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昭和の超戦闘的暴力団抗争 ~1964年・第一次松山抗争~

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1964年(昭和39年)ごろの日本は、社会全体に活気があった。

高度経済成長の真っただ中だったし、この年の10月には東京オリンピックを控えており、三種の神器と呼ばれたテレビ・冷蔵庫・洗濯機が全国の家庭に普及して、生活が目に見えて便利になっていくのを体感できるなど、現在も未来も明るかった時代だ。

当然、日本企業も一般庶民も元気だったわけだが、そうであってはまずい人たちも元気だった。

すなわち、反社会勢力、暴力団のことである。

その中でも最も威勢が良かった組織の一つが、ご存じ現在も神戸市に本拠を置く山口組であり、すでに西日本を中心に日本全国へ地元組織を屈服させながら、勢力を拡大中であった。

そして、その魔の手は四国の愛媛県松山市にも伸ばされ、同市を仕切ってきた地元暴力団の郷田会と対立。

1964年6月には、その対立がエスカレートして、現在なお語り草となっているパワフルな抗争が勃発した。

当時のサンデー毎日が報じた暴力団事情

抗争の発端

もめごとのきっかけは1964年4月2日、三代目山口組(田岡一雄組長)の直参である矢嶋長次(28歳)率いる矢嶋組が、愛媛県松山市大手町の大陸ビルの一部屋を「八木保」という人物の名義で借りたことから始まる。

矢嶋組は、電通局の下請業者として協同電設株式会社を設立し、電気工事事業を始めようとしたのだ。

だが松山市内の同事業は、それまで地元暴力団である郷田会が牛耳っていたために、山口組二次団体である矢嶋組の参入は、同会にとって縄張り荒らしも同然の行為であって面白いわけはなく、軋轢が生じ始めていた。

ちなみに郷田会は、関西を舞台として、当時まだ山口組と対等に張り合うことができた広域暴力団・本多会の二次団体である。

巨大組織をバックにする両者が衝突する事態になったのは、矢嶋組が協同電設株式会社を設立した2か月後の6月。

6月2日に、矢嶋組は再び「八木保」の名義で東雲ビルと入居契約をし、同3階を借りて事務所としたのだが、この東雲ビルこそが、その後の銃撃戦の舞台となる。

そして、三日後の6月5日に最初の事件が起きた。

同日の夜11時ごろ松山市内のバーで矢嶋組組員・末崎康雄(30歳)とその舎弟の門田晃(19歳)が酒を飲んでいたのだが、そのバーのママは矢嶋組と一瞬即発になっていた郷田会の会長と関係の深い女。

郷田会の息がかかっていることを自認するママは、敵対組織の手下が自分の店に来たことを訝って「矢嶋組の若いモンが来とる」と郷田会の事務所に連絡、いきり立った郷田会の組員・野中義人(20歳)ら数人がバーに殺到した。

肩を怒らせてバーにやって来た野中たちは、末崎ら二人を見るなり怒り狂った。

末崎たちは、ついこないだまで自分たちの郷田会事務所に出入りしていたチンピラであり、ゆくゆくは、こちらの身内となるはずだったのに、敵である矢嶋組のバッチをつけていたからだ。

「こん裏切りモンが!」

郷田会のヤクザたちは、末崎と門田を拉致。

末崎は逃げたが、取り残された門田は、さんざん暴行を加えられて拳銃で銃撃までされてしまった(拳銃が粗悪な模造銃だったためにさほど威力はなかった)。

翌6月6日、矢嶋組の側は一応この件について市内の喫茶店で郷田会幹部と話し合ったが、「ウチの若いモンやった奴出せや」だの強硬だったために、物別れに終わる。

すでに矢嶋組の方では、組員一同昨晩の事件について話し合った結果、「ウチにケンカを売っている」ということで、意見が一致していたのだ。

ヤクザ者同士が話し合いで決着しないなら、どう決着をつければよいかは決まっている。

同日のうちに、矢嶋組組長の矢嶋長次は戦争の準備を命じ、事務所となっている東雲ビル3階に、きっかけを作った末崎をはじめ銃器を持った組員たちを待機させた。

白昼の銃撃戦&籠城戦

6月7日(日曜日)午前10時、矢嶋組が早速行動を開始する。

末崎ら矢嶋組組員数人は東雲ビルを出て、郷田会傘下組織の岡本組の組員・阿部公孝(20歳)を阿部の自宅の付近で、拳銃を突きつけて拉致、東雲ビル3階に監禁したのだ。

そして午前11時、岡本組・岡本雅博(29歳)組長に電話をかけて、「テメーんとこの若いモン預かっとるから受け取りに来んかい」と挑発し、これを受けた岡本組組員・金昌二(22歳)や野中義人はじめ4人が、自動車2台に分乗して東雲ビルに急行する。

言うまでもなく、金たちは猟銃や拳銃などの道具持参だった。

午前11時50分頃、東雲ビルの近くまで来た岡本組組員の乗る車2台は、通りを歩いていた矢嶋組組員であるくだんの末崎ら2名と出くわす。

末崎たちは拳銃を持っていたが、分が悪いと見て逃走、発砲しながら追ってくる乗用車2台に応射しながら、東雲ビルに向かって走っていく。

この際に、末崎が猟銃の散弾を受けて負傷したものの、2人とも東雲ビルに逃げ込むことに成功した。

ダイアグラム

中程度の精度で自動的に生成された説明

ビル内の矢嶋組事務所には末崎含め同組員が8人おり、岡本組の車2台が東雲ビル前の路上に到着するや、3階の窓から数人が車2台にめがけて、拳銃や猟銃、ライフルを発砲、岡本組組員の野中と金、もう一人の未成年組員(19歳)が被弾する。

岡本組の組員たちも車を盾に応戦し、白昼堂々の銃撃戦が始まった。

あさま山荘や少年ライフル魔の事件のように犯人の側がほぼ一方的に銃撃するものではなく、銃器を持った双方が互いを狙って複数発撃ち合う正真正銘の銃撃戦である。

銃撃する矢嶋組組員

これら一連の銃撃戦は市内の公衆の面前で行われたために、管轄の松山東警察署には110番通報が殺到、12時5分頃には、通報を受けた同署の捜査員6名が防弾チョッキ着用で東雲ビル前に急行したが、この人数で足りるわけがない。

とは言え、警官の出現はすで3人が負傷している岡本組組員たちには効果があったようで、4人は車に乗って逃走した。

彼らはその後、犯行に使った銃器持参で警察署に出頭している。

だが、問題は東雲ビルにいる矢嶋組の組員たち8人である。

彼らは、そのまま銃器を持って籠城を続けていたのだ。

中には、人質にされた岡本組の阿部もいる。

フェンスの前にいる男性の白黒写真

中程度の精度で自動的に生成された説明

午後1時頃までに、非常招集に応じた松山東警察署員が現場に到着し、東雲ビルの周りの交通を遮断、最終的には各警察署から応援で駆け付けた約250名の警官隊が包囲。

また、この日は日曜日であったこともあって、現場には野次馬が約千人も集まってきた。

警察は、籠城する組員たちに投降を呼びかけたが、全く応じる気配がないどころか、それに威嚇射撃で答え、その銃口を警官隊の次にうっとうしい野次馬たちにも向けて「撃ったろか、素人ども!」と吠える始末。

午後2時半に、最初の銃撃戦で被弾した矢嶋組組員の末崎が人質の阿部を連れた上にライフルと猟銃、拳銃を持って投降したが、残る7人は時々威嚇の発砲をしながら立てこもり続けた。

その後、説得を続ける警官隊に対し、籠城する矢嶋組組員の一人である片岡正郎(23歳)が「午後4時までに全員降りてくる」と答えはしたが、午後4時を過ぎても投降してくる気配はない。

警察の側にも、強硬手段を講じる時が来た。

警官隊は予告の上、東雲ビルの3階の窓へ催涙弾2発を撃ち込んで20名で突入。

乱闘の末、矢嶋組組員7人全員を逮捕した。

矢嶋組のヤクザたちは銃器こそ持っていたが、それを使うことなく拳で抵抗したらしい。

この突入で警官2人が負傷、その腹いせか、組員たちは警官に殴られながら連行されていった。

本を持っている人の白黒写真

低い精度で自動的に生成された説明

その後

この銃撃戦で岡本組側から3人、矢嶋組から1人の負傷者を出したが死者はなく、突入の際に警官二人が軽傷を負った以外に、野次馬にもけが人はなかった。

しかし、この事件は社会と愛媛県警に重大なインパクトを与えることになる。

白昼堂々の市内での銃撃戦は、やはりやりすぎだ。

事態を重く見た愛媛県警によって、矢嶋組は組長の矢嶋長次はじめ組員のほぼ全員が逮捕され、郷田会は組長の郷田昇含む41人の逮捕者を出して、多数の銃器と弾薬が押収された。

カレンダー が含まれている画像

自動的に生成された説明

また、かように大それた出入りを起こした矢嶋組は組員数が20人ほどで、もう一方の郷田会は、その下部団体全員を含めても50名に満たないくらいだったと言われているから、さほど大きな組織同士の抗争というわけではない。

だが、それぞれの上部団体は各地に系列団体を有する巨大組織の山口組と本多会。

両団体は後日、系列の組から松山に、それぞれ応援の組員を派遣してきた。

その内訳は、山口組が101人、本多会が44人であったが、これを予想していた愛媛県警の検問によって、両団体の応援は阻止されて抗争の拡大は防がれた。

後に、第一次松山抗争と呼ばれたこの衝突は、松山刑務所の拘置所に収容された双方の組長である矢嶋と郷田が五分の手打ちをしたために終結したが、両組織とその後ろ盾だった組織の明暗は、はっきり分かれていくことになる。

矢嶋組は、組長の矢嶋長次が、後に懲役7年の判決を受けて服役することになるが、六代目山口組の二次団体として令和の現在も存続。

一方の郷田会は、郷田昇が実業家に転身したために1964年のうちに解散し、郷田会のバックだった本多会も、翌年1965年に解散して大日本平和会と名を変え、右翼団体として活動を続けたが勢力を縮小させ、1997年をもって解散した。

ちなみに、この抗争によってあまりにも多くの暴力団組員が拘置された松山刑務所では、1人の看守が買収されたことをきっかけに、ここの職員はチョロいと判断した組員たちが増長。

飲酒、喫煙、賭博など、やりたい放題した挙句に看守を脅してカギを奪い取って我が物顔で刑務所内を自由に歩き回り、女囚が収容されている女区に入り込んで強姦まで行った「松山刑務所事件」が起きた。

壁に貼られたポスター

低い精度で自動的に生成された説明

出典元―愛媛新聞、朝日新聞、読売新聞、サンデー毎日

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ノースハリウッド銀行強盗事件(North Hollywood shootout)~合衆国犯罪史上最大級、発射弾数約2000発の大規模銃撃戦~

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1997年2月28日、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市ノース・ハリウッドが戦場と化した。

この地のバンク・オブ・アメリカ・ノースハリウッド支店に押し入った二人組の銀行強盗と駆け付けた警官隊との間で、大規模な銃撃戦が発生したのだ。

犯罪者と警官との銃撃戦は、銃犯罪が横行する合衆国において珍しくないのは知られているところだが、この銀行強盗はただ者ではなかった。

犯歴を重ねたプロの強盗であるだけでなく、全身を自家製防弾着で包み、違法に改造された複数の自動火器と豊富な弾薬で重武装していたからだ。

犯人たちは全自動で銃を乱射し、拳銃やショットガンで応戦する警官隊を圧倒。

この模様は、テレビによって全米にも大々的に生中継され、約44分間続いたこの銃撃戦は犯人二人が死亡して幕を閉じたが、警官12人と市民8人が負傷。

発射された弾丸は、双方合わせて約2000発という合衆国の犯罪史上でも最大級の銃撃戦となった。

犯人と事件に至るまでの経緯

この事件の犯人は、ラリー・ユージン・フィリップスJr.とエミール・デクバル・マタサレヌである。

ラリー・ユージン・フィリップスJr.(以下、フィリップス)は1970年9月20日生まれ、既婚者で二児の父。

幼少時より母親に射撃場に連れていかれたために銃に親しんで育ち、成人してからは不動産のセールスマンをしていたが、1989年ころから不動産詐欺や窃盗などの犯罪行為に手を染めていた。

ラリー・ユージン・フィリップスJr.

エミール・デクバル・マタサレヌ(以下、マタサレヌ)は、1966年7月19日にルーマニアで生まれた。

母親は精神病院を経営していたが、幼少時に入院している患者に襲われて負傷。

それが原因かは不明だが、粗暴な性格になっていったらしい。

しかし成長後は、電気技師の資格を取って自営業を営むなどまっとうな道を歩んではいたが、その事業はあまりうまくいかなかったようだ。

エミール・デクバル・マタサレヌ

そんな二人が出会ったのは1989年、ロサンゼルスのゴールドジム。

両人とも体を鍛えるのが趣味で、銃器が好きだったこともあって意気投合したらしい。

だが、この出会いは両人以外にとっては、あまり好ましいものではなかった。

むしろ最悪、後につるんで武装強盗を重ねるようになっていったからである。

1993年7月20日、フィリップスとマタサレヌは、コロラド州リトルトンで現金輸送車を強奪。

同年10月29日、スピード違反で検挙された際に車内から、銃器と大量の実弾などが見つかったことで逮捕されるが、100日間の服役と3年間の保護観察で済んだ。

逮捕されても全く反省する気のない二人は、1995年6月14日、ロサンゼルスのウィネトカで再び現金輸送車を襲撃、この際は警備員1名を殺害し、もう1名に重傷を負わせる。

1996年5月には同じくロサンゼルスで二回にわたり銀行強盗を行い、150万ドルを強奪した。

実際の犯行の模様

これらの犯行により、ノースハリウッドの事件前までには、二人とも危険極まりない凶悪犯として警察にマークされるようになる。

そして、これほどの犯行を行って大金をせしめたにも関わらず、彼らは満足しなかった。

さらなるあぶく銭を得ようと、次なる悪事の準備を開始する。

犯行に向けた準備

次なるターゲットとしたのは、ロサンゼルス市のバンク・オブ・アメリカノースハリウッド支店だ。

この銀行はハイウェイにも近く、逃走しやすい場所にあった。

二人は数か月にわたる入念な下見と偵察と並行して、稼いだ金を元手に、犯行に使う武器弾薬や装備の調達に動く。

そして、用意した武装はハンパではない。

中国北方工業公司(ノリンコ)製の56式自動小銃S型(AK-47III型のコピー)が二丁に、同じく中国製の56式自動小銃S-1型、ブッシュマスターXM15、HK91といずれも自動火器であり、56式自動小銃S-1型とXM15は違法改造を施して、全自動射撃が可能になっていた。

56式自動小銃
ブッシュマスターXM15
HK91
ベレッタ92FS

フィリップスは、それ以外にもベレッタ92FSピストルを装備する。

彼らには犯歴があったため、いくらアメリカでも、こんなシロモノを銃砲店で堂々購入できないが、どっぷり裏社会の住人である二人ならば、闇市場で手に入れるのはたやすいことだった。

買い集めた弾薬も膨大で約3300発、それもパトカーも貫通する被覆鋼弾(フルメタルジャケット)だ。

しかも弾丸を装填するマガジンとして、56式自動小銃用に75発入りドラムマガジンを、XM15用には100発入りドラムマガジンを準備した。

攻撃だけではなく防御にも凝っている。

銃撃されることも想定して、ケプラー製の防弾性能IIIAの防弾チョッキを縫い合わせて胴体だけでなく、肩や手足をも防護できる手製の全身防弾着を作り上げていた。

ちなみに、IIIAの防弾チョッキは9ミリ弾だけでなく、44マグナム弾をも防ぐことができる。

両人が付けていた自家製防弾着
両人が付けていた自家製防弾着

行き先が戦場だったとしても、この装備はやりすぎなくらいであったが、実際の現場では大いに威力を発揮することになる。

もちろん、犯行に使った車や武器を焼却して証拠を隠滅するために、ガソリンを準備することも忘れない。

そして、決行日は2月28日とした。

この日は給料日が近いために客で混雑し、銀行側のセキュリティーにも余裕がないと踏んでいたからだ。

こうして、プロの犯罪者だったとしても入念すぎるほどの準備をした彼らは、その決行の日を迎えた。

同時に、それは彼らの命日にもなるのだが。

銀行襲撃

バンク・オブ・アメリカノースハリウッド支店

1997年2月28日、午前9時17分。

全身防弾着に身を包んで重武装したフィリップスとマタサレヌが白いシボレーに乗って、営業時間になったばかりのバンク・オブ・アメリカノースハリウッド支店に現れた。

決行の前に二人は、精神を落ち着かせるために鎮痛剤を服用。

手袋に縫い付けた腕時計を8分間が経過したら、アラームが鳴るように設定した。

これは、犯行を8分以内に終わらせるためである。

彼らは事前に警察無線を盗聴し、通報により警察が駆け付けるまでに、最低でも8分かかることを突き止めていたのだ。

準備は万端、あとは決行あるのみ。

フィリップスとマタサレヌは、覆面をかぶり56式自動小銃を構えて、正面玄関から堂々行内に侵入する。

だが、外では彼らにとって、極めて不運なことが起こっていた。

偶然にもパトロール中のパトカーが近くを通りかかり、車内の警官が、銀行に入っていく彼らを目撃していたのである。

覆面をかぶって自動小銃を持った二人が、融資の相談や預金の引き出しに訪れた客であるはずはない。

警官は、無線で大至急の応援を要請する。

一方、そうとは気づかない二人は、銀行内で手際よく犯行を行っていた。

マタサレヌは56式を全自動で天井に向けてぶっぱなし、フィリップスは、”This is a fucking hold up!”と吠え、客や行員に銃を向けて脅し上げる。

フィリップスはさらに、ロビーと出納係のいるスペースとの防弾通用門を56式の一連射で破壊すると中に侵入、アシスタントマネージャーを脅して、金庫の扉を開けさせるのに成功した。

犯行の模様

しかし、実際にあった金は、予想していた75万ドルに遠く及ばない303305ドル。

現金の配送スケジュールが変更されて、まだ届いていなかったのだ。

フィリップスは、腹立ちまぎれに金庫に向けて56式を連射して蜂の巣にする。

埋め合わせにATMから金を奪おうとしたが、これもうまくいかない。

だが、たった303305ドルでも、ないよりはマシだ。

アシスタントマネージャーに現金を持参してきたバッグに詰めさせると、人質となっていた客や行員約40名を金庫室に閉じ込めて撤収を開始する。

セットしていたアラームが鳴った午前9時25分ごろ、フィリップスがノースハリウッド支店の北側から、マタサレヌはが南側出入口を出た。

しかし、そこで彼らは唖然とすることになる。

最初に発見した警官の応援要請によりパトカーがすでに十数台到着し、50名余りの警官がこちらに銃を構えていたからだ。

並みの強盗だったら、ここで「万事休す」であったことだろう。

だが彼らは違った。

大銃撃戦

こちらに銃を向ける警官たちに向けて、フィリップスの56式が火を吹いた。

発砲するフィリップス

弾は被覆鋼弾で、パトカーを貫通して警官たちを負傷させる。

警官隊も応戦したが、こちらはベレッタ92Fやスミス&ウェッソン等の拳銃やイサカ37といった散弾銃。

いくら大勢いても軍用の突撃銃である56式の敵ではなく、弾幕を張られて、顔を出すこともできない。

75発入りのドラムマガジンなので、銃撃はなかなか途切れないのだ。

フィリップスはこの時、地上の警官だけではなく上空を旋回する警察のヘリコプターをも銃撃した。

この銃撃で警官7人と、巻き添えで民間人が3人負傷する。

死者が出なかったのは、弾丸が被覆鋼弾なので、通常の弾丸のように人体内で変形して止まることはなく貫通したからだと言われる。

パトカーや警官の配置及び銃撃戦の見取り図

フィリップスは一旦銀行内に戻った後、マタサレヌと合流。

金を持って退散しようとしたが、札束の中に特殊なインクを飛散させて紙幣を証拠品化する防犯装置が密かに仕込まれており、金が台無しになっていたのに気づく。

せっかく苦労して手に入れたのに!

これで癇癪を起したのだろうか、金を放棄して外へ出た二人は、立ちはだかるパトカーに向けて56式をぶっ放した。

フィリップスとマタサレヌ

警官隊も発砲したが、拳銃や散弾銃は遠距離射撃での精度が低かった上に、二人とも全身防弾着を着用しているので、いくら命中させても倒れやしない。

防弾性能IIIAだと、9ミリ弾や散弾を十分防ぐことができるからだ。

警官が数発撃つと、彼らはその数倍以上撃ち返してくる有様で、完全に火力で圧倒されていた。

武装での不利を悟った警官隊のうち数名が、劣勢を挽回すべく、近所の銃砲店から軍用火器の調達に走ったが、これは結果的に事件の解決に間に合うことはなかった。

次々応援に駆け付ける警察を見たマタサレヌは、逃走に移ろうと、駐車場に停めた自分たちの車に向かう。

銃撃を続けていたフィリップスだったが、この時警官の放った弾丸が、56式の機関部に命中して壊れてしまった。

 

その直後、頃合いよくマタサレヌの乗る車が近くに来たので、車のトランクから予備に持ってきたHK91に換えて銃撃を再開するが、これも被弾により破壊されたため、もう一丁の56式を取り出す。

フィリップスはマタサレヌに車をゆっくり運転させ、それを遮蔽物にして銃撃を始めた。

この頃には、現場にはテレビ局のレポーターやスタッフも駆け付けてきて、アメリカでも前代未聞のこの銃撃戦をレポートし始めており、上空のへリは犯人から銃撃を加えられながらも、その模様を撮影している。

二人は、そのまま一緒に逃走するのは危険と判断したのだろうか、やがてフィリップスは徒歩で、マタサレヌは車で、それぞれ分かれて逃走を図り始めた。

犯人の最後

銃撃しながら逃げるフィリップス

徒歩のフィリップスは56式を乱射しながら逃走を続け、追撃する警官隊も銃撃を浴びせる。

彼は全身を覆う特製防弾着を着てきたが、全くダメージがなかったわけではない。

テレビ中継された映像から、たびたび被弾したと思われる際に、痛みを感じているようなそぶりを見せているのが分かるからだ。

また、完全に弾丸を防ぐわけでもなかった。

この時警官の撃った9ミリ弾が右肩の防弾着と防弾着を縫い合わせた部分に命中して負傷、左手首にも弾丸を食らう。

悪いことに、56式も弾詰まりを起こして作動しなくなった。

フィリップスは56式を捨てて、予備に持ってきたベレッタを取り出して反撃を試みるが、これでは威力が弱すぎる。

弾も次から次へと命中するし、ベレッタの残りの弾数もあとわずかとなってきた。

今度こそ終わりである。

だが、彼は降伏を選ばなかった。

右手を撃たれて一旦落とした拳銃を拾うと、それをあごの下に当てるや引き金を引いて自分の頭を撃ち抜き、崩れ落ちた。

逮捕されるより死を選んだのだ。

一方のマタサレヌは乗っている車のタイヤを撃ち抜かれており、ちょうど対面からやってきたピックアップトラックを奪おうとしていた。

うまいことに、ピックアップトラックの運転手は逃げ出したので、マタサレヌはそこへ武器と弾薬を移し替える。

しかし、運転席に座って発車しようとしたが、エンジンがかからない。

トラックの運転手は逃げる際に、エンジンが動かなくなるキルスイッチを作動させていたからだ。

さらに、そこへパトカーがやってきた。

今度は一般の警官ではなく、特殊部隊のSWAT隊員が乗っている。

装備もAR-15なので火力で負けはしない。

SWATから銃撃されたマタサレヌは、急いでピックアップトラックを降りると、それまで乗っていたシボレーのフロント部分に回って、ブッシュマスターXM15で反撃。

フロントガラス越しに全自動でXM15をぶっ放し、至近距離での自動火器同士の銃撃戦となる。

SWATとマタサレヌの銃撃戦
SWATとマタサレヌの銃撃戦

しかし、SWAT隊員の一人が車の下からマタサレヌの足めがけてAR-15を撃ち、これが防弾チョッキで保護されていない足に複数発命中。

これには、さすがのマタサレヌも戦意を喪失し、銃を捨てて手を挙げた。

拘束されたマタサレヌ

こうして、約44分間続いた銃撃戦はようやく幕を閉じたが、救急車の到着が遅れたためにマタサレヌは足の銃創からの出血多量で死亡してしまった。

その後

この事件では、犯人以外に死者こそ出なかったものの、警官12人と市民8人も負傷。

犯人側が1100発以上、警官側が650発以上発砲するという戦場のような規模の銃撃戦となった。

合衆国の犯罪史上でも他に類を見ないほどのすさまじさであったため、社会にかなりのインパクトを与えたようだ。

その後、事件を元にした映画も何本か作られている。

ちなみに、事件が起こる二年前にロバート・デニーロ、アル・パチーノが共演した映画『ヒート』において、自動火器で武装した銀行強盗が拳銃やショットガンを装備した警官隊を圧倒するシーンがあったが、まさにそれのリアル版となってしまった感がある。

事実、後の捜索で彼らのアジトから『ヒート』のビデオテープが見つかったというから、ある程度参考にしていた可能性は高い。

もちろん合衆国各地の警察にも影響を与えた。

ノースハリウッドの事件で火力が不足したばかりに、ここまでの規模になってしまった教訓から、警官の装備の見直しが図られたのだ。

以降、各パトロール隊にはAR-15セミオートマチックライフルを装備した隊員、パトロールライフルオフィサー(PRO)が加わるようになった。

そして現在、カリフォルニア州ロサンゼルスのハイランドパークにあるロサンゼルス警察博物館には、二人の犯人の等身大のマネキンに実際に付けていた防弾着を着せ、同じく装備していた武器や乗ってきたシボレー、弾痕の残るパトカーなどが展示されて、事件の詳細を生々しく今に伝えている。

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