の飛行時間を記録。

1304台の車両、13両の鉄道貨車、8両の装甲車、25箇所の鉄道橋と高速道路橋、31箇所の燃料タンクと弾薬庫を破壊した。

戦術航空軍団の司令部もブラジル第1戦闘飛行隊の戦果を称賛したが、それまでに3人が訓練で、5人が対空砲火で死亡。

8人が撃墜されて死亡するか捕虜になるなど損害も決して少なくはなかった。

戦後

ヨーロッパでの戦役が終わった後、ブラジル軍はピアチェンツァ、ロディ、アレッサンドリアの各州で占領軍として駐留。

1945年6月初旬、ブラジル政府は遠征軍の解散を命じ、1945年半ばに帰国した。

ブラジルの第二次世界大戦への参戦は第一次世界大戦の時よりも大規模であり、連合軍への貢献は主に南大西洋での対潜水艦戦であったが、ヨーロッパ戦線に地上軍を派遣したことで政治的により目覚ましいものとなった。

しかし、こうしてブラジル遠征軍を送り出したヴァルガス政権であったが、この年の10月に軍部のクーデターにより大統領が失脚、崩壊してしまった。

ブラジル遠征軍の戦死者は北イタリアのピストイアに埋葬されていたが、後にリオデジャネイロの霊廟に移送された。

出典元―ウィキペディア英語版

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久々にプラモデルを買った。

これから作ろうとしているのはタミヤの『傑作機シリーズ』アメリカ空軍のF-117だ。

このF-117は有名な米軍のステルス攻撃機。

その独特の未来的な形状もさることながら、実戦での威力が実証済みの兵器のみが備える危険な機能美と風格が感じられ、プラモデルの題材として魅力的である。

完成した暁にこれを飾れば、私の小汚い部屋の格もきっと上がるであろう。

それに、私はF-117に少々個人的な思い入れがある。

F-117、通称ナイトホークはアメリカ合衆国が開発した世界初の実用的ステルス攻撃機、レーダーに映らず対空ミサイルによる迎撃不可な攻撃機とされる。

1976年から開発が始まり、1981年に初飛行に成功。

1982年には部隊配備が始まったが、その詳細ばかりか存在自体までがアメリカ国防総省によって長らく極秘扱いとされていた。

そんなステルス攻撃機F-117がようやく公開されたのは1988年11月のことだった。

初の実戦参加は1989年のパナマ侵攻作戦で、この際の戦果は思わしくなかったが、1991年の湾岸戦争ではイラク軍相手に猛威を振るう大活躍を見せた。

1999年のコソボ空爆にも参加したが、この作戦で一機が撃墜されてしまう。

2008年、同じく高いステルス性を持つF-22、B-2が配備され、将来的に高い機動性を持つステルス戦闘機F-35も配備される予定であること、メンテナンスの時間やコストがかかりすぎることを理由に退役した。

以上がF-117のたどった経緯だが、私は同機を報道によって目の当たりにした時の衝撃をよく覚えている。

F-117がプレスリリースされた1988年(昭和63年)、私は中学校二年生だった。

その既存の軍用機とは一線を画する未来的でインパクトのある形状を見た当時の私は、こう確信した。

この機の主力兵器はきっとレーザーガンだろう

そしてその主戦場は宇宙空間であり、空中静止もお茶の子さいさい、速度だってマッハ5くらいは固いはずと。

スターウォーズなどのSF映画にそのまま出て来ても違和感がない外見をしているではないか!

それくらいやってもおかしくなさそうな機体に見えた。

東西冷戦がまだ終結していない頃だったが、このステルス戦闘機の仮想敵はソ連軍などの地球上の軍隊ではなく、異星人に違いないと思った。

当時の私は中二病真っ盛り。

矢追純一のUFO特番の影響を大いに受けていた私は、核戦争の脅威や環境破壊よりも異星人の地球侵略を心配しており、たびたび目撃されるUFOと世界各国の空軍戦闘機との性能の差に危機感を抱いていた。

しかし米国は違う。

UFO特番でも放送されていたように、異星人と密約を結ぶ一方で万が一の対決にも備えており、表向きはソ連の核ミサイルに対抗するためとして、UFOを宇宙空間で迎撃するための『スターウォーズ計画』を策定するなど、日本政府が及びもつかないようなことをやってのける国なのだ。

だいたい、映画でも異星人の侵略など地球規模の未曽有の脅威に真っ先に立ち向かうのは米軍と相場が決まっている。

また、現実にもそうなるであろうと信じていた。

その米国がやっぱり期待に応えてくれた。

さすが米国、地球上で一番頼りになる国だ。

だが私の期待むなしく、F-117はレーザーガンどころか爆弾しか積んでおらず、宇宙空間は飛べないし空中静止もムリ、速度だってマッハ1すら出せやしない。

UFOとの空中戦はおろか、既存の戦闘機とドッグファイトしたら返り討ちに遭ってしまうことがその後の報道で分かった。

唯一の取り柄はレーダーに映らないことで、それは爆撃される側にとって相当ヤバいことなのだが、その時にはそんなことに思いもよらず大いに失望した。

私的には完全に見かけ倒しだったのだ。

画期的な兵器であることは私が高校一年生の時に起こった湾岸戦争で証明されたが、要はレーダーに映らないから迎撃を受けることなく爆弾を落とせるだけなんだから、余裕でマッハ5のスピードが出せるUFOの相手になりそうもない。

地球は終わりだ、と絶望した。

あれから幾星霜。

結局異星人は攻めてこなかったし、老後などの自分自身の身の振り方を別にすれば、地球環境の悪化や隣国C国の覇権主義の方が異星人よりよっぽど脅威だと、さすがの私でもわかる。

一方の米軍は地球外の敵に関し、海軍機が撮影したUFOの映像を公開するなど少しは考慮に入れてはいるようだが本格的とは言い難い。

今世紀初頭からテロとの戦いと称してアフガニスタンやイラクなどで軍事行動を行い、近年はトランプ大統領の下で段階的に撤退しつつ本格的にC国に対抗する準備を始めており、まだまだ目線はほとんど地球上だけを向いているように見える。

だが私は現在、このF-117のプラモを組み立てながら心のどこかで期待している。

米国は今でも我々の知らない場所、宇宙空間などで異星人と秘密戦争を戦っていることを。

そして退役したと見せかけたF-117攻撃機が今も現役で、公開された以上の性能を持っており、最前線で戦っていることも。

私の中二病はまだ治癒していないようだ、ひょっとして一生このまま?

それと私のプラモデル製作の腕前も中二どころか、小二の時から変わらんようだ。

なぜ私がプラモを作りだすと、いつもパーツが何個か無くなるのだ?

これじゃ完成できぬではないか!

私のF-117は結局未完成のまま、癇癪を起した私によってゴミ箱に墜落した。

やっぱり少々高くても完成品を買おうか。

タミヤ『傑作機シリーズ』

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