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Linux の Cron の基本的な使い方

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こんなことしたいと思ったりしませんか?

  • 毎日、ある時間にプログラムを実行したい。
  • 一時間に一回、コマンドを実行したい。
  • 毎月一度、バックアップを取りたい。

Linuxには、定期的にコマンドを実行するために cron と呼ばれるデーモンプロセスがあります。これを使うと、決まった時間にコマンドを実行させたりすることができて便利です。

今回は、Cron(クーロン)の基本的な使い方をまとめてみます。

cron は、「crond(デーモン)」と「crontab」 で構成されます。1分ごとに crond が起動され、crontab ファイルに定義されたスケジュールを調べて、そこに実行すべきジョブがあれば実行します。

スケジューリングの編集は、以下の2つの方法で行えます。

  • crontabコマンド を利用する
  • /etc/crontab に書き込む

今回は、Crontab に定義を書き込む形で設定していきます。

Crond が動いているか確認

まず、使用しているシステムで、Cronデーモンが動作している必要があります。

「systemctl status <デーモンの名前>」コマンドを使って確認します。

kkint@ubuntu:/etc$ systemctl status cron.service
● cron.service - Regular background program processing daemon
Loaded: loaded (/lib/systemd/system/cron.service; enabled; vendor preset: enabled)
Active: active (running) since Fri 2023-10-06 12:01:47 JST; 3 days ago
Docs: man:cron(8)
Main PID: 985 (cron)
Tasks: 1 (limit: 4555)
Memory: 1.3M
CPU: 841ms
CGroup: /system.slice/cron.service
└─985 /usr/sbin/cron -f -P

Crond が動いていれば、上記のように「active(running)」の表示が出ます。

もし動いていない場合は、以下のコマンドで起動できます。

systemctl start cron.service

Crontab で設定

「/etc/crontab」ファイルに書き込む方法での設定手順です。まずは、Crontab ファイルを開いて見て見ましょう。

cat /etc/crontab

「cat」コマンドで、Crontab ファイルを指定して開いてみます。

kkint@ubuntu:/etc$ cat /etc/crontab

/etc/crontab: system-wide crontab

Unlike any other crontab you don't have to run the `crontab'

command to install the new version when you edit this file

and files in /etc/cron.d. These files also have username fields,

that none of the other crontabs do.

SHELL=/bin/sh

You can also override PATH, but by default, newer versions inherit it from the environment

PATH=/usr/local/sbin:/usr/local/bin:/sbin:/bin:/usr/sbin:/usr/bin

Example of job definition:

.---------------- minute (0 - 59)

| .------------- hour (0 - 23)

| | .---------- day of month (1 - 31)

| | | .------- month (1 - 12) OR jan,feb,mar,apr …

| | | | .---- day of week (0 - 6) (Sunday=0 or 7) OR sun,mon,tue,wed,thu,fri,sat

| | | | |

* * * * * user-name command to be executed

17 * * * * root cd / && run-parts --report /etc/cron.hourly
25 6 * * * root test -x /usr/sbin/anacron || ( cd / && run-parts --report /etc/cron.daily )
47 6 * * 7 root test -x /usr/sbin/anacron || ( cd / && run-parts --report /etc/cron.weekly )
52 6 1 * * root test -x /usr/sbin/anacron || ( cd / && run-parts --report /etc/cron.monthly )
#
kkint@ubuntu:/etc$

下の方に、「*」が 5つ並んでいる行が見えますね。ここに定義を記入していきます。

この「*」印ですが、左から順に「分、時、日、月、曜日、実行ユーザー、 実行するコマンド」となっています。
時間は24時間で表記をします。

指定できる値は、下記のようになります。

指定対象指定範囲
0〜59
0〜23
1〜31
1〜12 または jan〜dec
曜日0〜7 または sun〜sat

「分 時 日 月 曜日 ユーザー コマンド」の順に記入していきます。

< 記述例 >

1時に実行

  • 1 * * * [ユーザー] [コマンド]

13時に実行

  • 13 * * * [ユーザー] [コマンド]

5分おきに実行

*/5 * * * * [ユーザー] [コマンド]

1時、2時、5時、6時、7時、8時に実行

  • 1,2,5-8 * * * [ユーザー] [コマンド]

もう少し例を見ていきましょう。

kkint というユーザー権限で実行し、kkint ユーザーのデスクトップに test.txt を作成する例です。

1分ごとに実行

* * * * * kkint touch /home/kkint/Desktop/test.txt

1:00 – 1:59 まで1分ごとに実行

* 1 * * * kkint touch /home/kkint/Desktop/test.txt

毎日14:00 に実行

0 14 * * * kkint touch /home/kkint/Desktop/test.txt

毎月10日から20日の 00:00 に実行

0 0 10-20 * * kkint touch /home/kkint/Desktop/test.txt

毎週月曜日から金曜日の 13:00 に実行

0 13 * * 1-5 kkint touch /home/kkint/Desktop/test.txt

Cron のログを出力する

デフォルトでは、Cron のログは出力されないようになっていますが、これを出力するようにすると、動作確認の際に便利です。

「/etc/rsyslog.d/50-default.conf」ファイルの設定を変更します。

kkint@ubuntu:/etc$ cat /etc/rsyslog.d/50-default.conf | grep cron

#cron.* /var/log/cron.log  <<<<< この部分

cron,daemon.none;\

まず、vim などのエディターを使って、上記ファイルを開きます。

$ vim /etc/rsyslog.d/50-default.conf

次に、対象の部分のコメントを外します。

#cron.* /var/log/cron.log
        |
        *
cron.* /var/log/cron.log  <<<<< コメントアウトする

最後に、rsyslogを再起動して、変更を適用します。

$ sudo service rsyslog restart

ログの確認例

2分おきに df コマンドを実行し、その結果をテキストファイルに書き込み、デスクトップに保存した時のログの出力は、以下の通りです。

Crontab ファイルには、以下のように記載しています。

*/2 * * * * kkint /usr/bin/df -h > /home/kkint/Desktop/df_results.txt

ログを見ると、指定したコマンドが実行されているのが分かりますね。

kkint@ubuntu:/etc$ cat /var/log/cron.log
Oct 9 13:45:01 ubuntu CRON[9087]: (root) CMD (command -v debian-sa1 > /dev/null && debian-sa1 1 1)
Oct 9 13:55:01 ubuntu CRON[9164]: (root) CMD (command -v debian-sa1 > /dev/null && debian-sa1 1 1)
Oct 9 14:01:01 ubuntu cron[985]: (system) RELOAD (/etc/crontab)

Oct 9 14:45:01 ubuntu CRON[10567]: (root) CMD (command -v debian-sa1 > /dev/null && debian-sa1 1 1)
Oct 9 14:46:01 ubuntu CRON[10575]: (kkint) CMD (/usr/bin/df -h >> /home/kkint/Desktop/df_results)
Oct 9 14:46:01 ubuntu CRON[10576]: (kkint) CMD (date >> /home/kkint/Desktop/df_results)

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2023年 アンゴラ 昭和 歴史

植民者の天国? ~昭和34年の毎日新聞が報じたポルトガル植民地時代のアンゴラ~

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現代のアフリカの国々の多くは、かつてヨーロッパの強国の植民地だったことは、特に歴史に詳しくない方でもご存じであろう。

15世紀半ばに大航海時代が始まってから第一次世界大戦開戦の直前までに、エチオピア、エジプト、リベリアを除いてそれぞれ西欧列強の支配下となっていた。

これらの地域は第二次世界大戦後に次々独立を果たしていくことになるが、多くの国はその後に内戦や飢餓などで苦しみ、「白人に支配されてめちゃくちゃにされたからこうなってしまった」とか、はたまた「白人たちがいた頃の方がマシだった」とかの怨嗟の声が上がることもある。

では、ヨーロッパ人に支配されていた時代の様子は、どのようなものであったのだろう?

本当にめちゃくちゃにされていたのか?

それとも、本当に今よりましだったのか?

17か国もの国が独立したアフリカの年と呼ばれる1960年の前年、多くの国がまだ植民地の状態だった1959年(昭和34年)の毎日新聞夕刊に掲載されたポルトガル領アンゴラの様子を伝える記事をもとにご紹介しよう。

アンゴラがポルトガル領になるまで

ポルトガル領アンゴラとは、アフリカ南西部に位置する現・アンゴラ共和国の領域であり、1959年当時はポルトガル領西アフリカと呼ばれていた。

そのポルトガルによるアンゴラ支配の歴史は、1484年に探検家ディオゴ・カンがこの地にやってきてから始まる。

同地域には1世紀ごろからバントゥー系のアフリカ人が居住していたとされ、現在のアンゴラ北部にあたる地域にはコンゴ人によるコンゴ王国があったが、アンゴラという国自体は存在しなかった。

コンゴ王国の国旗

また、ポルトガル人は当初からアンゴラ全土を征服して領有していたわけでもなく、奴隷貿易に目をつけて交易所を設け、コンゴ王国の支配者や貴族とお互いに利益のある関係を維持して彼らにも利益を分配していた。

初期のポルトガルの勢力圏は沿岸部に限られていたが、宣教師を内陸に派遣して布教したりするなどの植民地でのお約束の行為は行っており、活動の幅も徐々に拡大。

そのせいもあってか、17世紀になると経済的な問題をきっかけとしてそれまで仲良くやってきたコンゴ王国と衝突するようになった。

ポルトガルは戦闘で敗退することもあったが、腐っても欧州列強のはしくれ。

それから200年の間に徐々に内陸部を植民地化し、20世紀に入ってから、現在のアンゴラの領域にあたる地域をポルトガルの植民地として確定させた。

1920年代になると本格的にアンゴラの経済や社会基盤の整備に乗り出し、1951年6月11日、ポルトガル領西アフリカと呼ばれ続けてはいたものの、行政的にはアンゴラ海外州に昇格。

ポルトガル支配に反発する黒人による独立派勢力は、域内ですでに結成されていたが目立った組織的反抗もなく、1959年の時点ではこのままポルトガルの支配が続くと思われていた。

一見黒人差別のない植民地

ダイアグラム

自動的に生成された説明
1959年当時の周辺国地図

ヨーロッパの植民地となった国では通常、本国からやってきた白人が「未開な民を文明化してやっているんだ」などと称して支配者ヅラし、原住民との間に明確な境界線を引いて人種差別的政策を行うものである。

しかし、ポルトガル領西アフリカだった当時のアンゴラは、それとはずいぶん異なっていたようだ。

毎日新聞の記者がアンゴラ入りする前、まだベルギー領だったコンゴ(現コンゴ共和国)のレオポルドヴィルで現地のベルギー人から、こんなことを言われたという。

「我々ベルギー人は、黒人を我々のレベルに上げようとしているのに、アンゴラのポルトガル人は自分たちが黒人のレベルまで下がっている」と。

黒人もポルトガル人も明らかに見下した上から目線の言い草だが、記者がアンゴラに入って街を歩くとそれを裏付ける光景がそこにあった。

なぜならタクシーやバスの運転手、ホテルのウェイターのような仕事をしているのはほとんどがポルトガル人であり、これらの仕事は他のアフリカの植民地では黒人がやっていることだったからだ。

つまり、底辺労働を担う貧しい白人が多かったということである。

この当時、ポルトガルで独裁政治を行っていたアントニオ・サラザールの政権は植民地帝国としての地位を堅持する政策を取っており、植民地へのポルトガル人の移民を積極的に推進していた。

アンゴラにも年間1万2千人のポルトガル人が移り住んでいたが、その多くは本国で食い詰めたダメ人間の男が多く、少なからぬ者たちは黒人たちに近づいて黒人女性と結婚。

そのせいか白人と黒人の混血「ムラート」が至る所で目についた。

他国の植民地にも、こうしたムラートは存在していたが、少しでも黒人の血が混じった者は何世代白人と交わろうと黒人として扱われるのに対し、ここアンゴラでは白人の仲間として扱われた。

また、白人の血が混じっていない純血の黒人でも教育を受けて、定められた額の税金を納められる者は白人と同等の権利を有しており、政府系の庁舎でも白人やムラートに交じって黒人も机を並べて仕事しており、白人の上司になっている黒人もいたようである。

週末ともなれば、白人もムラートも黒人も集ってパーティーが開かれ、そこには皮膚の色の違いによる差別はないように見えた。

だが、それは表向きであったようだ。

最下層にあえぐ黒人と民族主義を抑える独裁政権

アンゴラでは、例えば隣国のベルギー領コンゴのように黒人の夜間外出や飲酒の制限といったあからさまな差別はなく、高い教育を受けて一定の税金を納めることができれば、身分証明書をもらって白人と同等の権利を有することができる制度があったようだ。

だが、これは教育を受けられたらの話である。

新聞の記事

自動的に生成された説明

この当時のアンゴラの人口は430万人で、うち白人11万人とムラート3万人以外の大多数が黒人であったが、その黒人の文盲率は90%。

彼らは当然貧しく、そのおかげで子供を学校に行かせる金がない。

その子供も学校に行けないから、まともな仕事にありつくことができず、親同様貧しいままという悪循環が繰り返されてきた。

植民地政府は、その状態を改善しようとせずに放置していたのだ。

またポルトガル本国自体にもまともな労働法もなく、スト権もない。

ましてや植民地の白人の事業主に雇用される黒人は当然のごとく安い賃金で劣悪な労働環境のもとで働かされた。

さらに現地の黒人にも納税の義務はあって、それが払えない者には、その税金分強制的に労働させるという制度もあった。

つまり、ほとんどの黒人にとってポルトガル領アンゴラは決して住み心地のいい場所ではなかったのだ。

そうは言ってもアンゴラは隣のベルギー領コンゴなどと比べると植民地政策に反発する黒人の大規模な暴動などは起きておらず、これは独裁政権であった本国政府の方針で情報統制を行ったり、植民地軍によって半植民地の動きを抑え込んできた成果でもあった。

本ブログが参考にしたこの1959年の毎日新聞の記事によれば、この時点ではアンゴラは安定しており、独立に向けた動きは伝えられていない。

他に、現地のポルトガル人たちは当時技術立国として日の出の勢いだった日本に早くも関心を寄せており、日本製の電化製品や車の輸入を望んでいることを伝えて記事は締めくくられていた。

新聞記事の一部

自動的に生成された説明

その後のアンゴラ

1950年代までは落ち着いていたアンゴラも、1960年代になると一挙に情勢が暗転する。

アフリカ諸国が次々独立していた中で、その機運がアンゴラにも波及したのだ。

上記毎日新聞の記事の翌々年で、「アフリカの年」の翌年の1961年、アンゴラ解放人民運動(MPLA)が蜂起してアンゴラ独立戦争が勃発。

植民地の維持に固執するポルトガル政府は断固鎮圧に乗り出し、この戦争は1974年にポルトガル本国でカーネーション革命が起こって独裁政権が倒れるまで続き、国土を荒廃させた。

独立戦争が終わって、1975年にアンゴラ人民共和国の独立が正式に宣言されてからも地獄が待っていた。

それも本当の地獄だ。

独立派の中で主流を占めていたMPLAの支配を嫌って、他の二派アンゴラ国民解放戦線(FNLA)とアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)がアンゴラ人民民主共和国の独立を宣言。

これを阻もうとするMPLAとの間で、今度はアンゴラ内戦が発生する。

このアンゴラ内戦は米ソの代理戦争の様相をも呈し、キューバ軍や南アフリカ軍まで介入して複雑かつ泥沼化。

独立戦争より長い27年続いて国内の産業は崩壊、360万人の死者を出して全土に地雷がばらまかれ、2002年にMPLAの勝利でようやく終結した。

内戦後も、全土に敷設された地雷によって死傷者が絶えず、政権の腐敗など問題が山積しているが、アンゴラはもともとダイヤモンドや原油資源が豊富で、その輸出によって経済は大幅に回復。

現在株式市場も開設されるなどサハラ以南ではナイジェリア、南アフリカに次ぐ第三位の金融市場になるまでに飛躍している。

アンゴラの集合住宅

出典元―毎日新聞

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2023年 カツアゲ ならず者 不良 事件 事件簿 昭和 本当のこと 福岡

独居老人をよってたかって恐喝した昭和の極悪童たち

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1982年(昭和57年)、福岡県粕屋郡須恵町で、後にも先にも滅多にないような卑劣な少年犯罪が行われた。

一人暮らしで体の不自由な75歳の老人を、23人もの小学生や中学生の悪ガキたちが入れ替わり立ち替わり37回も恐喝。

面白半分に暴行を加えるなどして、老人の唯一の収入源であるなけなしの年金を脅し取り続けていたのだ。

お年寄り相手に、よってたかってカツアゲとは何という奴らだ!

平成や令和の悪ガキでも、ここまでやる外道はいない!

本ブログの筆者は、この事件を40年以上も昔に年端のいかなかった者たちが、ついつい調子に乗りすぎてしまった程度の事件とはみなさない。

人の道を大きく踏み外した子犬畜生たちの非人道的行為として、令和の現在白日の下にさらしてやる!

目をつけられた独居老人

昭和の昔、福岡県粕屋郡須恵町に、ひっそりと暮らす独居老人がいた。

老人の名は、中辻国男(仮名・当時75歳)。

妻子がない独り身で、近所づきあいもほとんどない。

現役時代は国鉄(現JR)職員だったが、退職後は月7万円の年金だけを収入源にしていた。

神経痛のために足が不自由で腰が大きく曲がってはいたが、自宅の庭で野菜を育てるなどして、少ない年金ながら何とか暮らしている。

そんなつつましく老後の生活を送っていた中辻老人に1982年(昭和57年)の新年早々、おそらく彼の長い人生の中でも最悪の災いがもたらされることになった。

それは同年1月8日の夕方のこと、家の中にいた中辻老人の耳に、何かが自宅の壁にぶつけられた物音が響いたことから始まる。

粕屋郡は、前日から雪が降り積もっていたから外は一面の雪。

どうやら、誰かが自宅の壁に雪玉を作って投げ込んだようだ。

外を見ると二人の中学生になるかならないかの年頃の少年が前の道を歩いている。

何食わぬ顔をしているが、二人とも見るからに悪ガキそうだから、こいつらの仕業だろう。

老い先短い中辻だったが、この悪質ないたずらに黙っているわけにはいかず、二人を注意した。

しかし、注意された二人は自分たちではないと断固否定。

ばかりか「ナニ文句付けてんだよ、ジジイ!」と絡んできた。

この二人は、粕屋郡の隣の福岡市に住む中学校一年生の小峯仁志(仮名・13歳)と小学校六年生の板橋将人(仮名・12歳)だ。

年齢的には年端もいかぬ子供だったが、すでに本格的にグレて悪さを重ねている非行少年である。

よって語気に凄みがあった。

「ああ、違うのか。悪かった」

子供とは思えぬ迫力に、ひるんだ中辻老人は謝罪。

二人は「オレらのせいにしてんじぇねえぞ」などど悪態をつきながらもその日は立ち去ったが、それではすまなかった。

5日後の13日に再び中辻宅にやってきたのだ。

いや、「やってきた」というより「押しかけてきた」の方が正しい。

「この前のこと俺らのせいにしたワビ入れろや!!」と怒声を張り上げ、家にまで上がり込んできたのだ。

小峯と板橋は足が不自由な老人を押し倒し、手を広げさせて床に押し付けると台所にあった包丁を指の間に突き刺した。

「オラ!落とし前どうつけてくれんだ!ジジイ!」

5日前のことを口実にして、カツアゲに来たのである。

中辻老人が謝罪したことから、強気で押せば言うことを聞いてくれる相手と踏んだようだ。

13歳や12歳の少年らしからぬ凶悪な脅しに75歳の中辻はたまらず屈し、おわびの印として家にあった現金数千円を渡そうとしたが、「誠意っつーもんがねえぞ」と激高されて泣く泣く大金の2万円を払うことで解放された。

これはカツアゲどころか完全な強盗である。

だが、中辻老人は「警察にチクったら命はねえぞ」と二人に脅されていたし、相当恐ろしい思いをさせられたからか、通報することはなかった。

結果的に、それは大きな間違いとなる。

この災難は、これで終わらなかったからだ。

カツアゲ地獄

小峯と板橋は、そもそも同年代の悪ガキとはレベルが違う本格的な悪党だった。

すぐに金が手に入ったことに味をしめて、たびたび中辻老人の家に怒鳴り込んで金をせびりに来るようになったのだ。

取り上げた金は、もちろんゲームセンターなどでの遊ぶ金で瞬時に溶かすが、その時はまた老人の家に行けばよい。

中辻老人も中辻老人で、小中学生が相手とはいえ、恐怖が身に染みていたから、そのたびに金を渡してしまうという地獄のループが始まった。

悪党の脅しに屈して要求を飲んだりしようものならば、往々にしてこうなる。

相手が弱いと見たら徹底的に、かつ延々とたかりに来るのだ。

中辻老人は、なけなしの年金しかもらっていないから、決して金を持っているわけではないが、小峯たちにとっては知ったことではない。

しかも彼らは「ちょっと脅せば金をくれるジジイがいる」と不良仲間に吹聴したため、金をたかりに来る不良少年の数は増え、さらには、いくつかのグループに分かれて入れ替わり立ち替わり中辻老人の家にやってくるようになった。

小憎らしいことに年金の支給日も把握しており、その日には集中的に来る。

また、金があろうとなかろうと、面白半分に体の不自由な老人に暴力をふるった。

刃物を振り回して脅し、水をかけるわ、殴るわ蹴るわ、縛るわ、首を絞めるわ。

中辻老人は払う金がなくなると、普段あまりつきあいのない近所の住民に金を借りに行くようにまでなり、金を一切合切取り上げられるようになってからは、庭の野菜を食べてしのぐなど完全に悪童たちの奴隷と化す。

押しかけてくる不良少年の中には、小峯の大先輩で中学をすでに卒業した者もおり、それくらいの年齢の不良になると本職そのもののいでたちをしているから「本物のヤクザまで来た」と中辻老人は絶望し、通報する気が余計に失せてしまっていた。

完全に心が折られていたんだろう。

このカツアゲ地獄は、同年8月4日までに小峯や板橋らが福岡県警の東署によって強盗、恐喝の容疑で検挙、補導されるまで約七か月間も続いた。

その回数は37回に達し、中辻老人は合計約25万円の年金を奪われ、恐喝に関わった不良少年は小学生も含めた23人にも及んだ。

老人自身は通報できなかったのに、なぜ発覚したかは報道されていないが、異変に気付いた近所の住民がしたものと思われる。

それにしても、何と非道な犯罪であろう。

これまでに発生した数多くの事件の中でも、トップレベルのクズっぷりである。

中辻老人は命こそ奪われなかったとはいえ、人生の晩節で最悪の恐怖と屈辱を味わわされてしまった。

一方の小峯たちは14歳未満だったから、大した罰も受けていなかっただろう。

現在、もうすっかりいい年齢になって丸くなっているかどうかは知らないが、中辻老人くらいの年齢になってから同じ目にあってもらいたいとに願わずにはいられない。

新聞記事の一部

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