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口を糸で縫われた男 ~芳しき昭和の香ばしき事件簿~


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「うるさいと口を糸で縫うぞ!」

幼い時分、騒いでいると、よく親にそう脅されたものである。

私以外にも、言われことのある方は多いのではないだろうか?

最近では「ホチキスでとめる」の方がメジャーかな。

子供のころから、もし本当に口を糸で縫われたら、シャレにならないと思ったものだ。

しゃべれなくなる以前に、その痛みは半端でないであろうことぐらい、子供でも想像できる。

だから、本当にやられることはないだろうし、実際やられた人もいないだろう。

そう思っていた。

だが、世の中は広い。そして恐ろしい。

いたのである。この日本で、リアルに口を糸で縫われた人が!

それも、安土桃山時代や江戸時代の話ではない。

その事件が起きたのは、限りなく現代に近い昭和48年(1973年)12月18日の大阪府門真市だ。

おしゃべり大工

この口を糸で縫われてしまった気の毒な人は、大阪府茨木市に住むAさん(当時34歳)。

彼がそんな目に遭った原因は、そのままズバリ「口」だった。

このAさんは職業が大工であり、職人気質で口数の少ない人と思いきやその逆。

結構なお調子者で、あることないこと周囲に吹いて回る人物であったらしい。

そんな彼は、大阪府内の門真市にある一軒の洋酒喫茶に通い詰めていた。

目的は、その喫茶店のママ。

ママが美人であったか否かは別にして、少なくとも、Aさんはぞっこんであったようだ。

だからであろうか。

ある日、仲間と談笑していた時に、Aさんは、彼女についてこんなことを口にした。

「ワイ、あそこの喫茶店のママと寝たで!ヒーヒー言わしたったわ!」

嘘である。

「そうしたいな」と思うがあまり、口から出まかせを吐いたのだ。

だが、その場で皆の注目を浴びて調子に乗ったのか、それからも、彼はさも濃厚な肉体関係になっているようなことをペラペラ語った。

ばかりか、Aさんは後日、他の人間にもそのハッタリを自慢げに吹いて回るようになった。

それが大きな災難を招くことになる。

あまりにも多くの人間に言いふらしたからだろう。

Aさんのホラは、やがて巡り巡って喫茶店のママの周辺、それもよりによって彼女の旦那の耳に達してしまったのだ。

しかも、より厄介だったのは、その旦那の職業である。

暴力団幹部だったのだ。

昭和48年12月18日大阪府門真市

喫茶店のママの夫である福井某(当時41歳)は、泣く子も黙る巨大組織山口組の三次団体幹部で、殺人未遂など前科七犯の猛者。

話を耳にした福井は当然激怒し、12月18日の夜8時に、Aさんを門真市の自宅に呼び出すと、子分二人と共に、二階の部屋へ引きずり込んだ。

そして、その部屋で、余計なことを吹いて回ったおしゃべりへの過酷な制裁が始まった。

「こんガキぁ!ナメたマネさらしよってからに!覚悟せえ!!」と、ゴルフクラブでAさんを乱打したのだ。

「すんまへん!堪忍してください!アレはちゃーうんです!ホンマはやっとらんのですぅぅう!!」

Aさんは必死に弁明したが、それで済むならヤクザはいらない。

やっているいないにかかわらず、ここまで公言している以上ナメていることに変わりはないからだ。

福井らはAさんを裸にして縛り上げると、

「リンチはワイの専売特許や!もう余計なことしゃべれへんようにしたらぁ!!」

と言って、何と木綿針と糸でAさんの口を四針も縫った。

まさに口が招いた災いだが、その災いは口だけにとどまらなかった。

福井らは熱した鉄片をAさんの上半身に押し付けるというリンチまで行ったのだ。

「~~~~~!!!!」

口を縫われたままのAさんは叫び声をあげることすらできない。

そんな地獄のような暴行は翌日午前2時まで続いた。

幸いなことに、Aさんは命まではとられず解放されて、その足で近くの病院に駆け込んだ。

だが、その病院で縫い合わされた糸を抜いてもらうなどの治療を受けたものの、一か月の入院を余儀なくされる重傷であった。

自分の女房と関係を持ったと吹き回ったお調子者相手とはいえ、この仕置きはやりすぎだ。

暴力団員というのは本当に恐ろしい。

福井はその後、大阪府警の取り締まりにより、他の傷害罪や覚せい剤取締法違反で逮捕されて大阪拘置所に入れられていたが、三か月後の翌年昭和49年(1974年)2月14日に、この件が明るみに出たことで、再び警察署に移送されて取り調べを受けた。

ちなみに、Aさんの口を縫ったことへの法的裁きはいかほどであったかまでは、報道されていない。

しかし、昭和40年代の末期はまだ暴対法もなく、現在からみれば反社会勢力の暴力団が「保護」されていたも同然で、街の中に堂々事務所を構えて悪さをしていたんだから、すごい時代だった。

身から出たサビとはいえ、あまりにもひどい仕打ちを受けたAさんだが、もし2021年現在ご存命なら、82歳くらいだろう。

しかし、当時の恐怖と痛みは、半世紀近くたった今も忘れていないはずである。

口に縫われたような傷跡と、上半身の胸や腹に火傷の跡がある高齢者の男性を銭湯かどこかで見かけたとしても、「福井のこと覚えてますか?」とか話しかけるのは、人としてあるまじき行いだ。

それより、もっと心配なのは福井も存命で、この文章を目にしたら筆者はどうなるのか?ということだ。

もし生きてたら、福井の方は90近い年齢になっているはずだから筆者でも秒殺できるが、彼の舎弟や子分のまたその子分が私のところに押しかけてくるかもしれない。

口を糸で縫うのだけは、勘弁してほしいものである。

出典元―毎日新聞、朝日新聞、毎日新聞社『昭和史全記録』

本当は怖い昭和30年代 〜ALWAYS地獄の三丁目〜 平成生まれは知らない 昭和の常識 (イースト新書Q) 実録・昭和事件史 私はそこにいた

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犬鳴峠リンチ焼殺事件 ~超凶悪少年犯罪~


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1988年(昭和63年)12月7日、福岡県粕屋郡久山町の旧犬鳴トンネル近くの路上で未成年による、世にもおぞましい殺人事件が起きた。

4人の少年が車欲しさに、持ち主の20歳の青年を車ごと拉致、凄まじい暴行を加えたあげく、ガソリンで焼き殺した犬鳴峠焼殺事件である。

時代が昭和から平成に移りつつあった80年代末期は、未成年による犯罪が一挙に凶悪化した時期でもあり、同年2月には、名古屋市で未成年らによるアベック殺人事件が起き、東京都綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人は、この年11月から翌年1月にかけて行われた犯行であった。

だが本稿の犬鳴峠焼殺事件は、今なお悪名高き上記二件の犯罪と比べても、何の落ち度もない弱者を身勝手な理由で狙った点では共通しているし、殺害に至る過程の残忍さにおいて、勝るとも劣らない悪質さだったと断言できる。

ネット界隈では知る人ぞ知る事件であるが、本稿では当時の報道を基にして、できる限り忠実かつ詳細にこの許しがたき凶行を取り上げる。

なお、地名などの固有名詞を除き、被害者名・加害者名共に仮名とし(実名を推測できてしまうかもしれないが)、実際にはなかったかもしれないがあったと考えられる会話や挙動、犯人や被害者たちの行動に関する筆者の主観的意見も、一部含まれている点はご容赦願いたい。

死体発見

死体発見時の現場検証(当時の新聞より)

1988年12月7日正午、福岡県粕屋郡久山町の県道福岡-直方線の新犬鳴トンネル入り口から旧県道を1kmほど奥に入った路上で、通行人が焼死体を発見し、福岡東署に通報。

焼死体は二十歳くらいの男性で、身長170cmほどのやせ型で長髪、焼け残った衣類から、緑色のジャンパーを着ていたとみられ、下はジーパンに紺色のズックを履き、靴下は白色。

火に包まれながら倒れていた場所まで走った形跡があるため、現場で焼死したものとみられ、死後数時間程度と推定された。

自殺と他殺の両面で捜査を開始した福岡東署と福岡県警捜査一課だったが、自殺とするには、あまりにも不可解な点が目立った。

まず、男性の頭頂部には石のようなものにぶつかったと思われる五か所の傷(最大で長さ約8cm)があり、倒れていた男性の頭からは大量の血が路上に流れ、ガードレールの一部にも、その血しぶきと思われる血痕が付着していたが、その傷がいつどのようにしてできたかが分からないこと。

そして路上を転げ回った跡がある上に、司法解剖で気管支内からススが検出されたことから現場で焼死したのは間違いないが、右足の靴が見当たらず、その右足の靴下が、歩き回ったように汚れて破れていたこと。

何よりも、死体から漂う臭いからガソリンをかぶって火をつけたはずだが、焼身自殺ならば死体の近くに容器やライター、マッチが見当たらないのはいかにも不自然であり、なおかつ、財布や免許証なども見つからなかった。

〇捜査と犯人の逮捕

翌12月8日午後、焼死体の身元は、福岡県田川郡方城町の工員・梅川光さん(20歳、仮名)と判明する。

被害者の梅川光さん(当時の新聞より)

梅川さんは、母親(45歳)と祖母(72歳)との3人暮らし。

6日朝に、母親をマイカーの軽乗用車で通勤先まで送ってから、そのまま自身の勤務する同県田川市内のスチール製造工場に出勤、同日午後5時半ごろ、その車で退社してから、行方を絶っていた。

翌7日夜、一向に帰ってこない息子を案ずる母親がテレビで焼死体発見のニュースを知って、「ウチの息子では」と警察に届け出たため、鑑識が死体の指紋を鑑定した結果、梅川さんのものと一致したのだ。

そして、8日の夕方には、死体発見現場から約22km離れた田川市後藤寺の路上で、梅川さんの乗っていた軽乗用車が見つかると、いよいよ他殺の線が濃厚になってきた。

現場で容器やライター、マッチが見当たらない以外にも、

  1. 梅川さんの車が発見されたのは自宅とは反対方向。
  2. 梅川さんはいつも寄り道せずにまっすぐ自宅に帰る。
  3. そもそも自殺の動機がない。

などの新たな疑問点が、浮上したからである。

また、発見された車の助手席と後部のトランクからは、梅川さんのものと思われる血痕があり、さらには、別の人物のものとみられる赤みがかった髪の毛、たばこの吸い殻二種類と複数の指紋を検出。

発見された車(当時の新聞より)

死体発見現場付近の聞き込みでも重要な証言があった。

焼死体が見つかった現場近くで7日の午前中、若い男3人が梅川さんのものと同じような軽乗用車に乗っているのを農作業中の主婦らが目撃していたのだ。

これらの物証や証言などから、福岡県警捜査一課と福岡東、田川両署は、12月9日午前、殺人事件と断定。

福岡東、田川両署に合同捜査本部を設置して、本格的な捜査に乗り出した。

しかし、被害者の車が発見され、車内に指紋という決定的な証拠が残っている以上、犯人の逮捕に時間はかからなかった。

その指紋の持ち主と思われる者を1人ずつ任意同行により事情聴取した結果、その日のうちに、梅川さんを拉致して殺害したとあっさりと認めたのだ。

犯行に関わったのは5人で、全て未成年。

うち主犯格とみられる犯人は、被害者の梅川さんと顔見知りだった。

そして、調べを進めるうちに判明した犯行の動機と詳細たるや、あまりの身勝手さと残虐ぶりに、捜査員をあ然とさせるものであった。

犯行の経緯

逮捕されたのは、行商手伝い(おそらく暴力団関連)の大隅雅司(19歳、仮名)を中心として、窃盗や恐喝を繰り返す16歳から19歳までの不良少年グループの5人。

多子貧困の荒廃した家庭で育った大隅は、中学時代から非行を重ねて14回の補導歴と逮捕歴を持ち、強盗致傷や恐喝で、三回も少年院に入れられたことがある筋金入りだった。

今回の事件が発覚した際も田川署で、「まさかあいつでは」と名前が浮かんだほど、署員の間では悪名がとどろいていたくらいである。

そんな大隅が、この事件を起こすきっかけとなったのは車だった。

彼は車を持っていなかったが、車を買う必要は感じていなかったらしい。

なぜなら身近で車を持っている人間がいると、脅しては奪い取ること(“シャクる”などと称していた)を常習としており、次々と乗り換えていたからだ。

被害者も報復を恐れて通報しなかったっため、そのままま、かり通っていた。

梅川さんが彼らに連れ去られることになる6日夕方も、前日知り合いの少年を脅して奪った車を乗り回していた。

同乗していたのは、後に事件の共犯の1人となり、大隅とつるんで悪さを重ねてきた安藤薫(19歳、仮名)である。

まんまと車をせしめることに成功した2人だが、今乗っている車には不満だった。

彼らは、その日の夜、ある女子中学生とデートする約束をしていたのだが(19歳にもなって恥ずかしい奴らだ)、その車は軽トラで、デートには不向きなことこの上なかったからである。

そんな彼らの視界に入ったのは、勤務先から帰宅する梅川さんの乗るダイハツの「ミラ」だった。

当時の若者に人気があった軽乗用車である。

「あの車やったら、格好つくっちゃけどね」

と考えた大隅だが、赤信号で止まったその「ミラ」の運転席に座っているのが、幼い時から顔見知りの梅川さんだと分かると、途端に一計を案じた。

「あいつのば使うったい」

大隅は安藤を促して、軽トラを路肩に停車させて降り、信号待ちしている梅川さんの乗る「ミラ」に近寄った。

返す気があったか否かは別として、そんな場所でいきなり車を借りようとする神経もなかなかのものだが、欲しいものがあれば、脅して奪うことを繰り返している彼らに躊躇はない。

それに、大隅は梅川さんのことをよく知っていた。

子供のころから年上とはいえ極端に気が弱く、嫌とは絶対言えない性格をしていたのだ。

「よー、光やない。ちょっとドアば開けんか」

などと言って強引に車に乗り込むと、臆面もなく凄みすら効かせて、要件を切り出した。

「俺らこれから女(おなご)と会うことになっとーとたい。ばってん軽トラしかなかけん、格好つかんっちゃん。だけん、オメーの車(俺らに)貸しちゃらんや」

「断るわけはない」と踏んでいた大隅だったが、梅川さんの反応は予想外なもので、逮捕後以下のようなことを繰り返し言っていたと供述した。

「ばあちゃんに叱られるけん」

梅川さんは母親と祖母の3人暮らし。

ビルマ戦線で夫を亡くした祖母は、女手一つで行商をしながら、梅川さんの母となる娘を育て上げたが、その母は、梅川さんをもうけた後離婚。

しかし、彼女も祖母譲りのしっかり者で、梅川さんを同じく女手一つで立派に育てた。

そんなつつましく懸命に生きてきた一家の一粒種である梅川さんは、軽度の知的障害があったらしく、極度に内向的で人見知りであったため、少々将来を心配されていた。

だが、彼は工業高校を卒業後に、スチール製造工場に無事就職。

行く末を案じていた孫の就職を祖母は非常に喜び、母と共に決して多くはない貯えを大幅に切り崩して、就職祝いとして軽自動車「ミラ」を買い与えた。

そんな祖母と母の思いを梅川さんも、十分知っていたのであろう。

その車を、小さなころから悪ガキで、今は輪をかけて悪くなった大隅に、おいそれと貸すわけにいかない。

返してくれない可能性が高いからだ。

その思いがあったからこそ、出た言葉だった。

あるいは、梅川さんなりの遠回しの拒絶だったのかもしれない。

だが、札付きの不良である大隅たちに、その思いが通じるわけがなかった。

「あ?貸すとか貸さんとか?どっちや、ああ?!」

「えと、えと、ばあちゃんに…」

「ナメとうとか!バカ!」

短絡的な大隅は、中途半端な返答にイラつくあまり、梅川さんを殴りつけた。

「よか歳ばして、ばあちゃんばあちゃんて、ガキみたいなことばっか言いくさりやがって!」

一度キレたら、もう止まらない。

さっさと車を手に入れて女に会いに行きたいがばかりに完全に頭に血が上っていた。

安藤も加わって、助手席に移らせた梅川さんを殴る殴る。

暴行はかなり激しく、梅川さんは流血。

助手席の血痕はこの時に付着したようだ。

それまで乗っていた軽トラを放置したまま、新たな車を乗っ取った大隅たちは、持ち主の梅川さんを車内で乱暴しながら、向かった先は、田川市に住む配下の1人である沢村誠一(16歳、仮名)の家。

これから始まるデートの間、邪魔な梅川さんを監禁しておくためだ。

監禁した後、どうするつもりだったのか?

その場の思い付きだけで行動する彼らに大した考えはなかったのであろう。

同じく配下の坂本剛史(16歳、仮名)も呼びつけて沢村とともに見張りをさせ、その間に、自分たちは梅川さんから奪った車で、のうのうとデートに向かった。

おっかない先輩の大隅の命令だ。

断るわけにいかない沢村と坂本は、当初、おびえる梅川さんをいびるなど忠実に勤めを果たしていたが、大きな失態を犯してしまう。

夜中になっても帰ってこない先輩たちを待ち呆けるあまり眠ってしまったのだ。

手ひどい暴力を振るわれた上に、新たに加わった見るからに悪そうな2人に睨まれ続けて、縮み上がっていた梅川さんだが、夜中の午前二時、見張りが完全に寝入ったのを見て、思い切った行動に出る。

逃走を図ったのだ。

しかし、運が悪かった。

ほどなくしてデートを終えた大隅と安藤が、梅川さんの車に乗って帰ってきたのだ。

大隅は激怒した。

梅川さんを逃がしてしまったマヌケ2人に雷を落とし、帰ってきた際に車に同乗していたもう1人の配下の小島幹太(17歳、仮名)も加えて、追跡を開始する。

どこへ逃げたか、全く見当がつかないわけではなかった。

大隅は梅川さんの家を知っていたし、梅川さんが性格上見知らぬ他人の民家に駆け込んだり、通りがかりの車に助けを求めないであろうことも、見つからないように暗い場所を選んで逃げることをしないであろうことも、予測していた。

果たして大隅の読み通り、監禁場所から2km先の通りを、自分の家に向かって逃走する梅川さんを発見。

執拗に追い掛け回して捕らえた。

せっかくのいい気分だったのに、手を煩わされたと逆ギレしていたのか、それとも女子中学生とのデートの首尾が思わしくなくて、イラついていたのか。

大隅たちの身勝手な怒りは相当なものだった。

「ナメたマネしくさりやがって!オラ!オラ!オラア!!」

梅川さんへの暴力は拉致した当初よりさらに凄惨なものになり、顔面パンチが止まらない。

顔が完全に変形し、血だらけになっても手は緩めなかった。

キレたらヤバイことは不良にとって美徳である。

皆も残虐さをアピールするのはここぞとばかりにこぞって無抵抗の弱者を痛めつけた。

そして、どこまでも感情のおもむくまま場当たり的に行動する大隅は、腫れあがった顔からとめどなく血を流してうめく梅川さんを見てとんでもないことを言い出した。

「警察にチクられんごと、殺しんしゃい!」

犯歴を重ねて少年院に何度も入っている大隅は、警察で手荒な取り調べを受けたり、少年院で不自由な生活を強いられることの不快感が、骨身にしみていた。

ここまでやったら逮捕されて、四度目の少年院へ送られるのは間違いがなく、そんなことにならないよう、口を封じておこうというのだ。

だからと言って、傷害罪で訴えられるのを避けるために被害者を殺してバレれば、より重い刑が科されるに決まっているのだが、そこまで考える気はなかったらしい。

大隅は激情的で悪辣な上に人並外れて低能だったからだ。

他の者たちも同じで、誰も止めようとはしなかった。

ボロボロになった梅川さんを、彼から奪った車のトランクに押し込み、安藤はじめ配下の小島と坂本を同乗させて、まだ暗い12月の早朝、福岡県京都郡苅田町の岸壁へ向かった。

海に突き落とすつもりである。

苅田港の岸壁(イメージ)

大隅たちは岸壁への道中の車内でも、着いてからも、梅川さんをさんざん殴った。

それにも飽き足らず、口に火のついたタバコを放り込み、殴りすぎて手が痛くなるとクランクやナット回しを使って殴り、スペアタイアを投げつけるなど滅多打ちにし、岸壁から海中に落とそうとした。

「もうやめんね!!勘弁しちゃらんねえええ!!!」

だが、梅川さんは腫れあがった顔を、血と涙でぐちゃぐちゃにして泣き叫び、岸壁のへりにしがみついて、必死に落とされまいと抵抗。

すると今度はその手に向けてバールが打ち下ろされる。

肉がえぐれ、骨が露出して血が流れ出し、痛みのあまり意識を失ったらしく、ぐったりしたが手は離さない。

そんな、生への凄まじいばかりの執念を目の当たりにして、たじろいだ者もいた。

「もうやめにせんね?なんかかわいそうやん」

だが大隅は冷静だった。最悪な意味で。

「ばーか!オメーらも殺人未遂の共犯やけんね。捕まったらしばらく出て来(こ)れんとばい。何が何でも殺すしかなかろうもん!」

その時、海の向こうから一艘の船が、こちらの岸壁に近づいてきたのが見えた。

まずい、これを見られたら面倒なことになる。

彼らはここでの殺害を中止、ヘリにしがみついていた梅川さんを引きずり上げて車のトランクに入れ、その場を離れることにした。

だが殺害自体を断念したわけではなかった。

もはや誰もやめようと言い出す者もなく、集団はそのまま最悪の結末へと突き進む。

安藤がハンドルを握る車の中では、具体的な殺害方法と場所の検討が始まった。

「港は船とか車の来(く)っけん、いかんばい。ダムに沈むっとはどげんかいな。ここらでダムとかあったかいな?」

「力丸(りきまる)ダムとか、いいっちゃないと?」

「よか。オイ安藤、力丸ダムやけんね。」

一行は今度こそ確実に殺そうと、福岡県宮若市にある力丸ダムに向かったが、途中で中止した。

「ダムやったら死体が浮いてくるっちゃないと?」と、死体が浮いてくる可能性があると考えたためだ。

「そいなら、どげんすっと?埋(う)むっとは?あ、そうだ顔のわからんごと燃やしちゃろう」

「ガソリンやったら、バリバリ燃えるやん」

力丸ダム

逮捕後の取り調べで明らかにされたが、これらの会話はトランクに押し込められている梅川さんにも当然聞こえていた、というか聞かせていた。

後ろから、恐怖と苦痛のあまりうめきながらすすり泣く梅川さんにさらに追い打ちをかけるように、大隅は笑いながらこう言ったという。

「光、もうすぐ楽にしちゃる!」

7日朝8時、大隅らは途中で犯行に使うガソリンを購入するために、ガソリンスタンドに立ち寄る。

「バイクがガス欠になったけん、これに入れちゃらん」

そう言って、1リットルの瓶を差し出した彼らのことならよく覚えていると、従業員は後に語った。

一目で不良と分かる連中だったが、女性従業員に卑猥な言葉をかけて笑い合うなど、この時に買ったそのガソリンを使って殺人を起こすつもりである様子は、一切感じなかったらしい。

ガソリンを購入した後、車内で大隅は、殺害の役割分担を決めようと言い出した。

自分だけが罪をかぶる気はなかったし、全員をそれぞれ殺人に加担させれば、誰もおいそれと口外したりはしないだろうからだ。

「ガソリンかくる役やら、火ィ付くる役とかジャイケン(ジャンケン)で決めるけん」

「じゃあ俺、ガソリンばかくる役ばやりますけん」

ジャンケンの前に自ら志願したのは17歳の小島で、これは実際に火を付ける役を嫌ったかららしい。

「俺はティッシュに火ば…」ともう1人の配下の坂本も直接手を下す役を避ける。

結局、殺害場所の選定は運転する安藤が行い、火を付ける役は大隅自身に決まった。

死の恐怖を梅川さんにたっぷり味わわせながら、人気のない場所を探して車で走り回ること2時間。

殺す場所として選んだのは粕屋郡久山町の旧犬鳴トンネルで、そこは人通りがほとんどない山の中の旧県道であり、当時から心霊スポットとされるくらいの不気味な雰囲気を漂わせていた。

旧県道の入り口(現在は閉鎖されている)

午前10時ごろ、一行はトランクを開けて梅川さんを引きずり出すと、手はずどおり小島がガソリンを浴びせる。

「ああああああああ!!!」

その時、今まで弱々しくうめいていただけの梅川さんがとんでもない大声を上げたために小島は思わずひるんでしまった。

全身を鈍器まで使って滅多打ちにされた体のどこにそんな力があったのか、脱兎のごとく走り出して山の斜面を登って逃走。

「何逃(の)がしようとか、バカが!!捕まえんか!」

大隅たちも慌てて跡を追ったが、山の中に逃げ込んだ梅川さんの姿は完全に消えてしまった。

このまま逃げ続けていれば彼も20年というあまりにも短い生涯を無残に絶たれることなく、さらわれてさんざん暴行されたことによる肉体的精神的な後遺症は残ったとしても、2021年の現在まで生きていたかもしれない。

しかし神から与えられた絶体絶命の危機を脱する機会を一度ならず二度までも無駄にしてしまい、命運が尽きる。

「おーい光!(俺らが)悪かったけん出てこんね。もう何もせんけん、家にも帰しちゃーけん!」

この見え透いた大隅の呼びかけに対して、愚かにも山の中から姿を現し、おとなしく出てきてしまったのだ。

あるいは、この場は逃げおおせたとしても、自分の住所を知っている犯人たちに後日再び襲撃されて、よりひどい目に遭わされることを恐れていた可能性もあるが。

「バカか貴様(キサン)!終わったバイ」

大隅たち悪魔の方は、この機会を逃さなかった。

再び捕らえると、今度は逃がさないよう4人がかりで両手両足をビニールテープで縛り、口には仲間の1人から差し出させたシャツを破いて押し込む。

縛られて、さるぐつわをされた口から、必死に命乞いの言葉を発する梅川さんを道路に正座させ、残ったガソリンをかけて火のついたティッシュを投げ込んだ。

瞬間的に発火して火だるまとなった彼はのたうち回り、火で溶けた衣類やビニールテープを路上やガードレールにこびりつかせながら走り回った後に崩れ落ち、やがて動かなくなった。

焼殺現場(当時の新聞より)

愚劣極まりない犯行後の犯人たち

梅川さんが息絶えた後、犯人たちは、とどめとばかりに石か鈍器のようなものを頭に叩きつけており、頭の傷はこの時できたものと判明した。

ネットでは、この傷からの失血死という情報もあるが、当時の報道を見る限り死因は焼死である。

大隅たちは梅川さんを焼き殺した後、すぐに車で現場を離れたようだが、また五分後に戻ってきて車内から動かなくなっているか否かを確認。

それを三回も繰り返していた。

犯人たちは、さらなる証拠隠滅のため、奪った財布から免許証を取り出して焼き、同じく梅川さんの時計も投棄。

かように用心に用心を重ねたつもりの大隅たちだが、その後の行動が、あまりにもずさんだった。

一旦、監禁場所の家に戻ると、殺人には加わらずそのまま家にいた沢村も加えて、5人で隣町の飯塚市へ梅山さんの車で飲みに出かけ、戻ってくると、自分たちの指紋や被害者の血痕などの物証だらけの車にカギをかけ、田川市後藤寺の路上に駐車していたのだ。

逮捕後の供述によるとまた使うつもりだったらしい。

押収された梅川さんの車(当時の新聞より)

後に、その物的証拠が決め手となって逮捕に至るわけだから、犯罪者としても三流だったとしか言いようがない。

おまけに、大隅は生活保護を受ける母親と暮らす自宅に戻った際、近所の人に「警察来(き)とらんよね?人ば焼き殺してしもうたけんくさ」と、にわかには信じがたい言葉を吐いている。

被害者遺族たちの悲憤

被害者の葬儀(当時の新聞より)

生前の梅川さんは、その内向的でおとなしすぎる性格から、友達付き合いもあまりなく、仕事が終わるとまっすぐ家に帰っていた。

また、給料の10万円のうち7万円を家に入れ、よく車で祖母や母を買い物に連れて行く、近所でも評判の孝行息子だったという。

親子三代でつつましく暮らす梅川家における、かけがえのない宝だった。

その宝、たった1人の子供をあり得ないほどむごたらしい方法で奪われた遺族の悲しみが、尋常ではなかったのは言うまでもない。

9日に密葬が行われた後の自宅では、母の裕美さん(45歳、仮名)と祖母の房江さん(75歳、仮名)が奥の部屋にこもったままで、涙で目を真っ赤にはらし、親族の慰めにも無言でうなずくだけだったという。

叔父の健さん(50歳、仮名)は怒りをこらえながらマスコミの取材に答えてこう言った。

「ただ悔しいとしか言いようがない。犯人に対して何もできないし、耐えるしかないのか。許されるなら、同じことを犯人に対してしてやりたい」

反省なき鬼畜たちのその後

主犯の大隅は、姉に付き添われて田川署に出頭してきた時はぶるぶる震えており、9日の夕食、10日の朝食とも一口しか手を付けず「光のことを思うと食欲が出らん」などと言った。

他の少年たちも「かわいそうなことをした」と後悔の言葉を漏らすようになっていた。

しかしそれは最初だけだったようだ。

犯人たちは開き直ったのか、これが素だったのか次第に何の反省もない態度を取り始める。

朝昼晩の食事は全て平らげ、外部から差し入れられたカップラーメンも完食。

取り調べでもあっけらかんと笑みすら浮かべて犯行についての供述をした。

殺害には加わっていないことを理由に「俺は見張りしてただけやろうもん。なして捕まらんといかんと」と言い張る沢村も問題だったが、焼殺の実行犯たちの中には「あいつが車ば貸さんかったけん、やったったい」とすら口にした者もいた。

主犯格の大隅である。

大隅はさらに「俺は何年の刑になると?」と、自分が未成年であることを理由に大した刑にはならないとタカをくくってすらいた。

だが、甘かった。

その後の一審判決で無期懲役が下されるや「重すぎる」と控訴。

1991年3月8日、福岡地裁で開かれた裁判では控訴を棄却されて二審でも無期懲役が確定した。

成育歴が劣悪だっただのの言い訳や、拘置所で被害者の冥福を祈って読経をしたりのこれ見よがしの行為では、情状酌量は認められず、

『犯行は他に類例を見ないほど残虐。被告はその中心的な役割を果たしており責任は重い』

と判断されたのだ。

しかし、事実上の副主犯格の安藤薫には、5年以上10年以下、その他の従犯の小島幹太と坂本剛史には、4年以上8年以下の懲役であったのは果たして妥当であったのか?

あれほどの凶悪犯罪を行った大隅は、2021年の現在でも服役していると思われる一方、他の3人のうち出所後、地元の広域暴力団に加入して幹部にまでなった者がおり、今でも「あの時の犯人は俺だ」と犯行を自慢しているという、ウソか誠か知れぬ情報がネットでは出回っている。

しかし、あながちウソとも思えない。

あんなことをしでかした奴らだから暴力団に加入してもおかしくないし、そこしか行き場はなかっただろうからだ。

凶悪犯罪を平気で犯すような奴らは、基本的に反省することがないと考えるべきである。

必ず「あれは仕方なくやったんだ」とか「もう償いは十分したはずだ」とかの言い訳を、自分の中で確立するものだし、逆に武勇伝として誇らしく吹聴したりして、再び犯罪に手を染める輩が多いことは女子高生コンクリ殺人の犯人たちのその後が、証明している。

凶悪犯を反省させる必要はない。

だが一線を踏み越えたことへの後悔だけは、十分にさせる必要がある。

司法は更生よりも、危険極まりない人物を、社会から隔離するか無力化することに重点を置くべきだと思うのは、筆者だけではないはずだ。

死体発見現場にたむけられた花(当時の新聞より)

出典元―西日本新聞・朝日新聞西部版・『うちの子が、なぜ!―女子高生コンクリート詰め殺人事件』(草思社)

かげろうの家 女子高生監禁殺人事件 (追跡ルポルタージュ シリーズ「少年たちの未来」2) 犯人直撃「1988名古屋アベック殺人」少年少女たちのそれから―新潮45eBooklet 事件編10 うちの子が、なぜ!―女子高生コンクリート詰め殺人事件

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シャイなスケベは罰せられる 1 ~大人の社会見学~


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2002年の真冬だったから今から20年近く前のことだが、出会い系サイトのサクラをしていたことを告白する。

もちろんサクラだと最初から分かっていたわけではなく、「データ入力業務」という新聞の求人欄を真に受けて応募したのだ。

そうと分かったのは面接の時。

私の面接を担当したのは金髪にピアスだがビール腹の、滑稽なほど若者っぽい恰好をした明らかに40代中盤のおっさん。

いきなりうさんくさかったが、そのおっさんの話す内容はそれを上回っていた。

初っ端から業務は各出会い系サイトからの委託であることを淡々と語り始めたのだ。

おっさんによると、出会い系サイトを利用するのはほとんどが男で、

女の利用者の割合は男 16 に対してたった 1!

そんなんじゃあ男の利用者の多くがナシのつぶてになるから、誰も利用しなくなる。

だから女の利用者のふりをしてやり取りをする、つまり業務はサクラであるとあっけらかんと言い放った。

それって違法じゃないの?

詐欺じゃないのかよ。

などと思いつつも、無職でプラプラしていた時期だったし、さほど悪いことをするわけではないとも思ったので採用される運びとなった。

シャイなスケベ退治開始

いざ出勤してみた仕事場だが、パソコンがずらりと並び、その前でサクラたちが出会いを求める男たちをさばいていた。

そして、

そのサクラの七割近くが男で、気のある女のふりをして相手に思わせぶりな返信していたのだった。

出会い系サイトはご存じのとおり、メールを送信すればするほど男性利用者は課金されててゆく。

だからできるだけじらし、会話を長引かせるのが肝要である。

面接の時から気づいていたが、完全に詐欺である。

出会いを求める者をだましている以外の何者でもなく、採用されてからこんなことを言うのは今更だったが、

実際にやろうとすると後ろめたさを感じた。

しかし、その罪悪感はすぐに消滅した。

なぜなら女を装って出会い系を利用する男たちの相手をしてみて、女日照りの男たちのあさましくゲスい下心と獣心をそこはかとなく感じたからだ。

そして次第に彼ら醜悪なナルシスト、身勝手な夢を見る童貞、シャイな変態たちの

ザーメン臭い純情に鉄槌を下すことに使命感すら感じるようになっていった。

寂しい男たちの正体

まず利用者のうち何人かのハンドルネームなんだが、

以下のハンドルネームを名乗って出会いを求めようとする者の神経が理解できない。

  • 浣腸汚染
  • 寂しがり屋の変質者
  • 俺の股間は二十ミリ機関砲
  • 肛門指挿入抜き挿し魔
  • レイプ術黒帯
  • 童貞地獄

女に相手してもらう気あるのか?

これを見て返信する気になる女が世の中にいると思っているのか?

何をされるか激しく不安になる名前であるから、間違っても会いたくはない。

犯罪構成要素を満たし、逮捕状が請求できそうなくらい圧巻のお下劣ネームである。

だが、こういうモテないあまりに脳と下半身をメルトダウンさせている変態相手こそ我々男性サクラの出番だ。

気持ちが多少わかる分相手にしやすく(「多少」だ。あくまでも)、実際に会うわけでもないので勇んでアプローチをかける。

まず『俺の股間は二十ミリ機関砲』だが、

パソコンから「まりん」という仮名の二十代の女を装い「二十ミリってどういうこと???」と興味あるそぶりを見せてメールを送ったところ瞬時に返信があり、

案の定自分のイチモツに自信があるみたいで「味わわせてやるから会いに来い」とのことで思い上がりも甚だしい。

むろんこいつの自慢の息子の規格と性能など知ったこっちゃないし、会う気もない。

こちらはパケット代を使わせるために会話を長引かせるのが仕事だから、わざとらしくチャットを開始した。

サクラのバイトを仕切る社員のアドバイスどおり、女性らしく絵文字や顔文字を含めることも忘れない。

「太さ二十ミリ( ゚Д゚)じゃあ長さは(・・?」
「確かめに来な」
「身長、体重は(。´・ω・)?」
「160センチ、80キロくらい」

股間が重武装でも、体が残念だな。

一点豪華主義らしい。

あと顔は芸能人で言ったら「浜崎あゆみ」に似ているらしく、いったいどんな姿の生物なんだ、こいつは?

「こっちはパケット代がかかるんだ。会うのか会わねえのかどっちだ?」

これからじっくり会話を長引かせようとしてたら、いらだって結論を迫ってきた。

ケツの穴とキンタマは小さいようだ。

こちらは女を装っているうちに心も女性化し始めたらしく、

自分の懐具合をチマチマ心配する男は、女からどう見えるかも何となくわかる気がしてした。

そのセコさとせっかちさに虫酸が走る。

もちろんさっきからの尊大な言葉遣いも。

『俺の股間は二十ミリ機関砲』はS県北部在住らしく、T線のS手駅で今晩待っているから来てくれ」と一方的に要求してきた。

それだけでもかなり身勝手さを感じるのに、ずうずうしくも「俺は車を持ってないから、必ず車で来てくれよ」と付け加えやがった。

その付け加えた文面を見た瞬間、私の心の中で義憤のサディズムの炎がめらめらと燃え上がるのを感じた。

だます相手がこういう奴で本当によかった。

勤労意欲がわいてきたじゃないか。

「オッケー☆⌒d(´∀`)ゼッタイ車で行くね☆👌」と約束してやったが、

「仕事終わってから行くから、12時に待っててね(⋈◍>◡<◍)。✧♡」

と敢えてバスも電車もなくなっているであろう時間帯を指定した。

『俺の股間は二十ミリ機関砲』は「遅すぎる、もっと早く来てくれ」だの「電車がなくなっちまうだろ」だの言ってきたが、

「じゃあ行かない😝」とかごねてやったりしたらしぶしぶ了承した。

これら一連のやり取りでも少なからぬパケット代が自分の懐から消えたことに奴は気づいているのだろうか。

そして最後まで「マックスにデカくして待っててやるぜ」と自信満々で偉そうだったから、サカリのついた男ってのはどうしようもない。

ざまあーみろ。

この真冬の深夜待ちぼうけ食らって、むなしくデカくしてやがれ。

私の中で眠っていた悪魔的正義感が早くも覚醒したバイト初日となった。

つづく

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未成年に踏みにじられた25歳の純情 ―実録・おやじ狩り被害―


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1999年(平成11年)、24歳だった私は某電器メーカーの工場で派遣工をしていた。

大学卒業後に就職した会社を、一年とちょっとで追われたからだ。

時は就職氷河期の真っただ中、職場には私と同世代の者が意外と多かった。

就職できなかったか、私と同じく会社からドロップアウトしてしまった若者たちである。

そんな中にH川という青年がいた。

H川は私と同じラインで働いているから顔見知りだが、話したことはない。

私が職場で口を利くようになった人間の一人にM田という男がいて、そのM田がH川とよく話す仲だった。

奇しくもH川はM田の小中学校の同級生で、昔馴染みだったのだ。

つまりM田と同い年だった私とも学年は同じだった。

M田によるとH川はある専門学校を中退後、また別の専門学校へ入り直して卒業してから就職したが、一か月未満で辞めてからこの工場で働いているという。

H川は大人しそう、というか気弱でネクラそうな感じの青年である。

長めの寝ぐせを整え切れていない不潔そうな髪型、170cmくらいの細身だが運動不足で体脂肪率が高めであろうガリポチャ体型、私服のセンスも悪い。

その外見からも、活舌が悪くモゾモゾと何を言っているかわからないしゃべり方から判断しても女性には絶対にモテそうにない感じの男だった。

私も似たようなもんだったが。

だが10月中旬の金曜日、そのH川が大変身を遂げて職場にやって来た。

長めの髪を金髪に近いような茶髪に染め、耳と鼻にピアス。

上下は作業着に着替えていたのでどんな私服を着て来たのかわからなかったが、首から上だけでも十分インパクト大の変わりっぷりだった。

一体何があった?工場の薬品による労働災害か?

いやいや、女関係に決まってる。

果たしてやっぱりその通りで、今晩女性と会う約束をしているとかで、そのためのイメチェンだった。

「どうしたんだその恰好?」とM田らが聞くと、H川は待ってましたとばかりに喋る喋る。

何でもテレクラ(1999年当時は携帯の出会い系サイトも出始めていたが、テレクラも健在だった)で知り合ったらしく、しかも相手は女子高生だというではないか。

当時女子高生は『コギャル』と呼ばれて世のいい歳こいた男どもにもてはやされ、コギャル文化真っ盛りの時代。

だからH川は普段と違ってもう有頂天という感じで、相手は女子(コギ)高生(ャル)であることを特に強調していた。

M田たちは「援助交際だろう」とか「本当に女子高生か」とからかったら、もうすでに一回だけちょっと会っており、今回は二回目で本格的なデートだという。

たったその程度なのに喋っているうちにH川は相手のことを「俺のオンナ」とか「カノジョ」とか言い始め、もうすっかり交際しているつもりになっている。

それをツッコまれると、「俺のことを気に入ったって向こうは言ってんだ!」とムキになった。

「おいおい、ヤバくねえか?」「おっかない奴出て来るぞ」と、みんな懸念を表明したが、H川は聞く耳を持たない。

それどころか「俺ってマジで何歳に見える?高校生くらいに見えなくね?」とかワケわからんことを言い出している。

「25歳には見えない」と言われたらしく、いい歳こいて喋り方までそれっぽく変えて。

25歳未満ではなく25歳より上に見えるという意味じゃないのか、それは?

私も端から聞いてて、どう見てもヤバいような気がしていた。

だってH川はネクラで地味な青年で、喋りがド下手くそなコミュ障。

年上の男に魅力を感じると相手は言っていたと彼は主張するが、イメチェンしたとはいえ小学生のまま25歳になったような感じのH川に、高校生くらいの女の子が寄ってきそうな大人の魅力があるようにも見えない。

援助交際じゃないとしたら、相手の女子高生とやらには何か危険な目的があるんじゃないか?

第一、彼のイメチェンは私から見ても無理してる感が強く、痛々しい。

今までファッションに全く気を配ってこなかった者が、急にシャレっ気を出した場合特有のズレを感じる。

染めた髪だってムラがあるし、相変わらず寝グセ立ってて変な髪型のままだし、ピアスの位置もおかしい。

それにいい歳こいて、そのガキみたいなファッションは何だ?

などなど心の中でツッコミを入れつつ、実は自分と同じくらいネクラそうな奴がまんまと女性と会うことができたことに対する嫉妬が混じっていたのも事実だ。

もうすでに一回会っているって言ってるし、もしH川の話が本当だったら私もテレクラ行ってみようかな、ともちょっと思ってた。

作業が始まってもH川ははしゃぎっぱなしで、隣の奴にあれこれ話しかけてる。

聞こえてきたのは「どのラブホテルが一番おすすめ?」だ。

さっきから聞いてりゃ気が早すぎだろう、今回も約束どおり相手が来るとも限んないんだぞ。

などと横目で聞き耳を立てていたら、「おい!横見て作業するな!」

現場監督に怒鳴られたのはおしゃべりしていたH川ではなく、なぜかそれを見ていた私の方で、何とも釈然としない。

こうしてその日の作業が終わり、午後5時の終業時間になるや、H川は踊るようにタイムレコーダーに向かって行った。

さぞかし期待で胸と下半身を膨らましていたことだろう。

それが、彼を見た最後だった。

土日が明けて、月曜日。

H川の野郎はどんなこと言ってデートにこぎつけたんだろうか?普段話さないけど聞いてみようか?などと考えながら出勤した。

実は金曜日からずっと気になっていたのだ。

朝礼が行われる従業員休憩室に行くと、私の担当ラインのみんなが揃いも揃ってM田とそのツレのK保を囲んで話をしていた。

H川はその中にはおらず、まだ来ていないようだ。

彼らに近づいてみるとみんな深刻な顔をしており、「それで大丈夫なの?」とか「何で警察に言わなかったの?」とかの言葉が聞こえた。

何だかただ事ではない。

何があったのか気になったので、私もその輪に加わる。

「どうしたの?」

「H川がやられたってよ」

「やられたって?ナニされたの?」

「ボコられたらしい。K保が見たってさ」

K保は私たちと同じラインで働いており、H川とも仲が良い。

やや顔をひきつらせたK保によると、事の顛末は以下のとおりだった。

K保は金曜日の夜9時ごろ、女子高生とデートしているであろうH川に冗談半分でメールしたという。

その内容は「おい、もうどこまでいった?もしかして真っ最中か?」というようなもので、わざわざみんなにその時の携帯のショートメールの送信履歴で見せてくれた。

その後しばらく待っても返事がなかったため、K保はひとまず風呂に入った。

風呂から出て携帯を見ると、何と15分くらいの間に二件の着信履歴と留守録。

すべてH川からだった(これもK保は我々のために再生してくれた)。

一件目の留守録を再生すると、H川の「ああ、あのさ、大至急かけ直して」という短いメッセージ。

二件目は、「おい、頼むよ!大至急かけ直してくれって!」というかなり切迫した感じの声だった。

最初、K保はH川がこっぴどく女子高生に振られでもして、その愚痴を話したいんだろうと思ったらしい。

少々ザマミロとほくそえみながらかけ直したら、ワンコールでH川が出た。

だが、H川が電話に出るなりいきなりまくしたてるように話した内容が異常だった。

いきなり「金を貸してくれ!」と頼んできたのである。

しかもその額が十万円で、10時までに市内のB原中央公園という公園に持って来てくれというものだった。

確かにB原中央公園はK保の家から近いから行けないことはないが、いきなり「十万円貸せ」なんて頼みを当然聞けるわけがないからK保は断った。

だが、H川はなおも理由も言わず懇願し続けるので、二人の間で「何で貸さなきゃいけないんだ」「いいから頼む」という押し問答が続く。

付き合ってられないと思ったK保が電話を切ろうとしたら、「ええから持って来いや、ボケェ!」という怒声が電話から響いた。

その声はH川ではない若い男のものだったが、いかにもこういう脅しに慣れていそうなドスの効いた喋り方だったという。

その若い男の言い分は、H川がナメた真似したので落とし前を付けさせているが、これはツレであるK保の責任でもある、という無茶苦茶なものであった。

「俺には関係がない」とK保が少々ビビりながら突っぱねると、「ツレがどうなってもいいのか?」と電話の向こうでH川を痛めつけ始めた。

受話口から「やめてくださ…ぐふっ」とか「勘弁してく…痛ぁ!」とかのH川の叫び声が聞こえて来る。

ばかりか相手の男はK保の氏名や住所、勤務先などの個人情報を把握していることを告げ、10時までに約束の場所に金を持って来なかったらこちらから行く、と脅してきた。

K保のことはH川が苦しまぎれに教えたんだろう。

そして「警察にチクったら必ず報復する」と凄まれ、電話が切られた。

悪い奴らと何かあったのか?いや、H川は女子高生に美人局をかまされたに違いない。

K保は相手が声の感じから未成年だと確信したが、だからこそ怖くて怖くて仕方がなくなっていた。

この当時の少年法は「犯罪をやるなら未成年のうち」と言っているに等しいほど大甘で、それを盾に取った未成年の悪党たちは、金を持っていそうな成人男性を襲う「オヤジ狩り」などの凶悪犯罪を犯しまくっていたからだ。

そんなK保が取った行動は、相手の要求に従うでも警察に通報するでもなく、黙殺だった。

電話の電源を切り着信が来ないようにして、もし本当にこちらに来たらどうしようと、おびえながら床に就いた。

結局10時を過ぎても連中は来なかったが、不安のあまり朝までほとんど眠れなかった。

K保はこんなことに巻き込んだH川にムカついていたが、やはりどうなったか気になっていたので、昨晩彼らがいたであろうB原中央公園へ親から借りた車で行くことにした。

公園までは車で行けば5分とかからない。

公園に着くと、いつでも逃げられるように周りを車で巡回しながら様子を探る。

まだ連中がいるかもしれないからだ。

様子を探っていると、遊具のある広場の街灯の周りに人だかりができているのが見えた。

「もしや」と思い車を停めてその人垣に近づくと、その中央にいたのは案の定昨日職場で見たばかりのあの明るい茶髪、H川本人だった。

何と、広場の街灯にガムテープでぐるぐる巻きに縛り付けられてぐったりしている。

しかも全裸で!

H川は殺されてはいないようだったが、殴られて顔を腫らし、タバコで根性焼きをされた跡も所々体に残っており、陰毛も剃られていた。

ずいぶん屈辱的なシメられ方をしたものだ。

周りで見ているジョギングや犬の散歩で公園を訪れたと思しき人たちも人たちで、「動かさない方がいい」とか言ってガムテープをほどきもせず、H川を全裸のまま放置していた。

K保もそのまま見ていただけだったようだ。

その間にも近所の住民など野次馬が次々現れ、H川の醜態の目撃者は増えてゆく。

誰か通報はしていたらしく、ほどなくして救急車、そしてパトカーが到着した。

やっとガムテープをほどかれたH川は片手で股間を、もう片方の手で顔を覆い、警察官の質問に何事か答えながら救急隊員に促されて救急車までフラフラ内股で歩いて行ったという。

「だからヤバイって言ったのに。俺らまで巻き込みやがって」

K保と同じく電話で脅迫されたというM田も、犯行グループより自分たちを売ったH川に腹を立てているようだった。

脅された時点で彼らのうちどちらかが警察に通報していれば、H川もあそこまでこっぴどくやられることはなかったはずだが、それについての反省はしていない。

他の連中の中には「テレクラって怖いな」「無茶苦茶やる連中だな」と凍り付いている者もいたが、「バカだな」「恥ずかしいやられ方だぜ」「ちょっと笑える」と冷たいことを言う者の方が多かった。

その後、犯行グループが逮捕されたことを新聞の報道で知った。

何とH川をハメた相手は女子高生を装った女子中学生であり、ボコったのも同じ中学に通う二年生や三年生の悪ガキども8人だったことが分かった。

25歳のH川は中学生たちにハメられ、一晩中いいように痛めつけられていたのだ。

彼らはまず女子中学生がテレクラを使って相手を人気のない公園に呼び出し、いざ相手が来ると人数を頼みに金品を脅し取る、という分かりやすい手口を使っていたという。

H川は二回目に会った時にやられたが、おそらく一回目は相手を見極めていたと思われる。

H川以外にも引っかかった者がいたらしく、警察は余罪を追及しているようだったが、犯罪被害のきっかけがきっかけだけに泣き寝入りしている被害者も多いことだろう。

彼らはそれを見越して相手が大人しく金を出しても、調子に乗ってさんざん暴行を加え、友人知人にも金を持ってこさせようとするほどの向こう見ずな悪事を働いていたのだ。

ただし、今回はH川を公園に放置したためにその犯行が露見してしまったらしい。

ちなみにH川を指しているに違いない被害者についても新聞は触れており、『アルバイトの男性(25歳)は財布とATMから合計6万円を脅し取られて暴行を加えられ、顔と下半身に全治二週間の怪我』と報道されていた。

25歳のくせに全所持金が6万、それと新聞記者も「下半身」の三文字は余計だろうに。

H川はそれ以降職場に姿を現さなくなってしまった。

あれだけ職場で「相手は女子高生だぜ」とか自慢して周ったあげくまんまとハメられてシメられ、報道までされてしまったんだから、みっともなくて顔を出せるわけがない。

と言うより、外出すること自体怖くなってしまったはずだ。

私も中学生の時にカツアゲされた経験があるからわかるが、見ず知らずのおっかない奴らに脅されてドツかれたりして金を巻き上げられる体験は半端じゃない恐怖で、その後しばらく街を安心して歩けなくなるくらいの災難なのだ。

しかもH川の場合相手は中学生で、そんなガキどもに長時間好き放題やられて、マックスの恐怖と屈辱が相乗効果を発揮した人生最悪の体験だったはずだ。

その後はその後で醜態を大勢の人にさらしてしまい、きっと一生忘れられない悪夢となったことだろう。

相手方の中学生たちにとっては面白かったに決まってる。

あんなことするような奴らだから、同級生の女相手に鼻の下伸ばしてやって来たひと回り以上年上の男を痛めつけるのは快感だったに違いない。

使命感すら持って「自分がこれやられたら嫌だな」ということを思う存分やって、少年法で保護される対象年齢ど真ん中だったから、大した罪にも問われなかったはずだ。

いい思い出になったとか、三十代半ばになった現在でも居酒屋とかで笑いながら語ってたりしてるかもしれない。

若気の至りだったから仕方がないとか言って、大して反省もしていないのではないだろうか。

世の中そんなもんだ。

職場の連中も冷たい奴ばかりだった。

仲が良かったはずのM田もK保もあの一件について「あいつは女と付き合ったことが全然なかったからな」とか「せっかく気合い入れてイメチェンしたのに、チン毛まで剃られてかわいそうに」と笑顔で語り、「しかも相手中坊だぜ」とも言って笑ってたけど、その中坊に脅されてお前たちもビビったんじゃなかったか?

職場のみんなもH川ネタでしょっちゅう盛り上がってたんだから彼も浮かばれない、死んではいないはずだけど。

やられた動機も動機だし、しょせん他人事ということか。

世の中そんなもんなんだろう。

私はあれからしばらくして別の就職先が決まったため、派遣工を辞めた。

以来、M田はじめ職場の誰とも連絡を取っていないからH川のその後は知らない。

20年以上経った現在のH川はもうさすがに立ち直っているとは思うが、忘れてはいないだろう。

その気になってスケベ心をときめかせて行ってみたら美人局で、寄ってたかって裸にされて縛られ、ひと回り以上年下のガキどもに一晩中いたぶられながら「やめてください」とか懇願し続けた情けない体験を笑って話せる日など来るわけがない。

本当の話、私はH川にさほど同情していないことを告白する。

私もカツアゲされたことはあるが、中学時代の話で相手も中学生だったし、きっかけもやられ方もあそこまでカッコ悪くはないはずだ。

25歳の男のザーメン臭い純情が中学生に踏みにじられたんだから、滑稽極まりない。

ふざけたことした中学生どもにはもちろん頭に来るが、客観的に見て「犯人への怒り」が四割くらいで「H川の自業自得」が五割ほど、「H川が気の毒」に至っては一割未満というのがこの一件に対する私の正直な感想である。

そう思うのはしょせん私にとっても他人事だからだろう。

世の中そんなもんだ。

違う?

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高校デビューした少年の悲劇


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高等学校の中には、素行不良な生徒の占める割合が異様に高い学校がある。

約三十年前の1990年代のことなので現在はどうか知らないが、私の郷里の県立O農業高校がまさにその典型だった。

大学進学率は一ケタどころか小数点第二位で測定不能、その反面で退学率が二ケタ台で出席番号がしょっちゅう若くなるという凄まじさ。

反社会人予備校か出入り自由の少年院としか考えられない環境の高校で、中学時代はおとなしかった生徒も入学すると悪くなり、悪かった生徒はより悪くなる。

真面目な生徒だと無事にそこでの学校生活を送れないからだろう。

逆教育機関と言っても過言でない学校、それがO農業高校だった。

そんな悪名高きO農業高校に、私の出身中学からも何人かの同級生が進学したが、その多くが見事に同校の校風に染まってヤンキー化。

その中には中学時代によくつるんでいたK田もいた。

K田の高校デビュー

中学時代のK田は真面目というか気弱な生徒で、学業成績も破滅的だった。

中学卒業後の進路を聞かれた時に「高校進学」と答えたら、周囲から「爆弾発言」とからかわれたくらいだから、小学校低学年程度の学力を有しているか日本生まれのヒト科でありさえすれば入学できるとまで言われていたO農業高校しかなかったようだ。

そんなK田と私は同じく気弱で、腕力に劣るスクールカーストの底辺に位置することからそこそこウマが合い、中学では一緒であることが多かった。

卒業後、私は一応進学校の県立O西高校に進学したが、それとは対極のO農業高校に入ったK田とは家が比較的近所ということもあって中学時代の関係は続いた。

K田に異変が生じ始めたのは高校に入学してほどなくだった。

やはり入った高校がO農業高校だったからだろう。

彼は坊主頭だったが、心なしか剃り込みを入れているような気がしてきたし、眉毛の形も以前とは違う。

そして会うたびにその剃り込みは深くなり、眉毛も細くなってゆき、変形ズボンを穿いた本格的なヤンキーに変身するのに夏休みまでかからなかった。

外見にリンクして言動も変化。

「どけや、くそガキども!」と声を荒げて小学生を蹴散らすし、タバコを吸うようになったし(銘柄は「エコー」)、私に対する態度も変わってきた。

極悪校O農業高校の生徒であることをなぜか誇りとし、進学率のそこそこ高い普通科高校の生徒を十把一絡げにシャバ僧とバカにし始めていたからだろうか。

K田の口調はだんだんガラが悪くなり、「ジュース買ってこい」だの「タバコ買ってこい」だの私をパシリ扱い。

この時点で友人関係を解消してもよかったが、私自身まだ高校でつるむ友人に乏しかった頃だったために、彼との付き合いはしばらく続いた。

ヤンキーと言えば格好だけではだめで、ある程度ケンカっ早くなければならないことくらい私でも知っている。

彼もいっぱしのヤンキーを気取っていたから、私にO農業高校の恐ろしさを語り、よく学校の内外で誰かとモメたことを自慢するのが好きだった。

そして、私にも「気に食わん奴がおったらぶん殴ったらなあかんぞ」だの「ケンカにガタイも人数も関係あらへん、根性や!」などと忠告。

おそらく覚えたばかりのケンカのやり方や人の殴り方を頼んでもいないのによく教授してくれた。

こっちは誰かを殴ったりしたら退学になりかねない進学校の高校生なのだ。
はっきり言って余計なお世話であった。

K田の試練~生意気な中学生に対して~

そんなK田のヤンキーとしての資質を問われる出来事が私の目の前で起きたのは、その年の夏休み後くらいの休日だった。

その日、私とK田は自転車に乗って中学時代の友達の家に遊びに行った帰り道、前から歩いてくる我々の出身中学の在校生二人に出くわした。

直接面識はないが、二人とも知っている顔だ。

私の二歳下の弟と同学年の、確か名前はT島とS本で、我々が在学中に一年生だったからその時は中学二年生。

部活帰りらしく中学校の体操着姿のため、悪そうな見かけはしていなかったが、どちらも体格が良くて見るからに強そうだった。

それもそのはず、二人とも柔道部に入っていた記憶がある。

高校一年生の我々が自転車で彼らに近づいた時、中学二年生のT島とS本の顔は我々の方、特にK田に向いているような気がした。

そして通り過ぎた後もこちらを見続けている。

ガンをつけているという程ではないが、ニヤニヤしながらバカにしたような顔でだ。

「なんやあいつら?」とK田は自転車を漕ぎつつ、後ろを振り返りながらイラつき始めた。

T島とS本は相変わらずこちらを見ながらヘラヘラして、挑発しているとしか思えない態度である。

K田は二人を睨みながら「やったろか中坊ども!」とうなり始めた。

ケンカする気なのか?相手は中学生とはいえこちらよりガタイが大きい。

しかもあいつら柔道部だぞ。

私はそう懸念したが、K田の怒りはもう制御不能だった。

「てめえらやんのか!?コラ!!」

K田が中学生二人に向けて怒声を発した。

しかしそれは、

彼らから100メートル以上の距離に達してからだった。

そして前を向くと、そのまま自転車を漕いで遠ざかって行った。

時々後ろを振り返りながら、心なしかスピードを上げて。

振り向いて見てみると、遠くのT島は大笑いし、S本は「来てみろよ」とばかりに手招きしていた。

確かK田は「気に食わん奴がおったらぶん殴ったらなあかん」とか「ケンカにガタイも人数も関係あらへん、根性や!」とか私に言ってたはずだ。

そういうのは範で示さなきゃ説得力がないと思うが。

「あいつら殺したる」と、彼らの姿が見えなくなった安全圏でいきり立つK田のヤンキーとしての資質に私の中で疑念が生じ始めた。

それからさすがにバツが悪くなったのか、ケンカについて講釈を垂れなくなったK田だが、彼の本当の試練はその後日にあった。

K田の最後~本物の不良少年に対して~

中学生たちとの一件から一か月ほど後、私とK田はゲームセンターでゲームをしていた。

ケンカの自慢話はしなくなったとはいえ、K田は相変わらず横柄な態度で私に接しており、高校でまともな友達ができ始めた私は彼との関係の解消を考慮し始めていた頃だ。

我々はゲーム機に隣り合って座り、それぞれのゲームに興じていた。

私はゲームセンター版「ゼビウス」を、右隣のK田は「エコー」をくわえて「スターソルジャー」をプレイし、時々ゲーム機の右隅に置いた灰皿に灰を落としていた。

その日の私は絶好調で高得点を重ねて初めてのエリアに突入。

これからが肝心という最中だった。

横からK田が私をつつき「おいおい、あのさ」と話しかけてきた。

その声はいつものガラの悪い命令口調ではなくやたら切迫した弱々しい感じだった。

「何?」私はゲームに熱中してたので顔を上げずに聞き返した。

「あそこにいる奴なんだけど、こっち見てへんか?」

「え?どこの?」

「あの『アフターバーナー』のトコにおる金髪の奴」

そう言われてから、顔を上げて戦闘機ゲーム「アフターバーナー」の方を見たら、いた!確かに金髪のリーゼントでスカジャンを着た少年がこっちを見ている!

90年代初頭の地方都市O市で、未成年で金髪にしているのはグレ方が半端じゃない奴とみなされていた。

実際その金髪少年は相当悪そうで、目つきのヤバさもかなりなものだ。

グレたばかりのK田とは貫禄が違いすぎる。

そんなのがこっちを睨んでいたから私も思わず目を伏せた。

もうゲームどころじゃない。

横のK田も目を伏せており、「なあ、どうしよう?どうしよう?」とこちらを向いたその顔は今にも泣き出しそうだった。

そんなの私に振られても困る!完全に気弱だった中学生時代のK田に戻っている。

「あ、ヤバイこっち来た!」
顔を上げると、その金髪がタバコを吸いながらこちらに近寄ってくるのが見えた。

再び目を伏せてから隣のK田を見ると、彼はより深く顔を伏せて目をきつく閉じ、膝をがくがく震わせていた。

「おい、オメーよぉ」

その声で顔を上げると金髪はK田のゲーム機の右横まで来て、彼の座っているゲーム機を蹴った。

顔を伏せていたK田がビクッとする。

次にタバコの煙をK田の顔に吹きかけた後、おびえるK田の髪をつかんで顔を上げさせ、「オメー見かけん顔やな、どこのモンや?」と凄み始めた。

金髪は前歯が二本欠けていた。

「あの、あの、O農業高校です」と震えながら答えるK田に、「農業ふぜいがナニ偉そうにしとるんじゃ」と言い放つ。

この金髪の本格的不良少年には極悪校O農業高校のブランドも通じない。

「それとよ、オメーさっきからえれぇ調子こいとりゃせんか?おう?」

「いや、そんな…。別に調子こいてないで…、アチイッ!!

金髪に火のついたタバコを顔に押し付けられたK田が悲鳴を上げる。


「ま、ちょっと話あるからツラ貸せや」

そう言うと髪を引っ張ってK田を無理やり立たせた金髪は私を睨んで、「そっちのゴミは失せろ」と出口に向けて顎をしゃくった。

否も応もあるわけがない。

私は一目散にゲームセンターから退散した。

自転車置き場に置いた自分の自転車のカギを、手が震えてうまく外せない私の耳に「オラ!来いや!」という金髪の怒声と、「すいません!」「勘弁してください!」というK田の叫び声が入ってきた。

それが、ヤンキー少年としてのK田を見た最後だった。

K田のその後

その日以降彼からの連絡がなくなり、見殺しにした私もあえて連絡しようとしなかったが、とりあえず殺されてはいなかった。

何週間かした後で学校帰りのK田と不意にばったり出くわしたのだ。

彼は中学時代と同じ丸坊主で眉毛も剃っておらず、学ランも変形ではなくなって普通の高校生の姿になっていたが、私から目をそらしてそそくさと立ち去った。

私との関係は終了したが、奴はすっかり更生したようだ。

いや、ヤンキー生命を絶たれたのではないだろうか?

あの金髪にヤンキーをやるのが嫌になるくらい怖い目にあわされたに違いない。

あの時のK田の、あのおびえ方を目の当たりにした私はそう感じた。

ヤンキー少年、少なくともK田のような中途半端な即席タイプを、形がどうあれ更生させるのは善良な人である必要はないのかもしれない。

悪いことをすることがどれだけ間違っているかを教えるより、どれだけ怖いことかを分からせた方が効果的なのだ。

それを分からせられるのは本当に悪い奴しかいない。

あの金髪のような本物も使いようによっては、O農業高校のような極悪校の生徒を少しはまじめな学生に近づけることができるのではないだろうか。 

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芳しき昭和的趣味と子供の将来

牛乳瓶のフタの収集という趣味をご存じだろうか?

乳飲料はガラス瓶に充填され、紙製のフタでシールしているものが主流だった昭和の時代、少なからぬ小学生がその牛乳瓶のフタをコレクトしていた。

1975年(昭和五十年)生まれの私も小学校時代の一時期はまった一人だ。

牛乳瓶のフタなど一見すると単なる廃棄物だが、乳製品は数多の銘柄や種類があって、フタのデザインも様々である。

何十種類も集めて並べて眺めてみると、実に壮観で目を見張る。

私の学校でのブームはずっと続いたわけではなく、私が二年生の時の数か月ほどだったが、あの時の牛乳瓶のフタを求め続けたむさぼるような感覚ははっきり覚えている。

○○牛乳、△△コーヒー、×△フルーツだの乳製品の名前を耳にしただけで、45歳の今でも当時の情熱を思い出して私の心はときめく。

当時学校でも友達の家でも皆、自分のコレクションを自慢し合ったりしたものだ。

そんな中でも、私の近所に住む一学年上の上田唯という少年は誰も持っていないようなレアもののフタを大量に保有する断トツのコレクターで、皆から仰ぎ見られていた。

大人になった今から思えば、あの当時の上田も我々も子供ながら非常にみみっちくつまらないことにこだわっていたものだ。

だが他の子供たちより多くコレクションを充実させることができた上田こそ、実は将来の星であったと今では思う。

彼はこの牛乳瓶のフタの収集において、将来世渡りに有利となる才覚を発揮していた点がいくつか見受けられるからだ。

まず、レアものを数多くゲットしていたからには、行動力が抜きんでていたと考えられる。

行動力は社会的成功を収めるための必須の要素の一つ、それなくしては遊びも仕事も始まらない。

どこに行けばそれがあるかを察知する注意力、情報収集能力もあっただろう。

また、上田は自分で探すだけでなく他のコレクターとの交換によってもレアものを入手していたから、交渉能力にも長けていたに違いない。

なおかつ交換ではなく他人からの純粋な譲渡によってもコレクションを入手しており、それは上田が粗末に扱ってはいけない人間と見做されていたからであって、人間的な魅力(あるいは迫力)にも富んでいなければできないはずだ。

確かに上田は私を含めた近所の子供たちの間だけではなく、学校の同級生たちの間でもセンターに位置する少年だったと記憶する。

これだけでも、社会生活を営む上で勝者となりうる資質ではないだろうか。

更に彼は他の子に先んじて収集を始めていた。

つまり、いち早く流行をキャッチしていたということだ。

その能力は社会に出てからなお一層有利に働くことは言うまでもないだろう。

もし上田が流行を作り出していた本人だったとしたらなおさらである。

上田は建築用ガラス業者の長男で、成長してからは親の跡を継いで二代目の社長となった。

そして、彼の率いる会社は平成大不況を乗り切ったばかりか、日本経済が縮小する現在でも高度成長期ばりに業績を拡大している。

それを目の当たりにすると、牛乳瓶のフタ集めでの上田はその資質の片鱗を見せつけていたと、今では思えて仕方がない。

一方の私は学校の給食で出てくる牛乳のフタか、近所の牛乳屋でいくらでも手に入るために誰でも持っているものしか持っておらず、コレクションは貧弱だった。

そんな私の貧しいコレクションが一気に豊かになったのは、我が小学校での牛乳瓶のフタ集めがブームとなって何か月も経ったある日のこと。

その日、上田が直々に私を呼び出して、自慢のコレクションを分けてくれたのだ。

それからしばらくしてからも上田は自分のコレクションを私にくれるようになり、しまいには残り全部を譲ってくれた。

何とありがたいことだろう!

垂涎の品々を大量にくれるなんて信じられない!

うれしさのあまり子供ながら「上田君は一生の恩人だ!」と思うくらい感激した。

上田だけではない。

他の有力なコレクターたちも私にコレクションをくれたため、私のコレクションはこの上なく充実した。

家でそれらを眺めて悦に浸った後にやることはただ一つ、友達に自慢である。

このコレクションを見せられたら、誰もがきっとぐうの音も出ないはずだ。

それまで経験したことのない、羨望のまなざしを大いに浴びるに違いない。

私はもらった牛乳瓶のフタを学校へ意気揚々と持って行き、皆に見せびらかした。

「どーだ、すげーだろ」

だが皆の反応は冷淡で、友達の一人にあきれ顔で言われた。

「お前、まだそんなことやってたのか?」

ブームはとっくの昔に終わっていた。

私だけがそれに長いこと気づいていなかったのだ。

私は幼少の頃から世渡りが下手だったようだ。

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昭和カオス

『女子高生が、写真館でヌード写真を撮影させて少なからぬ金銭を受け取っており、その数は二百人余りに上ることが判った』

 貞操の価値が暴落してから久しい。

九十年代にはすでに援助交際と称して女子高校生が売春を始めていたから、ヌード写真を撮影させていたなんて「何だ、その程度か」感すらある。

しかし、これは平成や令和の世で起きたことではない。

昭和も昭和、それも昭和2年(1927年)5月の新聞報道なのだ。

昭和2年なんて、戦前どころか限りなく大正時代に近い大昔。

まだ軍部が健在で、未成年の明治生まれがいて、江戸時代生まれすらゴロゴロいた時代。

貞操観念が現代とは比べ物にならないほど堅かったはずである。

にもかかわらずヌード写真を撮影させていたのは、よりによって家柄も懐具合も立派な家庭出身で、厳格な躾を受けてきたはずの名門お嬢様学校の生徒ばかり。

そんな嫁入り前の御令嬢たちが、小遣い銭欲しさに易々と自分のヌードを他人にさらしていたのだ。

戦後、生きるために米兵に体を売っていたパンパンならともかく、食うに困らない名門のお嬢ちゃんたちが遊ぶ金欲しさでそんなことをやっていたなんて、援助交際やってた平成の女子高生とほとんど変わらない。

 今も昔も、ヒトの考えることは同じということなんだろう。

 でも ちょっとうれしくならないか?

 君子然とすました顔で写る白黒写真の中の人たちが、ヘラヘラとスマホで自撮りしている現代の我々と同じく生臭いことを考えていたことが分かると。

出典:毎日新聞社『昭和史全記録』より