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オレの代わりに受験しろ! ~替え玉受験させるために軟弱陰キャ大学生を脅して猛勉強させた男~


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「加害者も加害者なら、被害者も被害者」と言わざるを得ない事件が起きることがある。

どう考えても加害者は「普通はこんなことやらないだろう」ということをしでかし、被害者は「普通はこんなことやられないだろう」ということをされる事件のことだ。

1975年(昭和50年)に起きたこの珍妙な出来事は、まさにそれにあたり、その「どっちもどっち」さぶりは語り継ぐに値すると考える。

大志を抱く出来損ない

兵庫県姫路市で生まれた片倉卓己(仮名・19歳)は、お世辞にもデキのいい男とは言えなかった。

地元姫路市内の中学を卒業後に、高校受験に失敗。

家庭環境が複雑で家に居づらかったこともあって、1973年(昭和48年)に上京して新聞配達の仕事を始めたが、一緒に働いていた年上の大学生を殴ってクビになってしまう。

その後は東京をいったん離れ、翌年四月に四国の電波系高等専門学校に入学したが、せっかく入った高専も合わなかったらしく一年余りで退学してしまった。

その後、自分探しをするように職に就いたりしていたが、高専を退学した1975年に再び上京する。

科学技術に興味のあった片倉は、いつしか科学者になりたいと思うようになっており、それを実現するために、理系の大学に入ろうと受験勉強をするつもりだったのだ。

しかし、その夢は、片倉の知能を大きく上回っていた。

高校を卒業していない彼は、まず大学受験の資格を得るために大学入学資格検定(現・高等学校卒業程度認定試験)をパスする必要があり、大学入学試験は、それよりさらに難易度が高かったのは言うまでもないが、どちらもからっきし合格する自信がなかったのである。

普通なら、この時点であきらめるし、だいたい19にもなったら自分の能力や資質をある程度把握して見て、いい夢と悪い夢の区別くらいはつくはずだが、片倉にはそれが分からなかった。

どうしてもクリアしたいが、全く自信がない試験にどうやったら受かることができるのか?

普通のバカならば、やるだけムダな受験勉強をダラダラ続けたことだろう。

だが、片倉はそんじゃそこらのバカとはレベルが違った。

その劣悪な頭脳で思いついたのは「自分の代わりに誰か頭のいい奴に受験させる」ことだったのだ。

そして、そんな都合のいい奴に心当たりがあった。

気弱な大学生

だいたい、入学試験にも合格できない者が授業についていけるわけがないのだが、片倉は合格して入学さえしてしまえば、こっちのもんだとでも思っていたんだろう。

間違いなく頭が悪い。

しかし、片倉は頭こそ悪かったが、行動力が抜群にあった。

思いついたら、すぐ行動なのだ。

つまり、バカなぶん相当タチが悪い。

上京して借りた部屋は、北区十条のアパート。

そこには、顔見知りが住んでいたからなのだが、その顔見知りとは、最初に務めた新聞店で片倉が殴った大学生だった。

その大学生、本田雄介(仮名・21歳)は某工科大学の三年生で年上だったが、極端に気弱な男であったために、ちょっと脅せば言うことを聞いてくれる奴である。

新聞店にいた時に殴ってしまったのは、日ごろからいいように使っていたところ、ちょっと気に入らない態度を見せたことからついカッとなったからだ。

そんな奴と同じアパートに引っ越してきた目的は言うまでもない。

目的どおり、自分の替え玉として受験させるためだ。

本田はヘタレだが腐っても大学生である。

試験がからっきし苦手な自分が受験するよりも、合格する確率ははるかに高い。

6月ごろ、片倉は本田に自分の替え玉となって受験するように強要。

その際「オレは地元にヤクザのツレがおってのう。嫌や言うんやったら、そいつも連れて来たるで!」と見え見えのハッタリまでかました。

とんでもない無茶ぶりだが、本田は元々気弱すぎるうえに、以前片倉に殴られたこともあって、恐怖が身に染みていたと思われる。

その要求を嫌々飲まされた結果、受験勉強地獄が始まった。

受験勉強地獄

いくら大学生とはいえ、何もせずに一発で合格できるとは思えない。

念には念を入れて、やりすぎなぐらい勉強するのが望ましいのだ。

片倉は、受験で必須となる科目の参考書を本田に買い与えて学習スケジュール表を作成、一日五時間の受験勉強を義務付けた。

勉強は片倉の部屋でさせ、その間つきっきりで本田の勉強を監視。

本田はアルバイトの新聞配達をしつつ昼間は学校に通っているから学習中にウトウトすることがあったが、片倉は甘やかさない。

ちょっとでも居眠りしようものならば「合格する気あんのか!!わりゃあ!!」と、タバコの火で根性焼きか鉄拳制裁だ。

片倉は、自分が勉強する場合はダラダラやっていたが、他人に勉強させる場合は熱心かつスパルタなのだ。

自分の夢を実現するためなんだから、手は決して抜かない。

本田の家財道具も没収して自分の部屋に運び込み、「逃げた場合はこれを処分する」と脅した。

本田も本田で、いくら気弱で自分で抵抗する勇気はなかったとしても、学校や周囲の人間に相談するくらいできそうなものだが、対人恐怖症的なところもあったのか相談できる友はなく、東京で唯一知っている人間は片倉だけだったようだ。

知人が片倉のようなバカしかいないとは最悪である。

強制受験勉強が始まって一か月後、本田の大学は夏休みに入った。

だが、本田に遊ぶ時間はない、夏休みを制する者は受験を制するのだ。

学習時間は、なんと12時間にされてしまった。

これでは、授業がある時よりきつい。

本田がウトウトする頻度も多くなり、そのたびに、片倉によるお仕置きにも力がこもる。

「もうすぐ大学入学資格検定やぞ、分かっとるんか!!?」

そして、大学の夏休みも終盤を迎えた8月28日、朝から英語の学習をさせられていた本田がまた居眠りを始める。

「ナニ寝とるんじゃい!ボケェ!!」

この日、特に機嫌が悪かったらしい片倉は激怒し、火で熱したナイフを本田の右腕に押し付けた。

「あっつううううう!!!!」

この暴行には、さすがの本田もたまりかねたようだ。

同日午後1時ごろ、今までされるがままだった彼は、隙をついて部屋から脱走。

110番通報した結果、駆け付けた警察官によって片倉は暴行傷害の容疑であっさり逮捕され、その実現方法を大いに間違えた夢は潰えた。

自分が受かる自信がないから、他人に受験させようと勉強までさせ続けていたこの奇特な事件だが、加害者の片倉も相当なバカだが、被害者の本田もかなりのもんであろう。

一番悪いのは片倉だが、ここまでされるがままだった本田も問題だと言わざるをえない。

極端にバカで凶悪な奴と極端に気弱な奴が出会ったからこそ起きた世にも珍妙な事件であった。

出典―読売新聞、毎日新聞、朝日新聞

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昭和の超戦闘的暴力団抗争 ~1964年・第一次松山抗争~


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1964年(昭和39年)ごろの日本は、社会全体に活気があった。

高度経済成長の真っただ中だったし、この年の10月には東京オリンピックを控えており、三種の神器と呼ばれたテレビ・冷蔵庫・洗濯機が全国の家庭に普及して、生活が目に見えて便利になっていくのを体感できるなど、現在も未来も明るかった時代だ。

当然、日本企業も一般庶民も元気だったわけだが、そうであってはまずい人たちも元気だった。

すなわち、反社会勢力、暴力団のことである。

その中でも最も威勢が良かった組織の一つが、ご存じ現在も神戸市に本拠を置く山口組であり、すでに西日本を中心に日本全国へ地元組織を屈服させながら、勢力を拡大中であった。

そして、その魔の手は四国の愛媛県松山市にも伸ばされ、同市を仕切ってきた地元暴力団の郷田会と対立。

1964年6月には、その対立がエスカレートして、現在なお語り草となっているパワフルな抗争が勃発した。

当時のサンデー毎日が報じた暴力団事情

抗争の発端

もめごとのきっかけは1964年4月2日、三代目山口組(田岡一雄組長)の直参である矢嶋長次(28歳)率いる矢嶋組が、愛媛県松山市大手町の大陸ビルの一部屋を「八木保」という人物の名義で借りたことから始まる。

矢嶋組は、電通局の下請業者として協同電設株式会社を設立し、電気工事事業を始めようとしたのだ。

だが松山市内の同事業は、それまで地元暴力団である郷田会が牛耳っていたために、山口組二次団体である矢嶋組の参入は、同会にとって縄張り荒らしも同然の行為であって面白いわけはなく、軋轢が生じ始めていた。

ちなみに郷田会は、関西を舞台として、当時まだ山口組と対等に張り合うことができた広域暴力団・本多会の二次団体である。

巨大組織をバックにする両者が衝突する事態になったのは、矢嶋組が協同電設株式会社を設立した2か月後の6月。

6月2日に、矢嶋組は再び「八木保」の名義で東雲ビルと入居契約をし、同3階を借りて事務所としたのだが、この東雲ビルこそが、その後の銃撃戦の舞台となる。

そして、三日後の6月5日に最初の事件が起きた。

同日の夜11時ごろ松山市内のバーで矢嶋組組員・末崎康雄(30歳)とその舎弟の門田晃(19歳)が酒を飲んでいたのだが、そのバーのママは矢嶋組と一瞬即発になっていた郷田会の会長と関係の深い女。

郷田会の息がかかっていることを自認するママは、敵対組織の手下が自分の店に来たことを訝って「矢嶋組の若いモンが来とる」と郷田会の事務所に連絡、いきり立った郷田会の組員・野中義人(20歳)ら数人がバーに殺到した。

肩を怒らせてバーにやって来た野中たちは、末崎ら二人を見るなり怒り狂った。

末崎たちは、ついこないだまで自分たちの郷田会事務所に出入りしていたチンピラであり、ゆくゆくは、こちらの身内となるはずだったのに、敵である矢嶋組のバッチをつけていたからだ。

「こん裏切りモンが!」

郷田会のヤクザたちは、末崎と門田を拉致。

末崎は逃げたが、取り残された門田は、さんざん暴行を加えられて拳銃で銃撃までされてしまった(拳銃が粗悪な模造銃だったためにさほど威力はなかった)。

翌6月6日、矢嶋組の側は一応この件について市内の喫茶店で郷田会幹部と話し合ったが、「ウチの若いモンやった奴出せや」だの強硬だったために、物別れに終わる。

すでに矢嶋組の方では、組員一同昨晩の事件について話し合った結果、「ウチにケンカを売っている」ということで、意見が一致していたのだ。

ヤクザ者同士が話し合いで決着しないなら、どう決着をつければよいかは決まっている。

同日のうちに、矢嶋組組長の矢嶋長次は戦争の準備を命じ、事務所となっている東雲ビル3階に、きっかけを作った末崎をはじめ銃器を持った組員たちを待機させた。

白昼の銃撃戦&籠城戦

6月7日(日曜日)午前10時、矢嶋組が早速行動を開始する。

末崎ら矢嶋組組員数人は東雲ビルを出て、郷田会傘下組織の岡本組の組員・阿部公孝(20歳)を阿部の自宅の付近で、拳銃を突きつけて拉致、東雲ビル3階に監禁したのだ。

そして午前11時、岡本組・岡本雅博(29歳)組長に電話をかけて、「テメーんとこの若いモン預かっとるから受け取りに来んかい」と挑発し、これを受けた岡本組組員・金昌二(22歳)や野中義人はじめ4人が、自動車2台に分乗して東雲ビルに急行する。

言うまでもなく、金たちは猟銃や拳銃などの道具持参だった。

午前11時50分頃、東雲ビルの近くまで来た岡本組組員の乗る車2台は、通りを歩いていた矢嶋組組員であるくだんの末崎ら2名と出くわす。

末崎たちは拳銃を持っていたが、分が悪いと見て逃走、発砲しながら追ってくる乗用車2台に応射しながら、東雲ビルに向かって走っていく。

この際に、末崎が猟銃の散弾を受けて負傷したものの、2人とも東雲ビルに逃げ込むことに成功した。

ビル内の矢嶋組事務所には末崎含め同組員が8人おり、岡本組の車2台が東雲ビル前の路上に到着するや、3階の窓から数人が車2台にめがけて、拳銃や猟銃、ライフルを発砲、岡本組組員の野中と金、もう一人の未成年組員(19歳)が被弾する。

岡本組の組員たちも車を盾に応戦し、白昼堂々の銃撃戦が始まった。

あさま山荘や少年ライフル魔の事件のように犯人の側がほぼ一方的に銃撃するものではなく、銃器を持った双方が互いを狙って複数発撃ち合う正真正銘の銃撃戦である。

銃撃する矢嶋組組員

これら一連の銃撃戦は市内の公衆の面前で行われたために、管轄の松山東警察署には110番通報が殺到、12時5分頃には、通報を受けた同署の捜査員6名が防弾チョッキ着用で東雲ビル前に急行したが、この人数で足りるわけがない。

とは言え、警官の出現はすで3人が負傷している岡本組組員たちには効果があったようで、4人は車に乗って逃走した。

彼らはその後、犯行に使った銃器持参で警察署に出頭している。

だが、問題は東雲ビルにいる矢嶋組の組員たち8人である。

彼らは、そのまま銃器を持って籠城を続けていたのだ。

中には、人質にされた岡本組の阿部もいる。

午後1時頃までに、非常招集に応じた松山東警察署員が現場に到着し、東雲ビルの周りの交通を遮断、最終的には各警察署から応援で駆け付けた約250名の警官隊が包囲。

また、この日は日曜日であったこともあって、現場には野次馬が約千人も集まってきた。

警察は、籠城する組員たちに投降を呼びかけたが、全く応じる気配がないどころか、それに威嚇射撃で答え、その銃口を警官隊の次にうっとうしい野次馬たちにも向けて「撃ったろか、素人ども!」と吠える始末。

午後2時半に、最初の銃撃戦で被弾した矢嶋組組員の末崎が人質の阿部を連れた上にライフルと猟銃、拳銃を持って投降したが、残る7人は時々威嚇の発砲をしながら立てこもり続けた。

その後、説得を続ける警官隊に対し、籠城する矢嶋組組員の一人である片岡正郎(23歳)が「午後4時までに全員降りてくる」と答えはしたが、午後4時を過ぎても投降してくる気配はない。

警察の側にも、強硬手段を講じる時が来た。

警官隊は予告の上、東雲ビルの3階の窓へ催涙弾2発を撃ち込んで20名で突入。

乱闘の末、矢嶋組組員7人全員を逮捕した。

矢嶋組のヤクザたちは銃器こそ持っていたが、それを使うことなく拳で抵抗したらしい。

この突入で警官2人が負傷、その腹いせか、組員たちは警官に殴られながら連行されていった。

その後

この銃撃戦で岡本組側から3人、矢嶋組から1人の負傷者を出したが死者はなく、突入の際に警官二人が軽傷を負った以外に、野次馬にもけが人はなかった。

しかし、この事件は社会と愛媛県警に重大なインパクトを与えることになる。

白昼堂々の市内での銃撃戦は、やはりやりすぎだ。

事態を重く見た愛媛県警によって、矢嶋組は組長の矢嶋長次はじめ組員のほぼ全員が逮捕され、郷田会は組長の郷田昇含む41人の逮捕者を出して、多数の銃器と弾薬が押収された。

また、かように大それた出入りを起こした矢嶋組は組員数が20人ほどで、もう一方の郷田会は、その下部団体全員を含めても50名に満たないくらいだったと言われているから、さほど大きな組織同士の抗争というわけではない。

だが、それぞれの上部団体は各地に系列団体を有する巨大組織の山口組と本多会。

両団体は後日、系列の組から松山に、それぞれ応援の組員を派遣してきた。

その内訳は、山口組が101人、本多会が44人であったが、これを予想していた愛媛県警の検問によって、両団体の応援は阻止されて抗争の拡大は防がれた。

後に、第一次松山抗争と呼ばれたこの衝突は、松山刑務所の拘置所に収容された双方の組長である矢嶋と郷田が五分の手打ちをしたために終結したが、両組織とその後ろ盾だった組織の明暗は、はっきり分かれていくことになる。

矢嶋組は、組長の矢嶋長次が、後に懲役7年の判決を受けて服役することになるが、六代目山口組の二次団体として令和の現在も存続。

一方の郷田会は、郷田昇が実業家に転身したために1964年のうちに解散し、郷田会のバックだった本多会も、翌年1965年に解散して大日本平和会と名を変え、右翼団体として活動を続けたが勢力を縮小させ、1997年をもって解散した。

ちなみに、この抗争によってあまりにも多くの暴力団組員が拘置された松山刑務所では、1人の看守が買収されたことをきっかけに、ここの職員はチョロいと判断した組員たちが増長。

飲酒、喫煙、賭博など、やりたい放題した挙句に看守を脅してカギを奪い取って我が物顔で刑務所内を自由に歩き回り、女囚が収容されている女区に入り込んで強姦まで行った「松山刑務所事件」が起きた。

出典元―愛媛新聞、朝日新聞、読売新聞、サンデー毎日

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1982年・女子高生監禁暴行事件


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女子高生を監禁した事件と言えば1989年に発覚した東京都足立区綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人が悪名高いが、同じような悪さをする奴はこの事件の前後にも時々現れている。

この1982年(昭和57年)8月25日に発覚したこの事件では、被害に遭った女子高生は幸いにも殺されることはなかったが、犯人の非行少年少女グループの極悪ぶりは、かなりのものであった。

ガードが甘すぎる家出少女

学校が夏休みに入った1982年7月20日、神奈川県逗子市に住む私立高校一年生の米山成美(仮名・15歳)が家出した。

何が原因かは報道されていないが、黙って家を飛び出た成美が向かった先は東京。

それも、よりによって魑魅魍魎跋扈する新宿区歌舞伎町であり、未成年の女の子が日本一ひとりで行ってはいけない場所であった。

何の当てもなく歌舞伎町を歩いていると、さっそく声をかけてきた者が現れた。

成美と同い年かちょっと上くらいの少年で、どう見ても普通に高校に行っている感じではない。

知り合いもおらず行く当てのあるはずのない成美に、その少年は親しげな感じで「オレらのトコに来ねえか?」と誘ってくる。

どう考えても危険なにおいがするし、この時点で事件に巻き込まれるフラグが立ちまくっているが、成美は愚かにも、その誘いに乗ってついて行ってしまった。

15歳にもなったら、普通は声をかけてきた見ず知らずの相手について行くのが、いかに危ないことか分かるはずだ。

しかし家出するくらいだから、成美は家庭環境か素行に全く問題のない少女ではなかった可能性が高い。

年ごろから推測して不良を気取っていたか、あこがれていたかもしれず、相手がヤンキー丸出しの少年であっても、類友だから安心だとでも思ったのだろうか?

いずれにせよ、それが大いに軽率であったことを後日思い知らされることになる。

生涯忘れることができないであろう地獄の夏休みになったからだ。

監禁生活

その少年の言う「オレらのトコ」とは歌舞伎町からほど近い新宿区百人町にあり、18歳のホステスと女子高生、男子中学生姉弟が住んでいた。

本当は父親がいるが病院に入院しており、それに乗じて少年少女たちのたまり場となっていたようだ。

もちろん、どいつもこいつもまともなわけはなく、喫煙や飲酒ばかりか、シンナー遊びまでが行われる不良の巣窟である。

当初新入りの成美は、このろくでなしグループと遊びに行くなど、一見受け入れられたような感じだったが、それは長くは続かなかった。

新入りだからか、それとも不良の世界では下に見られていたらしく、ぐうたらな姉弟に炊事洗濯などの家事を命じられ、うまくできないと殴られるようになったのだ。

おまけに、出入りする少年たちに輪姦されてしまった。

地獄の始まりだ。

成美は、このろくでなしたちに逃げないように監視されて監禁状態になり、毎日面白半分にいじめられるようになる。

犯されたり、恥ずかしいことをさせられたり、よってたかって顔をパンチされたり、バットやベルトで殴られたこともあった。

その間、食事も満足に与えられず、成美は顔がパンパンに腫れて衰弱し、変わり果てた姿となっていく。

だが成美は、後年足立区で同じように監禁されて虐待され、殺されてコンクリ詰めにされた女子高生よりは幸運だったようだ。

一か月以上後の8月25日午前、見張りの少年の隙をついて脱走に成功。

そのまま、最寄りの戸塚三丁目派出所に助けを求めて駆け込んで、署員に保護される。

その後ホステス姉弟はじめ、監禁にかかわった15歳から18歳までの少年少女9人は暴力行為・傷害容疑で現行犯逮捕された。

しかし駆け込んだ際、成美は裸足で着ていた服は家出した時のままで垢や血で汚れており、顔を腫らして全身あざだらけで全治一か月の重傷。

ひと夏の火遊びは、心にも体にも大きなダメージを負う結果となってしまった。

出典元―朝日新聞、読売新聞

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2023年 アンゴラ 昭和 歴史

植民者の天国? ~昭和34年の毎日新聞が報じたポルトガル植民地時代のアンゴラ~


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現代のアフリカの国々の多くは、かつてヨーロッパの強国の植民地だったことは、特に歴史に詳しくない方でもご存じであろう。

15世紀半ばに大航海時代が始まってから第一次世界大戦開戦の直前までに、エチオピア、エジプト、リベリアを除いてそれぞれ西欧列強の支配下となっていた。

これらの地域は第二次世界大戦後に次々独立を果たしていくことになるが、多くの国はその後に内戦や飢餓などで苦しみ、「白人に支配されてめちゃくちゃにされたからこうなってしまった」とか、はたまた「白人たちがいた頃の方がマシだった」とかの怨嗟の声が上がることもある。

では、ヨーロッパ人に支配されていた時代の様子は、どのようなものであったのだろう?

本当にめちゃくちゃにされていたのか?

それとも、本当に今よりましだったのか?

17か国もの国が独立したアフリカの年と呼ばれる1960年の前年、多くの国がまだ植民地の状態だった1959年(昭和34年)の毎日新聞夕刊に掲載されたポルトガル領アンゴラの様子を伝える記事をもとにご紹介しよう。

アンゴラがポルトガル領になるまで

ポルトガル領アンゴラとは、アフリカ南西部に位置する現・アンゴラ共和国の領域であり、1959年当時はポルトガル領西アフリカと呼ばれていた。

そのポルトガルによるアンゴラ支配の歴史は、1484年に探検家ディオゴ・カンがこの地にやってきてから始まる。

同地域には1世紀ごろからバントゥー系のアフリカ人が居住していたとされ、現在のアンゴラ北部にあたる地域にはコンゴ人によるコンゴ王国があったが、アンゴラという国自体は存在しなかった。

コンゴ王国の国旗

また、ポルトガル人は当初からアンゴラ全土を征服して領有していたわけでもなく、奴隷貿易に目をつけて交易所を設け、コンゴ王国の支配者や貴族とお互いに利益のある関係を維持して彼らにも利益を分配していた。

初期のポルトガルの勢力圏は沿岸部に限られていたが、宣教師を内陸に派遣して布教したりするなどの植民地でのお約束の行為は行っており、活動の幅も徐々に拡大。

そのせいもあってか、17世紀になると経済的な問題をきっかけとしてそれまで仲良くやってきたコンゴ王国と衝突するようになった。

ポルトガルは戦闘で敗退することもあったが、腐っても欧州列強のはしくれ。

それから200年の間に徐々に内陸部を植民地化し、20世紀に入ってから、現在のアンゴラの領域にあたる地域をポルトガルの植民地として確定させた。

1920年代になると本格的にアンゴラの経済や社会基盤の整備に乗り出し、1951年6月11日、ポルトガル領西アフリカと呼ばれ続けてはいたものの、行政的にはアンゴラ海外州に昇格。

ポルトガル支配に反発する黒人による独立派勢力は、域内ですでに結成されていたが目立った組織的反抗もなく、1959年の時点ではこのままポルトガルの支配が続くと思われていた。

一見黒人差別のない植民地

1959年当時の周辺国地図

ヨーロッパの植民地となった国では通常、本国からやってきた白人が「未開な民を文明化してやっているんだ」などと称して支配者ヅラし、原住民との間に明確な境界線を引いて人種差別的政策を行うものである。

しかし、ポルトガル領西アフリカだった当時のアンゴラは、それとはずいぶん異なっていたようだ。

毎日新聞の記者がアンゴラ入りする前、まだベルギー領だったコンゴ(現コンゴ共和国)のレオポルドヴィルで現地のベルギー人から、こんなことを言われたという。

「我々ベルギー人は、黒人を我々のレベルに上げようとしているのに、アンゴラのポルトガル人は自分たちが黒人のレベルまで下がっている」と。

黒人もポルトガル人も明らかに見下した上から目線の言い草だが、記者がアンゴラに入って街を歩くとそれを裏付ける光景がそこにあった。

なぜならタクシーやバスの運転手、ホテルのウェイターのような仕事をしているのはほとんどがポルトガル人であり、これらの仕事は他のアフリカの植民地では黒人がやっていることだったからだ。

つまり、底辺労働を担う貧しい白人が多かったということである。

この当時、ポルトガルで独裁政治を行っていたアントニオ・サラザールの政権は植民地帝国としての地位を堅持する政策を取っており、植民地へのポルトガル人の移民を積極的に推進していた。

アンゴラにも年間1万2千人のポルトガル人が移り住んでいたが、その多くは本国で食い詰めたダメ人間の男が多く、少なからぬ者たちは黒人たちに近づいて黒人女性と結婚。

そのせいか白人と黒人の混血「ムラート」が至る所で目についた。

他国の植民地にも、こうしたムラートは存在していたが、少しでも黒人の血が混じった者は何世代白人と交わろうと黒人として扱われるのに対し、ここアンゴラでは白人の仲間として扱われた。

また、白人の血が混じっていない純血の黒人でも教育を受けて、定められた額の税金を納められる者は白人と同等の権利を有しており、政府系の庁舎でも白人やムラートに交じって黒人も机を並べて仕事しており、白人の上司になっている黒人もいたようである。

週末ともなれば、白人もムラートも黒人も集ってパーティーが開かれ、そこには皮膚の色の違いによる差別はないように見えた。

だが、それは表向きであったようだ。

最下層にあえぐ黒人と民族主義を抑える独裁政権

アンゴラでは、例えば隣国のベルギー領コンゴのように黒人の夜間外出や飲酒の制限といったあからさまな差別はなく、高い教育を受けて一定の税金を納めることができれば、身分証明書をもらって白人と同等の権利を有することができる制度があったようだ。

だが、これは教育を受けられたらの話である。

この当時のアンゴラの人口は430万人で、うち白人11万人とムラート3万人以外の大多数が黒人であったが、その黒人の文盲率は90%。

彼らは当然貧しく、そのおかげで子供を学校に行かせる金がない。

その子供も学校に行けないから、まともな仕事にありつくことができず、親同様貧しいままという悪循環が繰り返されてきた。

植民地政府は、その状態を改善しようとせずに放置していたのだ。

またポルトガル本国自体にもまともな労働法もなく、スト権もない。

ましてや植民地の白人の事業主に雇用される黒人は当然のごとく安い賃金で劣悪な労働環境のもとで働かされた。

さらに現地の黒人にも納税の義務はあって、それが払えない者には、その税金分強制的に労働させるという制度もあった。

つまり、ほとんどの黒人にとってポルトガル領アンゴラは決して住み心地のいい場所ではなかったのだ。

そうは言ってもアンゴラは隣のベルギー領コンゴなどと比べると植民地政策に反発する黒人の大規模な暴動などは起きておらず、これは独裁政権であった本国政府の方針で情報統制を行ったり、植民地軍によって半植民地の動きを抑え込んできた成果でもあった。

本ブログが参考にしたこの1959年の毎日新聞の記事によれば、この時点ではアンゴラは安定しており、独立に向けた動きは伝えられていない。

他に、現地のポルトガル人たちは当時技術立国として日の出の勢いだった日本に早くも関心を寄せており、日本製の電化製品や車の輸入を望んでいることを伝えて記事は締めくくられていた。

その後のアンゴラ

1950年代までは落ち着いていたアンゴラも、1960年代になると一挙に情勢が暗転する。

アフリカ諸国が次々独立していた中で、その機運がアンゴラにも波及したのだ。

上記毎日新聞の記事の翌々年で、「アフリカの年」の翌年の1961年、アンゴラ解放人民運動(MPLA)が蜂起してアンゴラ独立戦争が勃発。

植民地の維持に固執するポルトガル政府は断固鎮圧に乗り出し、この戦争は1974年にポルトガル本国でカーネーション革命が起こって独裁政権が倒れるまで続き、国土を荒廃させた。

独立戦争が終わって、1975年にアンゴラ人民共和国の独立が正式に宣言されてからも地獄が待っていた。

それも本当の地獄だ。

独立派の中で主流を占めていたMPLAの支配を嫌って、他の二派アンゴラ国民解放戦線(FNLA)とアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)がアンゴラ人民民主共和国の独立を宣言。

これを阻もうとするMPLAとの間で、今度はアンゴラ内戦が発生する。

このアンゴラ内戦は米ソの代理戦争の様相をも呈し、キューバ軍や南アフリカ軍まで介入して複雑かつ泥沼化。

独立戦争より長い27年続いて国内の産業は崩壊、360万人の死者を出して全土に地雷がばらまかれ、2002年にMPLAの勝利でようやく終結した。

内戦後も、全土に敷設された地雷によって死傷者が絶えず、政権の腐敗など問題が山積しているが、アンゴラはもともとダイヤモンドや原油資源が豊富で、その輸出によって経済は大幅に回復。

現在株式市場も開設されるなどサハラ以南ではナイジェリア、南アフリカに次ぐ第三位の金融市場になるまでに飛躍している。

アンゴラの集合住宅

出典元―毎日新聞

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2023年 カツアゲ ならず者 不良 事件 事件簿 昭和 本当のこと 福岡

独居老人をよってたかって恐喝した昭和の極悪童たち


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1982年(昭和57年)、福岡県粕屋郡須恵町で、後にも先にも滅多にないような卑劣な少年犯罪が行われた。

一人暮らしで体の不自由な75歳の老人を、23人もの小学生や中学生の悪ガキたちが入れ替わり立ち替わり37回も恐喝。

面白半分に暴行を加えるなどして、老人の唯一の収入源であるなけなしの年金を脅し取り続けていたのだ。

お年寄り相手に、よってたかってカツアゲとは何という奴らだ!

平成や令和の悪ガキでも、ここまでやる外道はいない!

本ブログの筆者は、この事件を40年以上も昔に年端のいかなかった者たちが、ついつい調子に乗りすぎてしまった程度の事件とはみなさない。

人の道を大きく踏み外した子犬畜生たちの非人道的行為として、令和の現在白日の下にさらしてやる!

目をつけられた独居老人

昭和の昔、福岡県粕屋郡須恵町に、ひっそりと暮らす独居老人がいた。

老人の名は、中辻国男(仮名・当時75歳)。

妻子がない独り身で、近所づきあいもほとんどない。

現役時代は国鉄(現JR)職員だったが、退職後は月7万円の年金だけを収入源にしていた。

神経痛のために足が不自由で腰が大きく曲がってはいたが、自宅の庭で野菜を育てるなどして、少ない年金ながら何とか暮らしている。

そんなつつましく老後の生活を送っていた中辻老人に1982年(昭和57年)の新年早々、おそらく彼の長い人生の中でも最悪の災いがもたらされることになった。

それは同年1月8日の夕方のこと、家の中にいた中辻老人の耳に、何かが自宅の壁にぶつけられた物音が響いたことから始まる。

粕屋郡は、前日から雪が降り積もっていたから外は一面の雪。

どうやら、誰かが自宅の壁に雪玉を作って投げ込んだようだ。

外を見ると二人の中学生になるかならないかの年頃の少年が前の道を歩いている。

何食わぬ顔をしているが、二人とも見るからに悪ガキそうだから、こいつらの仕業だろう。

老い先短い中辻だったが、この悪質ないたずらに黙っているわけにはいかず、二人を注意した。

しかし、注意された二人は自分たちではないと断固否定。

ばかりか「ナニ文句付けてんだよ、ジジイ!」と絡んできた。

この二人は、粕屋郡の隣の福岡市に住む中学校一年生の小峯仁志(仮名・13歳)と小学校六年生の板橋将人(仮名・12歳)だ。

年齢的には年端もいかぬ子供だったが、すでに本格的にグレて悪さを重ねている非行少年である。

よって語気に凄みがあった。

「ああ、違うのか。悪かった」

子供とは思えぬ迫力に、ひるんだ中辻老人は謝罪。

二人は「オレらのせいにしてんじぇねえぞ」などど悪態をつきながらもその日は立ち去ったが、それではすまなかった。

5日後の13日に再び中辻宅にやってきたのだ。

いや、「やってきた」というより「押しかけてきた」の方が正しい。

「この前のこと俺らのせいにしたワビ入れろや!!」と怒声を張り上げ、家にまで上がり込んできたのだ。

小峯と板橋は足が不自由な老人を押し倒し、手を広げさせて床に押し付けると台所にあった包丁を指の間に突き刺した。

「オラ!落とし前どうつけてくれんだ!ジジイ!」

5日前のことを口実にして、カツアゲに来たのである。

中辻老人が謝罪したことから、強気で押せば言うことを聞いてくれる相手と踏んだようだ。

13歳や12歳の少年らしからぬ凶悪な脅しに75歳の中辻はたまらず屈し、おわびの印として家にあった現金数千円を渡そうとしたが、「誠意っつーもんがねえぞ」と激高されて泣く泣く大金の2万円を払うことで解放された。

これはカツアゲどころか完全な強盗である。

だが、中辻老人は「警察にチクったら命はねえぞ」と二人に脅されていたし、相当恐ろしい思いをさせられたからか、通報することはなかった。

結果的に、それは大きな間違いとなる。

この災難は、これで終わらなかったからだ。

カツアゲ地獄

小峯と板橋は、そもそも同年代の悪ガキとはレベルが違う本格的な悪党だった。

すぐに金が手に入ったことに味をしめて、たびたび中辻老人の家に怒鳴り込んで金をせびりに来るようになったのだ。

取り上げた金は、もちろんゲームセンターなどでの遊ぶ金で瞬時に溶かすが、その時はまた老人の家に行けばよい。

中辻老人も中辻老人で、小中学生が相手とはいえ、恐怖が身に染みていたから、そのたびに金を渡してしまうという地獄のループが始まった。

悪党の脅しに屈して要求を飲んだりしようものならば、往々にしてこうなる。

相手が弱いと見たら徹底的に、かつ延々とたかりに来るのだ。

中辻老人は、なけなしの年金しかもらっていないから、決して金を持っているわけではないが、小峯たちにとっては知ったことではない。

しかも彼らは「ちょっと脅せば金をくれるジジイがいる」と不良仲間に吹聴したため、金をたかりに来る不良少年の数は増え、さらには、いくつかのグループに分かれて入れ替わり立ち替わり中辻老人の家にやってくるようになった。

小憎らしいことに年金の支給日も把握しており、その日には集中的に来る。

また、金があろうとなかろうと、面白半分に体の不自由な老人に暴力をふるった。

刃物を振り回して脅し、水をかけるわ、殴るわ蹴るわ、縛るわ、首を絞めるわ。

中辻老人は払う金がなくなると、普段あまりつきあいのない近所の住民に金を借りに行くようにまでなり、金を一切合切取り上げられるようになってからは、庭の野菜を食べてしのぐなど完全に悪童たちの奴隷と化す。

押しかけてくる不良少年の中には、小峯の大先輩で中学をすでに卒業した者もおり、それくらいの年齢の不良になると本職そのもののいでたちをしているから「本物のヤクザまで来た」と中辻老人は絶望し、通報する気が余計に失せてしまっていた。

完全に心が折られていたんだろう。

このカツアゲ地獄は、同年8月4日までに小峯や板橋らが福岡県警の東署によって強盗、恐喝の容疑で検挙、補導されるまで約七か月間も続いた。

その回数は37回に達し、中辻老人は合計約25万円の年金を奪われ、恐喝に関わった不良少年は小学生も含めた23人にも及んだ。

老人自身は通報できなかったのに、なぜ発覚したかは報道されていないが、異変に気付いた近所の住民がしたものと思われる。

それにしても、何と非道な犯罪であろう。

これまでに発生した数多くの事件の中でも、トップレベルのクズっぷりである。

中辻老人は命こそ奪われなかったとはいえ、人生の晩節で最悪の恐怖と屈辱を味わわされてしまった。

一方の小峯たちは14歳未満だったから、大した罰も受けていなかっただろう。

現在、もうすっかりいい年齢になって丸くなっているかどうかは知らないが、中辻老人くらいの年齢になってから同じ目にあってもらいたいとに願わずにはいられない。

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2023年 おもしろ 平成 日本語 昭和 若者言葉

「超(チョー)…」はいつから使われ始めたか


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  • 「超ムカつく!」
  • 「超うれしい!」
  • 「超ウケる!」
  • 「超かわいい!」

程度が甚だしいことを表現する場合に、形容詞、はたまた動詞の頭に「超(チョー、チョウ)」をつけるようになって久しい。

当初は大人に眉をひそめさせる若者言葉だったが、それを常用していた者たちが中年以上になった現在も使っているから、もう正しい日本語にさえなりつつある。

だが、古式ゆかしき正統派の日本語ではないことは確かである。

昭和40年代くらい以前、「超」は現在のような使われ方をしていなかったはずで、比較的歴史が浅い日本語であることは間違いがない。

では、「超」はいったいいつから使われ始めたのだろうか?

80年代後半説

私の経験から、街中やテレビでよく耳にするようになったのは、90年代後半の96年くらいだったと記憶する。

使っていたのはもちろん若者だったが、大学生くらいの世代が使うことは少なく、高校生が口癖のように「超~~」を連発し、代表的な若者言葉とみなされるようになっていた。

だが、ネットなどで調べると、実は80年代の終わりから使われ始めるようになったという説が多い。

事実、ネットがなかった時代に、新語や専門用語を調べるために意識の高い社会人の多くが購入していた現代語事典『現代用語の基礎知識』(自由国民社)の1988年(昭和63年)版にも「超」とその用法が若者言葉として掲載されているが、それ以前には見当たらないという。

若者言葉を扱う書籍もこのころから「超」を載せているため、これらの事実からならだいたい1986年(昭和61年)くらいに発生したと推察できる。

しかし、私はそうは思わない。

1975年(昭和50年)岐阜県生まれの拙ブログの筆者が小学生だった昭和50年代後半、地元の小学校の複数の同級生が使っていたのを覚えているからだ。

昭和後半を生きた人々の証言

同級生が「超」を使っていたというのは、私の聞き違いの可能性もある。

あるいは岐阜県内の私の学校だけだったのかもしれない。

そこで私は、Facebook上で昭和を懐かしむグループの一つで以下のような投稿をし、昭和を生きた人々の証言を集めてみようと試みた。

意外と反応してくださる方が多く、以下のようなコメントが得られた。

何と複数の方が昭和50年代後半(1980年代前半)には、すでに耳にしていたか使っていたと証言しておられるのだ。

しかも東京のみならず宮崎や静岡、大阪でも使用されていたらしい。

私の投稿にコメントしてくれた方の証言を信じるならば、「超~」という言い方は、1986年(昭和61年)以前、それも1981年(昭和56年)には出現していたということになるであろう。

さらに、1998年NHK(週刊こどもニュース)スタッフが静岡県富士市で街頭取材をしたところ、30代前半の複数人が小中学生時代に使っていたと答えていたという。

1998年の時点で30代前半だったということは、1970年代から使われていたということである。

その証言が正しければ、すでに半世紀近い歴史を有した言い方ということだ。

その間に、どれだけの若者言葉がすたれて死語になっていったことだろう。

「超~」はその利便性と合理性、そして使い勝手の良さを、世代を超えて認められた言葉とみなしていいのではないだろうか。

言葉というものは、時代ごとに変わっていくものだ。

今、正しいと言われている日本語も百年前は異端だったり、乱れた言葉だとみなされていたものもあるのだ。

あと何十年かしたら、日本人は「超」を日常会話だけでなく商談のような堅苦しい公の場でもしたり顔で使っているかもしれない

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2023年 本当のこと 歴史 江戸 長寿

最後の江戸時代生まれ


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明治生まれが111歳以上となってしまった令和5年現在、それよりずっと前の江戸時代なんて完全無欠の大昔である。

だが、実は50年か60年くらい前の昭和の中頃まで江戸時代と現代はしっかりつながっていた。

健在だった江戸時代生まれが何人もいたからだ。

2023年現在、NHK「連続テレビ小説」で放映中の『らんまん』の主人公のモデルとなった植物学者・牧野富太郎はまだまだ江戸時代だった文久2年(1862年)の生まれだったが、昭和32年まで存命だった。

牧野富太郎

高度成長期の時代の日本の100歳オーバーの長寿者は皆江戸時代生まれで、その当時の病院の受付などで書かされる生年月日の記入欄には「昭和・大正・明治」の他に「慶応」があったり、あるいは「慶応」やそれ以前の元号を書く空欄があったという。

しかし、昭和40年代になって江戸時代生まれの高齢者が次々に鬼籍に入っていったことにより、江戸時代と現代のつながりは徐々に細くなってゆき、最後の一本となる時が来た。

そのラストワンとなった人物とは、河本にわという媼だ。

河本にわ媼

にわ媼は、1975年5月31日に梅田ミト媼が112歳で亡くなったことにより、その当時の長寿日本一かつ世界一の人物兼最後の江戸時代生まれとなった。

にわ媼はミト媼が生誕した約五か月後の文久3年8月5日(1863年9月17日)生まれ。

産声を上げた時、江戸幕府はまだ健在で将軍は徳川家茂、時代は幕末の動乱期に入っていた。

媼が物心ついて成長、20歳で結婚して三男五女をもうけて川魚の行商をしたりして生活に追われている間、世の中では大政奉還、戊辰戦争、廃藩置県、西南戦争、明治憲法制定、日清戦争、日露戦争、大正デモクラシーとエポックメイキングな出来事が目白押し。

太平洋戦争中の時点ですでに80歳代の高齢者になっており、それからも高度成長期という一大転換期を生き、孫が17人、ひ孫が38人、玄孫が25人いた。

晩年は持病のリュウマチがひどくなり、目も耳も不自由になって一人歩きできないほどであったが寝たきりというわけではなく、朝昼晩の食事は必ず摂り、好物はカレーと川魚。好き嫌いはほとんどなく、一日四本牛乳を飲んだ。

普段は先立った次男の嫁に面倒を見てもらっており、仏壇に手を合わせたり、好きな針仕事をするのを日課とし、近所に住む三男と四女の訪問を楽しみにしていた。

にわ媼と三男

このように安らかな晩年を送っていた媼のもとには、日本一の長寿者になってからマスコミが入れ代わり立ち代わり取材しに来ていたが、耳が不自由な本人に次男の嫁が耳に口を当てて聞いても、返答は歯がないためにモゴモゴと聞き取りづらく、なおかつトンチンカンなものが多かったらしい。

また、「あほうの長生きで…」が口ぐせだったという。

周りがチョンマゲ頭ばかりだった時代から外では車が走り回る時代までを生き、その生涯は明治維新からオイルショックまでをカバーするほどの長きにわたるが、あまりにも多くの激変を目の当たりにしすぎて「何をしてきたかおぼえていない」とも語っていた。

きっと人類が経験していい変化や出来事の数をもう超越していたのだろう。

理解しようと積極的に対応することなく、傍観するか流される態度に徹していたということのようである。

それこそが長生きの一番の秘訣だったのかもしれないが。

しかし、寄る年波にいつまでも勝ち続けることはできない。

次々やってくるマスコミの取材も体調不良を理由に断ることが多くなり、長寿日本一となった翌年の1976年(昭和51年)11月16日8時半、滋賀県高島郡の自宅で老衰のためにこの世を去った。

享年113歳。

非の打ちどころのないほどの大往生であり、天寿を見事に全うしたのだ。

同時に、この日は日本人が江戸時代とつながっていた最後の日となり、これ以降江戸時代は永遠に時代劇や歴史書の世界となった。

追記1:河本にわ媼の死去により、慶応元年生まれの泉重千代翁が日本一の長寿者であり最後の江戸時代生まれと当時みなされたが、その出生日や戸籍についての疑念はかねてより多く、実際は実年齢より15歳若かったという説が現在では有力である。拙ブログはこの説に従った。

追記2:この翌年の1977年(昭和52年)5月25日に108歳で死去した中山イサ媼は1868年8月3日(慶応4年6月15日)出生だが大政奉還後であり、拙ブログは大政奉還までを江戸時代とみなした。

出典元―朝日新聞、『現代の顔 : 湖国の100人』

(サンブライト出版部)、中日新聞、毎日新聞

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2023年 昭和 暴動 本当のこと 長野 高校野球

高校野球で暴動 ~1969年長野-丸子実業戦~


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1915年(大正15年)に始まり、すでに100年を超える歴史を有する高校野球。

それを統括する高野連(日本高等学校野球連盟)は、一貫して日常のちょっとした不祥事でも厳重に処分するという姿勢でもって運営してきたため、各校野球部内で体罰やしごきが横行していても、これまでどの試合も表向きは健全に行われてきたといえよう。

だが、その長い歴史の中でも最悪と言ってもいい騒動が起きた試合がある。

それは、1969年7月夏の全国高校野球長野大会で起こった。

1969年長野-丸子実業戦

1969年(昭和44年)7月25日、上田市営球場で行われた夏の全国高校野球長野大会の一回戦第二試合の長野高校-丸子実業高校戦は、前半から不穏な空気に包まれていた。

同日午後2時15分から始まったこの試合、四回裏の丸子実業の攻撃中に審判の判定を巡って、丸子実業を応援する三塁側スタンドの観客席から空き瓶が投げ込まれるなどの騒ぎがあり、一時試合が二十分間中断。

およそ高校野球に似つかわしくない危険なムードの中で試合は再開されたが、双方決め手を欠いて延長戦となった。

日も傾き始めた午後6時半ごろ、4-4の同点で迎えた十一回表の長野高校の攻撃で、すでに2アウトとなっていた長野高校の選手の打った球が三塁ベースをギリギリで抜いてファウルグランドに転がる。

きわどい当たりであったが、審判は「フェア」と判定。

長野高校に1点が入って、さらに2点目も追加して勝ち越した。

丸子実業側は「ファウル」だと抗議したのだが、判定が覆るはずはない。

合点のいかない判定によって勝ち越された丸子実業は納得できない様子だったが、選手や監督以上に納得していない者たちがいた。

またしても、丸子実業側スタンドに陣取る観客たちだ。

再びグランドにモノが投げ込まれ、数名がグランドに乱入する事態となって、この試合二回目の一時中断となった。

そして、丸子実業の選手たちも行動に出る。

試合再開後、再三けん制をしたり、選手がタイムをとってわざとらしく靴ひもを結びなおしたり、不自然な選手交代を行うようになったのだ。

どう見ても、試合の引き延ばしをしているとしか思えない行動である。

その狙いは、日没引き分けだろう。

試合は事実上の三度目の中断となった。

だが、この腹いせの姑息な作戦は大いに裏目に出る。

そして、空前絶後の大騒動をも招く。

没収試合、そして爆発

ゲ-ムが遅々として進まなくなった事態を前に、審判団と長野県高野連は協議を始めた。

露骨な遅延行為であり、このような行為を許すわけにはいかない。

午後6時45分、審判団はきつい判定を下した。

それは没収試合。

没収試合とは、試合において一方のチ-ムの行為が原因で試合の開始又は続行が困難となった場合に、原因となった側のチ-ムを強制的に敗戦扱いとする判定である。

ここで原因となったチ-ムとは、もちろん丸子実業だ。

試合は9-0で長野高校の勝ちとされた。

だが、この毅然とした判定はすでに一万人になっていた観客、特に丸子実業を応援していた数千人もの観客たちに対してはあまりにも危険なものとなる。

彼らの一部は、すでに二度にわたってモノを投げ込むなどエキサイトしていたのだ。

判定がアナウンスされるや、これらの観客は総立ちとなって口々に怒りの声を上げ始め、例のごとく、グラウンドにモノを投げ始めたのだが、今度のはそれではすまない。

投げる標的は審判団であり、先ほどより多くの観客がグランドになだれ込み始め、球場内に引かれている電話線を引きちぎり始めた。

さらには誰かが放火したらしく、丸子実業側の観客席に火の手が上がる。

ちなみに暴れているのは丸子実業の生徒ではなく、大人の一般人だから始末が悪い。

まだ娯楽の少ないこの時代、プロ野球を生で見る機会のめったにないこの地方の大人たちは、高校野球でも見ごたえのあるものだったらしく、それぞれ在校生でもないのに、ひいきのチームを応援しに来ていたようだ。

そして、選手や応援する生徒よりエキサイトしてしまったのである。

なだれこんだ観客がグランド内の設備を壊し、観客席まで燃え始めた上田市営球場は、高校野球の試合会場とは思えない修羅場となってしまった。

完全無欠の暴動である。

通報を受けて、鎮圧のために上田署から警官約100人が出動。

暴れた観客2名が逮捕されるなどして沈静化させ、8時半には、ようやく騒動はおさまった。

その後

高校野球の試合において現代までグランドに観客が乱入したり、モノが投げ込まれる事態はあったようだが、この規模のものはさすがにない。

勝ったとはいえ、試合をめちゃくちゃにされた長野高校の監督は、「ウチの選手も丸子実業の選手もかわいそうだ。これは大人の横暴だし、そもそも大会の運営にも問題があるだろう」と話していた。

一方の丸子実業の監督は、「没収試合にされたのは実に乱暴だ」と没収試合にされたことに納得していなかった。

主催者である県高野連の運営のまずさを非難する声も世間では多かったようだが、こんな騒動を起こした責任は取らせなければならない。

その矛先は丸子実業に向かった。

同校の野球部は暴動の一因を作ったとして謹慎していたが、高野連は対外試合を2年間停止するという重い処分を下す。

もっとも、11か月後にはこの処分は解除されている。

そして、試合当日に応援に繰り出していた丸子実業野球部の後援会は、責任を取って自主的に解散した。

暴れたのは大部分が大人であって高校生たちではなかったのだが、やはり原因を作ったことには変わりがないとみなされていたようだ。

いずれにせよ、令和の現代では考えられない事件である。

しかし、この時代は学生運動なども盛り上がりを見せて、機動隊が出動する事態に発展することも珍しくはなかったのだから、当時の日本人は令和のすっかり軟弱になった我々より、総じて血の気が多かったことは間違いない。

出典元―信濃毎日新聞、朝日新聞、毎日新聞

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2023年 事件 昭和 本当のこと 浦和

闘争バカたちのおぞましき抗争 ~1977年・浦和車両放火内ゲバ殺人事件~


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日本国内での共産主義革命を目指して暴力的な闘争を展開する集団である過激派、警察が言うところの極左暴力集団は、昭和三十年代初頭(1950年代後半)ごろから、日本共産党から除名、もしくは離党した者たちを中心に結成された。

彼らは、学生運動が盛んだった1960年代から70年代にかけて、鉄パイプや火炎びんを用いた危険な街頭闘争を行う他、基地、皇室及び成田空港建設等に反対し、市民の安全を脅かすような手製爆弾やロケット砲を打ち込む「ゲリラ」事件を頻発させてきた。

だが、このゆがんだ理想に燃える集団は一枚岩ではなく、成立の過程や路線の違いによって分裂や結成を繰り返して多数のセクトが存在し、主なもので革マル派(正式名称:日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)、中核派(正式名称:革命的共産主義者同盟全国委員会)、革労協(正式名称:革命的労働者協会)がある。

そして、それらの組織は共産主義という白昼夢を常に見ている者たちのご多分に漏れず結成当初から互いに敵対しており、内ゲバと呼ばれる抗争を繰り返した。

時には電車内で合戦

当初は集団で旗竿、角材等を使用して殴り合うという正々堂々としたものだったが、次第に相手方の活動家の住所や行動パターンを入念に調査して、自宅や路上において一人でいるところを集団で襲うという平成の某半グレ組織のようなスタイルが主流になる。

使うのは鉄パイプやアイスピック、ハンマー、斧などの凶器。

もちろん目的は半殺し、「半分殺す」ではなく「半永久的に殺す」の略である。

襲われた者は死ぬか、一命を取り留めたとしても、身体に重い障害が残るまで滅多打ちにされた。

襲撃で壊されたアジト

やった方は「反革命分子生命に革命的ピリオドをうった」などと誇らしく犯行声明を出すし、やられた者が属する組織は「白色テロ部隊を総殲滅せよ!」とか宣言して、同じような報復を行うという泥沼の復讐合戦が、1970年代中盤には各過激派間で繰り返されるようになる。

彼らは本来の社会を変えるための運動ではなく、もはや同床異夢の組織への攻撃に力を注ぐようになっていったのだ。

そんな陰惨な事件がいったん沈静化し始めていた昭和52年(1977年)2月11日、茨城県取手市の路上で、主要な過激派組織の一つである革労協の書記長・笠原正義(別名:中原一)が、鉄パイプを持った集団に襲われて撲殺される事件が起きた。

笠原を殺したのは、同じくメジャーな過激派である革マル派。

これまで、革労協と内ゲバ殺人などの抗争を繰り広げてきた敵対組織である。

革マル派にとっては、抗争相手の主要幹部のタマを取った大戦果であり、同派は自分たちが発行する2月21日付の機関紙「解放」で、事実上の犯行声明を出して誇らしげに喧伝した。

だが、革労協もやられっぱなしではない。

直ちに報復を公言し、より陰険で残忍な倍返しを計画・準備していた。

1977年4月15日埼玉県浦和市

革労協書記長・笠原正義が殺されてから約二か月後の4月15日夜に事件は起こる。

同日午後9時5分、埼玉県戸田市の印刷工場「こだま印刷」から、一台の異様な外観をしたワゴン車が発進した。

その車は、フロントガラスの部分を鉄板や金網で囲んで、他組織の攻撃に耐えうるように魔改造された革マル派の自家製装甲ワゴン車である。

このころは、どの組織も集団行動を行うなど襲撃に備えるようになっていたようだ。

「こだま印刷」は革マル派の息のかかった印刷工場で、同派の機関紙「解放」を印刷しているからカタギの会社ではなく、笠原が殺された事件でも警察の捜索を受けていた。

印刷された機関紙か何かを積んで、どこかへ運ぼうとしていたんだろうか?

装甲ワゴン車は「こだま印刷」を出てから、県道浦和―浜崎線に入って蕨市の方面に向かっていた。

乗っていたのは革マル派政治局員の藤原隆義(36歳)、この車の持ち主で、こだま印刷庶務課課長の関口誠司(35歳)、革マル派学生の金沢大学の伊東亘(23歳)と岐阜大学の伊藤修(24歳)の計4名の活動家である。

一行の乗った車は県道を進み、浦和市(現さいたま市南区)に入った午後9時10分。

異変が突如彼らの進路前方で起こる。

突然一台の4トントラックが、道沿いの空き地から装甲ワゴン車の前に飛び出し、行く手を阻んだのだ。

ワゴン車は急ブレーキを踏んで停止したが、すぐさま後ろからホロ付きの2トントラックとマイクロバスがやってきて、挟み撃ちにするように停止する。

敵対組織の攻撃だ!

一行のうちの一人の関口は、昨年にも同じように車の前後をトラックなどで挟まれる襲撃を受けたことがあるが、その時は幸いにも逃げることができた。

だが、運がそれでつきてしまっていたか、今回の襲撃者は前回の連中ほどマヌケではなかったようだ。

関口ら革マル派の車は、4トントラックを迂回して逃走しようと斜め前に動き出したが、後ろからホロ付き2トントラックに繰り返し追突されて動きを止められてしまう。

やがて、トラックの中からレインコートのようなものを着てヘルメットをかぶり、ツルハシや鉄パイプを持った5人の集団が下りてきた。

集団は完全に身動きが取れないワゴン車を囲んで凶器で叩き始める。

打撃でドアの部分が変形してフロントガラスも割られたが、ガラスの部分には鉄板が嵌め込まれているから心配はない。

こういう襲撃に備えての装備なのだ。

しかし、前方を見るためののぞき窓は開けられており、外の連中はガラスが割られて開いたその部分から、何やら液体を注ぎ始めた。

それは、まごうことなきガソリン。

彼らが襲撃された場所は工場が密集する地域であり、この時間にも残業などで残っている工員がいた。

彼は、仕事中に車を叩くような大きな物音が聞こえ、何事かと外に出たところ事件の一部始終を目撃する。

また、その音の後にクラクションが鳴らされ始めたという。

襲撃を受けた革マル派たちは、これから自分たちが何をされるか気づき、なりふり構わず助けを呼ぼうとしていたのだ。

が、襲撃者たちは悪魔だった。

ガソリンを注ぎ終わると発煙筒を焚くや、それをワゴン車の下に投げ込む。

車内にたっぷり注ぎ込まれ、路面にも広がったガソリンは一瞬にして発火、ワゴン車はあっという間に火に包まれた。

「助けて!助けて!助けてえええええええ!!!」

燃え上がった車の中からは、この世のものとは思えない、狂ったような叫び声が聞こえ、車のクラクションが断末魔の悲鳴がごとく鳴り響く。

窓の部分には鉄板が張られているし、ドアはツルハシなどの打撃でゆがんでカギが壊されて中から開かず、外に出ることのできない革マル派の活動家たちは、車内で生きながら焼かれ続け、のたうち回る。

ワゴン車に火がつけられたのを目のあたりにした近所の工場の工員は消火器を持って消火に向かったが、ガソリンの火力の前に、そんなものは役に立たなかった。

襲撃者たちはトラック二台を放置して、残りのマイクロバスに乗ってすでに立ち去っている。

結局、火は通報によって駆け付けた消防隊によって消し止められるまで燃え続け、車内の四人は全員焼死。

一人は運転席でうつぶせの姿で、助手席のもう一人は後部座席にもたれかかるように、残る二人は後部座席の床にうずくまるように炭化していた。

勝ち誇る革労協

焼け焦げた装甲ワゴン車の運転席

犯人たちは犯行後、マイクロバスから乗用車に乗り換えていたとみられる。

途中、その乗用車はタクシーと接触事故を起こしながら、不審な車と見て追跡してきたパトカーをまんまと振り切って、逃走に成功した。

現場に残された二台のトラックはいずれも盗難車で、元のナンバープレートに偽装されたナンバープレートを張り付けており、この犯行が計画的で入念に準備されたものであることは間違いない。

また、現場から6kmほど離れた土手に、犯行に使ったツルハシやかぶっていたヘルメットが遺棄されていたのが、後日発見されている。

翌16日朝、「こだま印刷」の社員5人と同社の顧問弁護士が、焼死した四人が安置されている浦和警察署を訪れて遺体を確認したが、誰が誰なのか判別が不可能なほど完全に炭化していた。

そして、革マル派は同日夕方に本部である「解放社」で記者会見を行い、死亡した四名の氏名を発表。

ここで、事件の三日前の4月12日に「解放社」へ「笠原の報復をやる」という革労協と思われる者からの予告電話があったことも明らかにした。

その一方で、この事件を「警察権力による謀略」などと、反権力革命バカ集団らしい声明も出している。

もう一方のバカ集団であり、警察も当初から実行犯とにらんでいた革労協もすぐさま声明を出した。

4月17日、千葉県成田市の三里塚第一公園で三里塚芝山連合空港反対同盟により開催された集会で、15日の4人焼殺を行ったことを認めるビラを配布したのだ。

まだ成田闘争と称する成田空港建設に反対する運動がたけなわだったこの時代、革労協はこの運動に大きくかかわっていた。

そして警察同様、最初から焼殺事件が革労協の仕業だと分かっていた革マル派も動く。

三里塚第一公園の集会へ向かう道である京葉道路に重油やクギを撒き、さらに乗用車やタンクローリーを道のど真ん中に放置して通行を妨害(むろん盗難車)。

道路わきに横断幕を掲げ、そこには「4・15謀略襲撃―四名焼殺弾劾 革マル派」と書かれていた。

4月15日の事件の腹いせである。

京葉道路を使うのは集会参加者だけではないはずで、一般の通行車両にとっては、とんでもない迷惑行為だが、テロ集団の革マル派にとっては知ったこっちゃない。

なお、革労協は翌月5月に自分たちの発行する機関紙(革マル派の機関紙と名前は同じで「解放」)で、この事件について以下のように発表した。

「わが革労協―プロレタリア統一戦線の革命的戦士は4月15日午後9時10分、反革命印刷所「こだま印刷」から出た反革命装甲車輌を的確に補足し、革マル「政治組織局員」藤原隆義、「こだま印刷」指導者関口誠司、金沢大革マル伊東亘、岐阜大革マル伊藤修に革命的テロルを叩き込み、車輌もろとも完全に打倒した。

この偉大な闘いは2・11反革命、わが革命党の最高指導部同志中原(笠原正義の別名)暗殺に対するプロレタリア革命党の鉄の回答である。

(中略)

わが部隊は2・11反革命への煮えたぎる憎しみに燃え、猛然と突撃し、前面フロントガラスをたたきわり、それに対して天井からおろした防御板でふせごうとした革マル「政治組織局員」藤原隆義、反革命印刷所指導者関口誠司、防衛隊員であり、反革命「全学連」特行である伊東亘、伊藤修計4名の反革命分子に革命的テロルを炸裂させた。

わが戦士達は、埼玉全県、首都各県、都県境橋全域にわたる権力の戒厳令をあらゆる手段を駆使して突破し、全員帰還した。

この闘いこそ、2・11反革命、わが革命的労働者協会総務委員会書記局員であり、偉大な共産主義者である、同志中原暗殺に対する煮えたぎる怒りと憎しみを、鉄の組織性と計画性、戦闘遂行における大胆さとして絞りあげ、階級的革命的原則にのっとったすさまじい革命的テロルとして革マルの頭上に炸裂させたものである(以下略)

「反革命装甲車輌」、「車輌もろとも完全に打倒」、「この偉大な闘い」、「革命的テロル」…。

文面から分かるとおり、見事に罪の意識がない。

他にもこの犯行を「2・11復讐戦」とか「4・15戦闘」とか呼んだりして、単なる凶悪殺人を武勇伝として自画自賛するとはさすがである。

どうやったらこんな思考回路になるのか。

ある意味でありえない日本語力であると同時に滑稽極まりないが、もし心底本気でそう考えていたのなら、この時代にバカだった者たちの本物ぶりは半端ではない。

その後の内ゲバ事件

浦和車両放火内ゲバ殺人事件は、革労協が自分たちの犯行だと宣言したにも関わらず、実行犯の逮捕に至っていない。

この昭和52年(1977年)時点での警視庁の発表によると、過激派(極左暴力集団)の内ゲバ事件による死者は、昭和44年(1969年)以来、この浦和の内ゲバ殺人事件での死者4名を合わせて52人目であったという。

だが、これは終わりではなかった。

革マルと革労協、中核派などの過激派は陰惨な内ゲバ殺人を断続的に犯し続ける。

何とそれは2004年まで続き、無意味で非生産的な活動に人生を売り渡した活動家たちは、50代後半か60代の白髪交じりになっても無益な争いに明け暮れ、死者は合計100名に達した。

ちなみに拙ブログの主人公である革労協は、後に主流派と非主流派に分裂し、さらにまたその後で主流派が二つに別れ、「内内ゲバ」とも呼べる抗争を起こしているから、本当に救いようがない連中だ。

頭の中が真っ赤な左翼バカたちが殺し合うのは構わない。

しかし、彼らは危険極まりない「ゲリラ」事件を起こす以外に、他組織の活動家と誤認して、無関係な一般人を死傷させたりもしている。

それに対しては「誤爆」と称して、謝罪すらしていない。

まだ暴力団抗争の方が、すがすがしく思えるのは筆者だけだろうか?

少なくとも暴力団は、一般人を誤って殺した場合は謝罪している。

また、結構早い段階で手打ちになったりして、ズルズル何十年も抗争を続けたりはしない。

それと比べると、過激派同士の抗争は実に醜く、陰険だ。

なお、これはあくまで筆者の経験だが、平和主義だの平等だの反差別だの左翼的思考を持って、それを公言する者には一定の傾向がある気がする。

それは、自分の意見は絶対的に善であり、それ以外の考えを許さないことだ。

彼らは現実を無視した理想を濁った眼を鈍く輝かせて語り、それにちょっとでもツッコミを入れる者を、人でなしとばかりに非難してくることが多い。

そういった思考回路が先鋭化した者たちで構成されたのが、過激派なのだろう。

自分たちの行動は正しく、それによって生じた結果は、どんなものでも当然のことかやむをえないことだと堂々開き直る。

また、同じ左翼思想を持っていても、違う考え方を持っている者に対してはより非寛容になるのは、内ゲバ殺人の数を見れば明らかだ。

なぜ、このような連中を今も野放しにしておくのか?

公安が監視をしているといっても、まだ堂々拠点を構えて活動している。

しょせん人権を重視しすぎるあまり、肝の座った取り締まりができない我が国だからこそイキれる集団であり、現在では多数の死に損ないたちと少数だが極左思想という重い脳障害を若くして患う者たちで構成されているにすぎないが、過去に起こしてきた所業を考えれば目障り極まりない。

とっとと我が国から消滅しろ!

出典元―毎日新聞、朝日新聞、警察白書、Wikipedia

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中華料理釜山

記事に登場する氏名、及び店名は、全て仮名です。


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我が日本国には飲食店があふれている。

バブル期に比べれば減少したとはいえ、今でも67万店舗もの飲食店が各地で営業しているらしい。

だがその平均寿命は短く、開店して三年営業を続けられればいい方であり、十周年も迎えることのできない店の方が多いと聞く。

その業界の熾烈な生存競争においては、うまくて評判の良い店が生き残るとは限らない。

だがその反面、まずくて評判が最悪な店がすぐ淘汰されるとも限らない。

私の生まれ育った地方都市О市の国道沿いに店を構えていた「中華料理釜山」は、間違いなく後者に属する店だった。

このО市民の間で悪名高かった中華料理店は1970年代に開店して21世紀を過ぎて少しの間まで、不当にも、その地で30年以上の長きにわたって営業を続けたのだ。

悪に限ってのさばり続けるというこの世の不条理を体現する存在、それがこの「中華料理釜山」だった。

市民に恐れられる店

「中華料理釜山(仮名)」

まず、この店名からしてふざけている。

ある程度の地理学的常識を有した方なら、ツッコミを入れたくなるはずだ。

釜山、どう見ても韓国のあのプサンじゃないか?中華料理店が名乗っていい名前だろうか?

「イタリア料理マルセイユ」や「タイ料理ホーチミン」くらいおかしいだろう?

ひょっとしたら、韓国風中華の店のつもりだったのかもしれないが、そんなスキマを付いた店が、1970年当時の地方都市に出現したとは考えにくい。

もっとも、その当時は中国と韓国の区別もつかないほどО市の市民は低能だったらしい。

誰からもツッコまれることなく「中華料理釜山」と書かれた看板をデカデカと国道にさらし、恥ずかしげもなく堂々営業していた。

オーナーが釜山出身の在日韓国人だったとかなのかもしれないが、真相は今でも謎のままである。

この「釜山」は名前こそふざけてはいるが、店の外装や看板は気合が入っており、1970年代の日本人の頭の中だけにある間違った中国像を具現化したように派手だった。

だが、気合を入れたのは外観だけだったようだ。

まだ小学校低学年だった私も家が比較的近所だったので、その存在を知っており、チャイナ全開の見た目に魅かれて何度も連れて行ってほしいとせがんだが、父が断固拒否。

なぜなら父は「釜山」がひどい店であることを、すでに身を持って知っていたからだ。

父によると、職場の同僚らとそこで歓送迎会を開いたことがあったが、父を含めた参加者ほぼ全員が、この店には二度と行きたくないと腹を立てるほど最低な店だったという。

店内は当時から汚く、店員の態度も横柄で味や量に比べて、不当に高かったらしい。

また、その悪名は、我が家の中だけに限ったことではなかった。

「釜山」は私が通っていた小学校の学区内にあったため、学校の同級生たちは皆「釜山」のことを知っていて実際に食事した者も多かったが、ダメ出しのオンパレード。

ある生徒は作文の宿題で、小学生の視点によりその恐るべき実態を記述していた。

きのう、ぼくはお父さんとお母さんとねえちゃんといっしょに、ちゅうかりょうりプサンという店へ食べに行きました。

ぼくはラーメンを食べましたが、おいしくなかったです。

それと店の中はきたないし、お父さんが店のおじさんとけんかしたりしたので、ぼくはもう行きたくないなあとおもいます」

我が小学校の児童の間でも「釜山」は「まずい・高い・汚い」という飲食店にとっては致命的な三冠王の店として勇名を轟かせていた。

他に「態度が横柄」「出てくるのが遅い」「この店のラーメンはカップ麺」「料理にシャブが入っている」などの講評や噂も混じっていたが、そんな市井の評判が実際の経営状態には反映されることはなかったようだ。

「釜山」の駐車場には常に一定数の車が停まり、いけしゃしゃあと営業を続けていた。

少年時代の私の心に、実際には行っていない「釜山」に対する侮蔑まじりの恐怖が刻まれたのはその頃からだ。

そして、韓国の釜山市民には悪いが、今でも釜山という地名にいい印象がない。

韓国政府もいくら地方都市とはいえ、自国の都市のマイナスイメージを不特定多数の日本人に刻み続ける店に、何らかの行動をするべきだったであろう。

実食する不運

私が「釜山」で食事する機会を得たのは、長じて大学生となった頃だ。

いや、食事する羽目になったと言うべきか。

その日、私は自分の通う大学の同級生である五島賢司と遊びに行き、その帰りは彼の車で家まで送ってもらっていた。

我々の乗った車が私の家目指して国道を走っていた時、五島が「どこかで飯にしよう」と提案。

ちょうど正午で昼食を食べていなかった私も同意し、国道沿いの適当な店を物色したがなかなか決まらず私の家近くまで来てしまった。

「ココ壱番屋にしないか?この先にあるんだが」

「カレーはどうも食う気がしないな…お、ここにしよう!」

そう言って、急にウインカーを出して入ったのが何と「中華料理釜山」だったのだ。

「ここはやめないか?いい噂を聞かないんだ」

私は地元民として忠告したが「俺はここで食いたいんだ」と五島は譲らない。

具体的な評判を伝えて説得してみたが、結局強硬な五島に折れる形で私も店内に入ることになったのは、自分自身が「釜山」に入ったことがなく、実は言われてるほどひどくはないのではないかと甘く見ていたからだ。

だが、なぜもっと強く五島を制止しなかったのかと入ってからすぐに後悔することになる。

「釜山」は評判どおりの店だったのだ。

店内に入ってまず気づいたことは、臭うことである。

「匂い」ではない「臭い」だ。

中華料理店特有の食欲をそそる炒め物の「匂い」ではなく、不衛生な台所の饐えたような「臭い」である。

その悪臭の発生源は紛れもなく厨房なのだが、入口を入ってすぐのところに目につくため、否応なしにさもありなんと思わせる凄まじい惨状が目に入った。

もう、年季の入った便所といい勝負の汚さではないか。

本当は便所も兼ねてるんじゃないかと思うくらいのレベルで、ここで料理が調理されて出てくるなんて考えたくもない

その厨房を囲むようにカウンター席が設置されており、厨房を真正面に見据えざるを得ないそこにだけは座りたくないと思ってテーブル席を目指したが、大柄でブサイクな女性店員が我々の前に立ちはだかりカウンター席を指さした。

「ここへ座る!」

中国人留学生のアルバイトらしい。

我々を強引にカウンター席へ座らせると、目の前にメニューをどさっと置いて「どれ食べる?」とさ。

正直ここで何も食べずに帰りたいが、とりあえずメニューを開いてみる。

メニューも油ベトベトで薄汚く、そして高い。

何で醤油ラーメンが900円(当時平均600円程度)もするのだ。

「お得!」と書かれたランチセットの欄があったが、そのネーミングがカオスだった。

  • 万里の長城セット:1000
  • 毛沢東長征スペシャルセット:1200
  • 中国4000年の歴史セット:1500

この店は、中国と世間を完全にナメてる。

それに、ネーミングは無意味に壮観で痛々しいが「万里の長城セット」は単なる半ラーメン+餃子だし、「毛沢東長征スペシャルセット」は半ラーメン+チャーハン、「中国4000年の歴史セット」なんぞは半ラーメン+チャーハンに餃子。

他に「黄河悠久の流れセット」や「楊貴妃セクシーダイナマイトセット」などセンスが爆裂した名前のセットもあったが、その内容と値段は見ていないし、見る気もなかった。

中国人アルバイトよ、お前は何も言わないのか?ずいぶん安く見られてるぞ、祖国が。

我々は、一番安くて無難そうな「万里の長城セット」を頼んだが、この厨房で調理するんじゃなくて、よその中華料理店から出前を取ってきて欲しいというのが本音だった。

強引に入った五島も責任を感じたのか、バツが悪そうに押し黙っている。

しかし祈りもむなしく、目の前の汚厨房でジャージャー調理が始まり、そこで作られた「万里の長城セット」が我々の前に並ぶ。

見た目は普通で、食べてみたら、おいしくはないが噂ほどまずくもなかったとはいえ、厨房があの有様だっただけに箸をつけるのに決死の覚悟が必要であった。

他にも何人か客はいたが、昼食を楽しんでいる様子はなく、皆修行僧のように無言で食べている。

我々も腹が減ってたはずだったのに、全部食べることはできなかった。

会計の時もひと悶着あり、くだんの巨漢女は堂々と「中国4000年の歴史セット」の値段1500円で請求してきやがった。

まだテーブル上にある残った餃子とラーメンを動かぬ証拠に断固抗議して取り下げさせたが、全部食わなくて本当に正解だった。

店を出た時、「だからやめろって言っただろ」と愚痴る私に、「いや、外から見たら本格的そうに見えたんだけどな」と、五島は言い訳をしていた。

確かにド派手な「中華料理釜山」の看板を遮る建築物が周囲に存在しないため、遠くからでもよく目立つし、店の外観は立派でいかにも中国という錯覚を覚えさせる。

主要幹線道路だけに交通量は多く、見かけにつられて入ってしまうビジターが後を絶たなかったから、O市の住民にあれだけ評判が悪くても営業できたのではないだろうか。

それが証拠に、駐車場に停まっている車は他県のナンバーが多く、県内ナンバーがあったとしても五島のようにO市から遠く離れた市町村の住民と思われる。

私はこの時初めて「釜山」がしぶとく生き残っている理由がわかったような気がした。

車に乗り込む前に「釜山」の駐車場へS県ナンバーの車が一台入ってきた。

五島はその車から降りてくる中年男性に駆け寄り、「この店ひどいですよ」と忠告。

腹いせの営業妨害をしていたが、私は止めなかった。

中華料理店釜山の最後

そんな来る客来る客に、トラウマを植え続けてきたであろう「中華料理釜山」がようやく閉店したのは、ミレニアムの西暦2000年を超えて数年経過した頃だ。

原因はおそらく「釜山」の隣に建てられた某宗教団体のO市支部の建物だろう。

「釜山」に向かって国道を車で走ればわかる。

そのお城のような建築物は、数多のビジターを毒牙にかけてきた「中華料理釜山」の看板を見事に隠していたのだ。

もう片方の対向車線側から見たら見えるが、看板につられて入ってくる客は単純計算で半減することになる。

よく中華料理店はつぶれにくいと聞くが、それは家族経営の場合であって、「釜山」のような比較的大規模の店は当てはまらないのではないだろうか。

それに、地元の人間に嫌われていた「釜山」が、ビジターをひっかけられなくなったら命取りだったはずだ。

相手が宗教団体だけに、まさに神罰と言えなくもない。

だが、「釜山」の悪運が尽きたのが30年以上のさばってきた後なので、さんざん悪事を働いた暴力団組長が96歳でようやく殺されたくらい釈然としないところがある。

それに悪魔を討伐して無辜のビジターを救ったことになるのが、霊感商法などで全国的に悪名高きうさん臭い宗教団体。

のさばり続ける悪に勝てるのは正義ではなく、より大きな悪だったということだろうか。

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