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列島を凍り付かせた未成年1988年・名古屋アベック事件 – 第五話


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第五話 犯人逮捕とその後

逮捕された鬼畜たち

小島ら5人は、25日5時ごろには名古屋市内に戻り、犯行に使ったロープや被害者の衣服・免許書など足、がつきそうな物をすべて川に投棄。

殺害現場にいなかった近藤とも会って、逃走方法や捕まってしまった場合の対策などを話し合っていたが、捜査の手は予想外に早く彼らのもとに迫っていた。

大高緑地公園の事件で被害者の車のバンパーに小島の車の塗装片が付着して車種が知られていたし、何より23日に愚かにも、被害者二人を連れてホテルで休憩した際に怪しんだ従業員に車のナンバーを控えられていたことが決定打となる。

従業員が、同日中にそのナンバーを警察に伝えたために、車両まで特定されていたのだ。

小島の車は、翌26日昼過ぎには港区や緑区をしらみつぶしに捜索していた警察に発見される。

発見現場近くには、近藤の住むアパート。

ちょうどそのころ、高志をのぞく犯行グループ5人は、その部屋で事件を報道する新聞を読んだり、逃走先などについて話し合いをしていた。

だが、車が発見されてから間もない午後2時、部屋に緑署の捜査官が乗り込んできて万事休す。

任意同行を求められた5人は、逃走のための身支度をしている最中だった。

捜査本部に身柄を移されて強盗・逮捕監禁などの容疑で取り調べを受けた彼らは、同日中に金城ふ頭や大高緑地の事件についてや拉致されたカップルを殺害したことまで自供。

翌27日未明、強盗致傷・殺人・死体遺棄の容疑で逮捕された。

ちなみに、近藤の部屋には行かずに行方をくらましていた高志も、翌28日には身柄を確保されている。

逮捕された小島茂夫

昭善と須弥代の遺体は26日16時、彼らの供述どおり三重県の山中で発見され、それを伝える報道は日本全国に衝撃を与えた。

犯行にいたる過程も含めて、それまでの未成年による犯罪の中では前代未聞の凶悪さであり、このような連中は厳罰に処すべしという怒りの声が巻き起こる。

死体発見現場

反省なき犯人たち

当時、犯行自供後に犯人たちは涙を流したと、あたかも反省しているような報道をしていたメディアもあったが、実際は全く反省のそぶりが見えなかったようだ。

というか、ふざけていた。

だいたい、6人とも取り調べで自分は主犯じゃないと罪の擦り付け合いをしていたし、責任を感じていないばかりか、他人事のようであったという。

逮捕後に緑署から名古屋少年鑑別所に収容された小島なんぞは、他の共犯者たちと別々に拘置されながら互いに手紙のやり取りをしていたが、その中には反省の言葉はなかったし、「未成年だから大した罪にならない」とか「刑を終えたら筒井と結婚する」と堂々公言。

法廷でも「刑期を終えたら筒井と結婚する」と、カップルを殺したくせに話していたこともあった。

反省していないことは後の名古屋地裁  でも、「少年鑑別所において、反省しているとは思えぬ態度が散見された」と指摘されていることから明らかである。

その他の共犯者も、話にならない奴が多かった。

徳丸や近藤も少年鑑別所で官本に落書きし、職員から注意を受けても反抗的。

龍造寺は少年鑑別所でふんぞり返った言動をし、筒井は少年鑑別所で他の共犯者から呼びかけられるや嬉しそうに応答、龍造寺に窓越しに話しかけて注意を受けたりしていたし、逮捕されたばかりのころは小島と結婚するつもりだと話して、彼氏同様胸糞悪い相思相愛ぶりをさらしている。

裁判になっても彼らの態度は変わらず、犯人の中には公判中に居眠りを始める者まで出る始末だった。

ただでさえ極悪な犯罪を犯しておきながらこの態度では、判決に影響しないはずはない。

小島は何年かしたら出られると思っていたようだが、1989年6月28日に開かれた判決公判で下された判決は死刑(求刑どおり)、求刑どおりになるとは思っていなかった分、これにはかなり動揺したようである。

共犯者については徳丸が無期懲役(求刑どおり)、高志が懲役17年(求刑:無期懲役)、近藤が懲役13年(求刑:懲役15年)、龍造寺と筒井は5~10年の不定期刑(求刑どおり)であった。

昭善と須弥代の両親はもちろんのこと、彼らの凶悪さを身を持って心に刻んでいる金城ふ頭の被害者カップルたちも犯人全員の厳罰を望んでいたが、小島と徳丸はともかく他の共犯者たちの刑は軽すぎるといわざるを得ず、二人の両親はさぞや納得できなかったことだろう。

小島と高志も、この刑に納得していなかった。

あろうことか、重すぎると控訴したのだ。

他の共犯者は控訴しなかったので刑が確定したが、小島たちは途中で弁護人を解任するなど往生際悪く裁判を続け、1996年12月16日の名古屋高裁における控訴審判決公判で原判決が覆され小島は無期懲役、高志は懲役13年に減刑され、のうのうと死刑を回避することに成功してしまった。

高志健一

被害者遺族の無念

野獣たちによる理不尽で陰険な殺人事件は、他の殺人事件同様、被害者遺族のその後の人生も狂わせていた。

昭善の父親は名古屋市南区で理髪店を経営していたが、跡取りとなる予定の息子を殺され、改装したばかりの店を閉店、家族とも離散してしまう。

自動車部品会社で働いていたものの、事件で生きる気力を失っており、事件から3年後の1991年3月、中村区内のアパートで孤独死している。

母親は『中日新聞』の取材に対し、犯人たちを「息子を返してくれない限り、絶対に許すことはない」と語っており、主犯の小島から届いている謝罪の手紙も「中身が毎回同じだ。いつも捨てている」と、息子を殺した犯人たちへの厳しい態度を変えていなかった。

須弥代の両親は事件後、それまで住んでいた家を売却。

母親は1997年11月に病死した。

須弥代の父親は控訴審の公判中、自分が生きている間は犯人たちを憎み続けていくだろうと述べ、その後の週刊新潮の取材では、以下のように答えている。

「娘は病気で亡くなったと思おうとしているのです。私に親や親戚がなく天涯孤独の身であったら、犯人たちを殺していたでしょう。犯人に更生の可能性があるというけど、生きていれば幸せな将来が待っていたはずの娘たちは、その将来を突然断ち切られてしまったのですよ。いまの少年はずるい。少年法で守られていることを知って、平気でああいうことをするんです。私は孫たちに、やられそうになったら遠慮せずにやってしまえといっているんです。うまくいけば正当防衛、悪くても過剰防衛で、いつかは刑務所から出てこられますから」

また、父親は2003年までに服役中の犯人たちから謝罪の手紙を複数回受け取り、犯人たちに励ましの言葉をかけたりしていた。

しかし、この寛大な父親の気持ちを犯人たちの大半は裏切ることになる。

「もう終わったこと」と決め込む犯人たち

獄中の小島

誰も死刑になっていないし、主犯格以外の刑が軽すぎる判決は後味の悪い結果であったが、無期懲役となった小島は、現在も刑務所から出られずにいるから、まだ報いは受け続けていると言える。

その間に、小島は事件を起こしたことを深く反省するようになっており、模範囚として服役して被害者の冥福を祈るなど、犯した罪に向き合っているようだ。

彼の両親も、昭善と須弥代の両親への損害賠償金の支払いを完了し、息子の犯した罪の責任を果たしている。

獄中の徳丸

問題は他の奴らだ。

徳丸は、小島同様未だシャバには出られていないが、一切遺族に謝罪していないし、その親は一回も公判に姿を見せなかったばかりか、賠償金の支払いにも応じていない。

高志、近藤、龍造寺、筒井の親たちも似たり寄ったりで、親権を放棄したとかで支払いを拒否したり、未完済の者が多かったのだ。

すがすがしいほどの「この親にしてこの子あり」ぶりである。

もちろん出所した本人たちは出所後に行方をくらまし、賠償金を支払うことなくのうのうと結婚したりして、意外と普通の生活をしているから頭にくる。

彼らのうち、近藤も2000年に出所後に中国地方の都市に移り住み、結婚して娘をもうけて産廃の仕事をしながらも賠償金をビタ一文払わずにいたところ、2003年にフリーのジャーナリストに居所を突き止められ、その取材に応じて以下のように言い放った。

「事件にばかり引きずられていてもアレでしょう、前に進めないと思う」

「娘が同じ目にあったら許さないと思う。許さないんじゃないでしょうか」

「賠償金については親が示談したが、親とも連絡をとらなくなって、忘れてるというか、それで終わってる」

「被害者の墓参り?行く時間がないので難しいね」

生かしておけないくらい腹が立ったのは、筆者だけではないはずだ。

犯罪者なんて、そんなもんであろう。

その場では反省したとしても、徐々に「あれは、仕方なかったんだ」とかの言い訳を自分で作り上げ、最終的には「もう終わったことだ」という結論にいたり、何食わぬ顔で通常の暮らしに復帰している。

これを見る限り、現実の日本社会は犯ったもの勝ちとしか思えないではないか。

犯罪者を反省させなくてもいいが、後悔だけは十分させる必要があると信ずる筆者は、犯した罪の重さを否応なく知らしめ連中が自殺したくなるような厳格なシステムの構築を切に願っている。

出典元―中日新聞、ウィキペディア、週刊新潮、週刊文春

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列島を凍り付かせた未成年1988年・名古屋アベック事件 – 第四話


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第四話 弄ばれる命

自殺を図った須弥代

須弥代を連れた犯行グループは24日午前11時に近藤と合流、拉致していたカップルのうち男の方は殺し、残った女も今日中に殺すことを告げる。

襲撃の実行犯の一人で、昭善殺害の現場にはいなかった高志にも電話をかけて、この日の22時に落ち合うことを約束させた。

殺害を二人にも手伝わせるはずだったのだが、現役暴力団員の近藤は組の用事があることを理由に「後は任したでな」などと離脱してしまう。

また俺らに丸投げで逃げやがったな!

小島は、近藤の重ね重ねの無責任ぶりに腹が立った。

小島たちは、この時点でまだ須弥代に昭善を殺したことを伝えていないし、須弥代自身も殺すつもりであることも本人に伝えていない。

しかし、須弥代はとっくに彼氏がこの世にいないことに気づいていたし、自分も殺されるであろうことにも感づいていた。

そして、それを望んでいた。

一行が喫茶店などを経て、一昨日カップル狩りをした金城ふ頭に寄った時のこと。

徳丸に見張られてフラフラと外に出た須弥代が、叫び声を上げて突然海に向かって走り出したのだ。

海に飛び込むつもりである。

「お前、ナニしとんだて!!」

ここで死なれるのはかなりまずい、死体が発見されないように真夜中に、どこかで殺して埋めるつもりなのに。

取り押さえて車の中に押し込んだ。

「お兄ちゃん殺したでしょ!?わたし、もう生きていけないいい!!!」

「家帰したったって言っとるが!」

見え透いたウソをここでも言い張ったが、すでに昭善の死を確信していた須弥代は、悲嘆のあまり後追い自殺を図ろうとしていたのだ。

しかし、このあまりに悲しい行動は、人をいたぶるのが大好きな極悪少年少女たちのサディズムの炎に油を注いでしまった。

「私たち、本当に愛し合っていたんです」アピールもカンにさわったし、悲しみに打ちひしがれて泣きわめいている姿を見て、もっともっといじめてやりたくなってきたのだ。

悲しみを踏みにじる悪魔たち

小島たちのたまり場

その後、小島たちはグループのたまり場にしていたアパートに転ずるや、失意のどん底に打ちひしがれる須弥代をリンチ。

「ナニ勝手なことしとんだて!バカ女!!」「死にたいなら殺したる殺したる!」「“お兄ちゃんお兄ちゃん”やかましいじゃい!」「オラ!泣いてんじゃねえ!すんげれぇムカつくわ!」

男には強烈なパンチや蹴りを見舞われて吹っ飛び、女には髪の毛をつかまれて、口汚くののしられながら顔をはたかれて踏みつけられる。

事件後、階下の住民はこの時にドスーンと大きく響く物音を何度か聞いたと証言しており、孤立無援の須弥代に、かなり情け容赦のない暴力が振るわれていたようだ。

さらには、ここで雄獣の徳丸がまたも須弥代をレイプ。

どうせ殺すんだから、こんなやつ何やってもいいと小島はじめ他の奴らも考えていたらしく、筒井も同性が蹂躙されているにもかかわらず「好きだねえ」などと笑っている。

人生最後の日にも関わらず、須弥代は尊厳を踏みにじられ、痛めつけられ続けた。

同日22時ごろ、小島たちは徹底的にいじめ抜いた須弥代を連れてたまり場を出発し、22時40分には高志と合流。

そこで小島は昭善をすでに殺害したことを話し、車のトランクに入った死体も見せた。

「え!?マジ?あの野郎、ホントに殺ってまったんか!?…ホントや、死んどる」

「女の方も殺らなかんでよ。あとはどこでやって、どこに埋めるかなんだわ」

小島と徳丸に高志も加えた男3人で、殺害場所と埋める場所の話し合いが始まった。

車の中には、生きる気力を失ったほどやつれはてた須弥代が龍造寺と筒井に見張られて乗っている。

「富士の樹海とか…、あかん、遠い。明日朝早いから事務所行かなかんで」

「三重の山奥にせんか?オレ、あそこよう知っとるんだわ」

小島の言う三重の山奥とは、現在三重県伊賀市の山林のことである。

彼は、そのあたりに土地勘があったのだ。

「ほんならそこにしよか」

徳丸と高志はその案に同意し、23時10分ごろに高志も加えた一行は三重県に向けて出発。

須弥代にとって、絶望のドライブが始まった。

死者の尊厳などお構いなしの鬼たち

死体を埋めた場所

目的の場所に着いたのは、翌25日の午前2時ごろ。

それは、車一台がやっと通れるほどの林道を進んだ先にあり、両脇はうっそうと茂る山林。

須弥代はタオルで目隠しをされており、小島ら男3人は外に出て、道から7メートルほど奥に入った場所で懐中電灯を照らしながら、死体を埋めるための穴を掘り始める。

そのころ、車中に待機していた龍造寺は、「なんか最後にしてほしいことあったら言やーて」と須弥代に聞いた。

もうここまで来た以上、生かして帰すつもりがないことを隠す必要はないのだ。

すると、「お兄ちゃんの顔が見たいです。お兄ちゃんと一緒に埋めてください」と、弱々しく悲しい答えが返って来た。

金城ふ頭で海に飛び込もうとしたくらいだから、とっくに覚悟を決めていたのである。

「あっそ」「もうええて、そういうの」と、不良少女二人は冷淡だったが。

一時間後、大人の男女を十分埋められるだけの穴かできた。

作業を終わって車まで戻って来た徳丸は須弥代に「最後の飯だで、食べや」と、途中で買った握り飯と缶ジュースを渡す。

徳丸は三回も須弥代を犯したことから分かるとおり、自分勝手にもお気に入りにしていたらしい。

ここへ来るまでの車中でも、自分の膝の上にのせていたりしていた。

嫌らしさがふんだんに混じったやさしさである。

それに対して、須弥代は「私と一緒に埋めてください。天国でお兄ちゃんと食べます」と涙ながらに答え、改めて「お兄ちゃんの顔を見せてください」とお願いしてきた。

「見せたれ」

鬼の小島は、鼻白みながらも徳丸に車のトランクを開けさせて昭善の死体を懐中電灯で照らすと、目隠しを外されて、それを見た須弥代は死体にすがりついて泣き始めた。

昭善の死体はまだ縛られたままだったので、須弥代がそれをほどこうとしていたが、「勝手なことすなて!」と無情にも阻止されてしまう。

午前3時ごろ、小島は厳寒にもかかわらず、須弥代を裸にして再びタオルで目隠し、掘った穴の前に座らせた。

この時、須弥代はずっと無抵抗でされるがままだった彼女らしからぬことを、犯人たちに言っている。

「どうしてこんなひどいことするんですか?警察に捕まらないと思っているんですか?」これは、きっと非道な犯人たちへ発した彼女なりに精一杯の抗議だったんだろう。

そして「やるなら、ひとおもいにやってください」と言った。

暴虐の限りを尽くされた結果、命乞いするほどの生きる気力は、もう残っていなかったようだ。

小島と徳丸は昭善の時と同じように、焼き切っておいたビニールひもを須弥代の首に二重に巻き付け、高志に懐中電灯で照らさせて互いに引っ張る。

須弥代は「やるならひとおもいに」と言っていたが、望み通りにはいかなかった。

ビニールひもが外れるなどのハプニングがあったりして、苦しむ時間は昭善より長引くことになる。

しかも、一回殺人をクリアしている小島と徳丸はすでに慣れてしまっており、「がぁぁぁぁ~げぇぇぇぇ~」と、若い女性が発しているとは思えないほどグロテスクなうめき声を上げて苦しむ須弥代の首を絞め続けながら、「綱引きだぜ」と笑みすら浮かべて前回同様ふざけはじめ、高志にも「お前もやってみろや」とか言って余裕ですらあった。

殺人を一回犯して度胸がついたらしく、ただでさえ悪い奴らが余計に悪くなってしまっていたのである。

結局30分もかかって須弥代は死んだ。

殺してしまった後も、犯行グループの悪ノリは止まらない。

誰が言い出したかは分からないが、穴に須弥代の死体を生前の願いどおり昭善の死体とともに入れた後、カップルの死体なんだからと、お互い抱き合っているような状態にしたのだ。

二人とも理不尽に命を奪われて、なおも弄ばれたのである。

もはや、人間として扱わなくてもよいほどの鬼畜である。

「お兄ちゃんと一緒に埋めてもらえてよかったな」「もう天国着いたかな?」「ハメ合ってるように埋めれば、よかったんちゃう?」「ハハハ!悪い女やな~」などと、ふざけたことを言い合い、全く悪びれていない。

午前3時30分、死体を埋め終わって落ち葉などをかけ、現場に遺留品が残っていないことを確かめた悪魔たちは現場を離れた。

続く

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列島を凍り付かせた未成年1988年・名古屋アベック事件 – 第三話


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第三話 まず、昭善が殺された

意地の張り合いで決められた殺害計画

2月23日7時30分頃、犯行グループ6人は愛知県海部郡弥富町のドライブイン「オートステーション」に到着、朝食を兼ねて改めて今後について話し合うことにした。

須弥代は小島の車から近藤の車に移され、徳丸が二人を見張る。

話し合いと言っても出席者はシンナーのやりすぎで頭の溶けた者ばかりだし、場を取り仕切る頭の悪い小島からとんでもない案がしょっぱなから出ていた。

「やっぱ男は殺って、女は売り飛ばすしかないて」

空き地での話し合いの時に誰かが冗談半分で言った最悪のプランであるが、驚くべきことに話はその方向で進む。

また、風俗店に売り飛ばせなかった場合は須弥代にも死んでもらうことまでが決められる。

小島は逮捕された後の裁判で、ここでの話し合いでは本気ではなく口だけで言い出したことだったと言い訳をしているが、カップルの処理については誰も「殺すのはだめだ」と言い出すことなく、勢いのまま殺害の方向で固まりつつあった。

この集団、実は事件のつい先日知り合ってつるむようになった者もいたりして関係性は希薄で、互いに相手の腹を探り合うようなところがあった。

ましてや不良なんだから他の奴らに気弱な所は見せられず、常に虚勢を張り続けなければならなかったのである。

店を出た5人は、見張りをしていた徳丸に二人を殺すことにしたと伝えたが、徳丸もあっさり了承した。

これも小島と同じく公判中に徳丸が述べたことだが、この時は本当にやるとは思っていなかったようだ。

つまりこの日の朝の時点において、殺害することは口だけか本気か曖昧なままであったようだが、その本気度はその日のうちに一気に高まって実行に移されることになる。

店を出ると6人は須弥代を再び小島の車に乗せて、2台の車に分乗して移動。

途中で高志だけが帰宅することになり、自宅近くで車を降りた。

無神経な行動

5人になった犯行グループは引き続き二人を連れ回し、9時40分頃に休憩のために「ホテルロペ」に入った。

近藤は、車を借りたに上役に車を傷つけてしまったことを報告しに向かったために、グループは小島・徳丸・龍造寺・筒井の4人となる。

ホテルロペ

この4人は、無神経にも拉致した昭善と須弥代を連れて堂々ホテルに入り、夕方17時ごろまで二部屋に分かれて過ごすことになるのだが、当然ながら同ホテルの従業員に怪しまれていた。

だいたい、こんな目つきの悪い連中の存在自体怪しいのに、その中に顔をこわばらせた男女がおり、しかも顔に殴られたような痕があるからである。

不審を抱いた従業員だったが、すぐに通報しようとはしなかった一方で、彼らが乗ってきたグロリア(小島の車)のナンバーをメモしていた。

後にホテル側がそのメモを警察に提供したことによって、事件の犯人検挙につながることになるのだが、もし、この時に通報していれば殺人事件は未然に防げていたかもしれない。

グループのうち小島と筒井は同じ部屋で、徳丸と龍造寺は別の部屋で昭善と須弥代を見張っていたが、同室で徳丸がまたしても須弥代を彼氏の目の前でレイプしたというから、とんでもない野郎だ。

小島も小島で、当初の計画どおり大まじめに須弥代を売り飛ばそうとヤクザ関係者に電話していた。

考えてみれば、何の罪もない女性を暴行・拉致したうえに、風俗店に売り飛ばそうという発想自体無法極まりないが、この極悪なもくろみは不首尾に終わる。

そんな悪いことは、さすがのヤクザもできなかったのではない。

警察に見つかることは明白だったし、三下ヤクザのまま組を脱退していた小島を信用する者などいなかったからである。

だからといって、幸いなことではなかった。

小島に「須弥代も殺す」というプラン2の実行を決意させたからだ。

しかし、即実行というわけにはいかないし、それをこれから殺す本人たちに知られるわけにもいかない。

17時ごろホテルを出てから犯行の痕跡を隠すために洗車場で車を洗った後、拉致した二人には「帰したるで、おとなしゅうしとけ」と言いつけ、昭善の方に車の修理代を支払うという誓約書を書かせるなど、いずれ自分たちは解放されると思いこませていた。

そして解決案は、より着実に二人の殺害に向かっていく。

23時過ぎに小島たちは近藤と再び合流して今後について話し合ったが、小島は近藤と二人きりになると「もう殺ってまうつもりけど、いつやろう?」と迫っていた。

近藤は所用により龍造寺といったんその場を離れ、犯行グループが再び集合したのは24日午前2時半ごろ、場所は港区にある『すかいらーく 熱田一番店(現ガスト)』。

すかいらーく 熱田一番店(現ガスト)

昭善と須弥代は暴行・拉致されてからほぼ丸一日連れ回されて、体力的にも精神的にも限界に近付いている。

そんな二人に小島は「いつ帰れるか近藤と話し合ってから決めるだでよ、ちょっと待っとれ」と、あと少しで解放という希望を持たせていた。

しかし、この『すかいらーく 熱田一番店』で最終的に二人とも殺害すること、その方法と埋める場所が決定されることになるのだ。

一旦解放されていた二人

昭善と須弥代の方は、手ひどい暴行を加えられて打ちひしがれていたが、まさか殺されることはないと考えていたのは間違いない。

そして、犯人の小島たちも殺害という最終決定を下す前に一度彼らを解放しているのだ。

拉致した側にとっても連れ歩くのは疲れるし、本当に殺すのもリスクがある。

というか、行き当たりばったりな小島と近藤は、早くこの状況を終わらせられるなら、生かしておこうが殺してしまおうがどっちでもよいと考えていた節があった。

だが、もちろん警察に行かないよう脅しを交えて、くぎを刺したのは言うまでもない。

「車の修理代はチャラにしたるけどよ、お前らの住所はもう知っとるだでな。マッポにタレこんだら…分かっとるよな?なぁ?」

「分かってますよ!分かってますよ!ホントしませんよ!もう、行ってもいいですよね?」

やっと解放された昭善と須弥代は深夜の『すかいらーく』を出て道路を横断し、歩道を歩いて遠ざかっていく。

彼らを解放するという決定は首謀者格の小島と近藤が下したものだったが、ここで事情を知らない者たちが騒ぎ出した。

「ええんですか?警察に言うんとちゃいます?ヤバくないです?」

女の龍造寺にまで異議を唱えられた小島は、またも下の者たちにナメられたくないという虚栄心を発動させる。

優柔不断な反面、ハッタリだけは一丁前にかましたがる奴なのだ。

「やっぱ帰すのやめとこ。連れ戻せ、徳丸!」と、二人を連れ戻すよう徳丸に命じてしまった。

そして、連れ戻した後は決まっている。

当初、冗談で口に出し、もう引っ込みがつかなくなった決断を実行するのみだ。

解放されたとはいえ、凄まじい犯罪被害に遭って心身共に傷ついた昭善と須弥代は、とぼとぼ歩いて遠ざかっていたらしく、徳丸にすぐに追いつかれる。

「おい戻れ、帰るのはもうちょっと待っとれ」

彼らは、本当ならこの時に全速力で逃走するべきだったが、徳丸の命令に素直に従ってしまう。

さんざん暴行を加えてきた小島たちへの恐怖心から、一日で心が壊され、反抗できなくなっていたと思われる。

しかし、二人の命運はここで尽きた。

近藤は事件の解決案の話し合いに来ていたにも関わらず、不用心にも事件と関係のない知人たちを連れてきており、事情を知られないように彼らを乗せて帰ってもらおうと車で離脱。

やるだけやって、後の面倒ごとは押し付けられた気が大いにした小島は舌打ちしたが、自分たちがやるしかない。

3時ごろになって徳丸・龍造寺・筒井と共に昭善と須弥代を自分の車に乗せて『すかいらーく』を出発。

行先は、愛知県愛知郡長久手町大字長湫字卯塚25番地(現:長久手市卯塚)にある「卯塚公園墓地」。二人を処刑する場所だ。

昭善の殺害

卯塚公園墓地

同墓地は、小島がかつて所属していた弘道会の本家の墓があり、その清掃作業に組員であったころは駆り出されたことがある。

彼らは、途中で自分たちが根城にしているアパートに寄って、死体を埋めるためのスコップを積み込み、深夜スーパーでは殺害に使うロープも買って午前4時半に墓地に到着した。

あれ?帰してくれるんじゃないの?どういうこと?

墓地に向かうまでの間に昭善と須弥代も、さすがに、これはおかしいと気づいたはずである。

帰してもらえると思っていたら、こんな時間に人気のあるはずのない墓地に連れてこられて、おまけに外では小島たちがさっき買ったロープをライターで焼き切っているではないか。

「どういうことですか?どういうことです?ちょっとちょっと!ナニするんですか!?」

小島に何事か命じられた徳丸が昭善を車から降ろすと、半分に焼き切ったロープで両手を縛りはじめ、口にもガムテープが貼り付けられる。

そして、犯人たちは怯える昭善に対して「今からどうなるかわかっとるだろ」と言い放つ。

そう、それは焼き切ったロープのもう片方で絞殺するつもりなのだ。

「そんな!帰してくれるって言ったじゃないですか!やめてくださいよ!!殺さないでくださいよ!!!」

「アレはウソなんだ。さあ来いよ」

小島と徳丸は、ガムテープを貼られた口から必死に命乞いをする昭善を車から少し離れた場所まで引っ立てて正座させると、先ほどのロープを二重に首に巻きつけて、それぞれロープの両端を持つ。

「やめてください!ホントやめてください!やめぇっ…ぐえええぇぇぇっっ」

両方から、綱引きのようにロープが引っ張られ絞められた。

「げげげげっ、げえぇぇえぇぇぇ~!ゔげええぇえっえっえっゔゔぅぅ…ゔゔぅぅう~」

渾身の力で絞められ続けて、この世のものとは思えない断末魔の声を出し続ける昭善。

さすがの小島と徳丸も聞いていられない声で、多少ひるみ始めただったが、やめるわけにはいかない。

どころかここでも虚勢を張って、なかなか死ねない昭善を笑いながら「このタバコ吸い終わるまで引っ張るでよ」と、二人はタバコを吸いつつ絞め続ける。

鼻やガムテープの隙間から血や吐しゃ物を流し、苦しみぬいた昭善が絶命したのは約20分後。

二人は、本当に死んだかどうか蹴ったりして確かめている。

その時、龍造寺と筒井の女二人は車内に残って目と口にガムテープを貼られた須弥代を見張りつつ、離れた場所で男二人が昭善を絞殺する様子を見ていたが、須弥代は目隠しされながらも、何やら最悪なことが起きていることに気づいていた。

「お兄ちゃん(昭善のこと)、お兄ちゃんはどこですか?どこですか!?」

「話しとるだけだがや、うっさいて!」

「何もしてないですよね?お兄ちゃんに何もしてないですよね!?」

「やかましいわ!もうしゃべるなて!」

須弥代の不安の声をうっとうしく感じた女二人は声を出させないようにするため、口にガムテープをさらに貼り重ねる。

本来、次はすぐさま須弥代の番になるはずだった。

しかし、それはなかった。

極悪な小島と徳丸にとってもこれが初めての殺人であり、命を奪われる際に昭善が出した凄絶なうめき声にビビッたからだ。

あれはもう一回聞きたい声ではない。

そして昭善を殺した後、二人は死体と犯行に使用したロープ、スコップをグロリアのトランクに積み込んだのだが、その際に出た物音に須弥代は、何かを感じ取っていたようである。

「あの、何を入れてるんですか」と塞がれた口で尋ね、小島と徳丸が車に乗り込むと「お兄ちゃんはどこですか?」と気が気でない様子になり始めていたのだ。

「もう降ろしたったて」

徳丸は見え透いたウソを言ったが、須弥代はとっくに気がついていた。

最愛の彼氏が、もうこの世にいないことを。

とっくに日が変わって早朝となった、この1988年2月24日。

この日は、須弥代の二十年の人生で最も悲しく絶望的で、そして最後の一日となる。

続く

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列島を凍り付かせた未成年1988年・名古屋アベック事件 – 第二話


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第二話 大高緑地公園事件

噴水族

1988年2月23日早朝、名古屋市中区栄のセントラルパークに、小島茂夫(19歳)、徳丸信久(17歳)、高志健一(20歳)、近藤浩之(19歳)、龍造寺リエ(17歳)、筒井良枝(17歳)の 6人が集まり談笑していた。

6人とも、いかにも暴走族風の見かけをし、シンナーの入った袋を持って吸引している者もいる。

「あいつらも、車もボコボコにしたった。あんなとこで、いちゃくでやわ」

「へへへ!あそこまで女の前でやられたら、男終わりだで」

「あの女、輪姦したりゃよかったな。他の車来たでかんわ」

「うわ!トレーナーに血ぃついとるが!こんなん着て歩けんが!!」

スポーツの試合の後の選手たちのように誇らしげに語っているのは、先ほどやったカツアゲの自慢話だ。

そう、こいつらは、先ほど金城ふ頭でカップルを襲った張本人たち。

1988年当時、ここセントラルパークに集っては、シンナー吸引にふけっていた通称「噴水族」と呼ばれた不良少年たちのかたわれである。

しかし、彼らは中途半端なワルではない。

小島と徳丸は現在こそ鳶の仕事をしているが、元々は山口組弘道会傘下の薗田組の組員であり、唯一成人の高志は現役の同組組員、近藤は同じ弘道会傘下の高山組の組員で、女の龍造寺もヤクザの情婦だし、小島の彼女である筒井も暴力団事務所に出入りしていた。

そんな彼らが金城ふ頭に向かうきっかけとなったのは、昨晩いつものようにシンナーを吸いにセントラルパークに集ったところ、小島が「今からバッカン行くでよ」と言い出したことからだ。

「バッカン」とは彼らの間だけで通用する言葉で、カップルを狙って恐喝するカップル狩りを意味する。

デートスポットである金城ふ頭での「バッカン」は彼らが始めたことではなく、他の「噴水族」の不良も以前からやっており、前年の9月には、複数のカップルを恐喝していた不良少年のグループが検挙されていた。

小島たちの中には、このグループの人間と付き合いのあった者がおり、「バッカン」の手口をよく知っていたのだ。

実際にやるのは今回が初めてだったからか、最初に襲ったパルサーには警察署に逃げ込まれて失敗したが、二回目のカムリは捕まえることに成功。

昨年捕まったグループより危険であることを自認する彼らは、一回目の失敗のうっぷんを晴らすように張り切って、男も女も車もボコボコにしてしまった。

こうして奪った現金は86000円、他にも龍造寺と筒井が女から腕時計とトレーナーを奪っている。

一回のカツアゲとしては大戦果と言えるが、小島はまだ満足していなかった。

もう早朝なのに、あと二回くらいやろうと言い出している。

彼らの中には分け前をもらって帰りたがっている者もいたが、6人で割ったら大した金にならないからだ。

「金城ふ頭、また行くでよ。さっきみたいにやりゃええて」

「金城ふ頭はかんて。最初にやったった奴が通報しとるかもしれんて。」

「ほんなら大高緑地は?あそこなら、カップルおるんと違う?」

「おお、ええな。大高緑地行こまい!」

大高緑地公園も金城ふ頭同様、週末にはカップルの車が押し寄せるデートスポットとなっていたのだ。

こうして次の狩場は決まり、一行は二台の車に分乗して十数キロ先にある名古屋市緑区の大高緑地公園に向かう。

そのころ、大高緑地公園第一駐車場に一台のトヨタ・チェイサーが入ってきて駐車していた。

中に乗っていたのは野村昭善(19歳)と末松須弥代(20歳)。

付き合い始めてぼちぼち経った何回目かのデートを楽しむ彼らは、数十分後に自分たちを襲う悲劇的な運命を、まだ知らなかった。

獲物をロックオンした野獣たち

1988年2月23日未明、名古屋市緑区にある大高緑地公園の公園入口ロータリーに小島の運転するグロリアと、近藤の運転するクラウンが到着。

車を降りた6人は、獲物となるカップルを探索するために暗闇の公園内に入ってゆく。

公園の第一駐車場は平日の早朝とあってがらんとしていたが、一台の白い車が停まっているのが確認できた。

トヨタ・チェイサーだ。

まずは近藤が立ちションを装って偵察に向かうと、チェイサーにはエンジンがかかっており、中にカップルとみられる男女が乗っているのが視認できた。

「よっしゃ、よっしゃ!おったぞ!おったぞ!あそこのチェイサーに乗っとる奴だで」

小島たちが潜む所に戻って来た近藤は、喜色満面で報告。

「こんなド平日のこんな時間までいちゃついとる奴は、お仕置きせなかんて!ほんならやったろか!」

もうすでに三回目なので手慣れたもので、6人は手はずどおり車のナンバーに段ボールを貼り付けたりの準備を手際よく行い、トランクから木刀などの得物を取り出して車に乗り込んだ。

野獣たちにロックオンされたチェイサーの中にいたのは、野村昭善(19歳)と末松須弥代(20歳)。

二人とも、愛知県大府市内にある同じ理容店で働く理容師カップルである。

昭善は床屋を営む家庭の出身で、中学を卒業してから理容師の世界にいたから、すでにいっぱしの理容師、将来は実家の店を継ぐつもりであり、父のために備品を自分の給料を出して購入するなど孝行息子でもあった。

一方の須弥代は、定時制高校を卒業後に理容師を志していたからまだ見習いであり、同い年ながら、すでにいっぱしの理容師として働いていたから昭善は輝いて見え(昭善は早生まれで須弥代と学年は同じだったようだ)、なおかつ、彼のさわやかで人に好かれやすいキャラにも魅かれたのだろう、自然と好意を持って同じ店で働く同僚以上の関係になっていたのだ。

須弥代も親思いで、両親のために貯金をする孝行娘である。

そんな彼らは、将来昭善の実家の店を二人で支えようと共に理容師修行に励んでいたのだから、滅多にいないほど健全なカップルであろう。

両家の親たちも反対する理由がなく、その交際は双方から歓迎されていたほどだ。

この前の日、須弥代は父親のチェイサーを借りて昭善を拾ったようだが、ハンドルは彼氏である昭善が握っている。

なお、須弥代は店の仕事が終わった後で、同僚には今晩は昭善とデートに行くと告げていたものの、父親にはなぜか「女友達の所に行く」と言っていたが、これは後ろめたいからではなく、照れ隠しだったのだろうか?

その事情は、間もなく永遠に確かめることができなくなる。

それは、小島と近藤が運転する車が駐車場に入って近づいてきたと思ったら、チェイサーの後方左右に停車したことから始まった。

動きを封じられた後、特攻隊長気取りの徳丸が木刀片手に車を降りて「オラァ、出てこいや!!」と、こちらに向かって雄叫びを上げたため、昭善と須弥代の二人だけの甘い世界は破られる。

二人とも、異変に気付くのが遅すぎた。

ずっと自分たちの世界に浸っていたのもあるが、後ろ向きに駐車していたので、後方から向かってくる二台がおかしな動きをしているのが分からなかったのである。

駐車場に他の車が入って来たのには気づいていただろうが、いきなり自分たちの車の所に向かってきて後ろ左右に停まり、中から暴走族風の若者たちが鉄パイプや木刀片手に怒声を上げて降りてきて、一気に至福の静寂から奈落の底に落とされた。

どう考えても、こちらに危害を加える気満々の者たちに囲まれ、二人がびっくり仰天したのは言うまでもない。

この時、運転席にいた昭善は慌てて逃走を図ろうとチェイサーをバックさせた。

だが、パニックになるあまり、昭善はより最悪の結果を招く事態を引き起こしてしまう。

この車は、須弥代の父親の車で乗り慣れていない上に、後方は逃げられないように小島と近藤の車が停まっているのである。

昭善のチェイサーは、車体を襲撃者の乗って来た車二台にぶつけてしまったのだ。

「オレの車にナニしてくれとるんだ!!コラアァァー!!!!」

外からは不良の怒りの咆哮が響き、木刀や鉄パイプで車体がより強く叩かれ、ガラスにひびが入る。

その大きな声と音、予想される今後を前、に二人の心臓は凍り付いた。

荒れ狂う逆ギレ

自分たちの車を傷つけられて、小島たちは激怒した。

近藤にいたっては、おっかない組の上役から借りた車なのである。

「オラ!降りてこいてボケ!殺したろか!!!」

不良たちはチェイサーを完全に包囲して、車体を鉄パイプや木刀で乱打してフロントガラスを割る。

もうだめだ、逃げられない。

観念した昭善はおっかなびっくり車を降りたが、頭に木刀が打ち下ろされ、腹や腕を突かれ、拳で顔を殴られる。

「すいません!すいません!勘弁してください!」

流血する頭を押さえて昭善は懇願したが、車を壊された不良たちの怒りが、これで収まるわけがない。

「てめえ、俺らの車どうしてくれるんじゃ!!オラ!!」と、自分たちが悪いにもかかわらず、昭善の顔にパンチを叩き込み続け、所持金の11000円を奪った上に、チェイサーも腹いせとばかりに鉄パイプで破壊する。

そして、女である須弥代の方を担当するのは、今回も龍造寺と筒井の不良少女二人だ。

「はよ降りてこいや!ボケ!」と、助手席で泣きべそをかいておびえ切っている須弥代の髪をつかんで外に引っ張り出す。

金城ふ頭同様に二人は木刀で須弥代を殴打し、ハイヒールを履いた足で足蹴にするなどしたが、今回はより陰惨な仕置きを始めた。

「オラ!服脱げて!」と上半身裸にしたのだ。

これを見た男たちは、黙っていられない。

「この女犯ってまおうぜ!」と近藤が提案し、女である筒井も「こんな糞女犯ってまえ!」とけしかける。

須弥代は襲撃現場から少し離れた場所まで連れていかれ、そこで徳丸と近藤、高志に輪姦された。

小島だけは情婦である筒井の目の前で参加するわけにはいかなかったが。

昭善にとっては、自分の女の前で泣きを入れても叩きのめされ続けたばかりか、目の前で彼女を蹂躙されるという男にとって最悪の屈辱を味わわされた。

もっとも、6人もの不良相手に自分の女を守り切れる男など滅多にいないだろう。

不良たちは現金ばかりかチェイサーの備品、須弥代のアクセサリーなども奪い、今まで幸福だった者たちに地獄を見せるというカップル狩りの醍醐味を堪能し尽くしてはいたが、自分の車を壊されたことを理由にした暴走はまだまだ続く。

レイプを終えた徳丸たちは上半身裸の須弥代を連れて駐車場に戻って来たが、今度は龍造寺と筒井が女として再起不能になった須弥代を全裸にしてヌードリンチを始めたのだ。

極悪少女二人はシンナー(彼らの多くはシンナーを吸っていた)を須弥代の陰部に注ぎ、髪の毛をライターで焼き、タバコの火を背中や胸に押し付ける。

「熱い!熱い!熱い!あづいいい~!!やめてくださいいいい!!!」

須弥代は泣きながら哀願したが、女の涙は女には通用しないことが多い。

特に龍造寺と筒井のような奴には逆効果だった。

「泣きゃええっちゅうもんちゃうぞ!!」「ぶりっ子するなて!ムカつくわ!!」と、余計に暴行に拍車がかかる。

無抵抗の須弥代の体にタバコの火を押し付け、髪を引っ張り回し、足蹴にし続け、男たちも血だらけになった昭善を正座させて殴り蹴り続ける一方で、より楽しそうな須弥代へのリンチにも参加した。

昭善と須弥代への暴行は午前6時まで続いたが、そろそろ明るくなってきて人が入ってくるかもしれない時刻である。

そろそろ退散の時間だ。

だが、両人とも長時間の苛烈な暴行により、金城ふ頭で被害に遭ったカップル以上にひどいケガを負わされていた。

このまま置いておいたら、間違いなく通報される。

不良たちはズタボロにされた二人をひとまず連れて行くことにし、昭善を近藤の車の後部座席に、須弥代を小島の車の後部座席に押し込んで現場を離れた。

手ひどい暴行で呆然自失の二人をそれぞれ乗せた二台の車は、港区の空き地まで行って停まり、小島と徳丸、近藤が車を降りて今後について話し合う。

だが、この時点で彼らが一番心配していたのは、近藤が組の上役から借りた車を傷つけられたことだった。

暴力団幹部ともあろう者が、自分の車を傷つけられて怒らないはずはない。

小島は、組にいた時に兄貴分の車を傷つけ、さんざんヤキを入れられた苦い経験がある。

拉致した二人について「やりすぎちまった。どうする」と話題に出はしたが、この時点では二の次だったのだ。

そんなどうでもよいことに関して、誰かがハッタリ交じりに「男は殺して女は風俗にでも売り飛ばそう」などと言い出したが、それは当初軽口と言った本人も含めて誰もが受け止めていた。

この時までは。

その軽口はその後誰も撤回することなく、なし崩し的に決定事項となり、事件がより最悪の結末を迎えるであろうことを、彼ら自身も気づいていなかった。

続く

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列島を凍り付かせた未成年1988年・名古屋アベック事件 – 第一話


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第一話 事件の始まり

1988年(昭和63年)2月に発生した名古屋アベック殺人事件は、同年11月から翌1月にかけて起きた女子高生コンクリ詰め殺人と双璧をなす悪名の高さで、令和の現代にいたっても語り継がれる少年犯罪である。

当時の日本では、未成年者らによる犯罪が激増して社会問題になってはいたが、この事件の凶悪さと犯行理由の理不尽さはそれまでに起きた少年犯罪を大きく凌駕して全国にショックを与えた。

その当時、中学生だった筆者はその衝撃を体感しており、犯人たちの鬼畜ぶりに怒りを爆発させたものだ。

本稿では、犯行を行った6人の人でなしたちを絶対超えてはならない一線を大きく踏み越えた悪魔たちとみなし、そのような所業を犯すにいたるまでの生育環境や境遇の劣悪さに関しては一切考慮しない。

そんなものが理由になったならば、誰だって殺人を犯してもいいはずだからだ。

たとえ若さゆえの過ちであったとしても、犯していい過ちでは決してなく、昔のことだからと忘れていいものでもない。

凶悪なカップル狩り

1980年代後半の日本では未成年による犯罪が激増、かつ凶悪化していた。

どんな時代でも一定数の若者がグレて悪さをするものだが、母数となる若者の絶対数が多くて少子高齢化が遠い未来の話だった時代なので、その数は令和の現代よりもはるかに多く、その悪質さにおいても令和に勝るとも劣らなかったのだ。

1988年2月23日の東海地方の地方紙『中日新聞』夕刊にも、そんな悪質極まりない未成年者によると思われる犯罪の発生が報道されていた。

同日深夜の名古屋市港区の金城ふ頭、車に乗ってデートに来ていたカップルが複数の不良少年少女に襲われて暴行され、金品を奪われたのだ。

金城ふ頭は、当時から夜景を楽しむデートスポットとして名古屋では有名であり、多くのカップルが車に乗ってデートしに来ていたのだが、彼らを狙った犯罪者もたびたび出現しており、この前年の9月には、こうしたカップル狩りを繰り返していた不良少年グループが検挙されていたが、捕食者がいなくなったわけではなかったのである。

報道によると同日2時30分ごろ、まず名古屋港82番岸壁上に車を停めてデートしていた専門学校生カップルが襲撃された。

カップルの乗る車をいきなり二台の車が挟み込むようにして停車、暴走族風の6人の少年少女たちが木刀片手に降りてきて「コラ!降りて来いて!」と車体を叩いたのだ。

身の危険を感じた専門学校生は車を発進させ、襲撃者たちの投げた木刀で、後部窓ガラスを割られながらも逃走。

不良たちの乗る二台の車も追いかけてきたが、このカップルは幸運にも、約5キロ先の港警察署小碓派出所に逃げ込んだために襲撃者たちの車は姿を消したが、彼らが感じた恐怖はかなりのものであったはずだ。

だが、次に襲われたカップルは不運だった。

逃げられなかったのだ。

最初の襲撃から一時間後の3時30分ごろ、最初の襲撃が行われた岸壁から約250 m離れた81番岸壁上に停車していたトヨタ車のカップルは、退路を絶たれて捕まってしまった。

犯人たちは、前回の失敗を繰り返さなかったのである。

フロントガラスを割られて乗っていた会社員の男性(25歳)は車外に引きずり出され、4人の不良に木刀や警棒で嫌というほど殴られたが、犯人たちは当時の不良が吸引していたシンナーの臭いをぷんぷんさせ、ラリっていたから余計歯止めが効かない。

男性は「死を覚悟した」と後に証言したほどの暴行を加えられて現金86000円を奪われた。

金城ふ頭で襲われたカップルの車

男性の彼女(19歳)も無事ではない。

一味の中の2名の不良少女に「てめえも降りろて!」と髪をつかまれて引きずり降ろされて「汚ったねえツラして泣くなて!よけいムカつくがや!!」「ブスのくせにええ服着とるな。似合わんだでウチらによこせや!!」と罵倒されながら、木刀で殴られ、足で蹴られ踏みつけられたのだ。

「やめてくださ…げぼっ!ごめんなさい!ごめんな…ぐえぇぇぇ!ううぅぅう~痛い痛い痛いよぉお…がっ!!いったあああああい!!!」

泣いても哀願しても、容赦ない暴行は止まらない。

自身も執拗な暴行を受けていた男性だったが、乱暴されて苦しむ彼女が目に入ったんだろう。

自分を囲む不良の輪から抜け出し、「もうやめろて!」と不良少女を突き飛ばして女性の体に覆いかぶさった。

身を挺して彼女を守るためだ。

「てめえ、オレの女にナニ手エ出しとるんだて!!」

「かっこつけると死ぬぞ!コラア!!」

彼女に手を出されて我慢ができないのは少年たちも同じで、自分たちが悪いにもかかわらず、男性への暴行はより激しくなる。

女性も腕時計とデートのために着てきた高価なトレーナーを奪われたうえに殴られ蹴られ続け、暴行は他の車のヘッドライトがこちらに近づいてくるのが見えるまで続き、車もめちゃくちゃに破壊された。

被害に遭った二人は報道では全治一週間の軽傷とされているが、それは実際に目の当たりにすれば、しばらく表を歩けないくらいひどい有様であり、文字通りボコボコにされていて、しばらく家から出てこなかったという。

何より心に大きな傷を負ったのは間違いなく、この二人は今でもその時の恐怖と苦痛を忘れてはいないはずだ。

2月23日時点での夕刊の報道では、この二件の卑劣なカップル狩りだけが報道されていたが、実は二件目の犯行の直後により重大な事件が起こされていたことは報じられていない。

その事件こそ、日本社会を震撼させることになる名古屋アベック殺人であるが、発覚するのはその二日後である。

そして、事件はこの日に進行中だった。

拉致された理容師カップル

金城ふ頭でのカップル狩り(当時はアベックという言い方がまだ一般的だったが)の事件のようにカップルを襲う事件は過去にも起こっていたが、今回の事件は木刀で車や乗っていたカップルを滅多打ちにするなど、以前のものと比べてその凶悪さが注目を浴びた。

しかし、世間に与えた衝撃は当初それほどでもなかった。

第一、それまでの事件でも今回の事件でも被害者たちは手ひどく暴行されて金品を奪われていても、命までは奪われていないからだ。

だが、二日後の2月25日の報道で、この事件の犯人が想像以上に悪質である可能性が浮上する。

金城ふ頭から少し離れた場所で、同じ犯人と思われる者たちによってより凶悪な第三のカップル襲撃事件が起こされ、被害者が拉致されたと思われることが報じられたのだ。

23日の夕刊にはまだ掲載されていなかったことだが、金城ふ頭のカップルたちが襲われた23日の午前8時半頃、10キロ離れた名古屋市緑区の県営大高緑地公園第一駐車場にフロントガラスやヘッドライトが割られ、車体がボコボコにへこんだトヨタのチェイサーが放置されているのを通行人が発見して緑署に通報。

同署の捜査で車内からは血痕が残っていることが分かり、車の外には血の付いたブラジャーや空になった財布、ハンドバックが散乱していた。

また、近所の住民から朝6時ごろ、何かを叩くような音と男女の怒鳴り声が聞こえたという証言もあり、何らかの犯罪が行われたのは明白である。

しかし、肝心の被害者については行方が分からず、拉致された可能性が早くも出ていた。

犯人が金城ふ頭でカップルを狩った者たちと同一犯と考えられたのは、車の窓ガラスを割るなど手口が似ていたことと、大高緑地公園までは車で20分もかからない距離であったこと。

そして、金城ふ頭で襲われた被害者の目撃証言で犯人グループは、白いクラウンと茶色のセドリック、もしくはグロリアに乗っており、放置されていたチェイサーのバンパーに別の車がぶつかった痕があって、そこに残った塗膜片を鑑識で調べたところ別の車のものであり、車は茶色のグロリアかセドリックと考えられるという結果が出ていたからだ。

被害者の身元判明

大高緑地公園で見つかった車

やがて、拉致されたと思われる男女は理容師の野村昭善(19歳)と同じ店で理容師見習いとして働く末松須弥代(20歳)と判明。

放置されていたチェイサーは須弥代の父親所有のものであり、22日の夜に仕事から帰ると「友達のところへ行く」と言ってからチェイサーに乗って出かけて行ったきり帰らず、翌24日に家族から捜索願が出されており、須弥代の彼氏である昭善も22日の夜以降行方が分からなくなって、同じく捜索願が出されていた。

襲われたのは、この二人である可能性しか考えられない。

2月25日、この大高緑地公園での事件を捜査する緑署は、金城ふ頭事件の犯人と同一犯と断定し、金城ふ頭事件を捜査する名古屋水上署と合同捜査本部を設置した。

カップルを襲撃してカツアゲすること自体が悪質極まりないが、なおかつ被害者を拉致して、その行方が分からないことから報道関係者も注目し、翌日以降も犯人の目撃情報やその正体を推定する記事などが中日新聞に掲載される。

そして、事件発生から二日も経っていたんだから、被害者の身内や関係者は居ても立っても居られなかっただろう。

だが、まさか生きていないことはないだろうと思われていた。

犯人は極めて悪辣な不良少年たちのようだが、いくら何でも何の落ち度もないカップルをさらって殺すなんてありえない。

昭善と須弥代が務めていた理容店は二人が生存していると信じ、身代金目的で誘拐されている可能性まで考えて現金まで用意していたくらいだ。

しかし、その「まさか」が起きていた。

二日後に一連の強盗事件の容疑で逮捕されることになる少年少女たちは、すでに両人を殺して埋めていたのだ。

続く

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不良少年たちが集った暴力団養成塾


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まだ元号が昭和だった1973年(昭和48年)4月18日、神奈川県横浜市緑区十日市場町にある横浜市立十日市場中学校の体育館ステージにあった垂れ幕が、ズタズタにされる事件が発生した。

被害総額は、50万円と当時としてはかなりのものであったために警察が捜査したところ、区内のアパート三保荘に住む無職・田邊亨(仮名・16歳)ら不良少年グループの存在が浮かび上がる。

そこで、警察は田邊が暮らす三保荘を調べたところ、同アパートの三部屋を田邊以外に同じく不良少年である中富裕易(仮名・17歳)と稲川会の三次団体高橋組の組員である玉利和信(本名・22歳)が借りていることが分かった。

しかも周辺住民からの聞き込みによると、そこには、常に大勢の不良少年たちが入れ代わり立ち代わり出入りしているというではないか。

犯罪の臭いをいやがうえにも感じ取った警察が捜索に入ったところ、案の定とんでもないことが行われていたことが判明したのだが、それは捜査関係者の予想の斜め上を行っていた。

何と現役バリバリのヤクザである玉利は、暴力団員養成のための「私塾」を開き、多くの少年たちに悪さのテクニックを伝授していたのだ。

“暴力団組員養成塾”の講義内容

“講師”の玉利和信

玉利の暴力団組員養成塾の「塾生」は、中学生7人と高校生19人(女子も4人交じっていた)、その他有職・無職の少年たちを含む計43人。

塾は同年2月に「開校」しており、玉利の「一人前のヤクザになるための講座」は三保荘八号室で毎晩行われ、必ず5、6人は参加していたのだが、その講義内容はヤクザの作法だの仁義だのの面倒くさいものはそっちのけだった。

玉利が主に教えていたのは、窃盗や恐喝のテク、効果的な脅し方であって、いっぱしの現役暴力団組員である自身の豊富な犯罪経験から、過去に遭遇した事例や想定されるさまざまなパターンを網羅した実践的なものである。

もちろん、座学だけではなく「実技」もあった。

正規の暴力団組員である玉利は、自身のシノギとして恐喝もやっており、塾生たちを伴って恐喝する相手のところに押しかけて脅したり、さらったり、監禁して暴行したりの実際の現場も体験させたりしていたのである。

世の中のために全くならない者を育成しているのだが、何らかの技術を習得させる講座としては、かなり充実かつ理想的だったと言わざるを得ない。

また、22歳の玉利は少年たちにとって怖いけど、何でも知ってて頼りになる兄貴であり、先生としても優秀だった。

犯罪のコツを指導しつつ「ヤクザになれば、女にも金にも不自由しないし誰からもナメられることはない」とそのうま味を語り、「気合い入れて、テメーらも一人前の男(ヤクザ)になれ!」と激励。

見込みがあると認められた「優等生」は、玉利の所属する組織の事務所での電話番や使い走りなどをさせてもらえる「インターン」制度まで設けていた。

それに触発されたガキどもは、覚えたての悪事のテクを実践。

この塾が神奈川県警緑署に摘発されるまで、塾生たちは悪事にいそしみ、犯した犯罪は判明しているだけで、窃盗33件にして被害金額は50万円以上、不法監禁2件、暴行や恐喝は数知れずだったという。

“塾”のあった三保荘(現在もあるのだろうか?)

受講生たちの階層と時代背景

結局同年6月、捜査にやって来た警察によって塾は閉校となり、塾長の玉利はもちろん逮捕された。

43人の塾生たち全員も補導され、うち田邊や中富はじめ悪質だった19人が書類送検となる。

だが、なぜたかだか四か月かそこらで、暴力団員を育成する塾などにこんなに多くの塾生が集まったのだろうか?と思うのは現代の感覚だ。

脱退者が相次いで弱体化著しい現代の暴力団組織とは違って、この時代のヤクザは組員数も多くて勢いがあった。

暴力団対策法(暴対法)が施行されるはるか以前だったし、取り締まる側の警察ともある程度癒着していたから、今に比べればやりたい放題。

闇社会の頂点に君臨し、近年ハバを利かせ始めている半グレなど彼らの縄張り内で、ちょっとでものさばったら瞬殺されたであろうおっかない存在だったのだ。

そして「おっかないこと」は往々にして「かっこいいこと」と同義語であり、あこがれて組に入ろうとする青少年も、数多く存在したのである。

だったとしても、そのような塾で熱心に学んで組員になろうとするような塾生たちは、筋金入りの不良少年ばかりだろうと思われたが、補導された中高生たちの多くは意外にも、それぞれの学校で問題行動を起こしたことのない、どちらかと言えば一般の少年たちだった。

彼らは、不良、それもそのワンランク上のヤクザにあこがれて入塾した中二病たちだったのだ。

この事件の発覚した1973年当時は、東映の『仁義なき戦い』が放映されて大ヒット。

映画を観た大人の観客は、劇場を出たとたん肩で風を切ってのし歩くようになるほどで、より影響されやすい年代のガキどもにとっては、なおさらだった。

そんなところへ、手軽にかっこいい暴力団組員の世界を体験できる場所があるとわかるや、友達が友達を呼んで増えていったらしい。

また、玉利ら暴力団の側にも事情があったようで、現代よりぬるかったとはいえ、当時の神奈川県警の取り締まりの強化で勢力が弱まりつつあった組織を立て直そうと、とにかく組員を増やす狙いがあったと見られている

そんな暴力団の思惑とヤクザがかっこよかった時代背景のおかげもあって起きた珍事件であったが、この塾が一期生を指導しているうちにつぶされ、そこで十分学んで闇の世界へ羽ばたく卒業生が出なかったことだけは幸いであった。

出典元―毎日新聞

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1954年・日光参道で修学旅行生同士が乱闘 ~広島県立山陽高校vs.青森市立第一高校~


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戦前か戦後すぐ後くらいに生まれた人々は、今や後期高齢者の爺さん婆さんたちである。

令和の現在ではすっかり好々爺となっているが、彼らにも10代20代だった頃はあった。

まだ日本は貧しかったし、昔ながらの厳しいしつけを受けて育っている人々だから、甘やかされて育って堕落した現代の若者よりも総じてまともだったような気がしないだろうか。

とんでもない。

明らかに血の気が多く、無法を働く輩の比率が今より高かったのだ。

それは当時の新聞の事件欄を見れば明らかで、乱闘や暴行、ついカッとなっての殺人の報道が目白押しなのである。

現代の半グレなど比べものにならないくらいの数のヤカラが街にのさばっており、全国の津々浦々で毎日のようにケンカ沙汰や暴力沙汰が発生していたのだ。

その一端を示すエキサイティングな事件が、今から70年前の栃木市日光市で起きた。

列車内でエキサイトする二高校の修学旅行生たち

1890年(明治23年)に開業して以来、古くより名勝地として知られる日光へ多くの観光客を宇都宮から運んできた日光線。

いつもは、賑やかで観光客たちの笑顔であふれているこの日光線の列車内であったが、1954年(昭和29年)の4月2日の同列車内は、これから観光地へ向かうとは思えないほど険悪な空気が充満していた。

その空気の発生源は、この列車に乗り合わせた二つの高校の修学旅行生たち。

片方は遠く中国地方からやって来た広島県立山陽高校と、もう片方は同じく遠方の青森県から来た青森市立第一高校の生徒たちであり、ガンを飛ばし合って相手をしきりに威嚇している。

実は、この二校の敵対的なファーストコンタクトは、この日光線が初めてではない。

東京から宇都宮までも同じ列車に乗り合わせており、どちらが始めたかは分からないが、東京にいた時点から互いににらみ合っていたのだ。

二校の修学旅行生の内訳は、山陽高校側が約100名、第一高校側が約180名。

ケンカ腰だったのは、当初ほんの一部の威勢のいい生徒だけだったが、このころになると元気のいい生徒たちに触発されたのか、双方の普段はまじめな一般生徒たちも加わって、すでに学校対学校の全面抗争勃発の兆しすら呈し始めている。

「何なら!われらナニガン飛ばしよんじゃ!」

「おめ?やるのが?殺すてけるべが!」

「上等じゃけえ!相手しちゃるぞ!!コラ!」

「なんだばや!かがってごい!弱虫が!」

互いの方言でののしり合い、こうした事態を想定して持ってきていたのか山陽高校側は木刀を出し、第一高校側は登山ナイフをちらつかせるなど、一瞬即発の事態に発展しつつあった。

さすがに、ここまで危険な局面になると双方の引率の教師たちも黙っておらず、生徒たちを制止にかかる。

高校生たちも、このまま列車内で殺し合いになるのは望んでいなかったと見え、教師たちが止めに入ったのを幸いに、お互い矛を収めた形となったようだ。

だが、それは一時休戦に過ぎなかった。

列車が日光駅に到着してからも、双方の生徒たちのアドレナリンは沸騰して高温のままであり、日光市内でほんの些細な原因によりそれが発火、爆発することになる。

日光参道での全面衝突

修学旅行や遠足で遠方に行った威勢のいい中高生が、その先で出くわした他の学校のそれなりの生徒とにらみ合う、というのは珍しくはない。

本ブログの筆者の世代もやっていたし、その前後の世代の者たちも含めて、令和の中高生もやっているだろう。

もっとも、ヤンキー漫画ではないのだから、本当にケンカになることはまれなはずだ。

だが、この時そのまれなことが発生することになる。

それも、漫画以上に。

日光に下車した両校の修学旅行生たちは、互いにメンチを切り合いながらも、それぞれ日光東照宮を見学。

それから、生徒たちは自由行動となって日光参道の散策に入ったのだが、両校の引率の教師たちは、どちらも監督者として致命的な職務怠慢を犯す。

さっきまで刃物や木刀などの凶器まで取り出して相手を威嚇していた元気者たちを、凶器持参のまま野放しにしてしまったのだ。

彼らが日光参道で出くわせばケンカになるのがわかりそうなものだから、現代の教師だったら、凶器を取り上げるか彼らに付き添って見張るなどの措置をとっていただろう。

昭和20年代の教師はのんびりしてた、というか無神経だった者が多かったようだ。

そして、案の定の事態が起こる。

山陽高校の泊智樹(仮名)と一色和明(仮名)ら威勢のいい生徒たちが日光の西参道をぶらついていた時、さっき電車内で揉めた相手の高校の生徒たちと出くわしたのだ。

「田舎もんが!」

こっちがガンを飛ばすと向こうもガンをつけてきたので、またしても街中でにらみ合いになったのだが、今度はにらみ合いだけではすまなかった。

山陽高校側の一人が木刀で第一高校の一人を小突いたとたん、第一高校側のスイッチが入って殴りかかって来たのだ。

「おめ!おだづな!!」

「やっちゃるぞ!田舎もんが!」

完全に頭に血が上った双方は、他の観光客もいる面前で殴り合いを始めた。

彼らは、それぞれ応援を呼んだために乱闘の参加者は増加し、ばかりか、それを見ていた他の生徒たちも呼ばれてもいないのに相手の学校の生徒を見かけると自主的に殴りかかるなど、本物の学校間全面抗争に発展。

乱闘は、通報により飛んできた地元日光署の警官隊によって鎮圧されたが、第一高校側は持参してきた刃物を躊躇なく使っており、山陽高校の泊が下腹部を、一色が肩を刺されて地元の病院に運ばれるという重傷を負ってしまった。

命に別状はなかったとはいえ、彼ら二人の修学旅行は強制終了となったのだ。

刃物を使った生徒は拘束され、双方の引率の教師は日光署で事情徴収を受けたり、ケガをした生徒の看護に病院に詰めたりしたのだが、双方の高校とも他の生徒は修学旅行を続行した。

それにしても、なんて戦闘的なんだ。

令和の現在、いや平成のどんな底辺高校であっても集団でここまで元気を暴発させることはないのではないか。

この当時の日本は、つい九年前まで戦争していたんだから、暴力をふるうことに対する免疫が現在よりぐっと低かったのもあるだろう。

殴られたら殴り返すのが当たり前だった時代だったのだ。

だが、暴力沙汰と言えば無抵抗の相手を一方的に暴行したり、大勢で一人をフクロにするのが主流になってしまった気がする現代より、清々しいように思えるのは筆者だけだろうか?

殴られたら殴り返すケンカには、エネルギーが必要だ。

この時代の若者は礼儀や常識はともかく、エネルギーが総じて現代の若者を凌駕していたのは間違いないだろう。

だからこそ、彼らの力はその後の日本を先進国に発展させる源となり、後期高齢者になった今でもかくしゃくとしていられるのかもしれない。

出典元―栃木新聞

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1962年・岐阜抗争 – 稲川組と芳浜会の抗争の背景


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日本の暴力団が主要団体である山口組や住吉会、稲川会などに寡占化されるはるか以前の1960年代はまだ各地に地元の独立系暴力団組織が健在であったが、主要団体の進出は着実に進んでいた。

中部地方の岐阜県岐阜市も同様であり、1961年(昭和36年)市内の博徒系暴力団池田一家の大幹部・坂東光弘が組を離れて稲川組系林一家・林喜一郎総長の傘下となり、稲川組岐阜支部長に就任する。

稲川組とは、後の広域指定暴力団・稲川会の当時の名称であり、静岡県熱海市を本拠にして神奈川県や東京都など各地に進出して大組織に成長しつつあった。

だが、これによりかねてよりパチンコ利権をめぐって池田一家といがみ合っていた地元組織の的屋系暴力団の芳浜会や瀬古安会との対立が激化。

1962年9月16日午後9時、タクシーに乗って移動中だった坂東光弘を芳浜会杉本組の組員が射殺するという事件が起こる。

傘下組織のトップを殺された稲川組は、報復を決定して林喜一郎はじめ200人の組員を岐阜に向かわせ、一方の芳浜会も迎え撃つために300人を集めて対峙する事態となった。

対規模抗争勃発の予感を感じた岐阜県警も警官300人以上を配備、両組織の衝突阻止に動く。

この抗争は、芳浜会が岐阜中警察署に騒動を起こさないよう警告されたこともあり、芳浜会会長の西松政一が稲川組のかねてからの要求どおり坂東光弘射殺に対する詫びを入れたことでいったんは和解した。

しかし、その遺恨は解消されることはなく、この年のうちに再燃する。

1962年10月、芳浜会系菊田一家の菊田吉彦と瀬古安会の鈴木康雄(安璋煥)が稲川組改め鶴政会林一家の林喜一郎の舎弟になりたいと申し入れてきた。

やはり寄らば大樹の陰であり、大組織の傘下に入ることを選んだようだ。

林はこれを受け入れたが、鶴政会側としては身内である坂東光弘を殺されたわだかまりがまだあったようだ。

鶴政会岐阜支部長・清家国光などは「若衆(子分)になるならいいが、舎弟(弟分)になるのは反対だ」と言っていた。

そんな事情もあったからなのか、11月に菊田と鈴木は鶴政会と同じく岐阜に進出してきていた関西の雄である山口組若頭の地道行雄の舎弟になってしまう。

寄るならばより大きな大樹の下の方がいい。

だが、鷹揚に受け入れた林にしてみれば、これは裏切り行為以外の何者でもない。

怒った林は、菊田と鈴木の殺害を命じた。

命を狙われることになった両人はそれを察したのか、行方知れずとなって所在がつかめなくなる。

その代わりに鶴政会はターゲットを菊田一家の他の人間に変え、その標的となったのは同一家の幹部である足立哲雄。

足立は芳浜会系菊田一家から融和をはかるために池田一家に派遣されて池田一家に席を置いて地元の有力勢力間の橋渡しの役割を担っており、池田一家を完全に傘下に置きたい鶴政会にとっても邪魔な人物であったようだ。

足立哲雄

12月14日正午、足立が襲撃される。

岐阜県大垣市にある大垣競輪へ行こうと国道21号を車で飛ばしていたところ、後ろから来た車が追い抜きざまに足立の車の前に停車。

降りてきた二人の男のうち一人が車に一発拳銃を発射した。

足立は車を降りてたまらず逃げ出したが、ヒットマンたちは発砲しながら追いかけてくる。

一発が右腕、もう一発が右肩に命中した足立は、この騒動で停車した車のうちの一台の下に転がり込んだ。

ヒットマンは運転手も含めて三名で、もう十分だと思ったのか袋のネズミの足立にとどめを刺そうとせずに撤収していった。

命だけは助かった足立は目撃者によって病院に担ぎ込まれ、一時意識不明の重体になりながらも一命を取り留める。

足立には誰の手の者にやられたか、なぜ自分が狙われたのか十分理解していたようだが、どっぷりやくざ者の足立は、その後の警察の事情徴収に何も答えることはなかった。

菊田一家も黙っていない。

二時間後の同日午後二時、岐阜市内にある鶴政会の拠点の一つである倉知興行社に組員六名が押しかけ、拳銃十数発を撃ち込むカチコミを行った。

足立がやられたことへの仕返しであることは言うまでもない。

年内に二回も立て続けに抗争を起こされた岐阜県警は岐阜市内に非常線を張って、徹底的な犯人捜索と抗争の当事者である鶴政会と菊田一家の組事務所への家宅捜索を始めた。

抗争の拡大防止どころか、組織の壊滅を狙い始めたのだ。

これは、鶴政会にとっても芳浜会系菊田一家にとっても望ましいことではない。

鶴政会のドンである稲川聖城は林を熱海市の自邸に呼び出し、足立襲撃の実行犯三人を使用した拳銃持参で捜査本部の置かれた大垣警察署に出頭させるよう指示した。

稲川は抗争を拡大させてもいいことがないことが分かっていたから、林に「軽々しく行動するな」と指示していたし、ナアナアの関係だった神奈川県警にも「応援を出すな」と要請されてもいたのだ。

稲川の意向もあって両組織は早い段階で手打ちを決定し、年末には菊田吉彦・鈴木康雄と林喜一郎の間で手打ちが行われた。

手打ちの条件は岐阜県に林一家を置くことを承認することで、鶴政会、後の稲川会は現在に至るまで岐阜市内に勢力を持ち続けることになる。

一方で菊田と鈴木は山口組の地道の舎弟を経て山口組の直参になったため、山口組も稲川会と同じく岐阜県下に組織を拡大させた。

また、岐阜抗争で襲われた足立ものちに山口組に加入してその二次団体である足立会を率い、山口組若中にまで昇格した。

出典元―岐阜日日新聞、ウィキペディア

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愚か者たちが夢の跡「福ちゃん荘」~1969年・大菩薩峠事件~


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1969年(昭和44年)11月3日、山梨県甲州市の大菩薩峠の山荘「福ちゃん荘」に、53名の大学生風の若者たちが投宿した。

「福ちゃん荘」は登山者向けの宿泊施設兼食堂であり、6日までの三泊四日で予約していた彼らも登山が目的らしく、「ワンゲル共闘会議連合」という団体名を名乗っている。

どこかと戦いそうな勢いの物騒な名前の集団だったが、若者たちは全員分の三食付き宿泊代金もきっちり前払い。

翌朝朝食を済ますと、「福ちゃん荘」で作ってもらった弁当を持って、全員で大菩薩嶺方向へ行って夕方までには戻り、他の行儀の悪い宿泊客のように夜中に酒を飲んで騒いだりすることなく、消灯時間の午後10時までにはきっちり就寝する。

礼儀正しく、食事の後片付けも率先して行う模範的な宿泊客だと山荘の関係者の目には映っていた。

しかし、山荘の関係者も他の宿泊客も知らなかった。

彼らの本当の目的は登山ではない。

そして、団体名よりはるかに危険な集団であり、トチ狂った計画を実行するために来ていたのだ。

「ワンゲル共闘会議連合」の正体

1960年代後半は、激しい学生運動が行われていた時代であったことはよく知られている。

ベトナム反戦運動や1970年に改訂される日米安保条約に反対する運動などが激化し、学生たちは機動隊と街頭でしょっちゅう衝突していた。

だが、この学生運動は1969年1月19日、東大安田講堂に立てこもった全共闘と新左翼の学生たちが排除された事件を機に下火になり、学生運動に参加する学生も少なくなり始める。

その一方で、往生際悪く活動を続ける新左翼団体の過激派学生の行動は先鋭化し始めていた。

1969年に結成された共産同系の共産主義者同盟赤軍派(以下赤軍派)もその一つで、武装蜂起を主張して火炎瓶を使った危険な闘争を開始。

結成早々の同年9月に大阪と東京でそれぞれ大阪戦争、東京戦争と称する暴動を起こした。

だが、この暴動は失敗して多くのメンバーが検挙される結果に終わる。

追い詰められた赤軍派は新たに「11月闘争」という活動を計画、その実行を公言すらしていた。

これは、当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の訪米を阻止する目的のものだったのだが、その作戦は首相官邸を襲撃して人質をとり、逮捕された同志を奪還しようというバカげたものである。

はたから見て、どう考えても失敗に終わる光景しか頭に浮かばない計画であったが、頭の中が真っ赤なあまり正常な判断力を有さない彼らは本気であり、そのための「戦闘訓練」が必要であると考えていた。

だが、すでに公安にマークされていた赤軍派が、都内で訓練を行うわけにはいかない。

そこで、誰かの目に留まりにくい山中で行おうと目をつけたのが大菩薩峠で、迷惑にもその宿泊先として選ばれてしまったのが山荘「福ちゃん荘」だった。

「戦闘訓練」とか言いながら、晩秋の寒さが本格化し始めた山梨県の山中で野宿する気合はなかったらしい。

11月3日、「ワンゲル共闘会議連合」という学生の登山グループを装って事前に予約していた「福ちゃん荘」にやって来た赤軍派の学生たちは、九部屋に分かれて宿泊。

翌朝に山荘を出発して「赤軍第三中隊」という旗を立てて大菩薩嶺へ向けて「行軍」、訓練地とした山中で爆弾を投擲したり突貫攻撃の訓練をしていた。

一応、彼らはこれらを秘密訓練とみなし、他の登山客に見られないように要所要所に見張りを立てていたが、マヌケにも少なからぬ登山客に目撃されていたようだ。

さらに、よりマヌケだったことは、彼らの行動はすでに警察に知られており、3日の時点で「福ちゃん荘」近くの別の山荘に警官が泊まり込んで見張られていたことである。

一網打尽にしようと、多数の警官が動員されていたのは言うまでもない。

また、大手新聞社である読売新聞の記者も赤軍派の動きをつかんでおり、4日には記者が一斉検挙の特ダネをつかもうと、一般登山客を装って「福ちゃん荘」に投宿していた。

そうとは知らない反政府武装集団を気取る革命オタクの素人たちは大まじめに第二日目の訓練を終えると夕方までに山荘に戻り、消灯前に就寝。

戦闘訓練で疲れたし、第三日目である明日の訓練に備えようとしたのだろう。

だが、彼らに第三日目が来ることはなかった。

動員を終えた警官隊約250名が、すでに山荘を完全に包囲していたのだ。

一網打尽にされる革命オタクたち

11月5日午前6時ごろ、山荘を包囲して配置に着いていた警官隊が行動を起こす。

まず、玄関の戸を叩いて山荘の関係者に開けさせると、次々と内部に踏み込んだ。

激しい抵抗に備えて防弾チョッキなどを装備してきた警官隊だったが、学生たちの多くは布団に入って夢の中。

「動くな!手を挙げろ!」と怒鳴られてようやく目覚め、ハッとなる始末だった。

読売新聞の特ダネ

二階の部屋で寝ていた学生のうち、屋根伝いに逃げようとした者が三名ほどいたものの、下は警官でびっしりだったために逃走を断念。

学生たちはほぼ無抵抗であり、次々と外へ引っ張り出される。

「武装蜂起」とか勇ましくぶち上げて戦闘訓練をやっていた割には口ほどのものでもなく、あっけなく一網打尽にされてしまった。

外に引き出された学生たち

赤軍派は、危険な過激派集団だと見なされていたが、外に集められたのは、どいつもこいつも闘争どころかケンカも弱そうな大学生たち。

中には女子学生も二人いたのだが、筋金入りの女闘士とは程遠い普通の女の子で、警官の剣幕に怯えて泣きべそをかいている。

また、少なからぬ高校生も混じっていたのだが、何も知らされず数合わせのために参加させられた者が多かったようだ。

「ハイキングに行こう」などと言われて参加してみたら、寝ている所を警官に乱入されて唖然としている様子だった。

上野勝輝

とはいえ、逮捕された学生の中には今回の訓練の責任者である上野勝輝(京大生・24歳)はじめ、内ゲバ事件や派出所襲撃などの容疑ですでに逮捕状の出ている本物の過激派も五人混じっていたし、寝ていた部屋の押し入れからは、彼らの持ってきたパイプ爆弾や硫酸の入った試験管、大量のナイフなども出てきていたからお騒がせの連中で済ますわけにいかない。

凶器準備集合罪で全員逮捕され、逮捕状の出ていた五人はそれぞれ警視庁や大阪府警に連行され、残りは山梨県内の警察署へ分散して留置された。

赤軍派は、7日に「東京戦争」と称する騒動を計画していたとされ、彼らはこの大菩薩峠での訓練を終えた翌日には、行動するつもりだったようだ。

だが、「福ちゃん荘」で少なからぬメンバーが逮捕されて計画していた騒動を未然に阻止されてしまい、赤軍派は大きなダメージを受ける。

ちなみに、治安を守る意味では大成功だったこの逮捕劇だったが、「福ちゃん荘」に泊まっていた赤軍派とは無関係の宿泊者が、少なからずとばっちりを受けていた。

警官たちの中には、安田講堂のように火炎瓶や手製爆弾が飛んでくるものと想像して勇み足を踏んだ者もいて、一味の者と誤認されて、寝ていたところを引きずり出されたり警棒で殴られた宿泊者もいたし、これより前の時間に起床して外で山歩きの準備をしていた登山部の学生たちも、赤軍派の一部と勘違いした警官隊に襲撃され、あわや警棒や盾でボコられるところだったという。

その後の赤軍派と現在の「福ちゃん荘

この大菩薩峠事件と呼ばれるようになった事件で逮捕された者たちは1974年(昭和49年)6月10日の裁判で裁かれ、リーダーの上野勝輝に懲役6年が言い渡されたのを筆頭に、16人のメンバーに3~6年の懲役刑が科された。

大菩薩峠で、とどめを刺されたと思われた赤軍派だったが、その後に残党たちが行動をよりエスカレートさせて正真正銘のテロ犯罪を起こすことになる。

赤軍派の軍事委員会議長だった田宮高麿は、1970年3月31日に同志8人と、よど号ハイジャック事件を起こした。

中央委員の重信房子は、後に国際的なテロ組織となる日本赤軍の最高幹部として数々のテロ事件にかかわる。

大菩薩峠事件以後に復帰した森恒夫らは、他の新左翼過激派組織の京浜安保共闘と共に連合赤軍を形成、山岳ベース事件、あさま山荘事件などを起こした。

大菩薩峠での赤軍派大量検挙は日本の左翼活動史の一つの転換点になってしまった面もあるようだ。

この事件で赤軍派に宿泊された「福ちゃん荘」だが、もちろん左翼とは何の関係もない。50年以上昔の大騒動がまるでなかったかのように、現在も登山客の宿泊施設兼食堂として営業している。

出典―読売新聞、毎日新聞、朝日新聞

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1986年: 中学生との命を賭けた決闘の結末

本記事に登場する氏名は、一部仮名です


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1986年(昭和61年)2月、兵庫県神戸市東灘区にある市営団地で中学三年生の少年が殺される事件が起きた。

殺したのは、同区の県営住宅に住む小林寛智(仮名・22歳)。

一見すると、成人が未成年を殺した許しがたい凶行に思えるこの殺人だが、実は加害者も加害者ならば、被害者も被害者と言わざるを得ない性質の事件であった。

ミニFM局

YouTubeやツイキャスが出現するはるか以前の80年代、ミニFM局が注目を浴びていた。

ミニFM局とは、FM電波を送信する送信機を使って自分の好きな音楽などの情報を不特定多数に発信するミニラジオ局ともいうべきものである。

スマートフォンもパソコンもなかった時代だったから、情報の受け手はもっぱらラジオからだったが、テレビ局やラジオ局ではない一般人が情報を広く発信するという意味では、現代のSNSとやっていることは変わらないから、個人メディアのはしりと言ってもいいだろう。

グローバルに発信できるSNSが定着した現代と違って電波法の規制もあったから、出力できる範囲は限られていたが、それでも自分の意見なり嗜好を多くの人々に知らしめて、何らかの反応や共感を得たいという承認欲求を満たせるツールとして、多くの若者がミニFM局を開設していた。

「FMシティ」のあった県営団地の現在

神戸市東灘区に住む小林寛智もその一人で、小林は1985年7月から、自宅の県営住宅でミニFM局「FMシティ」を開設。

定職のなかった彼は、ヒマに任せて自分の好みの音楽などを配信するようになった。

小林の「FMシティ」の放送エリアは東灘区一帯という狭い範囲だったが(ちなみに当時の電波法に定められた範囲には違反していた)、出だしから好調で中学生を中心に口コミで人気が広がる。

曲をリクエストする電話もかかって来るようになり、中には小林の自宅を訪ねてくる中学生のファンも現れた。

自分より若い世代に支持されていることに気を良くしたんだろう。

小林は、気さくにその中学生を自宅に上げるや、やがてその仲間たちも誘われてやってくるようになり、いつしか小林の家は中学生のたまり場になった。

だが、これが大きな間違いであったことに気づくのに時間はかからなかった。

つけあがるガキども

中学生たちは、主に小林の「FMシティ」が放送される午後11時から午前4時の間に来ることが多く、そのまま泊まっていく者もいた。

中学生のくせにそんな時間に外出していたような者たちなんだから、当然真面目でおとなしい少年少女たちではない。

小林は彼らよりだいぶ年長だったが、当初から同級生のような目線で接したのもいけなかった。

おまけに、年少者からある程度畏敬される兄貴分的な気質もみじんもなかったために、中学生たちは増長。

小林の家でタバコを吸ったり酒を飲んだり、深夜に騒いで近所の住民から注意されると逆ギレして、ビール瓶を投げ込んだりのやりたい放題をするようになったが、小林は特に注意することなく、そのままにしていた。

もっとも、注意していたとしても効果はなかったであろう。

生意気盛りのガキどもは、自分たちに対して弱気と見た小林を侮るようになっていたからだ。

そして「FMシティ」開設の翌年1986年2月、事件のきっかけが起こる。

それは、小林宅に出入りする悪ガキどもの一人である町田理人(仮名・15歳)が、聞き捨てならないことを耳にしたことから始まる。

小林が自分のことを「うざい奴だ」と言っていることを、仲間から聞いたのだ。

反抗期真っただ中の中学三年生でいいカッコしいの町田は、日頃から小林相手に生意気な態度で接し、みんなの前ではナメられまいと威勢よくふるまっていたから、そのままにしておくと自身の沽券に係わると考えた。

小林と賭けマージャンをしたりもしていたのだが、そのマージャンで賭け金やマージャンの打ち方をめぐって、小林ともめていたこともあったから、なおさらムカつく。

「あんガキ、ナメくさりおってからに!白黒つけたらあ!」

町田は、小林よりはるかに年下のガキのくせにいきり立ち、小林と話をつけると宣言した。

中学生にナメられる22歳

小林寛智(仮名・22歳)

1986年2月19日夜7時、町田は勝手知ったる小林の自宅に押しかけた。

こういう穏やかじゃない目的を持っている場合、悪ガキは往々にして一人で行かず何人か引き連れて行くものだが、町田もご多分に漏れず仲間4人を同伴している。

そんなに怖くない相手でも一人で行くのは嫌なのだ。

「おい、小林くんよお。オレの悪口言うとるみたいやけど、どういうことやねん?ああん?」

町田は仲間も来ているから、遠慮なくドスを効かせて対応に出た気の弱い年上男を脅した。

小林は中学生たちにこんな態度をとられるようだから、もともと臆病で見くびられやすい男だったのは間違いがない。

だったとしても、この時、年甲斐もなくはるか年少の少年たちの剣呑な雰囲気にビビるあまり、年上らしからぬことを口にしてしまった。

「言うとらへんよ…、オレちゃうわ。悪口言うとるんは髙澤やて…」

高澤は、町田と同じく小林宅に出入りしている中学生である。

何と22歳の小林は、中学生の高澤に矛先をそらそうとしたのだ。

どうりでガキどもから見下されるわけである。

「ホンマやろな?ほんなら、一緒に本人に聞こうやないか!ちょっとツラ貸せや!」

もう、どっちが22歳でどっちが中学生かわからない。

中学生たちは小林を連れて、近所の市営団地に住む高澤宅に向かい、団地のロビーに呼び出した本人に問い詰めたが、当然ながら激しく否定される。

ばかりか、高澤は悪口を言っていたのは小林だと主張した。

「言うわけないやろ!ええ加減なこと言うてからに!お前が言うとったんやないかい!!」

高澤も町田同様小林のことをナメているのだ。

「やっぱ、そうやったやないか!どう落とし前つけてくれるんや?コラ!」

「いや、落とし前て…んなアホな…」

「タイマンで決着つけようやないか!」

町田は語気鋭く言うや、登山ナイフを取り出した。

若気の至りの代償

何と、町田は素手ではなくナイフでタイマンしようというのだ。

「な、なんやそれは?あかん!落ち着けや…やめとこうや」

「お前もナイフ取れや、おい、誰かこいつに一本貸したれや」

町田は、仲間の一人から折り畳みナイフを出させて、小林に取らせようとする。

彼らの学校のそれなりの素行の生徒の間では、ナイフを持って歩くことが流行しており、しゃれっ気の塊のような町田が握っている登山ナイフは自慢の一品だ。

思春期の町田は仲間もいるし、気が大きくなっていたんだろう。

また、みんなの見ている前で中途半端に終わらせてしまったら、後々見くびられてしまうと考えたのも間違いない。

「なあ、なあ、あかんて、こういうの…。冷静になろうや!」

小林はナイフこそ受け取ったが、勝負しようとしない。

だが、一緒に来ていた少年たちがはやし立てる。

「はよやらんかい!」

「ビビっとんのか?!情けねえ年上やな!」

この時の町田が、どこまで本気だったかは分からない。

本当に刺すつもりだったのか、ハッタリだけで小林が謝罪してくれたらいいやと考えていたのか。

それはこの直後、永遠に確かめることができなくなる。

ナイフを握って、こちらに向かってきた町田を、小林がとっさに受け取ったナイフで刺したのだ。

町田は、うめき声を上げてうずくまった。

小林のナイフは、町田の左わき腹を貫いており血が止まらない。

ロビーにみるみる広がる鮮血を前に、刺した小林はもちろん、さっきまではやし立てていた少年たちも顔色を失った。

町田は、刺された場所が悪かったようだ。

そのまま気を失い、呆然とするあまり周りの者たちの処置が遅れたこともあって出血多量で死亡。

15年という短い人生を自業自得で終わらせてしまった。

事件現場となった市営団地の現在

小林は、その後に駆け付けた警察によって殺人容疑で逮捕される。

「ナイフを持って向かってきたから刺した。殺すつもりはなかった」と主張したが、当然正当防衛が認められるわけはない。

結果的に殺してしまったわけだし、その前に家にやって来た中学生と賭けマージャンをやったり、喫煙や飲酒を放置していたこと、そもそも自身のミニFM局が電波法に違反していたことなどから、刑事責任を免れることはできなかった。

いずれにせよ、だらしなさ過ぎたことが原因で長期の実刑を受けたであろう小林はもちろん、生意気すぎたことが原因で死んでしまった町田も同情するに値しない事件である。

防ぐことはできなかったんだろうか?

無理だったろう。

どっちも救いようがないくらい愚かだったとしか考えられないのだから。

出典元―神戸新聞、毎日新聞

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