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パキスタンでの冒険が引き起こした悲劇:91年の早大生誘拐事件

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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1991年3月、パキスタンを流れるインダス川をカヌーで下る旅行をしていた早稲田大学の「フロンティアボートクラブ」に所属する三人の早稲田大学の学生と現地ガイド一名が姿を消した。

早大生たちは春休みを利用して、インダス川とカブール川の合流地点であるアトックからアラビア海に面した同川河口のカラチまで、約1500㎞を三週間ほどかけてカヌーで漕ぎぬくという大冒険を計画。

2月中旬にパキスタンの首都イスラマバードに到着後、物資調達や訓練を経て3月4日にアトックを出発したのだが、カラチに到着予定の同月28日になっても姿を現さず、安否が心配されていた。

やがて4月になり、春休みが終わろうとしていた同月4日に、現地の日本大使館を経由して、外務省から最悪の事態の発生が公表される。

彼らは現地の犯罪組織に誘拐され、組織から多額の身代金と獄中の幹部の釈放を要求されていたのだ。

だが、これは必然的な結末でもあった。

早大生たちが通過する予定だった場所は、誘拐事件が年間千数百件発生する危険地帯であり、彼らが出発前の情報収集のために通っていた現地の大使館の職員からは、中止するように説得されてもいたからだ。

彼らは、幸運にも生還することになるのだが、その平和ボケの極みともいうべき愚行は、その後大いに非難を浴びることとなった。

ヌケまくった冒険計画

当初のメンバー

誘拐された早稲田大学の学生は、同大学教育学部の大浜修一(仮名・当時20歳)、教育学部の斎藤実(仮名・当時19歳)、政経学部の高原大志(仮名・当時20歳)の三人である。

彼らが所属する早稲田大学の「フロンティアボートクラブ」は、ラフティングというゴムボートでの激流下りを中心に活動しており、1967年の設立以降インドのガンジス川やタイのメナム川を下ったり、ゴムボートの大会では四回優勝するなど伝統も実績も有したサークルだ。

インダス川

そんな気合いの入ったサークルに所属していた大浜たちだったからこそ、インダス川の川下りという大それた冒険を実行に移したのだが、その準備と見通しはあまりにずさんだった。

それは、川下りに出発する前の早大生たちに現地で出会った日本人女性ジャーナリストの証言によって明らかになる。

1991年の2月中旬、取材のためにパキスタンの首都イスラマバードを訪れた同ジャーナリストは、パキスタン人の夫を持つ日本人女性が経営する宿にチェックイン。

その宿に、たまたま誘拐されることになる早大生たちが宿泊しており、他の宿泊者らも交えて彼らと話をするようになった。

一見して頼りなさそうな青年たちだという印象を持った彼女だったが、話していて仰天したのが彼らのやろうとしていたインダス川の川下りの計画だった。

それは冒険というより、自殺行為に近い暴挙だと思ったからだ。

彼らが行こうとしているインダス川のうち、下流のシンド州流域は、日本より総じて治安の悪いパキスタンの中でも指折りの危険地帯であり、自動小銃などで重武装した「ダコイト」と呼ばれる犯罪集団が60団体以上跋扈し、誘拐や強盗事件が横行する現地の人間ですら恐れる場所なのである。

彼らはそのことを全く知らず、どんなレベルの危険か、全く想像がつかない様子だったという。

おまけに服装も襲ってくださいとばかりに派手な新品であり、インダス川の航行には、パキスタン観光省の許可証が必要であることも知らなかった。

外見を大きく上回る大甘ぶりである。

この時点で、後に誘拐されることになる三人以外にも一緒に川下りをするはずだった教育学部の臼井誠二(仮名・当時20歳)がいたが、臼井は、この話を聞いて賢明にも計画の中止を主張。

だが「逃げんのか?」「ここまで来たら行くしかねえだろ」「危険な方がスリリングじゃねえか」と、他のバカ三人が耳を貸さず、結局臼井だけが断念して日本に帰国することになった。

そして彼らは、現地の治安について無知だっただけではない。

物資の補給についての見通しも甘く、辺鄙で商店など一軒もない流域が多いにもかかわらず、十分な食料を調達していなかった。

また彼らが、これから始まる冒険に備えてトレーニングをしているところも女性ジャーナリストは見ていたが、普段から鍛えていないのが見え見えだったし、ゴムボートを専門としている彼らは、カヌーの漕ぎ方があまりにもぎこちなかったらしい。

かように大浜たちは準備も計画もあまりに痛々しかったが、腐っても天下の早稲田大学の名門サークル「フロンティアボートクラブ」所属の学生である。

今回の川下りに際して、そのブランド力を利用して光学機器メーカーのニコンや出版社である集英社を抜け目なくスポンサーにつけ、機材などを援助してもらっていた。

そのためにも、後には引けないという思いがあったのかもしれない。

だとしても、絶対するべきではなかった。

イスラマバードでの滞在中、自殺行為だと確信していた宿の女主人とジャーナリストは、あの手この手で出発を断念させようとしたし、情報収集のために再三訪れた日本大使館の職員にも、中止するように説得されていた。

だがこの愚行は、パキスタン観光省が渋々ながらも許可証を出してしまったこともあって強行される。

そして、この「冒険ごっこ」はスポンサーになってくれた二社に対するものより、はるかに大きな迷惑を日本・パキスタン両国政府にかけることになったのだ。

シンド州で待っていた案の定の展開

アトックの場所

臼井が帰国してしまい三人となったが、早大生たちは現地ガイド一名も加えた四人で、予定通りイスラマバードから近いパンジャーブ州アトックを3月4日に出発した。

一行は当初順調に川を下って南北に長いパンジャーブ州を南下。

途中、パキスタン警察の検問を何度か受けるが、観光省の許可証があるので、それも難なく通過した。

夜になると、岸辺にカヌーをつけてテントを張って宿営地としながらシンド州に入ったのは3月16日。

グッドゥ

このシンド州に入ってすぐにグッドゥ(Guddu)という街があり、彼らはそこを停泊地としてレストハウスに宿泊した。

地図上で見たら目的地のカラチまではあとわずかだが、ここからが厄介である。

なぜなら、このシンド州のインダス川流域こそ、犯罪組織ダコイトが出没する危険地帯だからだ。

とはいえ、彼らが泊ったレストハウスの主人は非常にフレンドリーで、はるか遠方の日本からやってきた若者たちを大歓迎。

しかも彼らがこれから向かう先を知るや、心配してダコイトが出没しない安全なルートをこと細かく教えてくれた。

親切な人だ!そして、さすが地元の人間!

よそ者の大浜たちはそのルートを取ることを即決し、明日からの冒険に備えて久々のベッドに入った。

しかし、彼らはすでにこの時点で、ダコイトに捕捉されていた。

どの国でもそうだが、裏社会の組織というものは、強大な情報網を有している。

パキスタンのダコイトも、ご多分に漏れずそれを完備していた。

誘拐や強盗のターゲットを探知するために、そこら中にシンパがおり、彼らのもたらす情報は、逐一構成員の元に届けられていたのだ。

そして、その情報網の一角を、このレストハウスの主人は担っていた。

主人は、金持ち国日本からの最上級のカモの出現と、その行先を迷わず自身の所属する組織に報告。

しかも、安全だと称して早大生たちに教えたルートは、ダコイトが待ち受けるのに都合のよい場所であり、それも併せて伝えたことは言うまでもない。

翌日、グッドゥを出発して、馬鹿正直にもダコイトのシンパの提示した水路を進んだ一行は、まんまと網にかかり、準備万端待ち構えていたダコイトの大歓迎を受ける。

それは、グッドゥを離れて一時間ほどのことだった。

左岸から自動火器の連射音が聞こえたかと思ったら、うち何発かが至近をかすめたのだ。

「ヤバい!!」

早大生らは、たまらず右岸へカヌーを漕いで逃げたが、そこにもダコイトの一員と思われる者たちが、ショットガンを構えて待ち構えていた。

手慣れた連係プレーである。

すっかり腰を抜かした一行は、抵抗どころか逃走も断念してホールドアップ。

ダコイトに捕獲されてしまう。

ちなみに、彼らが捕まった地点は観光省に許可されたルートから大幅に外れていた。

こうして、インダス川の川下りより、はるかにスリリングで生きた心地すらしない日々が始まった。

最上級人質

ダコイトに捕まった早大生たちは、インダス川のほとりの森の中にある掘っ立て小屋に連行された。

アジトのひとつで、さらった人間を監禁するための施設である。

このような拠点は他にもあり、その後監禁場所が数回変わったという。

とはいえ、さらった人間の身体の一部を切り取ったり、殺すことも平気だと恐れられるダコイトだが、大浜たちに対する待遇は、そんなに悪くなかった。

朝昼晩ちゃんと食事を出してくれたし(むろんカレー)、歯ブラシやトイレットペーパーなどの生活必需品も支給され、暴行を受けることもなかったらしい。

また、鎖でつながれたり閉じ込められたりも一切なく、監視付きだが近所を散歩することもできた。

彼らは「松竹梅」のうち、間違いなく最上級の「松」の部類に入る人質だったからだ。

まだ金持ち国だったころの日本から来た日本人だから、たんまり身代金が見込める。

交渉がまとまるまで、死なせてはならない。

ゲストに近い人質であり、体調を崩して体重が落ちることもなかった。

一方で「松竹梅」のうち、「梅」にも入らないとみなされると、こうはいかなかったようだ。

ここには早大生以外にも、他の場所でダコイトに捕まった一般のパキスタン人たちが何人かいたが、人質のランクとしては序の口とみなされたらしく、足かせをはめられてムチやこん棒などで、さんざん暴行を加えられていた。

これが、ダコイトたちによる本来の人質の扱い方であったのであろう。

また、それを大浜たちに見せつけることで、恐怖心を植え付ける効果もあったようだ。

そして、ゲストのように扱いながらも、絶妙のタイミングで早大生たちを「身代金の支払いが遅れたら殺すからな」と脅したりして、巧みに心を折って自分たちのコントロールに置く。

本当かどうかは分からないが、冒険家を自称する彼らは、このダコイトのアジトから脱出する計画を練っていたらしいが、常に銃を持った手下たちが抜け目なく見張っていたために、断念したという。

計画性を著しく欠いていた彼らだったが、自分たちがインディージョーンズではないことくらいは分かっていたのだ。

こんな生きた心地のしない生活がいつまで続くのか?と思った早大生たちだったが、捕まってから六日後の3月22日、三人のうち、高原大志だけが解放される。

ダコイトの要求を、日本大使館に伝えさせるためだ。

後に判明したことだが、日本大使館に早大生を誘拐したことを手紙で知らせたのに何のアクションもなく(郵便事情が悪くて届いていなかった)、そのために、致し方なくメッセンジャーとして選んだらしい。

高原は、その足でパンジャーブ州へ向かって、翌23日に同州内の地方都市から日本大使館に電話し、迎えに来た大使館員に保護された。

イスラマバードの日本大使館は、翌月の4月4日に、誘拐事件発生を公表した。

人質解放交渉

外務省は4月4日に、早稲田大学の学生三人が誘拐されたと発表したが、ほどなくして、高原大志が解放されたことを補足。

高原は、残る二人の解放交渉のために必要とみなされたために現地に残る。

この頃には、パキスタンのシンド州政府を中心に、人質解放のための行動は起こされていた。

州政府は対策本部を州内の都市サッカルに設け、地元の有力者を仲介者に立てて早大生をさらったダコイトの組織と交渉を始めた一方で、5日には特殊部隊を投入して、強行救出作戦を行ってダコイトのアジトを強襲するなど、硬軟織り交ぜた対策で臨む。

犯人側の要求は身代金1000万ルピー(当時のレートで6千万)と投獄されている仲間の釈放という法外なものであったため、交渉は紛糾。

早大生たちがいる場所は、シンド州と隣のバルーチスターン州の州境あたりにいるのではと思われたが、強行作戦を続行し続ければ人質に危害が及びかねない。

そのために交渉による解決が図られ、仲介者を介しての人質の解放条件などの交渉は続いた。

4月12日には、犯人側との合意に達したと地元警察が発表し、人質の解放も近いと思われたが、その二日後に解放されたのはパキスタン人のガイドのみ。

ガイドは「警察が動いたら人質を殺す」というメッセージを持たされていた。

その後、犯人側が態度を硬化させて、交渉が中断するなど暗雲が立ち込めた時期もあったものの、粘り強い交渉を続けた結果、残る早大生二人の解放への道筋は整ってきてはいた。

このころまでに多くのパキスタン軍・警察関係者が動員され、日本人が誘拐されたことも地元で大きく報じられるようになっており、20日には、当時のパキスタン首相ナワーズ・シャリーフが「パキスタンに汚名をもたらした事件の解決に全力を挙げる」と記者会見で異例の声明を発表。

パキスタン政府としては、不手際を犯して最大のODA供与国・日本との関係を悪化させるわけにはいかなかったのだ。

そして誘拐されてから44日目の4月30日、最終的な合意をしたダコイトは二人を解放した。

解放された二人

交渉は主にパキスタン側が引き受けていたために、その合意に至った条件の詳細な内容は公表されていない。

だが、パキスタン側は否定しているとはいえ、100万ルピー(600万円)ほどの現金が支払われたとの見方がされている。

イタい冒険者たちの帰国

解放された早大生二人は、解放現場のシンド州インダス川流域から車で、川下りの目的地だったカラチに到着。

在カラチ総領事館に入ってから、シンド州警察の事情聴取や健康チェックなどを受けた後、先に解放されていた高原とともに、5月4日に日本に帰国する。

身内や大学のサークル仲間及び関係者らはもちろん安心したが、世間は彼らを無謀で軽率な行動をして、日本・パキスタン両国政府に迷惑をかけたと批判的な見方が一般的だった。

記者会見では、ねぎらいの言葉よりも厳しい質問が多く、三人は『関係者に大変な迷惑をかけ、反省している』『身代金は払われていないと聞いているが、もし払われていたら働いて返す』と、神妙な面持ちで答えて頭を下げた。

記者会見する三人

だが、本当に心の底から反省していたかは疑わしいと世論は見ていた。

「悪気があってやったわけじゃないのに何で?」という怒られた時の子供のような顔をしているように世の人々の目には映っていたのだ。

早大生の行動に批判的な報道が多かったし、帰国前、彼らはカラチの総領事館でマスコミに『我々がやろうとしたことを理解してほしい』など書いたメモを渡したことも新聞で報道されたりと、その無責任さを糾弾する空気も作り出されていたのが大きい。

彼ら早大生が乗っていた飛行機には偶然、後にアフガニスタンで医療活動や用水路建設で活躍することになる医師・中村哲氏が乗っており、彼らの態度を見続けていた中村氏は、後に新聞記事で『空港での賑々しい記者会見で英雄気取りの態度に、軽蔑の思いで唾の一つでもかけたくなったものである』と憤激。

『パキスタン政府の面目を実質上潰し、日本の恥をふりまいて、意気揚々と帰国した』とまで罵倒している。

中村哲氏

さらに、記者会見での『これからも川下りを続けるか?』という質問に対して、天然ボケと受け取られるような言葉を吐いて世間を完全に敵に回す。

『どこが悪かったかを、しばらく考えて決断したい』などと、人によっては「これにめげずに冒険を続ける」とも解釈できる発言をしてしまったのだ。

それによって、彼らはさまざまなバッシングを受けることになってしまった。

悪気があってやったわけではないのは事実だろうが、計画性のなさと、見通しが甘すぎたのも事実である。

20歳くらいの年代ならば、このような経験と思慮のなさゆえに失敗することは十分ありうるが、彼らはそれを海外でやってしまい、結果的に国際的な大騒動に発展してしまったのだ。

誰にでもある若さゆえの過ちの代償は、人によって、或いは場合や状況によっては、とてつもなく大きなものとなりうる。

バッシングを受けた日々は、ダコイトに監禁されることには及ばないだろうが、耐え難い苦痛だったことだろう。

やがて月日は流れて、世間の早大生たちへの怒りも冷めてゆき、彼らも誰にも知られることなく卒業して社会に出た。

事件が全く語られなくなった現在、誘拐された早大生の一人だった大浜修一は、フリーランスのカメラマンとなって活躍している。

卒業後は某出版社に就職し、専属のカメラマンを経てから独立したらしい。

自分たちを叩いたマスコミの世界に、果敢に入っていったのである。

若き頃にパキスタンでは大失敗したが、少なくとも彼は、日本国内において冒険を続けていたといえるのではなかろうか。

出典元―読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、週刊文春

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90年デンバー、日本人大学生襲撃事件:白人至上主義者の暴力

本記事に登場する氏名は、一部を除き、全て仮名です。


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1990年10月7日深夜、アメリカ合衆国コロラド州デンバー市のダートマス公園。

六人の日本人大学生が現地の若者四人に襲撃され、暴行を加えられた上に金品を奪われる事件が起きた。

当時の日本はバブル期真っただ中。

日本経済は最盛期であり、有り余る金と強い円を背景に、人も企業も海外に進出していた時代である。

同時に、安全な日本と同じ感覚でふるまって犯罪者の恰好の餌食になる邦人が後を絶たず、危機管理の意識の低さが指摘されてもいた。

この災難に遭った六人の若者も、その無自覚な日本人の典型例であることは間違いがなく、彼らのケースは「こうなってはならない」という悪い見本として、その後しばらく語られることになってしまった。

日本人ばかりのアメリカの大学

帝京ロレットハイツ大学(現コロラドハイツ大学)

襲われた日本人大学生たちは、同デンバー市のサウス・フェデラル・ブルーバードにある帝京ロレットハイツ大学の学生たちである。

帝京ロレットハイツ大学とは、その名のとおり日本の私立大学である帝京大学の系列であり、もともと経営難で破産したカソリック系の学校を受け継いだリージス大学から、前年の1989年に買収したものであった。

「国際化」が叫ばれ始めた80年代後半から日本の私立大学の米国進出が相次いでおり、帝京大学もその波に乗ったのだ。

同大学はこれ以後、デンバーの同校と合わせてアメリカに系列の大学を五校も開校させることになるのだが、この帝京ロレットハイツ大学は、他の四校とはやや違った点があった。

それは、建物と土地は揃っていたが、肝心の教授や教員、清掃や事務担当の職員などもおらず、何より、元からそこに通っている在学生がいなかったことだ。

そこで、買収の翌1990年に開校して、新入生の受け入れを始めたのだが、何と帝京大学はその新入生を全て日本国内から募集し、その数は374名にものぼった。

そして、この学生たちの多くは、アメリカの大学に来たからと言って、英語力も目的意識も高い者たちではなかった。

帝京大学を受験した受験生の中で、第二志望として、同じ帝京大学系列の同ロレットハイツ大学を希望するかという試験中に回ってきた書類に〇をつけた結果、ここへ入学することになった者がかなりいたのだ。

つまり、そういった新入生は、第一志望がこのロレットハイツ大学というわけではなく、日本国内の帝京大学に落ちた結果、アメリカまで来ることになったということである。

中には、そこしか合格できなかった者もいたようだ。

しかも、同校の教授陣やスタッフはアメリカ人とはいえ学生は日本人ばかりと、まるで日本国内の大学であるかのようであり、彼らも、日本にいるかのようにふるまうようになった。

もちろん、友達はみな日本人で、いつも話しているのは日本語である。

彼らが現地入りしたのは4月で、9月の本入学まで時間があり、それまで他の州へ研修に出かけたりと、みっちり英語のトレーニングを受けさせられていた。

しかし、元々のレベルがたいしたことなく、周りが日本人ばかりの環境では、どの程度向上したか推して知るべしであろう。

事実、本入学から学校での授業は全て英語だったが、学生たちのほとんどは、その内容を理解できなかったという。

どう考えても、アメリカの大学に来た意味がほとんどない。

もっとも、学校の外は完全にアメリカの街であり、ずっと学内や寮に閉じこもっているわけにもいかない学生たちは、最低限街に出る必要はあった。

だがこのデンバー市は、アメリカの中でも治安がかなり良い街であり、開校前にも地元住民たちによる露骨な反対運動なども起きておらず、街に金を落としてくれると、同市は帝京大学の進出を表向きは歓迎していた。

おかげで、彼ら日本人学生も街中で、受験から解き放たれた解放感をたいして危険な思いをすることなく、味わうことはできたようである。

しかし、この1990年は、国内経済が低調だったアメリカの不動産や企業などを日本企業が買いあさっていたこともあって、アメリカ人の間でやっかみ半分の「ジャパンバッシング」が起こっていた時代だった。

ジャパンバッシング

この一見友好的で平穏そうなアメリカ中西部の街にも、金にモノを言わせて大挙してやって来た日本人たちに反感を募らせ、それを行動に移す者たちはいたのだ。

帝京ロレットハイツ大学は、その年の開校早々、学校の敷地内に「ジャップス・ゴーホーム」と書かれたダイナマイトに似せた発煙筒が投げ込まれたり、学生の中には、白人の若者に怒鳴られたり、モノを投げつけられたりの嫌がらせを受ける者も出はじめた。

正式な授業が始まって間もない9月30日には、不用意にも深夜に外出した日本人学生二人が殴られて所持品を奪われる事件が起きているが、これは表沙汰にならなかったこともあって、他の日本人学生たちの危機意識を高めることにはならなかった。

そして翌月の10月7日深夜、これらノー天気な日本人学生たちばかりか、日本本土の日本人まで凍り付かせる事件が起こる。

1990年10月7日、事件発生

その前の日の10月6日は日本人学生の一人、小松善幸の20歳の誕生日。

それを祝って小松の友達の高石健、永田真也らが学校の寮の一室で飲み会を開いていた。

若者たちの飲み会なので、日が変わった夜12時になっても、宴たけなわでお開きになる気配がなかったが、ここは大学の寮である。

寮には「クワイエットタイム」という、騒いではいけない時間帯が規則として設定されており、いつまでもはしゃぎ続けるわけにはいかないのだ。

そこで、まだまだ飲み足りない彼らは、大学のすぐ近くのダートマス公園で飲もうということになり、寮を次々に抜け出した。

もちろん、この行為も寮の規則に違反している。

ダートマス公園(現ロレット・ハイツ・パーク)

彼ら日本人学生たちにとって、誰かの誕生日などは適当な居酒屋もカラオケボックスもないデンバー市では、恰好の憂さ晴らしだったのだろう。

規則を破って公園に集まったのは、30人近くにも上った。

学生たちは、園内の街灯の下に集まって「二次会」を始めた。

バンドをやっている高石の仲間の永田が、持参してきたギターで演奏を始め、酔いが回っていた学生たちも、カラオケ替わりに歌い出す。

デンバー市が、いくらアメリカでも治安の良い街とはいえ、真夜中の公園で飲み会とは無警戒極まりない。

しかし、学生たちは以前にも、他の学生の誕生日を祝って深夜のダートマス公園でこのように騒いだことがあり、今回が初めてではなかった。

しばらく飲んだり歌ったりのどんちゃん騒ぎをしていたが、高原都市デンバーの夜は10月初旬でも冷える。

やがて、大勢いた学生たちも一人二人と寮に引き上げ、残ったのは、今回の飲み会の主役である小松善幸、その友人の高石健、永田真也、矢萩芳樹、前原健吾、久木田恵一の六人のみとなった。

彼らは朝まで騒ぐつもりだったようだが、六人になってほどなくして、自分たちのすぐ近くに人が来ていることに気づく。

寮からの新たな参加者ではない。

現地の白人の若者たちで、全部で四人いる。

そのうち一人の長髪で2m近くの長身の男が口笛を吹くと、彼らは、小松たちを囲むような配置を取った。

その様子から、お友達になりに来たのとは逆であることが明らかであり、おまけに手にバットを持っている。

そのバットの用途は、状況から考えて容易に察しがつく。

相手は自分たちより少人数だったが、どいつもこいつも自分たちより強そうな白人の男たちを前に、肝っ玉の小さい日本人学生たちは震えあがった。

日本の街中で、ヤンキーに絡まれるよりずっと怖い。

「Show me your fukking ID!!」

やがて、そのうち一人の口ひげを生やした男が、IDを見せるように高飛車に命令してきた。

「アイドントハーブアイディー、ビコウズ…えと、えと…」

寮からそのまま出てきたので、IDなど持っているわけがない。

最初、その招かれざる客が公園の警備の人間か何かだと思った学生もいたようだが、続けて白人の一人が金を要求するようなことを言ってきたのを聞くや、誰もがこれはおかしいことに気づく。

彼らの貧弱な英語力でも、これがカツアゲそのものの脅しであることはわかったのだ。

「なあ、これやばいんちゃう?もうずらかろうや…」

六人のうち、矢萩が高石にボソボソとささやいたが、すでに遅い。

もう完全に囲まれてしまっていたのだ。

「Lay down!!」

次に、男たちは腹ばいになれと命令し、永田の持っていたギターを取り上げて破壊した。

呆然と突っ立っていた日本人のうち、前原が長髪の男につかまれて、もう一人の白人に、バットで太ももをはたかれて倒れ込む。

本格的な暴力に震えあがった根性なし六人は、一斉に言いなりになった。

腹ばいになった直後、まず最初に思わず顔をあげた永田がバットで頭を殴られ、それを合図に、他の者たちに対しても仕置きが始まった。

頭を殴り、思わず手で頭を覆うと、すかさずガラ空きの脇腹にバットがジャストミート。

起き上がろうとしようものなら背中に渾身の打撃を加えられ、かと言っておとなしく腹ばいになっていても、連続的にバットの一撃が降ってくるなど、小癪で無慈悲な攻撃が加えられた。

白人の襲撃者たちは、暴行しながら学生たちのポケットを探ったりして、財布やら金目の物を盗ってゆく。

小松は、指にはめていた指輪を先ほど口笛を吹いた長髪の大男に要求されたために、あわてて抜こうとしていたが、まごつき、イラついた長髪野郎に顔を蹴り上げられた。

しかしこの時、四人で六人の相手をしていた襲撃者たちにスキができる。

それを見ていたのか、高石が起き上がるや、公園の外へ向けて走り出す。

さらに、白人たちがそれに気を取られたのに乗じて、矢萩、永田、久木田が逃げ出し、一呼吸遅れて、小松と前原もそれに続いた。

白人たちも追いかけてきたが、てんでバラバラの方向に逃げる日本人学生の誰を優先的に追跡するかまごついたらしく、誰一人捕捉することができない。

逃走中に小松は公園を抜けて通りに出たところ、停車しているパトカーの存在に気づく。

中には警官が乗っており、何か書類を書いている。

助けを求めようと、パトカーのボンネットをたたいたら警官が出てきたが、何と警官は小松を捕まえようとしてきた。

不審者だと思ったようだ。

だが、小松には状況を説明できるような英語力はなく、公園を指さしてとっさに出たのは「向こう!向こう!」という日本語だった。

アメリカで半年間、何をやっていたのだろうか。

その後、小松は一瞬あっけにとられた警官をも振り切って寮に駆け込むことに成功したが、殴られた頭からは流血していた。

他の高石たち五人の学生も、ケガを負いながら逃走に成功していたが、彼らはこの件が表沙汰になることを恐れ、警察に通報することなく部屋に閉じこもる。

アメリカでは、法律で21歳以上でないと酒が飲めず、彼らは皆現役か一浪だったために、その年齢に達している者はいなかったからだ。

また、寮の規則を破って真夜中に公園に行っていたことも具合が悪い。

だが、逃げた小松を追って寮内に入ってきた警官たちに詰問されて、隠し通すことは不可能になる。

ともあれ、全員が負傷していたので、その夜は救急車で病院に運ばれた。

その後

バットまで使った暴行を加えられた彼らだったが、幸いにも頭部裂傷や打撲を負ってはいても命に別状はなく、骨折などの重傷者もなかった。

だが、この事件は被害者の思惑とは裏腹に大いに表沙汰になってしまい、日本国内でも報道されてしまう。

この事件は、当初から日本人に反感を持つアメリカ人によるヘイトクライムではないかと日本国内では予想されており、アメリカの暗部の恐ろしさを、国内の日本人に大いに知らしめた。

同時に、真夜中の公園に出かけて騒いでいた日本人学生の軽率さにも非難の声が上がる。

その声は、特にアメリカ在住の日本人や日系人からのものが大きかった。

さらには学生たちだけでなく、アメリカ国内に開校した学校に日本人だけを受け入れたおかげで反発を招いたとして、帝京大学を批判する人も少なくはなかった。

一方、現地のデンバー市警も、この事件はヘイトクライムである可能性があるとして捜査を開始。

その結果、一か月後の11月にロレットハイツ大学の近所に住むジェームス・クロース(実名・当時18歳)、ハワード・クロース(実名・当時17歳)、デリック・ニース(実名・当時15歳)、トム・スティーブンス(実名・当時20歳)を、事件に関係したとして逮捕した。

これらの犯人のうち、ハワード・クロースは主犯のジェームスの弟で、同じくこの事件の犯人であるデリック・ニースとともに、直前の9月30日に起こったロレッタハイツ大学の日本人学生の暴行にも関与しており、9月の事件の捜査で容疑者として浮かび上がった結果、この事件にも関わっていたことが判明して、犯人全員が御用となったようだ。

犯人たちは不良少年グループであり、日本人学生を暴行する直前には、駐車していた車を破壊している。

そして、ジェームスとハワードの兄弟は、白人至上主義者との関わりを周囲に吹聴し、普段から公然と日本人のことを「ジャップ」と呼んで嫌悪していた人種差別主義者でもあった。

日本の報道では、彼らが白人至上主義の秘密結社であるKKK(クー・クラックス・クラン)の関係者の可能性を指摘していたが、実際はスキンヘッズなどの団体の名刺をもらってはいても、有色人種襲撃などの目立った武勇伝を持っていないジェームスたちは、当の白人至上主義者から軽んじられていたらしい。

そんなジェームスらが日本人を襲ったきっかけは、全くの偶然だった。

それは、犯人グループ四人に少女二人を加えた六人が、その夜にビールを飲んだ後にドライブに出かけ、途中他のグループに喧嘩を吹っ掛けられたことから始まる。

相手は人数でかなわぬとみたらしく退散したが、彼らのむしゃくしゃは収まらず、家に帰ってバットやこん棒を車に積み込むと、誰でもいいから殴るつもりで、再び出かけたのだ。

事件の舞台となったダートマス公園の近くまで来た時、駐車していた車をうっぷん晴らしに破壊した後、彼らは園内から響く騒ぎ声を耳にした。

「あいつらをやろう」

まだまだ暴れ足りないジェームスたちの次なるターゲットは決まった。

彼らも、よくこの公園で夜中にビールを飲んだりして騒いだことがあり、「誰だか知らねえが、オレらの縄張りで勝手なことしやがって」という気持ちもあったんだろう。

公園内で騒いでいるのが何者か、まだこの時点ではわからなかったが、女たちを車に残して、四人はぶちのめす気満々でバットやこん棒を手に園内に入って行き、同暴行事件が起きることになる。

日ごろから嫌っているジャップが相手だとわかり、相手の中に抵抗してくる気合のある者がいなかったこともあって、ジェームスたちは大張り切りで、やりたい放題やってしまったのだ。

主犯のジェームスは警察の取り調べで、日本人に因縁をつけて暴行したのは、主に弟のハワードとデリックであり、自分は暴行にバットなどを使っていなかったし、自分が暴行に参加したのは、日本人に殴られたためだと主張。

しかし、このジェームスは長髪に195cmの長身という特徴があり、被害者の学生たちの証言で出てきた口笛を吹いて他のメンバーに指図したり、小松の顔を蹴り上げて指輪を奪ったりの大活躍をした、まさにその人物であったことは言い逃れようがなかった。

そして開き直ったのか、警察でのビデオ撮影付きの事情聴取ではふてぶてしい態度を取り、「ジャップ」という差別用語を何度も使い、白人至上主義者との交流をここでもほのめかした。

だが、この態度と供述で、ジェームスは墓穴を掘ったことになる。

アメリカは、人種差別がらみの犯罪には厳しい国だ。

ジェームス・クロースは、くだんのビデオでの供述の結果、翌年1991年5月の裁判において、ヘイトクライムの他、加重強盗、第二級暴行罪などで有罪になり、下された判決は何と懲役75年。

求刑の際には、自分の予想をはるかに超えた刑期だったことに動揺し、195cmという無意味に大きな体をくねらせて慟哭したという。

弟のハワード・クロースも、犯行当時17歳であったが成人と同じように裁かれ、ヘイトクライムで悪質極まりなかった犯行に積極的に加担したこともあって、兄と同じ懲役75年を下された。

デリック・ニースは、犯歴を重ねた本格的な不良少年であり、学生たちにIDを見せろと命令したり、暴行にも大いに参加していたが、15歳という年齢から少年裁判所で裁かれ、刑期はたったの2年だった。

トム・スティーブンスは、最年長の20歳だったが、犯行にはあまり関わっていなかったとみなされ、裁判で証言をすることを条件に司法取引し実刑を免れた。

一方の被害を受けた学生たちのうち、小松、高石、前原、久木田は、その後も大学に通い続けたようだが、永田と矢萩は退学して日本に帰ってしまった。

日本は事件の翌年、バブルがはじけて失われた時代が始まり、もはや我が者顔で日本人が海外をのし歩ける時代ではなくなっていったが、帝京ロレットハイツ大学はコロラドハイツ大学へと校名を変更し、帝京大学グループのうちの一校として、現在も存続している。

そして、この事件は、その後しばらく、これから海外へ出ようとする日本人に対する警鐘を鳴らすものとなった。

しかし、その警鐘は長く響かなかったか、聞こえても耳を素通りしていた者がいたようだ。

翌1991年のパキスタンを舞台に、この帝京ロレットハイツ大学の大学生を、はるかに上回る軽率さと身勝手さで、より大規模な犯罪に巻き込まれる日本人大学生が現れるのである。

続く

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知られざる女子高生コンクリ詰め殺人発覚当時の報道(後編)


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1989年3月に発覚した、足立区綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人。

2022年の現代になっても語り継がれ、世界的にも知られている悪名高きこの事件は大きく報道され、1989年の日本に大きな衝撃を与えた。

殺された女子高生・古田順子さんは不良でもないし、犯人たちを怒らせるようなことは何もしていない。

上場企業の部長職を務める父と母、兄と弟の三人兄弟という健全な家庭で育っており、家族思いで母親の家事もよく手伝い、近所の人にも挨拶ができたため「よくできた娘さんだ」と評判だった。

学業成績や学校での素行にも問題はなく、身も心も華のある彼女は、友達も多かったという。

かといって傲慢な態度をとることは全くなく、誰からも愛されていたのだ。

そんな順子さんが、卒業後の進路として家電量販店への就職が決まり、残りわずかとなった高校生活を満喫していた頃に、宮野ら鬼畜たちの毒牙にかかり、若い命を絶たれてしまった。

理由はただひとつ。

彼女の容貌が、彼らにとっても魅力的だったからだ。

おまけに彼らは、欲しいものがあったらモノでも人でも、奪うことを無計画に繰り返す無法者たちでもあった。

両親や兄弟はもちろんのこと、同級生たちも彼女の死を悲しみ、葬式では、慟哭の嗚咽がこだましていた。

そして、葬式にはいなかったが、家族と同じくらい深い悲しみと喪失感に打ちひしがれ、怒りに身を震わせていた人物がいた。

順子さんの彼氏である。

彼氏が語る順子さんと過ごした日々

彼氏であることを自ら名乗り出て、某女性誌のインタビューに応じ、同誌記者にそのやるせない心情を語ったのは、川村(仮名)という建築作業員の23歳の青年であり、順子さんとは歳がやや離れている。

高校を中退しているが、犯人の宮野たちのように当然の権利のごとく道を踏み外すことなく、まじめに生きてきた勤労青年だ。

川村青年が語ったところによると、順子さんとの出会いは、事件が起こる前の年のクリスマス。

友人の一人が順子さんの親友と交際しており、その縁で初めて顔を合わせた。

「目が大きくて明るい子」

それが、川村青年の彼女に対する第一印象だったという。

それから二回ほど、その友達も含めた複数名で遊びに行ったりしてほどなく、本格的な交際が始まる。

川村青年のことを気に入ったらしい順子さんの方から、「今度は二人だけで会いましょう」と言ってきたからだ。

付き合うようになってすぐに迎えたバレンタインデーの日。

お菓子作りが好きだった順子さんは、手作りのチョコレートを贈ってくれた。

2月は彼女の誕生日でもあり、チョコレートをもらった川村青年は18金のネックレスを贈る。

それから、週に一回くらいデートをするようになったのだが、順子さんはいつも律儀にも、そのネックレスをつけてきた

また、彼女は普段から非常に気が利き、六歳も年下なのにこちらの気持ちを察してくれたらしい。

非の打ちどころのない子だったのだ。

夏になると、川村青年の運転する車でよく海へ一緒に遊びに行ったりして、1988年という年は、幸福に満たされて過ぎていく。

やがて秋になり冬が近づいてきたころには、「冬になったらスキーに行こう」などと話し合ったりもした。

秋も深まった11月23日は、川村青年の誕生日。

その日のデートでは、順子さんはセーターを持ってきてプレゼントしてくれた。

彼女の手編みの黒いセーターだった。

その日は、二人で食事をしてボーリングを楽しみ、順子さんを自宅まで送り届ける。

「またね!」

別れ際、笑顔で手を振る順子さん。

この時、川村青年はこれが順子さんを見た最後となるとは、つゆほども思わなかったに違いない。

だが、この最高の彼女はその二日後、青年の元から永遠に奪われることになる。

彼氏の悲憤

デートから四日後の27日。

順子さんの母親から、ただ事でない連絡を受ける。

娘が、学校の制服のまま失踪したというのだ。

自分の彼女が消えて、平然と構えていられる男などいない。

川村青年は心当たりのある所を血眼になって探し始めた。

休みの日はもちろん、仕事が終わってからも。

そのさなか、再び順子さんの母親から連絡が入り、順子さんが「家出しただけだからすぐに帰る」と、電話で伝えてきたことが知らされる。

これは当の母親はもちろん、川村青年も「これはおかしい」と感じた。

不自然すぎるし、何かあったのなら共通の知り合いに真っ先に連絡があるはずだと考えたからだ。

何かよくないことが起こっていることを、彼はこの時点で確信したという。

事実、この電話は監禁されている最中に犯人によって言わされたものだったことが、後の調べで判明している。

その後も、川村青年は独自で必死の捜索を続けたが、何の手がかりも得られない。

昨年順子さんと出会い、今年は一緒に楽しむはずだったクリスマスが過ぎ、年が明けて正月も過ぎ、バレンタインデーも過ぎ、彼女の18歳の誕生日も過ぎた。

そして3月30日。

その日は、川村青年にとって、それまでの人生で最も悲しく、最も怒りを覚えた日となる。

埋め立て地のコンクリート詰めのドラム缶の中から、順子さんがむごたらしい死体となって発見されたのだ。

その知らせを聞いた後、川村青年はフラフラと親友のアパートに転がり込み、悲嘆のあまり正気を失うまで酒を飲んだ。

4月1日、順子さんの通夜。

川村青年もひっそりと線香をあげに行ったが、翌日の葬式には姿を見せなかった。

その代わりに、彼女の死体が発見された埋め立て地に花を供えに行き、ひとりむせび泣いたという。

「もう順子ちゃんとは会えない」

4月の中頃、まだ悲しみと怒りの真っただ中だった川村青年は酒浸りの生活になっており、生前の順子さんに勧められて禁煙していたタバコをひっきりなしに吸いながら、涙声で記者に語った。

そして犯人たちについて話が及ぶと拳を握りしめ、当然ながら憤懣やるせない様子でこう言った。

「あいつらの顔は覚えた!出てきたら同じ目にあわせて殺してやりたい!!」

この取材までの間に、彼は被害者側の関係者として刑事から犯人たちの写真を見せられており、その顔を目に焼き付けていたのだ。

「あいつら人間じゃない!」

川村青年はそう吐き捨てながら怒りに震えていたという。

少年ならば何をやっても許されていた時代

そう、人間じゃない。

やったこともさることながら、逮捕されて刑事処分を受けた四人のうち三人が出所後に罪を犯しているから、本当にそのとおりだ。

宮野裕史は、振り込め詐欺の片棒をかついだ。

小倉譲は、出所後も反省するどころか周囲に犯行を自慢、そればかりか知人男性を監禁して暴行。

湊伸治に至っては殺人未遂まで犯した。

異様に軽い判決を下した裁判官の一人は彼らに、「事件を、各自の一生の宿題として考え続けてください」などと、迷言を吐いていたらしいが、そんな宿題をまじめにやるような奴らだと思うか?

90年代初頭、この事件を扱った書籍が何冊か世に出る。

そのうちの一冊の作者は、拘留中だった犯人本人たちにも面会して取材し、その著作で彼らの育った家庭環境などの面から、この事件を社会の問題として扱っていた。

それを読むと、まるで未成年だった犯人たちが、ゆがんだ家庭と社会環境の犠牲者であり、そのおかげでこの事件が“起こってしまった”かのような印象を受ける。

今から見れば、先のことだからわからなかったとしても、バカげた主張にしか思えない。

何歳だろうが、どんな環境で育とうが、救いようもなく悪い奴というのは世の中にはいるもので、まさしく彼らがそれに該当していることは、出所後に事件を起こしていることから、すでに証明されているではないか!

だが、事件が起きてからほどない、これらの本が出版された当時というものはまだ人間性善説が全盛で、社会の安全を守るために殺処分が必要なくらいのレベルの未成年の悪党が、世の中にいないことになっていたようだ。

現代ならば、未成年でも彼らのうち複数名が、無期懲役の判決を下されていたはずである。

あの時代から生き、凶悪犯罪を犯した者が少年だという理由で、甘い判決を下されるのを目の当たりにし、他人事ながら釈然としない思いをしてきた者から見て、犯罪に対してより厳しくなった点に限って言えば、今の日本は、あの時より良くなっているのかもしれない。

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知られざる女子高生コンクリ詰め殺人発覚当時の報道(前編)


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時代が平成になって間もない1989年3月29日。

ひったくりと婦女暴行により、練馬少年鑑別所に収監されていた宮野裕史(当時18歳)の自供により、異常な殺人事件が発覚した。

それは令和4年の現在の日本ばかりか、世界的にもある程度知れ渡ってしまうほどの悪名を誇る伝説的凶悪事件。

足立区綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人である。

この事件は翌日には新聞やテレビのニュースで報道され、やがてワイドショーや週刊誌にも取り上げられて、当時の日本社会に衝撃を与えた。

当時、中学3年生になったばかりだった本ブログの筆者は、そのころのことを未だによく覚えている。

三十年以上過ぎた現在では、同事件についてネットや書籍で語りつくされている感があるが、犯行が伝えられた当時の報道のされ方は、どのようなものだったのだろうか?

本ブログでは犯行の詳細はさておき、当時この事件がどのように伝えられたかをご紹介したい。

事件直後の報道=被害者にも非がある

翌3月30日、警察は宮野と共犯の小倉譲(当時17歳)の両名を埼玉県三郷市の高校三年生・古田順子さんに対する殺人・死体遺棄容疑で逮捕、事件はその日のうちに新聞・TVなどで報道された。

そして事件の現場は、ほどなくして共犯として逮捕された湊伸治(当時16歳)が両親や兄と住む民家の二階であり、事件前から不良少年たちが出入りするたまり場だったことが判明する。

当時、そんなハイエナの巣のようなところに、なぜ高校生の女の子がいたのか?という疑問が指摘された。

そして何より、下の階では湊の両親が居住していたのだ。

無理やり連れ込まれたとしたら、助けを求めなかったのはなぜか?と、誰しもが思った。

また、おそらく、取り調べでの犯人たちの供述をもとにしたのであろうが、

『順子さんが水をこぼしたのを少年たちがとがめたところ、反抗的な態度をとられたので、殴る蹴るの暴行を加えた。順子さんも抵抗したので暴行がエスカレートした結果、死に至らしめてしまった』

と報道した新聞社もあった。

このことから、

  • 被害者の少女も素行に問題のある、それなりの不良だったのではないか?
  • 家出か何かの事情で自ら望んでそこへ行き、何らかのトラブルを起こして、自業自得のような形で暴行を受けて、結果的に死んでしまったのではないか。

まだ事件の詳細が知られていない頃には、そんな印象を持った人も多かったようだ。

この1989年の前年には、名古屋でカップルが未成年のグループに殺される事件が発生しており、少年犯罪が、すでに成人顔負けに凶悪化していたことは、当時の社会でも認知されていた。

その一方で、どんな凶悪な不良少年でも、まさか何の罪もない女子高生を誘拐して監禁したあげくに、いじめ殺すほどのことはしないだろう、とも世間一般では考えられていた節がある。

つまり、被害者の女の子も、それなりのことをしなきゃそんな目に遭わないだろうとも。

どんな事件が起きても、不思議ではなくなってしまった現代ではないのだ。

だから、「殺された女の子にも問題があったはずだ」ということを、したり顔でのたまう識者すらいた。

それは、一人や二人ではない。

だが、この事件は世間が思っている以上に悪質だったことが、ほどなくしてわかる。

「そこまでするわけがないだろう」という当時の閾値を、大きく超越していたのだ。

遠慮がないマスコミ

事件が発覚した次の月の4月になると、だんだん犯行の経緯や詳細が判明してきた。

知る人ぞ知るとおり、宮野たちは最初から強姦目的で、不良少女でも何でもない女子高生を拉致して湊の家に監禁、42日間にわたって暴行・虐待し続けたあげく死に至らしめ、死体の処理に困ってドラム缶にコンクリ詰めにして埋め立て地に捨てた、という前例のない非道なものだった。

この情状酌量の余地の全くない猟奇的少年犯罪に、マスコミは色めき立った。

もともと、少年犯罪というのは社会の注目を集めやすい。

また、どんな残虐な殺人事件でも、どうも男を複数人殺すより女を一人殺す方が、悪いことに思われる傾向がある。

それも、殺されたのが若い女性だったりすると、世間の人々は怒りを覚えながらも、同時に大いに興味を持つようだ。

しかも、被害者が美女だったらなおさらである。

この事件は、それらの条件をすべて満たしていた。

マスコミも商売だから、それを見逃すはずはない。

そして、この時代のマスコミは、現代のそれより仕事熱心でモラルがなかった。

連日、ワイドショーなどは特集を組み、犯行が行われた家には取材陣が殺到。

加害者の母親を路上で追い回すならまだしも、悲しみに沈む被害者の家にもマスコミは押しかけて、インターホンを押して心情を聞こうとすらした。

そして、マスコミが去った後の被害者宅の近くにはたばこの吸い殻などのゴミが散乱していたというからあきれる。

また、あるワイドショーなどは被害者の少女の名を「ちゃん」呼ばわりしていた。

幼女ではないのだ。無遠慮にもほどがあるだろう。

テレビでも新聞でも、被害者の写真が何のためらいもなしに公開されていたが、週刊誌はこの点で、ことさら露骨だった。

某女性誌などは、事件の内容を伝える記事とともに、どこから入手したのか、被害者が夏休みに旅行に行った際の写真を複数枚掲載。

その中には、水着姿の写真まであった。

だが、それだけに飽き足らず、くだんの某女性誌は切り札を出してきた。

それは、被害者の彼氏のインタビューである。

つづく

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ドロボー少女に緊縛制裁 ~戦後無法~

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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戦争末期と戦後の昭和二十年代前半の日本は、食糧難の時代だった。

いくら昭和は芳しく見えても、この時代は誰だって嫌だろう。

一応戦後も配給制は存続していたが、そんなもので足りるはずもなく、全国各地の焼け跡に闇市が出現し、都市部の住民は着物などの持ち物を農村に持ち込んで作物と交換していたし、東京では不忍池や国会議事堂前にまで畑が作られていた。

そして、その畑から作物を盗む者も現れるようになる。

だが、そんな食糧危機の時代に食べ物を盗んだら、ただじゃすまない。

捕まったら最低数百発は殴られる。グーどころか棒で。

冗談抜きに殺された例もある。

人心は荒廃していて、食べ物の恨みは現代とは比べものにならないほど深かった。

現代みたく怒られて終わりだったり、「腹が減ってたのか。かわいそうに」なんて同情されるような甘っちょろい時代じゃない。

何より畑の主も次から次に現れる畑荒らしに、神経をとがらせていた。

1946年、栃木県宇都宮市西原で馬鈴薯を栽培していた農民の菊池太平(当時46歳)もその一人だ。

馬鈴薯は闇市の人気商品で、高値で取引されていたために、畑荒らしにも人気の作物。

腹も満たせるし、懐も温めることができるために、よく狙われていた。

菊池の馬鈴薯畑もご多分にもれず被害に遭っており、これまで丹精込めて作った作物を畑荒らしにしょっちゅう盗まれて、気が立っていたらしい。

同年5月、そんな男の畑から馬鈴薯を失敬しようと忍び込んでしまった者がいた。

木村千枝子という、何と20歳の女である。

しかも木村は、この一週間後に婚礼を控えていた。

そんな身の上の女がこんなことに手を染めるんだから、いかにこの時期の日本が食糧難にあえいでいたか、わかるであろう。

とはいえ、彼女が盗もうとした馬鈴薯は20キロ近くの量であり、なかなか大胆である。

だが、彼女は盗みに入る畑を間違えた。

この畑は立て続けの被害に怒り狂い、危険な状態となっていた菊池の畑だったのだ。

そして、より不幸なことに菊池に犯行を目撃されて、捕まってしまった。

「このデレ助が!!」

女だろうが容赦はしない。

これが初めてだったとかも関係がない。

誰の畑を荒らしたかわからせてやる。

菊池のこれまでの積もり積もった怒りが、すべて20歳の女ドロボーに向く。

木村は家に連れ込まれ、その夜、拷問に近い仕置きを受けた。

翌日になっても許してもらえない。

縄で縛り上げられた木村は、電信柱に括り付けられた。

近くには立札が立てられ、そこには『社会の害虫、野荒し常習犯』と書かれている。

痛めつけられただけではなく、さらし者にされたのだ。

だが、これはさすがにやりすぎだった。

見物人の中に通報した者がいて、菊池は過剰防衛で逮捕されてしまった。当たり前だ。

もっとも、ボコられて生き恥をさらされた木村も窃盗罪で捕まったが。

怖い時代だ。

昭和30年代の日本も貧しかったが、餓死者出るほどじゃなかったはずだからまだ人情味が入り込む余地があったが、戦後くらい貧しいと人間は、ここまで心がささくれ立つということだ。

「現代に生まれてよかった」と思うかもしれないが、日本でこのような食糧危機は、もう起こらないとは限らないのではないだろうか。

少なくともこの時代は農民も多かったし、食糧自給率は輸入に多くを頼っている現代の日本より、ずっと高かったのだ。

日本の経済力がさらに低下して、外国から安い食料が買えなくなったら…。

全く考えられない悪夢ではないはずだ。

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仙台アルバイト女性集団暴行殺人

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2000年(平成12年)12月24日、宮城県仙台市でアルバイト店員の女性、曳田明美さん(仮名、20歳)が暴力団員を含む8人の男女に拉致されて6日間にわたるリンチの末に殺害され、遺体は灯油で焼かれて遺棄されるという悲惨な事件が起きた。

こんなむごい殺され方をするなんて、この曳田という女性はよっぽどのことをしでかしたんだろうか?

いや、実は全く何もしていない。

グループの一人の一方的で身勝手な思い付きとその他全員の勢いだけで監禁され、何の落ち度もないのに残忍な暴行を加えられ続けて殺されてしまったのだ。

犯人たちと事件の発端

この凶行を犯したのは、某広域指定暴力団組員の平竜二(仮名、25歳)、大野和人(仮名、21歳)、平の弟分で同組員の猪坂大治(仮名、21歳)、大野の彼女である木場志乃美(仮名、21歳)、田中久美子(仮名、20歳)、兼田亮一(仮名、19歳)、高橋衛(仮名、18歳)、赤塚幸恵(仮名、19歳)の男女8人である。

もっとも、ずっと以前からつるんでいたわけではなく、事件が発生する直前までに知人を介して知り合って、たまたまその場に居合わせた者もいたという関係性が希薄な集団であった。

そして、当然どいつもこいつもまともな連中ではない。

暴力団員まで含めたこのろくでなし集団が、よってたかって一人の女性を死に至らしめることになる事件の発端は、被害者となる曳田明美さんとは全く関係がないところで始まった。

それは2000年12月中旬ごろ、一味の一人である木場志乃美のもとに、ある男からメールが送られてくるようになったことからである。

そのメールは、木場に対して気があるようなことをにおわせる内容であったが、木場本人にはその気はなかった。

むしろ、不快極まりない。

同じく一味の一人である大野和人と付き合っており、同棲までしていたからなおさらだ。

木場は、彼氏である大野にこの件を言いつけた。

メールを送ってきた男は大野の顔見知りではあったが、自分の女にそんなことをする奴は許せない。

「ふざけやがって。シメてやる」といきり立った。

大野は窃盗で少年院に送られたこともあるし、暴力団構成員の平や猪坂とつるんで、暴力団事務所にも出入りしているから準構成員と言ってもよいが、中途半端に危険な男だ。

だから、一人でやる気はさらさらない。

他のメンバーにも声をかけて頭数をそろえた上で、一味の親玉であり暴力団組員の平竜二にもお願いして仙台市内の組事務所マンションを使わせてもらうことに成功。

平はこの組の部屋住みらしく、普段この組事務所で寝泊まりしており、融通が利いたようだ。

ほどなくして12月18日夜に相手の男を事務所に呼び出すや、平らとともに殴る蹴るの制裁を加える。

さんざん殴られた男は顔を腫らして完全に泣きが入ったため、ヤキを入れる目的は順調に果たした。

しかし、調子に乗った大野は、おさまらなかったらしい。

「誰か、こいつ以外にヤキ入れてー奴いるか?ついでにやっちまおう!」などと言い出したのだ。

組事務を使わせてもらって気に入らない奴を痛めつけることができたから、のぼせ上っていたのだろう。

それに、すかさず答えた者がいた。

大野の彼女、この制裁の発端となった木場志乃美である。

「中学ん時の一コ下でさ、約束破った奴いるんだよね。そいつやっちゃおうよ」

「よっしゃ。で、どんな奴?女?」

「曳田明美って女。ウリ(援助交際)しないって約束したのにしやがってさ」

「おう、その曳田って女、今から呼び出せ」

親分気取りの平も了承し、惨劇の幕が切って降ろされることになった。

深夜の呼び出し

曳田明美さん(仮名)

曳田さんは、援助交際など全くしていない。したこともない。

健全な家庭で育っており、進路が決まるまで自分を見つめなおそうと普段ファミレスでアルバイトをし、夜間に出歩いて両親に心配をかけたりすることが全くない、まじめな性格の持ち主だった。

完全に木場のホラである。

そもそも両人とも、そこまで長く深い付き合いではない。

あくまで木場の供述なのだが、曳田さんは中学の後輩だったとはいえ、実際に木場との交友が始まったのは、事件が起こった年の3月ごろからだという。

また、実際には特に怨恨らしい怨恨も全く発生していないようだ。

にもかかわらず、木場はこの時もう日付けが変わって19日の深夜になっているのに、曳田さんを痛めつけるために呼び出そうと携帯に電話する。

一方、真夜中にいきなりの呼び出しの電話を掛けられた曳田さんは当然断った。

「もう夜遅いから無理ですよ。これからお風呂だし」

だが、しつこい誘いと「今から迎えに行くから」という強引さに根負けしてしまい、しぶしぶ了承してしまう。

この時のやり取りを、隣の部屋にいた曳田さんの妹が聞いていた。

普段、携帯電話で話をする時は、いつも楽しそうにしゃべっていた姉だったが、この時は本当に憂鬱そうな声で対応していたという。

第一、この付き合いは木場の一方的な思い込みであり、さほど親しい間柄でもない。

それどころか曳田さんの方は、つきまとう木場をできることなら避けたかったらしいことが、ある友人の証言で明らかになっている。

木場は性格が極めて陰険で、高校を中退してから窃盗などの犯罪歴を重ね、今では暴力団関係者とつるみ続けているクズ女だったからだ。

かと言って、お人よしすぎるところがあった曳田さんは、きっぱり拒絶することもできず、中途半端な状態が続いていた。

また、前述のごく少数を除いて、曳田さんの友人知人の中に木場との付き合いがあることを知っている者はいなかった。

木場が痛めつける相手として嘘までついて曳田さんを選んだ納得のいく具体的な理由は事件後に逮捕されてからも明らかになっていないが、木場の方は曳田さんのよそよそしい態度を感じて、ムカつき始めていたのではないだろうか。

自分勝手な奴に決まっているから、なぜ自分が避けられているか考えるはずもなく、「親しくしてやってるのに距離とろうとしやがって」と逆ギレし、その逆恨みの感情がきっかけになった可能性が高い。

曳田さんは、木場に言われるまま翌19日の午前4時に家を出て、迎えに来た大野と木場の車に乗り、前述のマンションに向かう。

あまりいい予感はしなかったであろうが、まさかこれから連日地獄のような暴行を加えられて、命を絶たれることになるとは思いもせず。

凄惨な暴行の始まり

大野と木場に連れられてマンションの一室に入った、曳田さんは凍り付いた。

その一室の雰囲気は暴力団事務所なだけに、とても普通の住居やオフィスとは思えないだけでなく、明らかに堅気ではなさそうな雰囲気の者たちがこちらを剣呑なまなざしで見ているし、何より顔を腫らした男が正座させられているではないか。

「オメーも正座しろ!」

木場が突然豹変して、高飛車に命令してきた。

何のことかわからないが、その場の雰囲気に押されて言われるがまま正座した曳田さんを、鬼の形相でののしり始める。

「何でヤキ入れられるかわかってるべが!?おめえ約束破ったろ!!」

「え、約束って…何のことですか?」

「しらばっくれんじゃねえ!」

木場は拳で有無を言わさず曳田さんの顔を殴った。

「オメー何だ!その態度はよう!おう!?」

完全にでっち上げなのに、まるで実際に許しがたいことをやったかのごとく檄高して怒声を上げて暴力をふるう。

いきなり暴行を加えられたショックに、曳田さんはされるがままだ。

「はっきりせいや!!」

彼氏の大野もここでやらなきゃ男がすたるとばかりに、曳田さんの髪をつかんで殴りつける。

その場にいた連中、平や猪坂以下ほかのメンバーも暴行に加担、無抵抗の彼女を殴るわ蹴るわ。

矛先は先ほどのメール男から、完全にシフトした。

木場の言うことが本当かどうか、又は相手が誰かなんて関係がない、みんながやっているからやる。

ならず者集団の一員ならば、やらなかったら他の奴にどう思われるかわからないし、その前に人を痛めつけるのは面白いと考えているはずの連中だから躊躇はない。

グループの親分格の平は曳田さんに木刀を突き付けて「殺してやろうか?コラ!何とか言えや!」などと脅し、髪をつかんで部屋の外に引きずり出して、非常階段の所から落とそうとすらした。

本来ならば最年長者の平はこの暴挙を止める立場にあるし、大の男が女性相手にここまでするのはみっともない、というのは一般社会の考え方である。

平竜二(仮名)

こいつは、反社会勢力である暴力団組員なのだ。

むしろ、皆に自分が危ないことをする人間であることを見せつけて「暴力ってのはこうすんだ」という模範を、示そうとすらしていた。

平は組の中では下っ端であり、事件発覚後にテレビの取材に応じた街の若者の一人には「ヤクザだけど大したことない奴」と陰口をたたかれていた程度の男だったらしいから、なおさら弱者相手だと威勢が良い。

さすがに曳田さんが大声で泣き叫ぶ声がマンション中に響いたため、弟分の猪坂が平を制止して、再びマンションの中に曳田さんを引きずり込んだ。

「ごめんなさい。もう勘弁してください」

一時間ほど暴行された曳田さんは泣きながら木場のついた嘘を認めて謝罪した。

全く何もやっていないにも関わらず。

手ひどい暴行で曳田さんの左目と左頬は腫れあがっており、木場の望みはかなった。

だが、これは始まりに過ぎなかった。

暴行を楽しむ犯人たち

犯人グループは曳田さんを十分に痛めつけたはずだったが、このまま帰すわけにはいかないと考えていた。

なぜなら顔が腫れて、何をされたか明白だったからだ。

彼女は実家暮らしだから、本人が通報しなくても家族の者がするだろう。

そこで一味は、曳田さんの顔の腫れが引くまで監禁することにした。

さらにアルバイト先にも電話をかけさせて、「ケガをしたから今日は休む」と言わせてバイト先から通報されないようにもする。

19日午前9時、平が全員に組事務所から出ていくように言い渡す。

部屋住みの平が事務所を自由に使えるのは、自分と猪坂以外の組員がいない時だけなのだ。

そこで大野と木場、田中は曳田さんを連れて仲間の一人である高橋の住むマンションへ向かう。

だが、このマンションで木場と田中は、曳田さんが携帯電話を握っているのが気に入らないと因縁をつけ始め、暴力をふるった。

その後、実家に「不良少女にからまれたところを先輩に助けられた。今は西公園の先輩の所にいる」と言うように命じ、実際に曳田さんはその日の午後に心配する母親からかかってきた電話に対してそのように答えている。

一味の者は、不良にからまれて殴られたことにすれば、顔に傷があっても不思議じゃないと考えたようだ。

その電話の後、母親にさっきと同じようなことを伝える電話をかけさせた後、外部へ連絡できないように曳田さんの携帯は破壊した。

当初一味は彼女の顔の腫れが引くまで家に帰さないつもりだった。

だが、やがてそれをぶち壊しにすることをやり始める。

またもや、理由をつけて殴り始めたのだ。

積極的なのは、やはり木場である。

性悪どころか極悪女の木場の目から見た曳田さんはぶりっ子なところがあり、お嬢様ぶってるような気がして気に食わない。

そして、暴力を振るわれたショックでしょげかえっている姿は、見ているだけで余計いじめたくなる。

木場は「和人、こいつオメーに犯されたとか言ってたよ」などとでたらめを大野に言ってたきつける。

やるならみんなと一緒の方がいいと考えるのは、こいつも同じなのだ。

「ナンだと?テメーみたいなの犯るわきゃねーだろ、コラア!!」

でたらめなことは百も承知な大野だが大真面目に激怒して、曳田さんをベランダに引きずり出して傘で殴った。

「もう許してください」と泣いて謝っても手は緩めない。

その場にいた高橋と田中も調子に乗って手を出し、後からマンションに来た兼田と赤塚も「俺らもやっていいっすか」などと言ってリンチに参加した。

もはや暴行する理由など、どうでもよかった。

彼らは後先考えずに、暴力を楽しむようになっていたのだ。

度重なる暴行で曳田さんの顔は余計に腫れ上がり、ますます家に帰せなくなる。

犯人たちは彼女の服を全て脱がせて、代わりにトレーナーを着せ、組事務所や仲間の家へ連れていく際は後ろ手に手錠をはめて車のトランクに入れていた。

監禁先は転々としていたのだ。

そして、監禁中は絶えず言いがかりをつけては集団で殴り、たばこの火を押し付け、髪を切り、頬をカッターで切ったりと暴行はエスカレートしていった。

犯人たちはグループ以外の知人の家にも連れて行ったことがあったが、その知人は度重なる暴行でむごたらしい姿となった曳田さんを見て仰天し、自分の家で凄惨な暴行が行われている間は目を背けていたと後に証言している。

だが、後難を恐れて警察に通報することはついになかった。

両親の捜索

曳田さんの両親は、愛娘がそんな目にあっているとは思ってもいなかった。

木場たちに監禁されることになる直前の18日、バイト先から帰ってきた曳田さんは家族そろって夕食の席についており、その時何も変わった様子はなかったからだ。

むしろ、目前に迫ったクリスマスには付き合っている彼氏が指輪をプレゼントしてくれるんだと母親にうれしそうに語っていたし、翌年に控えた人生の一大イベントである成人式に着る晴れ着が24日には受け取れると、ウキウキしていたのだ。

そんな幸せいっぱいだった曳田さんが姿を消した。

19日深夜に木場に呼び出されて、家を出た彼女は玄関の鍵を開けっぱなしにしており、その日の朝に起床した父親は不審に思ったが、娘は自宅二階の自室で寝ているんだろうと思い、この時点では失踪したとはつゆほども考えていなかったという。

彼女はバイトで遅番が多く、昼前まで寝ていることが多かったからだ。

その後、部屋におらず全く行方知れずになっていたことがわかり、心配した母親が同日18時に曳田さんの携帯電話に電話した。

この時は、まだ携帯電話を破壊されておらず、曳田さん本人が電話に出てこう話した。

「今、西公園(仙台市青葉区)のとこにいる。レディースにからまれて殴られちゃってね。バイト先には休むと連絡しといたけど」

これは木場たちに言いつけられた通りのことだ。

もちろん近くに木場たちがいて、余計なことを言わせないよう聞き耳を立てていたのは言うまでもない。

「え?どういうこと?」

「また後でかけなおすね」

そう言って電話が切れた。

ただ事ではないと感じた母親がその後、数分おきにかけたが一向につながらない。

この時、初めて娘の身に不測の事態が起きたことを、曳田家の人々は知った。

その2時間後の20時、今度は母親の携帯に曳田さんから電話が入って、以下のような会話がなされた。

「今も西公園の先輩の所にいるんだけど、先輩のおかげで助かった。今顔を冷やしてもらっているところ」

「どういうことなの?あと、さっき言ってたレディースって何なの?」

「…」

「とにかく早く帰っておいで。被害届けも出さなきゃ。顔は大丈夫なの?電車で帰れる?」

「大丈夫。帰れるよ」

「電車でモール(仙台市の商業施設)まで来なさい。迎えに行くから」

「わかった」

「着いたら電話するんだよ」

母親はそう伝えると電話を切った。

とりあえず、先輩とかいう人物に介抱されていることはわかった。

それを聞いた父親は「とりあえず、明美からの電話を待とう」と言って夜勤に向かった。

そして、これが曳田さんの声を聞いた最後となる。

父親は、職場に着いてからもやはり心配だったので、何度も電話を掛けたがつながらなかった。

家に電話しても、娘からの電話はまだ来ないという。

翌20日から、異常事態の発生を確信した両親はじめ家族の者は、曳田さんの友達に連絡するなどして、血眼になって娘の行方を捜し始めた。

「西公園の」という線からもその近くに住む娘の知人を捜したが、さっぱり見当がつかない。

前述のとおり、この時点で曳田家の人々もほとんどの友人たちも、娘が木場という女との付き合いがあったことを知らなかったため、犯行グループに近づくことができなかった。

突然の家出は考えられない。

彼女は非常にまじめな性格で、親に迷惑をかけることをこれまでしたことがなかったし、前日まであんなに楽しそうにしていたのだ。

失踪から5日目の12月23日、行方に関して何ら手掛かりが得られず、ひょっこり帰ってくるのではという望みも薄くなりつつあったため警察署に捜索願を出した。

警察も「レディースにからまれた」という話や、5日間も連絡がないことから、事件性が高いと判断して捜査に乗り出す。

その後、曳田家の人々は友人知人関係のみならず、近所で独自に聞き込みを行い、時には藁にもすがる思いで霊能力者にまで霊視を依頼して娘の行方を必死に探し続けた。

だが、曳田さんは家族が捜索願を提出した翌日には殺されていたのだ。

非業の死

曳田さんが監禁されてから5日目の12月23日午前11時ごろ、木場は大野らに車で送ってもらって、保護司との面談を行っていた。

前年に大野と犯した窃盗事件で2年間の保護観察処分を受けていたためだ。

面談を終えて、車で待っていた大野たちのもとに戻る木場の機嫌は最悪だった。

このむしゃくしゃは明美のやろうをいじめて晴らしてやると考えながら。

車に乗ると、仲間に「さっき警察が来ててさ、『お前ヒト監禁して殴ってるだろ?』って逮捕状見せられたから逃げてきたよ」と、愚にもつかない嘘八百を並べ始める。

曳田さんが通報したと、皆に思わせようとしているのだ。

「なにい?ふざけやがって!めちゃくちゃにしてやる!!」

大野たちは、ろくに疑いもせずに怒り出す。

午後17時、曳田さんを監禁している組事務所にやってきた大野たちは「平さんにも逮捕状が出てるみたいだぜ」などと、ここでも嘘をついて、余計に皆をあおる。

「テメー事務所の電話使って通報しただろ!」と、曳田さんを囲んですごんだ。

「そんなことしてません!何もしてないです!!」

涙ながらに訴えたが、意に介さず拳や灰皿で殴りつける。

さらに暴行により血を流し続ける口にティッシュペーパーを入れて火をつけて、悶絶する彼女を見て笑い転げた。

翌24日の午前1時、弱い者いじめが大好きな平は、これまでの暴行で顔が原型をとどめないほど変形して、青息吐息の曳田さんをたたき起こして正座させると、

「テメー通報したろう。埋めるぞ!」

と木刀を突き付け、風俗店に勤めるように要求。

誓約書や借用書を書かせた後、大野、高橋、兼田も加わって再びリンチを始めた。

無抵抗の女性の顔に拳を叩き込み、蹴り上げ、フライパンで強打する。

「…痛いです。もうやめてください…。いっそのこと殺してください」

と弱々しい声で哀願する曳田さんを、午前8時まで暴行し続けた。

これが、最後の暴行となった。

この日の午後3時の組事務所、曳田さんの様子がおかしいことに平が気づき、他のメンバーを集める。

すでにピクリとも動かず、鼻の上にティッシュペーパーを置いても反応がない。

曳田さんは楽しみにしていたクリスマスイブの日に、20年というあまりに短い人生を絶たれていたのだ。

そして、その日受け取るはずだった晴れ着を着て、成人式に参加することもかなわなくなった。

死体遺棄

人を一人殺してしまったにもかかわらずこの人でなしたちは、強がりだったのかもしれないが、何ら痛痒を感じない様子でこう言い合っていた。

「あっけねえ、もう死んだのかよ」

「自業自得だぜ」

「こんな奴、死んだって誰も悲しまねえべ」

「でも、死体どうにかしなきゃな。ダリいな」

平はいったん用事があって事務所を後にし、大野と木場も曳田さんの死体を残したまま外出して、ゲーム機を買って戻ってきた。

そして、平を除く7人はそのゲーム機に興じ、その間に曳田さんの死体にサングラスをかけるなどして笑い合っていた。

午後10時に平が戻った後、改めて遺体をどうするか相談が始まる。

薬品で溶かすとか海に捨てるとかの意見が出たが、結局事務所のあるマンション近くの山の中で燃やそうということになった。

男たちばかり5人は車2台に分乗して曳田さんの死体を積んでその山に向かい、途中で灯油を購入。

山の中で死体に灯油をかけて火をつけたが、なかなか思ったように焼けない。

「しぶといな。もっと燃えろよ」

などと、平は木の棒でつついたりして死体をもてあそんだ。

火が消えた後は焼け焦げた死体を引きずって斜面から投げ落とした。

「ここらはもうすぐ雪が積もるから、春まではバレねえべ」

などと言って現場を後にした。

一方、事務所で留守番をしていた女性陣のうち田中と赤塚は飛び散った血痕のふき取りにいそしんでいたが、木場は寝転がってふんぞりかえっていたようだ。

逮捕

このならず者たちは、曳田さんを監禁して暴行する以外にも悪事を働いていた。

21日、監禁していた曳田さんを車のトランクに入れて知人宅に向かう途中立ち寄ったコンビニで商品を万引き。

なおかつ、店で木場と田中ら一味の女に声をかけた男性二人を集団で暴行して金を巻き上げているし、その日の夜には目が合ったという理由で男性に因縁をつけてカツアゲしている。

22日には平と猪坂の所属する暴力団の忘年会に大野と兼田、高橋も平に連れられて参加。

ゆくゆくは正式な組員となる準構成員として、組長はじめ他の組員一同に紹介するためだった。

その帰り道にも、平以外の4人は通行人を殴って現金を脅し取っていたから、どこまでもクズい連中だ。

曳田さんを殺して山に捨ててから間もない12月31日、今度は平と大野をはじめとした男たち5人が仙台市内のファッションビルで男性5人を暴行、またもやカツアゲだ。

だが、これが悪運のツキとなる。

いつまでもこんな悪事を続けられるほど、仙台市は無法地帯ではない。

この時に兼田が現行犯逮捕され、年が明けた1月には平、猪坂、大野及び高橋も逮捕された。

そしてそのころ、曳田さんを必死に探す両親は娘の交友関係の中から木場の存在を突き止めて、何か情報を知っているのかもしれないと警察に情報提供していた。

警察も木場を曳田さんの失踪に関係があるとにらんで調べを進めていたところ、現在傷害容疑で拘留中の平たちとの交友があることが判明。

曳田さんのことを拘留中の男たちに問い詰めたところ、あっさりと死体を焼いて捨てたことを供述した者がいた。

供述したのは、何と親分格で暴力団員である平。

どうせバレるなら真っ先に供述して刑を軽くしようと考えたらしいが、当初のうちは「事務所で女が死んでいたので、処理に困って燃やして捨てた」と自分で殺したわけではないと言っていたから往生際の悪い奴だ。

あろうことか子分を真っ先に売るんだから、ヤクザとしても褒められたものではない。

平を同行させて山を捜索したところ、供述通り白骨化した死体を発見。

両親から曳田さんが生まれた時のへその緒を取り寄せて鑑定した結果、その死体は曳田明美さんの変わり果てた姿だと断定される。

無事に取り戻したいという両親の切なる願いは、無情にも絶たれてしまった。

その後、仲間の木場が連れてきた女を皆で暴行して死なせたと平が白状し、2月5日には木場を逮捕。

残りの田中と赤塚も逮捕される。

ちなみに、他のメンバーはすべて犯行を自供した中で、木場だけは最後まで否認し続けていた。

遺体発見現場

その後

この事件の初公判は2001年(平成13年)5月より開かれ、悲憤にくれる両親は、曳田さんの遺影を持って出廷していた。

仙台地裁は一審で「類を見ない非人道的行為」と指弾、被告たちも控訴しなかったために以下のとおり刑が確定した。

  • 大野和人、懲役12年(求刑懲役13年)
  • 木場志乃美、懲役10年(求刑どおり)
  • 平竜二、懲役10年(求刑どおり)
  • 猪坂大治、懲役9年(求刑懲役10年)
  • 田中久美子、懲役8年(求刑どおり)
  • 兼田亮一、懲役10年(求刑どおり)
  • 高橋衛、懲役5年以上10年以下(求刑懲役10年)
  • 赤塚幸恵、少年院送致

あれだけ残忍な所業をした割にはこの程度であったが、当時の日本では、これが限度であったようだ。

曳田さんの両親はその後の2003年(平成15年)、事件の実質的な首謀者であった木場と大野に対して約1億円の損害賠償を求めて仙台地裁に提訴。

和解協議の名目で、2人との対面を求めた。

自分の娘を殺した犯人と直接会って、どんな者たちなのか知りたかったのだ。

そして、本来ならば親族以外はできない受刑者との面会が実現。

2005年2月2日には栃木刑務所で木場と、3月1日には宮城刑務所で大野との対面を行い、和解が成立。

和解条項には7600万円の解決金の支払いと両親への「心からの謝罪」が盛られていた。

もっとも、法的には和解を成立させたとはいえ両親によると木場は泣いてばかりであったし、大野は謝罪はしたものの形ばかりのようでどこか他人事であり、両人とも心から反省している様子はうかがえなかったようだ。

2022年現在、この8名は全員刑期を終えて出所しているものと思われるが、あれほどのことをしでかした奴らがたった10年かそこらでこの社会に放たれていることに驚きと憤りを感じざるを得ない。

反省しているとか更生しているとかは関係ない。

こんな奴らが一般社会で、もしかしたら自分の近くにいるかもしれないなんて考えたくもない。

こいつらは死後、曳田さんのいる天国ではない方に行くことは確実なんだろうが、今すぐそこに送り込んでやりたいと思うのは私だけではないだろう。

参考文献―『再会の日々』(本の森)・河北新報

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1963年・森岳温泉の戦い – 秋田県森岳温泉の乱闘事件とは?


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昭和30年代は60年以上続いた昭和年間の中でも、特に芳しき芳香を放つ。

この時代に、憧憬の念を抱く日本人は実に多い。

その時代をリアルに知っている人はもちろん、まだ生まれていなかった人の中でも、古き良き時代だと認識されているようだ。

時はまさに高度成長期の時代。

オリンピックが開かれようとしていたし、いろいろな家電製品が出回り始めて、生活もどんどん便利になるのが目に見えて実感できていたから、その時代から見た将来は、令和の我々が見る将来より明るかったのは間違いない。

希望にあふれ、活気みなぎるさまが今に残る写真や映像からも、自ずと伝わってくるものだ。

そして同時に、映画『オールウェイズ3丁目の夕日』で描かれているがごとき、人情味にもあふれていたとされている。

なんてすばらしい時代だったんだろう!

でも、本当にそうか?

確かに人間味にも活気にもあふれ、発する熱量の高い時代であったのは事実だが、それは時として暴発することもあったようである。

秋田県・森岳温泉乱闘事件

当時の新聞

時は1963年(昭和38年)5月15日午後4時ごろ。

秋田県山本町森岳木戸沢の森岳温泉の某観光ホテルで、宿泊客同士の乱闘事件が発生した。

事件を起こしたのは、慰安旅行で同ホテルに宿泊していた秋田県能代市の土木会社の日雇い労務者たち約30人と、同じく慰安旅行で来ていた同市のパチンコ店従業員たち約20人。

双方とも同ホテルの広間で宴会を開いており、事件の発生した時間帯から推測して昼間から飲み続けていたものと思われ、いい感じで危険な状態にできあがっていたようだ。

きっかけはパチンコ店側が労務者をバカにしたからとも、労務者側がいちゃもんをつけたからだともされ、報道していた新聞社によって異なる。

きっと、どっちもどっちだったんだろう。

そしてこの乱闘、双方のうちごく一部がやっていたわけではない。

全員参加の総力戦だったのだ。

労務者側もパチンコ店側も女房や子供ら家族を同伴していたのだが、それら女性や子供までもが夫や父親の側に加わって相手側を攻撃。

宴会が行われていた大広間やホテルの中庭を舞台に怒声や金切りを響かせ、膳や食器が乱れ飛び、ビール瓶やどこからか見つけてきた棒で殴り合う。

障子やふすまはビリビリに破け、ガラスは粉々になった。

結局、ホテルの通報で警官40名以上が駆け付けて騒ぎを鎮圧したが、パチンコ店側から重傷者が二名出て、双方のほぼ全員が負傷していたんだからフルスケールの乱闘だったのは間違いない。

なんて気の荒さなんだろう。

現代だったら酒が入っていたとはいえ、暴力団か半グレでもない限り、こんな全員参加の団体抗争は起こりえないだろう。

昭和の人々は、右の頬を張ったら右ストレートを返してくる人々だった。

事実、昭和の日本の暴力犯罪発生率は平成や令和の現代より高かったという記録もあるし、安保闘争やドヤ街での暴動など機動隊が出動するような騒ぎだって、頻発していたからきっとそうであろう。

昭和30年代は悪い意味での人間味や活力にもあふれていたのだ。

こんな怖い時代に生まれなくてよかった。

令和の現代で本当に良かった。

でも、私は同時にこうも思うのだ。

こういう人たちだからこそ、日本を発展させることができたのではないかと。

暴力に訴える行為は一見害でしかなさそうだが、暴力をふるうにはエネルギーが必要なのだ。

そのエネルギーは負の方面だけでなく、正の方面にも発揮できる。

昭和30年代や40年代に、こういった事件や大規模なデモ隊と警官隊との衝突が起きていたのは、社会全体に活力がみなぎっていた証拠じゃないだろうか?

大地震や津波に襲われても騒動一つ起こさなかった平成の、そして令和の日本人とは、いい意味でも悪い意味でも違ったようだ。

日の出の勢いの国の国民は暴力的であるが、日が没する国の国民は紳士的なのではないかと、現代の日本を見てそう感じたのは私だけだろうか。

乱闘や暴動が起きるが未来が明るい社会と、ケンカも騒動も起きないが未来が暗い社会。

あなたならどっちを選ぶ?

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若き犯人たちの無謀な誘拐事件 – 1995年・足立区小二女児誘拐事件

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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1995年(平成7年)8月7日夕方、足立区の小学二年生の女の子が連れ去られ、身代金が要求される営利誘拐事件が起きた。

事件は翌日夕方、身代金の受け渡し場所に現れた犯人を警視庁の捜査員が取り押さえ、もう一人の犯人も電話の逆探知により居場所が判明して逮捕。

その際に犯人と一緒にいた女の子も無事に解放されて、一件落着となった。

だがこの誘拐犯たるや、若い女二人。

20歳の遠野亜由(仮名)と21歳の船津紀美(仮名)であった。

その身代金の要求額はたった800万円で、犯行計画もずさん。

ばかりか、その後に判明した犯行理由により、当時の日本社会を大いにあきれさせた。

事件の経緯

8月7日午後6時14分。

足立区に住む会社員・山元聖一さん(仮名)の自宅に、一本の電話がかかってきた。

電話に出たのは、中国に単身赴任していた聖一さんに代わって自宅を守っていた妻の由紀(仮名)さん。

由紀さんは、この電話に出る前に心配事があった。

それは、山元家の長女の加奈ちゃん(仮名、7歳)が塾から帰ってこないことだったのだが、その電話で気が動転することになる。

相手の電話の声の主は女であったが、

「お子さんを預かっている。明日の午後5時に、800万円を持って北千住のファーストフード店の森永ラブに来い」

などとはっきりと、娘を誘拐したことを伝えてきたのだ。

びっくり仰天した由紀さんは、すぐさま110番通報。

これを受けた警視庁は、身代金目的誘拐容疑事件対策本部を設置して捜査に乗り出した。

翌8日午後4時41分、夫の聖一さんの勤務先から借りた800万円が入ったショルダーバックを抱えた由紀さんが、身代金の受け渡し場所として指定されたファーストフード店・森永ラブ(現在は存在しない店)に入る。

もちろん、店の周りに警官が張り込み、店内にも客を装った婦人警官が待機しているのは言うまでもない。

森永ラブ

しばらく時間が経過した午後5時2分、一人の若い女が店に現れ、由紀さんに近寄るや、一枚の紙を渡した。

紙には「タクシーで自宅に30分以内に帰れ。子供が帰るまで待て。警察には言うな」と書かれている。

やがて女は口を開いて、読んだら紙を返してくれと要求。

「私はもらうモンもらいに来ただけっスからね」と、自分は連絡役に過ぎないことをさりげなく強調して、身代金を渡すように迫る。

だが、母は強かった。

「子供を返してくれなきゃ、お金は渡せません!」

ときっぱりと唯々諾々と犯罪者の言いなりになることを拒絶したのだ。

「いや、ホント無事だって…」

「じゃあ、まず子供を連れてきてくださいよ!」

犯人の女は母親の思わぬ強硬な姿勢にたじろいだらしい。

「向こうの人が信用するかどうかわかんないけど」

と折れた彼女は午後5時19分、金も持たずに店を出た。

女も冷静ではいられなかったのであろう、ひんぱんに後ろを振り返りながらその場を立ち去ろうとしている。

だが、すでに袋のネズミだった。

周囲を完全に包囲していた捜査陣は、すぐさま確保の判断を下し、ほどなくして犯人の一味と思しき女、遠野亜由は身柄を拘束された。

警察は女児の行方を追求したが、遠野はここでも「新宿のアルタ前で男に金を渡す約束をしている」と、自分は主犯ではないことを強調する。

一方、同じく警官が待機している山元家でも午後6時9分に動きがあった。

もう一人の犯人から電話が来たのである。

「どうなってるんですか?金は?ホント警察に言ったりしてないでしょうね?ちょっと変な動きがあったもんで…」

この声も女のもので、身代金を取りに行った共犯者の遠野が戻ってこないので、しびれを切らしたらしい。

電話には、被害者の母親である由紀さんの妹を装った婦人警官が対応に出て、「まだ姉は帰ってきません。私は頼まれて留守番をしているだけでして」などといいつつ、逆探知を狙って会話を引き延ばす策に出る。

「また連絡します。あ、あと私も頼まれて電話してるだけですから」

「姉が一人で行ったものなんで、私もよく分からなくて」

「とにかくまた30分後にかけます。警察が動いてるんで」

「子供はそこにいるんですか?」

「こっちにはいないから!」

こうしてあわただしく電話は切られたが、これら一連の通話にかかった時間は逆探知するには十分だった。

発信源を突き止めた警察は周辺を捜索し、午後6時43分、加奈ちゃんを連れた船津紀美を発見して逮捕。

加奈ちゃんはケガもなく無事であり、丸一日ぶりに家族のもとに帰ることができて事件は無事解決した。

この事件が円満に解決したのは警察の手腕によるのもあるが、やはり、犯行の稚拙さにも原因があった。

まず、身代金の受け渡し場所にノコノコ犯人が現れるのも、誘拐犯としては大いに問題なのは言うまでもなく、その後は、うかつに電話をかけて逆探知されるなど行動は杜撰。

何より、営利誘拐の身代金要求額としては、かなり低額の800万円を要求しているあたり、この犯罪が愚か者による思い付きの域を出ていないことを物語っていた。

逮捕された遠野と船津は取り調べでも、自分たちは連絡役に過ぎず、主犯は男であり、ほかにも共犯者として自分の女友達の実名まで上げたりしていた。

しかし、供述があいまいで矛盾する点が目立ち、やがて二人だけで行った犯行であることが断定されるのに、時間はかからなかった。

高校卒業後デビュー

逮捕された遠野亜由と船津紀美

遠野亜由(仮名)
船津紀美(仮名)

    

逮捕された遠野亜由(仮名、20歳)と船津紀美(仮名、21歳)は、幼稚園の頃からつるんでいた幼なじみ。

中学時代の同級生によると二人ともテニス部に所属し、いつも共に行動していた。

そして両人とも目立たない印象であり、特に遠野の方は、それが顕著だったという。

中学卒業後は別々の高校に進学したが、船津は卒業後に定職に就くことはなかったようだ。

遠野の方も卒業後に専門学校に入学していたが中退して働くことはなく、事件が起こる二年前から船津の住むアパートの一室に転がり込んで同居するようになった。

そのアパートは船津の祖母が所有しており、家賃の心配はなかったが、二人とも働くことはなく、ボディボードをやったりクラブに行ったり遊び惚けるようになる。

学生時代は地味だった両人の外見も変わり、髪を茶髪に染めて日焼けサロンで真っ黒に日焼けさせていたらしい。

95年当時コギャルなどと呼ばれて、マスコミでもてはやされ始めていた女子高生のファッションだ。

まだ十代のつもりだったのだろうか?

高校卒業後デビューとは情けない奴らだ。

やっていることも未成年の悪ガキそのもので、真夜中に部屋で騒いだり、青空駐車して近所に迷惑をかけ、駐車違反の罰金を請求されても知らん顔。

そして金に困ると、あきれたことにゲームソフトを万引きしては中古ソフト屋に売っていた。

主にそれを行っていたのは遠野の方で、命令するのは船津。

船津は親分気取りで遠野をふだんからアゴで使って万引きで得た稼ぎを巻き上げ、時には暴力をふるってもいた。

もっとも、派手な外見と行動にもかかわらず男っ気が全くなかった二人を“レズカップル”だと、近所のおばちゃんたちには陰口をたたかれていたようだが。

だが遠野も遠野で、無職にも関わらず300万円もするRV車を買うなど分別がついているわけでは決してない。

事件の前には数百万円の借金を抱えてかなり金に困っていた。

そのおかげで、遠野はテレクラで売春したりキャバクラで短期間勤めたり、AVに出演しようと某プロダクションに売り込みをかけたりしていたが、そのパッとしない容貌とスタイルでは、一発逆転にほど遠かったようだ。

現に事件後に取材に応じた当のAVプロダクション関係者には、

「あの程度の子ではいいところ一日三万か四万くらい」

「20歳の体じゃなかった」

などと酷評されている。

遠野のヘアヌード。確かに若さがない。

このようににっちもさっちもいかなくなって、遠野が思いついたのがよりによって、この誘拐事件だったのだ。

しかも、その話を船津に持ちかけると何とあっさり引き受けて、実際に事件に至ってしまったんだから、二人とも頭が悪いにもほどがある。

窮すれば鈍するというが、限度というものがあるだろう。

誘拐した女の子も、その日たまたま出くわしただけで、初めから狙っていたわけでもない。

また、800万円という身代金の要求額からも、普段やっている迷惑駐車や万引き、売春に毛が生えた程度と考えていたフシがあるのではないだろうか?

逮捕後も自分たちの罪を軽くしようと、いるはずのない主犯や他の共犯の存在を騙って、ばれるに決まっているウソをつきとおそうとした点からも終始一貫して思慮に欠け続けていたといえる。

どうやらこの二人は、頭が中学生か高校生のまま大人になってしまった最悪の見本の一つであることは、疑いようがないだろう。

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吉永小百合を襲った男 ~武闘派モンスターファン~


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ある一定以上の年齢の日本人ならば、吉永小百合という人物を知らない方は圧倒的に少ないであろう。

2022年3月の現在でもキリンのCMに登場したりしているから、比較的若い世代の方でも、今まで一度はその名前を耳にしたか、テレビ画面でその姿を見たことがあるはずだ。

1945年3月13日生まれの吉永氏は、1957年に小学5年生でデビュー以来、『キューポラのある街』などの名作をはじめ、これまでに100本以上の映画に出演。

歌手としても成功をおさめ、テレビドラマやCMの出演は数知れず、2006年に紫綬褒章を受章し、10年には文化功労者にも選ばれた日本を代表する大女優である。

日本映画の全盛期だった1960年代には、まだ10代だったにも関わらず(10代だったからこそか)、所属する日活の看板女優として日本中、特に男性ファンの目をくぎ付けにしていた。

1963年、そんなまばゆいばかりに輝く銀幕のスターだった吉永氏が、自宅に侵入した熱狂的なファンに襲撃される事件が起きる。

芸能人が狂ったファンに襲われる事件は現代までたびたび発生しているが、この時吉永氏を襲った男は、そんじゃそこらのモンスターファンではなかった。

吉永小百合家への侵入者

事件が発生したのは、1963年8月9日夜9時45分のことである。

当時、吉永小百合氏は人気絶頂の映画女優でありながらもまだ18歳の高校生であり、東京都渋谷区西原某所で家族と同居の身。

その日、彼女は16歳の妹と共に自宅の二階にある自室に向かおうとしていた。

俳優業で多忙でありながら大学進学も希望していた彼女は、目前に控えた大学入学検定試験に備えて勉強をしようとしていたのだ(高校は撮影で休みがちだったため出席日数が足りなかった)。

だが自室のドアを開けた瞬間、あり得ない異常事態に遭遇することになる。

自分以外いてはならないはずの完全なプライベート空間たる部屋の洋服ダンスから、見知らぬ男が現れたのだ。

しかもその両手には、刃物ともう一つ奇妙な物体が握られているではないか!

びっくり仰天した二人は悲鳴を上げて部屋を飛び出し、家族のいる一階に逃げた。

この時、吉永氏は階段から転げ落ちて軽傷を負っている。

一方の侵入者は追いかけてくることもなく、部屋にとどまっているようであった。

吉永氏から事情を聞いた父親は、すぐさま警察に通報。

駆け付けた警官六人は、吉永一家五人を退避させると、男が居座る二階に向かう。

しかし警官たちは、男が片手に刃物を持っていることを聞いており、あらかじめ危険なことは承知していたが、もう片方の手に刃物より危険なものを持っていたことは知らなかったようだ。

二階に踏み込もうと階段を上がっていた時、犯人が現れて階段上で仁王立ちするや、その謎の物体をこちらに向けたかと思うと、耳をつんざく破裂音。

先頭の警官が崩れ落ちた。

男が持っていたのは手製のピストルだったのだ。

籠城戦

撃たれた警官は、あごに弾を食らっており、全治二か月の重傷であった。

かなり危険な暴漢と判断した警官隊は、階下にとどまって応援を要請。

やがて、最寄りの代々木署だけではなく、防弾チョッキやヘルメットで身を固めた機動隊員らも駆けつけ、総勢300人近くが吉永家を包囲した。

周りは一般の住宅が立ち並んでいるため、警官の静止にもかかわらず、物見高い付近の住民たちが出てきて現場は騒然となっていた。

警官隊は、吉永氏の部屋に引きこもった犯人に向かい拡声器で投降を呼びかける一方、決死隊の五人がはしごで二階に上がり、犯人のいる部屋の向かいの日本間に陣取る。

また、階下からもピストルを構えた警官が階段を上がって犯人に迫り、ドアを挟んで対峙した。

「武器を捨てて出てこい!さもないと撃つぞ!」

「そんなおもちゃの銃で何ができるんだ!」

警官隊は犯人に向けて怒鳴ったが、

「試してみっか!?まだ弾は持ってんだぜ!!」

と怒鳴り返され、部屋の中からもう一発、発砲音が響いた。

かなり好戦的な犯人である。

強行突入もやむなしと判断した警官隊は催涙弾の準備が整えたが、にらみ合いが続いて40分ほど経過した午後10時20分ごろ。

部屋のドアのガラス部分が中から突然割られ、ピストルと思しき物体と刃物が投げ出された。

逃げられないと観念したのだろう。

男が投降したのだ。

すかさず警官隊は部屋に突入し、犯人の確保に成功した。

犯人の目的

逮捕されたのは、都内に住む旋盤工の渡辺健次(26歳)。

未成年のころにも強盗未遂事件を起こし、少年鑑別所に送られた経歴を持っていた。

渡辺健次

確保された時に手に傷を負っていたが、これは警官隊との押し問答の最中に手製ピストルを暴発させたのと、投降の際にガラスを割った時に負ったものである。

職場の上司の話によると、渡辺は勤務態度が不真面目であり、犯行に使ったピストルや弾丸も仕事中に作ったものらしい。

犯行に使用したものを含めてピストルは5丁も製作、単発式で孔径は7ミリであり、逮捕時にはまだ13発も弾丸を所有していた。

渡辺の自家製ピストル

渡辺は当初「有名人の家なら金があるだろうと思って忍び込んだ」と供述していたが、その後、吉永小百合の大ファンであり、最初から吉永氏を目的としていたことが判明する。

それはアパートの部屋の壁に切り抜かれた吉永小百合のグラビアがベタベタ貼られ、それは職場の旋盤にも貼っていたほどだ。

やがて写真やスクリーンだけでは飽き足らなくなり、雑誌で住所を知るや実物に会いに行こうと、何度も自宅周辺に出没していたことが分かる。

ちなみに吉永氏の父親の話によると、このような図々しいファンは珍しくなく、自宅付近を不審者がうろつくのは珍しくなかったようだ。

だが、渡辺がそんじゃそこらの不審者と違ったのは、ピストルまで作って自宅に侵入した以外にも、よりおぞましい目的を持っていたことである。

渡辺は、吉永家侵入時にピストルや刃物以外にも数本束ねた針と墨汁を持参して来ており、その用途たるや、

「小百合ちゃんの手か足に俺の名前を入れ墨しようと思った」だったのだ。

未遂に終わったとはいえ、後に国民的大スターとなる人物に自分の名前をネーミングしようとは、とんでもない野郎である。

国宝の法隆寺や清水寺に落書きをするのに等しい犯罪行為といっても過言ではない。

もし本当に実行されてしまったならば、吉永氏は女優として再起不能となっていたことであろう。

ばかりか、自分を襲った男の名前を否応なく目にし続けて、歯ぎしりしながら一生を送ることになったはずだ。

危うく難を逃れた吉永氏だったが、この一件で重大な精神的ショックを受けてしばらく立ち直ることができず、受ける予定だった大学入学検定試験も欠席。

高校も留年する羽目になってしまった。

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ゾウを犯そうとした男 – 1956年の井の頭自然文化園

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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1956年(昭和31年)のある日曜日、東京都武蔵野市の都立動物園である井の頭自然文化園に一人の中年の男が現れた。

彼はひととおり動物を見て回った後で向かったのは、ゾウが飼われているエリア。

当時、このゾウのエリアにいたのは、メスのアジアゾウである「はな子(9歳半)」一頭である。

ゾウのはな子

「はな子」は1949年(昭和24年)、戦後初めて日本に来たゾウであり、当初、恩賜上野動物園で飼育されていたが、1954年(昭和29年)になってから同井の頭自然文化園に移され、同園の看板動物の一頭として人気を集めていた。

「はな子」は、閉園時間にはゾウ舎に入れられているが、開園時間になると外の運動場に足を鎖でつながれた状態で出されて、来園客に披露される。

運動場の前面は安全対策として空堀で囲まれ、客は空堀を隔てた柵の向こう側から、その姿を見学することになっていた。

くだんの男もその客たちの中に混じり、熱心なまなざしで「はな子」の体重約2トンの巨体を眺めている。

この男の名は五十嵐忠一(仮名、44歳)。

機械工具製造会社で外交員を務めており、妻と中学三年生の長男をはじめとする五人の子供がいる(当時としては特に子だくさんではない)。

五十嵐は動物が好きだった。

自宅が近いこともあって、今日のように日曜日はほとんど井の頭自然文化園に足を運んでいたという。

だが、「好き」と言っても、彼の場合は普通ではない「好き」だったようだ。

現に五十嵐は、一般の来園者のものとは明らかに異なった眼差しで「はな子」を見つめている。

そして、見ているだけでは満足できなかった。

空堀で死んでいた男

1956年6月14日午前7時半ごろ。

朝の見回りでゾウ舎にやってきた同井の頭自然文化園の飼育主任・蒲山武(仮名、40歳)が、ゾウ舎入り口のカギが外されているのを発見した。

「なんだこりゃ?」

怪しいと思った蒲山が中に入ると、「はな子」の足元に散らばるのはシャツや手提げカバン。

さらに、その向こうのゾウ舎と観覧場所を隔てる深さ約2メートルの空堀をのぞくと、何と男性が倒れているではないか。

男は洋服がビリビリに破れており、その体はピクリとも動かない。

やがて連絡により駆け付けた最寄りの武蔵野署の署員により、男の死亡が確認される。

死体は胸骨と肋骨がバキバキに折れてペシャンコと言ってもよく、胸にゾウの足跡がくっきりと残っていた。

状況から見て、ゾウの「はな子」に踏み殺されたのは間違いない。

そして、その変わり果てた姿となっていたのは、毎週のように井の頭自然文化園を訪れていた、あの五十嵐忠一だった。

招かれざる来園者

五十嵐忠一(仮名)

生前の五十嵐の写真を見たならば、その外交員という職業柄もあって真面目かつ知的そうな面相をしており、特に悪い印象を持たれることはないであろう。

そして動物好きでもあり、井の頭自然文化園の常連客だった。

だが、彼に対する同園の職員の評判は、決して芳しくはない。

なぜなら言っちゃ悪いが、この男は野獣、いや野獣以下と言わざるを得ない悪癖を持っており、職員もそれを知っていたからである。

それは、たびたび夜中に同園に侵入しては、飼育されている動物を犯していたことだ。

午前9時から午後5時までの開園時間内に、正規の来園者として訪れるならまだしも、閉園時間になると動物とおぞましい「ふれあい」を、強行しに忍び込んでいたのである。

後の調べで、事故当日の朝5時ごろ園内をぶらぶらしていた五十嵐を、敷地内の職員住宅に住む職員の家族が目撃していたことがわかった。

そんな招かれざる来園者だった五十嵐は、何度か職員に捕まって注意を受けたことがあり、警察に取り調べを受けたことすらあった。

にもかかわらず懲りることはなく、今度は「はな子」を「制覇」しようとした結果、返り討ちにあってしまったのだ。

彼がそのような性癖を持つにいたったのは、戦争が原因だったのではないかと、その人となりを知る人は後に証言している。

若いころ外地の戦場へ出征した経験のある彼は、戦地で性欲を処理するためにニワトリや豚を相手にしていたらしい。

そしてそれは帰還して妻を娶り、5人もの子宝に恵まれた後も矯正されることはなかったのだ。

彼も戦争の犠牲者だったのかもしれない。

それにしても、この昭和31年当時の新聞はコンプライアンスもプライバシー保護もあったもんじゃない。

哀れ五十嵐は顔写真に実名、勤め先や住所まで報道され、ある新聞においてはその見出しに「忍び込んだ変質外交員」という枕詞まで付される始末。

いくら自業自得とはいえ、これでは気の毒すぎるではないか。

その後

この事故で死んだ五十嵐の不法侵入は明らかであり、閉園中でもあったために、井の頭自然文化園側に落ち度はないとされた。

また、「はな子」がこれによって危険極まりない動物とされて殺処分されることもなく、そのまま飼育が続けられた。

だが4年後の1960年に、今度は飼育員を踏み殺す事故を起こしてしまう。

これには「殺人ゾウ」の烙印を押されてしまい、「はな子」の殺処分も検討される事態となった。

結局、処分は免れたが、来園客から石を投げられたこともあり、ストレスなどからやせ細ったこともあったらしい。

そんな「はな子」も昭和、平成と時代が進んで21世紀を迎えても井の頭自然文化園で飼われ続け、2016年(平成28年)5月26日、ゾウとしては高齢の69歳で天寿を全うした。

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