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知られざる女子高生コンクリ詰め殺人発覚当時の報道(後編)


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1989年3月に発覚した、足立区綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人。

2022年の現代になっても語り継がれ、世界的にも知られている悪名高きこの事件は大きく報道され、1989年の日本に大きな衝撃を与えた。

殺された女子高生・古田順子さんは不良でもないし、犯人たちを怒らせるようなことは何もしていない。

上場企業の部長職を務める父と母、兄と弟の三人兄弟という健全な家庭で育っており、家族思いで母親の家事もよく手伝い、近所の人にも挨拶ができたため「よくできた娘さんだ」と評判だった。

学業成績や学校での素行にも問題はなく、身も心も華のある彼女は、友達も多かったという。

かといって傲慢な態度をとることは全くなく、誰からも愛されていたのだ。

そんな順子さんが、卒業後の進路として家電量販店への就職が決まり、残りわずかとなった高校生活を満喫していた頃に、宮野ら鬼畜たちの毒牙にかかり、若い命を絶たれてしまった。

理由はただひとつ。

彼女の容貌が、彼らにとっても魅力的だったからだ。

おまけに彼らは、欲しいものがあったらモノでも人でも、奪うことを無計画に繰り返す無法者たちでもあった。

両親や兄弟はもちろんのこと、同級生たちも彼女の死を悲しみ、葬式では、慟哭の嗚咽がこだましていた。

そして、葬式にはいなかったが、家族と同じくらい深い悲しみと喪失感に打ちひしがれ、怒りに身を震わせていた人物がいた。

順子さんの彼氏である。

彼氏が語る順子さんと過ごした日々

彼氏であることを自ら名乗り出て、某女性誌のインタビューに応じ、同誌記者にそのやるせない心情を語ったのは、川村(仮名)という建築作業員の23歳の青年であり、順子さんとは歳がやや離れている。

高校を中退しているが、犯人の宮野たちのように当然の権利のごとく道を踏み外すことなく、まじめに生きてきた勤労青年だ。

川村青年が語ったところによると、順子さんとの出会いは、事件が起こる前の年のクリスマス。

友人の一人が順子さんの親友と交際しており、その縁で初めて顔を合わせた。

「目が大きくて明るい子」

それが、川村青年の彼女に対する第一印象だったという。

それから二回ほど、その友達も含めた複数名で遊びに行ったりしてほどなく、本格的な交際が始まる。

川村青年のことを気に入ったらしい順子さんの方から、「今度は二人だけで会いましょう」と言ってきたからだ。

付き合うようになってすぐに迎えたバレンタインデーの日。

お菓子作りが好きだった順子さんは、手作りのチョコレートを贈ってくれた。

2月は彼女の誕生日でもあり、チョコレートをもらった川村青年は18金のネックレスを贈る。

それから、週に一回くらいデートをするようになったのだが、順子さんはいつも律儀にも、そのネックレスをつけてきた

また、彼女は普段から非常に気が利き、六歳も年下なのにこちらの気持ちを察してくれたらしい。

非の打ちどころのない子だったのだ。

夏になると、川村青年の運転する車でよく海へ一緒に遊びに行ったりして、1988年という年は、幸福に満たされて過ぎていく。

やがて秋になり冬が近づいてきたころには、「冬になったらスキーに行こう」などと話し合ったりもした。

秋も深まった11月23日は、川村青年の誕生日。

その日のデートでは、順子さんはセーターを持ってきてプレゼントしてくれた。

彼女の手編みの黒いセーターだった。

その日は、二人で食事をしてボーリングを楽しみ、順子さんを自宅まで送り届ける。

「またね!」

別れ際、笑顔で手を振る順子さん。

この時、川村青年はこれが順子さんを見た最後となるとは、つゆほども思わなかったに違いない。

だが、この最高の彼女はその二日後、青年の元から永遠に奪われることになる。

彼氏の悲憤

デートから四日後の27日。

順子さんの母親から、ただ事でない連絡を受ける。

娘が、学校の制服のまま失踪したというのだ。

自分の彼女が消えて、平然と構えていられる男などいない。

川村青年は心当たりのある所を血眼になって探し始めた。

休みの日はもちろん、仕事が終わってからも。

そのさなか、再び順子さんの母親から連絡が入り、順子さんが「家出しただけだからすぐに帰る」と、電話で伝えてきたことが知らされる。

これは当の母親はもちろん、川村青年も「これはおかしい」と感じた。

不自然すぎるし、何かあったのなら共通の知り合いに真っ先に連絡があるはずだと考えたからだ。

何かよくないことが起こっていることを、彼はこの時点で確信したという。

事実、この電話は監禁されている最中に犯人によって言わされたものだったことが、後の調べで判明している。

その後も、川村青年は独自で必死の捜索を続けたが、何の手がかりも得られない。

昨年順子さんと出会い、今年は一緒に楽しむはずだったクリスマスが過ぎ、年が明けて正月も過ぎ、バレンタインデーも過ぎ、彼女の18歳の誕生日も過ぎた。

そして3月30日。

その日は、川村青年にとって、それまでの人生で最も悲しく、最も怒りを覚えた日となる。

埋め立て地のコンクリート詰めのドラム缶の中から、順子さんがむごたらしい死体となって発見されたのだ。

その知らせを聞いた後、川村青年はフラフラと親友のアパートに転がり込み、悲嘆のあまり正気を失うまで酒を飲んだ。

4月1日、順子さんの通夜。

川村青年もひっそりと線香をあげに行ったが、翌日の葬式には姿を見せなかった。

その代わりに、彼女の死体が発見された埋め立て地に花を供えに行き、ひとりむせび泣いたという。

「もう順子ちゃんとは会えない」

4月の中頃、まだ悲しみと怒りの真っただ中だった川村青年は酒浸りの生活になっており、生前の順子さんに勧められて禁煙していたタバコをひっきりなしに吸いながら、涙声で記者に語った。

そして犯人たちについて話が及ぶと拳を握りしめ、当然ながら憤懣やるせない様子でこう言った。

「あいつらの顔は覚えた!出てきたら同じ目にあわせて殺してやりたい!!」

この取材までの間に、彼は被害者側の関係者として刑事から犯人たちの写真を見せられており、その顔を目に焼き付けていたのだ。

「あいつら人間じゃない!」

川村青年はそう吐き捨てながら怒りに震えていたという。

少年ならば何をやっても許されていた時代

そう、人間じゃない。

やったこともさることながら、逮捕されて刑事処分を受けた四人のうち三人が出所後に罪を犯しているから、本当にそのとおりだ。

宮野裕史は、振り込め詐欺の片棒をかついだ。

小倉譲は、出所後も反省するどころか周囲に犯行を自慢、そればかりか知人男性を監禁して暴行。

湊伸治に至っては殺人未遂まで犯した。

異様に軽い判決を下した裁判官の一人は彼らに、「事件を、各自の一生の宿題として考え続けてください」などと、迷言を吐いていたらしいが、そんな宿題をまじめにやるような奴らだと思うか?

90年代初頭、この事件を扱った書籍が何冊か世に出る。

そのうちの一冊の作者は、拘留中だった犯人本人たちにも面会して取材し、その著作で彼らの育った家庭環境などの面から、この事件を社会の問題として扱っていた。

それを読むと、まるで未成年だった犯人たちが、ゆがんだ家庭と社会環境の犠牲者であり、そのおかげでこの事件が“起こってしまった”かのような印象を受ける。

今から見れば、先のことだからわからなかったとしても、バカげた主張にしか思えない。

何歳だろうが、どんな環境で育とうが、救いようもなく悪い奴というのは世の中にはいるもので、まさしく彼らがそれに該当していることは、出所後に事件を起こしていることから、すでに証明されているではないか!

だが、事件が起きてからほどない、これらの本が出版された当時というものはまだ人間性善説が全盛で、社会の安全を守るために殺処分が必要なくらいのレベルの未成年の悪党が、世の中にいないことになっていたようだ。

現代ならば、未成年でも彼らのうち複数名が、無期懲役の判決を下されていたはずである。

あの時代から生き、凶悪犯罪を犯した者が少年だという理由で、甘い判決を下されるのを目の当たりにし、他人事ながら釈然としない思いをしてきた者から見て、犯罪に対してより厳しくなった点に限って言えば、今の日本は、あの時より良くなっているのかもしれない。

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知られざる女子高生コンクリ詰め殺人発覚当時の報道(前編)


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時代が平成になって間もない1989年3月29日。

ひったくりと婦女暴行により、練馬少年鑑別所に収監されていた宮野裕史(当時18歳)の自供により、異常な殺人事件が発覚した。

それは令和4年の現在の日本ばかりか、世界的にもある程度知れ渡ってしまうほどの悪名を誇る伝説的凶悪事件。

足立区綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人である。

この事件は翌日には新聞やテレビのニュースで報道され、やがてワイドショーや週刊誌にも取り上げられて、当時の日本社会に衝撃を与えた。

当時、中学3年生になったばかりだった本ブログの筆者は、そのころのことを未だによく覚えている。

三十年以上過ぎた現在では、同事件についてネットや書籍で語りつくされている感があるが、犯行が伝えられた当時の報道のされ方は、どのようなものだったのだろうか?

本ブログでは犯行の詳細はさておき、当時この事件がどのように伝えられたかをご紹介したい。

事件直後の報道=被害者にも非がある

翌3月30日、警察は宮野と共犯の小倉譲(当時17歳)の両名を埼玉県三郷市の高校三年生・古田順子さんに対する殺人・死体遺棄容疑で逮捕、事件はその日のうちに新聞・TVなどで報道された。

そして事件の現場は、ほどなくして共犯として逮捕された湊伸治(当時16歳)が両親や兄と住む民家の二階であり、事件前から不良少年たちが出入りするたまり場だったことが判明する。

当時、そんなハイエナの巣のようなところに、なぜ高校生の女の子がいたのか?という疑問が指摘された。

そして何より、下の階では湊の両親が居住していたのだ。

無理やり連れ込まれたとしたら、助けを求めなかったのはなぜか?と、誰しもが思った。

また、おそらく、取り調べでの犯人たちの供述をもとにしたのであろうが、

『順子さんが水をこぼしたのを少年たちがとがめたところ、反抗的な態度をとられたので、殴る蹴るの暴行を加えた。順子さんも抵抗したので暴行がエスカレートした結果、死に至らしめてしまった』

と報道した新聞社もあった。

このことから、

  • 被害者の少女も素行に問題のある、それなりの不良だったのではないか?
  • 家出か何かの事情で自ら望んでそこへ行き、何らかのトラブルを起こして、自業自得のような形で暴行を受けて、結果的に死んでしまったのではないか。

まだ事件の詳細が知られていない頃には、そんな印象を持った人も多かったようだ。

この1989年の前年には、名古屋でカップルが未成年のグループに殺される事件が発生しており、少年犯罪が、すでに成人顔負けに凶悪化していたことは、当時の社会でも認知されていた。

その一方で、どんな凶悪な不良少年でも、まさか何の罪もない女子高生を誘拐して監禁したあげくに、いじめ殺すほどのことはしないだろう、とも世間一般では考えられていた節がある。

つまり、被害者の女の子も、それなりのことをしなきゃそんな目に遭わないだろうとも。

どんな事件が起きても、不思議ではなくなってしまった現代ではないのだ。

だから、「殺された女の子にも問題があったはずだ」ということを、したり顔でのたまう識者すらいた。

それは、一人や二人ではない。

だが、この事件は世間が思っている以上に悪質だったことが、ほどなくしてわかる。

「そこまでするわけがないだろう」という当時の閾値を、大きく超越していたのだ。

遠慮がないマスコミ

事件が発覚した次の月の4月になると、だんだん犯行の経緯や詳細が判明してきた。

知る人ぞ知るとおり、宮野たちは最初から強姦目的で、不良少女でも何でもない女子高生を拉致して湊の家に監禁、42日間にわたって暴行・虐待し続けたあげく死に至らしめ、死体の処理に困ってドラム缶にコンクリ詰めにして埋め立て地に捨てた、という前例のない非道なものだった。

この情状酌量の余地の全くない猟奇的少年犯罪に、マスコミは色めき立った。

もともと、少年犯罪というのは社会の注目を集めやすい。

また、どんな残虐な殺人事件でも、どうも男を複数人殺すより女を一人殺す方が、悪いことに思われる傾向がある。

それも、殺されたのが若い女性だったりすると、世間の人々は怒りを覚えながらも、同時に大いに興味を持つようだ。

しかも、被害者が美女だったらなおさらである。

この事件は、それらの条件をすべて満たしていた。

マスコミも商売だから、それを見逃すはずはない。

そして、この時代のマスコミは、現代のそれより仕事熱心でモラルがなかった。

連日、ワイドショーなどは特集を組み、犯行が行われた家には取材陣が殺到。

加害者の母親を路上で追い回すならまだしも、悲しみに沈む被害者の家にもマスコミは押しかけて、インターホンを押して心情を聞こうとすらした。

そして、マスコミが去った後の被害者宅の近くにはたばこの吸い殻などのゴミが散乱していたというからあきれる。

また、あるワイドショーなどは被害者の少女の名を「ちゃん」呼ばわりしていた。

幼女ではないのだ。無遠慮にもほどがあるだろう。

テレビでも新聞でも、被害者の写真が何のためらいもなしに公開されていたが、週刊誌はこの点で、ことさら露骨だった。

某女性誌などは、事件の内容を伝える記事とともに、どこから入手したのか、被害者が夏休みに旅行に行った際の写真を複数枚掲載。

その中には、水着姿の写真まであった。

だが、それだけに飽き足らず、くだんの某女性誌は切り札を出してきた。

それは、被害者の彼氏のインタビューである。

つづく

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仙台アルバイト女性集団暴行殺人

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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2000年(平成12年)12月24日、宮城県仙台市でアルバイト店員の女性、曳田明美さん(仮名、20歳)が暴力団員を含む8人の男女に拉致されて6日間にわたるリンチの末に殺害され、遺体は灯油で焼かれて遺棄されるという悲惨な事件が起きた。

こんなむごい殺され方をするなんて、この曳田という女性はよっぽどのことをしでかしたんだろうか?

いや、実は全く何もしていない。

グループの一人の一方的で身勝手な思い付きとその他全員の勢いだけで監禁され、何の落ち度もないのに残忍な暴行を加えられ続けて殺されてしまったのだ。

犯人たちと事件の発端

この凶行を犯したのは、某広域指定暴力団組員の平竜二(仮名、25歳)、大野和人(仮名、21歳)、平の弟分で同組員の猪坂大治(仮名、21歳)、大野の彼女である木場志乃美(仮名、21歳)、田中久美子(仮名、20歳)、兼田亮一(仮名、19歳)、高橋衛(仮名、18歳)、赤塚幸恵(仮名、19歳)の男女8人である。

もっとも、ずっと以前からつるんでいたわけではなく、事件が発生する直前までに知人を介して知り合って、たまたまその場に居合わせた者もいたという関係性が希薄な集団であった。

そして、当然どいつもこいつもまともな連中ではない。

暴力団員まで含めたこのろくでなし集団が、よってたかって一人の女性を死に至らしめることになる事件の発端は、被害者となる曳田明美さんとは全く関係がないところで始まった。

それは2000年12月中旬ごろ、一味の一人である木場志乃美のもとに、ある男からメールが送られてくるようになったことからである。

そのメールは、木場に対して気があるようなことをにおわせる内容であったが、木場本人にはその気はなかった。

むしろ、不快極まりない。

同じく一味の一人である大野和人と付き合っており、同棲までしていたからなおさらだ。

木場は、彼氏である大野にこの件を言いつけた。

メールを送ってきた男は大野の顔見知りではあったが、自分の女にそんなことをする奴は許せない。

「ふざけやがって。シメてやる」といきり立った。

大野は窃盗で少年院に送られたこともあるし、暴力団構成員の平や猪坂とつるんで、暴力団事務所にも出入りしているから準構成員と言ってもよいが、中途半端に危険な男だ。

だから、一人でやる気はさらさらない。

他のメンバーにも声をかけて頭数をそろえた上で、一味の親玉であり暴力団組員の平竜二にもお願いして仙台市内の組事務所マンションを使わせてもらうことに成功。

平はこの組の部屋住みらしく、普段この組事務所で寝泊まりしており、融通が利いたようだ。

ほどなくして12月18日夜に相手の男を事務所に呼び出すや、平らとともに殴る蹴るの制裁を加える。

さんざん殴られた男は顔を腫らして完全に泣きが入ったため、ヤキを入れる目的は順調に果たした。

しかし、調子に乗った大野は、おさまらなかったらしい。

「誰か、こいつ以外にヤキ入れてー奴いるか?ついでにやっちまおう!」などと言い出したのだ。

組事務を使わせてもらって気に入らない奴を痛めつけることができたから、のぼせ上っていたのだろう。

それに、すかさず答えた者がいた。

大野の彼女、この制裁の発端となった木場志乃美である。

「中学ん時の一コ下でさ、約束破った奴いるんだよね。そいつやっちゃおうよ」

「よっしゃ。で、どんな奴?女?」

「曳田明美って女。ウリ(援助交際)しないって約束したのにしやがってさ」

「おう、その曳田って女、今から呼び出せ」

親分気取りの平も了承し、惨劇の幕が切って降ろされることになった。

深夜の呼び出し

曳田明美さん(仮名)

曳田さんは、援助交際など全くしていない。したこともない。

健全な家庭で育っており、進路が決まるまで自分を見つめなおそうと普段ファミレスでアルバイトをし、夜間に出歩いて両親に心配をかけたりすることが全くない、まじめな性格の持ち主だった。

完全に木場のホラである。

そもそも両人とも、そこまで長く深い付き合いではない。

あくまで木場の供述なのだが、曳田さんは中学の後輩だったとはいえ、実際に木場との交友が始まったのは、事件が起こった年の3月ごろからだという。

また、実際には特に怨恨らしい怨恨も全く発生していないようだ。

にもかかわらず、木場はこの時もう日付けが変わって19日の深夜になっているのに、曳田さんを痛めつけるために呼び出そうと携帯に電話する。

一方、真夜中にいきなりの呼び出しの電話を掛けられた曳田さんは当然断った。

「もう夜遅いから無理ですよ。これからお風呂だし」

だが、しつこい誘いと「今から迎えに行くから」という強引さに根負けしてしまい、しぶしぶ了承してしまう。

この時のやり取りを、隣の部屋にいた曳田さんの妹が聞いていた。

普段、携帯電話で話をする時は、いつも楽しそうにしゃべっていた姉だったが、この時は本当に憂鬱そうな声で対応していたという。

第一、この付き合いは木場の一方的な思い込みであり、さほど親しい間柄でもない。

それどころか曳田さんの方は、つきまとう木場をできることなら避けたかったらしいことが、ある友人の証言で明らかになっている。

木場は性格が極めて陰険で、高校を中退してから窃盗などの犯罪歴を重ね、今では暴力団関係者とつるみ続けているクズ女だったからだ。

かと言って、お人よしすぎるところがあった曳田さんは、きっぱり拒絶することもできず、中途半端な状態が続いていた。

また、前述のごく少数を除いて、曳田さんの友人知人の中に木場との付き合いがあることを知っている者はいなかった。

木場が痛めつける相手として嘘までついて曳田さんを選んだ納得のいく具体的な理由は事件後に逮捕されてからも明らかになっていないが、木場の方は曳田さんのよそよそしい態度を感じて、ムカつき始めていたのではないだろうか。

自分勝手な奴に決まっているから、なぜ自分が避けられているか考えるはずもなく、「親しくしてやってるのに距離とろうとしやがって」と逆ギレし、その逆恨みの感情がきっかけになった可能性が高い。

曳田さんは、木場に言われるまま翌19日の午前4時に家を出て、迎えに来た大野と木場の車に乗り、前述のマンションに向かう。

あまりいい予感はしなかったであろうが、まさかこれから連日地獄のような暴行を加えられて、命を絶たれることになるとは思いもせず。

凄惨な暴行の始まり

大野と木場に連れられてマンションの一室に入った、曳田さんは凍り付いた。

その一室の雰囲気は暴力団事務所なだけに、とても普通の住居やオフィスとは思えないだけでなく、明らかに堅気ではなさそうな雰囲気の者たちがこちらを剣呑なまなざしで見ているし、何より顔を腫らした男が正座させられているではないか。

「オメーも正座しろ!」

木場が突然豹変して、高飛車に命令してきた。

何のことかわからないが、その場の雰囲気に押されて言われるがまま正座した曳田さんを、鬼の形相でののしり始める。

「何でヤキ入れられるかわかってるべが!?おめえ約束破ったろ!!」

「え、約束って…何のことですか?」

「しらばっくれんじゃねえ!」

木場は拳で有無を言わさず曳田さんの顔を殴った。

「オメー何だ!その態度はよう!おう!?」

完全にでっち上げなのに、まるで実際に許しがたいことをやったかのごとく檄高して怒声を上げて暴力をふるう。

いきなり暴行を加えられたショックに、曳田さんはされるがままだ。

「はっきりせいや!!」

彼氏の大野もここでやらなきゃ男がすたるとばかりに、曳田さんの髪をつかんで殴りつける。

その場にいた連中、平や猪坂以下ほかのメンバーも暴行に加担、無抵抗の彼女を殴るわ蹴るわ。

矛先は先ほどのメール男から、完全にシフトした。

木場の言うことが本当かどうか、又は相手が誰かなんて関係がない、みんながやっているからやる。

ならず者集団の一員ならば、やらなかったら他の奴にどう思われるかわからないし、その前に人を痛めつけるのは面白いと考えているはずの連中だから躊躇はない。

グループの親分格の平は曳田さんに木刀を突き付けて「殺してやろうか?コラ!何とか言えや!」などと脅し、髪をつかんで部屋の外に引きずり出して、非常階段の所から落とそうとすらした。

本来ならば最年長者の平はこの暴挙を止める立場にあるし、大の男が女性相手にここまでするのはみっともない、というのは一般社会の考え方である。

平竜二(仮名)

こいつは、反社会勢力である暴力団組員なのだ。

むしろ、皆に自分が危ないことをする人間であることを見せつけて「暴力ってのはこうすんだ」という模範を、示そうとすらしていた。

平は組の中では下っ端であり、事件発覚後にテレビの取材に応じた街の若者の一人には「ヤクザだけど大したことない奴」と陰口をたたかれていた程度の男だったらしいから、なおさら弱者相手だと威勢が良い。

さすがに曳田さんが大声で泣き叫ぶ声がマンション中に響いたため、弟分の猪坂が平を制止して、再びマンションの中に曳田さんを引きずり込んだ。

「ごめんなさい。もう勘弁してください」

一時間ほど暴行された曳田さんは泣きながら木場のついた嘘を認めて謝罪した。

全く何もやっていないにも関わらず。

手ひどい暴行で曳田さんの左目と左頬は腫れあがっており、木場の望みはかなった。

だが、これは始まりに過ぎなかった。

暴行を楽しむ犯人たち

犯人グループは曳田さんを十分に痛めつけたはずだったが、このまま帰すわけにはいかないと考えていた。

なぜなら顔が腫れて、何をされたか明白だったからだ。

彼女は実家暮らしだから、本人が通報しなくても家族の者がするだろう。

そこで一味は、曳田さんの顔の腫れが引くまで監禁することにした。

さらにアルバイト先にも電話をかけさせて、「ケガをしたから今日は休む」と言わせてバイト先から通報されないようにもする。

19日午前9時、平が全員に組事務所から出ていくように言い渡す。

部屋住みの平が事務所を自由に使えるのは、自分と猪坂以外の組員がいない時だけなのだ。

そこで大野と木場、田中は曳田さんを連れて仲間の一人である高橋の住むマンションへ向かう。

だが、このマンションで木場と田中は、曳田さんが携帯電話を握っているのが気に入らないと因縁をつけ始め、暴力をふるった。

その後、実家に「不良少女にからまれたところを先輩に助けられた。今は西公園の先輩の所にいる」と言うように命じ、実際に曳田さんはその日の午後に心配する母親からかかってきた電話に対してそのように答えている。

一味の者は、不良にからまれて殴られたことにすれば、顔に傷があっても不思議じゃないと考えたようだ。

その電話の後、母親にさっきと同じようなことを伝える電話をかけさせた後、外部へ連絡できないように曳田さんの携帯は破壊した。

当初一味は彼女の顔の腫れが引くまで家に帰さないつもりだった。

だが、やがてそれをぶち壊しにすることをやり始める。

またもや、理由をつけて殴り始めたのだ。

積極的なのは、やはり木場である。

性悪どころか極悪女の木場の目から見た曳田さんはぶりっ子なところがあり、お嬢様ぶってるような気がして気に食わない。

そして、暴力を振るわれたショックでしょげかえっている姿は、見ているだけで余計いじめたくなる。

木場は「和人、こいつオメーに犯されたとか言ってたよ」などとでたらめを大野に言ってたきつける。

やるならみんなと一緒の方がいいと考えるのは、こいつも同じなのだ。

「ナンだと?テメーみたいなの犯るわきゃねーだろ、コラア!!」

でたらめなことは百も承知な大野だが大真面目に激怒して、曳田さんをベランダに引きずり出して傘で殴った。

「もう許してください」と泣いて謝っても手は緩めない。

その場にいた高橋と田中も調子に乗って手を出し、後からマンションに来た兼田と赤塚も「俺らもやっていいっすか」などと言ってリンチに参加した。

もはや暴行する理由など、どうでもよかった。

彼らは後先考えずに、暴力を楽しむようになっていたのだ。

度重なる暴行で曳田さんの顔は余計に腫れ上がり、ますます家に帰せなくなる。

犯人たちは彼女の服を全て脱がせて、代わりにトレーナーを着せ、組事務所や仲間の家へ連れていく際は後ろ手に手錠をはめて車のトランクに入れていた。

監禁先は転々としていたのだ。

そして、監禁中は絶えず言いがかりをつけては集団で殴り、たばこの火を押し付け、髪を切り、頬をカッターで切ったりと暴行はエスカレートしていった。

犯人たちはグループ以外の知人の家にも連れて行ったことがあったが、その知人は度重なる暴行でむごたらしい姿となった曳田さんを見て仰天し、自分の家で凄惨な暴行が行われている間は目を背けていたと後に証言している。

だが、後難を恐れて警察に通報することはついになかった。

両親の捜索

曳田さんの両親は、愛娘がそんな目にあっているとは思ってもいなかった。

木場たちに監禁されることになる直前の18日、バイト先から帰ってきた曳田さんは家族そろって夕食の席についており、その時何も変わった様子はなかったからだ。

むしろ、目前に迫ったクリスマスには付き合っている彼氏が指輪をプレゼントしてくれるんだと母親にうれしそうに語っていたし、翌年に控えた人生の一大イベントである成人式に着る晴れ着が24日には受け取れると、ウキウキしていたのだ。

そんな幸せいっぱいだった曳田さんが姿を消した。

19日深夜に木場に呼び出されて、家を出た彼女は玄関の鍵を開けっぱなしにしており、その日の朝に起床した父親は不審に思ったが、娘は自宅二階の自室で寝ているんだろうと思い、この時点では失踪したとはつゆほども考えていなかったという。

彼女はバイトで遅番が多く、昼前まで寝ていることが多かったからだ。

その後、部屋におらず全く行方知れずになっていたことがわかり、心配した母親が同日18時に曳田さんの携帯電話に電話した。

この時は、まだ携帯電話を破壊されておらず、曳田さん本人が電話に出てこう話した。

「今、西公園(仙台市青葉区)のとこにいる。レディースにからまれて殴られちゃってね。バイト先には休むと連絡しといたけど」

これは木場たちに言いつけられた通りのことだ。

もちろん近くに木場たちがいて、余計なことを言わせないよう聞き耳を立てていたのは言うまでもない。

「え?どういうこと?」

「また後でかけなおすね」

そう言って電話が切れた。

ただ事ではないと感じた母親がその後、数分おきにかけたが一向につながらない。

この時、初めて娘の身に不測の事態が起きたことを、曳田家の人々は知った。

その2時間後の20時、今度は母親の携帯に曳田さんから電話が入って、以下のような会話がなされた。

「今も西公園の先輩の所にいるんだけど、先輩のおかげで助かった。今顔を冷やしてもらっているところ」

「どういうことなの?あと、さっき言ってたレディースって何なの?」

「…」

「とにかく早く帰っておいで。被害届けも出さなきゃ。顔は大丈夫なの?電車で帰れる?」

「大丈夫。帰れるよ」

「電車でモール(仙台市の商業施設)まで来なさい。迎えに行くから」

「わかった」

「着いたら電話するんだよ」

母親はそう伝えると電話を切った。

とりあえず、先輩とかいう人物に介抱されていることはわかった。

それを聞いた父親は「とりあえず、明美からの電話を待とう」と言って夜勤に向かった。

そして、これが曳田さんの声を聞いた最後となる。

父親は、職場に着いてからもやはり心配だったので、何度も電話を掛けたがつながらなかった。

家に電話しても、娘からの電話はまだ来ないという。

翌20日から、異常事態の発生を確信した両親はじめ家族の者は、曳田さんの友達に連絡するなどして、血眼になって娘の行方を捜し始めた。

「西公園の」という線からもその近くに住む娘の知人を捜したが、さっぱり見当がつかない。

前述のとおり、この時点で曳田家の人々もほとんどの友人たちも、娘が木場という女との付き合いがあったことを知らなかったため、犯行グループに近づくことができなかった。

突然の家出は考えられない。

彼女は非常にまじめな性格で、親に迷惑をかけることをこれまでしたことがなかったし、前日まであんなに楽しそうにしていたのだ。

失踪から5日目の12月23日、行方に関して何ら手掛かりが得られず、ひょっこり帰ってくるのではという望みも薄くなりつつあったため警察署に捜索願を出した。

警察も「レディースにからまれた」という話や、5日間も連絡がないことから、事件性が高いと判断して捜査に乗り出す。

その後、曳田家の人々は友人知人関係のみならず、近所で独自に聞き込みを行い、時には藁にもすがる思いで霊能力者にまで霊視を依頼して娘の行方を必死に探し続けた。

だが、曳田さんは家族が捜索願を提出した翌日には殺されていたのだ。

非業の死

曳田さんが監禁されてから5日目の12月23日午前11時ごろ、木場は大野らに車で送ってもらって、保護司との面談を行っていた。

前年に大野と犯した窃盗事件で2年間の保護観察処分を受けていたためだ。

面談を終えて、車で待っていた大野たちのもとに戻る木場の機嫌は最悪だった。

このむしゃくしゃは明美のやろうをいじめて晴らしてやると考えながら。

車に乗ると、仲間に「さっき警察が来ててさ、『お前ヒト監禁して殴ってるだろ?』って逮捕状見せられたから逃げてきたよ」と、愚にもつかない嘘八百を並べ始める。

曳田さんが通報したと、皆に思わせようとしているのだ。

「なにい?ふざけやがって!めちゃくちゃにしてやる!!」

大野たちは、ろくに疑いもせずに怒り出す。

午後17時、曳田さんを監禁している組事務所にやってきた大野たちは「平さんにも逮捕状が出てるみたいだぜ」などと、ここでも嘘をついて、余計に皆をあおる。

「テメー事務所の電話使って通報しただろ!」と、曳田さんを囲んですごんだ。

「そんなことしてません!何もしてないです!!」

涙ながらに訴えたが、意に介さず拳や灰皿で殴りつける。

さらに暴行により血を流し続ける口にティッシュペーパーを入れて火をつけて、悶絶する彼女を見て笑い転げた。

翌24日の午前1時、弱い者いじめが大好きな平は、これまでの暴行で顔が原型をとどめないほど変形して、青息吐息の曳田さんをたたき起こして正座させると、

「テメー通報したろう。埋めるぞ!」

と木刀を突き付け、風俗店に勤めるように要求。

誓約書や借用書を書かせた後、大野、高橋、兼田も加わって再びリンチを始めた。

無抵抗の女性の顔に拳を叩き込み、蹴り上げ、フライパンで強打する。

「…痛いです。もうやめてください…。いっそのこと殺してください」

と弱々しい声で哀願する曳田さんを、午前8時まで暴行し続けた。

これが、最後の暴行となった。

この日の午後3時の組事務所、曳田さんの様子がおかしいことに平が気づき、他のメンバーを集める。

すでにピクリとも動かず、鼻の上にティッシュペーパーを置いても反応がない。

曳田さんは楽しみにしていたクリスマスイブの日に、20年というあまりに短い人生を絶たれていたのだ。

そして、その日受け取るはずだった晴れ着を着て、成人式に参加することもかなわなくなった。

死体遺棄

人を一人殺してしまったにもかかわらずこの人でなしたちは、強がりだったのかもしれないが、何ら痛痒を感じない様子でこう言い合っていた。

「あっけねえ、もう死んだのかよ」

「自業自得だぜ」

「こんな奴、死んだって誰も悲しまねえべ」

「でも、死体どうにかしなきゃな。ダリいな」

平はいったん用事があって事務所を後にし、大野と木場も曳田さんの死体を残したまま外出して、ゲーム機を買って戻ってきた。

そして、平を除く7人はそのゲーム機に興じ、その間に曳田さんの死体にサングラスをかけるなどして笑い合っていた。

午後10時に平が戻った後、改めて遺体をどうするか相談が始まる。

薬品で溶かすとか海に捨てるとかの意見が出たが、結局事務所のあるマンション近くの山の中で燃やそうということになった。

男たちばかり5人は車2台に分乗して曳田さんの死体を積んでその山に向かい、途中で灯油を購入。

山の中で死体に灯油をかけて火をつけたが、なかなか思ったように焼けない。

「しぶといな。もっと燃えろよ」

などと、平は木の棒でつついたりして死体をもてあそんだ。

火が消えた後は焼け焦げた死体を引きずって斜面から投げ落とした。

「ここらはもうすぐ雪が積もるから、春まではバレねえべ」

などと言って現場を後にした。

一方、事務所で留守番をしていた女性陣のうち田中と赤塚は飛び散った血痕のふき取りにいそしんでいたが、木場は寝転がってふんぞりかえっていたようだ。

逮捕

このならず者たちは、曳田さんを監禁して暴行する以外にも悪事を働いていた。

21日、監禁していた曳田さんを車のトランクに入れて知人宅に向かう途中立ち寄ったコンビニで商品を万引き。

なおかつ、店で木場と田中ら一味の女に声をかけた男性二人を集団で暴行して金を巻き上げているし、その日の夜には目が合ったという理由で男性に因縁をつけてカツアゲしている。

22日には平と猪坂の所属する暴力団の忘年会に大野と兼田、高橋も平に連れられて参加。

ゆくゆくは正式な組員となる準構成員として、組長はじめ他の組員一同に紹介するためだった。

その帰り道にも、平以外の4人は通行人を殴って現金を脅し取っていたから、どこまでもクズい連中だ。

曳田さんを殺して山に捨ててから間もない12月31日、今度は平と大野をはじめとした男たち5人が仙台市内のファッションビルで男性5人を暴行、またもやカツアゲだ。

だが、これが悪運のツキとなる。

いつまでもこんな悪事を続けられるほど、仙台市は無法地帯ではない。

この時に兼田が現行犯逮捕され、年が明けた1月には平、猪坂、大野及び高橋も逮捕された。

そしてそのころ、曳田さんを必死に探す両親は娘の交友関係の中から木場の存在を突き止めて、何か情報を知っているのかもしれないと警察に情報提供していた。

警察も木場を曳田さんの失踪に関係があるとにらんで調べを進めていたところ、現在傷害容疑で拘留中の平たちとの交友があることが判明。

曳田さんのことを拘留中の男たちに問い詰めたところ、あっさりと死体を焼いて捨てたことを供述した者がいた。

供述したのは、何と親分格で暴力団員である平。

どうせバレるなら真っ先に供述して刑を軽くしようと考えたらしいが、当初のうちは「事務所で女が死んでいたので、処理に困って燃やして捨てた」と自分で殺したわけではないと言っていたから往生際の悪い奴だ。

あろうことか子分を真っ先に売るんだから、ヤクザとしても褒められたものではない。

平を同行させて山を捜索したところ、供述通り白骨化した死体を発見。

両親から曳田さんが生まれた時のへその緒を取り寄せて鑑定した結果、その死体は曳田明美さんの変わり果てた姿だと断定される。

無事に取り戻したいという両親の切なる願いは、無情にも絶たれてしまった。

その後、仲間の木場が連れてきた女を皆で暴行して死なせたと平が白状し、2月5日には木場を逮捕。

残りの田中と赤塚も逮捕される。

ちなみに、他のメンバーはすべて犯行を自供した中で、木場だけは最後まで否認し続けていた。

遺体発見現場

その後

この事件の初公判は2001年(平成13年)5月より開かれ、悲憤にくれる両親は、曳田さんの遺影を持って出廷していた。

仙台地裁は一審で「類を見ない非人道的行為」と指弾、被告たちも控訴しなかったために以下のとおり刑が確定した。

  • 大野和人、懲役12年(求刑懲役13年)
  • 木場志乃美、懲役10年(求刑どおり)
  • 平竜二、懲役10年(求刑どおり)
  • 猪坂大治、懲役9年(求刑懲役10年)
  • 田中久美子、懲役8年(求刑どおり)
  • 兼田亮一、懲役10年(求刑どおり)
  • 高橋衛、懲役5年以上10年以下(求刑懲役10年)
  • 赤塚幸恵、少年院送致

あれだけ残忍な所業をした割にはこの程度であったが、当時の日本では、これが限度であったようだ。

曳田さんの両親はその後の2003年(平成15年)、事件の実質的な首謀者であった木場と大野に対して約1億円の損害賠償を求めて仙台地裁に提訴。

和解協議の名目で、2人との対面を求めた。

自分の娘を殺した犯人と直接会って、どんな者たちなのか知りたかったのだ。

そして、本来ならば親族以外はできない受刑者との面会が実現。

2005年2月2日には栃木刑務所で木場と、3月1日には宮城刑務所で大野との対面を行い、和解が成立。

和解条項には7600万円の解決金の支払いと両親への「心からの謝罪」が盛られていた。

もっとも、法的には和解を成立させたとはいえ両親によると木場は泣いてばかりであったし、大野は謝罪はしたものの形ばかりのようでどこか他人事であり、両人とも心から反省している様子はうかがえなかったようだ。

2022年現在、この8名は全員刑期を終えて出所しているものと思われるが、あれほどのことをしでかした奴らがたった10年かそこらでこの社会に放たれていることに驚きと憤りを感じざるを得ない。

反省しているとか更生しているとかは関係ない。

こんな奴らが一般社会で、もしかしたら自分の近くにいるかもしれないなんて考えたくもない。

こいつらは死後、曳田さんのいる天国ではない方に行くことは確実なんだろうが、今すぐそこに送り込んでやりたいと思うのは私だけではないだろう。

参考文献―『再会の日々』(本の森)・河北新報

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1963年・森岳温泉の戦い – 秋田県森岳温泉の乱闘事件とは?


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昭和30年代は60年以上続いた昭和年間の中でも、特に芳しき芳香を放つ。

この時代に、憧憬の念を抱く日本人は実に多い。

その時代をリアルに知っている人はもちろん、まだ生まれていなかった人の中でも、古き良き時代だと認識されているようだ。

時はまさに高度成長期の時代。

オリンピックが開かれようとしていたし、いろいろな家電製品が出回り始めて、生活もどんどん便利になるのが目に見えて実感できていたから、その時代から見た将来は、令和の我々が見る将来より明るかったのは間違いない。

希望にあふれ、活気みなぎるさまが今に残る写真や映像からも、自ずと伝わってくるものだ。

そして同時に、映画『オールウェイズ3丁目の夕日』で描かれているがごとき、人情味にもあふれていたとされている。

なんてすばらしい時代だったんだろう!

でも、本当にそうか?

確かに人間味にも活気にもあふれ、発する熱量の高い時代であったのは事実だが、それは時として暴発することもあったようである。

秋田県・森岳温泉乱闘事件

当時の新聞

時は1963年(昭和38年)5月15日午後4時ごろ。

秋田県山本町森岳木戸沢の森岳温泉の某観光ホテルで、宿泊客同士の乱闘事件が発生した。

事件を起こしたのは、慰安旅行で同ホテルに宿泊していた秋田県能代市の土木会社の日雇い労務者たち約30人と、同じく慰安旅行で来ていた同市のパチンコ店従業員たち約20人。

双方とも同ホテルの広間で宴会を開いており、事件の発生した時間帯から推測して昼間から飲み続けていたものと思われ、いい感じで危険な状態にできあがっていたようだ。

きっかけはパチンコ店側が労務者をバカにしたからとも、労務者側がいちゃもんをつけたからだともされ、報道していた新聞社によって異なる。

きっと、どっちもどっちだったんだろう。

そしてこの乱闘、双方のうちごく一部がやっていたわけではない。

全員参加の総力戦だったのだ。

労務者側もパチンコ店側も女房や子供ら家族を同伴していたのだが、それら女性や子供までもが夫や父親の側に加わって相手側を攻撃。

宴会が行われていた大広間やホテルの中庭を舞台に怒声や金切りを響かせ、膳や食器が乱れ飛び、ビール瓶やどこからか見つけてきた棒で殴り合う。

障子やふすまはビリビリに破け、ガラスは粉々になった。

結局、ホテルの通報で警官40名以上が駆け付けて騒ぎを鎮圧したが、パチンコ店側から重傷者が二名出て、双方のほぼ全員が負傷していたんだからフルスケールの乱闘だったのは間違いない。

なんて気の荒さなんだろう。

現代だったら酒が入っていたとはいえ、暴力団か半グレでもない限り、こんな全員参加の団体抗争は起こりえないだろう。

昭和の人々は、右の頬を張ったら右ストレートを返してくる人々だった。

事実、昭和の日本の暴力犯罪発生率は平成や令和の現代より高かったという記録もあるし、安保闘争やドヤ街での暴動など機動隊が出動するような騒ぎだって、頻発していたからきっとそうであろう。

昭和30年代は悪い意味での人間味や活力にもあふれていたのだ。

こんな怖い時代に生まれなくてよかった。

令和の現代で本当に良かった。

でも、私は同時にこうも思うのだ。

こういう人たちだからこそ、日本を発展させることができたのではないかと。

暴力に訴える行為は一見害でしかなさそうだが、暴力をふるうにはエネルギーが必要なのだ。

そのエネルギーは負の方面だけでなく、正の方面にも発揮できる。

昭和30年代や40年代に、こういった事件や大規模なデモ隊と警官隊との衝突が起きていたのは、社会全体に活力がみなぎっていた証拠じゃないだろうか?

大地震や津波に襲われても騒動一つ起こさなかった平成の、そして令和の日本人とは、いい意味でも悪い意味でも違ったようだ。

日の出の勢いの国の国民は暴力的であるが、日が没する国の国民は紳士的なのではないかと、現代の日本を見てそう感じたのは私だけだろうか。

乱闘や暴動が起きるが未来が明るい社会と、ケンカも騒動も起きないが未来が暗い社会。

あなたならどっちを選ぶ?

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若き犯人たちの無謀な誘拐事件 – 1995年・足立区小二女児誘拐事件

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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1995年(平成7年)8月7日夕方、足立区の小学二年生の女の子が連れ去られ、身代金が要求される営利誘拐事件が起きた。

事件は翌日夕方、身代金の受け渡し場所に現れた犯人を警視庁の捜査員が取り押さえ、もう一人の犯人も電話の逆探知により居場所が判明して逮捕。

その際に犯人と一緒にいた女の子も無事に解放されて、一件落着となった。

だがこの誘拐犯たるや、若い女二人。

20歳の遠野亜由(仮名)と21歳の船津紀美(仮名)であった。

その身代金の要求額はたった800万円で、犯行計画もずさん。

ばかりか、その後に判明した犯行理由により、当時の日本社会を大いにあきれさせた。

事件の経緯

8月7日午後6時14分。

足立区に住む会社員・山元聖一さん(仮名)の自宅に、一本の電話がかかってきた。

電話に出たのは、中国に単身赴任していた聖一さんに代わって自宅を守っていた妻の由紀(仮名)さん。

由紀さんは、この電話に出る前に心配事があった。

それは、山元家の長女の加奈ちゃん(仮名、7歳)が塾から帰ってこないことだったのだが、その電話で気が動転することになる。

相手の電話の声の主は女であったが、

「お子さんを預かっている。明日の午後5時に、800万円を持って北千住のファーストフード店の森永ラブに来い」

などとはっきりと、娘を誘拐したことを伝えてきたのだ。

びっくり仰天した由紀さんは、すぐさま110番通報。

これを受けた警視庁は、身代金目的誘拐容疑事件対策本部を設置して捜査に乗り出した。

翌8日午後4時41分、夫の聖一さんの勤務先から借りた800万円が入ったショルダーバックを抱えた由紀さんが、身代金の受け渡し場所として指定されたファーストフード店・森永ラブ(現在は存在しない店)に入る。

もちろん、店の周りに警官が張り込み、店内にも客を装った婦人警官が待機しているのは言うまでもない。

森永ラブ

しばらく時間が経過した午後5時2分、一人の若い女が店に現れ、由紀さんに近寄るや、一枚の紙を渡した。

紙には「タクシーで自宅に30分以内に帰れ。子供が帰るまで待て。警察には言うな」と書かれている。

やがて女は口を開いて、読んだら紙を返してくれと要求。

「私はもらうモンもらいに来ただけっスからね」と、自分は連絡役に過ぎないことをさりげなく強調して、身代金を渡すように迫る。

だが、母は強かった。

「子供を返してくれなきゃ、お金は渡せません!」

ときっぱりと唯々諾々と犯罪者の言いなりになることを拒絶したのだ。

「いや、ホント無事だって…」

「じゃあ、まず子供を連れてきてくださいよ!」

犯人の女は母親の思わぬ強硬な姿勢にたじろいだらしい。

「向こうの人が信用するかどうかわかんないけど」

と折れた彼女は午後5時19分、金も持たずに店を出た。

女も冷静ではいられなかったのであろう、ひんぱんに後ろを振り返りながらその場を立ち去ろうとしている。

だが、すでに袋のネズミだった。

周囲を完全に包囲していた捜査陣は、すぐさま確保の判断を下し、ほどなくして犯人の一味と思しき女、遠野亜由は身柄を拘束された。

警察は女児の行方を追求したが、遠野はここでも「新宿のアルタ前で男に金を渡す約束をしている」と、自分は主犯ではないことを強調する。

一方、同じく警官が待機している山元家でも午後6時9分に動きがあった。

もう一人の犯人から電話が来たのである。

「どうなってるんですか?金は?ホント警察に言ったりしてないでしょうね?ちょっと変な動きがあったもんで…」

この声も女のもので、身代金を取りに行った共犯者の遠野が戻ってこないので、しびれを切らしたらしい。

電話には、被害者の母親である由紀さんの妹を装った婦人警官が対応に出て、「まだ姉は帰ってきません。私は頼まれて留守番をしているだけでして」などといいつつ、逆探知を狙って会話を引き延ばす策に出る。

「また連絡します。あ、あと私も頼まれて電話してるだけですから」

「姉が一人で行ったものなんで、私もよく分からなくて」

「とにかくまた30分後にかけます。警察が動いてるんで」

「子供はそこにいるんですか?」

「こっちにはいないから!」

こうしてあわただしく電話は切られたが、これら一連の通話にかかった時間は逆探知するには十分だった。

発信源を突き止めた警察は周辺を捜索し、午後6時43分、加奈ちゃんを連れた船津紀美を発見して逮捕。

加奈ちゃんはケガもなく無事であり、丸一日ぶりに家族のもとに帰ることができて事件は無事解決した。

この事件が円満に解決したのは警察の手腕によるのもあるが、やはり、犯行の稚拙さにも原因があった。

まず、身代金の受け渡し場所にノコノコ犯人が現れるのも、誘拐犯としては大いに問題なのは言うまでもなく、その後は、うかつに電話をかけて逆探知されるなど行動は杜撰。

何より、営利誘拐の身代金要求額としては、かなり低額の800万円を要求しているあたり、この犯罪が愚か者による思い付きの域を出ていないことを物語っていた。

逮捕された遠野と船津は取り調べでも、自分たちは連絡役に過ぎず、主犯は男であり、ほかにも共犯者として自分の女友達の実名まで上げたりしていた。

しかし、供述があいまいで矛盾する点が目立ち、やがて二人だけで行った犯行であることが断定されるのに、時間はかからなかった。

高校卒業後デビュー

逮捕された遠野亜由と船津紀美

遠野亜由(仮名)
船津紀美(仮名)

    

逮捕された遠野亜由(仮名、20歳)と船津紀美(仮名、21歳)は、幼稚園の頃からつるんでいた幼なじみ。

中学時代の同級生によると二人ともテニス部に所属し、いつも共に行動していた。

そして両人とも目立たない印象であり、特に遠野の方は、それが顕著だったという。

中学卒業後は別々の高校に進学したが、船津は卒業後に定職に就くことはなかったようだ。

遠野の方も卒業後に専門学校に入学していたが中退して働くことはなく、事件が起こる二年前から船津の住むアパートの一室に転がり込んで同居するようになった。

そのアパートは船津の祖母が所有しており、家賃の心配はなかったが、二人とも働くことはなく、ボディボードをやったりクラブに行ったり遊び惚けるようになる。

学生時代は地味だった両人の外見も変わり、髪を茶髪に染めて日焼けサロンで真っ黒に日焼けさせていたらしい。

95年当時コギャルなどと呼ばれて、マスコミでもてはやされ始めていた女子高生のファッションだ。

まだ十代のつもりだったのだろうか?

高校卒業後デビューとは情けない奴らだ。

やっていることも未成年の悪ガキそのもので、真夜中に部屋で騒いだり、青空駐車して近所に迷惑をかけ、駐車違反の罰金を請求されても知らん顔。

そして金に困ると、あきれたことにゲームソフトを万引きしては中古ソフト屋に売っていた。

主にそれを行っていたのは遠野の方で、命令するのは船津。

船津は親分気取りで遠野をふだんからアゴで使って万引きで得た稼ぎを巻き上げ、時には暴力をふるってもいた。

もっとも、派手な外見と行動にもかかわらず男っ気が全くなかった二人を“レズカップル”だと、近所のおばちゃんたちには陰口をたたかれていたようだが。

だが遠野も遠野で、無職にも関わらず300万円もするRV車を買うなど分別がついているわけでは決してない。

事件の前には数百万円の借金を抱えてかなり金に困っていた。

そのおかげで、遠野はテレクラで売春したりキャバクラで短期間勤めたり、AVに出演しようと某プロダクションに売り込みをかけたりしていたが、そのパッとしない容貌とスタイルでは、一発逆転にほど遠かったようだ。

現に事件後に取材に応じた当のAVプロダクション関係者には、

「あの程度の子ではいいところ一日三万か四万くらい」

「20歳の体じゃなかった」

などと酷評されている。

遠野のヘアヌード。確かに若さがない。

このようににっちもさっちもいかなくなって、遠野が思いついたのがよりによって、この誘拐事件だったのだ。

しかも、その話を船津に持ちかけると何とあっさり引き受けて、実際に事件に至ってしまったんだから、二人とも頭が悪いにもほどがある。

窮すれば鈍するというが、限度というものがあるだろう。

誘拐した女の子も、その日たまたま出くわしただけで、初めから狙っていたわけでもない。

また、800万円という身代金の要求額からも、普段やっている迷惑駐車や万引き、売春に毛が生えた程度と考えていたフシがあるのではないだろうか?

逮捕後も自分たちの罪を軽くしようと、いるはずのない主犯や他の共犯の存在を騙って、ばれるに決まっているウソをつきとおそうとした点からも終始一貫して思慮に欠け続けていたといえる。

どうやらこの二人は、頭が中学生か高校生のまま大人になってしまった最悪の見本の一つであることは、疑いようがないだろう。

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吉永小百合を襲った男 ~武闘派モンスターファン~


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ある一定以上の年齢の日本人ならば、吉永小百合という人物を知らない方は圧倒的に少ないであろう。

2022年3月の現在でもキリンのCMに登場したりしているから、比較的若い世代の方でも、今まで一度はその名前を耳にしたか、テレビ画面でその姿を見たことがあるはずだ。

1945年3月13日生まれの吉永氏は、1957年に小学5年生でデビュー以来、『キューポラのある街』などの名作をはじめ、これまでに100本以上の映画に出演。

歌手としても成功をおさめ、テレビドラマやCMの出演は数知れず、2006年に紫綬褒章を受章し、10年には文化功労者にも選ばれた日本を代表する大女優である。

日本映画の全盛期だった1960年代には、まだ10代だったにも関わらず(10代だったからこそか)、所属する日活の看板女優として日本中、特に男性ファンの目をくぎ付けにしていた。

1963年、そんなまばゆいばかりに輝く銀幕のスターだった吉永氏が、自宅に侵入した熱狂的なファンに襲撃される事件が起きる。

芸能人が狂ったファンに襲われる事件は現代までたびたび発生しているが、この時吉永氏を襲った男は、そんじゃそこらのモンスターファンではなかった。

吉永小百合家への侵入者

事件が発生したのは、1963年8月9日夜9時45分のことである。

当時、吉永小百合氏は人気絶頂の映画女優でありながらもまだ18歳の高校生であり、東京都渋谷区西原某所で家族と同居の身。

その日、彼女は16歳の妹と共に自宅の二階にある自室に向かおうとしていた。

俳優業で多忙でありながら大学進学も希望していた彼女は、目前に控えた大学入学検定試験に備えて勉強をしようとしていたのだ(高校は撮影で休みがちだったため出席日数が足りなかった)。

だが自室のドアを開けた瞬間、あり得ない異常事態に遭遇することになる。

自分以外いてはならないはずの完全なプライベート空間たる部屋の洋服ダンスから、見知らぬ男が現れたのだ。

しかもその両手には、刃物ともう一つ奇妙な物体が握られているではないか!

びっくり仰天した二人は悲鳴を上げて部屋を飛び出し、家族のいる一階に逃げた。

この時、吉永氏は階段から転げ落ちて軽傷を負っている。

一方の侵入者は追いかけてくることもなく、部屋にとどまっているようであった。

吉永氏から事情を聞いた父親は、すぐさま警察に通報。

駆け付けた警官六人は、吉永一家五人を退避させると、男が居座る二階に向かう。

しかし警官たちは、男が片手に刃物を持っていることを聞いており、あらかじめ危険なことは承知していたが、もう片方の手に刃物より危険なものを持っていたことは知らなかったようだ。

二階に踏み込もうと階段を上がっていた時、犯人が現れて階段上で仁王立ちするや、その謎の物体をこちらに向けたかと思うと、耳をつんざく破裂音。

先頭の警官が崩れ落ちた。

男が持っていたのは手製のピストルだったのだ。

籠城戦

撃たれた警官は、あごに弾を食らっており、全治二か月の重傷であった。

かなり危険な暴漢と判断した警官隊は、階下にとどまって応援を要請。

やがて、最寄りの代々木署だけではなく、防弾チョッキやヘルメットで身を固めた機動隊員らも駆けつけ、総勢300人近くが吉永家を包囲した。

周りは一般の住宅が立ち並んでいるため、警官の静止にもかかわらず、物見高い付近の住民たちが出てきて現場は騒然となっていた。

警官隊は、吉永氏の部屋に引きこもった犯人に向かい拡声器で投降を呼びかける一方、決死隊の五人がはしごで二階に上がり、犯人のいる部屋の向かいの日本間に陣取る。

また、階下からもピストルを構えた警官が階段を上がって犯人に迫り、ドアを挟んで対峙した。

「武器を捨てて出てこい!さもないと撃つぞ!」

「そんなおもちゃの銃で何ができるんだ!」

警官隊は犯人に向けて怒鳴ったが、

「試してみっか!?まだ弾は持ってんだぜ!!」

と怒鳴り返され、部屋の中からもう一発、発砲音が響いた。

かなり好戦的な犯人である。

強行突入もやむなしと判断した警官隊は催涙弾の準備が整えたが、にらみ合いが続いて40分ほど経過した午後10時20分ごろ。

部屋のドアのガラス部分が中から突然割られ、ピストルと思しき物体と刃物が投げ出された。

逃げられないと観念したのだろう。

男が投降したのだ。

すかさず警官隊は部屋に突入し、犯人の確保に成功した。

犯人の目的

逮捕されたのは、都内に住む旋盤工の渡辺健次(26歳)。

未成年のころにも強盗未遂事件を起こし、少年鑑別所に送られた経歴を持っていた。

渡辺健次

確保された時に手に傷を負っていたが、これは警官隊との押し問答の最中に手製ピストルを暴発させたのと、投降の際にガラスを割った時に負ったものである。

職場の上司の話によると、渡辺は勤務態度が不真面目であり、犯行に使ったピストルや弾丸も仕事中に作ったものらしい。

犯行に使用したものを含めてピストルは5丁も製作、単発式で孔径は7ミリであり、逮捕時にはまだ13発も弾丸を所有していた。

渡辺の自家製ピストル

渡辺は当初「有名人の家なら金があるだろうと思って忍び込んだ」と供述していたが、その後、吉永小百合の大ファンであり、最初から吉永氏を目的としていたことが判明する。

それはアパートの部屋の壁に切り抜かれた吉永小百合のグラビアがベタベタ貼られ、それは職場の旋盤にも貼っていたほどだ。

やがて写真やスクリーンだけでは飽き足らなくなり、雑誌で住所を知るや実物に会いに行こうと、何度も自宅周辺に出没していたことが分かる。

ちなみに吉永氏の父親の話によると、このような図々しいファンは珍しくなく、自宅付近を不審者がうろつくのは珍しくなかったようだ。

だが、渡辺がそんじゃそこらの不審者と違ったのは、ピストルまで作って自宅に侵入した以外にも、よりおぞましい目的を持っていたことである。

渡辺は、吉永家侵入時にピストルや刃物以外にも数本束ねた針と墨汁を持参して来ており、その用途たるや、

「小百合ちゃんの手か足に俺の名前を入れ墨しようと思った」だったのだ。

未遂に終わったとはいえ、後に国民的大スターとなる人物に自分の名前をネーミングしようとは、とんでもない野郎である。

国宝の法隆寺や清水寺に落書きをするのに等しい犯罪行為といっても過言ではない。

もし本当に実行されてしまったならば、吉永氏は女優として再起不能となっていたことであろう。

ばかりか、自分を襲った男の名前を否応なく目にし続けて、歯ぎしりしながら一生を送ることになったはずだ。

危うく難を逃れた吉永氏だったが、この一件で重大な精神的ショックを受けてしばらく立ち直ることができず、受ける予定だった大学入学検定試験も欠席。

高校も留年する羽目になってしまった。

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キレる中高年に若者が下した非情な鉄槌 2 – 中高年のキレる心理と対策


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最近いい歳こいた中高年がキレやすくなっているみたいだ。

そして、彼らがキレる相手というのは、駅の駅員とか店の店員が多いようである。

向こうは立場上逆らってきたりすることはなく、こちらは言いたい放題言えるはずだと、そのトチ狂った頭でタカをくくっているんだろう。

だが、平謝りする店員ばかりではないようだ。

今回お話しするのは、そういった例外に出くわしてしまった不幸な愚か者についてである。

某牛丼店での出来事

私は現在テレワークの身の上であり、自宅で仕事している。

昼食は時々外食で、12時から13時を避けて14時くらいに行く。

あんまり混んでいない時間を狙っているのだ。

その日、私が入ったのは某牛丼チェーン店。

同店は、一か月に二、三回くらいは利用している。

その店での注文は、入り口近くのタッチパネル式の券売機で食券を購入して、提供口まで持って行くというセルフサービス方式だ。

そしてその出来事は、客が私一人しかいない店内で私が食事している時、食券の券売機の前で始まった。

新たにやって来た客で、声の感じから60代くらいの男が、比較的大きな声を出し始めたのだ。

「おい!おーい!おーい!!」

どうやら店員を呼んでいるらしいが、少々横柄な感じである。

厨房には若い男の店員が一人しかいないようで、呼び続ける60男に対して、やや一呼吸遅れた感じで向かった。

「はい?」

一応、ここまでは店員として普通の対応だったし、それまでの一連の出来事に対して、私もあまりたいして気に留めることもなく飯を食い続けていた。

だが、この60男はかなり勘違いした男だった。

その店員に向かって、

「呼ばれたら返事しろ!」

と高飛車なモノ言いをするのだ。

さらに

「モタモタするな!さっさと来い!」

とも続ける。

何を勘違いしてるんだ、この男は?

客だからって、その態度はないだろう。

しかし次に、その店員が取った対応は全く普通のものではなかった。

少なくとも、この日本において私の知る限り、カタギの飲食店において、客に対する態度では全くなかったのだ。

チンピラ店員

「あん!?」

文句を付けられたその若い店員が発した第一声である。

聞き間違いではない。

とっさに出てしまったというより、ケンカ上等な男がいちゃもんを付けてきた相手に発するような「あん?」なのだ。

その後に「なんか文句あんのか?」と続いてもおかしくない感じの。

60男は、店員にあるまじき反応にカチンときたのだろう、

「“あん?”とはなんだ!」

と怒り出した。しかし店員は全く動じない。

そして次に続いた対応で、さっきの「あん?」という挑戦的な応答が、確信犯的なものであったことが明白となる。

「だから、ナンか用かよ?」

「お前なあ!その口のきき方は…!」

「用があんだろ?サッサと言えよ」

信じられない。

クレーマーが相手とはいえ、完全に店員の対応ではない。

多少声を荒げ、ぶれることのない毅然とした凄みまで効かせている。

「お前などに頭は下げんぞ」という確固たる意志と「これ以上文句つけるとただじゃおかんぞ」という気迫を60男も感じたんだろう。

「この券売機、全然動かんぞ…」

と、さっきより気勢をそがれた感じで用件を言い始めたのだが、店員の態度は変わらなかった。

「どこ押したんだよ?」

「ここだよ、ここ」

「そこじゃねー、ここだよ!“注文”って書いてあんだろがよ」

「わかりにくいんだよ…」

「頭使えよ、ボケ」

もう一度言うが、これは客と店員の会話である。

しかもこの店は、全国展開している大手なのだ。

後ろ姿だったが、店員は片手をポケットに突っ込み、頭を多少傾けて、60男の方をにらみ続けているような剣呑な感じがした。

舌打ちを交えたりして、完全にチンピラそのものの態度だ。

文句をつけた店員の思わぬ反応にひるみ始めていた60男だったが、「頭使えよ、ボケ」には頭に来たらしい。

「何だと!もういっぺん言ってみろ!」とまた元気になって大きな声を出したが、店員の方は「だから、頭使えって。ボケェ」と冷静に挑発。

完全にケンカなら買う、という態度なのだ。

ここに至って、これ以上食ってかかるとヤバイことが、さすがの60男にもわかり始めたようである。

「こんなトコ二度と来ねえからな!」

と捨て台詞を吐いて、店から出て行った。

完全に60男の敗北である。

「オウ、来んな来んな!とっとと消えろ!!」

店員は尻尾を巻いて去って行く60男に対して、追い打ちの罵声を浴びせる。

外の通行人にも聞こえるくらいの声で。

「ったくよ。偉そうにしてんじゃねえ」

と、その後、舌打ちをしながら厨房に戻っていった。

何となく、私にも聞かせてるような気がしたのは思い過ごしだろうか。

なんちゅう店だ。

長年利用してきたが、こんな店員が雇われていたとは。

この店で、絶対にクレームをつけてはいけない。

てか、今後の利用は見合わせようか。

さっきの60男こそ、一番問題であったのは言うまでもないが。

キレる中高年につける薬

この出来事で、私なりに一つ気づいたことがある。

それは、

キレる中高年は、相手にキレ返されると弱いのではないのか?

ということだ。

考えてみれば、体力も気力も弱っているはずの中高年が、若い者との真正面からの対決に耐えられるはずがない。

手を出されなくても、出されるかもしれない気迫で向かって来られたら、身の危険を感じて素直にひるむはずだ。

またそんなことされたら、次キレそうになった場面があったとしても、二の足を踏むであろう。

二度と過ちを犯させないためには、反省させるよりも恐ろしい思いをさせる方が、簡単かつ効果的であるのは間違いない。

だから、もしお若いあなたの周りで、もしくはあなたに対して理不尽にキレてくる中高年がいたら、

彼らにちょっと怖い思いをしてもらって、気安くキレるとどうなるか教えて差し上げてもいいんじゃないだろうか?

人間いくつになっても勉強は必要、学びに遅すぎることはない。

彼らのためにも、何より社会のためにも。

ただしケガさせたり、死なれたりしない程度に。

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キレる中高年に若者が下した非情な鉄槌


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最近、いい歳こいた中高年がキレやすくなっているようだ。

キレると言えば、血気盛んな若者というイメージだったが、今では分別がついてしかるべき年代のおっさんやじいさんが駅や公共の窓口などで些細なことから暴言を吐いたり大声を出したりすることが多くなってきているらしい。

また、暴言にとどまらず直接手を出してしまうケースも多い。

社会環境の変化とか、老化により感情のブレーキが利かなくなってきたからとか専門家がいろいろ論じているが、情けないことには変わりがない。

精神的に未熟で怖いもの知らずな若者が暴れる方が、まだ健全な社会であるような気がするのは私だけだろうか。

どちらにせよ、どんなことがあっても中高年の男性が公衆の面前で自分勝手な理由からキレるのは断じてあってはならないと私は断ずる。

それはハタ目から見て、見苦しいからだけではない。

キレた相手によっては、とんでもない目に遭うからである。

私自身もかように見苦しくキレまくる中高年に出くわしたことがあるのだが、これからお話しするその男の場合、キレた彼にキレた者の出現により、公開処刑されてしまったのだ。

オラつく五十男

あれはまだ、コロナが流行する前の朝の通勤ラッシュ時。

最寄り駅のO線K駅から各駅停車に乗って、通勤快速に乗り換えようと二駅先のS駅で降り、ホームで電車を待つ客の列に並んでいた際のことだ。

S駅に通勤快速がやって、来てドアが開いて乗っていた客が降り、私も含めて入れ替わりで待っていた客が乗り込もうとしたとたん、電車の中から突然、大きな怒声が響いてきた。

「オラ!まだ降りる人間がいるんだよ!!」

大声で吠えたのは、背が高い五十代前後の男である。

特にガラの悪そうな感じではなく、背広にネクタイ姿の普通のサラリーマン風だったが、そのオラつき方は、ヤカラそのものだった。

「どけよ!!」とか「目障りなんだよ!」とか威嚇しながら、いらだった様子で、満員の車内の乗客や乗り込もうとしていたホームの乗客を強引に押し分けて出てくるのだ。

運悪く彼の進路に立っていた弱そうな中年男性は「邪魔だボケ!」と怒鳴られてどかされていた。

何なのだこいつは?いい歳のくせに、大声出してチンピラ気取りおって。

朝っぱらから気分が悪い奴だ。

電車から降りることに成功した五十男だが、その機嫌は収まらない。

「どけっつってんだろ!!」

と、今度はホームから電車に乗り込もうとしていた客の一人である男性に、勢いよく肩をぶつけた。

周りの客は道を開けたのに、その男性だけは、自分の前に立ったまま譲ろうとしなかったからだ。

ぶつけられた勢いで、半身をのけぞらせたのは若い男。

五十男を振り返った顔を一瞬見た感じでは、大学生風の大人しそうな風貌であった。

だが、次の瞬間にその若い男が示した反応は、嫌な気分になった我々通勤客を、今度は凍り付かせることになる。

公開処刑の開始

「待ちやがれ、このボケ!!!」

肩をぶつけられた若者が五十男より大きな声で、何より周囲を震え上がらせる凄絶な怒声を発したかと思うと、不機嫌そうに立ち去ろうとする五十男の襟を、後ろからつかんで一気に倒した。

さらにホームに倒された五十男のネクタイをつかみ、なおかつ膝を腹に乗せて完全に動きを制すると、もう片方の腕に体重を乗せた感じで、首に押し付ける。

「何だテメー!」

不意討ちを食らった五十男も、負けじと若者の胸倉を下からつかんで抵抗を試みていたが、威勢がよかったのはここまでだった。

抑え込まれた上に、首に押し付けた腕にさらに体重を乗せられ、「ぐぐぐ」とかうめき声を出して、苦悶の表情を浮かべる。

五十がらみとはいえ、身長が高くてそれなりに体力もありそうな男を、ここまで一方的に制するとはかなりの強者だ。

だが、厄介なことに、この若者はかなりの危険人物でもあった。

「ナメてんのか?相手選べよコラ!!」とか、

「死にてえなら、やってやんぞ!オイ!」とか、

五十男を抑え込みながら、はるかに年齢が上の男を、かなりドスのきいた声で脅すのだ。

いかにも、こういうことを何度もやってきたような手慣れた感じでもある。

五十男も、ケンカを売った相手を間違えたのに気付き始めたらしい。

若者の圧倒的な腕力と迫力を前に抵抗できなくなって、されるがままになりつつある。

しかし、素直に屈服するのはプライドが許さなかったようだ。

「仕事行くんだよ…、放せよ…」

素直に謝ればいいものを、泣きが入り始めたのをごまかそうとしている。

苦しそうな顔と漏らした言葉の調子からは、もうさっきの威勢の良さは微塵もない。

ここまでだったら、年甲斐もなくオラついた男が若きホンモノに退治された痛快な出来事を目撃したとして、気分よく職場に行けただろう。

だが、違った。

ゴン!!

五十男が苦し紛れの言葉を吐き終わるや、若者はその顔面に渾身の頭突きをかましたのだ。

こちらにまで、音が聞こえるくらいの勢いで。

「ぶぶ~!」

とか言って、鼻に打撃をもろにくらったらしい五十男は、顔を押さえた。

その手の間から、みるみる血があふれ出す。

「傷害だぁ…、傷害事件だぞぉぉ~~」

顔を押さえながら声を裏返らせて、もう完全に泣きが入ったみたいだ。

いくら傍若無人な態度で他人を不愉快にした相手とはいえ、若者もこれはやりすぎだろう。

周りの乗客はもちろん見ているだけで、駅員もオロオロして止めに入ろうとはしない。

私も、その一人であったことを告白するが。

「ケンカしてえんだろ?なあ?オイ!聞いてんだろ!!」

一方の若者は、なおもネチネチと脅し続ける。

もうすでにソロのオヤジ狩り。

ハイエナがライオンにやられているようなもんでもあり、嫌な食物連鎖でもある。

私はこのままずっと見ていようかとも思ったが、仕事に遅れそうだし、あの若者が今度は私に「何見てんだ」とか絡んできたらたまらないので、次の電車に乗った。

電車に乗り込む際、後ろから、

「あん?ゴラァ!!オイッ!!」

と、若者が五十男をいびり続ける声が耳に入ってくる。

ドアが閉まって電車が発車しても、ホーム上の客も車内の客もみんなそちらの方向を見ていたからまだまだ続いているようだった。

ヤバい光景を見てしまった。

あの五十男も元々気が短いんだろうが、本当にヤバい奴と渡り合うのは、未経験だったはずだ。

ホンモノを相手にしてしまい、あっという間に制圧されて、ねちっこくシバかれ続けて、明らかにビビッていたからな。

あんなことをされた以上、心的外傷ストレス障害まっしぐらで、もう公衆の面前で怒声を張り上げることは、終生できんだろう。

というか、もうS駅で降りることも、電車に乗ること自体が怖くなってしまったんじゃないか?

同情する気は全くないが。

中高年は若い男にケンカ売っちゃだめだ、とも心底思った。

若い男は若い女ほど可愛らしい存在ではない。

こちらを圧倒する体力があって、その気になれば、こちらを素手で殺せるはずだからな。

そして何より、世の中高年の紳士諸君もどんなにイラついても年甲斐もなくオラつくのは、やめた方がよいだろう。

「うるせえオヤジだ」とかムカついて、突っかかって来る若者もいるかもしれないから。

あのS駅での事件が、その後どうなったかは知らない。

最初の方は嫌な気分になった後で面白いことになったけど、最後の方でドン引きしたが。

何より、大勢の人の前で男廃業させられた五十男に合掌。

助ける気が全然起きなくて、誠に申し訳ない。

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ゾウを犯そうとした男 – 1956年の井の頭自然文化園

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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1956年(昭和31年)のある日曜日、東京都武蔵野市の都立動物園である井の頭自然文化園に一人の中年の男が現れた。

彼はひととおり動物を見て回った後で向かったのは、ゾウが飼われているエリア。

当時、このゾウのエリアにいたのは、メスのアジアゾウである「はな子(9歳半)」一頭である。

ゾウのはな子

「はな子」は1949年(昭和24年)、戦後初めて日本に来たゾウであり、当初、恩賜上野動物園で飼育されていたが、1954年(昭和29年)になってから同井の頭自然文化園に移され、同園の看板動物の一頭として人気を集めていた。

「はな子」は、閉園時間にはゾウ舎に入れられているが、開園時間になると外の運動場に足を鎖でつながれた状態で出されて、来園客に披露される。

運動場の前面は安全対策として空堀で囲まれ、客は空堀を隔てた柵の向こう側から、その姿を見学することになっていた。

くだんの男もその客たちの中に混じり、熱心なまなざしで「はな子」の体重約2トンの巨体を眺めている。

この男の名は五十嵐忠一(仮名、44歳)。

機械工具製造会社で外交員を務めており、妻と中学三年生の長男をはじめとする五人の子供がいる(当時としては特に子だくさんではない)。

五十嵐は動物が好きだった。

自宅が近いこともあって、今日のように日曜日はほとんど井の頭自然文化園に足を運んでいたという。

だが、「好き」と言っても、彼の場合は普通ではない「好き」だったようだ。

現に五十嵐は、一般の来園者のものとは明らかに異なった眼差しで「はな子」を見つめている。

そして、見ているだけでは満足できなかった。

空堀で死んでいた男

1956年6月14日午前7時半ごろ。

朝の見回りでゾウ舎にやってきた同井の頭自然文化園の飼育主任・蒲山武(仮名、40歳)が、ゾウ舎入り口のカギが外されているのを発見した。

「なんだこりゃ?」

怪しいと思った蒲山が中に入ると、「はな子」の足元に散らばるのはシャツや手提げカバン。

さらに、その向こうのゾウ舎と観覧場所を隔てる深さ約2メートルの空堀をのぞくと、何と男性が倒れているではないか。

男は洋服がビリビリに破れており、その体はピクリとも動かない。

やがて連絡により駆け付けた最寄りの武蔵野署の署員により、男の死亡が確認される。

死体は胸骨と肋骨がバキバキに折れてペシャンコと言ってもよく、胸にゾウの足跡がくっきりと残っていた。

状況から見て、ゾウの「はな子」に踏み殺されたのは間違いない。

そして、その変わり果てた姿となっていたのは、毎週のように井の頭自然文化園を訪れていた、あの五十嵐忠一だった。

招かれざる来園者

五十嵐忠一(仮名)

生前の五十嵐の写真を見たならば、その外交員という職業柄もあって真面目かつ知的そうな面相をしており、特に悪い印象を持たれることはないであろう。

そして動物好きでもあり、井の頭自然文化園の常連客だった。

だが、彼に対する同園の職員の評判は、決して芳しくはない。

なぜなら言っちゃ悪いが、この男は野獣、いや野獣以下と言わざるを得ない悪癖を持っており、職員もそれを知っていたからである。

それは、たびたび夜中に同園に侵入しては、飼育されている動物を犯していたことだ。

午前9時から午後5時までの開園時間内に、正規の来園者として訪れるならまだしも、閉園時間になると動物とおぞましい「ふれあい」を、強行しに忍び込んでいたのである。

後の調べで、事故当日の朝5時ごろ園内をぶらぶらしていた五十嵐を、敷地内の職員住宅に住む職員の家族が目撃していたことがわかった。

そんな招かれざる来園者だった五十嵐は、何度か職員に捕まって注意を受けたことがあり、警察に取り調べを受けたことすらあった。

にもかかわらず懲りることはなく、今度は「はな子」を「制覇」しようとした結果、返り討ちにあってしまったのだ。

彼がそのような性癖を持つにいたったのは、戦争が原因だったのではないかと、その人となりを知る人は後に証言している。

若いころ外地の戦場へ出征した経験のある彼は、戦地で性欲を処理するためにニワトリや豚を相手にしていたらしい。

そしてそれは帰還して妻を娶り、5人もの子宝に恵まれた後も矯正されることはなかったのだ。

彼も戦争の犠牲者だったのかもしれない。

それにしても、この昭和31年当時の新聞はコンプライアンスもプライバシー保護もあったもんじゃない。

哀れ五十嵐は顔写真に実名、勤め先や住所まで報道され、ある新聞においてはその見出しに「忍び込んだ変質外交員」という枕詞まで付される始末。

いくら自業自得とはいえ、これでは気の毒すぎるではないか。

その後

この事故で死んだ五十嵐の不法侵入は明らかであり、閉園中でもあったために、井の頭自然文化園側に落ち度はないとされた。

また、「はな子」がこれによって危険極まりない動物とされて殺処分されることもなく、そのまま飼育が続けられた。

だが4年後の1960年に、今度は飼育員を踏み殺す事故を起こしてしまう。

これには「殺人ゾウ」の烙印を押されてしまい、「はな子」の殺処分も検討される事態となった。

結局、処分は免れたが、来園客から石を投げられたこともあり、ストレスなどからやせ細ったこともあったらしい。

そんな「はな子」も昭和、平成と時代が進んで21世紀を迎えても井の頭自然文化園で飼われ続け、2016年(平成28年)5月26日、ゾウとしては高齢の69歳で天寿を全うした。

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ノースハリウッド銀行強事件(North Hollywood shootout)


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1997年2月28日、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市ノース・ハリウッドが戦場と化した。

この地のバンク・オブ・アメリカ・ノースハリウッド支店に押し入った二人組の銀行強盗と駆け付けた警官隊との間で、大規模な銃撃戦が発生したのだ。

犯罪者と警官との銃撃戦は、銃犯罪が横行する合衆国において珍しくないのは知られているところだが、この銀行強盗はただ者ではなかった。

犯歴を重ねたプロの強盗であるだけでなく、全身を自家製防弾着で包み、違法に改造された複数の自動火器と豊富な弾薬で重武装していたからだ。

犯人たちは全自動で銃を乱射し、拳銃やショットガンで応戦する警官隊を圧倒。

この模様は、テレビによって全米にも大々的に生中継され、約44分間続いたこの銃撃戦は犯人二人が死亡して幕を閉じたが、警官12人と市民8人が負傷。

発射された弾丸は、双方合わせて約2000発という合衆国の犯罪史上でも最大級の銃撃戦となった。

犯人と事件に至るまでの経緯

この事件の犯人は、ラリー・ユージン・フィリップスJr.とエミール・デクバル・マタサレヌである。

ラリー・ユージン・フィリップスJr.(以下、フィリップス)は1970年9月20日生まれ、既婚者で二児の父。

幼少時より母親に射撃場に連れていかれたために銃に親しんで育ち、成人してからは不動産のセールスマンをしていたが、1989年ころから不動産詐欺や窃盗などの犯罪行為に手を染めていた。

ラリー・ユージン・フィリップスJr.

エミール・デクバル・マタサレヌ(以下、マタサレヌ)は、1966年7月19日にルーマニアで生まれた。

母親は精神病院を経営していたが、幼少時に入院している患者に襲われて負傷。

それが原因かは不明だが、粗暴な性格になっていったらしい。

しかし成長後は、電気技師の資格を取って自営業を営むなどまっとうな道を歩んではいたが、その事業はあまりうまくいかなかったようだ。

エミール・デクバル・マタサレヌ

そんな二人が出会ったのは1989年、ロサンゼルスのゴールドジム。

両人とも体を鍛えるのが趣味で、銃器が好きだったこともあって意気投合したらしい。

だが、この出会いは両人以外にとっては、あまり好ましいものではなかった。

むしろ最悪、後につるんで武装強盗を重ねるようになっていったからである。

1993年7月20日、フィリップスとマタサレヌは、コロラド州リトルトンで現金輸送車を強奪。

同年10月29日、スピード違反で検挙された際に車内から、銃器と大量の実弾などが見つかったことで逮捕されるが、100日間の服役と3年間の保護観察で済んだ。

逮捕されても全く反省する気のない二人は、1995年6月14日、ロサンゼルスのウィネトカで再び現金輸送車を襲撃、この際は警備員1名を殺害し、もう1名に重傷を負わせる。

1996年5月には同じくロサンゼルスで二回にわたり銀行強盗を行い、150万ドルを強奪した。

実際の犯行の模様

これらの犯行により、ノースハリウッドの事件前までには、二人とも危険極まりない凶悪犯として警察にマークされるようになる。

そして、これほどの犯行を行って大金をせしめたにも関わらず、彼らは満足しなかった。

さらなるあぶく銭を得ようと、次なる悪事の準備を開始する。

犯行に向けた準備

次なるターゲットとしたのは、ロサンゼルス市のバンク・オブ・アメリカノースハリウッド支店だ。

この銀行はハイウェイにも近く、逃走しやすい場所にあった。

二人は数か月にわたる入念な下見と偵察と並行して、稼いだ金を元手に、犯行に使う武器弾薬や装備の調達に動く。

そして、用意した武装はハンパではない。

中国北方工業公司(ノリンコ)製の56式自動小銃S型(AK-47III型のコピー)が二丁に、同じく中国製の56式自動小銃S-1型、ブッシュマスターXM15、HK91といずれも自動火器であり、56式自動小銃S-1型とXM15は違法改造を施して、全自動射撃が可能になっていた。

56式自動小銃
ブッシュマスターXM15
HK91
ベレッタ92FS

フィリップスは、それ以外にもベレッタ92FSピストルを装備する。

彼らには犯歴があったため、いくらアメリカでも、こんなシロモノを銃砲店で堂々購入できないが、どっぷり裏社会の住人である二人ならば、闇市場で手に入れるのはたやすいことだった。

買い集めた弾薬も膨大で約3300発、それもパトカーも貫通する被覆鋼弾(フルメタルジャケット)だ。

しかも弾丸を装填するマガジンとして、56式自動小銃用に75発入りドラムマガジンを、XM15用には100発入りドラムマガジンを準備した。

攻撃だけではなく防御にも凝っている。

銃撃されることも想定して、ケプラー製の防弾性能IIIAの防弾チョッキを縫い合わせて胴体だけでなく、肩や手足をも防護できる手製の全身防弾着を作り上げていた。

ちなみに、IIIAの防弾チョッキは9ミリ弾だけでなく、44マグナム弾をも防ぐことができる。

両人が付けていた自家製防弾着
両人が付けていた自家製防弾着

行き先が戦場だったとしても、この装備はやりすぎなくらいであったが、実際の現場では大いに威力を発揮することになる。

もちろん、犯行に使った車や武器を焼却して証拠を隠滅するために、ガソリンを準備することも忘れない。

そして、決行日は2月28日とした。

この日は給料日が近いために客で混雑し、銀行側のセキュリティーにも余裕がないと踏んでいたからだ。

こうして、プロの犯罪者だったとしても入念すぎるほどの準備をした彼らは、その決行の日を迎えた。

同時に、それは彼らの命日にもなるのだが。

銀行襲撃

バンク・オブ・アメリカノースハリウッド支店

1997年2月28日、午前9時17分。

全身防弾着に身を包んで重武装したフィリップスとマタサレヌが白いシボレーに乗って、営業時間になったばかりのバンク・オブ・アメリカノースハリウッド支店に現れた。

決行の前に二人は、精神を落ち着かせるために鎮痛剤を服用。

手袋に縫い付けた腕時計を8分間が経過したら、アラームが鳴るように設定した。

これは、犯行を8分以内に終わらせるためである。

彼らは事前に警察無線を盗聴し、通報により警察が駆け付けるまでに、最低でも8分かかることを突き止めていたのだ。

準備は万端、あとは決行あるのみ。

フィリップスとマタサレヌは、覆面をかぶり56式自動小銃を構えて、正面玄関から堂々行内に侵入する。

だが、外では彼らにとって、極めて不運なことが起こっていた。

偶然にもパトロール中のパトカーが近くを通りかかり、車内の警官が、銀行に入っていく彼らを目撃していたのである。

覆面をかぶって自動小銃を持った二人が、融資の相談や預金の引き出しに訪れた客であるはずはない。

警官は、無線で大至急の応援を要請する。

一方、そうとは気づかない二人は、銀行内で手際よく犯行を行っていた。

マタサレヌは56式を全自動で天井に向けてぶっぱなし、フィリップスは、”This is a fucking hold up!”と吠え、客や行員に銃を向けて脅し上げる。

フィリップスはさらに、ロビーと出納係のいるスペースとの防弾通用門を56式の一連射で破壊すると中に侵入、アシスタントマネージャーを脅して、金庫の扉を開けさせるのに成功した。

犯行の模様

しかし、実際にあった金は、予想していた75万ドルに遠く及ばない303305ドル。

現金の配送スケジュールが変更されて、まだ届いていなかったのだ。

フィリップスは、腹立ちまぎれに金庫に向けて56式を連射して蜂の巣にする。

埋め合わせにATMから金を奪おうとしたが、これもうまくいかない。

だが、たった303305ドルでも、ないよりはマシだ。

アシスタントマネージャーに現金を持参してきたバッグに詰めさせると、人質となっていた客や行員約40名を金庫室に閉じ込めて撤収を開始する。

セットしていたアラームが鳴った午前9時25分ごろ、フィリップスがノースハリウッド支店の北側から、マタサレヌはが南側出入口を出た。

しかし、そこで彼らは唖然とすることになる。

最初に発見した警官の応援要請によりパトカーがすでに十数台到着し、50名余りの警官がこちらに銃を構えていたからだ。

並みの強盗だったら、ここで「万事休す」であったことだろう。

だが彼らは違った。

大銃撃戦

こちらに銃を向ける警官たちに向けて、フィリップスの56式が火を吹いた。

発砲するフィリップス

弾は被覆鋼弾で、パトカーを貫通して警官たちを負傷させる。

警官隊も応戦したが、こちらはベレッタ92Fやスミス&ウェッソン等の拳銃やイサカ37といった散弾銃。

いくら大勢いても軍用の突撃銃である56式の敵ではなく、弾幕を張られて、顔を出すこともできない。

75発入りのドラムマガジンなので、銃撃はなかなか途切れないのだ。

フィリップスはこの時、地上の警官だけではなく上空を旋回する警察のヘリコプターをも銃撃した。

この銃撃で警官7人と、巻き添えで民間人が3人負傷する。

死者が出なかったのは、弾丸が被覆鋼弾なので、通常の弾丸のように人体内で変形して止まることはなく貫通したからだと言われる。

パトカーや警官の配置及び銃撃戦の見取り図

フィリップスは一旦銀行内に戻った後、マタサレヌと合流。

金を持って退散しようとしたが、札束の中に特殊なインクを飛散させて紙幣を証拠品化する防犯装置が密かに仕込まれており、金が台無しになっていたのに気づく。

せっかく苦労して手に入れたのに!

これで癇癪を起したのだろうか、金を放棄して外へ出た二人は、立ちはだかるパトカーに向けて56式をぶっ放した。

フィリップスとマタサレヌ

警官隊も発砲したが、拳銃や散弾銃は遠距離射撃での精度が低かった上に、二人とも全身防弾着を着用しているので、いくら命中させても倒れやしない。

防弾性能IIIAだと、9ミリ弾や散弾を十分防ぐことができるからだ。

警官が数発撃つと、彼らはその数倍以上撃ち返してくる有様で、完全に火力で圧倒されていた。

武装での不利を悟った警官隊のうち数名が、劣勢を挽回すべく、近所の銃砲店から軍用火器の調達に走ったが、これは結果的に事件の解決に間に合うことはなかった。

次々応援に駆け付ける警察を見たマタサレヌは、逃走に移ろうと、駐車場に停めた自分たちの車に向かう。

銃撃を続けていたフィリップスだったが、この時警官の放った弾丸が、56式の機関部に命中して壊れてしまった。

 

その直後、頃合いよくマタサレヌの乗る車が近くに来たので、車のトランクから予備に持ってきたHK91に換えて銃撃を再開するが、これも被弾により破壊されたため、もう一丁の56式を取り出す。

フィリップスはマタサレヌに車をゆっくり運転させ、それを遮蔽物にして銃撃を始めた。

この頃には、現場にはテレビ局のレポーターやスタッフも駆け付けてきて、アメリカでも前代未聞のこの銃撃戦をレポートし始めており、上空のへリは犯人から銃撃を加えられながらも、その模様を撮影している。

二人は、そのまま一緒に逃走するのは危険と判断したのだろうか、やがてフィリップスは徒歩で、マタサレヌは車で、それぞれ分かれて逃走を図り始めた。

犯人の最後

銃撃しながら逃げるフィリップス

徒歩のフィリップスは56式を乱射しながら逃走を続け、追撃する警官隊も銃撃を浴びせる。

彼は全身を覆う特製防弾着を着てきたが、全くダメージがなかったわけではない。

テレビ中継された映像から、たびたび被弾したと思われる際に、痛みを感じているようなそぶりを見せているのが分かるからだ。

また、完全に弾丸を防ぐわけでもなかった。

この時警官の撃った9ミリ弾が右肩の防弾着と防弾着を縫い合わせた部分に命中して負傷、左手首にも弾丸を食らう。

悪いことに、56式も弾詰まりを起こして作動しなくなった。

フィリップスは56式を捨てて、予備に持ってきたベレッタを取り出して反撃を試みるが、これでは威力が弱すぎる。

弾も次から次へと命中するし、ベレッタの残りの弾数もあとわずかとなってきた。

今度こそ終わりである。

だが、彼は降伏を選ばなかった。

右手を撃たれて一旦落とした拳銃を拾うと、それをあごの下に当てるや引き金を引いて自分の頭を撃ち抜き、崩れ落ちた。

逮捕されるより死を選んだのだ。

一方のマタサレヌは乗っている車のタイヤを撃ち抜かれており、ちょうど対面からやってきたピックアップトラックを奪おうとしていた。

うまいことに、ピックアップトラックの運転手は逃げ出したので、マタサレヌはそこへ武器と弾薬を移し替える。

しかし、運転席に座って発車しようとしたが、エンジンがかからない。

トラックの運転手は逃げる際に、エンジンが動かなくなるキルスイッチを作動させていたからだ。

さらに、そこへパトカーがやってきた。

今度は一般の警官ではなく、特殊部隊のSWAT隊員が乗っている。

装備もAR-15なので火力で負けはしない。

SWATから銃撃されたマタサレヌは、急いでピックアップトラックを降りると、それまで乗っていたシボレーのフロント部分に回って、ブッシュマスターXM15で反撃。

フロントガラス越しに全自動でXM15をぶっ放し、至近距離での自動火器同士の銃撃戦となる。

SWATとマタサレヌの銃撃戦
SWATとマタサレヌの銃撃戦

しかし、SWAT隊員の一人が車の下からマタサレヌの足めがけてAR-15を撃ち、これが防弾チョッキで保護されていない足に複数発命中。

これには、さすがのマタサレヌも戦意を喪失し、銃を捨てて手を挙げた。

拘束されたマタサレヌ

こうして、約44分間続いた銃撃戦はようやく幕を閉じたが、救急車の到着が遅れたためにマタサレヌは足の銃創からの出血多量で死亡してしまった。

その後

この事件では、犯人以外に死者こそ出なかったものの、警官12人と市民8人も負傷。

犯人側が1100発以上、警官側が650発以上発砲するという戦場のような規模の銃撃戦となった。

合衆国の犯罪史上でも他に類を見ないほどのすさまじさであったため、社会にかなりのインパクトを与えたようだ。

その後、事件を元にした映画も何本か作られている。

ちなみに、事件が起こる二年前にロバート・デニーロ、アル・パチーノが共演した映画『ヒート』において、自動火器で武装した銀行強盗が拳銃やショットガンを装備した警官隊を圧倒するシーンがあったが、まさにそれのリアル版となってしまった感がある。

事実、後の捜索で彼らのアジトから『ヒート』のビデオテープが見つかったというから、ある程度参考にしていた可能性は高い。

もちろん合衆国各地の警察にも影響を与えた。

ノースハリウッドの事件で火力が不足したばかりに、ここまでの規模になってしまった教訓から、警官の装備の見直しが図られたのだ。

以降、各パトロール隊にはAR-15セミオートマチックライフルを装備した隊員、パトロールライフルオフィサー(PRO)が加わるようになった。

そして現在、カリフォルニア州ロサンゼルスのハイランドパークにあるロサンゼルス警察博物館には、二人の犯人の等身大のマネキンに実際に付けていた防弾着を着せ、同じく装備していた武器や乗ってきたシボレー、弾痕の残るパトカーなどが展示されて、事件の詳細を生々しく今に伝えている。

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