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90年代 MMA ファイターのベンチマーク? ポール・ヴァレランス

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90年代に総合格闘技、それも始まったばかりだった UFC やバーリトゥードルールの試合が好きだった方ならば、ポール・ヴァレランス(Paul Varelans)というファイターを覚えておられる方も多いのではないだろうか。

ポール・ヴァレランスは、1969年アメリカ合衆国カリフォルニア州サニーベール生まれ。高校時代にレスリング、大学時代はフットボールの選手として鳴らした身長 203cm 体重 140kg という恵まれ過ぎなほどの体格の持ち主であり、中国武術をベースに、レスリングやムエタイを組み合わせた「トラップファイティング」という格闘技をバックボーンとするファイターとして 1995年の UFC6 でデビューし、その後の UFC 7、8 、Ultimate Ultimate ’96 にも出場して、UFC7 では準優勝したこともある MMA 創世記のファイターだ。

1996年に有明コロシアムで開かれた『THE U-JAPAN』にも来日し、日本の総合格闘家・片瀬慎治を 30秒余りで秒殺している。

片瀬慎治を秒殺するヴァレランス

その巨体から「ポーラーベア(北極熊)」とも呼ばれていたが、そのファイトスタイルも北極熊そのもので、テクニックよりも体格にモノをいわせて、相手を力技でねじ伏せる試合運びが多かった。

人, スポーツ, 男, 持つ が含まれている画像

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二流選手は体格で圧倒
人, フェンス, 持つ, 男 が含まれている画像

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二流選手は体格で圧倒

MMA での対戦成績は 18戦9勝9敗と微妙で、負けた相手としては、タンク・アボット、マルコ・ファス、ダン・スバーン、イゴール・ボブチャンチン、キモ・レオポルド、マーク・ケアー、カーロス・バヘットなどが含まれる。

屋内, 猫, 座る, ぬいぐるみ が含まれている画像

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タンク・アボット、イゴール・ボブチャンチンに敗れるヴァレランス
屋内, 座る, スポーツゲーム, 男 が含まれている画像

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タンク・アボット、イゴール・ボブチャンチンに敗れるヴァレランス

彼らは 90年代 MMA におけるトップファイターであり、200cm オーバーの巨体から繰り出されるパワーも、これら一流どころ相手には通用しなかったようだ。

返り討ちにされてリングに崩れ落ち、小よく大を制した形となった対戦相手を引き立ててしまう姿がよく目立った。

人, 屋内, 座る, テーブル が含まれている画像

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ポール・ヴァレランスに勝てるか否かが、一流かそうでないかの指標と言えたのかもしれない。

あるいは、この巨人とどう勝負したかもファイターとしての資質を問う基準となっていた面もあるようだ。

UFC6 一回戦でヴァレランスと対戦したカル・ウォーシャムは敗れたとはいえ、178cm 105kg と体格では圧倒的に劣りながら堂々殴り合いを挑んで、途中まで対等に戦ってヴァレランスを流血させるなど健闘。

カル・ウォーシャム
スポーツ, 裁判所, 男, 再生 が含まれている画像

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カル・ウォーシャム

そのためか UFC からすぐさまリリースされることなく UFC9、Ultimate Ultimate ’96 に出場し、MMA ファイターとしての通算対戦成績も16戦10勝6敗と、そこそこの活躍をしているのだ。

そういったベンチマークという意味でヴァレランスは存在感のある選手であったと言えよう。

ポール・ヴァレランスは UFC の他に、キエフで開かれた『IFC COMBAT』、ブラジルの『W.V.C.3』などの MMA の大会にも出場し、日本においては『THE U-JAPAN』以外にも、パンクラスやキングダムといった団体でも試合を行い、1998年2月にオランダで開かれた『リングス・オランダ大会』でリングスの名選手だったディック・フライを KO してから、公の試合に出ることはなくなった。

スポーツ, 人, ラケット, 裁判所 が含まれている画像

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ディック・フライを KO

試合に出場しなくなった彼は、その圧倒的な体格を生かしてクラブなどのバウンサー(警備員)を主に務めながら、MMA の大会の役員として働いていたという。

だが 2020年12月、ヴァレランスは再び戦いの場に引き戻されることになる。

相手は、彼の人生において最強最悪の敵、新型コロナウイルスだ。

ヴァレランスはフェイスブックをやっていたのだが、同年 12月10日に体調を悪化させて「人生で、こんなに気分が悪くなったのは初めてだ。今日は検査を受ける」と投稿。

12月12日に陽性と判断されて、アトランタのミッドタウンにあるエモリー大学病院に入院。

「地獄のような気分だ」と述べた翌 13日には「新型コロナの感覚をたとえるなら、腎臓へのパンチを得意技とする相手と戦っているようなものだ」と投稿したのを最後に、フェイスブックで彼のコメントは見られなくなる。

それから、症状は人工呼吸器をつけなければならないほど悪化し、昏睡状態にまでなってしまったヴァレランスは、一か月の闘病生活を経た翌年 2021年1月16日、帰らぬ人となった。

享年 51歳。

彼の人並外れたパワーをもってしても、新型コロナウイルスには勝てなかったのだ。

ヴァレランスは、並外れた体格に現役時代の荒々しい面構えと力任せのファイトスタイルから、気性の激しい荒くれ者と思われがちだったが、実際は体の大きさと同じく心が広くて温厚な人物であり、彼と接した人物は皆、その誠実な人柄に好感を持っていた。

そんなヴァレランスの早すぎる死を身近な者たちはもちろん、UFC で彼と親交のあった関係者誰もが悲しみ、その死を悼んだという。

出典元―ESPN、MMA Junkie、Wikipedia

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昭和の超戦闘的暴力団抗争 ~1964年・第一次松山抗争~

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1964年(昭和39年)ごろの日本は、社会全体に活気があった。

高度経済成長の真っただ中だったし、この年の10月には東京オリンピックを控えており、三種の神器と呼ばれたテレビ・冷蔵庫・洗濯機が全国の家庭に普及して、生活が目に見えて便利になっていくのを体感できるなど、現在も未来も明るかった時代だ。

当然、日本企業も一般庶民も元気だったわけだが、そうであってはまずい人たちも元気だった。

すなわち、反社会勢力、暴力団のことである。

その中でも最も威勢が良かった組織の一つが、ご存じ現在も神戸市に本拠を置く山口組であり、すでに西日本を中心に日本全国へ地元組織を屈服させながら、勢力を拡大中であった。

そして、その魔の手は四国の愛媛県松山市にも伸ばされ、同市を仕切ってきた地元暴力団の郷田会と対立。

1964年6月には、その対立がエスカレートして、現在なお語り草となっているパワフルな抗争が勃発した。

当時のサンデー毎日が報じた暴力団事情

抗争の発端

もめごとのきっかけは1964年4月2日、三代目山口組(田岡一雄組長)の直参である矢嶋長次(28歳)率いる矢嶋組が、愛媛県松山市大手町の大陸ビルの一部屋を「八木保」という人物の名義で借りたことから始まる。

矢嶋組は、電通局の下請業者として協同電設株式会社を設立し、電気工事事業を始めようとしたのだ。

だが松山市内の同事業は、それまで地元暴力団である郷田会が牛耳っていたために、山口組二次団体である矢嶋組の参入は、同会にとって縄張り荒らしも同然の行為であって面白いわけはなく、軋轢が生じ始めていた。

ちなみに郷田会は、関西を舞台として、当時まだ山口組と対等に張り合うことができた広域暴力団・本多会の二次団体である。

巨大組織をバックにする両者が衝突する事態になったのは、矢嶋組が協同電設株式会社を設立した2か月後の6月。

6月2日に、矢嶋組は再び「八木保」の名義で東雲ビルと入居契約をし、同3階を借りて事務所としたのだが、この東雲ビルこそが、その後の銃撃戦の舞台となる。

そして、三日後の6月5日に最初の事件が起きた。

同日の夜11時ごろ松山市内のバーで矢嶋組組員・末崎康雄(30歳)とその舎弟の門田晃(19歳)が酒を飲んでいたのだが、そのバーのママは矢嶋組と一瞬即発になっていた郷田会の会長と関係の深い女。

郷田会の息がかかっていることを自認するママは、敵対組織の手下が自分の店に来たことを訝って「矢嶋組の若いモンが来とる」と郷田会の事務所に連絡、いきり立った郷田会の組員・野中義人(20歳)ら数人がバーに殺到した。

肩を怒らせてバーにやって来た野中たちは、末崎ら二人を見るなり怒り狂った。

末崎たちは、ついこないだまで自分たちの郷田会事務所に出入りしていたチンピラであり、ゆくゆくは、こちらの身内となるはずだったのに、敵である矢嶋組のバッチをつけていたからだ。

「こん裏切りモンが!」

郷田会のヤクザたちは、末崎と門田を拉致。

末崎は逃げたが、取り残された門田は、さんざん暴行を加えられて拳銃で銃撃までされてしまった(拳銃が粗悪な模造銃だったためにさほど威力はなかった)。

翌6月6日、矢嶋組の側は一応この件について市内の喫茶店で郷田会幹部と話し合ったが、「ウチの若いモンやった奴出せや」だの強硬だったために、物別れに終わる。

すでに矢嶋組の方では、組員一同昨晩の事件について話し合った結果、「ウチにケンカを売っている」ということで、意見が一致していたのだ。

ヤクザ者同士が話し合いで決着しないなら、どう決着をつければよいかは決まっている。

同日のうちに、矢嶋組組長の矢嶋長次は戦争の準備を命じ、事務所となっている東雲ビル3階に、きっかけを作った末崎をはじめ銃器を持った組員たちを待機させた。

白昼の銃撃戦&籠城戦

6月7日(日曜日)午前10時、矢嶋組が早速行動を開始する。

末崎ら矢嶋組組員数人は東雲ビルを出て、郷田会傘下組織の岡本組の組員・阿部公孝(20歳)を阿部の自宅の付近で、拳銃を突きつけて拉致、東雲ビル3階に監禁したのだ。

そして午前11時、岡本組・岡本雅博(29歳)組長に電話をかけて、「テメーんとこの若いモン預かっとるから受け取りに来んかい」と挑発し、これを受けた岡本組組員・金昌二(22歳)や野中義人はじめ4人が、自動車2台に分乗して東雲ビルに急行する。

言うまでもなく、金たちは猟銃や拳銃などの道具持参だった。

午前11時50分頃、東雲ビルの近くまで来た岡本組組員の乗る車2台は、通りを歩いていた矢嶋組組員であるくだんの末崎ら2名と出くわす。

末崎たちは拳銃を持っていたが、分が悪いと見て逃走、発砲しながら追ってくる乗用車2台に応射しながら、東雲ビルに向かって走っていく。

この際に、末崎が猟銃の散弾を受けて負傷したものの、2人とも東雲ビルに逃げ込むことに成功した。

ダイアグラム

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ビル内の矢嶋組事務所には末崎含め同組員が8人おり、岡本組の車2台が東雲ビル前の路上に到着するや、3階の窓から数人が車2台にめがけて、拳銃や猟銃、ライフルを発砲、岡本組組員の野中と金、もう一人の未成年組員(19歳)が被弾する。

岡本組の組員たちも車を盾に応戦し、白昼堂々の銃撃戦が始まった。

あさま山荘や少年ライフル魔の事件のように犯人の側がほぼ一方的に銃撃するものではなく、銃器を持った双方が互いを狙って複数発撃ち合う正真正銘の銃撃戦である。

銃撃する矢嶋組組員

これら一連の銃撃戦は市内の公衆の面前で行われたために、管轄の松山東警察署には110番通報が殺到、12時5分頃には、通報を受けた同署の捜査員6名が防弾チョッキ着用で東雲ビル前に急行したが、この人数で足りるわけがない。

とは言え、警官の出現はすで3人が負傷している岡本組組員たちには効果があったようで、4人は車に乗って逃走した。

彼らはその後、犯行に使った銃器持参で警察署に出頭している。

だが、問題は東雲ビルにいる矢嶋組の組員たち8人である。

彼らは、そのまま銃器を持って籠城を続けていたのだ。

中には、人質にされた岡本組の阿部もいる。

フェンスの前にいる男性の白黒写真

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午後1時頃までに、非常招集に応じた松山東警察署員が現場に到着し、東雲ビルの周りの交通を遮断、最終的には各警察署から応援で駆け付けた約250名の警官隊が包囲。

また、この日は日曜日であったこともあって、現場には野次馬が約千人も集まってきた。

警察は、籠城する組員たちに投降を呼びかけたが、全く応じる気配がないどころか、それに威嚇射撃で答え、その銃口を警官隊の次にうっとうしい野次馬たちにも向けて「撃ったろか、素人ども!」と吠える始末。

午後2時半に、最初の銃撃戦で被弾した矢嶋組組員の末崎が人質の阿部を連れた上にライフルと猟銃、拳銃を持って投降したが、残る7人は時々威嚇の発砲をしながら立てこもり続けた。

その後、説得を続ける警官隊に対し、籠城する矢嶋組組員の一人である片岡正郎(23歳)が「午後4時までに全員降りてくる」と答えはしたが、午後4時を過ぎても投降してくる気配はない。

警察の側にも、強硬手段を講じる時が来た。

警官隊は予告の上、東雲ビルの3階の窓へ催涙弾2発を撃ち込んで20名で突入。

乱闘の末、矢嶋組組員7人全員を逮捕した。

矢嶋組のヤクザたちは銃器こそ持っていたが、それを使うことなく拳で抵抗したらしい。

この突入で警官2人が負傷、その腹いせか、組員たちは警官に殴られながら連行されていった。

本を持っている人の白黒写真

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その後

この銃撃戦で岡本組側から3人、矢嶋組から1人の負傷者を出したが死者はなく、突入の際に警官二人が軽傷を負った以外に、野次馬にもけが人はなかった。

しかし、この事件は社会と愛媛県警に重大なインパクトを与えることになる。

白昼堂々の市内での銃撃戦は、やはりやりすぎだ。

事態を重く見た愛媛県警によって、矢嶋組は組長の矢嶋長次はじめ組員のほぼ全員が逮捕され、郷田会は組長の郷田昇含む41人の逮捕者を出して、多数の銃器と弾薬が押収された。

カレンダー が含まれている画像

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また、かように大それた出入りを起こした矢嶋組は組員数が20人ほどで、もう一方の郷田会は、その下部団体全員を含めても50名に満たないくらいだったと言われているから、さほど大きな組織同士の抗争というわけではない。

だが、それぞれの上部団体は各地に系列団体を有する巨大組織の山口組と本多会。

両団体は後日、系列の組から松山に、それぞれ応援の組員を派遣してきた。

その内訳は、山口組が101人、本多会が44人であったが、これを予想していた愛媛県警の検問によって、両団体の応援は阻止されて抗争の拡大は防がれた。

後に、第一次松山抗争と呼ばれたこの衝突は、松山刑務所の拘置所に収容された双方の組長である矢嶋と郷田が五分の手打ちをしたために終結したが、両組織とその後ろ盾だった組織の明暗は、はっきり分かれていくことになる。

矢嶋組は、組長の矢嶋長次が、後に懲役7年の判決を受けて服役することになるが、六代目山口組の二次団体として令和の現在も存続。

一方の郷田会は、郷田昇が実業家に転身したために1964年のうちに解散し、郷田会のバックだった本多会も、翌年1965年に解散して大日本平和会と名を変え、右翼団体として活動を続けたが勢力を縮小させ、1997年をもって解散した。

ちなみに、この抗争によってあまりにも多くの暴力団組員が拘置された松山刑務所では、1人の看守が買収されたことをきっかけに、ここの職員はチョロいと判断した組員たちが増長。

飲酒、喫煙、賭博など、やりたい放題した挙句に看守を脅してカギを奪い取って我が物顔で刑務所内を自由に歩き回り、女囚が収容されている女区に入り込んで強姦まで行った「松山刑務所事件」が起きた。

壁に貼られたポスター

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出典元―愛媛新聞、朝日新聞、読売新聞、サンデー毎日

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1982年・女子高生監禁暴行事件

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女子高生を監禁した事件と言えば1989年に発覚した東京都足立区綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人が悪名高いが、同じような悪さをする奴はこの事件の前後にも時々現れている。

この1982年(昭和57年)8月25日に発覚したこの事件では、被害に遭った女子高生は幸いにも殺されることはなかったが、犯人の非行少年少女グループの極悪ぶりは、かなりのものであった。

ガードが甘すぎる家出少女

学校が夏休みに入った1982年7月20日、神奈川県逗子市に住む私立高校一年生の米山成美(仮名・15歳)が家出した。

何が原因かは報道されていないが、黙って家を飛び出た成美が向かった先は東京。

それも、よりによって魑魅魍魎跋扈する新宿区歌舞伎町であり、未成年の女の子が日本一ひとりで行ってはいけない場所であった。

何の当てもなく歌舞伎町を歩いていると、さっそく声をかけてきた者が現れた。

成美と同い年かちょっと上くらいの少年で、どう見ても普通に高校に行っている感じではない。

知り合いもおらず行く当てのあるはずのない成美に、その少年は親しげな感じで「オレらのトコに来ねえか?」と誘ってくる。

どう考えても危険なにおいがするし、この時点で事件に巻き込まれるフラグが立ちまくっているが、成美は愚かにも、その誘いに乗ってついて行ってしまった。

15歳にもなったら、普通は声をかけてきた見ず知らずの相手について行くのが、いかに危ないことか分かるはずだ。

しかし家出するくらいだから、成美は家庭環境か素行に全く問題のない少女ではなかった可能性が高い。

年ごろから推測して不良を気取っていたか、あこがれていたかもしれず、相手がヤンキー丸出しの少年であっても、類友だから安心だとでも思ったのだろうか?

いずれにせよ、それが大いに軽率であったことを後日思い知らされることになる。

生涯忘れることができないであろう地獄の夏休みになったからだ。

監禁生活

その少年の言う「オレらのトコ」とは歌舞伎町からほど近い新宿区百人町にあり、18歳のホステスと女子高生、男子中学生姉弟が住んでいた。

本当は父親がいるが病院に入院しており、それに乗じて少年少女たちのたまり場となっていたようだ。

もちろん、どいつもこいつもまともなわけはなく、喫煙や飲酒ばかりか、シンナー遊びまでが行われる不良の巣窟である。

当初新入りの成美は、このろくでなしグループと遊びに行くなど、一見受け入れられたような感じだったが、それは長くは続かなかった。

新入りだからか、それとも不良の世界では下に見られていたらしく、ぐうたらな姉弟に炊事洗濯などの家事を命じられ、うまくできないと殴られるようになったのだ。

おまけに、出入りする少年たちに輪姦されてしまった。

地獄の始まりだ。

成美は、このろくでなしたちに逃げないように監視されて監禁状態になり、毎日面白半分にいじめられるようになる。

犯されたり、恥ずかしいことをさせられたり、よってたかって顔をパンチされたり、バットやベルトで殴られたこともあった。

その間、食事も満足に与えられず、成美は顔がパンパンに腫れて衰弱し、変わり果てた姿となっていく。

だが成美は、後年足立区で同じように監禁されて虐待され、殺されてコンクリ詰めにされた女子高生よりは幸運だったようだ。

一か月以上後の8月25日午前、見張りの少年の隙をついて脱走に成功。

そのまま、最寄りの戸塚三丁目派出所に助けを求めて駆け込んで、署員に保護される。

その後ホステス姉弟はじめ、監禁にかかわった15歳から18歳までの少年少女9人は暴力行為・傷害容疑で現行犯逮捕された。

しかし駆け込んだ際、成美は裸足で着ていた服は家出した時のままで垢や血で汚れており、顔を腫らして全身あざだらけで全治一か月の重傷。

ひと夏の火遊びは、心にも体にも大きなダメージを負う結果となってしまった。

出典元―朝日新聞、読売新聞

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地獄の集団就職 ~高度経済成長の生贄にされた金の卵たち~

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「集団就職」という雇用の形態が、かつての日本にはあった。

ご存じの方も少なからずいらっしゃることであろうが、一般的には高度成長の時代に盛んに行われた、地方の中卒者らが大都市の企業や店舗などへ集団で就職することを指す。

「金の卵」とも呼ばれた彼らは年端もいかぬ年齢で親元を離れ、故郷から遠く離れた都会の職場でホームシックに苛まれながら厳しい労働に耐え、ある者は後にその会社の中核となったり、またある者は起業して経営者となったりと、日本の発展を支える存在となっていったことはもはや伝説と言ってもよいだろう。

だが、伝説に謳われているように職場で懸命に働いた努力が報われて成功した者たちばかりではなかった。

中には厳しい環境に耐えられずに離職してしまった者もいたが、そもそも、その職場環境自体が人間の生存に適さない、すなわち超ブラック企業だった場合も多かったのだ。

本ブログでは『週刊明星』1959年4月26日号に掲載された記事から、こうした悪辣な企業の餌食になって夢も希望もつぶされて故郷に逃げ帰った少年たちを例にとり、集団就職の暗部をご紹介しよう。

祝福されて地獄へ送り込まれた少年たち

バスに乗り込む人々の白黒写真

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1959年(昭和34年)3月25日午前9時、群馬県高崎市市役所前から、七台のバスが出発した。

それぞれのバスに乗っているのは、つい先日中学校を卒業したばかりの少年少女たち約240名、職安や教員ほか同市の関係者らに盛大に祝福されて集団就職のために東京へ出発する「金の卵」たちである。

バスの外では彼らの親たちも駆けつけ、寂しさと感慨の入り混じったまなざしで、我が子の早めの巣立ちを見送っていた。

まだ十代半ばの少年少女たちは、涙をにじませて窓の外の親兄弟たちに手を振り、親元や故郷を離れる心細さやこれから始まる新たな生活への大いなる不安とかすかな希望を胸に一路大都会東京へ向かう。

レストランにいる人々

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若者たちを乗せたバスは国道17号線を南下し、およそ100㎞先の東京都千代田区にある九段会館に到着したのは正午過ぎ。

ここ九段会館では、在京の群馬県出身の有力者による「受入式」という大げさな式典が行われ、彼らは地元群馬県選出の自民党幹事長・福田赳夫(後の第67代内閣総理大臣)などお偉方の長ったらしい祝辞を聞かされた後、それぞれの就職先の責任者らに連れられて東京各地に散って行くことになる。

このように大仰に送り出された「金の卵」たちの中に阿部慎(仮名)、江田紘孝(仮名)、松林宜秀(仮名)という三人の少年が含まれていた。

彼らは他の者たち同様、ついこないだ中学の卒業式を終えたばかりで、就職先は高千穂ランプ(仮名)という自転車や自動車のランプ及び関連部品を製造する従業員数180名あまりの中小企業だ。

新しい職場へ行くことは何度転職を経験していたとしても期待より不安が勝るものだが、15歳かそこらで社会へ放り込まれることになる安倍たちにとってはなおさらである。

そうは言っても、大きな安心材料もあった。

それは出身中学こそ違えど同じ群馬県出身で、これから同じ職場へ向かう“戦友”が17人もいたことだ。

また、彼らには他にもこれからの新生活に期待を持たせる要素もあったようである。

阿部慎は地元高崎の職安で高千穂ランプの社員寮には当時まだ広く普及していなかったテレビがあると聞かされており、仕事終わりには、毎日実家にはないテレビが見れるであろうことを楽しみにしていた。

また、家を出る際に母親がいなりずしを持たせようとしてくれたが、昼食くらい出してくれるだろうと思って持ってこなかったという。

江田紘孝は、野球を見るのもやるのも大好きだ。

安倍と同じく地元の職安で高千穂ランプの社長と面談した際に「野球が好きだ」と言ったところ、社長はにこやかに「そうか、君は野球が好きか。じゃあ、仕事に慣れてきたら、みんなで野球大会をやろう」と言ってくれたらしい。

「社会人になっても野球ができる!」と、その時江田はうれしくてうれしくて仕方がなくなり、これから始まる社会人生活も悪くないだろうと信じていた。

松林宜秀は比較的向学心が旺盛で、家が貧しい農家でなかったならば高校に進学していたはずの少年である。

彼は姉に買ってもらったノート十冊と万年筆を持参し、通信教育を受けるための会費も払い込んでいた。

仕事の傍ら勉強するつもりだったのだ。

しかし、彼らのほんの些細な希望は入社早々ことごとく裏切られるばかりか、絶望のどん底に叩き込まれることになる。

情報が限られていたうえに社会経験が未熟な中学生だったから仕方のない話だが、知っていたのならば従業員数180人の会社に群馬県出身の新入社員だけで17人というのが何を意味するのか気づくべきだった。

高千穂ランプはパワハラや長時間労働が横行するブラック企業だらけだった昭和30年代においても、その漆黒さがトップクラスの超ブラック企業だったのだ。

時間も金もむさぼられる金の卵たち

高千穂ランプの作業場兼寮

少年たちが社会人生活をスタートさせることになる高千穂ランプは東京都東部の江東区にあった。

安倍は初日となるその日のうちに、高千穂ランプの工場の二階にある「第一寮」と呼ばれる社員寮に入居したのだが、第一日目から嫌な予感を感じることになる。

その部屋は日当たりが悪くて暗く、背の低い安倍でも手を伸ばせば手が届くくらい天井が低いのだ。

また、その部屋は八畳ほどの広さしかないのだが、入居者は安倍とそれ以外の新入社員七人。

一人あたり一畳しかスペースがなく、楽しみにしていたテレビもない。

「受入式」でも会社からも昼食すら出なかったし、この住環境を前に少々嫌な気分になったが、その日は一つ屋根の下で同じ年頃の少年たちばかりということで修学旅行のようなノリになり、荷解きをしながらワイワイ言っているうちに、そんな気分は消えていった。

しかし、翌日になって少年たちは超ブラック企業の洗礼を本格的に受けることになる。

第二日目となったその日、他の者たちと一緒にさっそく工場に投入された安倍は、コンベアの上でヘッドライトを組み立てる作業を任された。

それは新人でもすぐできるようになる簡単な作業であったが、初めてやる作業なんだから、もう一度やり方を確認してからやるべきだ。

高千穂ランプの作業場

そう思った慎重な性格の阿部が職長と呼ばれるこの現場の責任者である中年男に作業のやり方を改めて聞いた時、社会に出てまだ二日目の彼にとって信じられない反応が返って来た。

「説明してやったろ?二回も聞くんじゃねえ!!だいたい仕事ってのはな、見て覚えるモンなんだよ!!!」

と、とんでもない大声で怒鳴られたのだ。

確認しようとしただけなのに、何でこんな剣幕で怒られなければならないのか。

安倍は一挙に委縮した。

どの時代のどの職場にもいるが、「仕事は見て覚えろ」と言う奴は新人に指導することを面倒くさがっているだけであることが多い。

この職長は、まさにそんな手合いであったようだ。

そして、こいつは怠慢で気が短いだけでなく陰険な奴でもあった。

「こんなのバカでもできる仕事だけどよ、オメーは初めてなんだからこれやれ」と、

もう一人の新人である松林にランプ磨きを横柄に命じたのだが、さっき安倍を怒鳴った剣幕を見て縮みあがっていた松林は緊張のあまり手を滑らせてランプに指紋をつけてしまう。

すると「このボケ!そんなこともできねえのか!!」と罵声を浴びせたばかりか、

「おい!オメーら!!このバカみてーにボケーっと仕事してんじゃねえぞ!」などと、他の人間に聞かせるように松林を吊し上げるのだ。

新入社員たちは一挙に凍り付いた。

こんな横暴な奴が上司で、気持ちよく働けるわけがない。

さらに高千穂ランプは、労働環境や待遇も負けず劣らず劣悪だった。

会社の始業時間は午前8時ということになっていたが、実際は午前7時から開始であり、その一時間分の時間外手当はつかない。

そして残業は午後10時くらいになることもあり、休日にいたっては月二回。

寮で出される食事も貧相かつ劣悪で、米は異臭漂う三級品。

おかずは、朝は菜っ葉と味噌汁、昼はカブの煮つけとつくだ煮、夕は漬け物だけで魚がつくことすら滅多にない。

極めつけは一月の給料が5500円だったが、そこから寮の食費(2500円)、積立金(1000円)、作業服代や寮費などを差っ引かれると手取りは1000円しか残らないことが先輩からの話で判明した。

タコ部屋顔負けの搾取である。

一週間にもなると「こんなトコ辞めたい」が彼らの合言葉になったというのも無理はない。

そして翌4月になって、早々それを実行に移した者が現れた。

仕事の傍ら勉強しようとしていた松林だ。

横暴な職長や奴隷労働そのものの職場環境には、もちろん我慢ができない。

何より、勉強して知識をつけ、金をためて独立しようともくろんでいた松林は、高千穂ランプの長時間労働と薄給ではそれが半世紀くらい後にならないかぎり不可能であることに気づいたのだ。

4月2日、彼は「実家に相談しに行く」と仲間たちに告げて寮を出て行ってしまった。

松林の離脱がトリガーとなり、翌3日にはテレビを毎日見れるという約束を反故にされた安倍と野球をする時間もないことに不満の江田、そして他数名の少年たちが早朝に寮から脱走する。

故郷へ向かう列車が出る上野駅で「雇い主に黙って出てきたんじゃないか?」と警官に呼び止められて補導されはしたが、ひどい職場環境であったことなどを説明した結果、会社に戻されることなく群馬に逃げ帰ることに成功した。

無責任で薄情な大人たち

当時の『週刊明星』の記者は少年たちに取材したばかりではなく、高千穂ランプや送り出した群馬県の関係者にも話を聞いている。

まず張本人の超ブラック企業「高千穂ランプ」常務・石黒勉(仮名)は取材に対しこう語った。

「中小企業は労働基準法どうりやってたら経営が成り立たないんだよ。だいたい、そんなきついことやらせてないはずだよ。何で逃げたかわかんないね。職長がおっかなかったとか言ってるみたいだけど、あの人は職人気質なんだから仕方ないだろう」

すがすがしいほど奴隷労働をさせていたという意識も反省もない。

石黒という奴は、ブラック企業の役員どころか、限りなく奴隷商人に近い思考回路の持ち主であると言わざるを得ない。

そして、安倍の中学三年生時のクラス担任だった瑞田由紀子(仮名)は、

「一生その会社でコツコツやるという意識がない子が最近は多いですね。理想と現実が合わないとすぐやめてしまう」

もう卒業してしまったら、教え子ではないとばかりに他人事だ。

昔の教師もこんな手合いはいたようである。

もう一人の当事者で、安倍たちに高千穂ランプを紹介した職業安定所職業課長の幸迫義則(仮名)は、

「高千穂ランプは定着率が悪くってね。毎年三分の一はすぐやめて、こっちに帰ってきちゃうんだよ。あそこは管理がなってないんじゃないかな」

定着率が悪いことや管理がなっていないのを知っていて紹介したということだ。

紹介して送り出しさえすればよいという考え方で、その後は知ったこっちゃないと言っていると理解すべきだろう。

『週刊明星』によると、高千穂ランプでひどい目に遭った安倍たち以外にも、

「雇い主の子供に殴られているのに、その雇い主である両親は黙って見ていて止めようともしない」

「御用聞きに行った客先で待たされて、帰ってきたら「帰ってくるのが遅え!」と怒鳴られた」

「雇い主の主人と妻が夫婦喧嘩し、八つ当たりされた」

などなど雇われ先で理不尽な目に遭わされた少年少女は少なくなく、記事が掲載された昭和34年の4月8日の時点で、職場から故郷に逃げ帰ろうとして上野駅で保護された者が32名もいたことが報告されている。

単に根気がなかっただけの者もいたんだろうが、就職ガチャで大ハズレを引いてしまった不幸な者も多かったはずだ。

もっとも、高度経済成長中とはいえ、まだ貧しかった当時の日本は、他人をそこまで思いやるほど余裕のある社会ではなかったとも考えられる。

また「金の卵」とかいいつつも、少子高齢化になって久しい現代の日本と違って、若者は吐いて捨てるほどいたから、代わりはいくらでもいたと多くの職場では考えていたのではないか。

だがいずれにせよ、多感な十代中盤で社会に出たとたんに最悪の職場に出くわしてしまった安倍たちは、その後の人生に深刻な悪影響が出たはずだ。

本ブログの筆者の体験から言って、社会に出たばかりの時の経験は、後々の社会人人生に大きく影響する。

社会人一年生の時点でひどい会社に入ったり、ひどい上司にパワハラを受けてすぐやめてしまった経験は、言い方は悪いが強姦されたに等しい災難で、働くこと自体怖くなってしまう。

集団就職で入った都会の勤め先から逃げた少年少女たちの中には、その悪夢から一生を棒に振るほどの精神的ダメージを負った者もいたのではないだろうか。

群馬へ逃げ帰った安倍は、暗い目で記者にこうも言ったという。

「東京の人間はウソつきだ」

2023年の現在、もう八十近い年齢になっているはずの彼が、いずれかの時点で立ち直ってやり直し、今は安らかな老後を送っていることを願わずにはいられない。

出典元―週刊明星

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