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2022年 おもしろ 中二病 動物 悲劇 鹿

鹿の戦闘力 = 奈良公園の鹿との格闘

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。

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奈良県の奈良公園には、多数の鹿が生息していることはよく知られている。

鹿は同公園内に鎮座する春日大社の神使であり、国の天然記念物とされて保護を受け、公園内外に約1100頭がいるという。

そんな奈良公園には、国内外から多くの観光客が訪れ、「鹿せんべい」を与えたりして、直に鹿と触れ合うことが可能である。

だが、奈良の鹿は飼いならされているわけではなく、れっきとした野生動物。

人間に従順でも、なついてもいないのだ。

よって、鹿にかまれたり追突されたりしてケガをする観光客が続出していたことが、問題となっていたものである。

鹿をナメてはいけない。

草食動物だし、昔から人類にしょっちゅう狩られているが、だからと言って、人類が素手でタイマン張っても楽勝であることを意味しない。

日本の鹿は成獣だと、オスは60キログラムから100キログラムになるため、その攻撃力は中型犬や猫をはるかに凌駕するのだ。

ウサギと一緒などと考えない方がいい。

私はそんな鹿の恐ろしさについて身を持って知っている。

なぜなら奈良公園の鹿と戦ったことがあるからだ。

あれは、私が高校二年生だった時の春休みのことである。

『青春18きっぷ』で東大寺へ遊びに行った際に、それは起こった。

東大寺に行くのは小学校6年生の修学旅行以来だったが、小学校の時も高校生になったその当時も、奈良公園には鹿が観光客の間を歩き回るほどウヨウヨいて、観光客は鹿せんべいを与えることができた。

そのころから、鹿に負傷させられる観光客が続出していたかどうかは知らないが、修学旅行の時にやられた人間なら知っている。

他のクラスの金子浩という奴で、鹿にいたずらした結果、突き飛ばされて返り討ちにされたらしい。

金子はその後、「鹿に負けた男」と呼ばれて、学年最弱の烙印を押され、小学校卒業まで嘲笑され続けた。

小学生の頭の中では、人間が鹿に負けるわけはないという認識だったようだ。

実は私もその一人で、高校二年になっても、それは変わらなかった。

鹿にやられるなんて人間として恥ずかしいと、頑なに信じていたのだ。

また、体はでかいがウサギと同じでおとなしく、何をやっても基本無抵抗であろうとも。

だからその時、地面に落ちている鹿せんべいを食べていた鹿を見た私は、ついつい、いたずら心を起こしてしまった。

背後から、鹿の後ろ足に足払いをかけたのだ。

鹿は後ろ足を私に払われて、一瞬よろけたものの倒れることはなく、前足で踏ん張ってすぐに体勢を立て直した。

さすが四本足の野生動物、かなりバランス感覚はいいようだがスキだらけだ。

そんなんじゃ奈良公園では生きられても、山では生きていけんぞ。

これから、お前はもっと注意力を…。

などとヘラヘラしながら考えていた私の方を、その鹿が向いた。

私を見たその顔は「さっきやったのはお前だな」と言っているような感じである。

そして、つぶらな瞳は白目をやや剥いており、明らかに怒っている様子だ。

何だ、その反抗的な態度は?鹿のくせに。

などと、人間として鹿などに謝罪する気は毛頭ない私は、余裕をぶっこいていたが、いざ向かい合ったとたんに少しビビり始めていたことを告白する。

改めて気づいたのだが、

その鹿は、周りの鹿より一回り以上大きいオスであり、角は切られていたが、体感的に素手で戦ったら勝てそうにない個体だったのだ。

ちょっとヤバかったかも。

と悟ったが、もう遅かった。

一瞬上半身を低くしたかと思ったら、勢いをつけてこちらに頭から突っ込んできたのだ。

当時、体重が50キロを上回るか上回らないかだった私は、もろにくらって吹っ飛ばされた。

だが鹿の攻撃は続き、突進して頭突きを連打してくる。

思わぬ奇襲攻撃にしてやられたが、私だって無抵抗ではない。

切られた角の部分をつかみ、前から腕を回してフロントネックチョークをかけようとしたら、ガジっと腕をかまれて振りほどかれた。

力もかなりのもんなのだ。

さらに、前足で蹴りを入れたと思ったらフェイントで、カウンターで再び下半身に向けて突進してくるなど、結構ケンカ慣れたテクニシャンでもある。

こりゃ勝てん!

鹿の思わぬ戦闘力の高さに一気に戦意を喪失した私は、全速力で逃走を図った。

私は足が遅い方で、高二にして100メートルを14秒台でしか走れなかったが、その時ちゃんとタイムを測ったとしたら、13秒台をクリアできるくらいの、自分史上最速の走りだったはずである。

しかし、草食動物から逃げ切るには遅すぎた。

いいスタートと走りではあったが、走り始めてほどなくして背中に鈍く重い衝撃。

背中に頭突きをくらわされて豪快に転んだ私に、なおも鹿は追い打ちをかけてくる。

地面に転がる私に頭突きはかましてくるは、前足で蹴るはで、滅多打ちで手も足も出ない。

ほかの観光客は「おお~」とか「ああ~」とか言って誰も助けてくれやしなかったが、さすがに奈良公園の職員は見て見ぬふりはしなかった。

「コラー!!!」

とか、大声で叫びながら飛んできて、しつこく私を攻撃する鹿を追っ払ってくれた。

危ないところであった。ちょっと遅いが助かった。

しかし、私を救い出した職員のおっさんの第一声は「大丈夫?」ではなく「鹿にいたずらするからこうなるんだ!」だった。

その前の私の所業を見ていたらしい。

さっきの「コラー」も私に向けた怒声だったようだ。

鹿にさんざん痛めつけられた後は、おっさんにグラグラ怒られた。

それら一連の様子を他の観光客は興味深そうに見ていたから、私はいい笑い者である。

また、私が攻撃されている間、他の観光客の中には笑っていたり写真を撮っていた者も、横目に入っていた。

彼らにとって私が鹿と職員にやられている様子は、東大寺や鹿とのふれあいと同じかそれ以上に面白かったに違いない。

体を張って彼らに愉快な思い出を提供してしまい、少々シャクでもある。

若気の至りというか、高校生の割にはあまりに幼稚な行為のおかげで黒歴史を刻んでしまったことは確実だった。

この事件で身に染みたのは、「自分はとんでもないバカだ」という幼児の頃から気づいていること以外に、何と言っても鹿の戦闘能力の高さだ。

メス鹿や子鹿にしときゃよかった。

とか考えたこともあったが、子鹿はともかく、体格から判断してメス鹿もそこそこ強いはずであるからナメてはいかんだろう。

あそこまで徹底的やられた私は、現在でもトラウマレベルで鹿の怖さを覚えているし、とてもじゃないが他の観光客のように鹿にせんべいを与えたりして楽しく触れ合うことはできない。

また、奈良公園どころか、奈良県自体に行く気もなくなった。

自業自得だと自分でもわかっているから、なおさらである。

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2022年 おもしろ ゾウ ならず者 事件 事件簿 動物 悲劇 昭和 無念

ゾウを犯そうとした男

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1956年(昭和31年)のある日曜日、東京都武蔵野市の都立動物園である井の頭自然文化園に一人の中年の男が現れた。

彼はひととおり動物を見て回った後で向かったのは、ゾウが飼われているエリア。

当時、このゾウのエリアにいたのは、メスのアジアゾウである「はな子(9歳半)」一頭である。

ゾウのはな子

「はな子」は1949年(昭和24年)、戦後初めて日本に来たゾウであり、当初、恩賜上野動物園で飼育されていたが、1954年(昭和29年)になってから同井の頭自然文化園に移され、同園の看板動物の一頭として人気を集めていた。

「はな子」は、閉園時間にはゾウ舎に入れられているが、開園時間になると外の運動場に足を鎖でつながれた状態で出されて、来園客に披露される。

運動場の前面は安全対策として空堀で囲まれ、客は空堀を隔てた柵の向こう側から、その姿を見学することになっていた。

くだんの男もその客たちの中に混じり、熱心なまなざしで「はな子」の体重約2トンの巨体を眺めている。

この男の名は五十嵐忠一(仮名、44歳)。

機械工具製造会社で外交員を務めており、妻と中学三年生の長男をはじめとする五人の子供がいる(当時としては特に子だくさんではない)。

五十嵐は動物が好きだった。

自宅が近いこともあって、今日のように日曜日はほとんど井の頭自然文化園に足を運んでいたという。

だが、「好き」と言っても、彼の場合は普通ではない「好き」だったようだ。

現に五十嵐は、一般の来園者のものとは明らかに異なった眼差しで「はな子」を見つめている。

そして、見ているだけでは満足できなかった。

空堀で死んでいた男

1956年6月14日午前7時半ごろ。

朝の見回りでゾウ舎にやってきた同井の頭自然文化園の飼育主任・蒲山武(仮名、40歳)が、ゾウ舎入り口のカギが外されているのを発見した。

「なんだこりゃ?」

怪しいと思った蒲山が中に入ると、「はな子」の足元に散らばるのはシャツや手提げカバン。

さらに、その向こうのゾウ舎と観覧場所を隔てる深さ約2メートルの空堀をのぞくと、何と男性が倒れているではないか。

男は洋服がビリビリに破れており、その体はピクリとも動かない。

やがて連絡により駆け付けた最寄りの武蔵野署の署員により、男の死亡が確認される。

死体は胸骨と肋骨がバキバキに折れてペシャンコと言ってもよく、胸にゾウの足跡がくっきりと残っていた。

状況から見て、ゾウの「はな子」に踏み殺されたのは間違いない。

そして、その変わり果てた姿となっていたのは、毎週のように井の頭自然文化園を訪れていた、あの五十嵐忠一だった。

招かれざる来園者

五十嵐忠一(仮名)

生前の五十嵐の写真を見たならば、その外交員という職業柄もあって真面目かつ知的そうな面相をしており、特に悪い印象を持たれることはないであろう。

そして動物好きでもあり、井の頭自然文化園の常連客だった。

だが、彼に対する同園の職員の評判は、決して芳しくはない。

なぜなら言っちゃ悪いが、この男は野獣、いや野獣以下と言わざるを得ない悪癖を持っており、職員もそれを知っていたからである。

それは、たびたび夜中に同園に侵入しては、飼育されている動物を犯していたことだ。

午前9時から午後5時までの開園時間内に、正規の来園者として訪れるならまだしも、閉園時間になると動物とおぞましい「ふれあい」を、強行しに忍び込んでいたのである。

後の調べで、事故当日の朝5時ごろ園内をぶらぶらしていた五十嵐を、敷地内の職員住宅に住む職員の家族が目撃していたことがわかった。

そんな招かれざる来園者だった五十嵐は、何度か職員に捕まって注意を受けたことがあり、警察に取り調べを受けたことすらあった。

にもかかわらず懲りることはなく、今度は「はな子」を「制覇」しようとした結果、返り討ちにあってしまったのだ。

彼がそのような性癖を持つにいたったのは、戦争が原因だったのではないかと、その人となりを知る人は後に証言している。

若いころ外地の戦場へ出征した経験のある彼は、戦地で性欲を処理するためにニワトリや豚を相手にしていたらしい。

そしてそれは帰還して妻を娶り、5人もの子宝に恵まれた後も矯正されることはなかったのだ。

彼も戦争の犠牲者だったのかもしれない。

それにしても、この昭和31年当時の新聞はコンプライアンスもプライバシー保護もあったもんじゃない。

哀れ五十嵐は顔写真に実名、勤め先や住所まで報道され、ある新聞においてはその見出しに「忍び込んだ変質外交員」という枕詞まで付される始末。

いくら自業自得とはいえ、これでは気の毒すぎるではないか。

その後

この事故で死んだ五十嵐の不法侵入は明らかであり、閉園中でもあったために、井の頭自然文化園側に落ち度はないとされた。

また、「はな子」がこれによって危険極まりない動物とされて殺処分されることもなく、そのまま飼育が続けられた。

だが4年後の1960年に、今度は飼育員を踏み殺す事故を起こしてしまう。

これには「殺人ゾウ」の烙印を押されてしまい、「はな子」の殺処分も検討される事態となった。

結局、処分は免れたが、来園客から石を投げられたこともあり、ストレスなどからやせ細ったこともあったらしい。

そんな「はな子」も昭和、平成と時代が進んで21世紀を迎えても井の頭自然文化園で飼われ続け、2016年(平成28年)5月26日、ゾウとしては高齢の69歳で天寿を全うした。

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2021年 おもしろ 動物 旅行 福島

フラミンゴを見て思ったこと

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先日、福島県いわき市にあるメヒコというシーフードレストランに行きました。

そのレストラン、何と、テーブルの横にあるガラスの向こうに、フラミンゴがたくさんいるんです。お洒落なレストランです。

フラミンゴを眺めながら、友人と食事をしていたのですが、ふと思いました。

「フラミンゴの足ってさ、歩く時、膝が前にまがってるよね。前に曲がると、歩きにくくないのかな?片脚立ちする時に折り曲げるんなら、後ろに曲げてもいいんじゃない?どうしてだろう?」

気になって、その場でインターネットで調べてみました。

あの脚の曲がるところ、膝ジャなくて、カカトなんです。

マジか、へーと思っていろいろ調べてたら、分かりやすい絵がありました。なるほど。

カカトが長いんです。つまり、足の水かきのついているところが足の指という感じです。つま先立ちしているんですね。

空手でいうところの「猫足立ち」状態というわけです。キャットウォークです。

一つ勉強になりました。

馬とかラクダとかの後ろ足と同じなんですね。人間も鳥も4本足の動物もすべて同じなんです。

ちなみに、フラミンゴが片脚で立つ理由は、水の中にいて体温の定価を避けるためです。

そして、赤の色が鮮やかなほど、異性を引きつけます。モテるのです。

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2021年 おもしろ ゲイ ハムスター 動物 本当のこと

アブノーマルなおっさんハムスター

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中学生の頃、ゴールデンハムスターを二匹飼い始めた。

ペットショップで買ったのではなく、ハムスターを十匹以上飼っていた近所のK山さんがくれた。

二匹ともオスで、名前は村上と斎藤。

全身真っ茶色なのが村上で、白色と茶色のまだら模様なのが斎藤だ。

なぜそんな名前にしたのか?

それは、もらわれてきた初日に真っ茶色い方を一目見た瞬間、弟が、

「この茶色い奴、顔が村上にそっくりだぞ!」

と言い出したからだ。

村上は我々兄弟共通の知り合いで、私から見てもホント村上にそっくりな顔だった。

村上本人がやや色黒で、まさに真っ茶色っぽい顔色をしていたのもあるが、特に目の配置がそのまんまに見えたからだ。

その日から真っ茶色のゴールデンハムスターは「村上」と命名された。

その村上と学校でいつもつるんでいたのが斎藤だったため、自動的に白色と茶色のまだら模様の方は「斎藤」になった。

ちなみにこちらの方は斎藤と顔が似ているわけではない。

もらわれて我が家に来た時点で二匹とも生後一年を過ぎており、それは人間の年齢に換算すれば40歳近いわけで、昨日今日ハムスターとして生きてきたわけではない貫禄に満ちていた。

要するに、初々しさのかけらもなく妙にオッサンっぽい。

それは成熟した大人のオスハムスターならば持っている身体的特徴を、二匹とも十分備えていたからでもあるのだが、

その特徴とはこれだ。

もうそれはそれは御多分に漏れず本当に立派なものを持っていて、オスであることを雄弁に主張していた。

ゴールデンハムスターの性周期は4日であり、つまり通年にわたって繁殖が可能であるからあんなにオス全開なんだろうか。

だが村上と斎藤ではその使い道が違った。

より分かりやすく、かつ露骨に言えば使おうとする対象が正反対だった。

斎藤が使おうとする対象はメスだったが、村上は逆。

そう、村上はホモハムスターだったのだ。

二匹がそれぞれ入れられているゲージを掃除した後に間違えて一緒にしてしまった時に気づいた。

犯そうとするのだ、斉藤を。

大人のハムスターは通常同性の多頭飼いはできない。

オス同士、メス同士を一緒にしたら冗談抜きに殺し合いになる。

よって、普段は引き離して別々のゲージで飼っていたからそれまで全く気付かなかった。

しかも始末が悪いことに村上はタチであり、より最悪なのはケンカの強いオラオラ系ゲイハムスター。

斉藤の抵抗をあっさり制すると、かなわないと見て逃げる斉藤を猛然と追い掛け回し、後ろから組み付くと腰をカクカクし始めるという目を疑う光景が展開された

さすがにハムスターにもゲイがいることが私も弟も信じられず、弟の友達たちのうちハムスターを飼っている者がいて、我が家に飼っているオスハムスターを持ってきてもらい。

試しに一緒にしてみたら、同じように村上は襲いかかっていたから本物のゲイハムスターだった。

ちなみに繁殖させようと、後にペットショップからメスのハムスターを買ってきたのだが、村上は見向きもしなかったばかりか邪魔者として攻撃する有様。

本来ならば、最低オスとメスのつがいなら同じゲージで飼えるのだが。

以降「おかまハムスターがいる」と、村上は弟の友達の間で有名になってしまった。

かように人気者?になった村上だったが、栄光は長続きしなかった。

ある日のこと、ゲージから忽然と姿を消した。

ゲージの出入り口が空きっぱなしだったから、そこから脱走したと思われる。

それから村上は二度と姿を現すことはなかった。

一方のストレートで俗物の斉藤は逃げることはなく、後から購入したメスハムスターとの間に10匹以上子供を作るなどオス機能をフル活用して天寿を全うした。

それから、我が家では数年にわたり斉藤の子孫や他から購入したハムスターを飼い続けたが、やはり村上以上にインパクトのあるハムスターは斉藤も含めていなかった。

だって、ホモハムだったんだもの。

人類以外にもゲイがいることを中学生にして知ってしまった。

そんなもん知らせてどうすんだという感じであり、あともう少し我々が幼かったらどう解釈すればよかったんだろう?

両親に聞いても我々を納得させる回答を得るのは困難だったはずだ。

子供の情操教育に小動物を飼う家庭もあるようだが、甚だしくそれに不適切な個体もあるということは覚えておいても損はないだろう。

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2021年 おもしろ 中二病 動物 本当のこと

『ペットと被ペット』或いは『飼い主と被飼い主』のあるべき関係

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ニホンザルの観察が好きである。

TVやYouTubeでもよく見ているし、実際に動物園や野猿公苑まで見に行くことがあり、顔も見分けることだってできるほどだ。

ネットや書籍でもニホンザルの生態を読み漁り、アマチュア研究家の端くれであると自負している。

ニホンザルの何が面白いかって、他の動物に比べて人間に近いことだ。

中にはおっさん度やおばさん度の高い個体も存在し、特に怒った時の反応や表情などを見ると、「そういや身近にこういう顔して怒る人いるな」と感心したりして、やはり人類はサルから進化したんだと納得する。

このように私はニホンザル研究に熱心であるが、ペットとして飼いたいと思ったことは一度もなく、あくまで見る専門。

ニホンザルをペットとして飼うには都道府県知事の許可が必要で、飼養施設の構造や保管方法にも様々な基準が存在するなどかなりハードルが高いのだ。

そんな面倒くさい動物など飼いたくはない。

それに、

ニホンザルを見ていて面白いと思ったことはあっても、可愛いとは思ったことがない。
「見てて面白い」イコール「ペットにしたい」とは限らないのだ。
いつも身近にいたら憎たらしくなるに決まってる。

なぜなら、ニホンザルは私がペットに求める基準に著しく反する動物だからだ。

それはSF小説の巨匠アイザック・アシモフの「ロボット三原則」に倣って、「ペット三原則」ともいうべき私独自の基準だ。

飼い主とペットの最も理想的かつ良好な関係の構築には、「私は飼い主、お前はペット」という神聖不可侵の境界が存在することが大前提であると考える。

その大前提に対して脅威を及ぼしかねない、つまり,

ペット三原則」に一つでも抵触する特性を有する動物はペット候補から完全に排除するべきである。

ニホンザルはその三つの原則すべてに抵触するから失格。

私はペットにする気が全くない。

ではその基準、「ペット三原則」とはいかなるものか?

ご高覧いただければ幸いである。

原則その一:温厚であること

凶暴な動物など御免こうむりたい、と考えるのは私だけだろうか?

ニホンザルは時々人里に現れては人を襲っているから、決して温厚な動物ではないはずだ。

現に実際にニホンザルの群れを観察していると、しょっちゅうケンカが発生しているから気が短い動物と考えて間違いはない。

ニホンザルに限らず、よく怒る動物は飼っていてきっと疲れるはずだ。

考えてもみよ。いくらペットとはいえ怒っていたら何とかなだめようとするはずで、なぜこちらがそんなに気を使わねばならんのか?

立場わきまえろよ、

と本気で思う。

話は極端にそれるが、家庭内暴力を起こす息子と起こさない息子、どっちがいいだろう?

答えは簡単であろう。

ペットも同様。

外見の如何にかかわらず、少なくとも私は温厚でない動物を可愛いと感じる感性を持っていない。

原則その二:忠実であること

裏切ったり逆らったりする奴は大嫌いだ。

人間だろうが動物だろうがそういう奴は許せない。

よく犬は忠実だが猫は気ままだと言われるから、猫は大嫌いだ。

ハムスターを飼ったことがあるが、ハムスターは恩という概念を理解する知能がなく、いつも餌をやっているにもかかわらず血が出るくらい噛まれたことが何度もあった。

よって、ハムスターは裏切る裏切らない以前の問題だから激しく論外。

やはりペットたるもの飼われているという自覚を有し、

ある程度の敬意と忠誠心を以って飼い主に接することが可能な動物が好ましい。

一方のニホンザルだが、トイレのしつけこそできないとはいえ、日光猿軍団のサルたちのように一旦飼い主と主従関係を築けば忠実になるという本能を有している。

しかし問題があって、これは犬でもそうだが飼い主一家全員に忠誠を誓うわけではなく、主たる飼い主以外の家族の者全員をそれぞれ勝手にランク付けするらしい。

しかも

自分を最底辺に置くという謙虚さは持っておらず、必ず自分より下を作り、その者に対しては不服従を貫いて時に尊大にふるまう。

そういう計算をするのはペットとしてあまりにも可愛げがない。

飼い主たる私同様、私の家族や友人にも同じく敬意を払うべきである。

それにニホンザルは高い知能を有しているというのがどうしても気になるのだ。

人間に例えるなら、

偏差値30くらいのヤバイ奴と偏差値70くらいのヤバイ奴ならば、どっちが怖いだろうか?

やっぱり、ペットはバカすぎず利口すぎないのが好ましい。

その意味から言わせてもらうなら、ニホンザルには犬以上に何を考えているかわからない不気味さを感じるから、疑り深い私はパスしたい。

原則その三:私より強くないこと

他の二つは譲れても、これだけは断固譲れない。

自分より強い動物だけはペットにしてはダメだ。

よく大型犬や、はたまたチンパンジーを飼っている人までいるが、私には信じられない。

その気になったら、こちらを殺すことができる動物なんておっかなくて飼えるものか。

「気持ちが通じ合っているから大丈夫」などと主張する飼い主もいるようだが、それは往々にして人間側の勝手な幻想である。

飼い主の気持ちがペットに分かったとしても、飼い主はペットの気持ちが本当に分かるのだろうか?

言葉が通じないから意見を聞いたり、言いくるめたりすることもできないんだぞ。

もし今機嫌が悪かったら、
実は飼い主である自分にムカついていたら、

などと考えると私ならおちおちしつけもできない。

普段自分に懐いているか懐いていないかは関係がない。

親や子相手でも逆ギレしてついやりすぎちゃった、というのは人間にだってあるのだ。

「やりすぎちゃった」後にいくら反省されても、こちらにとってはもう遅い。

そんな風にこちらがペットの顔色をうかがわなきゃいけないなんて、こちらが飼われているみたいじゃないか。

健全な飼い主・ペット関係とは言い難い。

ニホンザルはオスで体長60cm体重16㎏程度だから、体長169㎝体重68㎏の私がその気になれば勝てる。

だが結構気が荒いし、俊敏でヒットアンドアウェイが可能なあの身体は、飼い主の権威に挑戦する能力を十分に備えている

やはりペットにするには、反抗してきたとしても簡単に制圧可能な動物でなければだめだ。

以上の「ペット三原則」は、飼い主として常に毅然として威厳を持ってペットに接するために必要不可欠な、私的にペット側に求められる特性である。

ペットを溺愛するあまり家族の一員と見做し、自分たちを「飼い主・被飼い主」又は「ペット・被ペット」の関係と表現している者がいたが、私はそんなどっちがどっちだかわからないような関係はお断りだ。

この譲れない三原則以外にもっと贅沢を言えば、「見た目が可愛らしい」「世話が簡単」「放し飼い可能」「逃げ足が遅い」「なんでも食べる(飼い主以外)」「いざとなったら食える」などの条件を加えたいが、そんな私でも飼える動物は販売されているだろうか?

都合よくペットショップを経営する知人がおり、以上の私の条件を伝えて検討と見積りを依頼したところ、即座に以下のような返答があった。

「君に動物を飼う資格はない」

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高崎山の王・ベンツ ~ミスターニホンザルの生涯~

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餌付けしたニホンザルを直に見ることができる公園として有名な高崎山自然動物園(大分県大分市)。

1953年に開園した同公園では、職員が撒くエサを目当てに、C群とB群という二つの群れ、合わせて千頭以上のニホンザルが、それぞれ午前と午後に分かれて、山麓に設けられたサル寄せ場と呼ばれる場所に現れる。

両群とも、普段公園が存在する高崎山山中で生活しているため、訪れた観光客は檻を隔てることなく、ほぼ野生に近い姿のニホンザルを観察することが可能だ。

群れには数百頭を超えるサルがひしめき、目まぐるしく動き回っているために、観光客の目にはどれも同じにしか見えない。

だがそんな観光客の目にも、明らかに他とは違う雰囲気のサルがC群にいた。

老いたとはいえ、群を抜いて巨大な体躯。

圧倒的な存在感と威厳を有し、サル寄せ場にあるボスザル(アルファオスと最近では呼ばれる)の指定席たる切り株に座って周りを睥睨する様は、まさに玉座に座る帝王の風格すらある。

切り株を降りてサル寄せ場をのし歩けば、他のサルたちは道を譲る。

彼の目の前に職員の撒いたエサがあったら、より若く体力のあるオスザルも決して手を付けようとしない。

忠誠の証だ。

彼に挑戦的な態度を取ることができるサルは、この高崎山には存在しない。

どころか、観光客や職員たち人間をも震え上がらせる凄味があった。

彼はここ、C群650頭の頂点に君臨するボスザル。

その名はベンツ。

「高崎山史上最強の男」と人間に言わしめた伝説のボスザルだ。

若年期

ベンツは元々C群ではなくB群出身で、1978年ごろ生まれたと考えられている。

当時すでに、ニホンザルの群れとしては別格に多い数百頭規模のB群の中で、ベンツは早くから頭角を現し始める。

この当時群れはA群・B群・C群の三つ、A群、C群とB群の順番でサル寄せ場にやってきていた。

そのサル版三国志のような高崎山においてB群は、自分たちより先にいるC群としょっちゅう出くわして衝突していたが、その抗争でベンツは大暴れしたのだ。

立派な体格の大ザルで、サルの中でも運動能力に秀でていた彼は、先頭に立って、C群のサルを駆逐、B群内の幹部クラスのオスザルが、次々に群れを離脱したこともあって徐々に序列を上げてゆく。

このころ、高崎山自然動物園職員にベンツと名付けられたのは、その存在感からであるようだ。

そして1987年、弱冠9歳の若さにして、B群のボスザルになった。

これは、人間の年齢ならば20代後半に相当し、ニホンザルの社会でも異例のこととされる。

ボスザルになってからもベンツは、自分の群れがC群と衝突した際には、真っ先に駆け付け、平時には群れ内で起きるケンカを鎮圧。

ボスザルの本来の役割を、存分に果たした。

だが、2年後の1989年に転落することになる。

発情期に抗争相手のC群のメスザル・リズに目をつけ、たびたび群れを離れるようになったのだが、これがいけなかった。

群れを一定期間留守にすると、たとえボスザルであっても、群れから排斥されてしまうのがニホンザルの社会なのだ。

リズとの情事を終えて戻ってきたベンツは、今まで自分に忠誠を誓っていた他のサルから一斉に威嚇されて、B群を追放されてしまう。

C群での下積み生活

トップの座を失い、群れからも“破門”されたベンツは、ハナレザルとなったが、ほどなくして、今までさんざんいびってきたC群に加わろうと接近する。

だが、C群は自分たちをさんざん攻撃してきた憎っくき敵の元大将の顔を覚えており、ベンツをリンチ。

B群のボスザル時代に良い仲だったリズも知らんぷりで、ベンツはC群の外延部から中に入れず、サル寄せ場でエサにありつけない半ハナレザル生活を余儀なくされた。

前の群れでのキャリアなど、ニホンザル社会では関係ない、元ボスザルだろうと新たに加わった群れでは最下層からの出発、ここ高崎山では、サル寄せ場からは遠い周縁部での生活となる。

そして、そこから浮かび上がることはほとんどない。

だが、ベンツは違った。

伝説のボスザルたり得た原因は、たぐいまれな強運もあったからだ。

下積み生活を続けていたベンツは翌年1990年、群れの中央にいることができる幹部クラスのオスザルで、C群での序列第八位のサイジョーの知遇を得る。

サイジョーはそれまで、ベンツを見かけるたびに攻撃していたが、ある日ベンツにマウンティングをした。

これは、サルの世界では弱い一方が誓った忠誠や謝罪を、強い一方が受け入れたことになり、上下関係が存在するとはいえ、一定の友好関係が生じたことを意味する。

サイジョーに認められ、ベンツがC群に居場所を確保した瞬間だった。

サル道に忠実なベンツ

それから後のサイジョーは、未だベンツを認めないC群の他のサルが、ベンツを攻撃すると威嚇して追い払ったし、ベンツはサイジョーがうっかりB群に紛れ込んで攻撃を受けた際は、真っ先に飛び込んで救出した。

彼らはまさに、義兄弟のような関係になっていった。

そして、三か月後にはC群ボスザルのバートン、次いで序列第二位のゲンタのマウンティングを受ける。

それは、C群トップと最高幹部の“盃”を受けたに等しく、ベンツは晴れてサル寄せ場に入って職員の撒くエサを口にする権利を有するオスザル、C群の幹部となった。

ニホンザルの群れは、歴然たる階級社会である。

その序列は、オスの場合年功序列で決まり、群れに長くいればいるほど順位が高い。

そして、自分より順位の高いサルに挑戦する“下剋上”はあまり発生しない。

そんな暴力団のような習性がニホンザルの世界には存在する。

C群は、自分たちより先の午前中にサル寄せ場にいるもう一つの群れ、A群とたびたび鉢合わせして紛争が頻発していたが、例のごとく、ベンツはそこでも大活躍。

戦利品とばかりにA群からエサを奪い取ることもしばしばだったが、功労者であるにもかかわらず、自分より序列が上のサルが来るとベンツはエサを譲った。

ベンツは、上位の者には絶対服従というニホンザルの掟に忠実だったのだ。

そしてその掟は、義兄弟の関係よりも優先すべきものだった。

ある日、ボスザルのバートンと序列が三位になっていたサイジョーがケンカになったのを目の当たりにしたベンツは、何と恩人(恩サル)であり兄貴分のサイジョーを攻撃したのだ。

おそらく、これが原因でサイジョーは群れ内で失脚、ほどなくしてC群から姿を消した。

どう見てもベンツは恩を仇で返したことになるが、それは人間社会の見方である。

ベンツはサル社会での常識、群れ内での順位関係を律義に守ったにすぎないのだ。

それにより、ベンツは上位のサルからの信頼を勝ち取っていった。

高崎山最強軍団・C群行動隊長

サイジョー失脚後、ベンツのC群内での序列は当然上がった。

その後、上位のオスの離脱(オスザルはある期間生活した群れを出る習性がある)によってベンツの地位も上がり、2000年には、序列二位の副ボスザルになっていた。

そのころのベンツは、気力体力共に最盛期。

並外れて大きく筋肉の鎧で覆われた貫禄十分の姿で、群れの内部でしばしば発生するケンカを収め、群れの脅威と判断した観光客や職員までも攻撃するなど、上位オスの本領を発揮。

その一方で、新たなボスとなったゾロには絶対服従と、ニホンザルの王道を走っていた。

だが、ベンツを語る上で欠かせないエピソードとなるのは、その立派なオスザルぶりはおまけに過ぎない。

それは2002年、A群との大規模抗争での活躍だ。

A群は高崎山に公園ができる前からいた群れであり、B群・C群は共に同群から分派したものである。

そして霊長類の群れとしては、世界最多の800頭以上で構成されていた。

A群は、C群より先にサル寄せ場にやってくる群れであり、午前中いっぱいをサル寄せ場で過ごし、午後になると入れ替わりでC群の番になる。

しかし、二時間余りすると今度はB群が来て、C群のエサの時間は強制終了となってしまう。

この当時は、どの群も個体数が飽和状態で、律義に順番を守っていたらエサに十分ありつけないからか、A群はいつまでもいるし、C群は早めに降りてくるようになっていた。

違う群れ同士が同じエサ場で同時に共存することは、ニホンザルの世界ではあり得ない。

バッティングする機会と時間が多くなった両群間で、小競り合いが前にも増して頻発するようになり、それはほどなくして、A群対C群の全面戦争に発展した。

それは大げさではなくまさに戦争、総力戦だった。

両群合わせて1400頭余りの大中小のサルがにらみ合い、あちこちで肉弾戦が起こる。

こうした抗争こそ、ベンツの出番だった。

彼はその戦闘の最前線に常に立ち、圧倒的な度胸と戦闘力を思う存分発揮したのだ。

本来、A群は約800頭の巨大組織であり、数の上では約600頭のC群に勝ち目はない。

しかし、大きな問題を抱えていた。

ボスザルのブラボーはじめ、外敵に立ち向かうべきオスザルたちが頼りにならなかったのだ。

ニホンザルはオスだけでなく、メスにも序列がある。

メスはオスと違って生まれた群れを一生離れないため、メス間の序列がオスの場合のように変動することはない。

そしてその序列は世襲であり、上位のメスから生まれたコザルはオスメス問わず生まれながらに上位、即ち群れ内における“貴族”である。

ブラボーはまさに貴族出身、群れで上位に君臨する母ザルの威光の下で労なくしてボスザルになったボンボンで、厳しいハナレザル生活も、新たに加入した群れでの三下生活といった苦労を経験していない。

それは他の幹部クラスのオスザルたちの多くも同様で、そんな彼らが気骨に欠けるのは人間の場合と事情は同じだ。

一方のC群は他群の出身で最下層からたたき上げたベンツを筆頭に、ワイヤーやブルなど、ハナレザル出身で屈強な体格の武闘派ザルが目白押しだった。

そんな本物の“男たち”に、A群のマザコンたちが敵うはずがない。

ベンツが巨体を怒らせ「ゴッ!ゴッ!ゴッ!」と雄叫びを挙げて突進すれば、A群のサルたちは瞬く間に蹴散らされ、「キーキー」叫んで逃げ出す。

ベンツの背後から襲い掛かる卑怯者には、後に続くC群ボス・ゾロの弟ゾロメ(後のC群ボスザル)が対処し、他の戦線でもワイヤー、ブルが遅れてはならじと相手を撃破してゆく。 C群の他のオスザル、それもついこないだまでコザルだったような“少年ザル”たちまでが戦列に加わり、ベンツの後に続く。

最強の“男”と肩を並べて戦えるのだ。

こんな心強いことはない。

“行動隊長”ベンツを先頭にしたC群の猛攻で、衝突の度にA群の戦線は崩壊。

土煙を挙げてサル寄せ場から山の中へ、一斉に逃げ帰って行った。

それ以降も何度か攻防が続いたが、C群にA群が追い散らされることが多く、その際はいつも先頭にベンツの姿があった。

やがて、A群はベンツの姿を見ただけで動きを停めるほど、ベンツを警戒するようになり、しまいにはベンツが一頭で突進すると、何百頭が揃って逃げ出すほどになった。

そしてその年以降、A群はサル寄せ場に姿を現さなくなった。

完全に高崎山から駆逐されてしまったのだ。

ボス就任、そして伝説へ

2011年、長らくC群ボスザルの地位にあったゾロが姿を現さなくなったことから、ベンツが新たなC群ボスザルとなった。

C群への移籍から21年、ベンツは再び頂点に立ったのだ。

異なる二つの群れでボスになったサルは、高崎山自然動物園が開園して以来存在しない。

B群における最年少でのボス就任、対A群戦争での大殊勲に続いて奇跡的な偉業を、またしてもベンツは果たしたのだ。

ベンツはこの年で年齢33歳、人間の年齢に換算すれば100歳超。 体も弱って、もはや、かつてのような大暴れをすることはなく、サル寄せ場でのんびりと過ごすようになる。

しかしその威厳は健在で、その姿には何事かを成し遂げた者だけが持つ重厚なオーラを見る者に感じさせていた。

そのように余生を穏やかに送るだけ、と思われていたベンツが再び人間を驚かせたのはボス就任の二年後、晩年のことだ。

2013年9月、ベンツが山から下りてこなくなった。

姿が見えなくなってから一週間後、高崎山自然動物園の職員による捜索隊が高崎山に入り、ベンツの捜索が始まった。

普通のサルとは違って、これまでのベンツの武勇伝はマスコミによって広く知れ渡り、ベンツを一目見ようと多くの観光客が高崎山を訪れていたために、無視できない存在となっていたからだ。

もはや死亡したものと思われていた翌10月、何と高崎山から7キロ離れた大分市内で見つかり捕獲された。

通常なら有害鳥獣として殺処分されるところだったが、特別の計らいで住み慣れた高崎山戻されることになった。

だが、長いこと群れを離れていたサルは前述のとおりたとえボスザルであっても受け入れてもらえなくなるのがニホンザルの社会だ。

B群時代同様の事態が懸念されたが、ここでも奇跡は再び起こった。

ベンツの盟友で、彼の不在中にC群の“最高実力者”になっていたゾロメの毛づくろいを受けていたのだ。

これは受け入れられただけではなく、ボスとして復帰したことを意味する。


中央左がゾロメ、右がベンツ

ニホンザルの世界では異例のことが、またしても起こったのだ。

もはやベンツが伝説のボスザル以外の何者でもないことは、疑いようがなかった。

しかし、これが最後の奇跡となった。

その年の12月、ベンツは再び姿を見せなくなり、そして二度と姿を現すことはなかったのだ。

老いて群れについていけなくなったニホンザルは群れを離れ、そのまま死体を残すことなく消えてしまうという。

高崎山自然動物園の職員によると、35歳でニホンザルの平均寿命を大きく上回っていたベンツは、復帰後も老化による衰えが目立っていたらしい。

そしてニホンザルの最後にふさわしく、人間に発見されることなく高崎山の土になった。

最後の最後までニホンザルの王道を走ったのだ。

その後ベンツは、人間たちにその数々の偉業をたたえられて名誉ボスとされ、祠付きの銅像まで作られた。

ベンツはボスザルから守り神となって、今も高崎山に君臨し続けているのだ。

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