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2023年 中国 復讐 河南省

君子報仇(二)十年不晩 ~中学時代の怨師に二十年越しのお礼参り・2018年中国河南省~

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学校に通っていた頃を思い出すと、教えを受けた教師の中には「怨師」と言わざるを得ない者がいる。

恩師ではない、怨師だ。

学生時代の自分を導いてくれて、終生その恩を忘れるべきではないのが恩師だが、怨師はその真逆。

自分を目の敵にしているとしか思えず、感情的になって面罵してきたり、あるいは体罰を加えてきたり、はたまた同級生の前でさらし者にしたりした教師のことだ。

多感な時期に屈辱的な思いをさせられ、何年たっても、あれは個人的な好き嫌いからヒステリーを起しただけだとし考えられないし、今の自分のためにも一切なっていないから思い出しただけで腹が立ち、許すことができない奴のことである。

拙ブログの著者も何人か心当たりがあり、今からでも遅くないから、お礼参りをしてやりたいものだとすら考えたこともある。

そんな筆者が時々夢見るようなことを本当にやってしまった男が、お隣の中国にいた。

実に痛快なことをやってくれたもんだ。

さぞかし爽快な気分になれたことであろう。

だが、そうではなかったようだ。

6.8億回再生された動画

2018年12月中旬、ある一本の動画が中国中を席巻した。

路上で30がらみの男が50代のスクーターに乗った男を呼び止め、何事かなじりながらビンタをくらわせている動画だ。

街中などで発生したもめごとや騒動を、居合わせた通行人が撮影して動画サイトやSNSにアップすることは中国でもよくあることだが、この事件はただの暴行事件ではなかった。

ビンタを食らっている方は張清林という名の中学教師で、ビンタをくらわせている方の30男は、常仁堯という張の元教え子だったのだ。

中国では、日本とは比べものにならないほど教師を尊重する伝統があり、その権威も高い。

その反面で、教師は生徒に遠慮なく体罰をふるう傾向があることが問題視されてきた。

加害者の常仁堯は、中学時代に被害者の張清林に手ひどく体罰を受け、この動画はその報復を20年越しに果たしたところを撮影したものなのだ。

だったとしても、教師に卒業後の教え子が手をあげる動画は中国社会では衝撃的なものであったらしく、6.8億回再生されるほどの注目を浴びた。

のこの行動には賛否両論があったが、上記の中国ならではの社会的背景もあって、学生時代に体罰を受けた者、もしくは現在進行形で受けている学生の共感もあったようだ。

担任だった相手を20年も昔のことで、あまつさえ公衆の面前でビンタまでするか?と思う方もいらっしゃるかもしれない。

だが、以下に記す常仁堯が実際にされたことを本当にわが身に置き換えることができたとしたら、あなたはそう言えるだろうか?

体罰四天王

加害者の常仁堯は1985年、中国河南省洛陽市欒川県で生まれ、早くに両親が離婚して家庭が貧しかったために恵まれない幼少時代を過ごした。

欒川県実験中学

小学校を卒業した後は、家から遠く離れた欒川県実験中学に入学。

家庭環境が良好ではなかったとはいえ、特に問題行動を起こす生徒でもなかった彼は、順当に一年生を修了する。

だが、1998年に二年生に進級したとたん、学校生活は暗闇に包まれることになった。

それは、担任教師が張清林だったからだ。

当時の実験中学の生徒たちの間では、「体罰四天王」という言葉がささやかれていた。

それは、生徒に加えるせっかんが特に激しい四名の教師を指していたのだが、張清林はそのセンター的存在であると恐れられていたのである。

まだ30代で血気盛んだったはトガリまくっており、生徒に圧倒的な威勢をふるうことこそ教師のあるべき姿と勘違いしていたらしく、ちょっとしたことでもキレて、生徒をズタボロにするまで体罰を加えることで有名だった。

何をしに学校に来ているかわからない者は、生徒の側だけでなく、教師の側にもいるようである。

そんな暴力教師に、常は目をつけられてしまった。

彼は素行不良で反抗的な少年では決してなかったのだが、張清林の目には、カンに触る生徒と映ってしまったらしい。

は英語教師で、常が英語を苦手科目としていたできの悪い生徒だったのもあるが、そんな些細なことも含めて、しょっちゅう体罰の餌食にされるようになる。

大声で罵倒されるわ、ビンタは食らうわ、蹴りは入るわ、棒で突かれるわ。

それもクラスのみんなの前だったから、さらし者にされたのメンツはズタズタになった。

また、は暴力的だっただけではなく、陰険な教師でもあった。

の家庭は貧しくて、学費を払うのにも一苦労だったために支払いが遅れることがあったのだが、は「誰だろな、学費も払ってない生徒は?全く、払うモン払わないなら、学校に来るんじゃないってんだ」と、をにらみながらクラスメイト達の前で嫌味を言ったのだ。

家庭環境を公開でなじられたも同然であり、これには我慢を重ねてきたも耐えかねて、この一件を今までのことも含めて校長に直訴した。

どう考えても、担任によるいじめ以外の何者でもないからだ。

さすがのも校長から注意を受けたらしく、その後はあまりあからさまなことはしてこなくなったが、その裏で教師にあるまじき嫌らしい腹いせをしてくるとは思わなかった。

クラスの中で一番ケンカの強そうな生徒に「がふざけたことをしたら殴ってもいい。先生が許す」と、そそのかしていたのである。

幸いその生徒は良識のある男で、お墨付きをもらったのを幸いに常仁堯を殴ることはなく、むしろ張清林に言われたことを、そのまま常に伝えた。

はこの世に神も仏もないのか、という気持ちになったはずだ。

だからと言って、学校で自分が担任からどんな扱いを受けているか家で言うわけにもいかない。

前述のとおり、中国では教師が日本以上に聖職者視されており、それをかさに着て、のように暴走する教師は少なくはないのだが、親も自分の子供が不当な扱いを受けても、苦情を言いにくい風潮がある。

教師をやっているほどの人が間違っているはずはないという思い込みもあるし、学校に苦情を言おうものなら、子供がより不当な目に遭わされることが中国社会の現実として、大いにあり得たからだ。

最悪の中学生活だった一年間が終わって三年に進級すると、クラス担任も変わった。

の体罰に怯える日々から解放されたが、思春期の心に刻まれたトラウマは消えなかった。

そして、それは中学を卒業してからもの心に残り続け、20年後の2018年の夏に爆発することになる。

君子報仇(二)十年不晩

常仁堯は中学を出た後、高校、大学と順当に進学・卒業して社会に出た。

浙江省杭州市に住んで自営業を軌道に乗せ、結婚して子供も生まれていたから、はた目には非の打ちどころがないような人生を歩んでいると言えよう。

だが、彼は夜な夜な悪夢にうなされていた。

それは、中学時代に張清林から体罰を受ける夢である。

中学二年生の時の出来事は、トラウマどころか心的外傷ストレス障害にすらなって、常を苦しめ続けていたのだ。

彼は昔のことを引きずりすぎる性格だったんだろうか?

「昔のことなんだから忘れろ」とか、「気にしすぎないようにした方が良い」などとでも言ってやるべきなんだろうか?

そんなことを軽々しく言う者は、本物の体罰に遭ったことのない奴か、人の気持ちを一切考えようとしない無神経極まりない奴、はたまた、体罰を快感と感じる変態だろう。

過剰な体罰に愛は一切ないのだ。

やった方にあったとすればそれは思い上がりであり、やられた方は、理不尽な暴行を加えられたとしか思わない。

そして、それを忘れることはできないのだ。

後に分かったことだが、張清林の体罰の餌食になった者は、常仁堯以外にも数多く存在した。

同級生の中にもこっぴどく殴られたことがある者が何人かおり、その多くが卒業してからずいぶん経つが、いまだに許せないと口をそろえていたという。

だけが、特別だったわけではないのである。

2018年、そんな中学時代のトラウマをぬぐいさることができぬまま33歳になっただったが、同年、思い出したくもない記憶を植え付けてくれた本人の張清林に再会する日が訪れる。

それは全くの偶然だった。

その日、蒸し暑い2018年7月某日、故郷である河南省洛陽市に帰郷していたは、地元の友達と魚釣りをしようと車を運転していたのだが、途中で釣り道具を忘れたことに気づく。

取りに戻ろうと考え、欒川郷双糖村19号の路上に車を停めて、何気なく路上に目をやった時だった。

常の目が、電動スクーターに乗ってこちらに向かってくる50がらみの男性の姿を何気なくとらえたのだが、その男の顔を見た瞬間に、彼の頭に過去の記憶が一気にフラッシュバックしたのだ。

20年以上前に起こり、今も彼を苦しめる中学時代に受けた体罰の記憶。

その体罰を加えてきた男、張清林の顔だ。

頭が禿げ上がり、年輪を刻んで年相応の顔になっていたが、あの顔は間違いない。

はとっさに一緒にいた友人に、これから自分がやることをスマートフォンで撮影するように頼んでから、何かに憑かれたかのように車を降りて、やって来るそのスクーターの前に立ちはだかった。

は周囲の評判によると決して乱暴者ではなく、紳士的でいつも穏やかであることが多い男である。

だが、この時は様子が明らかに変わっていた。

張清林か?」

常は、突然進行を妨害されて、怪訝な表情をする50がらみの男に尋ねた。

「そうだが」

なおも怪訝な顔をして中年男が答えた瞬間、常の表情が豹変し、普段の彼からは想像できない行動に出る。

你妈的以前咋削我,还记不记得(テメー、むかし俺をどんなふうにぶったか覚えてるか)!?

そう叫ぶや、ビンタをくらわしたのだ。

いきなり顔を張られた張清林は唖然としたが、はなおもビンタを張り続ける。

十几年过去了知不知道(十数年くらい前のこと知ってるか)!?以前咋削我还记不记得(むかし俺をどんなふうにぶったか覚えてるか)!?

なじられながらビンタを何発か食らったは無抵抗であり、それどころか、

对不起(すまない)と謝罪した。

20年前からは考えられない、しおらしい態度である。

だが、はまだ収まらない。

对不起(すまないだ)?早干什么去了(いまごろになってか)!!你妈的咋当的教师(テメー何で教師やってやがったんだ)!?

の表情も言葉遣いも普段の彼からは全く想像もできないほどの剣幕であって、それは20年間溜りに溜まった鬱屈した思いが一気に決壊したかのようだったのだ。

車道上だったために、にスクーターを路肩へ移動させたが、そこでも中学時代に自分が受けた仕打ちについて非難し、のスクーターを蹴り倒した。

この一連の報復劇は、集まって来た野次馬のうちの何人かが、仲裁に入って常が冷静になるまで約9分間続いたという。

その模様は、先ほど常に撮影を頼まれた地元の友達が記録していた。

と言っても、後にが語ったところによると拡散させるためではなくて、20年前に受けたトラウマを吹っ切る一助にするための記録にしようとしたという。

が落ち着いてようやくビンタと罵声から解放されただったが、大勢の前でひどい目に遭わされてしょげかえり、肩を落として帰って行った。

中国には『君子報仇十年不晩』、すなわち『君子たるもの、復讐するのに10年かかっても遅くない』という言葉があるが、は20年かかって復讐したのである。

だが、20年間の鬱屈した思いをはらしたは、すっきりしたわけではなかった。

しばらくしてから、自分がにやった行動は正しかったのか?と思い始めるようになったのだ。

それは徐々に大きくなり、やがて撮影した動画によって、とんでもない騒動が起きることになった。

拡散された動画

ビンタをくらわせた時の張清林は、すっかり丸くなった50過ぎの中年男であり、中学時代の自分に体罰を加えてきた頃のような凶悪さはなくなっていた。

殴られても無抵抗だったし、非を認めて謝罪もしてきた。

何もあそこまでやらなくてもよかったのではないか?

いやいや、この20年間ずっとあいつの顔が頭から離れなかったんだ。

全部あいつのやったことが招いたんじゃないか。

お礼参り以来、常仁堯の心の中に、そのような葛藤が生まれたようである。

確かに思春期のトラウマは消えたが、取り返しがつかないことをしてしまったような気がしてすっきりしない。

その葛藤を振り払おうとしたのだろう。

は本来、自身の思春期時代のトラウマを落ち着けるためだけに撮影してもらった動画を、同じく中学時代にこっぴどくから体罰を受けたことのある同級生の楊某に送信する。

同じトラウマを持っているはずの人間と動画をシェアすることによって、自身のやったことの正しさを確認しようとしたようだ。

だが、これが間違っていた。

動画を送った際に「他の人間には見せないでくれ」とくぎを刺したが、その手の約束は、往々にして破られるものである。

もそういう約束を守らないタイプであって、その動画を同じく同級生の辛某に送信してしまったのだ。

辛は自分の大親友だから、特別だとでも思ったのだろう。

しかし、このはもっとタチが悪かった。

自身のSNSにアップしたりして、のお礼参り動画を拡散させてしまったのだ。

この元教え子が教師を殴るという動画はSNSのユーザーたちに衝撃を持って受け止められ、シェアにシェアが重ねられてみるみる拡散。

さらに、その過程で動画は切り抜かれて一分程度になり、それも一番の見せ場ともいうべきをののしりながらビンタしている場面だけになってゆく。

こうして前述のとおり、中国全土で6.8億回も再生されるほどにまでなってしまったのだが、この動画を目にして激怒した者たちがいた。

の通っていた実験中学の教職員をはじめとした欒川県の教育関係者たちだ。

彼らはすぐに殴られているのが欒川県実験中学の教師・張清林だと分かり、警察に通報した。

ただ、当の本人である張清林は被害を一切訴えておらず、に顔をビンタされてアザを作って帰宅した際は家族に「バイクで転んでしまった」とごまかしていたという。

なおかつ、この一件は彼にとって重大な精神的打撃となっていたようだ。

かつての教え子に公衆の面前で仕返しされること自体恥ずかしいことであるし、何より自分がなぜこんな目に遭ったのか彼にも分かっていたからである。

しかし、欒川県の教育関係者たちはそうはいかない。

いくらひどい体罰を受けていたとはいえ、かつての教師を殴るとは、教育界への許しがたい挑戦だと憤慨していた。

こんなことを許しておけば、自分たちもお礼参りされてもおかしくない。

関係者は常仁堯のことを「ヤクザ、ゴロツキ、社会のゴミ」とまで言って告訴。

年末になって、ここまでの大騒動になってしまっていることに驚いたはネットの掲示板に「自分の行いが良くなかったのは分かっているが、どうしても中学時代のことが許せなかった」という旨の声明を発表したが、すでに警察は動き出していた。

2018年12月20日、常仁堯は逮捕される。

身柄を拘束されたのは彼の住む杭州市の杭州駅、自ら出頭しようと故郷への列車に乗り込む直前だった。

その後

翌2019年8月、常仁堯は寻衅滋事罪(騒動挑発罪)で懲役1年6か月の実刑判決を受けた。

いくら犯罪者に厳しい中国でも、ビンタを張っただけでこれほどの刑が科されることは通常ない。

欒川県の教育委員会の意向が量刑に大きく影響したのだと思われる。

一方で、判決前には主にの故郷の人々を中心に、減刑の歎願が行われていた。

自営業で成功していた常は、高校時代の恩師が病気になった際には気前よく治療費を差し出すなど恩には必ず報いる男で、決して教師そのものを目の敵にしていたわけではなかったし、貧しい故郷の人々の援助を惜しまない人格者だったからだ。

だが結局判決は覆らず、懲役1年6か月が確定。

は刑務所に入れられてしまった。

翌年2020年6月19日、常仁堯は刑期を満了して出獄する。

刑務所の門の前には妻が迎えに来ており、さらには少なからぬ記者まで集まってきていた。

この一件は、それほど社会の注目を浴びていたのだ。

犯歴がついてしまっただが、支持する者は多く、彼は現在でも自営業で生計を立てている。

ただ、彼は2018年に自分が張清林にやったことを悔いているようである。

出所後に受けた記者の取材に対して「過去に何があったとしても、暴力で報復したのは間違っていた」と語っていたのだ。

それは1年半もの間、刑務所で服役させられたからだけではない。

は確かに20年前は手の付けられない暴力教師だったが、長い年月の間に人間的に成熟したらしい。

ビンタ動画が話題になった時期、彼の教え子だった生徒に「って奴は、あんないい先生に何でこんなことするんだ」と言わせるほど温厚で生徒に好かれる教師に変貌していたのである。

いくら昔ひどい体罰を受けたからといって、そんな人物にビンタをくらわしたのは、やりすぎだったとは感じていたのだ。

何よりにも家族がいて、彼らも傷ついたはずなのは、自分にも家族がいるからよく分かる。

「やらずに後悔するよりも、やって後悔する方が良い」という言葉が存在するが、の場合は行動を起こさなかったことの後悔より、行動を起こしてしまったことの後悔の方が大きかったようだ。

長年の恨みを晴らしたら、さぞかし気分が良くなるだろうと、やったことのない人間には思えるが、いざ本当にやってしまった人間に言わせれば、大きなむなしさと悔恨が残るものだということをは身をもって教えてくれたのかもしれない。

出典元―YouTubeチャンネル『英大吉來了』

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2023年 Linux SNI (Server Name Indication) Windows クラウド コンピューター 証明書

Server Name Indication (SNI) とは

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まず、ウェブサーバーなどで使われているバーチャルホストという技術が、どのようなものなのかを知っておく必要があります。

通常はWebサーバやメールサーバを運用するのにドメインの数以上のサーバコンピュータが必要となる。バーチャルホストを利用すると1つのサーバコンピュータで複数のドメインを運用することができ、サーバコンピュータの数を減らし運用のコストを下げることができる。また、後述する名前ベースバーチャルホストの場合はIPアドレスも節約することができる。 また、ドメインの追加も容易で、小規模Webサイトの運営や安価なレンタルサーバサービスなどでの利用が盛んである。

ウィキペディア

SSL/TLS では「同じサーバーは 1つの SSL サーバ証明書しか使えない」のが基本です。

ただ、このままだと不便な場合もあります。例えばレンタルサーバサービスをしているとしましょう。同じサーバを複数のユーザが利用し、更にユーザーごとに異なるドメインを利用するという使い方ができなければ、レンタルサーバーのサービスは成り立ちません。

このために出てきたのが、バーチャルホストです。

バーチャルホストの種類

今時のウェブサーバーでは、1台で複数の ウェブサービスを提供することが当たり前になっています。この技術をバーチャルホストと呼びます。

バーチャルホストには 2種類があります。

  • IP ベース
  • 名前ベース

IP アドレスが複数必要のない名前ベースのバーチャルホストの方が主流ですが、実際は、両方を混在させて使うケースもあります。

名前ベースのバーチャルホストの設定例

IP アドレスは同じで、複数のウェブサイト(ドメイン)を提供するのが特徴です。

# Ensure that Apache listens on port 80
Listen 80

# Listen for virtual host requests on all IP addresses
NameVirtualHost *:80
<VirtualHost *:80>
DocumentRoot /www/kkint1
ServerName www.kkinternational.com

# Other directives here

</VirtualHost>

<VirtualHost *:80>
DocumentRoot /www/kkint2
ServerName www.kkinternational.work

# Other directives here</VirtualHost>

IP ベースのバーチャルホストの設定例

ウェブサイト(ドメイン)毎に、異なる IP アドレスを使うのが特徴です。

Listen 80

<VirtualHost 172.30.30.100>
DocumentRoot /www/kkint1
ServerName www.kkinternational.com

</VirtualHost>

<VirtualHost 172.30.30.200>
DocumentRoot /www/kkint2
ServerName www.kkinternational.work

</VirtualHost>

なぜ SNI が必要なのか

このバーチャルホスト(特に名前ベースの方)が使われ始めたのが理由です。

名前ベースのバーチャルホストには、

  1. 同じ IP アドレスで、複数のウェブサービス(ドメイン)を提供する
  2. それらのウェブサービスは HTTPS を使っていて、サーバー証明書で暗号化されている(現在は HTTPS がほぼ必須)

という特徴があります。

上記 1の特徴から、バーチャルホストを使うウェブサーバーは、「家」よりも「アパートの建物」に似ていると言えます。アパートは、複数の部屋に分かれています。これらの部屋が、ウェブサービスでありドメインです。

次に上記 2の特徴です。この「HTTPS でサーバー証明書を使っている」というところがポイントです。基本的な SSL/TLS の仕様では、サーバー証明書は、同じ IP アドレスにつき 1ドメインしか運用できません。

上記1と2の特徴を考えると、複数のドメイン名をホストするため、IP アドレスだけでは、ユーザーが到達しようとしているドメインを示すのに十分ではありません。

なぜなら、間違った SSL 証明書を表示する可能性があり、HTTPS 接続ができなかったり、または終了されたりしてしまうというケースが発生する訳です。

じゃあ SNI があると?

Server Name Indication(SNI)は、この問題を解決するために作られました。

SNI は、HTTPS で使用される TLS プロトコルの拡張機能として提供されています。

TLS/SSL ハンドシェークに含まれていて、クライアント PC が、到達しようとしている ウェブサイトの正しい SSL 証明書を確認することができるようにします。

Server Name Indication(SNI、サーバー ネーム インディケーション、サーバ名表示)は、SSL/TLSの拡張仕様の一つである。SSLハンドシェイク時にクライアントがアクセスしたいホスト名を伝えることで、サーバ側がグローバルIPごとではなくホスト名によって異なる証明書を使い分けることを可能にする。

ウィキペディア

SNI を利用すると、クライアント PC は SSL/TLS ハンドシェイクの際に「これから通信したいサーバのドメイン名」をサーバに通知します。ウェブサーバーは「どのドメインに対応するサーバ証明書を利用すべきか」を、判断することができるようになります。

これにより、接続したいウェブサービスに必要なサーバー証明書が入手できるという訳です。

SNI をサポートしてないウェブブラウザー

SNI はクライアント側(ブラウザー)で、この機能をサポートしていないといけない訳ですが、古いブラウザーですと SNI をサポートしていません。

  • Windows XP 以前の全ブラウザ
  • IE 6 以前
  • いわゆる「ガラケー」のブラウザ

まあ、こんな古い環境でインターネットのブラウジングをしている人もいないと思いますが。

SNI をサポートしているブラウザーの一覧はこちら

SNI をサポートしているウェブサーバー

  • Apache 2.2.12 以降 + mod_ssl もしくは mod_gnutls
  • Apache Traffic Server(英語版) 3.2.0 以降
  • Cherokee(英語版) (コンパイル時 TLS サポートを有効にした場合)
  • lighttpd 1.4.24 以降(それ以前の1.4.xはパッチ)
  • Nginx と OpenSSL
  • F5 ネットワークス Local Traffic Manager 11.1 およびそれ以降
  • Hiawtha(英語版) 8.6 またはそれ以降
  • IBM HTTP Server 9.0 およびそれ以降
  • LiteSpeed 4.1 およびそれ以降
  • Pound 2.6 以降
  • Apache Tomcat (Java 7 およびそれ以降)
  • Microsoft IIS 8
  • PageKite tunneling reverse proxy
  • Citrix NetScaler 9.3 以降
  • Radware Alteon ADC (AlteonOS 28.1 以降)

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2023年 娯楽 旅行 横浜 浜田省吾 白楽 神奈川 趣味 音楽

浜田省吾 – 聖地巡礼 MONEY 神奈川説の旅

最終更新日:2023年07月18日

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今回も、浜友のスィーさんと一緒に、聖地巡礼の旅に出ました。

白楽駅に着いたのは、昼の12時ちょうど。めっちゃ暑いです。

早速、白楽の六角橋商店街に向かいました。ここが、六角橋商店街のメインストリートです。つまり、「この町のメインストリートわずか数百」です!わずか数百メートルですね!!

六角橋商店街メインストリート
六角橋商店街メインストリート
六角橋商店街メインストリート

商店街の一本奥の細い道に入ると、小さめの店がいくつも並んでます。コロナの影響もあるのか、空いてない店も多いです。ここが「バーが5,6軒」でしょうか。

六角橋商店街
六角橋商店街
六角橋商店街

「寂れた映画館」も探してみましたが、現在は、映画館は無くなっているみたいです。昔は、六角橋商店街にも映画館があったそうです。寂れた映画館も見たかった。

あまりにも暑いし、お腹も空いたので、わずか数百メートルのメインストリートで見つけた六角橋ホルモンという店に入って焼き肉ランチしました。ここ、美味しいです。聖地巡礼で訪問する方にお勧めです。

その後は、浜田省吾が通ってた神奈川大学へ移動です。白楽駅から徒歩15分くらいです。

辿り着きました。

肩にセーターとおろしたてのバスケットシューズの大学です!

髪をひるがえし駆け上がる校舎です!!

神奈川大学現正門

神奈川大学って、初めて行きましたが、かなり敷地がデカいんですね。正門はどこだ?と探しながら、かなり歩きました。

ちなみに、浜田省吾が通っていたのは、法学部です。

途中で大学の敷地内を通り抜けられそうな道があり、警備員の方に通って良いか聞いたら、校舎に入らなければ OK とのことでしたので、敷地内も歩いてみました。

たどり着いた反対側が東門。大学の地図を見ると、東門を出て右に曲がり少し進むと正門とありました。

やっと正門に辿り着きました。ここがまさに、「遠くへー1973年・春・20才」とか「キャンパスの冬」の舞台です。

ここでも警備員の方に話しかけてみると、今度はやけに人懐っこい人で、「大好きな歌手がこの大学に通っていて見にきた」と伝えると、昔のことをいろいろ教えてくれました。

神奈川大学旧正門(現東門)

警備員の方に聞いてみると、校内には並木道と言えるところはないとのことでした。ということは、学校の外なのかも知れませんね。門の外のすぐとありには、並木道っぽいところはありました。この辺りを喜び勇んで歩いていたのでしょうか。

並木道っぽいところ 1
並木道っぽいところ 2

先ほどの東門から学校を見ると、どうもこっちが正門っぽいよなと思ってたのですが、やはり昔は、今の東門が正門だったとのことです。なるほど、ここを浜田省吾は歩いたんですね。

神奈川大学旧正門(現東門)

現在、3号館があるところは、昔は校舎がなく空き地になってたとのことです。そして旧正門のそば。ということは、恐らくこのあたりで、

「紺と銀色の盾の前で、空を仰いで祈り続けてた」

のかも知れません。

神奈川大学でも、1973年ごろは、学生運動が盛んだったみたいです。

神奈川大学3号館

浜田省吾が大学時代に下宿していた宿の写真も、インターネットで見つけていたのですが、白楽一帯から探し出すのはちょっと無理かなと思っていました。

入手していた古い写真(大学時代の下宿先)

東白楽駅から帰ろうと思い、今の正門から駅に向かって歩いていたら右手に、あれ?と思える建物を発見。細長い建物ですぐ横にコンクリートの階段。え、これって!と思い写真を見てみたら、正にその下宿先でした。

大学時代の下宿先(2023年7月16日撮影)

壁の色が変わっているので、気づいたのはラッキーでした。

一階に住んでいたのか、二階に住んでいたのか。

このアパートの部屋は、全部で4部屋です。これらのどこに住んでいたのかワクワクしながら、全ての部屋の扉を見てまわりました。

学校にも行かず、アルバイトしていた頃に作ったあの「二人の夏」は、この部屋で作ったのでしょうかね。

浜田省吾もここに立っていたのかなあ

今の正門から10メートルくらいしか離れていないところです。大学から、かなり近いところに住んでいたのですね。

神奈川に出てきてすぐは、お姉さんの家で居候していたそうです。その後、このアパートに住んだとのことです。

場所は変わって、白楽駅から2つ隣の駅、菊名です。

ここは、浜田省吾の奥さんであるカヨコさんと出会った場所です。

愛奴でドラムを叩いていた20歳頃、駅で傘がなくて困っている彼女に「入りませんか」と声を掛けたのがきっかけ。彼女は普段なら断っていたけど、たまたま風邪をひいて会社を早退していたため、「じゃ、お願いします」ってことになった。

浜田省吾辞典
菊名駅東口
菊名駅東口周辺

菊名駅は東口がメインなので、出会ったのも東口だとは思うのですが、念のために西口も見ておきました。

菊名駅西口

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2023年 ベトナム マフィア 東南アジア

ベトナムマフィア

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どの国にも悪い奴はいるように、近年日本に数多くやってくるようになったベトナム人も全てが、真面目で善良であるわけではない。

一部の不心得者がいて、グループで家畜窃盗をやったり、飲食店で集団乱闘したりするニュースが報道され、北関東では bộ đội(ボドイ、“部隊”の意)と呼ばれる犯罪集団が形成されているらしい。

家畜泥棒

そんな犯罪組織であるマフィアは、彼らの母国ベトナム社会主義共和国にも当然いる。

では、そんな本国のベトナムマフィアはどのようなものなのだろう。

チャイニーズマフィアなどと違って想像しにくいのではないだろうか?

そこで本ブログでは、日本で紹介されることの少ないベトナム本国のマフィアの実態について、ウィキペディアのベトナムの組織犯罪(ベトナム語版)を参考に取り上げて見たいと思う。

本稿が皆さんのご理解の一助になれば幸いである。

ベトナムの裏社会

ベトナムには「黒社会(Xã hội đen、サーフォイデン)」という言葉がある。

これは、おなじみ中国語における裏社会を指す言葉「黒社会(ヘイシャーホェイ)」と同じで 、文字通り犯罪者や犯罪組織で形成されるアンダーグラウンドな社会全体を指す語であり、元々は、1990年代に香港映画から入って来たのが定着し、現代ではメディアでも使われるようになった。

そしてベトナムの黒社会に棲息し、コソ泥から嘱託殺人まで非合法活動をする者たち「クマの頭(チンピラの意)」は、「兄弟姉妹たち」、「ナイフ」、「風来坊」などと多種多様な呼び名で呼ばれるが、やはり組織化されて一家を構えたマフィアが、その裏社会の生態系の頂点に君臨するのは、日本をはじめとした他国と事情は同じである。

そのベトナムのマフィアも当然構成員(dân xã hội đen)がいて、そのボスとして親分(Ông trùm)がおり、ボスの指令のもとで刃傷沙汰や銃撃事件、薬物や武器の密売、殺人、犯罪組織間の抗争を頻発させている。

カイン・チャン
男性の顔

自動的に生成された説明
フック・ボー

ごく最近では、カイン・チャンやフック・ボーの組織の悪名が最も高いが、アメリカのマフィアや南ベトナム時代に悪名を馳せたナム・カムやダイ・キャセイの組織ほどの危険性や組織力はなく、半グレの域を出ていないようだ。

組織に属する手下たちは普段、バイクタクシーや運送業というまっとうな仕事をしていることが多いが、その裏で闇金や性風俗、用心棒、麻薬売買、武器の密売、サッカー賭博などの違法性の高い商売に手を染めている。

それら構成員は男女混成であり、女親分も少なからず存在する。

そして、甘言に釣られて加入してしまう未成年の学生も後を絶たない。

彼らはシノギのために徒党を組んで一般人を脅したり危害を加えることもするが、法律では解決できない一般人のもめ事を有料で収めることもする。

かつて、日本のヤクザもやっていた民事介入暴力のようなこともしているのだ。

もっとも、そのやり方はしばしば流血を伴うものであり、個人間や組織間の紛争が大掛かりな乱闘や殺傷事件に発展することも少なくない。

また、国をまたいで犯罪を行う外国人のマフィアもいる。

韓国人のソン・ムン・グルはハノイとブンタウの外国人クラブの雇われオーナーであったが、増長して本国からゴロツキを呼び寄せて組織を作り、同国人の投資家からゆすりたかりを行っていた。

各地での犯罪行為

2008年の統計によると、分かっているだけで 313 団体のマフィア組織が活動中である。

それらの団体は、犯罪組織のご多分に漏れず勢力争いや縄張りをめぐる抗争もあり、合法非合法を問わず、あらゆる事業体からみかじめ料を取っている。

そして、ベトナム国内において南部カインホア省ニャチャン市は危険な街としてイメージが定着しているようで、そうなったのは2005年10月から2006年7月までグエン・ゴック・タイン・ハンに率いられた武闘派組織が大暴れしたからだ。

グエン・ゴック・タイン・ハン

このマフィアは殺傷事件を数多く起こし、特に同市のフン・ヴォン通りにあるマッサージ店に刃物や水中銃を持った数十人を暴れこませて従業員を追いかけ回し、店を破壊する大立ち回りを演じて有名になり、さらには、カインホア省の観光協会会長のボー・ディン・トゥー氏の殺害を5000万ドンの報酬で実行した事件をも起こしている。

それから後にもカインホア省のマフィア犯罪は猖獗を極め、警官射殺事件まで起こしたが、長いこと徹底した取り締まりが行われてこなかった。

中国との国境にほど近い北部クアンニン省でも、長年約100名の構成員を有するマフィアが君臨し、刃物まで使った暴行傷害事件や器物破損事件を起こして、現地の一般人を恐怖のどん底に叩き落としていた。

中央直轄市であるハイフォンのマフィアも危険なことで知られ、刃傷沙汰どころか銃撃事件が頻発している。

そして首都であるハノイにも、闇金や債権取り立てなどを主なシノギとするマフィアが存在し、彼らは近年、あろうことか強姦や売春をさせる目的で未成年を誘拐するようになっている。

仁義もへったくれもない連中だ。

しかし、手口が相当巧みなのか警察の怠慢なのか(あるいはビビっているのか)、その捜査はあまり進んではいないようだ。

こうして見てみると、ベトナムのマフィアは日本のヤクザほど大規模で組織化されてはいないが、犯罪行為の凶悪さが日本以上なのは間違いがない。

また取り締まる側の警察の取り締まりも十分とは言えないケースが多く、さらには、犯罪者と警察が癒着していることも考えられる。

ただ、現在のベトナムの治安の状況は1990年代や2010年代の中国の状況と似ており、中国においては、まがりにも社会が成熟して政府も取り締まりに本腰を入れるようになってから、かつてほど犯罪組織が公安と結託したりして大手を振って活動できなくなったようだ。

よって、ベトナムもこの治安対策において中国に学べば、大きな改善が見込めるのではないかとみられる。

出典元―Tội phạm có tổ chức tại Việt Nam(ウィキペディア)

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無自覚な男の身勝手な夢に奪われた児童六人の命 ~2011年・鹿沼市クレーン車暴走事故~

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この写真の男を見て、好印象を抱く人はどれだけいるのだろうか?

清潔感のかけらもなく、小汚くてむさくるしい顔のうえに、中途半端にイキったバカ面をしていると思ったのは拙ブログの著者だけではあるまい。

個人的には好きか嫌いのどちらでもなく、大嫌いな顔だ。

ただでさえムカつく面構えのこの男、名前を柴田将人という。

この醜悪で、カンに触る人相の持ち主の柴田だが、読者諸兄がこいつのやったことを知ったら、ぶん殴りたくなるはずである。

なぜなら、この野郎は少子高齢化が深刻な我が国において6人もの小学生の命を奪ったクソだからだ。

集団登校中に起きた大惨事

2011年4月18日午前7時40分、栃木県鹿沼市樅山町の国道263号沿いの歩道で、その悪夢のような事故は起こった。

歩道を集団登校していた市立北押原小学校の児童たちの列に、12トンの大型クレーン車が突っ込んだのだ。

新聞の記事

自動的に生成された説明

クレーン車は子供たちを巻き込んで歩道を突っ切り、その先の民家の作業小屋に突っ込んで停止。

巻き込まれた4年生から6年生までの5人の児童が即死、重傷を負って病院に搬送されていた6年生児童が同日午後に死亡したことにより、合計6人の死者を出す大惨事となった。

現場は、児童たちが通う北押原小学校から170メートルほどの場所であったため、通学路に立ってあいさつをしていた同小学校校長と登校していた多くの児童たちは、否応なくこの大惨劇の目撃者となる。

生き残った小学生たちは、悲鳴を上げて小学校に走り込むか、ショックのあまりその場で固まっていたという。

中には、突っ込まれた列にいながら運よく難を逃れたものの、目の前で自分の弟が命を落とす瞬間を目の当たりにしてしまった女児もいた。

年端もいかぬ子供たちにとっては、精神への負荷とその後の影響が大きすぎる衝撃である。

一体なぜこんな悲惨な事故が起きてしまったのだろうか?

それは、実に不可解な事故だった。

後に目撃者が語ったところ、クレーン車は当初児童が歩いていた歩道沿いの車線ではなく反対車線を走っていたのだが、突然大きく右へ曲がって子供たちの列の前方に突っ込んだらしい。

どんな運転ミスをしたらこんなことになるのだろう?

事故直後、小屋に突っ込んで停止したクレーン車の運転席から、張本人の運転手がフラフラ出てきて呆然としていた。

腹立たしいことに、無事だったようだ。

ほどなくしてこの大事故を起こした運転手は、現場に駆け付けた栃木県警に自動車運転過失傷害の容疑で現行犯逮捕された。

そう、この運転手こそが柴田将人なのだ。

そしてその後日、自動車運転過失致死傷容疑に切り替えられて取り調べを受けた柴田の供述と、その後の関係者の証言によって、ただでさえ取り返しがつかないこの大事故が、単なる不注意やミスなどではなく、柴田の日ごろの無自覚と無責任ぶりによって起こり、防ぐことができたものであることが明らかとなる。

運転してはいけなかった男

これは、事故の前年に鹿沼市の広報誌に掲載された柴田の記事である。

記事の中で柴田は、自分の仕事であるクレーンの操作技術の向上に日々邁進するさわやかな好青年として紹介されているが、6人もの児童の命を奪った事故を起こした後で見たらけったくそ悪いことこの上ない。

こいつがクレーン車に乗っていなかったら、事故は起こらなかったのだ。

そもそも、柴田はクレーン車のような大型車どころか、自動車そのものを運転してはいけなかったのである。

と言っても、普通車はもちろん大型特殊の免許まで持っているから無免許ではない。

免許は交付されていても、車を運転させるには、あまりにも危険な特性があったのである。

この事故を目撃していた人間は、クレーン車が小学生の列に突っ込んだ時、運転手はハンドルに突っ伏していたと証言しており、柴田も当初の取り調べでは、居眠りをしていたと供述していた。

さらに柴田は「ドン」とぶつかったのは覚えているが、人をはねたかどうかは覚えていないとも話し、ぼうぜんとした状態であったという。

だが、柴田の務める小太刀重機は現場から700メートルしか離れておらず、それだけの距離で居眠りをするのは不自然であり、何らかの持病があって発作を起こしたのではないかと見られていた。

ほどなくして、3年前の2008年4月9日にも、柴田は乗用車の運転中に小学生をはねて複雑骨折の重傷を負わせる事故を起こしていたことが判明する。

同年11月には、宇都宮地裁により自動車運転過失傷害罪で禁固1年4か月執行猶予4年の判決が下され、執行猶予中だった。

この事故でも、当時の柴田は居眠りをしていたと供述しており、事故後に病人のようにふらふらしていたとの目撃証言があったことから、発作によって意識を失ったのではないかと見られていたが、インフルエンザの影響などとも言い張って否定していた。

これはいよいよ単なる居眠りではなかった可能性が高まって調査を続けたところ、案の定柴田には持病があったことが分かる。

それはてんかんだ。

てんかんは、脳の神経細胞が無秩序に活動することによって発作が起こる慢性の病気であり、柴田は子供のころから、てんかん発作を起こして度々通院していたのである。

それも、意識を失うくらいだから症状が重い。

薬を飲めば、その発作をある程度抑えることができるのだが、事故当日に柴田はその薬を飲んでおらず、しかも前日は夜遅くまで携帯電話でゲームをしていたと供述。

柴田の自身の持病に向き合おうとしない無自覚さが、この大惨事の一因であったことが明らかになった。

さらに、免許の取得や更新時の記録などを調べたところ、より許しがたい事実が発覚する。

柴田は、義務付けられている持病の申告や診断書の申告をせず、持病を隠して免許を取得・更新していたのだ。

遺族の感情を逆なでするボンクラ親子

柴田が事故を起こしたことは、2008年と今回の大惨事以外にもあった。

何と免許を取得した2003年から、通算12回もの事故を起こしていたのである。

なおかつ、柴田を診断していた医師からは「大事故を起こす可能性がある」と、再三運転をやめるよう忠告されてもいた。

にもかかわらず、このバカは車に乗り続け、あまつさえ大型クレーン車を運転していたのだ。

正直に申告したら、クレーンどころか普通車の免許も取得もしくは更新できないと考えたらしいが、身勝手極まりなく、もはや未必の故意による殺人の一歩手前の犯罪者と言えるだろう。

そして、死亡した児童の親の目から見た公判中の柴田は、とても反省しているように見えなかった。

柴田将人

公判中に、幼い我が子を失った遺族の調書が読み上げられたり、モニターで事故現場が映されていてもヌボーとした様子であり、何より誠意が感じられなかったのは、事故から3か月後に6人の児童の遺族へ出した謝罪文が、全て同じ内容だったことである。

だいたい、当初の「人をはねたかどうかは覚えていない」という供述でもわかるとおり、事故現場からパトカーに乗せられた時に「オレ交通刑務所行くんですかね?」と警官に尋ねるなど、自分がどれだけ重大なことをやらかしたかについての自覚がなかったのだ。

「わざとやったわけじゃねえから、しかたねえだろう」とでも思っていたんだろうか?

そのくせ、同じく公判中において危険な持病を隠してまでクレーン車の運転を続けた理由を聞かれると、自分はクレーン車の運転手は天職だと考えていたと答えて、その魅力について目を輝かせてとうとうと語ったりするなど、あらゆる発言や態度に配慮や自責の念が感じられず、遺族の心情を逆なでした。

彼らは「おまえのその夢に、うちの子は殺されたんだ」と怒り狂ったはずだ。

自分の病気の精密検査の結果や服用する薬について、被害者側弁護士から聞かれても「よく分からないので、オカンに聞いてください」などと平然と答え、26歳にもなって同居する母親まかせだったようであるから、タチの悪いマザコンでもある。

そんな柴田は母子家庭であったのだが、母親もこのボンクラの親にふさわしいバカだった。

母親は、事故の二日後に息子の務めていた会社に『(息子の)持病、執行猶予中の身であることを隠したまま面接を受け働かせていただいておりました。たいへんなご迷惑をおかけしてしまいました、本当に申し訳ありません。一生をかけて償いたく思います』と、お詫びの手紙を出しているのだが、一番肝心なことをしていなかった。

そう、幼い我が子を失った遺族たちの方には、何ら謝罪していなかったのだ。

虫唾が走る母性愛である。

しかも遺族によると、彼らの前に一度も姿を現すことはなく、後の民事裁判にも出廷してこなかったという。

どうりで、柴田のような無責任な男が生まれるわけである。

そんなバカ母は柴田が幼いころ、てんかんの発作を時々起こす息子にいらだつ余り、せっかんを加えたこともあったようだが、反面で中途半端に甘やかしてもいたようだ。

おかげですっかりわがままになって、高校を中退するなど完全無欠なバカに成長した息子が、発作を起こして事故を起こすたびに車を買い与えたり、てんかんの薬を飲もうとしない柴田を注意することもしなかった。

クレーンの免許を取りに行く際には、試験場まで車で送迎しているし、2008年の事故では「てんかんの持病があるって言ったら殺すぞ」と息子にオラつかれて、警察に病気持ちではないとウソの証言をしていたのだ。

180cmという無意味にデカい体に育って暴君と化していた息子の言いなりになってしまっていたと弁護できなくもないが、事故の共犯とみなされても仕方がない。

当然その後、彼らは大きな代償を支払わされることになる。

後味が悪い結末

治療薬の服用を怠ったり、てんかんの症状があるのを隠してクレーン車を運転した挙句の重大事故であったことから、柴田には上限懲役20年の危険運転致死罪の適応が検討された。

同罪の対象は「故意」による無謀運転だったが、最終的に検察側は「故意」の立証を断念して上限7年の自動車運転過失致死罪の適応に留めてしまった。

宇都宮地裁は、2011年12月19日に自動車運転過失致死罪で柴田に懲役7年の実刑判決を言い渡し、翌年1月5日までに柴田が控訴しなかったために刑が確定する。

小学生6人の命を奪った割には、あまりに軽い制裁であった。

遺族はその後、防げたはずの事故であったとして柴田とその母親、勤めていた会社に対し3億7770万円の損害賠償を求めて宇都宮地裁に提訴。

2013年4月24日、宇都宮地裁は被告3者の責任を認めたが、命じられた賠償は合計して、たったの1億2500万円だった。

もっとも、成人である柴田の母親に対する内服管理責任を認めた点は特筆的であったが。

この事故は、そもそも柴田がてんかんの持病を有しているのにもかかわらず、それを申告せずに運転を続けた結果である。

遺族は同様の事態を防ぐべく、「持病を有し、それを申告せず免許を取得、更新した場合の事故」に、危険運転致死傷罪を適用すること、てんかん患者が病気を隠して不正に免許を取得できないようにすることを求める署名を、2012年4月9日法務省に提出した。

しかし、それから間もない4月12日、京都府祇園で同じくてんかんを申告せずに運転していた男の危険運転行為により、7人が死亡する事故が起きてしまう(運転手も死亡)。

京都祇園軽ワゴン車暴走事故

ようやく法律を見直す動きが加速し、2013年に「自動車運転処罰法」が成立し、てんかんや統合失調症といった一定の病気により「正常な運転に支障が生じるおそれがある状態」で自動車を運転し人を死傷させたケースを、危険運転致死傷罪の一種として規定。

死亡事故の場合は、15年以下の懲役を科せることになった。

だが、多くの人命を脅威にさらしていることを承知の上で、自分の権利をごり押しした無自覚なバカどもに奪われてしまった命は戻らない。

京都で7人を死なせた方のバカは、もうすでに地獄に落ちたからよしとして、柴田の方はもう刑期を終えてシャバに出てきているはずだ。

莫大な賠償金を課されてはいるが、身勝手な夢を見て6人の児童の命を奪った罪には到底及ばない。

まさか、今でものうのうと車を運転してはいまいな。

こんな奴には原チャリすら乗る資格はない、一生徒歩で移動してろ。

そして、人並の暮らしをする権利もない。

読者諸兄も柴田を見かけたら遠慮なく冷たい視線を、より願わくば、そのアホ面に鉄拳をお見舞いしていただきたい。

出典元―毎日新聞、朝日新聞、京都新聞、

『あの日 鹿沼児童6人クレーン車死亡事故 遺族の想い』

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