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2023年 おもしろ 平成 日本語 昭和 若者言葉

「超(チョー)…」はいつから使われ始めたか

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  • 「超ムカつく!」
  • 「超うれしい!」
  • 「超ウケる!」
  • 「超かわいい!」

程度が甚だしいことを表現する場合に、形容詞、はたまた動詞の頭に「超(チョー、チョウ)」をつけるようになって久しい。

当初は大人に眉をひそめさせる若者言葉だったが、それを常用していた者たちが中年以上になった現在も使っているから、もう正しい日本語にさえなりつつある。

だが、古式ゆかしき正統派の日本語ではないことは確かである。

昭和40年代くらい以前、「超」は現在のような使われ方をしていなかったはずで、比較的歴史が浅い日本語であることは間違いがない。

では、「超」はいったいいつから使われ始めたのだろうか?

80年代後半説

私の経験から、街中やテレビでよく耳にするようになったのは、90年代後半の96年くらいだったと記憶する。

使っていたのはもちろん若者だったが、大学生くらいの世代が使うことは少なく、高校生が口癖のように「超~~」を連発し、代表的な若者言葉とみなされるようになっていた。

だが、ネットなどで調べると、実は80年代の終わりから使われ始めるようになったという説が多い。

事実、ネットがなかった時代に、新語や専門用語を調べるために意識の高い社会人の多くが購入していた現代語事典『現代用語の基礎知識』(自由国民社)の1988年(昭和63年)版にも「超」とその用法が若者言葉として掲載されているが、それ以前には見当たらないという。

若者言葉を扱う書籍もこのころから「超」を載せているため、これらの事実からならだいたい1986年(昭和61年)くらいに発生したと推察できる。

しかし、私はそうは思わない。

1975年(昭和50年)岐阜県生まれの拙ブログの筆者が小学生だった昭和50年代後半、地元の小学校の複数の同級生が使っていたのを覚えているからだ。

昭和後半を生きた人々の証言

同級生が「超」を使っていたというのは、私の聞き違いの可能性もある。

あるいは岐阜県内の私の学校だけだったのかもしれない。

そこで私は、Facebook上で昭和を懐かしむグループの一つで以下のような投稿をし、昭和を生きた人々の証言を集めてみようと試みた。

テキスト

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意外と反応してくださる方が多く、以下のようなコメントが得られた。

グラフィカル ユーザー インターフェイス, テキスト, アプリケーション, チャットまたはテキスト メッセージ

自動的に生成された説明

何と複数の方が昭和50年代後半(1980年代前半)には、すでに耳にしていたか使っていたと証言しておられるのだ。

しかも東京のみならず宮崎や静岡、大阪でも使用されていたらしい。

私の投稿にコメントしてくれた方の証言を信じるならば、「超~」という言い方は、1986年(昭和61年)以前、それも1981年(昭和56年)には出現していたということになるであろう。

さらに、1998年NHK(週刊こどもニュース)スタッフが静岡県富士市で街頭取材をしたところ、30代前半の複数人が小中学生時代に使っていたと答えていたという。

1998年の時点で30代前半だったということは、1970年代から使われていたということである。

その証言が正しければ、すでに半世紀近い歴史を有した言い方ということだ。

その間に、どれだけの若者言葉がすたれて死語になっていったことだろう。

「超~」はその利便性と合理性、そして使い勝手の良さを、世代を超えて認められた言葉とみなしていいのではないだろうか。

言葉というものは、時代ごとに変わっていくものだ。

今、正しいと言われている日本語も百年前は異端だったり、乱れた言葉だとみなされていたものもあるのだ。

あと何十年かしたら、日本人は「超」を日常会話だけでなく商談のような堅苦しい公の場でもしたり顔で使っているかもしれない

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2023年 本当のこと 歴史 江戸 長寿

最後の江戸時代生まれ

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明治生まれが111歳以上となってしまった令和5年現在、それよりずっと前の江戸時代なんて完全無欠の大昔である。

だが、実は50年か60年くらい前の昭和の中頃まで江戸時代と現代はしっかりつながっていた。

健在だった江戸時代生まれが何人もいたからだ。

2023年現在、NHK「連続テレビ小説」で放映中の『らんまん』の主人公のモデルとなった植物学者・牧野富太郎はまだまだ江戸時代だった文久2年(1862年)の生まれだったが、昭和32年まで存命だった。

牧野富太郎

高度成長期の時代の日本の100歳オーバーの長寿者は皆江戸時代生まれで、その当時の病院の受付などで書かされる生年月日の記入欄には「昭和・大正・明治」の他に「慶応」があったり、あるいは「慶応」やそれ以前の元号を書く空欄があったという。

しかし、昭和40年代になって江戸時代生まれの高齢者が次々に鬼籍に入っていったことにより、江戸時代と現代のつながりは徐々に細くなってゆき、最後の一本となる時が来た。

そのラストワンとなった人物とは、河本にわという媼だ。

河本にわ媼

にわ媼は、1975年5月31日に梅田ミト媼が112歳で亡くなったことにより、その当時の長寿日本一かつ世界一の人物兼最後の江戸時代生まれとなった。

にわ媼はミト媼が生誕した約五か月後の文久3年8月5日(1863年9月17日)生まれ。

産声を上げた時、江戸幕府はまだ健在で将軍は徳川家茂、時代は幕末の動乱期に入っていた。

媼が物心ついて成長、20歳で結婚して三男五女をもうけて川魚の行商をしたりして生活に追われている間、世の中では大政奉還、戊辰戦争、廃藩置県、西南戦争、明治憲法制定、日清戦争、日露戦争、大正デモクラシーとエポックメイキングな出来事が目白押し。

太平洋戦争中の時点ですでに80歳代の高齢者になっており、それからも高度成長期という一大転換期を生き、孫が17人、ひ孫が38人、玄孫が25人いた。

晩年は持病のリュウマチがひどくなり、目も耳も不自由になって一人歩きできないほどであったが寝たきりというわけではなく、朝昼晩の食事は必ず摂り、好物はカレーと川魚。好き嫌いはほとんどなく、一日四本牛乳を飲んだ。

普段は先立った次男の嫁に面倒を見てもらっており、仏壇に手を合わせたり、好きな針仕事をするのを日課とし、近所に住む三男と四女の訪問を楽しみにしていた。

新聞の記事

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にわ媼と三男

このように安らかな晩年を送っていた媼のもとには、日本一の長寿者になってからマスコミが入れ代わり立ち代わり取材しに来ていたが、耳が不自由な本人に次男の嫁が耳に口を当てて聞いても、返答は歯がないためにモゴモゴと聞き取りづらく、なおかつトンチンカンなものが多かったらしい。

また、「あほうの長生きで…」が口ぐせだったという。

周りがチョンマゲ頭ばかりだった時代から外では車が走り回る時代までを生き、その生涯は明治維新からオイルショックまでをカバーするほどの長きにわたるが、あまりにも多くの激変を目の当たりにしすぎて「何をしてきたかおぼえていない」とも語っていた。

きっと人類が経験していい変化や出来事の数をもう超越していたのだろう。

理解しようと積極的に対応することなく、傍観するか流される態度に徹していたということのようである。

それこそが長生きの一番の秘訣だったのかもしれないが。

しかし、寄る年波にいつまでも勝ち続けることはできない。

次々やってくるマスコミの取材も体調不良を理由に断ることが多くなり、長寿日本一となった翌年の1976年(昭和51年)11月16日8時半、滋賀県高島郡の自宅で老衰のためにこの世を去った。

享年113歳。

非の打ちどころのないほどの大往生であり、天寿を見事に全うしたのだ。

同時に、この日は日本人が江戸時代とつながっていた最後の日となり、これ以降江戸時代は永遠に時代劇や歴史書の世界となった。

追記1:河本にわ媼の死去により、慶応元年生まれの泉重千代翁が日本一の長寿者であり最後の江戸時代生まれと当時みなされたが、その出生日や戸籍についての疑念はかねてより多く、実際は実年齢より15歳若かったという説が現在では有力である。拙ブログはこの説に従った。

追記2:この翌年の1977年(昭和52年)5月25日に108歳で死去した中山イサ媼は1868年8月3日(慶応4年6月15日)出生だが大政奉還後であり、拙ブログは大政奉還までを江戸時代とみなした。

出典元―朝日新聞、『現代の顔 : 湖国の100人』

(サンブライト出版部)、中日新聞、毎日新聞

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2023年 昭和 暴動 本当のこと 長野 高校野球

高校野球で暴動 ~1969年長野-丸子実業戦~

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1915年(大正15年)に始まり、すでに100年を超える歴史を有する高校野球。

それを統括する高野連(日本高等学校野球連盟)は、一貫して日常のちょっとした不祥事でも厳重に処分するという姿勢でもって運営してきたため、各校野球部内で体罰やしごきが横行していても、これまでどの試合も表向きは健全に行われてきたといえよう。

だが、その長い歴史の中でも最悪と言ってもいい騒動が起きた試合がある。

それは、1969年7月夏の全国高校野球長野大会で起こった。

1969年長野-丸子実業戦

1969年(昭和44年)7月25日、上田市営球場で行われた夏の全国高校野球長野大会の一回戦第二試合の長野高校-丸子実業高校戦は、前半から不穏な空気に包まれていた。

同日午後2時15分から始まったこの試合、四回裏の丸子実業の攻撃中に審判の判定を巡って、丸子実業を応援する三塁側スタンドの観客席から空き瓶が投げ込まれるなどの騒ぎがあり、一時試合が二十分間中断。

およそ高校野球に似つかわしくない危険なムードの中で試合は再開されたが、双方決め手を欠いて延長戦となった。

日も傾き始めた午後6時半ごろ、4-4の同点で迎えた十一回表の長野高校の攻撃で、すでに2アウトとなっていた長野高校の選手の打った球が三塁ベースをギリギリで抜いてファウルグランドに転がる。

きわどい当たりであったが、審判は「フェア」と判定。

長野高校に1点が入って、さらに2点目も追加して勝ち越した。

丸子実業側は「ファウル」だと抗議したのだが、判定が覆るはずはない。

合点のいかない判定によって勝ち越された丸子実業は納得できない様子だったが、選手や監督以上に納得していない者たちがいた。

またしても、丸子実業側スタンドに陣取る観客たちだ。

再びグランドにモノが投げ込まれ、数名がグランドに乱入する事態となって、この試合二回目の一時中断となった。

そして、丸子実業の選手たちも行動に出る。

試合再開後、再三けん制をしたり、選手がタイムをとってわざとらしく靴ひもを結びなおしたり、不自然な選手交代を行うようになったのだ。

どう見ても、試合の引き延ばしをしているとしか思えない行動である。

その狙いは、日没引き分けだろう。

試合は事実上の三度目の中断となった。

だが、この腹いせの姑息な作戦は大いに裏目に出る。

そして、空前絶後の大騒動をも招く。

没収試合、そして爆発

ゲ-ムが遅々として進まなくなった事態を前に、審判団と長野県高野連は協議を始めた。

露骨な遅延行為であり、このような行為を許すわけにはいかない。

午後6時45分、審判団はきつい判定を下した。

それは没収試合。

没収試合とは、試合において一方のチ-ムの行為が原因で試合の開始又は続行が困難となった場合に、原因となった側のチ-ムを強制的に敗戦扱いとする判定である。

ここで原因となったチ-ムとは、もちろん丸子実業だ。

試合は9-0で長野高校の勝ちとされた。

だが、この毅然とした判定はすでに一万人になっていた観客、特に丸子実業を応援していた数千人もの観客たちに対してはあまりにも危険なものとなる。

彼らの一部は、すでに二度にわたってモノを投げ込むなどエキサイトしていたのだ。

判定がアナウンスされるや、これらの観客は総立ちとなって口々に怒りの声を上げ始め、例のごとく、グラウンドにモノを投げ始めたのだが、今度のはそれではすまない。

投げる標的は審判団であり、先ほどより多くの観客がグランドになだれ込み始め、球場内に引かれている電話線を引きちぎり始めた。

さらには誰かが放火したらしく、丸子実業側の観客席に火の手が上がる。

ちなみに暴れているのは丸子実業の生徒ではなく、大人の一般人だから始末が悪い。

まだ娯楽の少ないこの時代、プロ野球を生で見る機会のめったにないこの地方の大人たちは、高校野球でも見ごたえのあるものだったらしく、それぞれ在校生でもないのに、ひいきのチームを応援しに来ていたようだ。

そして、選手や応援する生徒よりエキサイトしてしまったのである。

なだれこんだ観客がグランド内の設備を壊し、観客席まで燃え始めた上田市営球場は、高校野球の試合会場とは思えない修羅場となってしまった。

完全無欠の暴動である。

新聞の一部の白黒写真

中程度の精度で自動的に生成された説明

通報を受けて、鎮圧のために上田署から警官約100人が出動。

暴れた観客2名が逮捕されるなどして沈静化させ、8時半には、ようやく騒動はおさまった。

その後

高校野球の試合において現代までグランドに観客が乱入したり、モノが投げ込まれる事態はあったようだが、この規模のものはさすがにない。

勝ったとはいえ、試合をめちゃくちゃにされた長野高校の監督は、「ウチの選手も丸子実業の選手もかわいそうだ。これは大人の横暴だし、そもそも大会の運営にも問題があるだろう」と話していた。

一方の丸子実業の監督は、「没収試合にされたのは実に乱暴だ」と没収試合にされたことに納得していなかった。

主催者である県高野連の運営のまずさを非難する声も世間では多かったようだが、こんな騒動を起こした責任は取らせなければならない。

その矛先は丸子実業に向かった。

同校の野球部は暴動の一因を作ったとして謹慎していたが、高野連は対外試合を2年間停止するという重い処分を下す。

もっとも、11か月後にはこの処分は解除されている。

そして、試合当日に応援に繰り出していた丸子実業野球部の後援会は、責任を取って自主的に解散した。

暴れたのは大部分が大人であって高校生たちではなかったのだが、やはり原因を作ったことには変わりがないとみなされていたようだ。

いずれにせよ、令和の現代では考えられない事件である。

しかし、この時代は学生運動なども盛り上がりを見せて、機動隊が出動する事態に発展することも珍しくはなかったのだから、当時の日本人は令和のすっかり軟弱になった我々より、総じて血の気が多かったことは間違いない。

出典元―信濃毎日新聞、朝日新聞、毎日新聞

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2023年 イラク 戦争もの 本当のこと 歴史

21世紀の銃剣突撃 ~2004年イラク戦争・ダニーボーイの戦い~

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白兵戦とは本来、敵味方の兵士が入り乱れての白刃による近接戦闘を指す。

白兵戦は古代や中世は言うにおよばず、遠距離からの攻撃が可能な火器が登場してからも行われ、近世に至ってほぼすべての兵士に火器が行き渡ると、それに銃剣を着剣しての白兵戦が主流となり、第一次世界大戦まで重要な戦法であり続けた。

自動火器が発達してからも完全に消滅することはなく、第二次世界大戦はもちろん、その後の朝鮮戦争やベトナム戦争でも敵味方が近距離で遭遇した際には、白兵戦が発生していたという。

それ以後、より兵器が高度になった1982年のフォークランド紛争や精密誘導爆弾やステルス戦闘機などのハイテク兵器の独壇場になった1991年の湾岸戦争においても、銃剣を使った白兵戦が完全に消滅したわけではなかった。

だが、ステルス機や精密誘導爆弾などのハイテク兵器が登場して久しく、IT化も進んですでに敵の姿すら見ることがなくなったと言われるようになっていた21世紀の戦場ではどうだろうか?

さすがに、もう発生することはないだろう。

いや、実はそうではなかった。

2004年、中東・イラクのバスラでそれは起こった。

しかも、古式ゆかしき銃剣を着剣しての突撃で、それを行ったのは世界屈指の軍事大国・英国の部隊なのだ。

待ち伏せに遭った英軍

2003年3月20日に米英を中心とする有志連合によって、イラクによる大量破壊兵器保持における武装解除進展義務違反を理由とした『イラクの自由作戦』の名の下で行われたイラク戦争。

イラク正規軍との戦闘は、ほぼ一方的な展開となってイラクの独裁者サダム・フセイン率いるバアス党政権は崩壊、2003年5月1日に戦争に踏み切ったジョージ・W・ブッシュ米大統領によって「大規模戦闘終結宣言」が出たが、米国が指摘した大量破壊兵器の発見には至らず、さらにイラク国内の治安が悪化して戦闘は続行していた。

そんなイラク戦争二年目の2004年5月21日、有志連合の一角であった英軍の第16空中強襲旅団戦闘団(当時はアーガイル・アンド・サザーランド・ハイランダーズ)所属の兵士20名は、任務交代の命令を受けて、ダニーボーイと呼ばれた検問所へ向かっていた。

ダニーボーイは、イラク南部で最大の都市であるバスラに近い地点にある。

このころイラク北部では、米英軍に対する抵抗が活発化して極端に危険になっていた時期であったが、北部は前政権のバアス党に優遇されていたスンニ派の地域だ。

バスラを含めた南部はバアス党に虐げられてきたシーア派住民居住区であり、駐留する米英軍に攻撃を加えてくることはあっても大規模な衝突となったことはなかった。

また、この時点のイラク南部では後に米英軍相手に猛威を振るうことになるIED(路肩爆弾)による被害が発生しておらず、英軍兵士は危険な任務ととらえてもいなかったようである。

よって、英軍はあえて重装備の部隊を派遣せず、非装甲の軍用トラックで兵員を派遣していた。

だが、分隊がバスラまで約55マイルの地点まで来た時に、それが間違いであったことを思い知ることになる。

その場所は郊外の集落で、道路沿いには、まばらなに建物があったのだが、その後ろから人影が見えたかと思うと突然激しい銃撃を加えてきたのだ。

イラクに駐留している全ての外国軍の排除を目的としたシーア派武装組織マフディ軍である。

マフディ軍は、これまでも攻撃を加えてきたことはあったが、今回ほど激しいものは初めてであり、人数も優勢だ。

マフディ軍

英軍にとって完全な不意打ちとなったが、彼らは世界に冠たる英軍の第16空中強襲旅団戦闘団の精鋭たち。

指揮官の的確な支持の下、瞬時に反応する。

車両は銃撃を加えられながらも路肩に停止し、兵士たちは次々に下車して、路肩の縁石などを遮蔽物に反撃を開始した。

マフディ軍には数的優位があったが、指揮官や個々の民兵の練度は、英軍に遠く及ばなかったようである。

多数の敵から先制攻撃を受けたにもかかわらず、この時点で英軍側に死傷者は出ていなかったのだ。

もし、この時マフディ軍の中に有能な指揮官がいたら、手際よく英軍を包囲して殲滅に成功していたことだろう。

 2003年のイラク戦争の戦闘終結宣言以来、英軍はバスラに駐留。

誤射による死傷者を減らし、地元のシーア派イスラム教徒の支持と好感を勝ち取るために、イラクの英軍は厳格な交戦規則を設定、直接攻撃を受けた場合のみ反撃を許可していた。現在のこの状況は、明らかに反撃が許されるものである。

英軍指揮官は保有する全ての火器の使用を許可し、射撃の精度の高さもあって、交戦開始から十数分後には一時的にマフディ軍を圧倒し始めた。

数的優位があるにも関わらず、劣勢に立ったマフディ軍は態勢を立て直そうと銃撃を止め、街中へ向けて加勢を求める呼びかけを始める。

だが、これは著しく軍事リテラシーを欠いた行動であった。

なぜなら、その呼びかけは英軍にも聞こえており、自軍の状況を敵軍に知らせているに等しい行為だからだ。

しかも、英軍は現地語のわかるガイドを同行させていたために、マフディ軍の状況は筒抜けだった。

もっとも、英軍にとって不利な状況がさらに悪化しつつあることに変わりはなく、守りを固めながら一番近い友軍に無線で救援を呼びかける。

膠着状態が続いていたが、時間の経過によって事態はより悪化した。

弾薬が底を突き始めていたうえに、マフディ軍側に新手のシーア派民兵数十人が加わり、道路に沿って展開、総兵力が100人を超えたのだ。

一方の英軍は20名のままであり、敵軍の助っ人が到着するまでの間に、簡単な塹壕を掘っていたものの、数的劣勢はより深刻になって孤立した形となっていた。

道路を挟んで対峙するマフディ軍は、じりじりと包囲網を形成。

しかも、今度はRPGロケット砲や迫撃砲まで持って来ており、その増強した火力で英軍を殲滅しようとしているのは明らかであった。

危機的な状況に陥った英軍だったが、指揮官は分隊を二手に分け、一方に現在の拠点を死守させ、もう一方に相手側に攻撃を加えさせてかく乱する戦法に打って出る。

そして、救援要請に一番近くをパトロールしていたブライアン・ウッド軍曹指揮下の英軍プリンセス・オブ・ウェールズ・ロイヤル連隊の一個分隊が応えて到着。

彼我の戦力差は4対1に縮まったが、劣勢なのは変わらない。

ブライアン・ウッド軍曹

双方とも銃撃戦を展開しつつも、マフディ軍は練度の高い英軍を警戒し、英軍はマフディ軍の数的優勢を警戒して、積極的な攻勢に打って出ることはしなかったために再び膠着状態になったが、英軍側の弾薬は確実に欠乏し始めていった。

着剣!突撃!!

プリンセス・オブ・ウェールズ・ロイヤル連隊

30分間銃撃戦が続いた頃には英軍の弾薬はほぼ枯渇、時間の経過とともに、形勢は絶望的になりつつあった。

こののっぴきならぬ状況の前に、救援に駆け付けて孤立した英軍部隊を指揮することになったブライアン・ウッド軍曹は、捨て身の戦法を決断する。

それは、残りの銃弾を発砲しながら、銃剣を使った突撃を行うことだ。

だが、いくら弾薬がなくなったからとはいえ、これは危険というより自殺行為に等しい決定だった。

なぜなら、自軍の今いる拠点からマフディ―軍が陣取る場所まで180メートルほどしかなく、その間に遮蔽物はなかったために、恰好の標的になる危険があったのだ。

しかも相手の兵力は四倍である。

下手すれば、日本軍の米軍相手のバンザイ突撃のような結果になることは必至だったのだ。

しかしこの捨て鉢とも思えた戦法は、予期せぬ効果があった。

英軍の精鋭が発砲を続けるマフディ軍側に殺到すると、シーア派民兵たちは意表を突かれて浮足立ち始めたのだ。

マフディ―軍のシーア派民兵は、数も多くて火力に勝ってはいたが、しょせんは素人の烏合の衆。

やたらめったら撃つだけで効果的な火力網を敷くことができずに、英兵の突破を許して至近距離まで接近されるや、鬼気迫る気迫で突進してくる英軍を前に、戦意を喪失して算を乱して逃亡し始めたのである。

後方の民兵は、次から次へこちらに逃げてくる味方に当たるかもしれないので、発砲し続けるわけにもいかない。

しかも、英兵は心技体共に鍛え抜かれた練兵ぞろいで、徒手格闘や銃剣術にも長けていた。

よしんば立ち向かってくる民兵がいても、格闘術を知らない相手だから、赤子の手をひねるように確実に仕留めてゆく。

後の英軍の作戦報告書によると、多くのシーア派民兵は米英軍の兵士は、ハイテク兵器と火力に依存して白兵戦を行う勇気はないと思い込まされていた可能性があり、弾薬が尽きて降伏すると思っていたら、まさか銃剣突撃をしてくるとは思っていなかったらしいと分析されている。

おまけに、民兵たちは訓練も実戦経験も欠いていたアマチュアで、いざ世界に冠たる英軍精鋭の気迫あふれる突進を前に、戦意を喪失してしまったらしい。

 この戦闘で英軍は3名が負傷しただけで戦死者はなく、マフディ軍は20名が死亡して28~35名が負傷。

劣勢を見事に挽回した英軍の圧勝であった。

その後、この戦闘を指揮したブライアン・ウッド軍曹は、戦功十字章を授与されている。

英軍にとって、白兵戦は1982年のフォークランド戦争以来のものであったが、現在でも軍に制式採用されているアサルトライフルであるL85には銃剣を取り付けることができるし、銃剣での訓練も欠かしていなかったのだ。

L85

ちなみに、それから十数年後の2017年7月1日にも、英軍は白兵戦を展開している。

イラク北部のモスルで情報収集活動から帰還していた英陸軍特殊部隊SASが、イスラム国(IS)の武装集団50名に襲撃され、弾薬が尽きるまで抵抗した後に白兵戦を挑んだのだ。

世界最高レベルの戦闘集団であるSASの精鋭たちであるから格闘術も一流で、イスラム国の戦闘員を30名以上殺害して蹴散らすことに成功している。

いくら兵器のハイテク化、IT化、無人化が進んでも、最後にモノをいうのは、個々の兵士の訓練と戦意だったと言えるだろう。

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