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チャイニーズマフィアの首領:四川の闇を牛耳った劉漢


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皆さんはこの表紙の写真の人物を見て、どのような印象を持たれるだろうか。

優しそうな人?ご冗談を。

どう見ても、酷薄そうな凄みのある面構えの悪人相であろう。

そう、悪人だ。それも見かけ以上に。

この男の名は劉漢、中華人民共和国四川省出身。

400億元(6800億円相当)以上の資産を有し、30社を超える企業を束ねる四川漢龍(集団)有限公司の実質的な会長にして、その実の顔は、己の利益のために殺人すら辞さず、人口約8千万人の地元四川省の表裏両面に睨みを効かせた黒社会の老大(ボス)である。

四川省のトップとも結託し、一時期は黒社会の人間ながら、省内の治安をつかさどる公安の人事にまで、口を出すほどの力を持っていた。

若年期の劉漢

若い頃の劉漢

劉漢は1965年10月25日、四川省広漢市で五人兄弟の三男に生まれた。

子供の頃の彼は、学校での成績が抜群であったとも平凡であったとも諸説あるが、次第に勉学にそっぽを向いて商売に傾倒していくようになる。

早くからビジネスのセンスを有していたのは確からしく、1980年代中期の20歳になるかならないかの若さで、木材や建材などの転売を開始して、そこそこの小金を貯めるようになった。

そして、長けていたのはビジネスだけではなかった。

改革開放が板について経済成長が始まった80年代後半から90年代にかけての中国社会は、「儲けた者勝ち」とばかりに、成功するためには手段を選ばない無法者が各地で跋扈し始めていた時期でもある。

よって、ビジネスで成功を収めるには、商才以外の能力も発揮しなければならない場合もあったのだが、劉漢は、その能力の使い手でもあった。

それはすなわち暴力だ。

1990年代初頭、彼は実弟の劉維と共に地元の広漢市で賭博性の高いゲームセンターを開いたが、そのような違法な商売ならばなおさら必要である。

劉兄弟もご多分に漏れずそれを完備、いやむしろ充実させていた。

地元のゴロツキを手下にして店内で暴れる客を叩きのめし、負けが込んだ客からは借金を取り立てるなど、店の「正常な」運営を維持。

のみならず、商売敵が現れると手下にこん棒やナイフ持参で向かわせて問題を実力で解決して事業を拡大していったため、劉兄弟の経営するゲームセンターは、日本で言うところの博徒系暴力団そのものだった。

さらに、彼らは公権力に対してもひるまなかった。

1993年には、押収された物品を裁判所に押しかけて奪還、銃を振りかざして公安にも敢然と立ち向かったことから、裏社会の間でも勇名をとどろかせる。

怖いものなしとなった劉漢は、ゲームセンター経営を成功させてまとまった額の利益を得るようになると、今度は、ゲームセンター事業を弟の劉維に任せて、自分は本来の事業である建材のビジネスで勝負をかける。

より大きく稼ぐには、ゲームセンターだけでは足りないと考えたからだ。

劉漢が目を付けたのは、鋼材の先物取引である。

90年代当時中国は建設ラッシュ真っ只中で、鋼材の需要は高まっていたが、先物市場では価格が低迷しており、それに目を付けていた人間は、意外にも少なかった。

彼は、それまで違法行為で蓄えた資金と借り入れた金(これも所得や担保を水増ししてローンを組んだと言われる)で、四川省の鋼材を買いあさり、省内の大手鋼材メーカーの在庫を空にすることによって、市場での鋼材の価格を暴騰させることに成功。

手持ちの鋼材を売って、莫大な利益を得た。

そして1997年3月、先物取引で稼いだ金を元手として、後に巨大企業となる四川漢龍(集団)有限公司を設立した。

闇の力により事業を拡大

最盛期の劉漢―貫禄に満ち満ちている

劉漢は正式な会社を設立したからといって、完全なカタギに転向したわけではなかった。

代表取締役として別の人物を置いて自らは黒幕に徹すると、弟の劉維に命じて、保安部要員募集の面目で荒事に慣れたヤクザ者はもちろん、元軍人、武術学校出身者を集め、障害を排除するための暴力装置を、さらに充実させたのだ。

それは刃物ばかりか、56式突撃銃やブローニング拳銃まで保有した本格的な武装集団だった。

そして劉維率いる保安部は、その暴力を会社設立翌年から最大限行使する。

1998年、四川省錦陽市遊仙区小島村の開発プロジェクトに食い込んだ漢龍有限公司は、立ち退きに抗議する地元住民と衝突していたが、後日、相手側住民の一人である熊偉を街中で闇討ちして、殺害したのだ。

誰がやったか限りなく分かりやすい殺人にもかかわらず、証拠が乏しくて立件されることもなかったため、これにより、住民側は沈黙。

プロジェクトを順調に進めた漢龍有限公司は以降、より大規模な公共プロジェクトを受注するようになった。

劉維―こいつも見るからに悪そうだ

熊偉殺害のわずか五日後、今度は、劉維が保安部の手下を使って、広漢市のゲームセンター事業で商売敵となっていた周政を射殺した。

周政の一派は、劉兄弟と同じく黒社会の組織であり最強の対抗勢力であったため、これ以降、広漢市のゲームセンター及び闇金事業は劉一派が壟断。

のみならず、周辺地域の建築、建材市場にも進出して勢力を拡大していった。

1999年2月には、錦陽市のヤクザである王永成をバーの入り口で射殺。

王が「漢龍有限公司をつぶす」と大言壮語していたのが、原因らしい。

2000年に漢龍有限公司は成都に本社を移すが、早くもこの頃には、四川省の業界において向かうところ敵なしの状態であり、同業者はプロジェクトの入札では、漢龍有限公司との競合を避けて譲るほどであった。

同社の正体が何であるか公然の秘密だったし、敢えて競合しようものなら、すかさず手を引くよう脅迫されたからだ。

そして、劉漢一派が手にかけるのは、自分たちの事業をジャマする人間だけではなかった。

2000年9月、ブリーダーの梁世斉が、劉維の手下に刺殺される。

犬を飼う趣味があった劉漢は、知り合いでもあり著名なブリーダーでもある梁に犬の飼育をさせていたのだが、飼育のために渡していた3万元を着服していたのではないかと劉維が疑ったためだ。

この当時、誰がやったか遺族や周辺の人間は薄々感づいてはいたが、すでに地元の黒社会の顔役であり、公安関係者の中にも賄賂でシンパを作っていた劉兄弟を訴えることはできず、泣き寝入りを余儀なくされたという。

手下たちも、やりたい放題だった。

2002年5月、劉漢の用心棒であり保安部所属の仇徳峰らが、成都のクラブで、些細なことからケンカになった相手を刃物で殺傷。

逮捕された仇だったが、劉漢が手を回したこともあって、たった四年の懲役であった。

これらすべてを含めて、劉一派は分かっているだけで九件の殺人を犯しており、他に傷害、逮捕監禁、収賄、不正蓄財、銃刀法違反など、様々な違法行為に関わっていることが後に判明しているが、これほどの悪事を働きながら、長らく訴追されることはなかった。

どころか、漢龍有限公司はヤクザならではの手法で競合相手を黙らせて水力発電所、観光地の整備、高速道路の建設など大規模でうまみのあるプロジェクトを次々請け負い、ゲームセンターや建設業以外にも金融、不動産、電力事業、化学工業など様々な分野に手を広げる大躍進。

2009年からは、鉱山開発の分野で海外に進出し、傘下の企業をアメリカやオーストラリアにも上場させた。

劉漢自身の資産も莫大なものとなり、中国の長者番付に2003年の時点で早くもランクイン。

そして、劉漢はあくどく稼ぐ一方で慈善家としての顔も持っていた。

2008年に発生した四川大地震の復興に5000万元を寄付するなど、中国の寄付額番付にもランクインしているほど慈善事業に積極的だったのだ。

どうも悪党というのは大物になると、本業の悪いことだけでなく良いこともしたくなるものらしい。

それも悪事同様豪快に行う傾向がある。

ちなみに、この地震で四川省内の多くの小学校が欠陥工事により全壊して多数の児童が犠牲になっていたが、劉漢が寄贈した小学校はびくともせず教師も児童も無事だったことから首善(筆頭慈善家)と中国国内で脚光を浴びた。

四川地震でも倒壊しなかった劉漢希望小学校

しかし、彼自身はあまり表舞台に立つことはせず、漢龍有限公司内部でも限られた人間としか接触しようとしないなど、ベールに包まれた存在を保っていたという。

劉漢の後ろ盾

劉漢が違法行為を重ねながら訴追されなかったのは、省政府関係者や公安関係者に賄賂をばらまいていただけではなく、それ以上に強力な後ろ盾がいたことが大きい。

それは後に、中央政治局常務委員と中央政法委員会書記の職につき、中国共産党の党内序列第九位にまでなった周永康だ。

周永康―この人もかなりのコワモテだ

劉漢との関係は、周永康が四川省のトップである中国共産党四川省委員会書記として、同省に赴任して一年目の2001年から深まったとみられる。

その関係は、周永康の息子である周濱と電力や観光などのビジネスで協力し合うほど親密であった。

共産党委員会書記の神通力は、霊験あらたかだ。

省内の公安も司法も黙らせる権力を有するからである。

劉漢も司法に全く目を付けられていなかったわけではなく、2001年に不正行為で拘束されそうになったことがあるが、周永康の一声で沙汰止となったことすらあったから、省内はもうほぼ劉一派の治外法権となったといっても、過言ではなかった。

そして、周が2002年に党中央政治局委員に選出されて四川省を離れてた後も、その関係は続いた。

劉漢は周の権力を維持する利権集団の一つ「四川閥」において欠かすべからざる存在であり、使える男だったからだ。

後に周は2002年に公安部長兼党委員会書記に就任し、続いて、総警監、武装警察部隊第一政治委員、国務委員(副首相級。政法担当)など要職を兼任。

公安・司法部門でのトップになって、党内での地位も上がり後ろ盾としても、ますます強大になっていった。

劉漢も、いつまでも実業家だけに甘んじてはいない。

三期連続で四川省政治協商会議委員と常務委員にも選出されて、企業経営以外にも、省政府の政治に関わるようになる。

しかも、自分の事業に便宜を図ってくれるような政府の役人をより高い位に推薦したり、逆に邪魔をするような役人を更迭に追い込んだりするほど、影響力を増していた。

黒社会の大親分でありながら、中央に強力なパトロンを有して、省の政治にまで口を出すようにまでなったのだ。

もはや、地元四川省で彼を止めることのできる者は、いなくなりかけていた。

しかし、そんなこの世の春はいつまでも続かない。

夏と秋をショートカットして厳冬になり、そのまま一気に破滅へと向かう日が来ることになる。

それは、2012年11月15日、中国共産党の新たな総書記にある人物が就任したことから始まった。

そう、皆さんご存じ習近平だ。

逮捕、そして死刑

習近平は、総書記就任早々「反腐敗キャンペーン」を打ち出し、すぐさま、四川省の汚職撲滅に着手した。

真っ先にやり玉に挙がったのは、劉一派であることは言うまでもない。

これには、さしもの劉漢もひとたまりもなかった。

四川省内では無双でも、中国は広い。上には上がいる。

今回は、はるか頂上の存在である総書記直々のお達しによる、中国共産党中央の直接指揮下での捜査なのだ。

頼みの綱の周永康は、もうすでに中央政治局常務委員と中央政法委員会書記の職を解かれて力を失っており、アテにはできなかった。

それに、この汚職撲滅の行動は、習近平による政敵つぶしも兼ねていたはずだから、一切の手抜きもない。

ちなみに周はその後、「重大な規律違反」で立件された上に党籍をはく奪されて逮捕、無期懲役となる。

法廷での周永康―元々白髪だったようだ

2013年3月13日、叩けば埃だらけの劉漢は、自身の片腕として数々の荒事をこなしてきた弟の劉維と相前後して拘束されてしまった。

捜査は徹底しており、兄弟だけではなく、部下はもちろんのこと現在の妻や前妻、家政婦までもが事情聴取される。

また、四川省だけでなく、北京市や広東省など10の市と省に存在する漢龍有限公司の関連施設へも捜査の手が及び、その結果、20丁の自動小銃や拳銃、3個の手りゅう弾、677発の銃弾が押収された。

むろん、合法的所持であるはずがない。

押収された武器

2014年2月14日、動かぬ証拠を基に、故意殺人、犯人隠避、汚職などの罪で、劉漢ら36人が提訴される。

ここまで来たら、もはや言い逃れも、後ろ盾や省内に賄賂で囲っていた役人の助けも期待できない。

同年5月23日、一審で劉漢と劉維兄弟を含む5人に言い渡された判決は死刑。

劉漢は、この判決を受けた時、見苦しくも大泣きしてこう叫んだ。

「私は省の貴人に奉仕しただけだ!はめられた!私は無罪だ!」

劉漢は上告したが、8月7日の二審でも一審の判決は覆らず、死刑が確定。

そして、2015年2月9日、死刑執行。

享年49歳、何もかも思い通りにしてきたがばかりに、運が尽きて迎えた早めの死であった。

死刑執行直前の劉漢

出典元―百度百科、ウィキペディア中国語版

習近平「文革2.0」の恐怖支配が始まった ラストエンペラー習近平 (文春新書 1320) 中国「黒社会」の掟 チャイナマフィア (講談社+α文庫)

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異常な家庭での一夜の体験 – 1990年の悪党家族との一夜

世の中には一般的な社会常識が通用しない異常な家庭が存在する。

そこではわが子を正しく導くべき保護者が反社会的な人物で、その子もそれを見て育った結果、必然的に一家全員が悪党という家族のことだ。

まだバブル経済崩壊前の1990年、一応進学校を標榜する高校の一年生だった私はそんなハイエナの巣のような家庭で一夜を過ごす羽目になった。

だが、その体験は文化や価値観が全く異なる人々との遭遇であり、異国の人々の生活習慣に触れたに等しいカルチャーショックを私に与えた。

私は着いて早々ホームシックに陥ったが、鮮烈で濃厚な時間を過ごしてそれまで知らなかった、あるいは知ってはならなかった世界を垣間見たその一夜はいまだ忘れ得ぬ体験だった。

1990年6月某日、O市N町F山家

私だってそんなヤバイ家庭に好き好んで行き、あまつさえ一泊するつもりなんてなかった。

そのきっかけを作ったのは中学の同級生で、底辺高校として地元で有名なO農業高校に入学したとたん高校デビューした駆け出しヤンキーのK田T也である。

K田についての記事

後にゲームセンターで他の不良少年にシバかれて大人しくなってしまった彼だが、この頃は高校デビューしたばかりで威勢が良く、同級生を殴って停学になったO農業高校の友達の家に遊びに行くからと、学校帰りの私を無理やり同行させたのだ。

その訪問先、K田の友達の危険な男の名はF山M雅。

ちなみに、後に私が高校のクラスメイトでF山と同じ中学だった者から聞いた話では、学校内ではかなり恐れられていた不良だったという。

このF山の家こそが私が一泊する羽目になった家庭なのだが、この時はまさかそんなことになるとは予想していない。

F山の家はO市内だが10km近くも先のN町にあり、ただでさえ行くのが嫌だったが、いざ到着したらもっと嫌になった。

言っちゃ悪いが、外から見て何となく問題を抱えた家庭の荒れた生活臭がする木造の二階建て。

外には「仮面ライダー」仕様のような改造バイクが停まっており、この持ち主が家の中にいるかと思うと帰りたいことこの上ない。

「ごめんください、K田です。F山君いますか?」

「おーう、入れ」

何回も来ているらしいK田が玄関の戸を開けて来意を告げると、玄関を上がってすぐのところにある破れたふすまが開き、赤茶色に染めた長めの髪を逆立てたような髪形の少年が顔を出した。

この少年こそがF山M雅だった。

紫色のジャージを着て首と腕には光物、左耳と鼻にピアス。

細く剃った元々薄い眉毛の下の目は、モノを見るという本来の役割に加えて相手を威嚇するという機能も存分に備えている。

要するに目つきが相当ヤバイ。

一目でわかるほど悪そうで、昨日今日悪くなった感じがしない。

高校デビューのK田とは迫力が違う。

私は思わず後ずさった。

「そいつ誰や?」

F山が剣呑な顔で、尻込みする私の方を見てK田に尋ねる。

「あ、こいつ俺のパシリ」

K田はいけしゃあしゃあと答えた。

高校デビューしてから電話で「今すぐ俺んちに来い」だの「タバコ買って来い」だの横柄な態度を私に取って来るようになっていたK田だが、やはりそう思っていたようだ。

「ふーん、まあええわ。K田のパシリも上がってこい」

K田には勝手にパシリにされ、F山には「K田のパシリ」と名づけられた私もF山家のタバコ臭漂う居間に通された。

居間に入ると、F山以外に二人の先客の少年がドラクエをやっていた(この当時はファミコン健在)。

二人ともやはり悪そうで、入ってきた我々、特に私の方を怪訝そうに睨むので居心地悪いことこの上ない。

そしてそこは悪の巣窟だった。

先客の少年のうち眉なし坊主は近所に住むF山の後輩で中学三年生のI井S三、もう一人の茶髪はこの家で厄介になっている16歳の家出少年でT野M夫というらしい。

どう見ても勉強している姿が想像できない、まともじゃなさそうな見かけをしている。

そして新たに加わったK田と始まった会話の内容は、誰それをボコっただの、どこそこの店は万引きしやすいなどの悪事自慢。

もっとも、自分のやった悪さを懸命に語る駆け出しヤンキーのK田は、他の本格的なヤンキー三人と比べるとどうも背伸びしてる感が否めなかったが。

彼らが吸うタバコの煙もあるが、進学校の高校生の私には生存に適さない空間で呼吸困難になりそうだった。

「あー、いらっしゃいK田君。あれ?そっちの子は初めてやね」

いたとは気づかなかったが、F山の母親と思しきスナックのママ風の中年女性が奥から現れた。

手には人数分のグラスを持っており、私を含めた全員の前にそれを置く。

そしてまた奥に引っ込んで、「まあ飲みんさい」と言って持ってきたのはまごうことなき瓶の「アサヒスーパードライ」三本と亀田の柿ピー。

どういう家庭なんだ?我々は未成年なんだぞ。

だがK田はじめ他の少年たちは「いただきます」と普通にビールを自分のグラスに注いで飲み始める。

「パシリも飲め」とご丁寧にもF山が勧めるので、私も郷に入ったら郷に従わざるを得なかった。

そんな宴が始まって間もない時、外で「ドロドロドロ」という排気音がして、窓からこの家の駐車スペースにごついアメ車が入ってくるのが見えた。

「あ、オヤジが帰って来た」

F山のつぶやきで他の少年たちのビールを飲む手が止まり、緊張が走ったのがわかった。

エンジン音が止まり、玄関の戸が開く音がする。

F山の父親とはどんな人物だろう?他の少年の反応を見る限り優しい人ではなさそうだ。

「おーう帰ったで」

野太い声と共に居間のふすまを開けて入ってきたF山の父親は、やはり想像通り、と言うか以上だった。

パンチパーマで薄黒系のサングラスに口ヒゲ、真っ白なスーツとは対照的に真っ黒なワイシャツとネクタイという容易に職業が推察できるファッションセンス。

F山M雅の父親、F山S雄だ。

「おつかれさまです!」

I井とT野が立ち上がって大声で挨拶をした。

K田もそうしているので私もつられてした。

「おーう、やっとるな。まあ飲め飲め」

「ごちそうになります!」

F山父は鷹揚に言うと、奥の部屋でスーツを脱いでネクタイを外して戻って来て、一緒に飲む気らしく少年たちの輪の中に腰を下ろした。

F山母が持ってきたウイスキーと氷で水割りを作り始めると、そこでひそひそと夫婦の会話が始まった。

「定例会どうやったの?」

「兄さんもケツまくっとる。オヤジも何もしてくれへん」

「何か言うたりゃええがな」

「あかん!どうせまた破門したろかとか言いよるわ」

F山母との短い会話でも、その職業が推察通りであることが裏付けられた。

「そりゃそうと、オイM雅!」

突然F山父が息子に話を振った。

「なんや?いきなり」

M雅はさすがに息子で、こんなおっかない父親にもそんな応答ができるらしい。

だが、その後に続く親子の会話の内容が一般社会の良識から著しく逸脱していた。

M雅、お前この前駅で工業高校の奴とモメたやろ?」

「あ?あれならもうずいぶん前のことやろが」

「何でそいつボコボコにしなんだんや!」

「そういう奴いちいち相手すんの疲れるんだわ」

そしてあろうことか、次にF山父は私に興味を持ち始めた。

「おいそっちの坊主、なんや真面目そうやな?校則とかもちゃんと守っとる感じやな?」

やはりこの不良少年たちの中では、毛並みが違うのが一目瞭然だから目立つらしい。

「ええ、まあ」と答えた私にF山父が言った次の言葉は、今いる場所が非常識を通り越した異次元空間であったことを私に思い知らせた。

「いい若いモンが悪さもせず何をやっとるんや?将来ロクな人間にならへんで!」

この一言にその場の少年たちが「そうやそうや」と大いに沸いた。

何という逆金言だろう。ていうか、もしかして今の笑うところ?

「では、今のあなたは?」

という冷静かつ自殺行為の正論は、少なくともこの場でできるわけがない。

それどころかビールの酔いも手伝って、自信満々に語る貫禄満点のF山父の観念は聞いていて問答無用の説得力があり、少し納得してしまっていた。

F山父も酔い始めたらしく、少年たちがありがたく拝聴しているのをいいことに、自らの道徳観や人生観を大いに語り出した。

まず「この世で一番ツブシがきく商売は何やと思う?」と一同に尋ねて間をおいた後、

「それは、悪さや!」

と吠えてから怒涛の持論を展開し始めた。

「ええか。酒もタバコもええけど、シンナーやシャブだけは食ったらあかん。シンナーやシャブは食うもんやない…売るもんや!」

「被害者になるくらいやったら加害者になれい!日本は加害者を守る国や!」

「好かれてナメられるより、嫌われて恐れられる男にならんかい!」

最初ウケを狙っているのかと思ったが結構目が本気だし、I井もT野も、そしてK田も「なるほど」とか感心したりして神妙な面持ちで聞いている。

私が間違っているんだろうか?決してためになることは言っていないのに、ある意味真実をついているような気がしてきた。

周りが周りだし、私もビールのおかげで徐々に洗脳されつつあったのかもしれない。

知らないうちにK田からもらったタバコを私もせき込みながら吸っている。

そして、F山父独演会の熱心な聴衆の一人となっていた。

他にも彼は、

「青信号は安心して進め!黄信号は全力で進め!赤信号は隙あらば進め!」

という交通法規に対する独自の見解も持っていた。

こんなのが父親とはF山M雅という男は何て不幸なんだと思われるかもしれない。

しかし当のM雅の方は結構冷静で常識があり、

「ムチャクチャ言うとる」とか「そんなわけあるか」

などとオヤジの主張にツッコミを入れていた。

親はなくても子は育つのか、こんな親ならいない方がマシだが。

もっとも息子は高校を傷害で停学になるなど、十分父親の期待通りに育っているようだ。

などと話を聞いていたらもう夜遅くになってしまった。

私は「もう遅いのでこれで失礼します」と千鳥足で帰ろうとしたが、

「泊ってけ」とF山父。

さっきから一緒に水割りを飲んでいるF山母も「一晩くらいええよ。K田君も泊ってく言うてるし」と余計な援護射撃をしてくれる。

F山父は、

「このM夫もM雅とゲーセンで知り合うてから、一週間もウチにホームステイしとる」

と家出少年のT野M夫を指さした。

いや、私は家出してるわけではありませんので、それにホームステイ?意味わかって言ってる?

「でもまあ親は心配するやろうしな。ワシも親やからわかる」

そうなんですよ。だからもう帰ってもいいでしょう?

「でもなあ、子にとって親ちゅうのはな…迷惑かけるためのもんや!

サングラスを外したF山父の猛禽類のような眼光に見据えられてそう断言された私は、

「一晩ご厄介になります」と返事していた。

「俺が迷惑かけたらすぐブチ切れるくせに!」

と息子のM雅に横からツッコまれていたが。

結局その日は遅くまで飲んでそのまま居間で雑魚寝。

翌朝F山母からふるまわれた「金ちゃんヌードル」を朝食としてから(何たる手抜きの朝食!)、私の「ホームステイ」はようやく終了。

帰り際、F山父は私に、

M夫はワシの息子みたいなもんやし、M雅の後輩のS三はワシの後輩、ツレのK田はワシのツレ、K田のパシリのお前はワシのパシリや。いつでも来てええぞ」

という言葉をかけた。

二度と行ってはいけないな。

これ以上付き合ったら無事で済まないことは間違いない。

高校生だった私の目から見ても、気さくさを装ったその奥にあるそこはかとないヤバさが見え見えだった。

もう絶対行きたくないと思いつつ、私は二日酔いのままK田と家路についた。

家に帰ったら、仕事を休んで家で私を待っていたという両親にムチャクチャ怒られた。

大したことしてないのに、何でそこまで怒られねばならんのかと思った。

あの一晩で私の善悪感は少し歪んでしまったらしい。

学校へ普通に行って帰宅しての繰り返しといういつもの日常に戻ると、私の善悪感はまた元通り矯正されたが、実在したあの世界での記憶は確かに残った。

そして時々K田と会っていたが、その後F山の家に行くことはなかった。

その後K田とは付き合いがなくなり、F山一家がどうなったかは分らなくなったが、その年の年末に家で購読してる地方紙のG新聞にF山父のことが載っていた。

「約1億2千万円相当の大量の覚醒剤を密売目的で隠し持っていたとして、G県警は、暴力団Y組系K組幹部のF山S雄容疑者(40)=O市N町=と、住所不定無職の少年(16)を覚醒剤取締法違反(営利目的所持)の疑いで逮捕した」

名前と住所から見てもあのF山父で間違いないだろう。少年の方は家出少年のT野M夫じゃないだろうか?

あれからまだ「ホームステイ」して、仕事まで手伝ってたのか?

シャブは食うものでも売るものでもなかったということだ。

あれ以上深くかかわらなくて正解だったが、こういう新聞の事件欄を飾る人々の生活を垣間見ることができたのは貴重な体験だったと今では思うことにしている。

何も外国に行かなくても、風俗習慣が異なる人々が同じ日本の中にもいるのだ。そんな人々の中で過ごしたあの一夜はまさに私の中では「ホームステイ」だった。

自分の絶対と思ってきた価値観を壊されるのは衝撃だが、時として痛快で心地よい驚きとなることもあるのだ。

実は、最初はあれほど帰りたかったF山家での晩が妙に刺激的で面白かったような気が時々していたことを告白する。

リスクはあったとしても、後から思えば世間のルールを逸脱していい世界は結構魅力的だった。

料理は体に毒なものが多少入ってないとおいしくないのと同様、人生だって破滅しない程度でためにならないことを多少経験しないと面白くないじゃないか。


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未成年に踏みにじられた25歳の純情 ―実録・おやじ狩り被害―


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1999年(平成11年)、24歳だった私は某電器メーカーの工場で派遣工をしていた。

大学卒業後に就職した会社を、一年とちょっとで追われたからだ。

時は就職氷河期の真っただ中、職場には私と同世代の者が意外と多かった。

就職できなかったか、私と同じく会社からドロップアウトしてしまった若者たちである。

そんな中にH川という青年がいた。

H川は私と同じラインで働いているから顔見知りだが、話したことはない。

私が職場で口を利くようになった人間の一人にM田という男がいて、そのM田がH川とよく話す仲だった。

奇しくもH川はM田の小中学校の同級生で、昔馴染みだったのだ。

つまりM田と同い年だった私とも学年は同じだった。

M田によるとH川はある専門学校を中退後、また別の専門学校へ入り直して卒業してから就職したが、一か月未満で辞めてからこの工場で働いているという。

H川は大人しそう、というか気弱でネクラそうな感じの青年である。

長めの寝ぐせを整え切れていない不潔そうな髪型、170cmくらいの細身だが運動不足で体脂肪率が高めであろうガリポチャ体型、私服のセンスも悪い。

その外見からも、活舌が悪くモゾモゾと何を言っているかわからないしゃべり方から判断しても女性には絶対にモテそうにない感じの男だった。

私も似たようなもんだったが。

だが10月中旬の金曜日、そのH川が大変身を遂げて職場にやって来た。

長めの髪を金髪に近いような茶髪に染め、耳と鼻にピアス。

上下は作業着に着替えていたのでどんな私服を着て来たのかわからなかったが、首から上だけでも十分インパクト大の変わりっぷりだった。

一体何があった?工場の薬品による労働災害か?

いやいや、女関係に決まってる。

果たしてやっぱりその通りで、今晩女性と会う約束をしているとかで、そのためのイメチェンだった。

「どうしたんだその恰好?」とM田らが聞くと、H川は待ってましたとばかりに喋る喋る。

何でもテレクラ(1999年当時は携帯の出会い系サイトも出始めていたが、テレクラも健在だった)で知り合ったらしく、しかも相手は女子高生だというではないか。

当時女子高生は『コギャル』と呼ばれて世のいい歳こいた男どもにもてはやされ、コギャル文化真っ盛りの時代。

だからH川は普段と違ってもう有頂天という感じで、相手は女子(コギ)高生(ャル)であることを特に強調していた。

M田たちは「援助交際だろう」とか「本当に女子高生か」とからかったら、もうすでに一回だけちょっと会っており、今回は二回目で本格的なデートだという。

たったその程度なのに喋っているうちにH川は相手のことを「俺のオンナ」とか「カノジョ」とか言い始め、もうすっかり交際しているつもりになっている。

それをツッコまれると、「俺のことを気に入ったって向こうは言ってんだ!」とムキになった。

「おいおい、ヤバくねえか?」「おっかない奴出て来るぞ」と、みんな懸念を表明したが、H川は聞く耳を持たない。

それどころか「俺ってマジで何歳に見える?高校生くらいに見えなくね?」とかワケわからんことを言い出している。

「25歳には見えない」と言われたらしく、いい歳こいて喋り方までそれっぽく変えて。

25歳未満ではなく25歳より上に見えるという意味じゃないのか、それは?

私も端から聞いてて、どう見てもヤバいような気がしていた。

だってH川はネクラで地味な青年で、喋りがド下手くそなコミュ障。

年上の男に魅力を感じると相手は言っていたと彼は主張するが、イメチェンしたとはいえ小学生のまま25歳になったような感じのH川に、高校生くらいの女の子が寄ってきそうな大人の魅力があるようにも見えない。

援助交際じゃないとしたら、相手の女子高生とやらには何か危険な目的があるんじゃないか?

第一、彼のイメチェンは私から見ても無理してる感が強く、痛々しい。

今までファッションに全く気を配ってこなかった者が、急にシャレっ気を出した場合特有のズレを感じる。

染めた髪だってムラがあるし、相変わらず寝グセ立ってて変な髪型のままだし、ピアスの位置もおかしい。

それにいい歳こいて、そのガキみたいなファッションは何だ?

などなど心の中でツッコミを入れつつ、実は自分と同じくらいネクラそうな奴がまんまと女性と会うことができたことに対する嫉妬が混じっていたのも事実だ。

もうすでに一回会っているって言ってるし、もしH川の話が本当だったら私もテレクラ行ってみようかな、ともちょっと思ってた。

作業が始まってもH川ははしゃぎっぱなしで、隣の奴にあれこれ話しかけてる。

聞こえてきたのは「どのラブホテルが一番おすすめ?」だ。

さっきから聞いてりゃ気が早すぎだろう、今回も約束どおり相手が来るとも限んないんだぞ。

などと横目で聞き耳を立てていたら、「おい!横見て作業するな!」

現場監督に怒鳴られたのはおしゃべりしていたH川ではなく、なぜかそれを見ていた私の方で、何とも釈然としない。

こうしてその日の作業が終わり、午後5時の終業時間になるや、H川は踊るようにタイムレコーダーに向かって行った。

さぞかし期待で胸と下半身を膨らましていたことだろう。

それが、彼を見た最後だった。

土日が明けて、月曜日。

H川の野郎はどんなこと言ってデートにこぎつけたんだろうか?普段話さないけど聞いてみようか?などと考えながら出勤した。

実は金曜日からずっと気になっていたのだ。

朝礼が行われる従業員休憩室に行くと、私の担当ラインのみんなが揃いも揃ってM田とそのツレのK保を囲んで話をしていた。

H川はその中にはおらず、まだ来ていないようだ。

彼らに近づいてみるとみんな深刻な顔をしており、「それで大丈夫なの?」とか「何で警察に言わなかったの?」とかの言葉が聞こえた。

何だかただ事ではない。

何があったのか気になったので、私もその輪に加わる。

「どうしたの?」

「H川がやられたってよ」

「やられたって?ナニされたの?」

「ボコられたらしい。K保が見たってさ」

K保は私たちと同じラインで働いており、H川とも仲が良い。

やや顔をひきつらせたK保によると、事の顛末は以下のとおりだった。

K保は金曜日の夜9時ごろ、女子高生とデートしているであろうH川に冗談半分でメールしたという。

その内容は「おい、もうどこまでいった?もしかして真っ最中か?」というようなもので、わざわざみんなにその時の携帯のショートメールの送信履歴で見せてくれた。

その後しばらく待っても返事がなかったため、K保はひとまず風呂に入った。

風呂から出て携帯を見ると、何と15分くらいの間に二件の着信履歴と留守録。

すべてH川からだった(これもK保は我々のために再生してくれた)。

一件目の留守録を再生すると、H川の「ああ、あのさ、大至急かけ直して」という短いメッセージ。

二件目は、「おい、頼むよ!大至急かけ直してくれって!」というかなり切迫した感じの声だった。

最初、K保はH川がこっぴどく女子高生に振られでもして、その愚痴を話したいんだろうと思ったらしい。

少々ザマミロとほくそえみながらかけ直したら、ワンコールでH川が出た。

だが、H川が電話に出るなりいきなりまくしたてるように話した内容が異常だった。

いきなり「金を貸してくれ!」と頼んできたのである。

しかもその額が十万円で、10時までに市内のB原中央公園という公園に持って来てくれというものだった。

確かにB原中央公園はK保の家から近いから行けないことはないが、いきなり「十万円貸せ」なんて頼みを当然聞けるわけがないからK保は断った。

だが、H川はなおも理由も言わず懇願し続けるので、二人の間で「何で貸さなきゃいけないんだ」「いいから頼む」という押し問答が続く。

付き合ってられないと思ったK保が電話を切ろうとしたら、「ええから持って来いや、ボケェ!」という怒声が電話から響いた。

その声はH川ではない若い男のものだったが、いかにもこういう脅しに慣れていそうなドスの効いた喋り方だったという。

その若い男の言い分は、H川がナメた真似したので落とし前を付けさせているが、これはツレであるK保の責任でもある、という無茶苦茶なものであった。

「俺には関係がない」とK保が少々ビビりながら突っぱねると、「ツレがどうなってもいいのか?」と電話の向こうでH川を痛めつけ始めた。

受話口から「やめてくださ…ぐふっ」とか「勘弁してく…痛ぁ!」とかのH川の叫び声が聞こえて来る。

ばかりか相手の男はK保の氏名や住所、勤務先などの個人情報を把握していることを告げ、10時までに約束の場所に金を持って来なかったらこちらから行く、と脅してきた。

K保のことはH川が苦しまぎれに教えたんだろう。

そして「警察にチクったら必ず報復する」と凄まれ、電話が切られた。

悪い奴らと何かあったのか?いや、H川は女子高生に美人局をかまされたに違いない。

K保は相手が声の感じから未成年だと確信したが、だからこそ怖くて怖くて仕方がなくなっていた。

この当時の少年法は「犯罪をやるなら未成年のうち」と言っているに等しいほど大甘で、それを盾に取った未成年の悪党たちは、金を持っていそうな成人男性を襲う「オヤジ狩り」などの凶悪犯罪を犯しまくっていたからだ。

そんなK保が取った行動は、相手の要求に従うでも警察に通報するでもなく、黙殺だった。

電話の電源を切り着信が来ないようにして、もし本当にこちらに来たらどうしようと、おびえながら床に就いた。

結局10時を過ぎても連中は来なかったが、不安のあまり朝までほとんど眠れなかった。

K保はこんなことに巻き込んだH川にムカついていたが、やはりどうなったか気になっていたので、昨晩彼らがいたであろうB原中央公園へ親から借りた車で行くことにした。

公園までは車で行けば5分とかからない。

公園に着くと、いつでも逃げられるように周りを車で巡回しながら様子を探る。

まだ連中がいるかもしれないからだ。

様子を探っていると、遊具のある広場の街灯の周りに人だかりができているのが見えた。

「もしや」と思い車を停めてその人垣に近づくと、その中央にいたのは案の定昨日職場で見たばかりのあの明るい茶髪、H川本人だった。

何と、広場の街灯にガムテープでぐるぐる巻きに縛り付けられてぐったりしている。

しかも全裸で!

H川は殺されてはいないようだったが、殴られて顔を腫らし、タバコで根性焼きをされた跡も所々体に残っており、陰毛も剃られていた。

ずいぶん屈辱的なシメられ方をしたものだ。

周りで見ているジョギングや犬の散歩で公園を訪れたと思しき人たちも人たちで、「動かさない方がいい」とか言ってガムテープをほどきもせず、H川を全裸のまま放置していた。

K保もそのまま見ていただけだったようだ。

その間にも近所の住民など野次馬が次々現れ、H川の醜態の目撃者は増えてゆく。

誰か通報はしていたらしく、ほどなくして救急車、そしてパトカーが到着した。

やっとガムテープをほどかれたH川は片手で股間を、もう片方の手で顔を覆い、警察官の質問に何事か答えながら救急隊員に促されて救急車までフラフラ内股で歩いて行ったという。

「だからヤバイって言ったのに。俺らまで巻き込みやがって」

K保と同じく電話で脅迫されたというM田も、犯行グループより自分たちを売ったH川に腹を立てているようだった。

脅された時点で彼らのうちどちらかが警察に通報していれば、H川もあそこまでこっぴどくやられることはなかったはずだが、それについての反省はしていない。

他の連中の中には「テレクラって怖いな」「無茶苦茶やる連中だな」と凍り付いている者もいたが、「バカだな」「恥ずかしいやられ方だぜ」「ちょっと笑える」と冷たいことを言う者の方が多かった。

その後、犯行グループが逮捕されたことを新聞の報道で知った。

何とH川をハメた相手は女子高生を装った女子中学生であり、ボコったのも同じ中学に通う二年生や三年生の悪ガキども8人だったことが分かった。

25歳のH川は中学生たちにハメられ、一晩中いいように痛めつけられていたのだ。

彼らはまず女子中学生がテレクラを使って相手を人気のない公園に呼び出し、いざ相手が来ると人数を頼みに金品を脅し取る、という分かりやすい手口を使っていたという。

H川は二回目に会った時にやられたが、おそらく一回目は相手を見極めていたと思われる。

H川以外にも引っかかった者がいたらしく、警察は余罪を追及しているようだったが、犯罪被害のきっかけがきっかけだけに泣き寝入りしている被害者も多いことだろう。

彼らはそれを見越して相手が大人しく金を出しても、調子に乗ってさんざん暴行を加え、友人知人にも金を持ってこさせようとするほどの向こう見ずな悪事を働いていたのだ。

ただし、今回はH川を公園に放置したためにその犯行が露見してしまったらしい。

ちなみにH川を指しているに違いない被害者についても新聞は触れており、『アルバイトの男性(25歳)は財布とATMから合計6万円を脅し取られて暴行を加えられ、顔と下半身に全治二週間の怪我』と報道されていた。

25歳のくせに全所持金が6万、それと新聞記者も「下半身」の三文字は余計だろうに。

H川はそれ以降職場に姿を現さなくなってしまった。

あれだけ職場で「相手は女子高生だぜ」とか自慢して周ったあげくまんまとハメられてシメられ、報道までされてしまったんだから、みっともなくて顔を出せるわけがない。

と言うより、外出すること自体怖くなってしまったはずだ。

私も中学生の時にカツアゲされた経験があるからわかるが、見ず知らずのおっかない奴らに脅されてドツかれたりして金を巻き上げられる体験は半端じゃない恐怖で、その後しばらく街を安心して歩けなくなるくらいの災難なのだ。

しかもH川の場合相手は中学生で、そんなガキどもに長時間好き放題やられて、マックスの恐怖と屈辱が相乗効果を発揮した人生最悪の体験だったはずだ。

その後はその後で醜態を大勢の人にさらしてしまい、きっと一生忘れられない悪夢となったことだろう。

相手方の中学生たちにとっては面白かったに決まってる。

あんなことするような奴らだから、同級生の女相手に鼻の下伸ばしてやって来たひと回り以上年上の男を痛めつけるのは快感だったに違いない。

使命感すら持って「自分がこれやられたら嫌だな」ということを思う存分やって、少年法で保護される対象年齢ど真ん中だったから、大した罪にも問われなかったはずだ。

いい思い出になったとか、三十代半ばになった現在でも居酒屋とかで笑いながら語ってたりしてるかもしれない。

若気の至りだったから仕方がないとか言って、大して反省もしていないのではないだろうか。

世の中そんなもんだ。

職場の連中も冷たい奴ばかりだった。

仲が良かったはずのM田もK保もあの一件について「あいつは女と付き合ったことが全然なかったからな」とか「せっかく気合い入れてイメチェンしたのに、チン毛まで剃られてかわいそうに」と笑顔で語り、「しかも相手中坊だぜ」とも言って笑ってたけど、その中坊に脅されてお前たちもビビったんじゃなかったか?

職場のみんなもH川ネタでしょっちゅう盛り上がってたんだから彼も浮かばれない、死んではいないはずだけど。

やられた動機も動機だし、しょせん他人事ということか。

世の中そんなもんなんだろう。

私はあれからしばらくして別の就職先が決まったため、派遣工を辞めた。

以来、M田はじめ職場の誰とも連絡を取っていないからH川のその後は知らない。

20年以上経った現在のH川はもうさすがに立ち直っているとは思うが、忘れてはいないだろう。

その気になってスケベ心をときめかせて行ってみたら美人局で、寄ってたかって裸にされて縛られ、ひと回り以上年下のガキどもに一晩中いたぶられながら「やめてください」とか懇願し続けた情けない体験を笑って話せる日など来るわけがない。

本当の話、私はH川にさほど同情していないことを告白する。

私もカツアゲされたことはあるが、中学時代の話で相手も中学生だったし、きっかけもやられ方もあそこまでカッコ悪くはないはずだ。

25歳の男のザーメン臭い純情が中学生に踏みにじられたんだから、滑稽極まりない。

ふざけたことした中学生どもにはもちろん頭に来るが、客観的に見て「犯人への怒り」が四割くらいで「H川の自業自得」が五割ほど、「H川が気の毒」に至っては一割未満というのがこの一件に対する私の正直な感想である。

そう思うのはしょせん私にとっても他人事だからだろう。

世の中そんなもんだ。

違う?

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高校デビューした少年 – O農業高校とK田の変容の物語


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高等学校の中には、素行不良な生徒の占める割合が異様に高い学校がある。

約三十年前の1990年代のことなので現在はどうか知らないが、私の郷里の県立O農業高校がまさにその典型だった。

大学進学率は一ケタどころか小数点第二位で測定不能、その反面で退学率が二ケタ台で出席番号がしょっちゅう若くなるという凄まじさ。

反社会人予備校か出入り自由の少年院としか考えられない環境の高校で、中学時代はおとなしかった生徒も入学すると悪くなり、悪かった生徒はより悪くなる。

真面目な生徒だと無事にそこでの学校生活を送れないからだろう。

逆教育機関と言っても過言でない学校、それがO農業高校だった。

そんな悪名高きO農業高校に、私の出身中学からも何人かの同級生が進学したが、その多くが見事に同校の校風に染まってヤンキー化。

その中には中学時代によくつるんでいたK田もいた。

K田の高校デビュー

中学時代のK田は真面目というか気弱な生徒で、学業成績も破滅的だった。

中学卒業後の進路を聞かれた時に「高校進学」と答えたら、周囲から「爆弾発言」とからかわれたくらいだから、小学校低学年程度の学力を有しているか日本生まれのヒト科でありさえすれば入学できるとまで言われていたO農業高校しかなかったようだ。

そんなK田と私は同じく気弱で、腕力に劣るスクールカーストの底辺に位置することからそこそこウマが合い、中学では一緒であることが多かった。

卒業後、私は一応進学校の県立O西高校に進学したが、それとは対極のO農業高校に入ったK田とは家が比較的近所ということもあって中学時代の関係は続いた。

K田に異変が生じ始めたのは高校に入学してほどなくだった。

やはり入った高校がO農業高校だったからだろう。

彼は坊主頭だったが、心なしか剃り込みを入れているような気がしてきたし、眉毛の形も以前とは違う。

そして会うたびにその剃り込みは深くなり、眉毛も細くなってゆき、変形ズボンを穿いた本格的なヤンキーに変身するのに夏休みまでかからなかった。

外見にリンクして言動も変化。

「どけや、くそガキども!」と声を荒げて小学生を蹴散らすし、タバコを吸うようになったし(銘柄は「エコー」)、私に対する態度も変わってきた。

極悪校O農業高校の生徒であることをなぜか誇りとし、進学率のそこそこ高い普通科高校の生徒を十把一絡げにシャバ僧とバカにし始めていたからだろうか。

K田の口調はだんだんガラが悪くなり、「ジュース買ってこい」だの「タバコ買ってこい」だの私をパシリ扱い。

この時点で友人関係を解消してもよかったが、私自身まだ高校でつるむ友人に乏しかった頃だったために、彼との付き合いはしばらく続いた。

ヤンキーと言えば格好だけではだめで、ある程度ケンカっ早くなければならないことくらい私でも知っている。

彼もいっぱしのヤンキーを気取っていたから、私にO農業高校の恐ろしさを語り、よく学校の内外で誰かとモメたことを自慢するのが好きだった。

そして、私にも「気に食わん奴がおったらぶん殴ったらなあかんぞ」だの「ケンカにガタイも人数も関係あらへん、根性や!」などと忠告。

おそらく覚えたばかりのケンカのやり方や人の殴り方を頼んでもいないのによく教授してくれた。

こっちは誰かを殴ったりしたら退学になりかねない進学校の高校生なのだ。
はっきり言って余計なお世話であった。

K田の試練~生意気な中学生に対して~

そんなK田のヤンキーとしての資質を問われる出来事が私の目の前で起きたのは、その年の夏休み後くらいの休日だった。

その日、私とK田は自転車に乗って中学時代の友達の家に遊びに行った帰り道、前から歩いてくる我々の出身中学の在校生二人に出くわした。

直接面識はないが、二人とも知っている顔だ。

私の二歳下の弟と同学年の、確か名前はT島とS本で、我々が在学中に一年生だったからその時は中学二年生。

部活帰りらしく中学校の体操着姿のため、悪そうな見かけはしていなかったが、どちらも体格が良くて見るからに強そうだった。

それもそのはず、二人とも柔道部に入っていた記憶がある。

高校一年生の我々が自転車で彼らに近づいた時、中学二年生のT島とS本の顔は我々の方、特にK田に向いているような気がした。

そして通り過ぎた後もこちらを見続けている。

ガンをつけているという程ではないが、ニヤニヤしながらバカにしたような顔でだ。

「なんやあいつら?」とK田は自転車を漕ぎつつ、後ろを振り返りながらイラつき始めた。

T島とS本は相変わらずこちらを見ながらヘラヘラして、挑発しているとしか思えない態度である。

K田は二人を睨みながら「やったろか中坊ども!」とうなり始めた。

ケンカする気なのか?相手は中学生とはいえこちらよりガタイが大きい。

しかもあいつら柔道部だぞ。

私はそう懸念したが、K田の怒りはもう制御不能だった。

「てめえらやんのか!?コラ!!」

K田が中学生二人に向けて怒声を発した。

しかしそれは、

彼らから100メートル以上の距離に達してからだった。

そして前を向くと、そのまま自転車を漕いで遠ざかって行った。

時々後ろを振り返りながら、心なしかスピードを上げて。

振り向いて見てみると、遠くのT島は大笑いし、S本は「来てみろよ」とばかりに手招きしていた。

確かK田は「気に食わん奴がおったらぶん殴ったらなあかん」とか「ケンカにガタイも人数も関係あらへん、根性や!」とか私に言ってたはずだ。

そういうのは範で示さなきゃ説得力がないと思うが。

「あいつら殺したる」と、彼らの姿が見えなくなった安全圏でいきり立つK田のヤンキーとしての資質に私の中で疑念が生じ始めた。

それからさすがにバツが悪くなったのか、ケンカについて講釈を垂れなくなったK田だが、彼の本当の試練はその後日にあった。

K田の最後~本物の不良少年に対して~

中学生たちとの一件から一か月ほど後、私とK田はゲームセンターでゲームをしていた。

ケンカの自慢話はしなくなったとはいえ、K田は相変わらず横柄な態度で私に接しており、高校でまともな友達ができ始めた私は彼との関係の解消を考慮し始めていた頃だ。

我々はゲーム機に隣り合って座り、それぞれのゲームに興じていた。

私はゲームセンター版「ゼビウス」を、右隣のK田は「エコー」をくわえて「スターソルジャー」をプレイし、時々ゲーム機の右隅に置いた灰皿に灰を落としていた。

その日の私は絶好調で高得点を重ねて初めてのエリアに突入。

これからが肝心という最中だった。

横からK田が私をつつき「おいおい、あのさ」と話しかけてきた。

その声はいつものガラの悪い命令口調ではなくやたら切迫した弱々しい感じだった。

「何?」私はゲームに熱中してたので顔を上げずに聞き返した。

「あそこにいる奴なんだけど、こっち見てへんか?」

「え?どこの?」

「あの『アフターバーナー』のトコにおる金髪の奴」

そう言われてから、顔を上げて戦闘機ゲーム「アフターバーナー」の方を見たら、いた!確かに金髪のリーゼントでスカジャンを着た少年がこっちを見ている!

90年代初頭の地方都市O市で、未成年で金髪にしているのはグレ方が半端じゃない奴とみなされていた。

実際その金髪少年は相当悪そうで、目つきのヤバさもかなりなものだ。

グレたばかりのK田とは貫禄が違いすぎる。

そんなのがこっちを睨んでいたから私も思わず目を伏せた。

もうゲームどころじゃない。

横のK田も目を伏せており、「なあ、どうしよう?どうしよう?」とこちらを向いたその顔は今にも泣き出しそうだった。

そんなの私に振られても困る!完全に気弱だった中学生時代のK田に戻っている。

「あ、ヤバイこっち来た!」
顔を上げると、その金髪がタバコを吸いながらこちらに近寄ってくるのが見えた。

再び目を伏せてから隣のK田を見ると、彼はより深く顔を伏せて目をきつく閉じ、膝をがくがく震わせていた。

「おい、オメーよぉ」

その声で顔を上げると金髪はK田のゲーム機の右横まで来て、彼の座っているゲーム機を蹴った。

顔を伏せていたK田がビクッとする。

次にタバコの煙をK田の顔に吹きかけた後、おびえるK田の髪をつかんで顔を上げさせ、「オメー見かけん顔やな、どこのモンや?」と凄み始めた。

金髪は前歯が二本欠けていた。

「あの、あの、O農業高校です」と震えながら答えるK田に、「農業ふぜいがナニ偉そうにしとるんじゃ」と言い放つ。

この金髪の本格的不良少年には極悪校O農業高校のブランドも通じない。

「それとよ、オメーさっきからえれぇ調子こいとりゃせんか?おう?」

「いや、そんな…。別に調子こいてないで…、アチイッ!!

金髪に火のついたタバコを顔に押し付けられたK田が悲鳴を上げる。


「ま、ちょっと話あるからツラ貸せや」

そう言うと髪を引っ張ってK田を無理やり立たせた金髪は私を睨んで、「そっちのゴミは失せろ」と出口に向けて顎をしゃくった。

否も応もあるわけがない。

私は一目散にゲームセンターから退散した。

自転車置き場に置いた自分の自転車のカギを、手が震えてうまく外せない私の耳に「オラ!来いや!」という金髪の怒声と、「すいません!」「勘弁してください!」というK田の叫び声が入ってきた。

それが、ヤンキー少年としてのK田を見た最後だった。

K田のその後

その日以降彼からの連絡がなくなり、見殺しにした私もあえて連絡しようとしなかったが、とりあえず殺されてはいなかった。

何週間かした後で学校帰りのK田と不意にばったり出くわしたのだ。

彼は中学時代と同じ丸坊主で眉毛も剃っておらず、学ランも変形ではなくなって普通の高校生の姿になっていたが、私から目をそらしてそそくさと立ち去った。

私との関係は終了したが、奴はすっかり更生したようだ。

いや、ヤンキー生命を絶たれたのではないだろうか?

あの金髪にヤンキーをやるのが嫌になるくらい怖い目にあわされたに違いない。

あの時のK田の、あのおびえ方を目の当たりにした私はそう感じた。

ヤンキー少年、少なくともK田のような中途半端な即席タイプを、形がどうあれ更生させるのは善良な人である必要はないのかもしれない。

悪いことをすることがどれだけ間違っているかを教えるより、どれだけ怖いことかを分からせた方が効果的なのだ。

それを分からせられるのは本当に悪い奴しかいない。

あの金髪のような本物も使いようによっては、O農業高校のような極悪校の生徒を少しはまじめな学生に近づけることができるのではないだろうか。 

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相談を殺す者たち – 悩み相談での失敗エピソードと教訓


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悩みごとや困ったことがあって人に相談したはいいが、解決にならないどころかその相談相手の言うことに腹が立ったり、却って悩みがより深刻になったりしたことはないだろうか?

そりゃ、確かに悩みを抱えた人間の相手をするのはめんどくさい。

でも、せっかくこっちが苦しい胸の内を吐露しているのに、ボケたような返答をされたり、余計にガチャガチャにされたりすると腹が立たないか?

今まで何人もそういう奴に出くわしてきた。

みみっちい性格の私は、時々思い出してはムカッと来る時があって、今日はどうしても我慢ができないので、特にタチが悪かった奴を告発してやる。

●ケースその1―中学の同級生・K原Y之―

こいつは、二十年以上経った今でも本当に頭にくる。

K原は中学の同級生で、お互い別々の大学に入学してからもよくつるんでいた男である。

中学時代から、自分に興味がない話は明らかにスルーしていることが多かった気がしていたが、長年の付き合いだからと心を許して悩みを打ち明けてしまった私も愚かだった。

あれは私が前から狙っていた後輩の女子生徒にコクって、けんもほろろに断られたことを、居酒屋で一緒に飲んだ際に愚痴った時だった。

私の愚痴がまだ終わらないうちに、K原は「オレが今付き合っている彼女なんだけどさ…」といきなり自分の彼女のことを語り始めた。

最初、自分の場合どうやって付き合うようになって、その経験から私の場合ならどうすればよかったかを分析しようとしてくれてるのかと思った。

だが、その彼女と普段どこへ遊びに行くかとか、自分にベタ惚れだのセックスの相性はサイコーだの、いつまでたってもおのろけ話が終わらない。

そして、いつの間にか元カノについて話がおよび、更にその前の彼女やらナンパして食った女も含めて、今まで二十人以上経験したとか、聞き流すのがだんだん限度になり始めた直後で、「まあそんな感じ」と結んだ。

話聞いてたか?私のさっきの相談は一体どこ行った?

「そんな感じ」で話は終わったようだが、今の話はどう私のためになったんだ?

相談を自慢で返してくるとは思わなかった。

そん時は他にも人がいたので怒りを奇跡的に我慢したが、本当に腹が立ったのは就職活動の時だ。

当時は就職氷河期真っただ中で、私は八月になっても内定をもらえず焦っていた。

そして、よりによって私は再びK原を相談相手にしてしまった。

その日、我々二人は居酒屋に入り、酒席で私は自分の苦境を打ち明けた。

私:「Nネットワークもダメだったし、この前受けたS工業も今日不合格の通知が来た、もう後がない。どうしよう?夏休みなのにまだ休めない」

K原:「俺はPアプリケーション株式会社の内定もらってたけど、W製作所に行くことに決めた。すごくない?夏休みは彼女と韓国に行く」

分かってて言ってんのか?

こいつはひょっとしたら、相談を受けた場合のあるべき対応、はたまた相談という概念自体が脳内に存在しないのだろうか?

長年の付き合いだが、こいつと私の脳内のOSは、ここまで異なるものだったのだろうか?

「あのなあ、そういう話じゃなくて、俺は今…」

「それよりさ、相談に乗ってやってんだから、今日はお前のおごりだからな」

一応相談だということは分っていたらしい。

結論、こいつは私にケンカを売ってる。

その後、私が吼えたため、居酒屋の他の客が静まり、店員が割って入ってくるほど場が険悪になった。

この一件でK原とは断交し、それ以来、連絡は取っていない。当然だろう。

K原は極端な例の一つだったが、相談にならないバカは世の中にまだまだ存在した。

●ケースその2―以前の会社の上司・S山T三―

こいつは最悪。

ケースその1のK原より悪質だ。

S山は私がやっとの思いで内定を取って、最初に勤めた印刷会社の上司である。

「俺は仕事に厳しい人間だ」と、胸を張ってパワハラをしてくる男だった。

身も心もブタそのもので、大した技量もないくせに仕事人風を吹かせ、態度だけは人間国宝。

口ずっぱく「一を聞いて十を知れ」「仕事は目で覚えろ」と、テレパシー受信能力の習得を強制して、ロクに指導もせずに業務を私に押し付け、失敗すると私の責任。

そんな仕事の上でも人間的にも全く尊敬できるところのないS山に、私はそもそも自発的に悩みを相談したことはない。

ではなぜケースとして取り上げたかというと、親見になってることをアピールしたいのか「困っていることがあったら言ってみろ」と、こちらが悩んでいることを白状させたり、困っているであろうことを、相談してもいないのに返答してきたりしたからだ。

しかも、その返答がムカつく!

「なぜ怒られるかわかるか?怒られることをするお前が悪いからだ」
「わからないわからないじゃない。わからなきゃダメだ!」
「お前の悩みなど大したことはない。世の中お前より苦しい人間などそこら中にいる」

そもそも、相談に対する答えになっていない。

それと、「世の中、お前より苦しい人間などそこら中にいる」ってどういうことだ?

じゃあ何か?脱臼した人に、骨折した人はもっと痛いから我慢しろとでも言うのか?父親を亡くした人に、両親亡くした人に比べれば大したことないとでも言うのか?

そして最後に「それじゃあこの先お先真っ暗だぞ、どうすんだお前?まあ知らないけどね」などと結んできたりして、「まあ知らないけどね」なら、いちいち偉そうに言ってくるな!という感じであった。

厳しいことを言ってるつもりだったようだが、こちらとしては相談に答えてやってる風のこき下ろしでしかなく、無理やり悩みを言わされた上に、奈落の底に落とされたとしか思えなかった。

そもそもあの会社での私の悩みは、S山の存在自体だったのだ。

●ケースその3―私の実父―

私の実の父親だから、そりゃあ親見なのは当たり前だし、私のことを考えてくれてるのもわかる。

だが、悩みを相談することによって救われるか救われないかは別問題だ。

この人の良くない点は、相手の話どころか、自分自身が何を話しているかも理解していないのではないか?ということである。

私の話を聞いていないわけではないはずだが、脳内で間違って解釈しているらしく、てんで頓珍漢な返答をしてくるのだ。

タイプ的にはケースその1のK原Y之に近いが、その返答の長ったらしさと内容のカオスぶりが比べ物にならない。

小学校五年の時に、足が遅くてクラスでバカにされてることを相談したら、なぜ「孟母三遷の教え」の話が出てきて、そろばん塾へ通えという結論に至るのか?
高校二年の時に原付免許を取りたいと相談したら、いつの間にか、三角関数の講義と野口英世の偉人伝が始まって、「これからの世界情勢は厳しい」という展開になったのはなぜだろう?

普段から多芸多趣味を誇り、博識を気取っていたからタチが悪い。

自分の息子のことだから真剣だったらしく、話も異様に長かった。

虫歯が痛むから歯医者に行ったはずなのに胃カメラ飲まされ、「水虫があります」と診断されて、目薬を処方されたような気分になる。

小学生の時からこんな調子で、私は大学入学前の時点で、この人に重要な相談をしてはいけないことを悟っていた。

ちなみに恐ろしいことに、この人物の職業は中学校教師であった。

理科担当だったが、あの調子でちゃんと授業になってたんだろうか?

まさか、理科の授業で「ファラデーの法則」を説明してる最中に、「大宝律令」や「徒然草」の話を始めたりしてたんじゃないだろうな。 それか、返答に困る相談をうやむやにして、こちらから取り下げさせる戦術だったのかもしれない。

他にもいろいろと相談してはいけなかった相手に出くわしてきたが、反面教師以外の何者でもない彼らからは、学べることがある。

それは、

悩みや相談は「黙って聞け」

ということだ。

そして

「あまり偉そうにペラペラアドバイスするな」

だ。

他人に悩みを打ち明けられたり、相談を持ちかけられるということは、解決策を求められているというより、ただ聞いて共感してもらいたいという場合もあるのではないだろうか?

それを何とかしてやりたいと思うあまり、何らかのアドバイスを長々としたとしても、それが相手にとって救いとなるとは限らない。

むしろ逆効果であることが多い気がする。

また、そうやって相談されると無意識に自分が偉くなったような気になってしまい、ついつい上から目線で偉そうなことや余計なことを言いたくなってしまうのかもしれない。

そういうマネはあまりにもみっともない。

私は相談してくる人間の話を黙って聞き、話させることによって相手の気分を晴らすというスタンスを取っている。

そして解決策が道理的にも個人的にも明らかだと確信できる事柄に対してのみ、手短に返答することにしている。

卑怯かもしれないが。

だから先日、職場の新入のA川に「彼女がいても、昔から他の女にもついつい手を出しちゃって、今は四股になっちゃって困ってるんですよ」という自慢風相談を我慢して聞いてやった後は、明確かつ手短かに返答した。

「去勢しろ。そうすればもう困らない」

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